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2025-11-01 43:15

#79 仏教における罪と救済、煩悩即菩提、至らなさからの自己肯定・差別の消滅、法然親鸞一遍の発展 / 柳宗悦『南無阿弥陀仏』朗読解説その4

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今回は、柳宗悦さんの『南無阿弥陀仏』。

南無阿弥陀仏というたった六字に、どれほどの悲願、温かい響きが込められているか。
柳宗悦さんの美文を通じて、仏の世界に触れていきましょう。

サマリー

このエピソードでは、平安朝と鎌倉時代の念仏信仰の違いや、罪悪感、救済の概念が掘り下げられています。特に、罪の意識とその深さが自己の変革を促し、仏教における「煩悩即菩提」の考え方が重要であることが論じられています。また、仏教における罪と救済の概念についても探求され、煩悩と自己肯定感の関係が議論されています。さらに、法然、親鸞、一遍に焦点を当て、浄土宗の発展と人間の差別撤廃についても言及されています。浄土門における人間の差別の撤廃や、信蘭と法然の教えの違いについても掘り下げられ、一遍の思想がどのように発展してきたか、さらには自己肯定と差別の消滅に関する考え方が探求されています。

平安朝の念仏信仰の特徴
えっとね、これ柳さんが興味深いこと書いてあってね。
おい。
なぜ平安朝の念仏信仰が鎌倉家ほど深さを持ち得なかったか。
それはいたずらに極楽を憧れて、裏に激しい罪悪感を伴っていなかったことによる。
って書いてあるんですよ。
おおー。
うん。
おお。
うん。
罪悪感。
うん。
そう。
俺、どう捉えるかなんだよな。
平安期の浄土信仰っていうのはね、
阿弥陀仏の力で極楽浄土に行けるっていうね、そういう願う信仰はあったんだけれども、
うん。
それは罪の自覚というよりも、ただ美しい理想郷への憧れみたいな感じだったと言ってるんです。
はい。はい。はい。
よね。
はい。
うん。
だから、自分のこの罪深い私が救われるというよりかは、
ただ単に清らかな世界に行きたいっていう願望としての信仰だったと。
うんうん。
ところがですよ、そのさっき話したように平安末期から鎌倉諸家にかけて、
この政治の混乱、戦乱、飢餓、疫病などが続き、そうすると救いを求める渇望みたいなものが強くなっていきますよね。
うん。
で、その時に罪っていうのは至らなさだっていう話をずっとしてるじゃないですか。
はい。
これだけ戦乱を起こし続ける人間としてのこの至らなさ、救われなさ、みたいなものも極まっていったってことなんだと思うんですよ。
うん。
基金ということでさえは外的な要素だから、別に人間の愚かさじゃないじゃんと思うかもしれないんだけども、
多分その当時の考えとしては、その基金でさえも人間の業による因が応報なんじゃないかっていうね。
なるほどね。
うん。
はいはいはい。
だからもう人間には救われる見込みがないっていう絶望感みたいなものが極まったと。
うんうん。
この人間のどうしようもなさっていう意味で罪悪感が深まったと。
罪悪感と救済の探求
なるほど。
いうことを言ってるんですよ。
はいはいはい。
だからこれ柳さんね、書いてあるんですよ。
全ての足利門の教えは罪の場から始められるって。
うーん。
罪の意識は自分が誰よりも罪深いものだという懺悔を伴うものでなければならぬ。って。
俺ちょっと浄土門、このなめやみ雑物読んだ時に、うわーこの罪の話が入ってくるかと思ってね。
ほうほうほうほう。
いやーちょっと嬉しかったですねなんか。
嬉しかった?
うーん。
パッと見そう見えないってこと?
