トイレの水をめぐる小さな出来事が、千人の僧侶を巻き込む大争いへ。釈尊は「死を自覚する者は争わない」と説きました。私たちが無益な対立を生む本当の原因を、仏教の物語から読み解きます。
【目次】
コーサンビーの僧侶たちの争い
ダンマパダ第6偈
【出典】
ダンマパダ・アッタカター
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【大忍貫道プロフィール】
1987年福岡県生まれ。花園大学文学部卒業。臨済宗妙心寺派僧侶。
尾張妙興寺僧堂にて修行。
2011年より九州地方の臨済宗妙心寺派寺院にて住職を務める。
SNSでも仏教の情報発信を行い、Instagram フォロワーは4万人を超え、Podcastフォロワーは3千人を超える。
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サマリー
古代インドのコーサンビーで、トイレの水をめぐる些細な出来事がきっかけで、千人の僧侶が二派に分かれて激しく対立しました。この争いは仏陀の仲裁も聞き入れられず、信者たちの支援停止という事態にまで発展しました。最終的に、仏陀は「死を自覚する者は争わない」と説き、命の儚さを自覚することこそが争いを鎮める道であると教え諭しました。この物語は、私たちが無益な対立に陥る原因と、それを乗り越えるための深い洞察を与えてくれます。
コーサンビーの僧侶たちの争い
友人や家族、職場の人と、気まずくなった経験ってありませんか?
振り返ってみると、「そんなことで?」って思うような、 些細なことが原因だったりしますよね。
でも、その真ったた中にいる時には、本人たちは本気ですから、 相手が悪いと思い込んで、引くに引きなくなってしまう。
実は、古代インドの仏教相談でも、千人ものお坊さんたちが、 二手に分かれて争ったことがありました。
そのきっかけは、なんと、トイレを流す水なんです。 そんなことで?って思いますよね。
でも、当事者たちにとっては、決して 些細な問題ではなかったんですね。
今回は、トイレを流す水をめぐって起こった、 仏教内の争いと、それを見たブッダが何を語られたのか、これをお話ししたいと思います。
今回の物語の主人公は、 コウサンビーのお坊さんたちになります。
コウサンビーというのは、ブッダの時代に栄えた、 古代インドの大都市の一つです。
インド北部にありまして、ブッダも頻繁に訪れた、 馴染み深い地域になります。
ある時、コウサンビーのゴーシャ僧院というお寺に、 二人のお坊さんが住んでおりまして、 彼らにはそれぞれ500人の弟子がいました。
お坊さんの修行、勤めというのは多岐に渡るんですけれども、 全てを一人で担うことはできないですね。
だから、基本的に分業制になっています。
古代インドにおいては、お経を覚える専門の人、 戒律を覚える専門の人、
瞑想修行の専門家、お説法の専門家と、 こういうふうに分業するというのが状態化していました。
この時、ゴーシャ僧院にいた二人のうち、 一人は戒律の専門家で、もう一人はお説法の専門家でした。
この戒律の専門家は自律師というふうに呼びます。 お説法の専門家は説法師と呼ばれますので、ここからはそのように呼んでいきたいと思います。
この自律師と説法師の間に、トイレの使用をめぐってトラブレが起きた。
古代インドは当然なんですけれども、 現代の日本のような水洗トイレはありませんので、
トイレを使用する際には、使用する本人が、 自分で何らかの容器に水を入れて持っていきまして、
使用後にその水を流す。 これが仏教組織の規則に定められているんです。
ある日、説法師がトイレをする際に、 水を瓶に入れて持ち込んだんですけれども、使い切らなかったんですね。
その使い切らなかったものを、そのままトイレに放置をして出てきました。
この行為が相談の規則に定食をします。
説法師はそれを自律師に指摘されるんですね。
説法師は自分の行いが、この規則に定食するということを知らなかったので、
