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こんにちは、おあです。
今日はですね、先日、代々木の東京別院で行われた、
ジュリーさんとなおさんプレゼンツ、横山僧侶の仏教基礎講座というのに参加してきまして、
これがね、もう一週間も経っちゃったんですけど、素晴らしかったので、ぜひシェアしたいと思ってお話ししていきたいと思います。
この界隈ではね、もうご存知、ジュリーさんとなおさんが山梨県の南アルプスの横山僧侶の東京別院を代々木に構えられて、
そちらで今定期的に月に1回とかね、イベントを開催されてるんですね。
私はですね、今年の3月にその東京別院を開所するという記念のね、集まりの時に参加させていただいたのと、
あと8月にですね、原愛美さんの個展とセットにして横山僧侶の書き合いをいただくという、
加工放送にしておりますので、ぜひお聞きいただきたいんですけれども、それと今回3回目ということで、
今回初めてですね、私にとってはもう仏教基礎講座ということで、横山僧侶の本領発揮というかね、
ちゃんとした法案をじっくり受けるということで、とても楽しみに行ったんですよ。
これがですね、ものすごく盛り上がったんですよ。
そのあたりのお話、ボイシーの方でも横山僧侶がされてますんで、リンク貼っておくんで、
ぜひどうだったかという話をね、聞いていただきたいんですけれども、
このね、横山僧侶の法案のあの時間、あれはね、真のリカレント教育ですよ。
やっぱりね、仏教ってね、哲学なんですよね。
私、やっぱり哲学が好きですからね。
もうまさにあれはね、もう本当にゼミだなと思いました。
大昔の祖クレですもんね。
問答式、弟子と一緒に歩きながら、問答しながら、哲学を深めていったと言われてるじゃないですか。
もうね、まさにそういう場だったんですよね。
いろいろね、横山僧侶がお話ししてくださったことに対して、
みんながね、それぞれ、これはどう考えればいいんですか?とか、
これについてどう思われますか?みたいな、
本当に師匠と対話しながら、みんなで深めていくプロセスっていうかね、
これぞ、まさに学びと成長そのものだと思いましたね。
いや、なかなかあんな深い議論をですね、率直に活発にできる場所って、
なかなかないんじゃないでしょうか。
ボイシーとかね、こちらのスタイフでも横山僧侶もね、いろんなお話をしてくださってて、
リスナーの私たちは、聞いてふむふむと思うんですけど、
やっぱりね、うんっていろいろ疑問に思ったり、これはどう考えたらいいのかな?とか、
もっと突っ込んで聞いてみたいこと、いろいろあるはずなんですよ。
なんですけど、そのね、放送界のコメント欄にね、長々それを書いてたら、
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もう本当にヤバい人じゃないですか。
あと、なかなかね、コメント欄って限られた文字数ですからね。
スパッと500文字に収めてね、書き切れないことばかりなんですね。
以前ね、横山僧侶に、このことを私も仏教的観点から教えていただきたいなというのがあって、
それをコメントしたところにね、わざわざメールアドレスを教えてくださったことがあったんですよ。
もうめちゃめちゃ恐縮しちゃって、
でもね、せっかくご丁寧にメールアドレスまで公開してくださったんだから、
メールしようと思ったんですね。
なんですけど、いざね、やっぱり文章にしようとするとなんか難しい。
だって、そもそもなぜそれを聞きたいのかっていう自分の背景とか、もともとの経験みたいなのを、
そっから書かないと伝わらないなと思っちゃうと、
めっちゃ長い、熱い自分語で弟と書き連ねることになっちゃうんですよ。
ね、そんなメール、大した会ったこともない私がね、送ったら、
うわっ、きもっ、うざっ、なにこのわぁ、みたいな感じで完全に惹かれるやつだなと。
まあね、別に人生相談っていうことでもないんですよ。
ただ、純粋にこういう物事について仏教はどう捉えているのかみたいな考え方をやっぱり知りたいっていうところで、
そういうやりとりをね、文章でやるっていうのが難しいなってことでちょっと諦めちゃったことがありまして、
でもそういうこともね、あの仏教講座という場では直接全部タイムリーに聞けるわけじゃないですか。
今回全部で8人ぐらいだったと思うんですけども、
ちょうどいいというか、あれ以上いると逆にね、なかなか議論も深まりにくくて広まっちゃうばっかりで、
ものすごく貴重で贅沢な場だなと思いましたね。
あの横山ゼミはね、皆さんね、行ける方は行った方がいいと思います。
定期開催していただいてですね、もうね、こういうオンラインで何でも済ませられる時代だからこそ求められている場だと思います。
