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017.日本の細菌学の父『北里柴三郎』:Part.2~学生時代
2025-04-07 29:09

017.日本の細菌学の父『北里柴三郎』:Part.2~学生時代

前回に引き続き、日本の細菌学の父・北里柴三郎をご紹介していきます。

今回のエピソードでは、彼の学生時代から結婚に至るまでをお話していきます。
彼の医療に対する信念は、「医学の目的は人々の健康を守ること」という理念に基づいており、この信念が後の細菌学者としての功績の礎となりました。

シーズン2
「ノーベル賞に最も近づいた最初の日本人、北里柴三郎」
の参考図書は

ドンネルの男・北里柴三郎
山崎光夫
東洋経済新報者

北里柴三郎 感染症と戦い続けた男
上山明博
青土社

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00:06
生命科学の冒険者
ようこそ、生命科学の冒険者たちへ
MCの金澤秀明です。
アシスタントを務めます、山崎愛子です。よろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
017から引き続いて、北里柴三郎の東京での話ですかね。
はい、そうですね。東京に熊本医学校をですね、出て
スペルカの先生から、元から離れてですね
東大学部ですね、の方に受験をするというところから
お話をスタートしたいと思います。
この当時ですね、やっぱり同居の人にお世話になるっていうのが
普通だったのかなと思うんですけれども
北里のですね、21歳年上、だいぶ先輩ですね
の山田武俊先生さんという方のお家で
お世話になることになります。
この家でですね、厄介になりながらですね
東大の入試日まで、勉強とアルバイトに明け暮れます。
で、ある日ですね、アルバイトから疲れて帰ってきた日にですね
寝ようと思ったらですね、山田さんに呼び出されます。
で、言われます。困ったことになったと。
君は東大を受験できないっていう風に言われて
来たばっかりに
それを目指して東京出てきたのに
で、受験資格がですね
20歳までっていう年齢制限がどうもあったんですね
もう20歳過ぎてましたもんね
そうですね、もう21歳になってました。
で、木澤とはですね、マウスフェルとの授業を手伝うために
先生が熊本医学校の契約が切れるまでをですね
助手として過ごしてたんですね。
なので、この当時ですね
同い年で東大にもうすでに行ってる同級生もいたんですけれども
彼は東京に出てくるのが
3年遅くなっちゃってたんですね。
で、山田はですね
どうしようどうしようと考えて
妙案を思いつきます。
出願書類でですね、年齢を査証しました。
え、いいの?
今じゃ大問題ですけど。
今は無理でしょうね。これは確かにできないですよね。
年齢を査証して。
で、これがバレずにですね
無事に試験を受けることができたということですね。
できちゃうんだ。面白いな。
まあ、なんかいろいろまだまだいい加減な時代だったのかなと思います。
03:04
で、明治8年の1875年11月ですね。
東京医学校に入学ですね。
これ後の東大医学部になりますけれども。
なので1875年の11月なんですよね、入学が。
本当ですね。
10月スタートなのか。
ちょっと不思議な感じですよね。
で、この時にですね
さっきも言った通りなんですけれども
マンスペルトの元で助手してたために
なかなか出てこれなかったわけですけれども
逆にですね、熊本で同級生だったですね
尾形雅則だったかな。
雅則から3年遅れての入学という形になりました。
で、熊本ではですね
マンスペルトに非常に可愛がられて
目にかけてもらえたんですけれども
東大の方ではですね
反対にですね、教師陣から来ただとは
ちょっと疎まれたというか
目をつけられたみたいですね。
そうなんだ。
性格。
性格ですね。
彼の性格なんですけれども
教師陣のですね
偉そうな態度とか
物を言い
雅則は結構反発したみたいですね。
授業中でも構わずにですね
呆然と噛みついたみたいなんですね。
なるほど。
あと、彼頭いいんで
