アウグスティヌス『告白』で、まず印象に残ったのは、悪ぶりたい若者の心理でした。仲間と梨を盗む話、恋愛と別れ、マニ教からの離脱。そこには聖人というより、生々しく迷う一人の人間がいます。『告白』を信仰の書としてではなく、一つの人生の記録として読んでみました。
【言及した本】
・アウグスティヌス、山田晶訳『告白』(全3巻、中公文庫、2014)
・ルソー、桑原武夫訳『告白 上下』(岩波文庫、1966)
・ポール・ウィリス、, 熊沢誠・山田潤訳『ハマータウンの野郎ども:学校への反抗・労働への順応』(ちくま文庫、1996)
・山東京伝「心学早染草」『黄表紙 洒落本集』(水野稔校注、日本古典文学大系59、1958)
感想
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サマリー
アウグスティヌス『告白』を、信仰の書であると同時に、若者の迷いや欲望、仲間意識を描いた人生の記録として読む。梨盗み、恋愛と別れ、マニ教からの離脱を通じて、過去を単純に断罪しない書きぶりや、心の葛藤の分析に注目する。特に「取れ、読め」という声をきっかけにした回心と、その解釈をめぐる山田晶訳の注釈が取り上げられる。後半では時間論や記憶論、山田の解説にも触れ、最後に毎週更新を続ける本語りの難しさと第50回の節目について語る。
『告白』の構成と若き日の悪ぶり
本語り50回目です。 告白といえば、ルソーの告白というのがあります。
こちらは、セキララな自分の体験を述べており、 破天荒な行いに思える人生を送っていたというのが、興味深く読んだ記憶があります。
そのルソーの告白と、葬壁と言えるもので、 アウグスティヌスの告白というのがあります。
ルソーの方は、若いうちに興味深く読んで楽しかったわけなんですけれども、 アウグスティヌスの告白は、まだ読んだことがなかったわけなんですね。
ですけれども、この度、ついに意を消してというほど大げさなことではないんですけれども、 全3冊を読むことができました。
すなわち、アウグスティヌス・山田明訳 告白
中古文庫です。
何しろ、キリスト教においては最重要な人物ですので、 キリスト教関係者の人が第一に読むべき本でしょうけれども、
それ以外にも、私のようなキリスト教信仰がない人も、 興味を持って読むという人が多いでしょう。
構成としては、次段的部分ですね。 それが3分の2ぐらいでしょうか。
閉めておりまして、有名な会心ですね。 キリスト教に会心するシーンなんかがあります。
そして、残りの3分の1ほどで、創世紀の解釈ですとか、 時間論などが展開されているわけなんですね。
私などは、理由なれば文学的な興味と言い換えてもいいんでしょうか。 そういった思いで読んでおりますので、前半から半ばに至る次段的部分というものが、
大変面白く読めましたので、 そこを中心に話していくことになるかと思います。
告白自体は、キリスト教に会心後に書かれているものですので、 基本的に神を称える言葉というものが満ち溢れているわけなんですね。
キリスト教信仰のない意味からすると、 正直言ってちょっとまどろっこしいようなところもあるわけなんですけれども、
これはキリスト教信者からしたら、 失礼な言葉になってしまうかもしれませんけれども、
しかし、基本的にそういうスタンスで書かれていますので、 その部分は慣れてきて、割引いて読めるようになってくるというふうなことがあります。
逆に言えばなんですけれども、この神を称えるような表現というものを、 私のように割引かずに、真正面から付き合っていくという読み方をしていったら、
大変なことだなぁと思うわけなんですけれども、 本来ならばそういう読み方をすることを望んでいるんでしょうし、
信者の方なんかはね、そういった読み方をしてるんだろうなというふうな思いを抱きますので、
言うまでもないことですが、私の読み方というのは、 ごくごく個人的な読みになるということをあらかじめお断りしておこうと思います。
そういう俗な興味から読んでいきますと、面白かったですね。 特にやっぱり前半の若い頃の宝刀というものが良かったです。