まあねだから仏教っていうのはさ、やっぱり正常仏教、常座仏教は自力でね、やっていくからさ、どっちかというと自己変革型だけど、大乗仏教っていうのは他力になってくるとさ、救済型っていうかさ、そういう感じになってくるからキリスト教的な色味が近しいんだけどね。
だけど大乗仏教の中でもさ、やっぱり禅とかは自力を重んじるじゃない。で、浄土教になってようやくこの他力に振り切ったわけですよ。
で、そうなった時にやっぱり罪の話は触れざるを得ないという感覚は、まあよく考えるとそうなんだなと思うんだけれども、そのね、他力っていうのは、つまりこれ念仏を唱えるという時もね、罪の場から始められないと難しいことはないんだけど、
本当は救われるから難しいわけではないんだけど、でもね、この罪の場から始められるってことが、やっぱり重要なんだなっていう。
それはこの後読んでいくとまたさらに深まっていく感じ?
いやここはね、ちょっとね、難しいな。ここからちょっと僕の解釈とかをなんか入れていきたいんだけれども、そのキリスト教ってね、もともと厳罪って言葉があるんですよ。
それは神との隔たりが厳罪なんですよ。で、それってまあわかりやすく言うと至らなさなんですよ。仏教もね、やっぱり煩悩にとらわれるっていうことがね、これ一つの至らなさなんですよ。意味なんですよ、それも実は。だから至らなさなんですね。
で、この罪の意識は自分が誰よりも罪深いものだという懺悔を伴うものでなければならぬっていうふうに書いてあるわけですよ。で、この誰よりもっていうのはね、相対比較じゃないんですよ。文字通り誰よりもってことじゃないんですよ。
その罪の自覚の深さのことを言ってるんですよ、これは。比較したらね、自分はあの人よりもマシかーとかね、なっちゃうと、自我が残ってるでしょ、それ。
で、そうじゃなくて、自分の中にあるどうしようもなさっていうかね、自分にはもう救われるべき資格がないんじゃないかっていう、それぐらいまでのこの後ろめたさ、後悔みたいなもののことを言ってるんだと思うんですね。
で、そういうものがあればあるほどそのたりきが働くんだっていうことですね。
なんかこれちょっと、僕が最近意識をしてることなんですけど、関係性を明かさないほうがいいからあえて触れますけど、僕の、長田さんにも話してるけど、僕の身近な人で水蔵が鳴りましたと。
で、ステージ2から3あたりなっていると。でね、その水蔵がんってすごい大変なんですよ。
だいたいがんって宣告されてね、ステージ1から4までいろいろありますけど、1であっても含めてね、がん宣告されて10年後生存してる割合って60パーって言われてるんですね。
で、でもそれ広くがんだからがんにもいろいろ種類があって、前立腺がんとかだと10年後に生存してるのって84パーセントとか高いんですよ。
だけど水蔵がんってね、10年後の生存率って5パーセントって言われてるんですよ。
それくらい厳しいがんなんですよ。
それはやっぱり水蔵という位置が胃の裏側にあってちょっと奥まってるからちょっと難しいんですよ。手術も難しいんですよ。
手術するのにもう12時間とかかかっちゃうとかね。
膀胱管で入れてミスでピッて切るとか15分で終わるみたいな手術もあれば12時間もかかるって手術の勢いなんですよ、水蔵がんってね。
で、僕の身近な人が旦那さんと奥さんがいて旦那さんが水蔵がんになりましたと。
初期初期の発見って難しいからもうちょっと発見された頃にはもうちょっと今大変なことになってるんですね。
僕にはね、その2人になんとか力になりたいって僕は思ってるんだけれども、冷静に見るとね、その2人にすごく今人生の試練が訪れていて、ものすごいことが2人に起きてるっていうことも感じてるんですよ。
それは旦那さんって他の人から見るとね、生活習慣が悪いような感じの人なんですよ。
夜中までゲームしてね、2時3時までゲームして、仕事行ってみたいなね、人で。
で、その奥さんの方は旦那さんは子育てに何にも手伝わないと、不満もありましたと。
煩悩即菩提の考え方
