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016.日本の細菌学の父『北里柴三郎』:Part.1~生い立ち
2025-03-31 31:07

016.日本の細菌学の父『北里柴三郎』:Part.1~生い立ち

第2回目は、日本の細菌学の父・北里柴三郎をご紹介していきます。

今回のエピソードでは、彼が生まれた幕末から明治時代の激動の時代背景、幼少期から医学の道に進む軌跡をお話していきます。
家庭では非常に強い母親の教えが彼の人生に深い影響を与えたようです。

シーズン2
「ノーベル賞に最も近づいた最初の日本人、北里柴三郎」
の参考図書は

ドンネルの男・北里柴三郎
山崎光夫
東洋経済新報者

北里柴三郎 感染症と戦い続けた男
上山明博
青土社

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00:06
生命科学の冒険者
ようこそ、生命科学の冒険者たちへ。
MCの金澤秀明です。
アシスタントを務めます山崎愛子です。よろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
この番組では、生命科学における画期的なブレイクスルーを成し遂げた偉大な研究者たちの人生と、その背後にあるドラマをおお届けします。
第2回目は、北里柴三郎です。
北里柴三郎は、1853年から1931年の幕末から昭和初期の時代の人で、日本の細菌学の父と呼ばれています。
主な功績としては、破晶風菌の純粋培養と血清療法の開発、テスト菌の発見、北里研究所の設立、慶応技術大学医学部の創設、
ノーベル賞は受賞しませんでしたが、その功績は世界的に評価され、現在の医学や公衆衛生に大きな影響を与えています。
ありがとうございます。
シーズン2、かっこいい言い方するとシーズン2になると思うんですけど、
そうですね、シーズン2ですね、北里さん。
北里茂三郎と僕間違えちゃいました。北里柴三郎ですね。
北里なんですよね。
北里っていうのと北里っていうの、これも何か違いますよね。
はい、ありますね。
北里柴三郎先生ですね。
日本人で細菌学の父と呼ばれているというところなんですけれども、
子供時代というか、生まれたところからお話をしていきたいと思います。
生誕はですね、今から172年前ですね。
日本の言い方で言うと開英5年って言うんですね。開英5年っていつなんだって感じなんですけど、開英5年の12月20日、1853年、
12月20日ですね。
父、小れのぶ、母、ていの長男としてですね、
ひごこく、おぐにご、北里村に生まれるという形なんですけれども、熊本県になります。
ここの聖火があったところはですね、北里柴三郎記念館っていうのがありまして、
僕も行ってきたんですけれども、非常に面白い記念館ですので、
ぜひ、熊本にお立ち寄りの際はですね、行ってみていただければと思います。
03:04
ちなみにですね、1853年はですね、ペリーの黒船が来航した年ですね。
そんな年に生まれているということになります。
すごい、時代のね、変わり目に生まれたってことですよね。
そうですね、時代のほんと変わり目のきっかけになったところですね。
彼自身ですね、すごく猛献気の強いやんちゃ坊主だったみたいでですね、
いつもとっくみ合いの喧嘩をして生き傷が絶えなかったということです。
こういったエピソードはですね、後々も何度も何度も出てきます。
ちょっと時代をご紹介するとですね、そういうふうなペリーが来た時っていうところなんですけれども、
幕府の大老ですね、老中らとですね、凶暴して天皇の許しを得ない、直拒って言いますけれども、
得ないまま日米修行通商条約ですね、に調印してしまうというような形で、
あとですね、将軍がですね、徳川家持に決定した、そういうような年になります。
安政の大国ですね、っていうのが教科書で習われると思うんですけれども、
安政の大国があった年でですね、これらの国を開いたということに対してですね、
反対する者たちをですね、弾圧するということが始まった年になります。
世界で言うとですね、世界論っていうか生命科学の世界で言うと、