噂通りと言いますか。 宝刀と言いますけれども、抱えている範囲ということなのかもしれませんけれども、
悪い行いと言えば悪い行いですが、本当に悪いやつほど悪くないと言いますかね。 ちょっとした悪さぐらいに思えるような行為に留まっているような気がします。
いわゆる極悪人の人を殺すだの云々というレベルではないように思います。 でもそこがまた多くの人に訴えかけると言いますか、
誰でも少しは経験があるようなことがあるんじゃないかと感じさせるから、 訴求力があるなというふうにも一方で思ったりします。
それこそ過去の行いもそうなんですけど、その時の心情というものもよく分析して書いているわけなんですけれどもね、
例えば悪いことを実際するわけなんですが、しかし実際にやっていないのに悪いことをやったふりをするなんていうことも当時の心情を書いているわけなんですね。
要するに悪振るということなんです。 何でかというとやっぱりそれは仲間内での評価というものを気にして、実際よりも悪振るようなことをするということなんですね。
梨盗み、恋愛、マニ教への傾倒
若い頃ので有名なエピソードとしては、梨盗みのエピソードというのがあると思います。 これは梨の木になっている梨を盗むということになるわけなんですけど、別に食べたいわけでもない、
美味しそうでもないと、お腹も空いてないし、いい梨だったら何ならもうすでに持っている。 だけど悪い仲間と一緒にその梨盗みをしに行くわけなんですね。
それはなぜかというと罪自体を楽しんでいるということなんですね。 それも一人でというよりも仲間と一緒にそれをやることが楽しいんだというふうな形で当時の様子を
国名に描いておりますので、こういう心情っていうのは、例えばですけれども社会学の有名な ハマータウンの野郎どもという本なんかありますけれども、そういったいつの時代にも変わらぬ
悪い仲間たちによる警備か、あるいは重たいかはさておき犯罪、罪ですね。 そういったものの心情というものが本当によく描かれているなというふうに思ったりしました。
それこそ16歳の頃なんですけど、これは訳語なんですが、恋に恋するというような時代になるわけなんですね。 そういった時に結局女性と同棲をするということになるわけなんですが、それから子供を
設けるわけなんですね。 それは出来合いするアデオダトスという子供まで設けることになるわけなんです。
お母さんはね、非常にキリスト教信仰に熱心なんですけれども、お父さんはそうでもないという中で、 アウグスティヌス自身はキリスト教は特に若い頃は信仰してないと。
それどころかマニ教というものに控えていくわけなんですね。 マニ教というものを私はもちろん詳しくないわけなんですけれども、それこそイスラームが
キリスト教と同じ神を崇めていて、そして違う宗教になっていると同じような、 と言ったら雑すぎてダメなんですけれども、そこまで根本的に違わないけれども、
だからこそお互いが反目し合っているという状況はあるんじゃないかと思いますけれども、 そのマニ教に惹かれて若い頃そちらで学んでいくわけなんですね。
ここらへん丁寧に追っていくとキリがないので、ぜひ自分で読んで楽しんでいただきたいところなんですけれども、
友人の死ですとか、あるいは学問学芸に精を出して、そこでは精書を読むんだけどピンとこなかったわけなんですね。
そこで修辞学の最終的には先生になるぐらい、ちゃんと学芸は身につけていくということがあるわけなんです。
こういう若い頃の様子を見ていたら、仲間に慕われると言いますか、 良い人だったんやろうなということは、本人ではそんな風に書いてないけど、そういうことを行間から感じたりしますね。
仲間を思う、あるいは恋人を思う、非常に良い人だったんだろうなということを感じさせるものです。
その時なんですけど、成長していったらマニ教で有名な人というものに出会って、アーグスティネスはアーグスティネスで学問も研鑽を積んでますので、知識も積み重なってくる。
それでマニ教で有名なファウスティスという人がいますので、ちょっと話を聞いてみたいという形で出会うことがあったわけなんですね。