で、旦那さんは旦那さんの方でね、そういう自分のぐーたらな生活をしたがゆえに水蔵がんになってしまったんじゃないかっていうある後ろめたさがあるんじゃないかと、僕の勝手に推察してることなんですけども、思うわけですよ。
で、その旦那さんは抗がん剤治療とか、今も抗がん剤治療もできないぐらいの勢いになっちゃってるんですけど、そういうことがあるにもかかわらず、めちゃくちゃたくましいわけなんですよ。
それは奥さんが専業主婦だから、なんとか家族をね、妻と子供をなんとか家族のために立ち直らないといけないっていうこともあるし、自分のこの後ろめたさみたいなものがあり、改心が起きてるような感じが僕には見えるわけですよ。
で、奥さんの方は奥さんの方ですごい変化が起きてる気がしていて、これまで何も手伝ってくれないみたいなふうに思っていたけれども、私がもうちょっと早く気づいていればよかったんじゃないかみたいなこととか、後悔もあるし、
今この究極の状況において旦那さんがたくましくしてるということに対しても尊敬の念を持ち始めている。そうすると奥さんの方はなんかやっぱり、なんか言うことが変わってくるんですよ、本当になんか。ずっと病院に行き続けて、なんか苦しい人がこんなにもいるんだなと思って、みたいなこととかもトロする、始めるんですよ。
すごい奥さんの方にもすごいことが起きてるように見えるわけですよ。で、なんかああいう二人を見ていると、特に奥さんの方とかはね、見てるとなんかこう仏の力がバーってきてるような感じがしちゃうわけですよ。
てか、僕ですら何とか力になってあげたいって思うぐらいなんで、そりゃ仏が力を重ねるわけないんですよ。だから、後ろめたさ、至らなさ、ある種の後悔みたいなものを実感してる人に力がね、やっぱり行くっていうのは本当その通りなんですよね。
今それを身近でじゅんさんも感じてるんだね。
そうなんですよ。
現に家族中がそのバーって力を貸してるし。それも含めてね。
たりきの、そういうものを含めたたりき。ある種の謙虚さみたいなものにもなんかすごい近く聞こえて。
そうなんですよね。
いや、新蘭さんとかってね、ほんとそういう人なんですよ。自分がそれこそ比叡山縁寺入って修行をやってきたわけですよ。自力として。なんだけれども、自分はね、どうしても煩悩があるんだと。
っていうことを深く実感してる人なんですよね。
だから自分は罪深き人なんだっていうのが新蘭なんですよ。
自分の人をね、愚徳っつってね、あの愚かなあげってなってね、愚徳って思うんですけどね。自分のことそういうふうに言うぐらいなんですよね。
なるほどな。
そうなんです。
それでね、ここからちょっと難しい内容に入っていくんですけど大事なところなんで読んでみますね。
自分こそ罪人の罪人だと、罪人中の罪人ってことですね。罪人の罪人だと気づかせてもらうと、世界の光景は画然として一変する。って書いてるんですね。
これそうですよね。さっきの奥さんなんかはね、みんな病院に来てる人、みんな本当は苦しい中で生きてるんだっていうふうに世界が画然として一変してるわけじゃないですか。
でね、自分が無限小に小なのであるから、これ無限小に小ってね、無限に小さいっていうことなんです。無限に至らないっていうことなんですよ。自分が無限小に小なのであるから、自分にあらざるものは無限大に大となる。
小がと大がとが間向きに触れ合う。事故の無限小とはもはや事故を残さぬことである。残る何者もなくなるときこそ事故の全き邪気である。完全に自分を捨て去るということである。それを事故の無限小って呼んでるんですね。
で、この宝記のその刹那は、無限大なるものに当面するその瞬間である。ここで小が大に接し、えが上に即する。えっていうのはね、けがれ。けがれが上に、きおいに即するってことを言うんですよ。
これちょっと難しい話なんだけど、すごい大事なことなんだよな、これ。もうちょっとだけ読むかな、とりあえず。
一方から多方に移るというより一方が直ちに多方となることである。渡るとは距離の消滅を意味する。って言うんですよ。これちょっとすごいなあ、これなあ。
