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糸車 その1 
2026-10-10 16:41

糸車 その1 

0210 261010 山本周五郎 糸車 その1 朗読:田畑竜介
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サマリー

山本周五郎の「糸車」その1を朗読する。信濃の松城藩に仕える家の娘・お鷹は、病気の父と幼い弟を支え、木綿糸の内職に励んでいる。ある朝、会所で糸を褒められ、父の好物であるかじかを買ったお鷹は幸福な気分で帰宅するが、父と弟の様子が普段と違うことに気づく。父は、お鷹の実の親である松本藩の西村勤太夫から、病気の岡次が会いたがっているため松本へ来てほしいという使いが来たと告げる。お鷹は幼い頃に与田家へ養女に出された経緯を思い出し、弟が自分の不在を悲しんでいると察する。

かじかを買ったお鷹の喜び
この時間は、福岡のRKB毎日放送の アナウンサーによる朗読をお送りします。
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山本修吾郎作 日本不動機より糸車
その1
かじかやー!かじかを買いなさらんかー!かじかやー!
後ろからそう呼んでくるのを聞いて、お鷹は立ち止まった。
13、4歳の少年がかつぎびくを背負って急ぎ足に来る。
お鷹は、「見せておくれ。」と呼び止めた。
かごの中には、粒のそろった5寸余りある見事なかじかが、まだ水からあげたばかりであろう、ぬれぬれとうろこを光らせて打ち重なっている。
思い出したように激しく口を動かすのもあり、突然ピシピシと跳ね上がるのもあって、ちくま川の水のにおいが面を打つような感じだった。
50ばかりもらいましょう。
そう言ってから、入れ物のないことに気がついた。
どうしようとあたりを見あると、つい向うに荒物屋の店のあるのを見つけ、この間から目ざるがひとつ欲しかったのを思い出した。
あの店で入れ物を求めますから、いっしょに来ておくれな。
近くなら、お宅まで持って行きますよ。
少年は逆しげな目でこちらを見た。
お宅はほほえみながら、それには及ばないと言って歩き出した。
新しい目ざるへかじかを入れて帰る道々、お宅はなんといいようもなく幸せで心豊かにうきうきしてくるのを抑えきれなかった。
どうしてこんなにうれしいのかしら。
なぜこんなに心がはずむのかしら。
何度もそう自分に問いかけてみた。
会所ではほめていただいたし、久しぶりで父上のご好物のかじかがあったし、
空はこのようにはるめいて朝みどりにはれあがっているし、
それでこんなに楽しい気持になるのだろうか。
そんな理由をいろいろ集めてみたくなるほどだった。
そして通りすがりの人の目にもうきうきして見えるのではないか。
そう考えると恥ずかしくて顔が赤くなるようにさえ思った。
病気の父と家計を支える内職
父は与田圭七郎といって、
信濃の国松城藩に仕える五穀二人渕の軽い侍だった。
実直一方の荒い声も立てない温厚な人だったが、
二年前に卒中を病んで勤めを引き、
今でもほとんど寝たり起きたりの状態が続いている。
十歳になる弟の松之助が名義だけ家徳を継いでいたが、
まだ現腹もしていないのでおふちは半分ほどしか下がらない。
母親は松之助が三つの年に亡くなって、
家族は三人だけであるが、
病気の父と幼い弟を抱えての家計はかなり苦しかった。
お鷹は今年十九になるが、
父に倒れられて以来その看護や弟の世話や
こまごました家事のいとまを盗んで、
せっせと木綿糸を食っては生計の足しにしていた。
松城藩では種油と綿紙は大切な産物だったので、
身分の軽い家庭には糸繰りを内職に進め、
器具を貸したり指導したり、
製品を買い上げたりするための会所が設けてある。
十日ごとにできた品を届けるのだが、
今日もお鷹が食った糸束を持って行くと、
いつも係になっている白髪のきつい目をした老人が、
眼鏡越しにこちらを見ながら糸の出来をほめてくれた。
わずかな間に体操上手になられたな。
こなたの糸は富屋でも評判になっているそうだ。
一つには高校の徳かもしれぬが。
少しでも良い仕事をしようと勤めている者にとって、
その仕事を褒められるほど嬉しいことはない。
ことにそれが当たり前の内職ではなく、
藩にとって大切な産物になるのだから、
その意味でもお鷹の喜びは大きかった。
もっともっと良い糸をくろう、
そう思いながら帰る道中で、
カジカが変えた。
卒中を患ってから一度やめたが、
医者の勧めで三日に一度五尺ずつ飲むようになった
父の酒には何より好物の魚だった。
父と弟の変化、松本への呼び出し
会所で受け取ってきた手摩鎮の中から、
焼き節にしても良いからと思って少したくさん買ったのである。
貧しくつましい暮らしをしている者には、
小さな喜びがどんなにも幸福に感じられるのだ。