論文の首を指摘したりとかしたみたいなんですね。
先生のこの論文もここは間違ってるんじゃないですかみたいな。
それは拗ねちゃう。
拗ねちゃいますね。
なるほど。
あとですね、ちょっと
大学・在学中にですね
数十人の同志を募ってですね
同盟社という学生結社を組織したみたいですね。
この会なんですけれども
癒やしくも志を天下に有する者は
有便でなければならない
というですね、趣旨で組織されて
演説会などを開催してですね
活発に討論を行ったみたいです。
今の有便会っていうんですかね
弁論部とか有便会とか
そういうのが大学であるかと思うんですけども
それの走りみたいな感じですかね。
そういったところから
たくさん政治家とかが出てますけれども
そういった感じだったんだと思います。
北里はここで首相を務めてですね
政治・軍事・教育・医療とですね
あらゆる分野の問題を取り扱って
議論してたみたいですね。
この時にですね
その後の北里の生き方を示すようなですね
信念を論じた異動論というのを発表してます。
これ本当に彼がですね
その後生きていく道としてですね
非常にその通り生きていったんだなというのが
よくわかるんですけれども
ちょっと要約してみたんですけれども
06:01
医は本来人の道であり
国の発展のために人々の健康を守ることが目的である。
しかし今の医者は
病気を治すことにのみ関心を持ち
権力者や富裕層に迎合し
医療の本質を忘れてしまっている。
その結果医学は衰退し
医者の地位も軽んじられるようになってしまった。
また医学を志す学生の中には
国からの援助を当然と思い
学問に対する意識が軽薄なものが多い。
このような風潮が続けば
医者が自らの利益を優先し
病気の予防よりも治療に重きを置くようになり
国民の健康や国の発展を損なう。
さらに国民が健康の重要性や
予防の方法を知らないことも問題であり
これは医者の怠慢によるものである。
例えばコレラ流行時の混乱も
医者が十分に教育を行わなかったことが一因である。
医者が真に医道を理解し
大衆の健康を守る使命を果たせば
医学の地位は向上し、国も発展する。
医学は決して専職ではなく
社会にとって不可欠な大業である。
すごい。
病論。
国民の健康に対しての無知も
これも医者がちゃんと
教育をしなかったせいだと
言っててですね。
今でもなんか通じるなっていう感じが
本当ですよね。政策になりそうな。
思いますね。
それが本当に医者のせいなのかなっていうのは
ちょっと思うところもありますけれども
とにかく威張って偉そうにして
病気だけ治しておきゃいいんだろう
みたいな感じの医者が多かったんだろうなと思います。
これを原点として
最後までこの原点を大事にしてました。
明治16年
1883年
この年にいろんなことが
起こりますけれども
北里は30歳になりますね。
4月に結婚してます。
大倉松漢氏の
松尾茂義の次女、虎ですね。
女の子に虎って名前つけんだって感じで
16歳の娘に結婚します。
すごい年下。
30歳で16歳です。
すごい。
14歳年下ですね。
この年って15歳以上が成人っていう
イメージですね。
多分、16歳よりもっと若く
結婚してた人も多いんじゃないかなと思いますね。
30歳でてもこの年でても
おじさんですよね。
結構なおじさんですよね。
09:02
16歳の虎さんも
30歳のおじさんのところに行けって言われて
どうなったのかなってちょっと思いますけれども
本当ですね。
後々でもこの虎さんはですね
いろいろと北里を支えるすごくいい
嫁さんというか妻になります。
この松尾茂義ですね
ですけれどもその後ですね
第6代西銀総裁を7年8か月
勤めた方になります。
ちなみにですね、次の総裁はですね
高橋保力夫ですね。
この出会いはですね
学生時代のアルバイト先の会社の社長が紹介してくれました。
なんせ北里はお金を
送ってもらえないで学生してましたんで
アルバイトを一生懸命してたんですね。
で、柴森はですね
牛乳製造会社でですね良質な牛乳を製造するための
アドバイザーとして働いてたんですね。
ちょうどだからこの時代
牛乳を販売するということが始まってた年ですよね。
それまで江戸時代っていうのは
