お鷹、鍛冶所の家を断る
おしゃべり本棚 この時間は福岡のRKB毎日放送のアナウンサーによる朗読をお送りします。
山本周五郎作 日本不動機より糸車その4
膝の上に揃えた両の手を固く握りしめながら、 お鷹は怖ばった顔をじっとうつむけていたが、
鍛冶所の言葉が終わると静かに目を上げて、 「おぼし虫はよくわかりました。
本当にありがとう存じますけれど、私やはり 松城へ帰らせていただきます。」
抑揚のない声でそう言った。 鍛冶所の方のあたりがかすかに引きつった。
「でも与田殿とはもう話がついているのです。 どちらのためにもこれが一番よいと与田殿も言っておいでなのですよ。
それをご本心だとおぼしめしますか。」 お鷹はそっとかぶりをふり鍛冶所の目を見上げた。
「与田の父がそうおっしゃるのは、 こちらへの定義からだとはお考えになれませんか。
あなたは今、人の親としてこうよそへやることが どんなにつらいものかということをおっしゃいました。
血離れをするまでの親子でもそれほどなのに、 十八年も一緒に暮らしてきた親子はそうではないとおぼしめしですか。」
お鷹はそう言いながら、松本へ行けと言われた夜のことを思い浮かべた。 あのとき与田の父はこちらへ背を向けてお鷹に肩を揉ませながらあの話を切り出した。
父はお鷹の顔を見ることができなかった。 自分のつらい顔も見せたくなかったのだ。
それが今お鷹には痛いほど直に思い当たる。 どんなにおつらい気持で松本へ行けとおっしゃったろう。
お鷹は胸を刺されるように感じながら静かに続けた。 与田の家は貧しうございます。
私が糸繰りをしてかつかつの暮らしを立てているのも本当です。 けれどもそれはあなたがお考えなさるほどの苦労ではございません。
こう申し上げては言葉が過ぎるかもしれませんけれど、 今度のことさえなければ私幸せ者だとさえ思っておりました。
与田の父はもったいないくらい良い父でございます。 弟も親身によくなついていて母のように頼っていてくれます。
私にはあの家を忘れることはできません。 今になって父や弟と別れることは私にはできません。
それだけの深い思いやりを私たちにはしておくれでないの。 家事所はすがりつくような口ぶりでこう言った。
ここをおまえのお部屋にと思って襖を張りかえたり蝶戸を飾ったり、 新しく窓を切ったりした。
着物や帯を織らせたり染めさせたりして、 今度こそ親子兄弟そろって暮らせると楽しみにしていた。
これでこそ父上もご出世の甲斐があると喜んでいたのですよ。 それを考えておくれではないのかえ。
それは藍眼とも言うべき響きを持っていた。 心を引き裂かれるような思いで、これが親の愛情だと思いつつお鷹は聞いた。
このためには、こう愛する蝶のためには何も押し切ろうとする、 それが親というものの心であろう。
悲しいほどまっすぐな愛。お鷹はよろよろとなり、 母の温かい愛の中へ崩れかかりそうになった。
自分のために模様替えをしたというその部屋、 新しい蝶戸や衣装、どの一つにも誠の親の温かい愛情がこもっている。
その一つ一つが手をひろげて迎えているのだ。
けれどもお鷹は懸命に崩れかかる心を支えた。 自分はその愛を受けてはならない。
よだの家を出てその愛を受けることは、人の道にはずれるのだ。
こう自分を叱りつけながら、お鷹はやはり松城へ帰るとくり返した。
みなさまのお幸せな御様子も拝見しました。 もう一生お目にかかれなくとも心残りはございません。
どうぞお鷹はこの世にないものだとおぼしめして、 これ限り忘れていただきとございます。
家事所は静かに立って行った。
すぐに弟の靖の嬢が来、あとから金田雄と長男戸が来た。
みんな言葉を尽くしてここに留まるようにと口説いた。
お鷹はもう何も答えなかった。
壮心したように目をつむり、かたつきのかたい姿勢でしんと座っていた。
それはまさしく門罪のように苦しい瞬間であった。
松城への帰還と慶志郎への訴え
あくる朝、まだ炎ぐらいうちにお鷹は松本を立った。
来るときの老木と花妃が友について、
家事所と靖の嬢とが上下から一里余りの中原という辻まで送ってきた。
そしてそこの掛邪屋で一緒に茶をすすり、しばらく別れを惜しんでから田元をわかった。
二人はお鷹の姿が道を曲がって行くまで見送っていたが、
お鷹は一度も振り返らず、まっすぐに並木の松の彼方へ去って行った。
道を急いだので松城へは三日目の昼前に着いた。