ものすごい価値あると思いますよ。
もう本当に現代版の寺小屋ですね。大人のための寺小屋。
飲み会より茶会って、もう本当ですね。
帰りにね、私も言っちゃいましたけど、もう今更だけど、どうしてこれ全部録音しておかなかったんですかって。
もうボイシーの有料放送としてね、売らなきゃダメですよって言ってね。
やっぱり私たちみたいに都内に住んでたりして気軽に東京別院に行ける人ばっかりじゃないじゃないですか。
ボイシーリスナーというのは全国にいるわけで。
こういう横山僧侶の話を聞きたい人、求めてる人って全国にいるわけですよ。
もうこういうね、本当に濃い時間をね、やっぱりあそこに集まったたった8人の中だけでね、納めておくのは本当にもったいないなって。
もう私もね、毎回はね、この仏教講座参加できないんでね。
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参加できなかった回の内容もやっぱり聞きたいわけですからね。
今後はぜひよろしくお願いしますということ。
せっかくなので、あの日にあの場でどういう話が繰り広げられたのかということに関して少しシェアしたいなと思うんですね。
まずね、ブッダのね、生まれのお話からしてくださったんですよ。
私ももちろんね、なんとなくは知ってる話だったんですけど、やっぱり横山僧侶の言葉で物語として語られるとまただいぶ印象が違っててね、すごく良かったですね。
ね、あの皆さんご存知、ブッダはもともと釈迦族の王子様だったわけじゃないですか。
ブッダがね、生まれた時に占い師にこの子はね、将来出家僧になるか理想の大王になるかっていう、どちらかだみたいな言われたそうなんですね。
で、お父様としてはやっぱり自分の後継ぎとしてね、立派な王になってほしいと思うわけなので、出家なんかしないようにということで、贅沢な生活を与えていたっていうことなんですよね。
でもなんかこう満たされないものがあったんでしょうね。
で、東の扉でしたっけ、門でしたっけから出たら、そこに老人がいたと。老いる来るっていうのを知ったと。
で、次にまた南の門を出たら、そこには病人がいたと。で、病むという苦しみ。
で、西の門を出るとそこには死人がいて、死ぬ苦しみというのを知って。
で、最後、北の門を出た時に出家したというね。
で、やっぱりね、お父さん止めるでしょって。もう何が何で出家なんかさせないんじゃないって思って帰ってからね、ちょっと調べたら、やっぱりお父さんはね、もう何とかね、踏み留めるようにってしたみたいなんですよね。
でも、止めなかったというよりも止められなかったと。本人の意思があまりにも強く固くということだったみたいなんですよね。
で、私ね、さらにね、じゃあその後釈迦族どうなったのかなって気になって、これも調べたところ、やっぱりね、他の親族も次々出家しちゃったそうで。
で、釈迦族自体はもともと小さな部族だったので、後に隣国の甲沙羅国に征服されて滅びたということで、その一族は滅亡して国家としては続かなかったということなんですね。
これぞ諸行無常ってやつですね。
で、この仏教の人間観の基礎にあるのが、その苦しみっていうのは思い通りにならないこと、人間に普遍的に避けられない苦しみのことで、その生老病死っていうお話で、
仏教っていうのは人生は思い通りにならないという苦しみから始まるということで。
で、その苦しみの原因は何かというと、やっぱり欲望とか執着があるからだっていうことなんですよね。
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だからこそその苦しみ、欲望とか執着からの解放、悟りっていうのを目指さなければいけないということだそうなんですよ。
で、私ここで質問させていただいて、最初から夢なんか見るから現実と理想のギャップに苦しんでるんですよねっていうこと。
最初から夢なんか見ないで諦めてしまうっていうことはどうなんですかってお伺いしたところ、そこには戒律っていうものがあって、幻覚に罰せられるんだと。
人を殺すとかね、そういうことは厳しくルールで禁止されているみたいなね。
そうなんですけど、私やっぱりもう一個聞きたかったのは、人を殺すって確かにそれは明らかにダメですよ、社会に迷惑をかけるとか。
でも例えば森の奥深くでこっそり自分で自分の命を断つっていうね、もう生きてる方が辛いとか苦しいっていう人が誰にも迷惑をかけないようにって言って、
自分で自分の命を断つってことについては、仏教としてはどう捉えるのか考えたらっていらっしゃるのかってことも、ちょっとね、またどこかでお聞きしたいなと思ってます。
次に仏教には様々な宗派があるんだけれども、全ての宗派に共通するというか、仏教の根本的な教えの基礎になっているものに三法因っていうのがあるそうなんですね。
