心をかき乱すものへの対応
かんどう和尚のはじめての仏教。この番組は、仏教初心者の方に向けて、インスタグラムのフォロワー3万人超えの総量、私、かんどう和尚が、メタ的な視点から仏教を解説するプログラムとなっております。
皆さん、こんにちは。あなたは、自分の心をかき乱すものに対して、どのように対応されていますか?
現代であれば、SNSとかメディアからの過剰な情報であったり、心をかき乱すものってたくさんありますよね。
でも、そういうものに対してどのような対応をしていくのか、これは私たちの人生においては重要なテーマになります。
これに対してブッダは、実はもう2500年前に答えを出されているんです。今回はそのことにも触れていきたいと思います。
前回は、ブッダが供養の意味を肝骨脱体して解かれる箇所をお話ししました。
私たちの生き方が供養になっていくんだという考え方、これは従来の供養観からすると斬新なものだったんじゃないかなと思います。
また、4つの聖地についてもお話しされていましたけれども、実は先般、聖地の一つに数えられるブッダが悟りに至られた場所、
ブッダガヤにゆかりの深いお坊さんをゲストにお招きして収録をしてきました。
ブッダガヤを訪れる仏教との話であったりとか、なかなか日本にいると聞けない海外の仏教との話を聞くことができましたので、
世界が広がるような、すごく学びの多い回になりましたので、皆さんにもお楽しみいただけるんじゃないかなと思います。
さて、今回はアーナンド尊者が前回に引き続き、ブッダ亡き後の仏教を見据えて、さまざまな質問を投げかけていきます。
アーナンド尊者は、さっそくブッダに次のように問います。
女性に対してどのように接すればよろしいでしょうか?
この質問の意味、ちょっと分かりづらいかもしれませんけれども、
ブッダの時代の仏教では、お坊さんというのは異性に触れたりとか、同じ空間で二人でいたりすることが禁じられていたんです。
現代でも南方の仏教国では禁じられています。異性に気持ちが惹かれると修行がおろそかになると考えられたんですね。
そのような背景に基づいて、アーナンド尊者は質問をされています。
するとブッダは、意外な答えをするんですね。
見るなと。
もともこもないですね。
でもアーナンド尊者もいいんですね。これで終われないんです。
そのブッダの答えに、こう問いかけます。
見てしまったらどうしたらいいんですか?
これは、卓発に行った先で、女性を見る時ありますね。
あとお説法の時とかもありますよね。
そういう時を想定しているんですね。
するとブッダは、こう返すんです。
話しかけるなと。
これもいいですね。
でもアーナンド尊者、まだくじけないんです。
話しかけてしまったらどうしたらいいですか?
これは、質問されたりして会話するケースを想定していると、注釈には書いてあります。
ブッダは、それに対して言われるんですね。
相手の年代に応じて、自分のお母さんと同じ年代の人には、自分のお母さんと思って接しなさい。
自分の妹やお姉さんの年代の人には、妹やお姉さんと思って接しなさいと言われる。
こうすれば、横島の思いは出てきませんよということなんですね。
これは、私は思ったのが、異性だけじゃなくて、同性にもやっぱりこういう気持ちで接するといいだろうなと思うんですね。
私も街中とか歩いているときに、自分の母親とか、また亡くなった祖母とか祖父母とかと同じ年代の方とかを見て、ちょっと困っていたりするとですね、
やっぱり自分の母親とか祖父母に重ね合わせるんですね。
それでちょっとお手伝いしたりとかですね、手を差し伸べるということがあるんですけれども、
こういう気持ちで生きていたら、みんな家族と言いますかね、身内と言いますかね、
自分と全く関係のない人では亡くなっていきますよね。
だからこれは、異性に限らずこういう気持ちで生きるというのはすごくいいんじゃないかなと思うんですけれども、
ブッダの教えと遺骨の処置
一応ここで申し上げますけれども、これは当然ですけど、
女性のお坊さんは男性に、このブッダが言われたように同様に接さないとならないんですね。
