畏敬の念の定義
おはようございます。心理学者のじんぺーです。心理学に触れる一日一語の司官です。
この番組では心理学の専門用語を毎日一つずつ紹介して、関連した論文も併せて紹介しています。
今日の一語は畏敬の念という言葉です。 畏敬の念とは、
事故を超える広大さに直面した時に心の枠組みを揺さぶられるポジティブとネガティブが入り混じった感情というふうに、ここでは定義をしたいと思います。
ちょっとわかりにくいと思いますので、一つずつ説明をしていきたいと思います。
今日の論文は、畏敬の念というものを紹介するのにうってつけかなと思っているのですが、「What is awe?」というタイトルのアメリカンサイコロジストという雑誌に今年載った論文です。
レビュー論文なので、どう紹介していこうというところですが、まず畏敬の念という言葉が心理学の中で研究されてきています。
これは、ここ22年間、すごく伸びてきた分野になっています。
なぜわざわざ22年と言っているかというと、明確に2003年にケルトナとハイトという人が書いた論文がすごくインパクトがあって、そこに書かれている定義みたいなものに沿って研究することによって多くの研究グループが畏敬の念というものの研究、
そういった感情の体験を研究することがやりやすくなって広まっていったという背景があります。
そのケルトナとハイト、2003年の論文が何を言っているかというと、今さっき今日のイチゴですと言ったところでお話しした2つの特徴があります。
1つが前半の自己を超えるような広大さに直面する、もう1つが心の枠組みを揺さぶられるというこの2つです。
英語だとバストネス、もうめちゃくちゃ大きい巨大さ、2つ目がニードフォーアコモデーションと言ったりします。
ニードフォーというのは何々を必要とする、アコモデーションというのは適応する、適応の必要があるというそういった2つの定義があります。
1つ目が大きさ、こっちはまだ分かりやすいですよね、でかいということですよ、グランドキャニオンとかエビレストとかでかいじゃないですか、
ああいうのを見ると人はイケロネンを感じる1つの要素であるということ、で星空とかオーロラとか宇宙とかそういった巨大なもの、
物理的に大きいものだけじゃなくて天皇陛下とかわからないですけど大きいですよね、その存在としてちょっと大きい感じがするものに対してもイケロネンって人を感じるんですよね。
あとは職人芸とかそういう目には見えないんだけどもとても大きな何か力があるっていうものを感じると人はそのイケロネンを感じる1つのきっかけというか1つの条件が揃うって感じです。
もう1つの心の枠組みが揺さぶられるっていう方なんですけど、これはそういった大きいものに直面したときに自分のこれまでの見方を更新する必要があるっていうふうなことがこのイケロネンでとても重要な要素として扱われています、言われています。
これも例えがあったほうがいいかなと思うんですけど、例えはさっき言ったグランドキャニオンとかエビレストを見たときにこんなに大きいものがこの世にあるのかという世界観が変わりますよね。
今までの自分の見てきた世界というのはとても小さな世界だったんだっていうそういったスケールが変わるっていうこともあり得るだろうし、宇宙の映像とか銀河とかを見るとなんか人間ってとてもこれもまた小さいんだっていうところですけど、そういったことを感じるだろうし、
あとは初めて見る芸術とかね、画学の前の研究を自分はしてますけど、それを見たときになんかこれ今までのアートの見方だったらわからない、捉えきれないみたいなときにその認知の更新が必要になるっていう、枠組みを変更する必要があるっていうことに迫られるっていう、これがイケロネンのもう一つの要素として自分の見た目を変えることができる、
これがイケロネンのもう一つの要素として重要であるというふうに言われてます。繰り返すと巨大なもの、自己を超える広大さ、巨大さ、あとは心の枠組みを揺さぶられるという2つです。これがケルトナーとハイトの論文に書かれていて、みんなこれを使ったわけです。
そういうふうにイケロネンっていうのは操作的定義って言ったりしますけど、とりあえずこういう定義でやっていきましょうみたいな定義で打ち出されたことによって研究は進んできた。どういう研究をされてきたかというと、これもいろいろあるんですけど、割といろんな効果があるよねっていうことが言われておりまして、それもなかなかキャッチなんですよね。
ケルトナとハイトの研究
例えば繋がりを繋がり感を高める。他者とか自然とかコミュニティへの結びつきを強めるということとか、あとは謙虚になりますね。大きいものを見ると自分がちっちゃく感じるので謙虚になる。それによって人に良い行動をしようということにもつながるわけなんですけど、そういったポジティブな効果。
あとは環境への配慮が増えるみたいなこともあったりして、割と時代の要請にも合っているような感じなので、流行ってきたという背景もあるかなと思います。