そしたら、あれ、この人何にも知らないなみたいな形で、ちょっと失望してしまって、それがきっかけでマニ教から離れていくということがあるわけなんですけども、
ここでもアーグスティネスの書きぶりが良くて、それは何かというと、ファウスティスという人物があまりよく知らないということはすぐに気がつくわけなんだけど、
だけどそれを落としめているというわけではなくて、
インチキな弁論術を駆使するような人たちとは違って、このファウスティスというのはやっぱり人型の人物なんだ。
すなわち、自分が知らないことを無理に知っているように見せかけることは全くないという人物として描いているわけなんですね。
いわゆる無知の知というものに該当するかもしれませんけれども、それはそれでやっぱりこのファウスティスというのは人型の人物だったんだろうなというふうな気がします。
この告白を書いている時点ではキリスト教をゴリゴリに信仰しているわけなんですけれども、
だけどその過去というものをもちろん悔いとか後悔とかとともに描いているわけなんですが、
しかし単純に断罪していないようなところというのが魅力のように感じられました。
別れと欲望をどう読むか
マニ教から徐々に離れていくとなった時に、お母さんをまた呼び寄せたりして一緒に暮らしたりしている時なんですけれども、
お母さんは何しろキリスト教を熱心に信仰していますので、ちゃんと結婚をして洗礼を受けて信者になりなさいということをね、お母さんの願いなわけなんですね。
そのお母さんの願いを叶えようかみたいな思いになるわけなんですけど、その時になんですが、同性愛手がいて子供を設けているわけなんですよ。
で、一緒にいるわけなんだけど、そこでちゃんとした結婚ってなった時に、その人じゃダメなんですね。
そこで結婚相手を探すことになってくるわけなんです。
結婚的履歴まであと2年ある女性に出会って、この人がいいと思ったわけなんですけど、何でもその注釈によるんですけれども、当時の結婚的履歴っていうのが12歳ということなんですね。
ということは10歳の少女を見染めて、この人ならいいと思って、あと2年を待つことにしたっていう状況らしいんですね。
そこもうんうんと思うわけなんですけれども、それだけではなくて、言い名付けみたいな形なんでしょうかね。
それを定めて、あと2年ってなった時に、愛人と別れるわけなんですよ。
その愛人は子供のアデオダトスというものを残して去っていくわけなんですね。
その去り方がまたアウエスティヌスが書いているわけなんですけれども、彼女はあなたに向かって、今後他の男を知るまいと近い。
私の傍らに彼女から生まれた私の息子を残して、アフリカへ帰っていきましたということなんですね。
そこに対するもちろん悲しみの言葉っていうものも、彼女にしっかり結びついていた私の心は引き裂かれ、傷つけられ、だらだらと血を流しましたっていう表現はあるっちゃあるんですけれども、ある意味それだけでもある
んですよね。
別れました。子供が残りました。あと2年後に12歳になったその少女と結婚しますということなんだけど、しかしその2年間というものが、どうも長いと。
待つ期間の長さに耐えかねて、また別の愛人を得たということを書いていて、おいおいっていう感じですよね。それはどうなんだっていう感じがします。
ここで面白いのがあって、面白がっちゃいけないわけなんですけど、注釈がいいんですよ。この山田明先生の注釈があるわけなんですけれども。
当然この山田先生は書きぶりからしてカトリックの信者であることは間違いないだろうと思うわけなんですけど、信者の方がここを読むときどう感じるかっていうと、こうらしいんですね。注釈では、
アウグスティヌスが最初の女性を離別したことについて、彼が十分に自己の罪を懺悔していないと非難する人もあるが、それは極めて淺白な見解である。
この数行のうちに彼の悲嘆と、相手の女性の彼に対する愛と低切とは余すところなく表現されている。
アウグスティヌスはこの女性に対する記憶を沈黙のうちに保存したのである。その沈黙のうちにアウグスティヌスの戒心の秘密は隠されている。
