番組の紹介とフォロワー数
かんどう和尚のはじめての仏教。この番組は、仏教初心者の方に向けて、インスタグラムのフォロワー3万人超えの僧侶、私、かんどう和尚が目立的な視点から仏教を解説するプログラムとなっております。
みなさん、こんにちは。まず最初に番組からのご報告です。この度、番組のフォロワーが1000人を突破しました。ありがとうございます。
今年の2月に番組を開始して、約9ヶ月ぐらいですね。9ヶ月でフォロワーが1000人に到達するというペースは、ボットキャストにしてはかなり早いそうなんですね。
最初に番組を始めた時には、そんなにたくさんの方に聞いてもらえるとか想像もしていなくて、最初は本当に数十人の方が聞いてくださるだけですごく嬉しかったんですよ。
私がいるお寺で行事とかお説教とかも普段しますけれども、本当にうちそんなに規模の大きなお寺ではないので、
行事の時には大体20人とか30人とかですか、多くて50人とかの方がお越しになる、それぐらいの規模なんですね。
本当に20人とか30人の方が毎回お話を聞いてくださるというだけでも、それに換算するとすごいことですからね。それだけでもお話す甲斐があるなっていうぐらい。一人でも嬉しいんですよ、もちろんね。
それぐらいの気持ちだったんですけれども、今ね、毎日数百人の方が聞いてくださって、アナリティクスっていってそういうの見れるんですね、どれぐらいの方が視聴されてるかっていうのは。
毎日数百人の方がお寺に来てお話を聞いてるって想像するとすごいことじゃないですか。だから本当にありがたいですね。本当に皆さんありがとうございます。
私が仏教っていうのは人生を捧げているものなので、それの価値を皆さんがちゃんとわかってくださるんだなということがわかるとすごく嬉しいし励まされるんですよね。
これからももっと一層仏教の素晴らしさ、本当仏教は沼ですので、勉強すればする分、どんどんはまっていくものなので、もっと仏教に親しんでもらうために、仏教の良さをわかってもらうために、私自身もなお一層研鑽を積んで、そして皆さんにわかってもらえるように頑張っていきたいなというふうに思っています。
それでは、今回のお話に入っていきましょう。今回も、仏陀が亡くなる前後の要請が収録された大八涅槃経、大パリニッパーナ経と呼ばれるんですけれども、これに基づいてお話をしていきたいと思います。
悪魔との対談後、人生に幕を下ろす決心をされた仏陀は、菩薩という御中を訪れて、そこで弟子たちに、自分が説いた教えの真偽を確かめる判定批准について説かれました。
これは、もし自分が亡くなった後に、自分は仏陀、また有名なお坊さんたちから、こういう教えを聞いたと主張するお坊さんが現れても、それを鵜呑みにすることなく、お経と律、律というのはお坊さんの行動の規則集ですね、これに照らし合わせてから判断しなさいということを言われているんです。
仏陀が生きておられる時というのは、この仏陀の教えの真偽、これは直接仏陀に問えばよかったんですけど、仏陀が亡くなった後というのは、どれが仏陀の教えで、どれが仏陀の教えじゃないのかがわからなくなるんですね。
そのことを仏陀は危惧されて、こういうことを説かれた。そして具体的に4つのケースを想定して仏陀は語られています。
ちょっと順番に言いますね。もしあるお坊さんが、私は仏陀から直接各々しかじかの教えを受けましたと主張する時には、それをお経と律に照らし合わし、どちらにも合致しないなら、このお坊さんが誤って理解していると結論しなさい。
反対に合致するなら仏陀の言葉と理解しなさい。こういうケースは現代でもありますよね。有名な先生がこう言ってたとかですね。私も結構いろんな方から言われるんですよ。でもね、それはダメだってことをここで言われてるんですね。
お経にあるかどうかを、ちゃんと判断基準にしなさいと。有名なお坊さんが言ってたからと言って、鵜呑みにしちゃいけませんよって言われてるんですね。続いて2番目のケース。あるお坊さんが、私はどことこのお坊さんの組織に属しており、そこでこれが仏陀の教えであると教わりましたと。こういうケースですね。
これは既に地方に散らばった相談グループの中で、教えの差異動ですね。違いというのが生じてたんだろうと思うんですね。それもちゃんと鵜呑みにしちゃダメだよと、お経と律に合わせなさいよってことを言われるんですね。
3つ目のケース。あるお坊さんが、白色な複数の先輩のお坊さんたちから、かっかくしかじかは、仏陀の教えであると直接教わりましたと。こう主張した時には、それをお経と律に照らし合わし、どっちにも合致しないなら、このお坊さんが誤って理解している。合致するなら、仏陀の言葉だと。こう理解しなさいということですね。これも2番目のケースとも重なるところがありますね。