城下町が見えだすともう胸がいっぱいになり、
いくら吹いてもあとからあとから涙がこみあげてきた。
ほんのわずかな留守だったが、山々の姿も、
筑間川の流れも懐かしく、目につくほどの木立や丘や団畑、
路上の石ころまで呼びかけたいような懐かしさが感じられて、
国へ帰ったという気持ちがした。
松之助は慶子からまだ帰らず、家には慶七郎ひとり、
ちょうど薬棟を煎じていたところだった。
老木の訪れる声を聞いて玄関へ出てきたが、
入ってくるお鷹を見るとあっという表情をした。
ただいま戻りました。
お鷹は簡単にそう挨拶をすると、すぐ裏へ回って自分のすすぎをし、
友の二人にもあがって一晩泊まって行くようにと言った。
しかし彼らは玄関で西村からの向上を述べ、
手土産などを置いてあがらずに立ち去った。
どういうわけで帰った。
差し向かいになって座ると、
慶七郎は煎じていた薬棟を湯のみに継ぎながらそう言った。
持たせてやった手紙は読まなかったのか。
拝見いたしました。
それなら事情はわかっているはずだ。
俺も安穏な余生が遅れるし、お前の一生も幸せになる、
そう考えてしたことなのに、
目先の城に溺れて何もかも打ち壊してしまうつもりか。
お許し下さいまし、父上様。
お鷹は皮脂と乳を見上げ、そこへ手をついた。
私もっと働きます。お薬にもご不自由はかけません。
お好きなものはどんなにしても整えます。
もっとお見回りもきれいにして、お住み心地の良いように致します。
ですからどうぞお鷹をこの家に置いて下さいまし。
お前には俺の気持ちがわからないのか。
俺がそんなことを不足に思っているように見えるか。
俺がお前を西村へ帰す決心をしたのはわかっております。
私にはわかっておりますの、父上様。
お鷹は父にその後を続けさせまいとして遮った。
わかっておりますけれど、お鷹は一度よそへやられた子でございます。
血離れをしたばかりで母の懐からよそへやられたお鷹を、
父上様はかわいそうだと思っては下さいませんか。
もしかわいそうだと思い下さいましたら、
ここでまたよそへやるようなことはなさらないで下さいまし。
だが西村はお前にとって実の親だ。
西村へ戻ればお前は幸せになれるのだ。
いいえ、幸せとは親と子がそろって、
たとえ貧しくて一腕の貝をすすりあっても、
親と子がそろって暮らしてゆく。
それが何よりの幸せだと思います。
お鷹にはあなたが真実のたった一人の父上です。
亡くなった母上がお鷹にとって本当の母上です。
この家のほかに私には家はございません。
どうぞお鷹をおそばにおいて下さいまし。
よそへは親にならないで下さいまし。
父上様、このとおりお願い申します。
松之助の懇願と家に残る決定
父上!と叫びながら松之助が馳せ入ってきた。
慶子から帰って表で二人の話すのを聞いていたのだろう。
目にいっぱい涙をためながら入ってくると、
姉と並んでそこへ座り、半ばむせびあげながらこう言った。
どうぞ、姉上を家においてあげて下さい。
父上、こんなにおっしゃっているのですもの。
どうかよそへはやらないで下さい。
お願いです。
慶志郎は目をつむり、青ざめた表を伏せ、
両手を膝においてじっと黙っていた。
それは大きな鋭い苦痛に耐える人のような姿勢だった。
そして長いこと、お鷹と松之助とのむせびあげる声だけが、
貧しい部屋の壁や襖ふすまへしみいるように聞こえていた。
では、家にいるがよい。
慶志郎がやがてうめくような声でそう言った。
西村殿へは、父から手紙を書く。
もう松本へはやらぬから。
松之助は姉の膝へ飛びつき、
涙にぬれた頬をすりつけながら声をあげて泣きだすのだった。
糸車の音に託された家族の思い
さわやかな朝の日光があかり生地いっぱいに差しつけている。
いかにも春らしく心を温められるような明るさだ。
お鷹の操る糸車の音が、
ぶんぶんとそのうららかな朝の空気をふるわせて聞こえてくる蜂の羽音にも似た、
静かな心の落ちつく柔らかい音である。
慶志郎はそれを聞きながら、
お前、成人したら姉上をずいぶん幸せにしてあげなければいけないぞ、
と松之助に言うのだった。
大きくなればわかるだろうが、
姉上はこの父やお前のために、
せっかく幸せになれる運を捨ててくれたのだ。
自分のためではない、
父とお前のためにだ。
忘れては済まないぞ。
松之助は父の目を見上げて、
少年らしくはっきりとうなずいた。
糸車の音はぶんぶんと歌うように静かな唸りを続けていた。