今回は、柳宗悦さんの『南無阿弥陀仏』。
南無阿弥陀仏というたった六字に、どれほどの悲願、温かい響きが込められているか。
柳宗悦さんの美文を通じて、仏の世界に触れていきましょう。
サマリー
このエピソードでは、阿弥陀仏の概念や背景が語られています。浄土宗における仏と神の違いや、阿弥陀仏がどのように成仏し、救済の誓願を立てたかについて解説されています。また、仏教における阿弥陀仏の存在意義やお経の真実性についても深く探求されています。さらに、歴史的な視点から法蔵菩薩の役割が議論され、神話と現実の関係が取り上げられています。
阿弥陀仏の紹介
それで、この南無阿弥陀仏っていう六字なんですけど、また南無っていうのは、ちょっと後で扱うとして、
まずこの阿弥陀仏っていうね、ここの話から行きたいんです。
で、その阿弥陀さんの話っていうのは、もう仏教のいろんなお経に出てくるんですね。
出てくるんですけれども、その無料受経っていうお経があって、ここに話が結構書かれてあるんですよ。
ちょっとその前に、仏教に関わらずなんですけど、宗派っていうのが、いろいろ分立しているのは、
この、それぞれの文化とか歴史とかが重なって、そのニーズに合わせて生まれてきているわけじゃないですか。
我々も人間の気質に応じて使い分けていいというか、自分に合うもので学んでいけばいいんですけれども、
その大乗仏教の中にも、やっぱりいろいろ分かれているのは、それぞれのスタンスみたいなものがあるわけなんですね。
仏教にも本当に数多い教文が、お経があり、その教文の中でも何を一番大切に考えるべきかっていう見方で、
その根本、経典が分かれていってるんですよ。宗派によって。
うちの宗派は、宇宙宗派の根本、経典はこのお経なんですっていうのが、それぞれ違うわけ。
神言宗とかだと大日経になるし、経言宗だと経言経になるし、
浄土系の浄土宗、浄土真宗とか一辺の自宗とかも含めて、浄土教の根本、経典っていうのは3つあって、
無量寿教というものと、漢無量寿教というものと、阿弥陀教という、この3つ、浄土三部教って言われてるんですけども、
この3つを根本、経典にしてるんですね。
その3つとも、阿弥陀仏さんのことが書かれてあるっていうことなんですよ。
この無量寿教の中に書かれてる、阿弥陀さんのお話をちょっと話していきたいんですけれども、
まずその阿弥陀仏って、仏って仏じゃないですか。
仏とか神とかって、すごく理的多次元的な言葉だから、
いろいろ難しいんですけど説明が、よくキリスト教とかで言う、創造主としての神っていうものがあるじゃないですか。
この創造主という意味の次元においての、この神というものは浄土宗では立てないんですよ。
浄土宗っていうのは、人間が生まれてきたっていうのは、諸々の縁起の結果、因果の結果生まれてきているということなので、
この次元には縁起として説明をしていているんですね。
だから神イコール仏じゃないんですよ。
キリスト教の神イコール仏じゃないんです。
浄土宗の仏っていうのは何かっていうと、悟りを得た人間なんだ。
木柳さんは言うんですよ。悟った人、覚者って言いますけど、その覚者が、覚者のことを仏と言っているんです。
ということはですよ、仏も菩薩も元来人間なんです。
ってことになるね。
そう、これが面白いんですよ。
だから阿弥陀仏、阿弥陀さんも元々は人間なんですっていうことになるわけです。
そうかそうか。
はいはいはい。
その室寿経の中に書かれてあるのは、阿弥陀さんの話が書かれてあって、阿弥陀さんっていうのは元々とある王国の国王でしたと。
って話があるんです。
具体的な人なんだ。
法蔵菩薩の修行
そうそうそうそう。
ある個人なんだ、それみたいな。
そうなんですよ。
その国王が、ある僧侶のお話を聞いて感動してね、王位を捨てて、国を去って、社門の身となって修行を始めるんですよ。
だからこれってちょっとね、ゴータムシッダルタと似てるし、ヘルマヘッセの絵シッダルタも似てるんですよ。
もはやここに一つの仏教の原型みたいなものがあるんですよ、物語としての。
ああ、型みたいなものが。
そうそうそう。
まあっていうのも、やっぱり式辞率みたいなものとかって、日本において戦後上がってきた話で、もっと昔って、やっぱり恵まれた人じゃないと読めないし、学べないから、必然なんですけど、そういう話があるんですよ。
ほうほうほう。
で、その社門となって、社門って出家者のことね、社門となって法蔵って名乗るんですね。法蔵。法律の方に蔵っていう字ですね。だから本当は法を蔵しているっていう意味なんですよ、法を蔵している。法っていうのは真理のことなんですよ、真理を蔵しているっていう、とても素晴らしい名前なんですけど。
法人っていうのも、あれは法のままにっていう、法のままにっていう、とても素晴らしい名前なんです。
はあはあはあ、法師とかもあるもんね、三蔵法師みたいな。法師みたいな。あれも同じ法なのかな。
三蔵法師の法、そうです、そうだね、そうだね。うん、同じだね。そうなんですよ。
そうかそうか。
法蔵と名乗るんですね。で、そうやって修行したのち、菩薩になりましたと。
うんうんうん。
で、菩薩っていうのは悟りに達し得る力を持ちつつも、仏とならず、師匠と共に生きようとする存在ですよね。
で、48の誓願というものを立てて菩薩になったんですよ、この法蔵は。
何ですかそれ、48の?