女性だからそういうふうにしているんじゃないですよ。異性はそういうふうに接しなさいと言っているんですね。
要するに自分の欲求が高まる対象を遠ざけるということを言われているんです。
いざ心が乱れてそれを沈めるということに私たち目を向けがちじゃないですか。
でも欲望が渦巻いている果宙にあって、それをどうにか沈めるって大変ですよね。すごくハードルが高い。
その前にできることがあるのであれば、まずそれをやるべきだということをここで言われるんです。
例えば物欲がすごいとかもそうですね。物欲がすごくて困っているという人は、
街中とか都会に遊びに行かない。あとはテレビを見たら、テレビショッピングとかいろんなCMで商品流れてきますからテレビを見ないとか。
こういうふうに事前に欲望の対象をシャットダウン、遠ざける、遮断していくということが大事なんですね。
これはいろんなことに応用できますので、ぜひ皆さんの生活においても何か欲望に困っていることがあれば、
このやり方を取り入れていただければいいんじゃないかなと思います。
女性に対する質問が一区切りついたアーナの尊者は、続いてかなりナイブな問題をブッダに投げかけます。
それはブッダの遺体をどうすればいいですかということです。
それに対してブッダは次のように答えます。
あなた方お坊さんは私の遺骨の供養には関わらないでください。あなた方は修行に専念しなさい。
遺骨の供養は私の在家信者の皆さんがやります。
これは古来よりいろんな議論があるんです。
ある人はこのブッダの言葉を、これはブッダはお坊さんに葬儀を禁止したんだ、こういうふうに受け取る人もいるんです。
でも素直に読む限り、それはそこまでは言ってないんじゃないかなと思いますね。
実際この後、ブッダの葬儀にはお坊さんが関わっているんですね。
そもそもこれ葬儀については言ってないんですね。
サリーラプージャーという言葉を遺骨の供養というふうに翻訳しているんですけど、
サリーラプージャーはそのまま遺骨の供養という意味なので葬儀じゃないんですね。
あと聖ダレモノッタ書いて生者って言うんですけど、この生者の遺骨に対する信仰というのがインドにもあるんですね。
それを拝むことによって大変なご利益がある、すごく素晴らしい善行、良い行いなんだって考えられたんです。
当然その遺骨を管理する人にも大変なご利益がある。
だからそれは幸せというものを願う、信者の皆さんのご利益を得るチャンスだから、彼らにそれはさせてあげなさいとここでブッダは言われているんです。
お坊さんはあなた方はそういう目的じゃないでしょう。
修行によって悟りに至る、これがあなた方の目的なんだから、そのためにあなた方は修行をしなさいと言っているんです。
こういうふうに思えばスッと理解できるんじゃないかと思います。
続いてアーナンド存者はブッダの遺体の処置について尋ねます。
するとブッダは天竜王と同じように扱いなさいと指示されます。
天竜王って覚えておられますか。これはインドにおける王様の理想像です。
ブッダはお母さんのお腹の中にいるときに将来この子はブッダになるか天竜王になるかどちらかですよと予言されていましたね。
覚えていない方は詳しくは仏教誕生編の第3話をお聞きいただきたいんですけれども、
この天竜王の遺体の処置どういうふうにやるかというと、
これすごく細かいのであんまり言ってもしょうがないのですごく大雑把に言わせてもらうんですけど、
信じられないぐらい厳重に軟重に布でくるんで仮装をするということです。
そして遺骨を埋めてその上に塔を建てると。
この塔のことも前回お話ししたストゥーパっていうんですね。
日本の五十の塔っていうのはこのストゥーパの日本版になるんです。
あともう一つ日本版になっているものがあって外場ですね。
外場っていうのは宝寺とか一周記とか三階記とかがあったら、
お坊さんが木の板に墨掛けで楓を書いてますよね。
仏陀の死と悲しみ
あれが外場ですね。
あれもお墓に建てるってことをやりますけれども、
あの外場もストゥーパっていうものが生まれてああいうふうになったものになってます。
このストゥーパを拝むっていうことは仏陀を拝むに等しいってみなされて大変苦毒があるんですね。