なんかすごいことが書かれてるな。
これあの、仏教の中で煩悩即勃大って言葉があるんですよ。煩悩即勃大。煩悩っていうのは即勃大なのだって。
なんかむしろ逆名のことを言ってそうな感じがするもんね、煩悩と勃大。
そうだよね、煩悩イコール即悟りであるっていうね。
これね、そうなんだよなあ。
永が常に即する。否定が肯定に直結する。
そうなんだよなあ。だから至願が彼願に渡るって言って移るんじゃなくて、実は至願が彼願に、この場所が彼願になるっていう。
この距離の消滅のことを本当は渡ると言ってるんですよって言ってるね。
これね、本当に奥深いことだから、これから一緒に探求していくという前提なんですけどもね、さっきのやっぱり話で言うとね、
自分が至らないって思った瞬間にある喜びがあるじゃないですか。
喜びって言ったらいいのかなあ、なんか。
だって見えてないものが見えたわけですよね、世界が一変して。
清くなってるじゃないですか。
思いません?あの奥さん、通道が鳴ってる旦那さんの奥さん清くなってるじゃないですか。
僕には見えるわけですよ。
自分なんて煩悩の塊なんだって言ってる人々を悟ってるように見えるんですよ。
罪の自覚が深ければ深いほど仏に出会うというか、仏は近くに来てくれるって。
だから煩悩則無題なんですよね。
なるほどね。
至らなさと同時に有難さを感じるっていうかね。
無現象のイメージはちょっとわかりやすかったけど、すっごい全部ちっちゃくなってっから、
それ以外のすべての存在が自分にとっては無限大に大きいものになる。
そうなんですよ。
そうすると日々の生活の中、日常の中にもそういう無題みたいなもの、煩悩則無題みたいなものと出会うってことなのかな。
まだ頭で理解しようとしてるけど、直感的にはなんとなくスッと入ってくる感じがしたけど。
そうなんです。
だから、カラマトフの兄弟で扱ったゾシマ長老の兄さんの言葉とか彷彿するんですよね。
お母さん泣かないでよって言って、人生は楽園なんです。知りたいと思いさえすれば明日にも世界中に楽園が生まれるん違いないんです。
僕は罪深い人間でありたいんですって言うじゃないですか。
煩悩と自己肯定感
これって煩悩則無題のことわかってるからこういうこと言えるんですよね。
面白いね。
僕は中田さんスラックのやりとりで、この間本当最高だなって思ったの。
あれね、職場の人が、旦那さんが今日、
いろいろ忘れちゃって。
私はいつからこんな大きな子供のお母さんになったんでしょうか、ため息みたいなときに旦那さんが、
いや、私も忘れる側、なくす側の人間なので。
黙っておきます。
言えること言えます。
やっぱりここでね、そっち側のね、そしてそういう返しができるっていうのがね、本当ね、中田さんの魅力ですね。
ちょっとこれに近い感じがしてる。やっぱりどこまで行っても、そっち側の自分の罪、至らなさっていうことに自分を身を置けるっていうね。
この信頼よりなんですよ、やっぱり。
すごい、500倍ぐらいによく言うとそうですね。ただ物を忘れるやつがね。
妻に怒られそうだが。
なるほどね。
うーん。
なんかどうしようもないってことに立ったときの、救われる感覚って何なんでしょうね、なんか。
そっちの方がほっとすんですよね、なんか。
そうですよね。
なんか俺完璧だとか、俺は人より優れてるみたいな、世界観の中で頑張ってた時期もありますけど。
なんか、そんな落ち着かなかったな。
圧倒的に楽なんですよね。
楽。
これがたりきの力なんだと思うんですよ、やっぱり。
それほどわかるな、これちょっと僕も妻に聞かれると怒られちゃいますけどね。
僕の実感だからちょっともう、嘘うつわれない実感だから言いますけどもね。
やっぱり僕が妻と結婚するかどうかずいぶん悩んでたときに思っていたのは、
やっぱり自分の方がストイックな人間でね、その妻のちょっとゆるっとした感じがね、なんかあんまり相性が良くなくて。
なんかこう、それなのに自分がいろいろ家事をやってるということにね、ストレスが溜まってきてしまうっていうことが起きてたときに、
