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#049 古典の再生/『オデュッセイア』/本語り
2026-10-18 18:03

#049 古典の再生/『オデュッセイア』/本語り

映画『オデュッセウス』をきっかけに、久しぶりに『オデュッセイア』を読み返しました。キュクロプスやスキュラといった怪物の魅力、神々と人間が複雑に関わりあう物語の奥行きも堪能しました。よく知っているつもりの作品でも、読み返せば新たな発見があります。古典は決して過去のものではなく、きっかけさえあれば何度でもよみがえります。

【言及した本】

・ホメロス、松平千秋訳、『オデュッセイア 上下』(岩波文庫、1994)

・曲亭馬琴、葛飾北斎画、菱岡憲司訳『椿説弓張月』(光文社古典新訳文庫、全5巻、2025)

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サマリー

映画『オデュッセウス』をきっかけに、ホメロスの『オデュッセイア』を読み返し、原作と映画の共通点や改変を語る。オデュッセウスの漂流と帰国、キュクロプスやスキュラなどの怪物、ペネロペイアとテレマコスをめぐる物語の骨格が紹介される。映画は原作に忠実でありながら、神々を現実的な存在として描かず、戦争によるPTSDや登場人物の設定を加えることで現代的な意味と映画的なカタルシスを生み出している。古典を現代語訳や映画によって再生する営みへの共感で締めくくられる。