という解釈で注をつけているんですけど、いや、ここは読めなかったですね。すごいですね。やっぱり信仰中のは大変なもんだと思ったりしますけれども、
ともあれ、私は別の観点で面白く読んだというところです。
これまた、年を取ってから若い頃を振り返ってからの言葉なんですけども、若い時にはこんな風な思いを抱いていたという書き方なんですけど、
我に低欠と慎みの徳を与え給え、ということを祈っているそうなんですよ、若い頃ですね。
だけど、続きがあるんですね。
されども、今すぐには与え給うな、というね。
これ、なかなか、我に低欠と慎みの徳を与え給え、されども、今すぐには与え給うな、ということなんですね。
これ、叶ったんじゃないかって気がしますね。
なんかある意味、若い頃にそう思ったことが実現しちゃってるような気がしまして、いろいろと不思議な気持ちにさせられますね。
でも、はじめから確かにアウグスティヌスが低欠だったら、こういう人々に訴えかける書物っていうのは残ってないでしょうから、
この遍歴っていうのはね、必要だったんだろうなというふうに思うわけなんですけども、
だからといって、人生の生き方自体はとても魅力的に思うわけなんですけども、
だからといって、この注釈者の言うように、行為を全肯定はできないなというふうな気もするところが、興味深いところではありました。
二つの意志と心の葛藤
そんな中で、マニ教というものも欠別をするわけですね。
そのマニ教に対する物言いの中でちょっと面白かったのが、
二つの意志っていうものをマニ教は言うわけなんですね。
いわば、心の中で対立するダブルバインドと言いますか、
二つの引き裂かれる思いが生じたとしたら、それは良い意志と悪い意志というものが引き合っていて、
良い方は神、悪い方は悪魔なのかな、ちょっとよくわかんないけど、
悪い方の、それによって生じてるんだみたいな物言いをするんだけど、
いやいや、それは違いますよって言ってね。
良い意志、すなわち例えば、今日は聖書を読もうか、それとも教会に行こうか、どっちがいいかなとか言うので、
良いと思われる発想でも迷ったりするわけですから、
そんなふうに善悪の引き合いみたいなことは決めつけられないみたいなこと言ってて、
まあそれはそうだろうなというふうに思ったりするわけなんですね。
良い意志同士でも葛藤する、同様するんだということを指摘して、
まあこういうふうな心の分析見えたものも非常に読んでいて、面白いところです。
この時にちょっとまた思ったのが、江戸時代の三頭経伝という芸作者がいますけれども、
有名な神学早染草という奇妙詩がありますが、
これは善玉と悪玉というものが心の中にありまして、
善玉が良いことをさせようとして、一方で悪玉というものが出てきて、悪いことをさせようとする。
心の中の良い思いと悪い思いが可視化されて引っ張り合うみたいな、非常に面白い作品がありますけれども、
でもそういった発想自体はアウグスニスは取らないんだななんていうね、まあちょっとしょうもないことを思ったりもしました。
「取れ、読め」と回心の場面
さあそして最も有名と言っていいシーンかもしれません、例の戒神ですね。
それまでの段階でいろんな機会で惹かれていったわけなんですけども、決定的なシーンというものが訪れるわけなんですね。
それは何かと言いますと、ある時声が聞こえてくるわけなんですね。
それは何かと言いますと、取れ、読め、取れ、読めというね、言葉が聞こえてきたというわけなんですね。
この取れ、読めというのは発音が正しいかどうかというのは全く知らないんですけれども、
言語で言ったらトレレゲという言葉らしいんですけれども、それだと。
それが聞こえてきたんで、はっと思って急いで友人のもとに行って、
司祖の書というものをね、ひったくって読んだそうなんですね。
そしてパッとね、最初に目に触れた書を黙って読んだとすると、こんなことが書いてあった。
強楽と礼遂、公職と淫乱、争いと妬みと捨てよ。
主イエスキリストを起用。肉欲を満たすことに心を向けるな。