これが一つが諸行無常、全ての現象は移り変わり、永遠に同じものはないということ。
二つ目が諸法無我、全ての存在には固定的な自我、我が、我、みたいなのはなくて、自分というのはなくて、全て因果関係によって因縁によって成り立っていると。
三つ目が涅槃寂生、煩悩が召した境地は究極の安らぎである。
ここでもね、私質問させていただいたんですけど、そうするとね、西洋文化で当たり前に前提にしている事故っていうものがあるじゃないですか。
よくアイデンティティの確立とか、自己実現とかいうことについては、仏教ではどう捉えているのかということをお伺いしたところ、たくさんの網目のように重なり合った一部に仮に立ち現れてくるのが自分だというふうに仏教では捉えていて。
これちょっと難しかったんですけどね、全て関係性変化し続ける関係性の中に立ち現れてくるもの。
この辺もちょっとね、私ね、ちょっと理解しきれなかったんですよね。
平野圭一さんの言う文人主義ってあるじゃないですか。ああいうのとはまた違うのかとかね。
あと、一緒に参加されていたこと。そうするとね、朝礼母会でいいってこと?とかね、一貫性はなくていいってこと?みたいな話とか。
あとね、ここからちょっと私もね、よく自分の人生は自分のもの。だから好きに生きたらいいみたいなこと言うじゃないですか。
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でもそうすると、仏教からすると自分というものなんてそもそもないって言ってるわけですから、人生も自分のものではないっていうことなのかと。
自分の身も心もね、別に所有しているわけではないって意味なんだとしたら、自分の人生も自分のものじゃないんだとしたら、好きに生きていいっていうことでもないとかのかなとかね。
その辺もちょっとね、ちょっとうまく私もどう聞いたらいいのかわからない。ちょっと機会があったらその辺もね、問答させていただきたいなと思ってるところなんですよね。
あと今回ね、参加者の方の中に遠藤拓也さんというですね。
みんなに喜ばれるお寺33実践宗これからの寺院コンセプトという書籍を出版されていて、こちらにはね、横浜僧侶も掲載されているということなんですけど。
この方ね、とても面白い活動されている方みたいで、1980年生まれということでね、IT企業で働いてたらしいんですけれども。
お友達が出家されたというご縁で、神谷町にある光明寺でお寺の音楽会たそがれっていうのを主催するようになって、地域に根差したお寺の場作り。
そこに可能性を感じて2012年から未来の住職塾っていうのを始めていらっしゃるそうなんですね。
ポッドキャストの方でテンプルモーニングレディオという番組を配信されていて、こちらもちょっと聞かせていただきました。横浜僧侶も出演されていました。
この遠藤さんという方がですね、また鋭い質問をされていて、空という概念について教えてくださいと言ったところで、よく言えばそれが正直に空は自分でもまだ難しいと。
でね、ないというのとも違うということなんですよね。
そういえば以前ですね、コテンラジオで一生懸命深井さんがね、この空という概念について一生懸命解説していらっしゃった回があったんですけど、私も聞いた覚えあるんですけど、ちっぷんかんぷんだったなって脱落しちゃった記憶なんですよ。
でね、ちょっとAIに聞いてみたんですよ。私も帰ってから気になったんでね。空とは何かと聞いたところ、空とは全ての存在に固定的、独立した実態はないという真理を示しますと。
全てのものは原因と条件の集まりによって成り立ち、一瞬ごとに変化する。だからこれは絶対に普遍のものだと執着する対象は本質的には存在しない。
例えば木は木という固有の実態があるように見えるけれども、土や水や光や空気、時間など無数の条件が集まって成り立っている。その条件が崩れれば木は枯れ、やがて土に変える。つまり木は空であると。
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ああ、なんかわかんない。無との違いというのを聞いてみたんですね。そしたら無は存在しないことを意味させますと。でもその空はですね、無とは違い、存在がないと言っているのではなくて、存在の在り方、実体性が空っぽだと言っているのですって返事が返ってきたんですね、AIからね。
無は存在そのものがないという否定ですと。空というのは存在に固定的な実態はないという洞察ですと。空は仏教思想の核心であり、諸法無が縁起と深く結びついている概念ですと。
この辺はやっぱりちょっと難しいですね。説明、こういうこともですね、東京別院でまたおいおい横山総理にしっかりと説法していただければと思います。