あとはいろんな文脈でという要素もあって、例えば自然とかそういった映像が一番多いのかな、実験の中では。でもそれだけじゃなくて、例えばさっきも言った芸術体験の文脈でも異形の念で扱えるだろうし、宗教体験の文脈でも異形の念で扱えるだろうし、
いろんな多様な背景の中で育ってきたところがあるのかなと思います。この論文はそういった異形の念これまでたくさん研究されてきたよねというところはもちろん言っているんですけど、割と批判的に今の2つの定義みたいなところに挑戦している論文でもあったりします。
レビュー論文なんですけど、これまで20数年の中でいろんなクオリティの論文があるんですけど、たぶんある基準を満たした168本の論文を読んで、その異形の念の特徴についてまとめたそうです。
そうしたところ、168本のうち130本の論文がさっき言ったケルトナーズ・ハイトの定義を使っていた。パーセンテージにすると77%というほとんどの研究がその定義を用いていた。
一方で、実際にその巨大さと枠組みを揺さぶられるみたいな、そういったさっきの2つの定義をちゃんと実証的に測ったような研究というのはほとんど行われていないという突っ込みどころがあるというところでございまして、それでいいのかなということを言っています。
どうしていけばいいのかというところなんですけど、結構難しいところがありますが、他にもいろんな定義があるわけです。
コネクニ2005、これコネクニってあっているのかな、読む方。
3の論文だと、生き栄の念というのは恐怖プラス喜びの複合であるということ、あとは存在的な安全、自分は今安全な場所にいるということが前頭とされるという定義がされていたりとか、他の研究だと生き栄の念には2つの種類があって、
一つは短期的で強烈な生き栄の念、もう一つは長期的で持続的に変化を動機づける生き栄みたいなそういう分類をする人もいたりとか、あとは体験的次元がいろいろ分かれていて、
親善さ、つながり、実存意識、これちょっと難しいな、そういう複合的な概念であるというふうな定義をしている人たちもいたりして、いろいろあるので、
ケルトナーとハイトのさっき言った巨大さと認知的枠組み更新みたいなそういった定義ばっかり使わないでおこうよという訴えとかもしていたりします。
あとは生き栄の念というのを何か固まった概念として扱うんじゃなくて、まだまだそれすらも精緻に見ていく必要があるし、
例えば質的な研究も組み合わせたりとかしていくといいよねって言ってたり、あとは文化とか言語によっても生き栄の念を生き栄の念と訳すことに対する疑義みたいなものもあるわけですよ。
生き栄の念というのかイフというのかどっちも役としてはあっているんですけど、結構印象が違うじゃないですか、生き栄の念と言われるときとイフと言われるときとみたいな話とか、難しいんです。
研究の再考
こういった定義をしようということはすごく勇気のいる試みだと思うし、それによって研究がたくさんされてきたというこの20数年の歴史は結構ポジティブに捉えていいことだと思うんですけど、
一方でそれを見直すときが来ているのかなということとか、あとは使う状況によっても違うかもしれないし、ハート文脈、宗教文脈とか違うかもしれないし、使う国とか文化によっても違うかもしれない、言語によっても違うかもしれないということがあったりとか、
あとは生き栄の念の中にポジティブな生き栄の念とネガティブな生き栄の念があったりとか、あとはさっきちらっと言った短期的な生き栄の念もあるかもしれないし長期的な生き栄の念もあるかもしれないしということがあるわけなので、そろそろその分類分けとか言葉の使い方とかをアップデートしていくいいタイミングなのかなということなのかなと思っています。
研究で自分もよく使う概念なので、ちょっと厚くなってしまいました。奥が深いですよね。
美しいという言葉もそれどうなのということもあるんですけど、美しいと生き栄の念というのは美学のこれまでの研究においても相反するとまではないんですけど、生き栄の念というか崇高さか、
これは結構二大巨頭みたいな感じなんですよ、美学の中では。なのでそういう点でもすごく重要なんですけども、今日はケルトナーとハイトという人が2003年に作った定義ということがすごい定義があったんだよということと、
あとはそれが再考されるべき時が来てるんじゃないかっていうこのめちゃくちゃ最近出た論文を紹介させてもらったという感じです。マニアックだったかな。
まあ土曜日だからいいか。何か生き栄の念について思うことがあれば教えてください。
なんかその巨大さっていうのはちょっと微妙だよねみたいな話をちょっと日本人としては思わなくもないですけどね。
ちっちゃいものにも生き栄の念感じるよねっていうこととか思いません。
終わりそうなところで最後また一個投げかけてしまいましたが、議論は続けていきたいなと思ってます。
最後まで聞いてくださってありがとうございました。今日もいい一日にしていきましょう。
陣平でした。心を込めて。