日本の宮台区にもそういう信仰があって、
五十の塔の工事に携わると親子三代にわたって幸せになれるっていう信仰がある。
こういうことを聞いたことがあります。
このような質問が一段落するとちょっと休憩をするんです。
ああなる存在はいよいよ仏陀がお亡くなりになるんだなって実感が強くなっていくんですね。
もうそれで悲しくてたまらなくなってしまって、
私はまだまだ学びなのだが、私を可愛がってくれた仏陀は亡くなってしまわれるとこのように言って扉に持たれて一人で涙を流します。
仏陀はああなる存在の姿が見えないので周囲の人に尋ねますと、
一人でああなる存在は泣いておられますと教えられます。
そこで近くにいたお坊さんに仏陀が呼んでいるとああなる存在に伝えてくれと頼みます。
そうやってやってきたああなる存在に仏陀はこのように語りかけられます。
悲しむことはありません。私はこれまで愛しいものとの別れが必然であることを説いたじゃないですか。
あなたはこれまで慈しみのある行いで、言葉で、心で私によく仕えてくれました。
あなたは大変な利益のあることをしてきました。速やかに悟りに至るはずです。
そしてそのようにああなる存在に語りかけられた仏陀は周囲にいるお坊さんたちにこう言われます。
ああなる存在は最上の弟子でした。彼は賢者です。彼は知者です。
私の気持ちや都合をよく考えて来客をコントロールしてくれました。
そして彼には素晴らしい特徴があります。
誰もが彼に会うと会うだけで心が満たされます。
お説法を聞くと聞くだけで心が満たされます。
このようにああなる存在がいかに素晴らしいかということを周囲に説かれるんです。
このあたりここまで仏陀に言ってもらえるああなる存在、どれだけ人柄が素晴らしかったかというのが伺えますね。
次回は臨終間際の仏陀のところに出家を希望する者が現れます。
信仰の重要性
彼に対する仏陀の対応をお話ししたいと思います。
そして次回が最終回になります。
ここからはアフタートークです。
今日は宮台区の方のお話をしましたので、
法隆寺の専属の宮台区であられた西岡恒和統領にまつわるお話をしたいと思います。
この西岡家というのは代々法隆寺の修禅に携わる宮台区の家系なんですけれども、
このお家自体が法隆寺の門前、もはや敬礼に見えますけどね。
そういう場所にあるんです。
この家に伝わる十箇条の心得というものがあって、
先祖から代々口伝いで伝えられてきたものなんですけど、
この最初に来る、第一に来るのが次のようなものです。
神仏をあがめずして、がらんしゃとうを口にすべからずと。
神仏というのは神様、仏様ですね。
こういうものを拝まないで、がらんしゃとうというのは建物、建造物のことです。
このことを口にするなというものなんです。
現代は特に建物に目が行きますよね。
立派な文化財ってですね。
でも神仏、神様、仏様への信仰が最初にあるんだよということをここで言われているんですね。
これはこの西岡家の代々のですね、心得だけじゃなくて、
私たちのお寺参りも同じだと思うんです。
現代においてはお寺のライトアップとかいろいろありますよね。
拝観する機会もたくさん観光地であると思うんですけれども、
あの時に皆さん真っ先にどこに行かれます?
ご本尊にちゃんと手を最初に合わせられてますか?
ほとんどの方、これされてないんじゃないかなと思うんです。
それぞれですね、見たいところがあって、そこに真っ先に行かれるってことが多いんじゃないかなと思うんです。
でもこの西岡家の心得にあるように、そうじゃないんですね。
お寺にお参りをするってことは、まずは真っ先にそのご本尊に手を合わせる。
これこそが一番の目的。
これを拝観、拝して見るって書くわけですね。
ぜひですね、今後お寺にお参りされる機会がありましたら、
まずはこのご本尊に手を合わせる。
そこから始めていただければ、しっかりとした拝観ができるんじゃないかなというふうに思います。
本日も最後までお聞きいただきありがとうございました。
この番組でフォロー、またレビュー書いていただくことをお待ちしております。
また次回お会いしましょう。