『椿説弓張月』と映画『オデュッセウス』の共通点
本語り49回目です。 前回48回目で少し触れましたけれども、
親切弓張月に対して、現在公開中のオデュッセイアという映画が非常に似通っていると言いますか、連想させるところがあるという話を聞きまして、
このクリストファー・ノーラン監督の映画、気にはなっていたわけなんですけれども、なかなか忙しくて行く機会がなかったんですが、その話を聞いていてもたってもいられず、見てみたら大変面白かったということがあり
ました。
厳密に言えば似ていないところもあるはずなんですけれども、そういう目で見ましたものですから、共通点というものがやはり目についてきました。
オデュッセイスもタメトモも、両者ともに弓の名手というところが大きな共通点になってくるかと思います。
そして物語構造としても、海をさすらう海洋冒険譚というところですね。あるいは奇襲流離譚と言ってもいいかもしれませんけれども、身分の高いものが流されてさすらっていくというような物語構造というものも似通って
おりますので、
もちろん馬琴がホメロスを知っていたはずはないわけなんですけれども、似通った話になってくるというところは非常に興味深かったところです。
何よりこういう古典というものを再生しようという営みですね。私は現代語訳という形で再生というものを今の人たちにも伝えたいという思いで訳したわけなんですけれども、
クリスファー・ノーラン監督は監督で、映画によってこのオデュッセイアを現代に蘇らしたという意味でも非常に感慨深く見たものでした。
大昔に私は読んでいたものなんですけれども、久しぶりに読み返してみました。
すなわち、ホメロス・マツダイラ・チアキ訳、オデュッセイア・イワナミ文庫です。
『オデュッセイア』の帰国譚と映画化
言わずと知れたイリアスとオデュッセイアという古典中の古典ということになります。
これほどの古典に対してネタバレもヘッダクレもないと個人的には思うわけなんですけれども、中には映画を真っ新な状態で見たいという方もいらっしゃるかもしれませんので、
そういった方は今回は映画を見た後などに聞いていただければというふうに思ったりします。
そもそもの話の広角としては、10年間ソロイヤ戦争を戦っていたわけなんですけれども、ようやくそれに勝利したと。
その後すぐに帰国ということになったわけなんですけれども、オデュッセイウスを含む一団というものですね。
それが祖国のイタケに帰ろうとしていたところ、嵐にあって漂流し、その後様々な困難があり、結果的にまた10年帰れなくなったというところが、
このオデュッセイアの基本的な話の枠組みなわけなんですね。
そんな中でオデュッセイウスの語りという形も交えながら、その10年間の様々な困難というものを辿っていくというのが骨格になってくるわけなんです。
オデュッセイウスがいない時に20年近く帰ってきていないともう死んだという評判も漂っており、
妻に旧婚者が殺到しているわけなんですね。
それに対して旧婚者を妻は拒絶しているわけなんですけれども、息子ですね。
オデュッセイウスと妻ペネロペイアの間にできている息子。
しかし本当に小さな赤ん坊の頃にオデュッセイウスが戦争に出かけましたので、顔がもう分からない状態の存在なんですけど、テレマコスというのがいるわけなんですね。
これがなんとか父親の消息を知ろうとすると。
しかし旧婚者たちはテレマコスを殺そうとするというところもあったりするわけなんです。
映画の冒頭ももちろんこんな風に描かれているわけなんですが、改めてこの本を読んでみてなんですけども、本当に忠実にやっぱ基本的に辿っているんですね。
感心するぐらいクリスファー・ノーランは原作に忠実に映画化しているなというところが感じられました。
キュクロプスとスキュラの映像表現
そもそもクリスファー・ノーランの映画というのは、ダイナミックなストーリー展開がありつつも繊細で詩的な表現というものを感じますので、
言ってみればこのジョジ氏に本当にぴったりなんですよね。さすがに自分に適した題材を見つけるもんだなということをね、感心してしまいました。
ダンケルクなんかね、私個人的にすごく好きなんですけれども、素晴らしい作品を残す監督ではありますね。
オデュッセイアを忠実になぞっていったら大変なので、代表的なエピソードに触れながらというふうにしたいと思うわけなんですけれども、
帰国するまでにオデュッセイウスは様々な困難に立ち向かうわけなんですけれども、
最初読んだ時も急になんかとんでもない話が出てきたなという形で驚き、グイグイと引き寄せられた記憶が今でも生々しいわけなんですけど、
それは何かというとキュクロプスというね、一つ目の巨人の話なんですね。
これはもう文章で読んでも度肝を抜かれた表現だったわけなんですけれども、
一つ目の巨人がオデュッセイウスの部下を捕らえて食ったりするようなシーンが描かれているわけなんですよね。
これをやっぱり映像で見た時にはね、本当怖いと言いますかね、映画の特徴をうまく活かしてるなというふうに思いましたね。
あの恐怖感というものはなかなか想像の及ばないものがありますけれどもね、
ああやって見せられるとね、本当怖いですね。食われたくないなと心底思いますね。
キュクロプスだけではなくて、オデュッセイアというのは最初に読んだ時っていうのは、
一度も市中海に私は行ったことはありませんので、
あの雰囲気というものをなんとなくイメージするけれども、ちょっと分かったような分からんような楽園としての印象もありつつ読み進めたところがあるわけなんですね。
しかし映画であのような市中海の風景風俗というものをリアルに、再現と本当に言っていいかわかりません。
現在のイメージで描いているかもしれませんけれども、しかし一つの強いイメージを植え付けてくれると、
本を改めて読んだ時もすごくやっぱり生き生きとして見ることができますね。
これは本当にありがたいことで、外国のイメージしにくいものをとてもイメージしやすくしてくれたということは感じますのでね。
愛を補い合って魅力が増したなというところはあるんじゃないかと思います。