48の誓願っていう。
その無料受教っていうのには、この48の誓願が載っていて、その48、1から48までことごとく、師匠を救済するという願いが書かれてあるんですよ。
誓願の願は願い?
そう、願い、願い。
その私はこの本当に、ありとあらゆる師匠を救うまで仏にはなりませんって言ってるんですよ、法蔵菩薩は。
ほうほうほう。
うん。
うん。
っていうのが無料受教に書かれてあるんです。
うーん、なるほどね。
うん。
うん。
っていうストーリーが書いてあるの?
そう、ストーリーが書かれてある。
ストーリーも書かれてあるし、この誓願も書かれてあるしっていう。
あ、そうなんだ。
うん。
そう。
で、その、師匠を救済するまで仏になりませんって言ってるんだけれども、
この法蔵菩薩ってその後、成仏して阿弥陀如来になったんですね。
あ、如来っていうのは仏とも同じ意味なんで、阿弥陀仏、阿弥陀如来って一緒なんですけど、
その阿弥陀如来になりました、ということなんですよ。
これどういうことかっていうと、師匠を救済するという誓願が成就されたってことなんですよ。
ほうほうほう。
歴史と信仰の関係
だから浄土教の教えの中では、師匠っていうのはすでに救済されてるんですよ。
なるほどね。救済済みなの、もう。
そうなんですよ。
で、役目を終えて仏になっていった。
なっていって、っていう。
まあこれ厳密には、今も阿弥陀如来さんは我々のために認じてくれてるっていうことではあるんですけれども。
うーん。
すごいね、面白い。
すごいすごいすごい。
なんか全然進んでなさそうじゃない?
そうなんですよ、そうなんですよ。
なんていうの?
僕ら煩悩の塊じゃないですか。
うんうん。
でも浄土の世界に行くと、もう救済されるということが決定されてるんですよ。
え、どういうことどういうこと?
今はまだこの世では煩悩の塊じゃないですか。
はいはい。
苦しみもあるじゃないですか。
うん。
だけども、その死後、浄土の世界に行くと我々は救済される。
はいはいはい。
ってことをもう約束されてるんです。
へー、そっかそっか。
うん。
それがもうあるから、我々はもう救済されてるんだっていうことで、阿弥陀さんは仏になっていった。
そうなんですよ。
この構造を作ったのが阿弥陀さんってこと?
その救済されていくってこと?