自分の中でやっぱり転換が起きたのは、まさにこういう考えで。
いやいや、お前自分をどれほどのもんだと思ってんだと。
仏の身から見たら、俺だって至らないところあるだろうと。
また別の場面でね。
っていうことを思うと、仏からするとそんなの50%っぽいなんだと。
そうか、一緒だなって思えたときに、なんか楽になって、じゃあこの人と生きていこうじゃないかっていう感じになったんですよね。
なんかそうなってきた人に確かにいろんな運が巡ってきたりとかさ、それをたりきとはまた違うのかもしれないけど、たりき的なものが流れ込んでくるみたいなイメージは確かに湧く。
何なんだろうそれは。不思議なんだけど。不思議としか言いようがないんだけど。
そうなんですよね。
そうなんだよ。いやだからね、自分はそれなりにまあやれるんでって思っちゃうこと自体がね、もうちょっと至らなさなんですよ。
うんうんうん。確かに。それも至らなさだね。
いやなんかね、やっぱり僕、罪というかまあ至らなさっていう感覚、これなんだよな。
法然と親鸞の教え
これは面白いこと言ってるよね。この自分が自分で何をするかっていうのが、そこがあるわけだよなって思うと、
罪というか至らなさっていう感覚 これなんだよな
これは面白いこと言ってるよね この自己肯定感の時代にね
そうなんですよ
ある種の究極的な自己肯定感なんだよな 至らなさを受け取るということが
なんかそれはここまで聞いてて それはスッと入る
世に言われている自己肯定感がそうじゃないって感じだね
うんうんうん
そうそう そうなんですよ
だから自分が自分のことを信じられるとかね そのレベル まあまあそれも大事なんですが
なんだろうなぁ ちょっとそのこの至らなさの実感から始まる自己肯定感
ちょっと見出したいですね
なんか今っぽいけどね
次の流れとしてはそっちの方がスッと入るな
うんうんうん
いったんみんなちょっと自分の至らなさに
そうだよね
罪の意識に もう一回帰ってっていう方が
結果回自己肯定みたいなもん
うん
っていう話だよね
うんうん
うん
なんか令和っぽいけどなんと
令和っぽいですね その流れ来てる気しますね
うんうんうん
ねー
うん
いいねー
ちょっと読みたくなってきちゃうね やっぱりね
いやー
ここまでだけでもねー
うーん
うーん
ちょっともうちょっとだけ
うーん
いきましょう
扱いたいんですけどね
よろしくましょう
まあこの浄土の教えっていうのは
法念・信蘭・一変って
まあこうやって発展していく
っていうかね実は厳密には
法念と信蘭が着目されるんですよ
うん
本も法念と信蘭が圧倒的に多い
芸術新聴の特集でさえも
法念・信蘭は見るが
一変なんか見たことない
だけど柳さんはこれね
一変に実はフォーカス当てたっていうかね
これがね柳さんのこの生みた物の
あの一つの偉業なんですよ
なるほど
確かにあんま効かないね
そうなんですよ
柳さんは法念・信蘭・一変と
発展していってるんだっていう風に
捉えてるんですね
へー
それが面白いとこなんですけど
ちょっと今回そこにあんまり触れませんけどね
だから信蘭に至ってもやっぱりこれ磨かれていってるんですね
で信蘭ってあの有名な悪人症季節っていうのがあって
悪人こそが救われるんだって話になってくるわけですよ
でこれ悪人の定義ってまあいろいろあるんですよ
そのやっぱり広い定義だとね
もうその煩悩があるっていうのが悪人なんですみたいなね
感じに言う人もいるぐらいなんで
うーん
なるほどね
そうそう
白いね
まあなんだが普通に僕らの感覚で言うと犯罪犯しちゃうとかね
そういうのも悪人って言ってもいいし
そういう人も扱わざるを得ないですよね
浄土門としてはね
うーん
そういうところまでちゃんと眼差しを向けたのが信蘭だったということなんですね
はい
うーん
そうなんだけど結局
まあこれ有名な話なんですけど
そのこの悪人正規の話ってね
そのね
勘違いしちゃう人がたくさん出ちゃったんですよ
うーん解釈を?