チャールズ・ダーウィンがですね、種の起源っていうのを出版した年ですね、になります。
そうやってみるとすごい昔に出してるんですね、これ。
そうですね、すごい昔ですね。
すごいな。
それまではだからね、進化っていうのは信じられてなかった、そういう話はなかったわけですね。
チャールズ・ダーウィンが進化論っていうのを出したことによって、
生物学、生物はどんどんどんどんいろいろ進化していくんだということが、
そういう論がですね、出てきたっていうことになりますね。
で、満6歳の時ですね、柴桜はですね、寺小屋に入って読み書きを習い始めるという形になります。
江戸時代なんでですね、まだ寺小屋制度があって、
そういったところで子どもたちは勉強しているというところですね。
で、この寺小屋に入った年ですね、1860年。
まだ江戸時代ですね。
この時代ですね、これらが猛威を振るっていてですね、1万人以上も亡くなっている年になります。
で、あとですね、小学校に入った年ですけれども、
アメリカ小学校とか寺小屋に入った年ですけれども、アメリカの南北戦争があった時ですね、その真っ最中です、アメリカは。
06:01
で、それからですね、ごめんなさい、これが9歳になった年ですね、の話ですけれども。
9歳になってからですね、おばの家に預けられてですね、2年間、
儒教のですね、師匠御教の俗読、その後ですね、母方の実家に移って3年間、私塾に通ったということになっております。
すごい勉強好き。
勉強好きっていうかですね、6歳で寺小屋に行って、しばらく行っててからですね、
なんか、まあ、母ちゃんがですね、この子ちょっと暴れんぼすぎると思ったみたいで、
で、あのちょっと、もう、おばの家に預けようという形で、5年間手放したみたいなんですね。
そういう背景があるんですね。
そうですね。
よっぽどだったんでしょうね。
はい、よっぽどだったんだと思います。
5年間。
5年間もですね、なんか息子さん5年間、小学校1年生から5年生、6年生ぐらいまで手放せます?
いや、無理ですね。一番面白い時だと思うんですけどね。
そうですね。
で、その間に一回も家に帰ってないっていうことで、
お母さん寂しくなかったんかなってすごい思いますけれども、
まあただ当時って結構そういうことってよくあったみたいですね。
そうですね。
で、このお母さんの佐田ですね、とっても強い女性だったみたいでですね、
やっぱりこのお母ちゃんも子供の頃から男の子と喧嘩して、
それで勝って帰ってくるような、すごい女性だったみたいですね。
はい。
で、明治10年になってですね、一つエピソードなんですけれども、
西南戦争が起こった時に熊本城を包囲するですね、西郷軍に合流しようと思ってですね、
不定分子ですね、侍崩れの人たちがですね、北里村に通りかかったんですね。
で、その時にですね、ロギンよこせやっていう感じでですね、
いろんな家々を襲ってお金を奪っていったらしいんですけれども、
母ちゃんはですね、そういった奴らが来そうだっていう風になった時に、
子供たちにですね、お父さんと一緒に隠れなさいって言ってですね、
自分一人だけで家の留守番をしたみたいなんですね。
案の定ですね、10人ほどの荒くれ男たちがですね、
日本刀を抜き身で持ってですね、家に乱入してきて、
金をよこせという風に要求をしてきたみたいなんですけれども、
その時にですね、たった一人で立ち向かってですね、
金目の者は何もないよ、嘘だというものなら探してみろってですね、
言い放って彼らを追い返しているそうです。
すごい、怖くなかったのかな。
いや、怖かったと思いますね。
いやー、そこはもう母親の強さですね。
母親の強さですね。
あとは女が強く出たら買えんだろうっていう風に思ったのかもしれないですね。
わかんないですけれども。
で、そういうような強いですね、母ゆずりのですね、
09:04
気性を持った柴桜をですね、親族に預けて、
彼を成長させようとして手放したのかなというところですね。
1867年ですね、北里はですね、14歳になってですね、実家に帰ってきます。
で、この年はですね、西王の将軍ですね、