それは知りませんでした、すいませんでしたね、 ということで素直に詫びようとするんですけれども、
自律師の方から知らなかったのであれば、それは罪にはなりませんと言われます。
これは仏教の特徴の一つになるんですけど、 仏教は意思というのを重視するんですね。
悪いことをしてやろうと思って行動したり、 あとダメとわかっててやることは、これ罪になるんですけれども、
過失であったり知らなかったことというのは罪に問われないんです。
だから今回の場合も説法師は知らなかったので、 罪にはならないんですね。
ただこれを受けて、自律師は自分の弟子たちに、
説法師はこういうことをやったけども、 自分が罪を犯したことを気づいてなかったと、
こういうふうに話すんですね。
師匠のこの言葉を聞いた弟子たちは、 説法師の弟子たちを見ると、
お前たちの師匠は罪を犯したのに、 それが罪であることも知らないと、
こうやって非難をします。
これ私の想像なんですけど、日頃から両者は仲良くなかったんだろうと思うんですね。
自律師っていうのは、うちにこもってお寺の内部で研究してる人たちなんですけども、
あまり日の目を見ない勤めになると思うんです。
一方、説法師っていうのは、表に出る華やかな勤めなんですね。
当然こちらの方が一般の人々からも人気が出ますし、
企業で言うと彼らは広報兼営業みたいな。
だから実際のこの相談の運営費、これはお伏せという形で皆さんからいただくんですけれども、
このお伏せっていうのも、お説法している彼らの力に負うところが大きいわけですね。
企業でもどうしても総務よりも営業の方が、
社内での力が強くなるってことを聞きますけれども、
おそらくそれに似た構図になってたんですね。
だから説法師からすると、俺たちのおかげで自立志、
あなたたちは研究ができてるんでしょうって、こういう思いがあってもおかしくないですね。
その一方、自立志の方もやっぱり言い分があって、
お伏せっていうのは、人々のお坊さんたちへの敬意によってなされるもの。
その敬意を担保するのは、お坊さんたちの折り目正しい生活なんだと。
その生活をちゃんとやっていくためにも、
戒律というものを研究して周知していくっていうのが大事になってくるんだと。
こういう言い分がある。
だから自分たちが教団運営の根幹を支えているっていう、
縁の使者の力持ちみたいな、そういう自負があったと思うんですね。
でも普段はこの自立志は脚光を浴びることがないんですよ。
そういう鬱憤がここでちょっと発散されたようにも見えるんですね。
師匠を非難された説法師の弟子たちは、それを自分たちの師匠に告げます。
すると説法師は、いやいやちょっと待ってよと。
自立志はあの時は知らなかったら罪じゃないって言ったじゃないかと。
なんで後になって罪だって言うんだと。
彼は嘘つきだと。こう言って腹を立てるんですね。
説法師の弟子たちは自立志の弟子たちに、お前たちの師匠は嘘つきだと。
こういう非難を始める。
そこから両者の溝はもうどんどんどんどん広がって、
やがて修復できないほどになってしまう。
互いに急断し合って、やゆし合うような、そういう状態に陥ってしまうんです。
そのような状態に彼らを支援してた仏教信者の人々は戸惑いを隠せません。
降参日のこのようなお坊さんたちの様子は、やがて仏陀の耳にも入りまして、
仏陀は二度にわたって使いを送って、両者に争いをやめるように働きかけるんですけれども、
一向に自体は改善しない。
そのためとうとう仏陀自ら、降参日を訪れて、両者の間を取り持つために、論争はやめなさいと、無益ですよと、
互いに慈しみのある心、言葉、行動で接し合いなさいと、
こういうふうに働きかけるんですけれども、それでも諌かいは収拾しなかったんです。
その様子を見た一人のお坊さんが、これはもう仏陀に気の毒だと、
仏陀はもうこの件に関わるのはやめくださいと、私が何とかしますからと申し出ます。
仏陀はこの言葉を受け入れまして、降参日のお坊さんたちを見放すような形になって、
一人で林の中で過ごされます。