そう
うーん
まあつまり悪さしてても救われるんだから別に悪さしてもいいじゃないかってなっちゃうんですよ
なるほどね
うーん
その行為が肯定されるんだ
そう
うんうんうん
ちょっと柳さんのそこの部分ちょっと読んでみますね
はい
だが一言思い謝れやすい点を言い添えよう
悪人の王女は必要だと述べたし
善人よりももっと必要だと述べたが
そのことは悪が良いとか善が不足だという意味ではない
悪人なんか知りほどの値打ちもないのである
値打ちのないのが悪人なのだ
悪人が良いなどとはよもさらいっているのではない
悪人なんかは捨てて良い紙くずにも劣るものなのだ
だから自国必上の身なのである
落ちるより仕方がない運命である
紙くずが捨てられて良いなら悪人は当然捨てられて良い
悪人が王女をできるというのは悪が善人されることではない
どうしても落ちねばならぬことの善人なのだ
悪人自らにどうして浄土に行ける資格なんかがありえよう
だから悪人が助かるのは全く彼自身とは関係がないのだ
一も二も大秘の仕業なのである
助からぬ者を助けるのが身田の誓いなのである
悪人が助かるのではなく身田が助けるだけである
王女は身田の行為なので悪人の結果ではない
救いは因果にはよらない
救い自らの働きなのだ
悪なぞ善人する者は浄土には住んでおらぬ
善も悪も入る余地のないのが浄土である
それこそそこは不二の世界なのだ
悪人正規は仏の大秘を見極めてこそのことで
自己の悪を許してのことではない
悪人には全然王女の資格はない
成仏はただただ仏の計らえにのみよるのである
悪人が摂取されるからといって悪人でもかまわぬというものは
まだ十分に自分が悪人であることを知らないものの
浅ましき見方に過ぎない
だから仏の大秘をも分かっていないのである
この真理が通じないばかりに
どんなに多くの念仏者が自らを謝ったか知れぬ
同時にいかに多くの非難者が念仏者を誤解したかわからぬ
って書いてあるんですね
ちょっと長かったんですけど
浄土宗の差別撤廃
だからやっぱり悪行っていうのは決して許されるものではないんだ
っていうことを言ってるんですよ
どこまで行っても
ただただ阿弥陀仏様が助けてくれるにすぎないんだって
ここでも自力と他力の話に近いのかな
そうですね
圧倒的他力によって助かってるだけである
そうなんですよね
そのお前の行いと助かったって事実は別につながってねえぞ
そういう感じ
そこの因果を間違えちゃう人が
じゃあ悪いことしてもいいんだってことになっちゃう
そうなんですよ
だからこれがあってね
実は法念も神論もね
留罪になっちゃうんですよ
足を促したみたいな感じで
そういうことなんですよ
島流しになっちゃうんですよ
マジか
これね
誤解されたんだ
そうなんですよ
これね当時
南都北礼っていう言葉があるんですけどね
南の都と北の峰北の山
で南都つってるのは南の都だから奈良のことを言っててね
奈良の仏教っていうのはやっぱり古くから力を持ってたんですよ
北礼つってる北の峰つってるのは比叡山隠略寺のことなんですよ
だから仏教の地位が高いところがもうそこなんですよ
でそこの二箇所からもとてつもない非難が来てたんですよ
それはね自分たちがせっかく厳しいね自力よりだからまだ
なるほど
せっかく厳しい戒律などをね守ってきてるのにそんなの守らなくていいんですよ風潮が出ちゃうわけ
たまってもんじゃないわけですよ
はいはいはい