第15代征夷大将軍に就任した年になりますね。
そして、孔明天皇が没した年ですね。
次の天皇陛下は明治天皇になります。
この頃ですね、日本はもう本当激動ですね。
もう本当幕府が潰れるのかどうなのかみたいな、そんな時代になってきます。
で、この時ですね、海外ではアルフレッド・ノーベルがですね、
ダイナマイトの初特許をイギリスで取得したというような形で、
このダイナマイトがですね、世界的に大ヒット、
戦争でも使われるようなことになってしまうんですけれども、
それでノーベルはですね、財産を蓄えて、
ノーベル財団を作って、ノーベル賞っていうのをですね、
毎年やるようになるということになります。
なので、生命科学にも関わってくれてるノーベルがですね、
そういったことをしましたよっていう年になります。
で、この14歳になってですね、5年間預けられてからですね、
一瞬帰ってきて、でまた出ていって、
14歳になってまた帰ってきてっていうところなんですけれども、
今度帰ってきてすぐにですね、両親にお願いをするんですけれども、
熊本に出させてくださいと。
で、熊本はですね、被捕犯の犯行のですね、自習犯っていうのがあったんですね。
なんですけれども、お母さんの実家はですね、
苦島藩という田の藩だったんですね。
田藩の子供はですね、苦島藩の犯行には通わなかったらしいです。
厳しいな、そういう区分分けが。
はい。なので、市塾で儒教を学んでたらしいんですけれども、
もう北里からするとですね、全然簡単すぎて面白くないみたいな、
そんな感じだったのかなと思います。
で、あと武芸もですね、市塾では全然物足りなかったみたいで、
結構彼文武両道だったんだと思うんですけれども、
それで全然物足りずにですね、おばの実家のですね、
おじさんにですね、こんなところで俺が学べることは何もないわ、
みたいな感じで言い捨てたらしいんです。
それで、だったらお前実家に帰れって言われて追い返されて。
12:02
そうなんだ。
で、被害犯、被害犯の犯行の自習館に行きたいというふうにすぐに
行使にお願いをするということになります。
で、その時にですね、お父さんから言われたのはですね、
世間に出て頼るのは一人だけだと。
抜点広が世の中ばわたるに一人の力には限りがある。
運が大事だって言って、何かした人物はですね、
運を手の中に収めとると。
それをちょっと熊本弁、僕しゃべれないんですけど、
それを熊本弁って言ったんですね。
なかなかね、癖があるし。
まあそんな話をしてですね、
誰かが頑張っていれば誰かが助けてくれるよと。
成功者には必ず恩人が居るもんだって言ってですね、
送り出してくれたみたいですね。
で、お母さんはですね、その強い強いお母さんですね。
世の中は生きている時はたった一人だと。
頼るのは自分だけなんだぞと。
どんだけ辛い目にあってもやるしかないんだと。
脇目を振らずに進めと。
お前は自分を信じて進みなせと。
本当に泣きたい時には誰もおらんところで
一人で心ゆくまで泣けと。
そして忘れろっていう風にですね、
言って送り出してくれた。
なかなか奥深い教えですね。
そうですね、父ちゃんも母ちゃんも何かが
いいこと言うなと思うんですけど、
これ、後ですね、北坂の人生を見ていくとですね、
本当こんな感じに進んでいくんですよね。
で、明治2年ですね、
時週間にですね、反抗に入ります。
で、明治2年なんで、
もう江戸幕府が終わってですね、
明治政府が立ち上がっているときなんですけれども、
まだ反抗はあったのかなということですね。
なので地方まではなんて言うんですかね、
明治政府の力っていうのが来てなかったのか、
ちょっとこの辺、すいません詳しくよくわからないんですけども、
反抗に入れたというところなんですけど、
すぐにですね、反抗は廃抗となります。
次週間廃抗となります。
せっかく来たのに。
はい、せっかく入ってきたんですけどもね。
で、なんか最近ですね、
ちょっと発見された資料らしいんですけれども、
どうも青函に帰ってですね、
しばらくなんか教師をやってたんじゃないかと、
こういう話ですね。
教師の事例が発見されたらしいですね。
で、その時、安田大蔵さんという方のですね、
