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おしゃべり本棚。この時間は福岡のRKB毎日放送のアナウンサーによる朗読をお送りします。
島崎東村作刺繍 最終回
汚染がある医者のところへ片付いたという噂は、何か重荷でも下したように大塚さんの心を離れさせた。
かつて彼の妻であった人も、今はもう全く他人のものだ。 それを彼は実際に見てきたのだ。万事大塚さんには惜しくなってきた。
女というものの考え方からして変わってくるようになった。 男の心情などはそう理解されなくともいい、仕事の手伝いなどはどうでもいいとなってきた。
働き者だとか気性まさりだとか言われて、男と戦おうとばかりするようなシャンとした女よりも、
かえって涙もろいやわらかな感じのする人の方が好ましい。快活であればなおよい。
移りにも一概には退けられない。 不義するくらいのものは、どこかに人の心を惹く懐かしみもある。
ああいう汚染のような女をよく面倒を見て、気長に注意を怠らないようにしてやれば、
年をとるに従って存外いい主婦となったかもしれない。 多情も熟すれば美しい。
人間の値打ちはまるでひっくり返してしまった。 彼は汚染と別れるより他に仕方がなかったことを悲しく思った。
なぜ初めからもっと大切にすることはできなかったろうと思ってみた。 丸の毛を撫でながらこんな感慨に沈んでいるところへ、
律儀顔な婆さんが勝手の方から廊下を回ってやって来た。 大塚さんの親戚からといって、春らしい到来物がついた。
青々とした笹の葉の上には、まだ生きているような枯れえが幾匹があった。 それを見せに来た。
婆さんは大きな皿を手に持ったまま、大塚さんの顔を眺めて、
「旦那様はお塩焼きの方がよろしゅうございますか。 ただいまは誠にお魚の少ない時ですから、このカレーは珍しゅうございますよ。
03:13
鰹に沢良なぞは、まだ出たばかりでございますよ。」
こう言って主人の喜ぶ様子を見ようとした。 何か汚染の着物で残っているものはないか。
こう大塚さんは何気なく婆さんに尋ねた。 婆さんは不思議そうに、
「奥様のお飯物でございますか。 何ひとつお残しあそばしたものはございません。
何から何までお里の方へお送りしたんですもの。 何にも置かない方がいいなんとおっしゃって。
そりゃ旦那様、お根巻まで後で私がお洗濯しまして、 お布団やなんかと一緒にお送りいたしました。」
と答えたが、 やがて独り言でも言うように、
「旦那様は今日はどうあそばしたんですか。 奥様のお飯物が残っていないかなんて、
ついぞそんなことお尋ねになったこともないのに。」 こう言ってみて、手に持った魚の皿を勝手の方へ運んで行った。
庭で鳴く小鳥の声までも、大塚さんの耳には、 また巡ってきた春をささやいた。
あらゆる記憶が若草のように生き返る時だ。 楽しい体の熱は、
妙に別れた妻を恋しく思わせた。夕飯の頃には、 梁仕事に通ってきている女も帰って行った。
書生は電話口でしきりとガチャガチャ音をさせていた。 電灯のついた食堂で、大塚さんは例の食卓に向かって、
おせんと一緒に食った時のことを思い出した。 明かりに映った彼女の頬を思い出した。
ことに、湯上がりの時などは、 その頬を赤くして笑って見せたことを思い出した。
お塩焼きはいかがでございますか。 もし何でしたら、ウニでもお付き合そばしたら。
と言って、婆さんは勝手の方から来た。 婆さんの孫娘が賢まって休辞する傍には、
丸もいて、主人の空奉を眺めたが、時々物欲しそうな声を出したり、 拝むような真似をしたりした。
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おとさたのない、どうしているかわからないような息子のことも、 大塚さんの胸に浮かんだ。
大塚さんは全く子がないではない。 一人ある。
しかも今では温心不通な人になっている。 その人は大塚さんがずっと若い時にできた息子で、
体格は父に似て大きい方だった。 背なぞは父ほどあった。
大塚さんがこの息子にお線を紹介した時は、 若い母の方がかえって年下だった。
由島の家の方で親子そろって食った時のことが浮かんできた。 この同じ食卓があの以前の住まいに置いてある。
青傘のランプが照らしている。 そこには片付いてきたばかりのお線がいる。
彼女のことを、お線さん、お線さんと親しげには呼んでも、
決して、お母さんとは言わなかった彼の息子がいる。 もっとも、
その頃から次第に息子は家へ寄りつかなくなっていったかとも思われる。 食事の済む頃に、
婆さんは香ばしく淹れた茶と干しぶどうを小皿に持って持ってきて食卓の上に置いた。 それを主人に勧めながら、
お張りに来ている女の置いていったという話をした。 あの人がそう申しますんですよ。
こちらの旦那様も奥様を探していらっしゃるご様子ですが、 ちょうど良さそうな人がございますとかって。
聞き込んだ筋がいいそうでして、 なんでもお家はお寺様だそうでございますよ。
その方はあんまりお家の格がいいものですから、 それで帰ってお嫁に行き損なっておしまいなすったとか。
学問は終わらなさるし、立派なお方なんだそうでございます。 お年は四十ぐらいだとか申しました。
まだお一人で。 よく家族様方のお嬢様などにもそういうふうで年をとっておしまいなさる方がお案なさいますそうですよ。
それからあの人が、 ちょうどあのくらいの奥様がおためにもよろしかろうかってそう申してますよ。
もっともこればかりはご縁でございますから。 こういう話を聞くたびに大塚さんは耳を塞ぎたかった。
09:14
汚染のような妻と一緒に住むような日は、もう二度となかろうか。 それを思うと銀座で会った人が余計に大塚さんの目の前にちらついた。
黄ばんだ柳の花を通して見た彼女。 たとえ一目でもそれが詳しく細かく見たよりは、
なんとなく彼女の落ち着いてきたことや、 自然に体のできてきたことや、
それから全体としての女らしい姿勢を、 かえってよく思い浮かべることができた。
その晩、大塚さんは自分の寝たり起きたりする部屋にこもって、 そこに彼女を探してみた。
戸棚から用段室から古い手紙の中までも探した。 彼女が夫に当てて書いたということはごく稀だった。
それすらどこかへ散じてしまった。 刺繍が出てきた。
彼女の手縫いにしたものだ。 いい記念だ。
赤い薔薇の花びらが彼女の唇を思わせるようにできている。 大塚さんはそれを自分の顔に押し当て押し当てしてみた。
暖かい晩だ。 この陽気では庭の花盛りも近い。
また夜が明けてからの陽の光も思いやられる。 光と熱。
それはすべての生き物の願いだ。 とは言いながら、婆さんでも丸でも、
事実それを楽しむことは薄らいできた。 辺りの者は皆追い行く。
そういう中で大塚さん一人はますます若くなっていった。