ということになりそういうことに対しても本人っていやそういうことじゃないんですよっていうこの誤解を立たす動きをし続けてるんですよ
だから本人自身はもうとても自力でやってるようなんですよとてつもない厳しい生活をしてるんですよ実は
うんうんうんうん
これも感慨深いんですよだからなんか
では無罪になっちゃったっていうのはねあのもう当時の上皇後鳥羽上皇が
あのその後鳥羽上皇の側近の女性たちがね
法年の弟子たちと関係を持っちゃったんですよ
うんなるほど
なんか定説いろいろありますけどまあ肉体関係を持ってみたいなことがあって後鳥羽上皇がブチギレて
あのその弟子たちを死刑にさせてでその弟子たちの親玉である法年新乱を無罪に言い渡したと
なるほど
ていうね
ああ
そうですか
なるほどまあ確かにさっきのじゅんさんの説明聞くと想像に難くないというか
うん
そうなっちゃうか
まあそこに個人の責任っていう考え方を持ち込むあたりもすごくまた自力的というか
この人たちをうるさいにしてじゃあ何なんだっていうところが
でもそうせざるを得ないですっていうところ
うん
そうなんだね
まあでもどうなんでしょうねちょっと察するにねこういうことも
なんかもう悲しい出来事なんですけどねこれもまたこれがゆえにこの浄土宗っていうものがブワーってやっぱり燃えてくる契機でもあるんですよ
そうだったんだね
弟子たち正しくわかってる弟子たちからすると余計燃えてくるでしょ
なるほどね
そっかさっきねこのコンセプト認知この転換大転換ってどうやって広まったんだろうって言ったけど
こういうことも一つ起きたんだね計らずともというか
そうなんですよ
はあ
なるほどね
いやーこれちょっとね僕好きな言葉があってね202ページのところちょっと読むんですけどもね
はい
だからこの浄土の立宗に際して取られた最も著しい態度は
宗門の前に人間の差別をすべて撤去してしまったことである
って言うんですね
待って待ってもう一回どういうこと
人間の差別の撤廃
だからこの浄土の立宗に際して取られた最も著しい態度は
宗門の前に人間の差別をすべて撤去してしまったことである
実はね実は人間の差別っていうのを完全にてっぱらったのが浄土門なんだって
この門の前に知と偶賢いと愚か
この門の前に知と偶との差が何の意味をもたらすであろう
有知の者も無知の者もここでは平等に摂取に預かる摂取っていうのは
首相が救い取られるっていうこと
救われるということ
こんな有難さを聖堂の書集は解いてくれなかったではないかって
宮崎さん言ってるんですよ
本当にこういうことなんですよ
本人さんのね
確かにね
生アメダベツ唱えたら楽にいけますみたいな感じで
よく教科書から習ってたけど
それに今じゅんさんが読んでくれたところの本質的なところが
感じ取りづらかったりするもんね
何て言うんだろうな
それだけ表層受け取っちゃうとまたちょっと違うっていうか
そういうことをやった行為なんだ
これすごいよな
ちょっとすごいんだよなやっぱり
なんだろう
公証念仏証明するってことは
念仏となるってことはあくまで劇のためのもんであるっていう捉え方だと
差別が残ってるじゃんこれ
その人たちのために簡単にしましたみたいな
上から見てるじゃん
確かに
でも
信蘭に至っては自分こそが罪深いんですって言うわけじゃないですか
自分が最も劇のものなんですって言うわけじゃないですか
っていうかそれは本当は人間万人が劇なんです
至らないものなんです
罪深いものなんですっていうことなんですよ
そういうところに至って