家に下宿をして教師をしてたようなんですけれども、
この大蔵さんの勧めでですね、
熊本にできたですね、医学校に行くことになります。
15:05
明治4年ですね。
古城医学校ですね。
では、オラガジン医師のですね、マンスフェルトという方が
医学を教えてくれてたらしいですね。
古城医学校というのは熊本医学校で、
後の熊本大学医学部になるような、
そういうところになります。
このマンスフェルトなんですけれども、
オラガジンがですね、海軍の軍医として、
まずは勤務をしておりました。
で、慶応2年ですね。
徳川幕府に招集されて、
後のですね、長崎医学校のですね、
聖徳館というところで、明治4年までですね、
基礎と臨床の医学を教えて、
同時にですね、患者さんの治療もしてたというような方です。
時代が移りまして、明治政府からですね、
壊れて、次にぜひ行ってほしいということで、
熊本医学校で勤め始めたという形になります。
マンスフェルトがですね、非常に厳格な性格でですね、
自分で決めたことはきちんとこなしていくようなタイプ。
自分のですね、授業時間はですね、
毎日2時間やるというふうに定めてですね、
学生には必ず出席しなさいというふうに、
出席を求めたそうです。
で、遅刻はですね、
他の学生の迷惑になるからという形で、
絶対にダメよという形ですね。
で、授業はですね、
いきなり臨床ということは教えずに、
基礎医学を徹底的に生徒に叩き込んだということになります。
ちょっと基礎医学と臨床医学ってわからないと思うので、
説明をさせていただきますと、
基礎医学っていうのはですね、
人体の構造や機能ですね、
病気のメカニズムを科学的に解明する学問領域というような形になります。
で、細胞とかですね、
現在だと分子レベルでの生理学とか、
病理学、薬理学などを研究するというような形で、
新しい治療法とかですね、
医薬品の開発に貢献をするというような形になります。
例えて言うなら、
がん細胞はどのように増殖するのかとかですね、
ウイルスは体内でどのように作用するのかとかっていうようなですね、
そういう根本的な問題を探求するというような形になります。
生理学の中、基礎医学の中でですね、
医学でいろんな分野ありますけれども、
その中で基礎医学と言われるようなやつは、
生理学だとかですね、
生化学だとか、薬理学、
病理学、微生物学、免疫学、遺伝学といったようなですね、
仕組みを見るような学問というような感じになりますね。
18:00
特徴としてはですね、
実験室とか研究室での研究が中心になります。
人体や疾患のメカニズムを解明することが目的、
医学の進歩に貢献するための基礎的なデータを取ると、
それから臨床医学の発展に不可欠な知識を提供すると、
そういったようなところが、
基礎医学の特徴となっております。
この時代からこういうふうにちゃんと区分割されていた。
基礎と臨床医学というのがこの時代からあったみたいですね。
対して臨床医学というのはですね、
実際に患者さんを診察してですね、
病気の診断とか治療・予防を行いますというような学問になります。
内科、外科、精神科といった診察科に分かれますよと。
なので、内科、外科、小児科、産婦人科、摂診科、皮膚科、
よく行く病院の名前みたいなのがこの学問になりますね。
ちょっとまとめますと、簡単に言うとですね、
基礎医学は医学の理論的な基盤を築くという形になりまして、
臨床医学は実際の医療現場でその知識を応用する学問
というふうに言えます。
このマウスフェルトはですね、
とにかく最初は何よりも基礎が大事だというところで、
基礎を重んじまして、
特に重んじたのがですね、解剖学で、
人体の仕組みを知らないと病気を知ることはできない。
そういうところが彼の主義ですね。
生徒にまずはそれを叩き込んだという形になります。
次にですね、組織学とか生理学に進みまして、
1年半はですね、基礎医学を叩き込んだということになります。
その土台が出来上がってからですね、
やっと内科とか外科とかの臨床に進むという形ですね。
それとは別にですね、毎日2時間、
オランダ語も学ばせたそうです。
今、医学ってオランダ語ですか?