というね、言葉があったわけなんですね。
アーグスティネスよりもっとひどい行いをした人はいくらでもいると思うんですけれども、
公職と言っていいのかな、そういった肉欲というものに、ある意味縛られてきた人生とも言える部分もあるでしょうからね。
特にここを開いたらそこがあったというのでビビッときたんでしょうね。
で、もう完全に改心したみたいなことがあるわけなんですね。
これに対してもやっぱり気になるのが注釈なんですけれども、
この本やっぱり注釈がものすごく丁寧で、すごく学識深い言葉がたくさん書いてあって勉強になるわけなんですけれども、
ここでは何でも2つの解釈がこの本が書かれている時点ではあると。
1つは文学的な虚構であるというふうな説があると。
で、もう1つは当時の子供の歌でそんなフレーズに近いものがあって、
その取れ、読めというふうに聞こえたというふうなことなんじゃないかということが、
2説が書かれているわけなんですね。
それを踏まえた上でこの山田明先生の見解なんですけど、こう言うんです。
しかしこれらの歴史家の詮索はアウグスティネスの改心の本質には何ら関わりを持たない。
我々はここでそれがどこから聞こえてきたにせよ、また本来いかなる意味であったにせよ、
とにかく彼がその声を土内の家から少年か少女の取れ、読めという声として聞いたという事実を素直に認めたら良い。
いや、強いですね。確信で言ってますが、なかなかこうは読めないもんです。
こういうふうな読み方をするんだなという意味でも非常に興味深いものがあります。
時間論、記憶、山田晶の解説
それから後も非常に時間論ですとかいうところ、
あるいはまた外に外にって向かうんじゃなくて、自分の内側の中に記憶があり、その記憶というのは神の与えた記録みたいな、
なんか元々心の中にあるみたいな、仏教でいう如来像思想じゃないけど、心の中にその仏性があるみたいなものに近い言い方になっているのが興味深く読みましたが、
そこら辺は私の知識不足もありますので、今のような自伝的部分を非常に楽しく読んだというところで、
また機会があれば、初回はね、そういったアウトラインを知れましたんで、
2回目はもう少し思想に肉薄するような読み方もいずれできるかもしれませんが、
まずはそこを興味深く読んだということです。
そしてこの最後にね、山田先生の解説がついているわけなんですけども、これがもう本当に素晴らしいものです。
山田先生自身の告白と言っていいんでしょうかね。
自伝的な、なぜこの告白を読むようになったのかというようなところがね、しっかりと時代状況と合わせて書かれていますので、
戦時中のこととかも含めて書かれていますので、そういった人生をかけて読んできた人の言葉というのは重たいし、
説得力があるなというふうに思ったりします。
さすがに一般書ですので、山田先生の解針と言っていいんでしょうかね。
そこの部分は書かれていないのが、もうここまで来ると惜しい気がして、
キリスト教を全開で書かれた文章ってどんなのだったんだろうというような気もしないではないですね。
たくさん魅力的なところがあるんですけど、あえてちょっと一個だけ言うならば、
アウグスティヌスと現代という視点で語っているところがあるんですね。
この言い方が興味深かったです。
何かと言いますと、アウグスティヌスを今読む意義みたいなね、そういったことに対しての見解なんですけれども、
まずね、もともとアウグスティヌスに現代的な意味を見出している人々がいると、
そういった人に対してはね、山田先生は語ろうと思わないですね。
もともと自分でわかっているから、別に自明のことだろうから、あえて語ろうとしないって言うんですね。
一方で、アウグスティヌスの思想のようなものに全く無関心な人がいると、
そういう人に対してもね、語ろうと思わないって言うんですね。
それはまた思わないんだと思ったんですけど、
それは彼らはアウグスティヌスにとっては、縁無き主情っていうね、仏教用語のような気がしますけれどもね、
そういう物言いをして、語っても無駄であるからだっていうことで、ここまた割り切ったなという気もします。