差別がなくなるんです
だから本当は全員たれきでいいんですっていう勢いなんですよ
なんだろうな
そうだよねそういう勢いを感じたよね
これね面白い面白い
これからさっき法人信蘭
一変で進化していくって話したんだけど
法念っていうのはね
法念の念仏っていうのはね
仏を念ぜよ
さらば仏は必ず人を念じたまう
人間が念仏すれば仏が必ず救ってくれるっていう
こういう言い方だったわけですよ
転換期だから
信蘭に至っては
たとえ人が仏を念ずとも
仏が人を念じたまわぬ時はないって言うんです
だから念仏を唱えると救われるんだったら
念仏を唱えてない人は救われないじゃないか
ってことになっちゃうじゃないですか
論理としては
だから法念の本当の真意っていうのはそこじゃないんですよっていう
だから誰もが救われるってことを考えると
実はもう念仏しなくても救われるんですよ
仏が忍じてくれてるんですよ
っていうのが信蘭の言い分なんですよ
なるほど
だから法念は
唱名名を唱えるって言うんだけど
信蘭に至っては文名聞くに名
唱える名じゃなくて名を聞くになるんですよ
聞くになるんだ
そう文名って言うんですよ
信蘭の念仏は
念仏とは仏の声を聞くことであるっていう
おお
という意味なんですよ
はいはいはいはい
面白いね
それはより難しくなってるのが聞こえるけどね
まあちょっとだからね
素人にはね
まあねまあね
そういうことじゃないんだよねでも信蘭が言ってるのはね
まあこれもそうだね文名の話もしたいがちょっと時間もある
そうなんですよ
まあでも大事なのは唱えなくても
人間が
そういうことだね
唱えなくても仏が忍じてくれてるんですよっていう
だから徹底的にたりきだから
あの仏が助けてくれるんですよっていう
なるほど
法念が下げ切ったハードルの最後もうあと少しをガーンって
最後信蘭が下げ切ったんだね
そう下げ切った
信蘭と一遍の発展
唱えなくてもいいじゃん
そうそうそうそう
なるほど
一変はねちょっとね
これね柳さんはねほんと面白いんだけどね
柳さんはなぜ一変を発展と捉えてるか
人々は一変なんか見る気もしないんです実はね
仏教宗教学者の中でも
でもね柳さんはなぜ発展と唱えたかというとね
あのね
法念は人間が唱えるから仏が応えてくれる
信蘭に立っては人間が唱えなくても仏が唱えてくれている
っていうことになり
でもこれ2つとも人間と仏で分けてるじゃないか
っていう突っ込みなんですよ
ほんとはみんな万人仏なんでしょって
仏が仏を唱えるということだろうと
だから念仏が念仏するということなんです
聖名ということは念仏が念仏するということなんですって
念仏が念仏する
念仏自ら念仏するって
こういう域までいくっていうね
なるほど一緒だよと
さっきの渡るみたいな話も近い
そうなんです
それはまあまあいいんですけどね
おそらく面白いですけどね
面白いですね
論理が研ぎ澄まされていく感じが
いやでもねこの一辺のこの考えっていうのがね
今回一番最後に紹介してますけど
民芸の考え方にちょっと生きてる感覚があるんですよ
仕事が仕事するっていう境地に入ってくるんですよ
ヤイさんが仕事が仕事する
確かに似てるね
念仏が念仏するがどことく仕事が仕事するのである
それが民芸の世界なのであるみたいな感じになってくるんですよ
聞きたいね
面白いね
43:15

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