そうですね。
というか、マスクルート自身が日本語で教えることができなかったので、
俺の言うことを分かりたいんだったら、
ちょっとオランダ語、お前ら分かっとけということだと思うんですけれども。
そう言ってもですね、江戸時代やっぱり、
オランダ語が主流の外国語でしたので、
北里もですね、オランダ語はしっかり、
先ほどの寺小屋では習ってなかったと思うんですけど、
自習館とかで習ってたみたいなので、
割と最初からですね、マスクルートの授業についていけたみたいですね。
このようなですね、非常に厳格なマスクルート先生に教えてもらったという形ですね。
21:01
ちょっと彼のエピソードをもうちょっと紹介しますと、
彼はですね、教師としての自分の役割を、
学生を医者に仕立てようとするのではなく、
単に学生が将来の研究において、その行くべき道を示し、
また将来単独にて、自ら研究すべき方法を教えるものであるというふうに定義しています。
学生の将来には介入せずですね、
来るものを拒まずというような教育態度だったということです。
あとですね、3年間熊本医学校で契約してたらしいんですけれども、
1日も欠勤せずにですね、夏休みも取ることなかったそうです。
すごいなんか真面目な方ですよね。
どうもですね、膝関節リューマチっていうですね、
一回もそれでも近くをせずにですね、
診察ではですね、100床ある病院を杖をつきながらくまなく回って診察をしたそうなんですね。
すごいな、リューマチで?
リューマチでですね、リューマチの発作が出た時にはですね、
手除けの水で足を冷やしながら授業をして、それで診察をしてたそうです。
すごいな、この当時なんてリューマチの薬きっとないと思う。
ないでしょうからね、本当に痛いというか、大変だったと思うんですけれども。
このマンスフェルトにですね、柴桜は非常に気に入られまして、
治理学までですね、特別に教えてもらったりとかしてたみたいです。
ただですね、マンスフェルトはですね、どうも北里、別の野望があるなっていうのを見抜いてたみたいで、
ある時彼に質問します。君はミッシンに勉強するけども本当に医者になるつもりか?って言われたんですね。
もうぐさっと柴桜はですね、心に響いたみたいなんですけれども、
マンスフェルトに恐縮しながらですね、正直に答えたそうです。
両親に勧められて医者の勉強してるけれども、本当は軍人か政治家になりたいですと。
ただもう両親に反対されちゃってるんですよというような形ですね。
で、答えています。
これってじゃあ、柴桜は医者っぽくはなかったのかな?マンスフェルトから見て。
そうですね、多分、どうなんですかね。
医者の勉強以外のことに興味を持つことが多かったんじゃないですかね。
わかんないですけれども。
なんかちょっとこいつ別の野望あるんじゃないかなって見抜かれたんじゃないかなって。
わかんないですけれども。
で、柴桜はですね、ちょっと医者が嫌いというかバカにしてるというか、そういうところがあったみたいで、
24:02
当時の医者はですね、町の名刺として振る舞ってですね、金持ちだけを見て偉そうにしてると。
そういう奴らに俺はなりたくないなっていうのはちょっと思ってたみたいですね。
なるほどね。
で、ただですね、ある授業でですね、顕微鏡を覗いているときにですね、考えが変わったそうです。
そこにはですね、いろんな病気になった患者さんの臓器から作ったですね、
切片のプレパラートがあったわけですけれども、それをですね、いろいろとマウスフェルトが見せているときに、
そこにですね、いる細胞とか、そこに感染している細菌とかがですね、
生き生きと、生きているように見えたみたいなんですね。
僕も初めて染色をしてですね、そういったサンプルを見たときにですね、
すごい綺麗な世界だなっていうふうに覚えてるんですけど、
それでなんかえらい感動してしまってですね、
いや、この世界で生きようと、医者になると決めたそうです。
なるほどね。
でも普段ね、目視ではできない世界がその顕微鏡を覗くと、
みじんこ見ただけで私感動しましたけどね。
みじんことかもなんかびっくりしますよね。
