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おはようございます。最近、配信した中にあったように、仏教、家が仏教の人が手伝いに来たってあったんですよ。
で、そういう宗教って話を突き詰めた時に、
一つ、これさえあれば完璧だと思ったのがあるんですよ。
その一つが何かというと、覚悟、というか、もう自分を信じ切ること。
これに尽きるんだなと。なぜなら、宗教ってあるじゃないですか。
いろんな宗教、キリスト教、ユダヤ教、その自分自身が入っているコミュニティの師匠とか、
そういう人たちを信じるって、もうそれは一種の宗教なんですよね。
究極、会社、自分なら自分の会社なども一つの宗教みたいなもんなんですよ。
その農園の考え方、作り方があって、それがもうバッチリって思っているのが一番トップがいて、
そのトップのやり方に共感、参考した人たちが一緒に動く、モントセンみたいな。
で、何かしら宗教の、キリスト教、イエス・キリストの考え方を信じた人、
お釈迦様の考えを、教えを信じた人は、それを徹底的に信じ抜くことによって、
みんなに広げたくなるんですよね。この宗教絶対いいよと。
で、いいよと言いながら、それはある意味一つの逃げ道でもあるんですよね。
まあ、心の寄り所というのを言いましょうかね。なんか逃げ道というとマイナスみたいな。
この話自体が、突き詰めていくと、一番グサッと心にいたって思うようなのは、
やっぱり逃げるという言い方なんですよね。
結局、そのお釈迦様なら、お釈迦様の考え通りに行くから、
本当に幸せだ、調子いい、って思いつつ、言い聞かせつつ、何か嫌なこと、
間が悪いこと、自分に都合が悪いことが起こった時には、
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お釈迦様の考えのせいで、みたいな、なるわけです。
結局、それは、自分自身への逃げ道のために、せいにするわけですよね。
仏教がいいなって思う時には、本来なら、その人個人個人が、
自分の中に、本当の答えを持っているわけです。
で、その自分の答えと照らし合わせた時に、
その仏教の経典とかですね、それぞれキリスト教の聖典、分厚い本とか、
いろんなそういう本とか聖書を見た時とかに、自分の心の中のものと共鳴した時、
あ、これこれ、そう、自分が思ってたのこれだと、それをずっとバラバラめくっていくと、
全部自分の思っていることが書いてある。
でもこれを全部、一個一個人に説明すると、めんどくさいしなぁとか、
なんか、変に思われるなぁと思ったりして、そういう自分の都合が悪いところをはしょって、
この聖典いいよ、聖書いいよ、みたいな、押し付けるというか。
で、何か都合が悪かった時は、その中に書いているのを全部忘れて、
聖書のせいだ、みたいな、キリストのせいだ、みたいな、
お釈迦様のせいだ、誰々のせいだ、みたいな。
で、人になすりつけて、終わり、みたいな。
まあ、何かコミュニティのトップの人を信じていたなら、
師匠を信じていたなら、あの師匠の考えはあれだったけど、やっぱりダメだったな、みたいな。
そういう風に、人の、なんだろうな、自分の信じた道を、
いいと心の底から信じていたら、本当にいいはずなんだけど、
もう最後の最後で、何というか、信じきれなかった時に裏切るんですよね。
なので、結局そこは、覚悟が足りてないんですよね。
だからそこに、自分自身を最後まで徹底的に信じ切るという覚悟を持ってしまえば、
まあ、幸せだろうな。
最終的には、自分自身の幸せの、そのバイブル、聖典みたいな、聖書みたいなものは、
その心の拠り所になっている場所にあるわけなんで、
もうそこを徹底的に、もう骨を埋める覚悟で信じる、みたいにすると、
いや、本当に最高の幸せにたどり着けるんじゃないかなと。
これまた運転しながら、思ったのを喋っちゃったんで、
自分の最初のお題どうだったかなと、ちょっと今なっているところなんですけど、
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とりあえず、覚悟があればなんとかなるってやつですね。
ということで、これまた、
今日も無事、運転、あとちょっとでゴールしそうなのに、着きます。
それでは、今日も皆さん楽しんでいきましょう。
それでは、またねー。
ありがとうございます。