あとね、もう一つ私質問させていただいたのが、キリスト教はカトリックとプロテスタントぐらいしかないのに、どうして仏教にはこんなにたくさんの宗派が分かれているんですかって。
おそらく宗教というよりも哲学なんだろうなっていう話でね、捉え方なんじゃないかっていうことだったんですけど、この辺りもちょっと家帰ってAIに聞いてみたところ、キリスト教っていうのは神が唯一の絶対的な存在なわけですよね。
教義というのも聖書というもので明確にまとまっていると。つまり神様がたった一人で、中央宗教的な教会のあり方っていうので、ほとんどそんなに細かい分派がないんじゃないかっていうことでね。
対して仏教っていうのは悟りの道はそれぞれでいいと。仏教というのは神様を信じるとかっていうよりもどちらかというと悟りの方法、修行とか実践が中心で、その解釈の仕方も柔軟で、いろんな修行スタイルが許容されて。
悟る方法は人それぞれだからどれでもいいよみたいな、そういうことなんじゃないかというような返事が返ってきましたね。
他にも大乗仏教と小乗仏教の話とかね、ちょっといろいろ質問させていただいたところもあったんですけど、本当にいろんな、もう普段から疑問に思っていたことを直接ぶつけることができてお答えいただいて、さらに他の方がそれにまた別の質問をされたりして、一緒に深めていくっていうような場がとても私にとっては楽しくて、
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大変刺激的でしたね。
でね、もう一つね、なんとあの直さんのお手前も今回いただくことができまして、もうね、直さんがお茶を立てていらっしゃるそのお姿が大変高貴でですね、まるで千里級ですよ。
茶の湯をね、単なるお茶を飲む行為から精神修養の場に昇格させた千里級ですよ。
直さんがお茶を立てているね、その部屋の一角だけね、なんかすーっとこう静謐な空気に包まれていて、心が浄化されるような感覚があって、もうね、こうやって何かに全集中されている方の姿って尊いですよね。
本当にかっこいい。
これはやっぱりね、世界に誇れる日本の心ですよね。
日本はもうね、かつてのようにものづくりのね、国に戻れないんだとしたらもうやっぱり、あとは文化ですよ。
アニメと漫画とお茶、もうこれにね、もう全力投球してこれに特化してね、生きていったらいいんじゃないかなってこの国は。
でも学校もね、こんなAI時代にね、勉強とかいうクソどうでもいいことを毎日5時間も6時間も子どもたちにやらせてないでね、茶道こそ教えるべきだと思いますよ。
ね、子どもたちはもう学校で茶道だけ教えて、あとはもう外で思いっきり遊ばせとけばいいんですよ、自由に。
ね、もう政治家の方々もね、子どもに道徳の授業でね、愛国心とか植え付けようなんてね、そんな暇あったら横山総理のこの法話を聞かせればいいんです。
なおちゃんのお茶、お抹茶を飲ませて、原あいみせんの絵を見せて、で日本の心を全身でね、横山総理の法話で体感させるべきなんですよ。
もう何にも文化省はね、何にも物事の本質がわかってません。
やっぱりあの東京別院ではね、本物の寺小屋がひっくり広げられてるわけですから、大人向けのみならずね、ゆくゆくはやっぱり子ども向けにも日本の和の心を説く場として開いていっていただきたいなと。
で私はですね、次ですね、来年1月に開催されるという、あの百日あら行のね、修行僧のところに行ってご祈祷を受けるというイベント。
もうこれはもう1年越しの私のね、もうずっとぜひ体験したいと思っていたものなので。
参加権利をゲットしたいと思ってるんですけどね。
もうこれこそね、大変な騒ぎですから。
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もう全国からね、殺到しますからね。
やっぱりどうやって選抜するかですよね。
たった8枠しかないところにですね、もう800人、8000人ってね、応募が来ちゃうことがもう想定されるわけですから。
もうそしたらですね、私はもうやっぱりここはね、公平を期してね、和ビサビンゴ、これでね、上がった順ということにしていただきたいんですよ。
そうじゃないと私ちょっとね、あの落とされた時にもう納得できませんのでね。
というわけでね、ちょっともうまた阿鼻強悍なねチケット捜索戦が予想される展開ですので。
その辺ね、もうなおさんとジュリーさんと横山総理にはよくよく準備万端に、はいビンゴを用意していただいて、公平を期していただきたいなと思っております。
というわけでちょっとね、1週間も経ってしまっているんですが、はいあのジュリーさんとなおさんと横山総理はいつも素晴らしい企画をしていただきましてありがとうございました。
これからも楽しみにしております。
ありがとうございました。失礼いたします。