お鷹はおかしいくらい足も軽く、
久美永屋の住居に帰った。
ただいま戻りました。
とっつきの二条で曽毒をさらっていた弟に、
そう声をかけてあがったが、
松之助は顔を隠すようにして何とも答えなかった。
その時は別に何の気もつかず、
目ざるを持ったまま父の居前へ行った。
帰りにカジカを売っておりましたので、
少し求めてまいりました。
挨拶をするとすぐそう言って父に見せた。
ご覧くださいまし、まだこんなに生きております。
ほう、これは珍しい見事なものだな。
もうこんなにカジカの太る季節になったのだな。
慶次郎は少し震えのある手を差し伸べて、
目ざるの中の魚を好ましそうにつついてみた。
ずいぶん数があるではないか。
まだ高価であろうに。
いいえ、それほどでもございませんでした。
今晩のお酒に甘露煮と魚でんをお作り申しまして、
余った分は焼き干しにしてもよいと思いましたから。
こんな心配ばかりさせてどうも。
つぶやくようにそう言いかけるのを、
お鷹は聞こえぬ風に立ちながら、
さ、早くお支度いたしましょう、と
栗屋のほうへ下がって行った。
父の口ぶりや態度がいつもとは違っている。
お鷹はそれを感ずると同時に、
弟の様子も普段とはまるで変わっていたことに気づいた。
どうしたのだろう。
何か留守に悪いことでもあったのかしら。
お鷹はにわかに不安になった。
そして、それを打ち消したいために弟を呼んでみた。
松之助さん、来てごらんなさい。
見事な生きたカジカですよ。
しかし松之助の返事は突き放すようなものだった。
今勉強していますから後で。
それだけだった。
お鷹はつい今しがたまでのうきうきした気持ちが
悲しいほど重たく沈んで行くのを感じながら
包丁を取って魚を作り始めた。
夕食のあと片付けを済ませてから
お鷹が糸栗の仕事を広げると間もなく
父に呼ばれた。
少し肩を撫でてもらいたいのだが。
父は床の上に起き直ってこちらへ背を向けていた。
脇に置いてある庵丼の光が
痩せた父の鷹頬を痛々しく映し出していた。
お鷹はすぐその背へつかまった。
お寒くはございませんですか。
まだ酒が効いていると見えて
ほかほかといい心持ちだ。
力を入れなくともよい。
そうやって撫でていてくれればよいから。
はい、このくらいでございますね。
お鷹は父の背から肩へかけて
静かに撫で始めた。
松之助は少し前に寝てしまい
ひっそりと静かになった組長屋の彼方から
何か祝い事でもあるのだろう
小歌いの錆びた声が聞こえてきた。
お前、明日松本へ行くのだがな。
父がふと思い出したようにこう言った。
松本ではおかじ殿がご病気だそうで
お前に一目会いたいから
四五日のつもりで来てくれるようにと
お使いの者が来られたのだ。
父上様!
お鷹は思わずそう言った。
手を休めては困るな。
父は笑いながら肩を揺り上げた。
どうにも固い笑いだった。
ご病気という事だし
せめて四五日長い滞在ではないのだから
今度はおとなしく行ってくるがいい。
留守の事はもう石原の御内儀に頼んであるから。
少しはお前の骨休めにもなるであろう
そういう父の言葉を聞きながら
お鷹は弟の突き放すような
さっきの返事を思い出していた。
やっぱりそういう事があったのだ。
松之助はそれを聞いて
幼い頭でどれほどか悲しがったに違いない。
お鷹はそう思いやると鋭く胸が痛み出した。
お鷹の養女としての過去
お鷹には実の親があった。
信濃の国松本藩に仕えて
西村勤太夫という
はじめ身分も軽く大変困窮していた自分に
妻の岡次との間に次々と子が生まれ
養育する事にもことかく有様だったので
しるべの世話で松代藩の与田啓史郎に
お鷹をやったのである。
それから後
勤太夫は不思議なほどの幸運に恵まれ
次第に重く持ち入られて
数年前には環状型頭取りで
550国の身分にまで出世をした。
このように立身して一家が幸福になると
親の情として
よそへやったものが不便になるのは当然のことである。
それもその子が幸せであれば別だが
人をやって尋ねさせてみると
与田啓史郎は妻に先立たれ
お鷹をもらった後で生まれた容弱な子を抱えて
かなり貧しい暮らしをしているとのことだった。
夫婦はいくたびも相談をした上
それまでの養育料を払って引き取ることに決め
叱るべき人を間に立てて与田と交渉した。
その時初めてお鷹は自分の身の上を知ったのである。
啓史郎はありのままに何もかも語った。
そして松本の家へ戻る方がお前の行く末のためだから
そう言って帰ることを勧めた。
お鷹は考えてみようともせずに嫌だと言い通した。
ついには部屋の隅に隠れて泣き出したまま
何を言っても返事をしなかった。
肝心のお鷹がそんな有様だったので
間に立った人もどうしようもなく
その時の話は結局まとまらずじまいだったのである。
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