もちろん牛肉食べないですし
牛乳を飲むという習慣もなかったので
日本にそういうノウハウがなかったのかなと思います。
なので良い牛乳をですね
市場に回すためには
どういったことが必要なのかというところで
牛乳の品質管理だとか、作業場の衛生管理
それから乳牛の輸入手続きとかですね
海外文献の情報整理などをですね
彼はアルバイトとして
やったという形ですね。
品質管理とか衛生管理という風になるとやっぱり
後々細菌学者になる柴三郎なんでですね
得意だったのかなと思いますね。
オラナゴとかも得意だったので
海外文献とかですね
輸入手続きとかも
向こうの文字が読めるので
そういったところでも活躍したのかなと思います。
この会社の社長がですね
松尾茂義の弟だったんですけれども
柴三郎の働きぶりに非常に関心して
メイコの虎と
見合いしろというような形で
見合い話をまとめてくれたみたいですね。
すごいな。逆玉。
逆玉ですね。逆玉ですかね、本当に。
日銀総裁の娘ですよね。
後の日銀総裁の娘さんですからね。
すごい。
働きぶりがすごかったってことですね。
そうですね。すごいいい働きをするなというので
評価されたんだと思います。
柴三郎をですね
この時期に弟の坂尾をですね
12:01
熊本の小国村からですね
呼び寄せてですね
彼を養って東大邦楽部に進学もさせています。
学生だてらにアルバイトして
自分は医学の勉強をして
かつ弟を呼び寄せて
別の邦楽部にですね
進学させるっていうような。
すごい。やっぱり頭良かったですね、兄弟揃って。
そうですね。頭良かったと思うし
あと経済的にもよくそんなことができたんだなっていうのがすごいなと思いますね。
あとですね
7年5ヶ月かけてですね
通った東大医学部を卒業します。
卒業成績はですね
26名中の8番だったそうなんですね。
そんなになんか上でもないのかなっていう感じはしますけれども
真っ先にですね
下宿させてくれた恩人の山谷豪国に行ったそうです。
山谷さん卒業できましたと。
あれバレなかったですよみたいな。
最後まで行けましたみたいなそんな感じだった。
ちなみにアルバイト先の人には
正直に言ってたんかな。
どうですかね。その辺を
誤魔化してたんじゃないですかね。
分かんないですけど。
多くの同級生たちはですね
卒業後にですね
病院などの診療機関に就職してですね
それで東大の医学士という
肩書きがつくわけなんですけど
非常に高級で迎えられたらしいですね。
平均の給料が200円
今の換算で言うと月給200万円ぐらい
大学卒業からいきなり200万って言うですね。
すごい。
超えた方針。
感じの給料で雇われていたらしいんですけれども
来ただとはですね
そうはしなかったんですね。
彼は疑問を持っていました。
日本最高の医学教育を受けたとはいえ
まだわずかな知識と経験しかないと。
神様のように先生先生と頼ってくる
様々な病気の患者に対して自信のない治療や処方を
できるわけがない。
そしてですね、熟慮を重ねて
内務省の衛生局に就職することにします。
給料はですね、70円だったそうです。
まあまあでも
70万ぐらいなんで
それでもかなりいい給料だなと思うんですけどね。
同級生たちに比べるとだいぶ
低かったのかなと思うんですけれども
内務省衛生局
直属の上司がですね
永代千歳という方になります。
永代はですね、北里よりもですね
15:01
13歳年上で大村藩
現在の長崎県大村市に代々
仕えている官房員の家系だったそうなんですね。
だから
唐太される側の家の
人間だったわけですけれども
その後ですね、大阪の乱学者ですね
尾形公安の敵塾に入門してですね
福沢諭吉なんかと肩を並べて
勉強してたみたいですね。
福沢諭吉の後任として塾頭になった後に
長崎小徳館
後の長崎の医学校でですね
先ほど熊本医学校で
マウスフェルトに来たとは
その前にですね
その前にマウスフェルトが勤めていた
長崎医学校で
マウスフェルトと共にですね
マウスフェルトの同僚として
医学教育に取り組んでたそうです。
なんかちょっと絡んでるんだなという感じですね。
マウスフェルトはその後
熊本医学校に行って北里とかですね
あと尾形を指導したという形になりますけれども
