2023-07-06 11:01

079.新千円札の肖像に選ばれた北里柴三郎について

いつもありがとうございます。

今回は、新千円札の肖像に選ばれた北里柴三郎さんはどんな人だったかについて話したいと思います。

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世界に多くの喜びを提供しよう。起業家たちの心構え。
はい、こんにちは、直人です。
今日は、2024年度に四平のデザインが一新されるんですけど、
その中の千円札の肖像画に選ばれた北里柴三郎さんについて話していきたいと思います。
北里柴三郎さんは、感染力と致死力の高さで恐れられていたペスト菌を発見したことで知られている方です。
現行の千円札の野口秀夫さんに続き、今度の冊子も医療関係の偉人となります。
北里柴三郎は、発症すると死亡する確率が高いことで知られる、
破症風の予防・治療法を開発したことで、世界に認められる細菌学者としての地位を確立します。
1894年には、香港で流行していた感染症のペストの原因調査に趣き、
ペスト菌を発見するなど、国内外での感染症予防と治療に貢献したことで知られている方です。
北里柴三郎は、1853年の1月29日に、現在の熊本県小国町で生まれました。
孤独に打ち勝つ強い心を育てるという母の教育指針の下で、幼い頃から他人の家に預けられて育ち、実家に戻ることはほとんどなかったと言われています。
18歳になると、医者になってほしいという親の苦いもあり、熊本医学校、現在の熊本大学医学部へ進学します。
そこで出会ったオランダ人医学者のマウス・フェルトの指導を受け、医学の道を本格的に志すようになります。
卒業後は、さらに東京医学校、現在の東京大学医学部へと進学します。
在学中に、医者の使命は治療以上に病気を予防することにあると確信し、予防医学を一生の仕事にしようと考えるようになっていったそうです。
当時医学校を卒業した大半の医学士は、地元に戻り、高級取りの病院長などに就任するのが一般的だったと言われています。
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しかし北里柴桜夫氏は、東京医学校を卒業後、予防医学の普及・研究を行いたいという目的から、内務省衛生局、現在の厚生労働省の前身に就職します。
病院長の月収は200円が相場であったのに対して、衛生局員は70円ほどの時代だったそうです。
高い給料を受け取るのではなく、予防医学の普及と研究に力を注ぎたいとの目的意識があった素晴らしい方です。
衛生局に就職後は脱水症状によって死に至るこれらの原因をはっきりとさせたり、妊娠しているかどうかの見分け方を広めたりとめきめきと頭角を表していくことになります。
こうした衛生局での功績が認められ、北里柴桜夫は国からの推薦によって先進医療国であるドイツに留学する機会を得ます。
ドイツに渡ってからは細菌学の第一人者として知られるローベルト・コッホの下で研究に打ち込むようになりました。
そこで当時多くの人を死に至らしめていた破晶風について血液中から菌だけを取り出す破晶風菌の純水培養法を世界で初めて開発
さらに、弱毒化した菌の毒素を動物に少量ずつ注射すると体内で抗体・体内に侵入してきた異物と戦ってくれるタンパク質が作られることも発見しました。
そして抗体が作られた動物から採取した血清を他の個体に注入することで破晶風の治療と予防ができる血栽療法を開発します。
伝染病に対する有効な予防と治療法がなかった当時、血清療法は画期的な手法だったと言います。
血清療法は療防摂取などで用いられるワクチンの開発にもつながり、世界中で医療に役立てられるようになっていきました。
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こうした功績により北里柴桜は世界で認められる細菌学者としての地位を確立していったのです。
ドイツでの6年間の留学を経て帰国後、東京に日本初の伝染病研究所が設立され、北里柴桜は所長となります。
この研究所の場所と建設費を提供したのが、現行1万円札の顔として知られる福沢ゆくちさんです。
北里柴桜の研究にかける熱意に感動し、協力を申し出たのでした。
そして帰国後も設立された研究所を休むことなく、伝染病予防と細菌学の研究に明け暮れた北里柴桜でしたが、
1894年に再び海外へと向かうことになります。
そのきっかけが香港で蔓延したペストでした。
ペストとは皮膚が黒く変色していることから、別名国死病と呼ばれ、致死率の高さから恐れられていた感染症のこと。
中世ヨーロッパで流行した際は、当時ヨーロッパの人口の3分の1の人が命を落としたと言われている恐ろしい病気でした。
そのペストが1890年代に中国南部で再び発生し、香港でも猛威を奮い始めたのです。
当時は誰も原因がわからず、感染を防ぐ有効な対策も治療法も全くなかったと言います。
そこへ原因を突き止めるために北里柴三郎自らが向かい、ペスト菌を発見した上で有効な予防法と消毒法を実施していきました。
推定される感染経路などが次々と明らかになると、北里柴三郎修道の下、家屋などの消毒や菌を運ぶクマネズミの駆除、また公衆衛生の対策がなされたことで、香港は落ち着きを取り戻していきました。
ペストの原因となるネズミを退治するために、家で猫を飼うことをみんなに勧めていたという話もあります。
ネズミを家の中に侵入させない方法や、猫が自由に室内を出入りできるような工夫も含めて、ペスト予防の具体策を細かく指導していたそうです。
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香港での発見から数年後、ペストは日本国内にも侵入しました。
しかし北里柴三郎自身が制定に加わった伝染病予防法の下、ペストの感染につながるネズミの駆除を徹底させ、収束に導いたと言われています。
なお、ペストの流行は今でも完全には終わっていないものの、現在は抗生物質によって治療することができるようになっているそうです。
1914年、伝染病研究所所長を辞任した北里柴三郎は、
私立北里研究所を設立して、狂犬病やインフルエンザなどの予防治療に関する研究を続けました。
その間、自分の研究のみならず、後進の指導にも熱心に取り組んだと言われています。
伝染病研究所から私立北里研究所時代で過ごした40年余りで、
セキリキン発見者の滋賀茂雄や、大熱病の研究で有名な野口秀夫などの優秀な弟子も育成し、日本医学の発展に貢献します。
研究だけをやっていてはダメだ。それをどうやって世の中に役立てるかまで考えるべきだ。
という北里柴三郎の信念は、弟子たちにも受け継がれていったのでした。
はい、ありがとうございます。今日はここで終わりたいと思います。 それでは良い一日をお過ごしください。
直人でした。
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