4番目のケース。あるお坊さんが、白色で著名な〇〇というお坊さんから、かっかくしかじかは、仏陀の教えであると直接教わりましたというケースですね。これもね、結構かぶってるんですよ。1、2、3、4というのはね。かぶってるんですけど、まあまあいいんです。私たちは発信者の地位とか肩書きに弱いですね。
有名な大学の先生が言ったとかね。これお坊さんに限らずですよ。SNSとか特にそうですよね。それだけで鵜呑みにしてしまうってことがあるんですけど、それはダメですよということ。さっきも言ったように、この1、2、3、4のケースは、かぶってることも多いんですけど。
インドっていうのは、祝分別って言って、様々なケースを細かく規定して、想定される限りのケースを羅列して、いちいち否定していくってことをやるんですよ。そうじゃないと、でもこれ言ってないからこういうケースはありなんじゃないの?みたいなのが出てくるんですね。それをインドは嫌うんですよ。
だから、細かくケースをやっていって、全部のケースを想定して、それ以外はありませんよってことまでケースをやっていくってことをやるんですよ。今回のこの4つのケースを想定したのはそういうことなんです。だから、ちょっとかぶってないってことがいくつか出てくるんですけど、厳密にケースをやっていくと、この4つのケースがあって、
ちゃんといずれのケースにあっても、お経と律に照らし合わせなさいってことを言ってるんですね。
この4つを次第教法っていうふうに言います。4つの大きい、大というのは大きい。教というのは仏教の教ですね。そして法というのは法律の法。これで次第教法。要するに原点に当たりなさいよって言われてるんですね。
経典の重要性とグループの違い
現代においても、仏陀の言葉だっていうふうに巷で流布されているものでも、経典に載ってないってものがちらほらあるんですよ。
SNSがすごく多いですよ。仏陀がこういうことを言われたんだってあげられて、すごい言葉だってたくさんいいねがついてるんですけど、我々お坊さんは誰もその言葉知らないみたいな。どこに書いてあったの?みたいなことが結構あるんですよ。
どこかでね、おそらく翻訳の過程とかで間違って異訳する方結構いるんですよ。翻訳っていうのはいろんな訳し方がありますよね。ちょっとわかりやすくするために、現代風に合わせて翻訳するみたいなこともあるんですけど、度が過ぎる方がやっぱりおられるんですよ。
度が過ぎて原型留めてないみたいな。あとは元々全然その言葉に詳しくない方。インドの言葉に詳しくなかったら当然翻訳ってできないじゃないですか。でもそれをやってしまう方もやっぱりおられるんですね。
その中で、うーんっていう翻訳があるので、その果てにね、ブッダの言葉だって言われてても、いやちょっとそれはみたいな言葉が出てくるんじゃないかなと思ったりするんですけれども。
今回ご紹介しているこの大発明版経、大パリニッパーナ経ですね。これは現在のスリランカとかミャンマーとかタイとか、このあたりの仏教のグループ、これ定座部仏教って言うんですけど、このグループにおいて保持されてきたお経なんですね。
でも仏教のグループってたくさんあったんですよ。一番多い時には20ぐらいあったって言われてるんですけれども、その中でも定座部と並んで、もっとそれ以上かって言われてるんですけど、すごく大きなインドの北西部分、ガンダーラとかカシミイリとか、あのあたりを本拠地にしたグループはこの同じお経なんですけれども、ちょっとバリエーションが違うお経を持ってたんですよ。
このグループですね、若干違うところがあることで知られてるんですけれども、このグループのお経はですね、大発明版経は。どの部分が違うかというと、その一つがですね、この師大教法の箇所が違うんですよ。
先ほどは、仏陀の教えの判定基準として、お経と律に照らし合わせなさいというふうに言いましたよね。でもこのグループの師大教法の箇所にはもう一つ、お経と律と別の判定基準が追加をされてて、それがですね、こういう基準なんですよ。
仏陀の教えと同じ性質を持っていたら、仏陀の言葉と認めていいっていうものなんですね。なんでこのグループがこんなこと言うのかっていうと、このグループが主張しているある教えが、お経に載ってなかったんですね。
それを他のグループから非難されるわけです。載ってないじゃん。それに対して、うちのグループの創始者が経典を観察をしていたら、浮かび上がってきたんだと。ある文言が頭の中にパッと出てきたんだと言うんですね。
天からの啓示みたいなものと近いかなと思うんですけど、仏陀の教えというものは、句伝、口伝いで師匠から弟子に伝えられてきた、それを暗記するということをやってきたので、その流れの中で、消えてしまったもの、隠れて、没されたもの、忘れ去られた教えもあったんだというふうに言うんですね。