うん。
ふーん。
っていうのが、阿弥陀如来、阿弥陀仏なんですね。
はいはいはい。
で、そのこれ、ちょっとここから面白いんですけど、こういう話ってね、冷たい目で見るとね、まあ架空の話でしょってことになるんですよ。
この阿弥陀仏、構造菩薩っていうのも、別に歴史上実在したっていう記録とか残ってないんですよ。
あ、そうなんだ。
だからその、歴史的な伝記というよりは、仏教の偶和ということになってるんですよ。
はい。
で、それ偶和になるとね、結局信頼に値しない話じゃないかっていう感覚になるんですよ、現代。
我々からすると。
ファクトフルネスの時代からすると。
そうそうそうそう。
で、そのことについて屋根木さんが素晴らしい文章残していて、ちょっとそれ読んでみたいんですね。
おーいいですね、ぜひ。
はい、読んでみますね。
はい。
ここでよく問いを受ける。
構造菩薩とは架空の人物ではないかと。
そういう菩薩を描いて何を意味しようとするのかと。
ただの比喩に過ぎるなら、未だといい。
未だって阿弥陀さんのこと未だって言うんですね。
あ、取って、省略して。
ただの比喩に過ぎるなら、未だといい、譲渡といい、何の確実さがあろうかと。
そもそも、どうその物語を下したらよいのか。
数々の質疑が集まるであろう。
って言うんですね。
で、ちょっと読みますよ。
ちょっと飛ばして。
諸々の説話はそれが巧妙であればあるほど、人間の創造力によって創作されたものだとして信頼を受けない。
阿弥陀如来の物語とても同じく創作で、歴史的な事実ではなく、かかる空想をもとに宗教を立てるということに懐疑を抱く人もでよう。
各省を好む新しい時代には、ふさわしからぬ教えだと言い張る人もあろう。
って書いてあるんですね。
で、ちょっと飛ばしてみますよ。
これに対して柳さんが何を言うかっていうと。
聖徳太子ははっきりと世間苔、唯物是真と言われた。
世間苔っていうのは、苔の苔っていうのは虚構の虚ですね。
に、家は仮、世間苔。
つまりこの世のことは虚構であり、仮であると。
唯物是真って言ってるのは、ただ仏ばかりが誠であるっていうね。
こういう言葉があるんですね。
聖徳太子ははっきりと世間苔、唯物是真と言われた。
人々は歴史的事実というようなものを、いかにも確実なもののように受け取るが、考えるとそれは移り変わる現象で、
生死を超えぬ儚い出来事に終わろう。
もし不変な確実なものがあるなら、そんな外面的なところには留まるまい。
不動なものは、かえって見えないその背後にあるもの。
歴史を歴史たらしめるもの、それを法と名付ける。
歴史に輝きがあれば、実は法の輝きによるのである。
歴史で法が保たれるというより、法で歴史が支えられているのである。
法が実で、世間は仮である。
唯物是真というのは、仏が法体に他ならぬからである。
仏とは法と一体になったもの、法にそこするものと言っておく。
法と不二であるから、仏は誠を示すものと解けよう。
と言うんですね。
最後のは難しかったんですけれども、なんとなく言ってること伝わってきました?
うんうん。なんとなく大きいところは伝わってきましたよ。
いくつか難しいことがあったけど。
阿弥陀仏の探求
そうなんですよ。人間は、人々は歴史的事実というようなものをいかにも確実なもののように受け取るか、
考えるとそれは移り変わる現象で、生死を超えぬ儚い出来事に終わろうと。
それが本当に確実なんでしょうかと。
もし不変な確実なものがあるなら、そんな外面的なところには留まるまい。
不動なものはかえって見えないその背後にあるもの、歴史を歴史たらしめるもの、それを法と名付けると言ってるんですね。
真理はそっちにあろうと、背後にあろうと、いうふうに言ってるんです。
うんうん。
なるほどね。
そう。
いや文章は美しいね。なんだろう、なるほどって感じ。
なるほどねみたいな。
そうですね。
なんだろうねこの、もっと分かりたい感じする。
そうですよね。これちょっと僕なりに説明するとね。
うんうん。
うーんとね、なんて言うかな。
例えば古代ギリシャの神話でイリアスとかオデッセイヤとかっていうね、トロイの木馬とかが出てくる話なんですけど、
ああいうのってホメロスっていう人が作者だと考えてるんですけど、ホメロスって実は複数人いたんじゃないかっていうのが定説なんですよ。
つまり少々なんですね。
その作家集団の。
そうそうそう。
例えばですよ、この文学ラジオで扱ってきたドステウスキーのカラマゾフの兄弟っていうのは一応未完に終わってるじゃないですか。
はいはい。
で、それはですよ、例えば続きをいろんな人が書いていったってことにしましょうよ。
例えば。
例えばもうオールスター的にニーチェが続きを書き、ヘッセが書き、リルケが書き、日本だと柳森義さんが書き、みたいな。
