ちょっとずつ後半の話に入っていこうかなと思ってるんですが、
ちょっとずつ後半の話に入っていこうかなと思ってるんですが、
あの論文の、
シティズンシップ教育学会に出てた論文も、
シティズンシップ教育学会に出てた論文も、
これを概要欄に貼っておくと、
多分誰でも読めると思いますし、
日本語で書いてくださってるので、
ぜひ読んでいただきたいんですけど、
民主主義に関する論文って感じなんですか、イメージ的に。
民主主義に関する論文って感じなんですか、イメージ的に。
民主主義の土壌に寄せる論文か。
民主主義の土壌に寄せる論文か。
ちょっとその論文についても、なかなか文字とかだけで、
言葉だけで説明するの難しいかもしれませんが、
どうですかね、ちょっとだけ説明いただいてもよろしいですか。
はい、もちろんです。
私の論文のタイトルは、
若者の語りに見られるエージェンシー、
私の論文のタイトルは、若者の語りに見られるエージェンシー、
ちょっと待ってください、自分の論文のタイトルで。
ちょっと待ってくださいね。
若者の語りに見られる社会に向けての
エージェンシー発揮とその条件。
発揮の背後にある資本権威構造に着目してっていう
サブタイトルをつけてるんですよね。
民主主義という言葉は出てこないんですけど、
民主主義という言葉は出てこないんですけど、
私は自分の中での認識として、
エージェンシーっていうものが、
日本語だと行為の主体性と、
日本語だと行為の主体性と、
ざっくり主体性と言われてしまうこともあるんですけど、
ざっくり主体性と言われてしまうこともあるんですけど、
エージェンシーっていうものが、
民主主義を要素で割っていったら、
すごく根本要素だなと思ってて、
エージェンシーの定義を私なりに話すと、
エージェンシーの定義を私なりに話すと、
影響するために、例えば神経君、文ちゃんに、
私が何かしらの行動なのか、言葉なのかで、
何か影響を与える力のことを、
エージェンシーだと思っているんですよね。
やっぱり民主主義って、
人々がなるべく、
みんなそのコミュニティにとっての最善を、
みんなそのコミュニティにとっての最善を、
目指していくそのプロセスのことだと思っているので、
一人一人の言動、まずエージェンシーがあって、
それによって出てきたものを対話なり、
何かプロセスを経て最善作を見つけていくっていうことに、
エージェンシーは必要だなと思っています。
エージェンシーっていう単語は、
主体性という言葉にも置き換わって、
日本の教育では使われるようになってきた言葉だな、
日本の教育では使われるようになってきた言葉だな、
と思っているんですけど、
そのエージェンシーを発揮するために、
若者はもっと主体性を身につけた方がいいとか、もっと社会や政治に向けて主体的な市民を育もうみたいな意識や狙いが教育だったりとか、
政治的にももっと若者を先頭に投票してくれ、みたいなのもあると思うんですよね。
なんですけど、私の課題意識としては、そもそもエージェンシーというか、若者が何かしら言動行動を発せないのは若者のせいなのか、みたいなところが、
本当に?みたいなのが自分の意識と課題としてあって、疑問があったんですよね、それが。
いろいろ説明でいくと、やっぱり若者の社会参画状況みたいなのをモーラー的に把握してる人は世界中に誰もいない。
なぜか、政治参画とか社会参画が落ち込んでいる現状みたいなものは、若者に焦点があった。
若者の政治参画意識が落ちてるよね、みたいなことですごく語られやすい絵というのがあって、なぜか個人のせいというか、若者の行動が意識が低い、行動してないみたいなところに落ちちゃうんですけど、
本当に若者のせいかどうか、そもそも若者の行動をモーラー的に把握してないのに、そんな意識も行動も低いしやってないよねっていうのはおかしくないっていうのが私のところであって、
やっぱり調べていくと、デモとか選挙とかで政治参画とか意識とかの度合いが測られてるって言うんですけど、もうそれって昔からそんなのじゃ測れないよねって言ってる人がいる。
やっぱり調査をする、調査というかしっかり把握した上で、本当にエージェンシーが高まるための何か教育なのか何かしらの施策を考えるのがいいだろうというふうに思って、少ない人数だけど、
私が定義した若者の18から30歳の人たちに向けて、ライフストーリーインタビュー的なことをさせてもらって、普通に生活している中で若者たちが、社会といってもすごい広いですけど、
大体学校とか部活動ぐらいのコミュニティから、多くは国レベルのぐらいの規模の社会に向けて、何かしら変える行動を取ってるのかみたいなのを、一旦その人の経験を長いスパンで語ってもらうことによって、
本当にみんなは行動していないのか、意識がないのかっていうのを、ひも解きにいった研究なんですけど、結果として別に若者は、みんな社会を悪くしたいとも動きたくないとも思ってるわけではないし、別に意識が高い人だけが変えてるわけでもない
というのが浮かび上がってきたのと、圧倒的に、ある一定ラインを超えると、若者はそもそも、社会を変えようと思えなくなるラインがあるなと、社会学の定義的なものを使って、ミクロ、メソ、マクロっていう階層で分かったときに、このマクロレベル
の教育を変えられるという教育をしてきていなかったんですよね。
例えば、何だろうな、先生、マクロってすごく大きな話だけではなくて、それこそ、何て言うんだろうな、教育を変えられるという教育をしてきていなかったんですよね。
例えば、何だろうな、先生、マクロってすごく大きな話だけではなくて、それこそ、何て言うんだろうな、先生とか年長者の男性がやっぱり声が大きいみたいな社会構造を変えるために、年長者が声を上げて、実際に年長者が変えるっていうことを、例えば学校内で起こしたら、それってものすごい社会を変えてるというか、