この北里と同級生の
この尾形なんですけれどもこれは尾形公安の
息子になりますので
またここもいろいろと絡み合ってて
わけわかんないんですけれども
自分の師匠が尾形公安で
北里の同級生の尾形は
その師匠の息子というような形ですね。
長代自身はですね
明治4年1871年に
国に命じられてですね
欧米の医療と衛生行政を2年間視察して
帰国してきてます。
北里が入学する前年の明治7年に
東京医学校の校長に就任してました。
ちなみにですね
この長代が作った言葉がですね
衛生という言葉になります。
それまでですね日本に衛生という言葉
概念がなかったみたいですね。
衛生というのは
綺麗にすることとかという風なイメージがありますけれども
健康の保全、増進を図り
疾病の予防
治療に努めることというのが
衛生の正確な意味らしいです。
なるほど、それまでは本当に
最初の予防という意味では
衛生という概念なかったみたいですよね。
だから手洗うとか
清潔な水を使う、それから食べ物を
衛生的に取り扱うとか、トイレやゴミを
適切に処理するというようなことは
あんまり考えてない人が
概念がないから
18:00
やり方もわからないですよね。
ただ日本には
けがれという概念があって
神社に行くときには
口をゆすぐとか手を洗うとか
寺ではやるので、あと外から
帰ってきたら足を洗うとか
そういうのもやってたんでですね
それなりにけがれ信仰で
衛生の概念の前進みたいなことは
あったのかなと思うんですけれども
ちゃんとそれが健康とかに非常に重要だ
ということが出てきた
そういう言葉を作ったのがこの長い話になります。
実際、東京衛生試験場で
働き始めるわけですけれども
熊本医学校時代の同級生で
先に東京に出て東大医学部で
先輩となっていた尾形雅則
尾形公安の息子になりますけれども
の助手として仕事を始めます。
この頃ですね
尾形はロベルト国保の
助手で後に国保研究所の
所長となるフリードリ・ヒレフラー
という方がいらっしゃるんですけれども
そこから先進の最近学を学んで
ドイツ留学から帰国していた頃でした。
東大医学部の
衛生学講座の講師となり
さらに長岩局長を務める
内務省衛生局の
御用係を拝命して東京衛生試験場に
転勤していたという形ですね。
2足のわらじを履いているような状態だった
という形ですね。
同級生は先に東京に出てたばっかり
先輩となって
さらにドイツは留学して
帰ってきているという状態ですね。
そこで北里は
尾形の助手として働き始めます。
尾形は
ドイツの国保研究所で
留学していましたので
ドイツ製の最新機器が分かっていましたので
どういった機器が必要かというのを
すべてドイツから取り寄せて
非常にいい機械がそろっていたそうです。
いろいろな
伝染病の最近学の調査を行うとともに
結核とか各家の
基礎研究を始めていました。
この研究所に
北里を配置したのは
長尾と尾形からの配慮で
北里に国保流の最新の
研究手法を触れさせようと
学ばせようというところがあったようです。
ここで働きながら
21:01
いつかドイツ留学して国保の下で学びたいな
というふうに希望するようになっていったそうです。
この時期
この
研究所というか
ここで学びながら働いてという中で
1883年の晩春に
東北北海道への
長期出張してきなさいというような
命令が出ます。
この出張の目的は
日本の近代化のために
衛生行政の機構を視察に行く
というような表向きが
そういう旅だったんですけれども
エリート官僚が大名旅行をするような
そういった意味合いがあったみたいで
北里は雑用係として
ここにお供させられたみたいなんですね。
工房で
ついて行かされたエリート官僚の
長井久一郎という書記官ですね。
この方、長井嘉風の父ですね。
後の芸術家の長井嘉風の父なんだそうですけれども
偉そうな態度に
たびたび腹を立てて
立ててらったらしいんですけれども
立場には逆らえないというところで
頑張って飲み込んで
ここは耐えたんだ。
喧嘩っぱやそうなのに。
そんな時に
秋田日報という新聞記者がやってきます。
ちなみにその記者は
犬飼い強しいですね。
後の総理大臣。
すごい人たちがいっぱい出てきますね。