なんだこのモンスターみたいなの見てるっていう。
ピヨピヨピヨピヨ、なんかね、口のところでね、やってますよね。
1874年ですね、江次七年ですね。
熊本医学校で学んでいく中で21歳になります。
この年ですね、日本で大きな出来事としてはですね、
民選議員設立憲法書っていうのを板垣大輔とか、
後藤昌次郎らが提出するというような形で、
国会議員を国民の投票によって決めろよというような、
そういう意見書が出たような年になります。
で、熊本医学校でですね、21歳になった時ですね、
マウスフェルト先生に呼び出されまして、
私が教えたのはですね、医学の入り口だよと、
このまま熊本に残って医者を始めるよりも、
東大医学部にさらに学びに行くのがいいんじゃないかと。
そしてその後、できればヨーロッパに留学するといいと思うよ、
というふうに言ってくれたそうです。
熊本医学校を出る時にですね、
マウスフェルトがちょうどもう3年の契約が終わって、
どっかに移るっていうような、そういう時期だったそうなんですけれども、
北里に言ってくれました。
医学の使命は病気から生命を守り、予防することにあるんだよ。
27:04
すごい、予防というところに着目してる。
この当時からちゃんと予防ということを言ってたんだなと思って、
病気の人を治すということだけではないんだと。
7年ぶりに実家に帰ります。
で、両親に相談します。
東京医学校ですね、後の東大医学部になりますけれども、
そこに行きたいというふうに言います。
両親は答えます。
仕送りはしてやれないと。
なぜ貧乏だったんですね。
あんまり金を出してやれんと。
学費と生活費を自分で訓練するなら、
ぜひ行ってこいということで、
東京に行かせてくれるということになります。
ただ、何もやれないけれども、送り出してくれたというような感じですね。
9月にですね、東京に着いて、
同居の先輩、山田武志の家でお世話になることになります。
とりあえず東京に出てきましたよというところで、
今回は終わりにしたいと思います。
年齢的には、今の大学卒業の年齢と同じぐらいと思っていいのかな?
大学卒業、18歳から6年間だから、
24歳ですかね、医学部の場合だと。
順調にいけば。
そうですね。この年間ではそのぐらいの年ってことかな。
それよりは若い感じですかね。
そんな感じがしますね。
だからこれで医者になっちゃったら、確かにいかんよなという気はします。
まだ若いが。
そうか、熊本医学校で学んだのは21歳ですかね。
そうですね、21歳です。
じゃあ高校ぐらいの勢いで医学を学び始めてってことですよね。
そうですね。
医学校に、ただ熊本医学校にいたのは3年くらいかな。
3年くらい。
えーと、何年いたのだろう。
明治4年から。
しっかり時間を書いとけばよかった。
大丈夫です。
たぶん3年くらいいたんじゃないかなと思う。
そうですね、たぶん今みたいに4年とか6年じゃないんちゃそうですもんね。
そうですね、なんかね、この辺ちょっと面白いというか、
僕も調べてて疑問だったんですけど、
1月に入って3月に卒業するってわけではないんですよね。
ちゃんとしたそういう学校制度というわけでもなさそうですもんね。
そうですね、そういうのがまだカチッと固まってない時期だったんだろうなと思いますね。
この後でも入学とか卒業とかが全然違う月でですね、
30:05
よくわかんないなと思ったんですけど、
その辺りは第2回の方に、以降でまたいろいろ出てきます。
ここまでで北里さんが、言ったらいい先生にめぐりあえてっていう、マースフェルトさん。
そうですね、マースフェルト先生の下で学ぶことができて、
医学を志すということになります。
はい、そこもここまででありがとうございます。
また次回、ここからまた大学、東京の方に出てから話がスタートして。
そうですね、後東大医学部に入ってというところからお話をしていきたいと思います。
はい、ありがとうございます。お聞きいただいた方もありがとうございます。
次回もぜひお聞きください。ありがとうございます。
31:07

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