じゃあ、誰に訴えかけているかって言いますと、
アウグスティヌスが問題にしたのと同じ問題に興味を持って、
その思想にも関心を示している人に対して、現代的な意義について語ってみたいっていうね。
昔は昔でよかったけど、現代についての意義っていうものを深くわかってない人に対して、
現代的な意義をね、私は語りたいっていうことを言って語っているわけなんですけど、
なかなか大切なタイミングとかがあるのはわかるけれども、
鼻から人を選んでいるような物言いをあえてしているように聞こえるけれども、
実際そのタイミングとかがね、合わないと伝わらないっていうこともあるでしょうから、
これは一つの姿勢なのかなという形で、ちょっと興味深く読んだというものでした。
告白自身の一番大事な部分というものを、私は読めてない自信があるって、
こんなことで自信持つなって感じなんですけど、自信があるわけなんですけども、
そんな私でも大変興味深く読めたものでした。
毎週更新を続ける本語りの苦労
さて、今回で50回を迎えることができました節目です。
約1年間続けることができたわけなんですけれども、
予想した通りではありますけれども、なかなか大変でした。
今でも大変です。
毎週更新というのは、やはりなかなかのペースではあります。
本を読むこと自体は基本的にいつでも読んでますので、
それ自体は苦労ではないわけなんですけれども、
ただこの本語で語れるような本というのが難しいわけなんですね。
それはあまり面白くなかったものはもちろん、
わざわざネガティブな話題をする趣味ありませんので、
面白かったものに限定して語っていくという前提なんですけれども、
すごく面白かったけれども、
語るには私の力が足りない。
そういった意味では、この今回の告白もそうかもしれないけれども、
それでも自分なりに何か話したい内容があるものってありますけれども、
話したい内容はたっぷりあるけれども、
しかし結論がはっきりしている、
あるいは趣味にかないすぎているものとかっていうのもね、
案外これ取り上げにくいものなんですね。
そういった意味で、全然読んだ本がそのまま反映されないっていうのが、
やってみてわかってくるものですので、
あくまで語りたい内容の本で読んだものを語っているっていう
スタンスなんだなということを我ながら思ったりします。
泥沢式と言いますか、時間に追われるのはあまり好きではないので、
基本的にストックをしようと思っているわけなんですね。
ですので順調の時というのは、
大体2回分ぐらいストックできたらちょうどいいなっていうぐらい、
それ以上ストックするとちょっと時期がずれすぎて感覚がずれるなっていうことがあるわけなんですけど、
2週分ぐらいストックできたらちょうどいいなと感じるわけなんですが、
まあそうもいかないわけですね。
例えばある時期には忙しいことが予想されていたらその月はですね、
そうなると4回分ぐらいちょっと前もってストックしておこうと言って無理をすることもあったりします。
あるいはもっと忙しくなってきたらとてもちょっと追いつかないというね、
ストックしたいけども日曜日に配信する分をその週に取るということもやらざるを得ない時もあるわけで、
実は今がまさにその状態でして、
この告白も読むこと自体は読んでいるわけなんですけども、
その読む内容を原稿のようなもの、そんな大げさじゃないんですけどね、
箇条書き程度でこんなこと話そうということを書いて、
そして録音してそれを編集するという手間が追いつかなくって、
まさに今直前に撮っている状態になります。
本当はね、2回分ぐらいストックしたいなという状況ではあるんですけども、
こういう時期もあるわけです。
という苦労を重ねながらも、
なんとか毎週1回のペースというものを崩さずにできたことは良かったなというふうに思います。
この調子でなんとか毎週1回の更新を続けていきたいと思いますので、
どうぞ長い目で付き合ってくだされば幸いです。
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