それをうちの創始者が経典をくまなく観察していたら、パッと浮かんできたんだ、見つけたんだと言うんですね。現代の日本人からすると、ちょっとこの感じは理解しがたいかもしれないんですけど、インドは結構あるあるなんですよ。仏教以外の思想でもこういうことを言うんですよね。
だからこれを言われたら、他のグループも、ちょっとね、あ、そうかって言えないなみたいな状況になるんですね。結局、他のグループもこの理屈を使うようになるんですよ。
で、これがね、なんでこんなことを言ったかというと、今の中国とか日本とか韓国に伝わっている大乗仏教って言われますよね。この大乗仏教のお経は、この発想から生み出されるようになっているんですね。だから仏教の歴史的転換点に関わる話なんです。
なので、ちょっと今回はこれをね、最後にお伝えしたかったんですね。次回はブッダが亡くなる直接的な原因についてお話をしたいと思います。ここからはアフタートークです。
仏教と経済の関係
私ね、ポッドキャスト他のも結構聞くんですけれども、その中でよく聞いているのが古典ラジオっていうものがあって、これすごく面白い。ご存知の方もおられるかなと思うんですけれども、この中で、あ、これ違うな。古典ラジオじゃないですね。古典ラジオのスピーカーの深井さんが出ておられる別の番組ですね。
アースコープかな。という番組があるんですけれども、その中で九州大学で文化人類学を教えておられる飯島修司先生が出演されてたんですね。そこでね、こんなことを言われてて、日本人がバリ島に旅行に行ったときに現地で買い物をすると金額をふっかけられるみたいな話がよくありますよね。でもそれは実は違うんですよって言われてたんです。
バリ島にはもともと4つの階級があって、その中で僧侶が一番上らしいんですね。その階級によって値段が変わるんだそうです。格好とか見たらその人の階級が、商人の人はわかるんですね。だから僧侶階級の人が来たら、例えば鉛筆1本でも1000円とか言って、でも僧侶もそれわかってるから普通に1000円払うわけですね。
一方で貧しい階級の人が買いに来たら、その人は貧しいってことがわかるので10円って言って10円で鉛筆を売る。ところが日本の観光客とかが買いに来るっていうのは、海外から来るっていうのはお金持ってないとできないですよね。だから余裕のある人なんだっていうふうに現地の商人の方たちは見なすんだそうです。
だから現地の人たちから見ると、海外からの観光客とは僧侶クラスになるんですね。だから僧侶価格を言うわけですよ。でもそういう事情は日本人は知らないですよね。だから物価が安いバリでこんなに高いわけがないと、これはふっかけられてるんだと思って値切りをするんだそうです。
日本ってのは一つのものに一つの値段っていうのが当たり前になってますよね。でも世界ではそうじゃないところが今もたくさんあるんですね。実は明治以前の日本もそうだったって言われてて、御服屋さんとかは相手によって値段が変わってたらしいんですね。
10万持っている人の1万円と1億持っている人の1万円って同じ1万でも価値が違いますよね。そのあたりを考慮して経済というもの自体がデザインをされてたんだと思うんですね。
なんでこんな話するかというと、実は仏教の戒明でありますね。この戒明を戒明料ということでよく高い安いの話になったりするじゃないですか。これもそういうところがかなり入っているんですよ。
私がいるお寺に江戸時代の藩からの古文書が残っているんですけど、そこの古文書に書いてあるのが身分によってどの戒明を与えるかが決められているんです。
武士は陰謀とか、商人階級はこの戒明とか、農民はこの戒明とか、そういうふうに定められているんですよ、藩からのお達しで。身分によってどの戒明を与えるかということが決められてたんですね。
そしてそれに応じて、奥瀬の目安が変わってたんですよ。いくら奥瀬を包むかということが戒明によって違う。つまりそれは身分によって違うということですね。収入が少ない人が当然高い奥瀬はできませんから。その辺が密接にリンクをしてたということなんですね。
現代でもそれが結構名残として残っているんですよ。仏教会ってすごく保守的な界隈なので、因果になると戒明料高いみたいな話がよくありますけど、それが槍玉に挙げられたりするんですけれども、これは日本人がバリ島を訪れたときと同じようなことがこの戒明に対しても起こっているんじゃないかなって私は思うんですね。
そういうところを少しお話ししたくて、今日はAfterTalkでお話しさせていただきました。今回も最後までご視聴いただきありがとうございます。SpotifyとApple Podcastでは番組を星印で5段階に評価できるようになってますので、この評価もしていただけると大変嬉しいです。また次回お会いしましょう。