降参日の仏教信者の人々は、せっかく仏陀が来たので、お目にかかりたいと思うんですけど、
お寺に行っても仏陀の姿が見えないんですね。
お坊さんたちに尋ねると、自分たちが再三の仏陀の説得も聞かずに対立を続けたので、
それで仏陀がもう嫌になって、この場所を去ってしまったんですと、こういうことを知るんです。
ことの経緯を知った信者たちは、いやいやちょっと待ってって、
降参日のお坊さんたちは仏陀のもとで出家したんでしょって。
それにもかかわらず、その仏陀の言うことを聞かなかったのかと。
そのせいで私たちは、仏陀にお目にかかる機会を逸してしまったじゃないかと。
もう我々は降参日のお坊さんたちに食事も提供しないし、
敬うこともやめようと、こう決意するんですね。
お坊さんたちにとって、信者の方々からのお伏せ、食事の提供というものが唯一の食事の源ですから、
それが絶たれてしまうと食事がないんですから困窮するわけですね。
もう困り果てまして、3日後に自分たちが悪かったと信者の人々に謝罪をします。
謝罪された信者の人々は、いやいや、我々だけじゃなくて、
仏陀にもあなたたちは謝らないといけませんよねと。
ちゃんと謝ったら元通りに支援をしましょうと。
そう言われて降参日のお坊さんたちは、仏陀が滞在していたサーバッティの祇園精舎を訪れます。
この時サーバッティを治めていたのが、高サラ国王のパセーナ・ディオンになるんですけれども、
彼は大変な仏教信者でして、仏陀の仲裁を無下にした降参日のお坊さんたちに腹を立ててたんですね。
だから彼らがサーバッティの都に入るのを阻止しようとします。
でも仏陀はこの点は寛大でしてね、いやいや謝罪に来たんだからと、
もう受け入れてあげたいから入れてあげてってお願いをしまして、降参日のお坊さんたちはサーバッティに入ることを許可されます。
でもこれでまだ謝罪には行き届きませんで、
次はこの擬音精舎ですね、この擬音精舎はアナータ・ピンディカという長者が混流したものになるんですけれども、
このアナータ・ピンディカ長者が自分の立てた擬音精舎にそういうお坊さんが足を踏み入れるのはふさわしくないことだと言って反対をするんですね。
そんな中に擬音精舎の前に降参日のお坊さんたちがやってきまして、
それを見たアナータ・ピンディカ長者は居酒屋をやめない降参日のお坊さんたちはどれですかと、
こういうふうにわざと言うわけです。
訪ねられたブッダはこの人たちですって言って彼らを指差す。
するとそんな降参日のお坊さんたちを擬音精舎のお坊さんたちが軽蔑した眼差しで眺めるんですね。
もう降参日のお坊さんたちたまらないわけです。恥ずかしいやら情けないやら、
頭を上げることができませんで、ブッダの足元に身を伏して謝罪をします。
仏陀の教え:死を自覚することの重要性
この謝罪を受け入れたブッダは次の詩を唱えられました。
我らはここにあって死ぬはずのものであると覚悟をしよう。
この理を他の人々は知らない。しかしこの理を知る人々がいれば争いは静まる。
明日命が尽きるとわかってたらどういうふうに過ごしたいですか。
家族と穏やかな時間を過ごしたいですか。それとも気の合う仲間と楽しく語り合いたいでしょうか。
人それぞれ過ごし方あると思うんですけれども、少なくとも殺伐とした気持ちで最後の一日を終えたいとは思わないですよね。
私たちはいつでもどこでも命が尽きる可能性があります。けれども普段その事実忘れてますね。
だからこそ些細なことで争って衝突をしてしまう。
私たちは生存バイアスによって自分の命が揺るぎないものだと錯覚しがちです。しかし実際そうではありません。
私たちの命はまるで白標の上にあるようなものです。ふとした表紙にその氷が割れて命は尽きてしまう。
その事実を深く自覚するのであれば、目の前の争いの多くはきっと色褪せて見えるんです。争う価値があるものには思えないはずです。
ブッダはそのように死を見つめることが争いを沈める道であると説かれたんですね。
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