それに対して批判の目を向けて、本当に今まであったルール、社会規範を変えてるから、それはすごいマクロレベルにアプローチしてることだと思うんですけど、やっぱりそういう経験を積んでないんですよね。
【森】学則内だったら変えられるんだけど、学則を変えようってとこに行かない。先生とか年長者とか、いわゆる権威を持ってる人たちに対して何か声を上げるっていうと抑圧される経験をしていたりとか、逆に自分も定義的な立場で実は変えていて、
例えば部活動とかでも、高3になると変えてるんだけど、高1、高2だと変えられてないっていう声とかが上がってきたときに、これは若者のせいではないなみたいな。やっぱりそのマクロレベルにも自分が影響力を発揮して変えるという経験をしていないということが、
エージェンシーを発揮する阻害というか、そこのレベルに何か要因があるなというふうに思って、長くなっちゃったんですけど、そういう研究です。
学校教育の現場とインフォーマル教育の現場は両方必要だなと思ってて、学校教育だと今まで書かれている論文でやっぱり先生に対してとか、先生がプログラムに対して批判できるという環境が結局すごく主権者教育につながる。そこまで意見を言えることができて初めて
社会を変えていくというか、そういう力が養われていくよねっていう風に言ってる方がいて、本当にそれは、とはいえただ、やっぱり評価っていうものもついてくるし、評価されるっていう評価をしなきゃいけない。さらに先生の上には文科省があったり、さらに
何て言うんですかね、やっぱり完全に批判的に先生とかカルキュラムを批判したとして、生徒だけの意見を取り入れるのはすごく難しいところもあるのはわかっているので、学校教育の中でもそれをできる限りやったらいいし、インフォーマル教育は逆に成績とか評価が
大きな影響を受けていかないといけないと思うんですよ。
【佐藤】ありがとうございます。
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【佐藤】ありがとうございます。
【佐藤】ありがとうございます。
【佐藤】ありがとうございます。
【佐藤】ありがとうございます。
【佐藤】ありがとうございます。
【佐藤】ありがとうございます。
【佐藤】1時間がすっと過ぎまして、
【佐藤】そろそろ締めに入りたいなと思うんですが、
【佐藤】ちょっとね、行ったり来たりというか、
【佐藤】僕が話を逸らしてしまったところとかもあるんですけど、
【佐藤】めいちゃんの、ずっと1時間の話で共通してたのが、
【佐藤】してたなと思ったのが、
【佐藤】すごいこう、それぞれの人のせいじゃないみたいな、
【佐藤】その感覚は、よくわかるし、
【佐藤】それを研究で、
【佐藤】研究だけじゃないけどもちろんコンパスで活動もありながら、
【佐藤】他のいろんな活動、リキタス、最初の話戻るときの話とか、
【佐藤】いろんなのを含めてやってらっしゃると思うんですけど、
【佐藤】研究というのも1つのツールとして、
【佐藤】そういうことを言いたいのかなというふうに、
【佐藤】ご本人からお話を聞きながら思ったんですけど、
【佐藤】そういう感じであってますか、雑まとめだとすると。
【めい】あってます、あってます。
【めい】それぞれのせいじゃないし、
【佐藤】何か見えない力みたいなところに、
【佐藤】みんなで自覚的になって思った前に、
【佐藤】そこに問いを向けていくみたいなことを、
【佐藤】自分もいろんな人とも大事にしたいなっていうのが、
【佐藤】多分私の強いメッセージなんだと思います。
伝わりましたし、聞いてる人にも伝わってるんじゃないかなと思います
ありがとうございます
じゃあ、改めて2人に今日の感想でも
今思ってることでもいいんですけど、シェアいただいて終わろうかなと思うんですけど
文ちゃんからじゃあお願いしていいですか?最後めいちゃん振ります
いやー、めいちゃん呼べてよかったなっていう
ありがとうございます
なんかやっぱりめいちゃんの話聞いて思ったのは
まずなんかやっぱり怒りのエネルギー結構大事だなっていう
その問題意識、やっぱり研究者も問題意識を持ってる
文を書いて研究してるので
で、あとその怒りのここ先というか意識がどこに向けるかってすごく大事で
個人主義の世界で生きてると、なんか自分が悪いか相手が悪いかみたいな
怒りのエネルギーを人同士の中で循環させちゃってるんだけど
いやいや、これを作っているその構造どうだっけ?とか社会どうだっけ?みたいな
あ、おベビが
今ね、じんぺくの画面に出てきてくれたんだけど
なんかその自分のエネルギー、貴重なすごくそういう問題意識とかエネルギーのここ先を
どこに向けて問題を考えて探求するかっていうのは
めちゃくちゃ無用だなっていう
やっぱりめいちゃんの話とか、いつもめいちゃんは結構異界のエネルギーを持ってくれてるんだけど
それがね、あんま個人に向いてないんだよね
で、それ俺すごく建設的だなと思っていて、それがね割とコンパス組織の中にも
結構循環していて、この前すごく一個だけ具体的な面白かったのと言うと
一緒に仕事しているメンバーで、なんかその合宿やるからお財布を誰が管理しなきゃいけなくって
例えばパタパタしたら管理を任せた人がうまく管理できなかったんだけど
その時にパッとしたらその人にもっとこうしたらいいじゃんって話に
すぐなりそうなところをコンパスメンバーは
いや、今この状況でこの人にお財布を任せたこのチームの仕組みの問題あるよねっていう風にすぐこう
個人の問題は戻さないわけよね
だから、そういうまさにこういう考え方、大事にしてる人が集まると
そういうコミュニケーションが作れるんだって、具体的にみたいな
場面とかもあって、そういう社会がいいなって思った
そういう社会がいい