そうなんですよね。
僕ちょっと幕末明治ファンというか
その辺りの日本人の話が大好きなんですけれども
その歴史で見た
スター選手がいっぱいここに登場するんで
本当ですね。そういう時代だったのか。
またこれを調べてしまうという沼に
陥ってたんですけれども。
はい。
この犬飼い強者は
秋田日報という新聞の記者を
当時はやってたみたいで
彼は後に総理大臣になって
最後5.15事件で犠牲者となってしまいますけれども
彼が
新聞記者としてやってきて
東京からわざわざ偉い官僚が来てくれてるのですから
ぜひ衛生について講演をお願いしたいという風に
言ってくるんですね。
犬飼いも
なんて言うんですかね。
彼ら東京からエリートがやってきて
24:00
大名力をしてんだなという風に思ってたみたいで
だから人々の前で恥をかかせてやろうという
ちょっと魂胆があったみたいなんですね。
当然長居はですね
衛生のことをよくわかりません。
なので断るんですけれども
いやいやそうは言っても
せっかく東京から来てくれてるんですからと言って
犬飼いは引き下がらないんですね。
それで困っちゃって北里に命令します。
お前が喋れと。
北里はそこをですね
ここやと思ったんでしょうね。
いやいやいやそれはまずいでしょうと。私雑用係ですよと。
下級の私があなたを差し置いて喋るなんてとんでもございませんみたいな
仕立てにこういうことがあったんですね。
でそうするとですね
長居がいやもうこれは官名だと
お前が喋んなきゃならないんだみたいな感じで偉そうに言ってきたらしいんで
そこでですね
ふざけんなと何が官名だと
切れたらしいんですけれども
そうしたらですね最後長居は惚れてですね
頼むから喋ってくれって言ったらしい。
折れた。
北里はその公演を受けることにします。
大学時代ですね
弁論部の首相だったので
堂々とその役割を果たしてですね
非常に徴収にも公演が受けたみたいで
犬飼いもですね
恐縮してですね握手をして
公演の公司のビロの席を設けてくれたそうなんですね。
でこの時に犬飼いもですね
ちょっといいことするなと思うんですけれども
北里が上座に座る。
で長居は末席というような形の
席地を作って
北里を艦隊してくれたそうです。
なるほど。
強いなー
そういうのがあったんですね。
やり取りがあったんですね。
次にですね手がけた仕事がですね
東京市内でですね
発生したアヒルの集団死の原因究明を知る
ということになります。
明治18年のですね
1885年ですね4月ですね
高島市の富士見町の家族の
邸内でですね飼われていたアヒル
家族というのは
華やかな族ですね。
貴族ですね。
貴族の邸内で飼われていたアヒルが
集団死します。
その通報を受けて北里はその調査に当たるということになります。
彼はですねまずアヒルの死体からですね
血液や臓器を取り出して顕微鏡で観察します。
そうするとですねそこに細長い梱包状のですね
27:02
肝筋を確認します。
細長い筋のことを肝筋と言いますけれども
それを確認します。
この細筋をシャーレーの中で培養した結果
これがですね5年前
1880年にパススールが発見した
ニワトリコレラ
ニワトリコレラ筋というのがあるらしいんですけれども
これが原因だろうという風に
特定します。
北里非常に優秀だったみたいで
一瞬で原因を特定してしまったというところですね。
すごいなぁ。
今日はとりあえずここまで
次回に
また話を回したいと思います。
そうですね。ありがとうございます。
東京に行ってから
衛星という言葉とか
移動論というのかな
そうですね。
彼自身が
生き様を示す
移動論というのを書いて
これはなかなか文章だなと思いますね。
いよいよそれこそ筋を発見していくものに
つながっていくのかな。
そうですね。
次回は
最近学の発展がどう起こったのか
というところを
北里の最初の業績に絡めて
話したいなと思っています。
分かりました。
いろいろ出てくるかと思いますので
また次回もぜひ楽しみに聞いていただければと思います。
今日はありがとうございました。
29:09

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