しかもそこにはもう名もなきよくわからない人も書き、みたいなことになってくると、
これは作者がどうこうというよりかは人間が作った物語っていうことになってくるじゃないですか。
で、ああいう小説っていうものは虚構じゃないじゃないですか。
ごめんなさい、そもそも大事なとこそこなんですけど。
国宝の映画原作ありますよね。でもあれもだからなんだろう、虚構じゃないですよね。あれって起きてる話ですよね。
だから小説って虚構じゃなくて真実よりもはむしろ真実だと思ってるんですね。
で、この仏教の偶話も真実なんですよ。だから人間の中にある神話みたいなものなんですよ。
っていうふうに僕は理解してて、あの48の誓願っていうものは、人間の中にある誰もが持っている願いなんですよ。
っていうことを書いてくれたってことだと思うんですよ。
現代だと虚構って現実に事象として起きてないものを虚構みたいに言ってるけど、たぶんじゅんさんが言ってる国宝ってあれ虚構じゃないですよね。
虚構はまたちょっと違う意味なんだよね。
そうだね。
あの通りのことが現実に起きてたわけじゃないじゃない。
だからあれは虚構だっていう人がいるわけだよね。たぶん今の現在においては。
作り物の話だろみたいな。
でもフィクション、ノンフィクションがなんだろうな、あんまり関係なくなってくるっていう感覚ありますよね。
あるある。
だから虚構って言葉にやっぱり引っ張られちゃうのかもしれないなと思って。
なんていうんだろう、いやあれは作り話ですけど、その中にあるそのじゅんさんが言う真実みたいなものはあるよねって話を言ってくれてるのかな。
そうなんですよ。
だから続きちょっと読んでいくとよりさっき今僕が言ったことが伝わってくる感じがするんですけども。
ちょっと読んでみますね。
はい。
歴史には過去んみってこれ過去、今、未来っていう。
歴史には過去んみの時間があるが、法の物語は永遠の今を語ろうとするにある。
だから法蔵菩薩の説話は、歴史的な人物よりもっと真実なものを示そうとするにある。
あるいは歴史的な人間を見つめて、その性を濃く出そうとすると、法蔵菩薩の姿で現れてくると言ってよい。
彼を架空の人だと言うが、この架空なものより真実なものは考えられる。
あるいはこれを人間の元素なるもの、本音なるものの姿と受けしてもよい。
特殊な一個人ではなく、全人間を背負う原人とも言える。
それゆえ実は法蔵という名は個人の名ではなく、誰の名も皆本来は法蔵という名のだと言ってよい。
誰がどんな名を持つにしても、その名の中には法蔵の名が含まれているのである。
なるほど、法蔵と言ってしまえば一人の名であるが、実は全ての名を接する名であり、また全ての名に入ってゆくなどと言える。
決してこの世の名に無縁なものではなく、一切の名に欠縁を持っている名を法蔵と呼んだに過ぎない。
それゆえ法蔵物語を何か我々から離れた架空のものとするわけにはゆかぬ。
確かにさらに何か深まって伝わってきますね。そこを読んでいただくことで。
お経と人間の願い
なんとなく僕自身は直感的に何かスッと入っちゃうんだけどね。
そうですよね。良かった良かった。
そうなんですよ。
そうだよね。でも、「うん?」って思ってる人もいるじゃない?
うんうん。
それはなんだろうな、そういう人と対話をしないと、僕もこれ以上説明が難しいというか、多分言えないんだが。
つまりでもやっぱりすごいことなんだよな。だからこのアミダニオライのあの誓願っていうのは本当にさっきも話したように、
我々人間が持ってる願いなんだなーって思うと、本当にすごいお経なんだなっていうのを感じるわけなんですよ。
うんうん。
俺の中にもそういう願いがやっぱりあるのかということを思うわけですよ。
確かにね。
面白いなー。でも書いた人もすごいけどさ、それを紡いできた人たちも人間で、なんかその共犯っていうか共同作業なのかなって思いながら今聞かせてもらってたな。
うんうん。
受け取った人たちがいるってことをなんか今思いながらすごい聞いてました。
うんうん。
ちょっと今全然違うこと言っちゃったかもしれない。
いやいや、そうですよね、そうですよね。
もうアンリー・ベルクソンの道徳と宗教の二元性の話で扱ったようなことですよね。
その感動が感動にっていう話で受け取った方がいいんで。
うんうんうん。
うん。
そう。で、そのまずやる経典の中でも無料受教をお問じたのが邦人さんだったわけですよ。
うんうん。
で、邦人さんはなんでこの経典をお問じたのかっていうことになってくると思うんですね。
で、ちょっと邦人さんの人生を少しだけ触れておきたいんですけれども。
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