キュクロプスの怖いリアリティというものも映像のおかげで感じたわけなんですけれども、
読んだ時にそうだったかと思ったのが、映画のキュクロプスは最後の最後に話をするというシーンが描かれるわけなんですけれども、
原作ではノッケからオデュッセウスと話をしているわけなんですね。
そして話をした時にキュクロプスがオデュッセウスに対して名前を聞くシーンがあるわけなんですよ。
それに対してオデュッセウスは誰もおらぬというね、訳語ではこういう表現になっていますけれども、
私の名前は誰もおらぬだというふうな形で名乗るわけなんですよ。
もちろん嘘の名前を言うわけなんですね。
それは先々を見越してのオデュッセウスは知恵者ですので、そう答えたわけなんですが、
その後部下が食われたり云々があるわけなんですけれども、
オデュッセウスがうまく知恵を発揮してその目を潰してですね、洞窟に閉じ込められていたところをうまく脱出するということがあったわけなんですね。
その時に怒り狂ったキュクロプスが仲間たちを呼び集める仲間がいるのも怖いわけなんですけれども、
巨人仲間がやってきた時に誰からこんなことを言われたんだというような類のことを聞かれた時に、
私をこんな目に合わせたのは誰もおらぬだみたいな返答をするわけですね。
そしたら自分でなっているならしょうがねえじゃないかみたいな形でみんなが知っていくみたいなシーンがありますので、
それはオデュッセウスがあらかじめそんな答えをしたおかげだという、
こういうトンチの効いた話になっているわけなんですけれども、そこのところは採用されておりませんでしたね。
入れても可能なんでしょうけど、ちょっと物語展開がブレちゃうと言いますかね。
トンチのところに焦点があってしまいすぎるというところもあったのかなという気もしますね。
その他、魔女キルケの豚のくだりとかももちろんありますし、
あと、冥界のシーンですね。
ヒクロプスと同じように映像のおかげでリアリティを持って感じられたというのが、
スキラという怪物がいるわけなんですけど、
それは海の岩場のところから複数の頭と長い首で人を食うみたいなところがあるんですね。
どうなんだろうというふうに、文章だけ読んだらわかりにくいところをね、
まあ映像で見たら、まあ怖い怖い、なんかビヨーンと伸びてきて、
バックレップを食って素早く上に引っ張り上げられていくみたいなシーンがありますんでね。
ああいうのは現在の映像技術によって見えてくるものだなというふうに思ったりしましたので、
映画ならではです。
文章で読んでも限界があるところがありますけど、
映像で見せられるとその怖さも一一倍という感じもありますのでね、
映画家ならではの良さだったなというふうに思ったりするところでした。
原作から神々を引き算した映画
そういった意味で、原作に基本的に忠実なんですけども、
決定的にね、全体を通して違うところがあるわけなんですね。
それは何かと言いますと、神が出てこないところなんですね。
もちろんね、神を信仰していると言いますか、神殿も出てくるし、
人々が常日頃神を恐れているっていうところがよく出てくる。
そもそもがね、トロイの木馬というシーンもありましたけれども、
あそこはやっぱり神への苦物というところで、
その作が成功したところもありますのでね、
みんなの信仰心というものはね、強く描かれているわけなんですが、
原作ではリアルにゼウスですとか、パラサアテネですとか、
ポセイダオンとかが出てくるわけなんですよね。
そもそもキュクロプスというのはポセイダオンの息子ですので、
その息子の目を潰したせいでポセイダオンが怒り狂って漂流させて
帰れないようにしたという前提もありますのでね、
やっぱり神の存在というものはとても大きいわけなんですけれども、
原作においてはその神がリアルに話し合い、
足をこうしよって相談して手助けなり邪魔なりをしてくると、
しかもその人たちの行動原理というのは非常に人間臭いという、
神なのにと言っていいのか分かりませんけど、
わがままで感情的な人間臭い神々なんですね。
ここら辺も実はホメロス読んでいたときに面白いところなんですけど、
さすがにそれを入れちゃうと、ちょっともうしっちゃかめっちゃかになっちゃいますので、
そこはやめているようですね。
ただ唯一、このパラサーテネがオディスセウスの守護神のようなものに当たるわけなんですけれども、
神の能力を持った存在というよりも、
もうちょっと何か自己内政化の対象みたいな形で、
ゼンデイアが演じている役として出てきますけど、
そこは活かしているけど、やっぱりちょっと違う使い方をしているかなというふうに思ったりします。
このように映画では、いわば神を引き算する形で描いているわけなんですけど、
そんなときにこの映画に思わぬ影響が出ているところがあります。
それはオディスセウスが身をやつすときに、
映画の中では物語の格好をしてというのがあるわけなんですけども、
原作においてはアテネの力で本当の老人の姿に変えられたりするわけなんですね。
だから全く面影がないような状態になるわけなんですよ。
だけど、そんなことは現実にはありませんので、
変装レベルでとどめているわけなんですね。
おそらくその影響だろうというふうに思うわけなんですけども、
原作にも出てくる豚飼いのエグマイオスというものがいるわけなんですけども、
これ原作では別に盲目じゃないんですけども、
映画では盲目ということになっているわけなんですね。
これは結果的にすごくいい味を出していて、
いいアクセントになっていてよかったわけなんです。
俳優もよかったおかげなんですけどもね。
なんでこんなふうにしたのかなということを考えてみたら、
やっぱりエグマイオスが忠実なオディスセウスの下辺ですので、
目が見えていたらオディスセウスにどんなに身をやつしても気がつくはずなんですね。
だからなるほど盲目にしたんだということ。
こういう細かいことになかなか気を配っているなということに原作を読んで気がついたりしました。
現代的に加えられたPTSDと人物造形
テレマゴスは記憶がないので身をやつしても大丈夫ですし、
そしてまた犬のアルゴスというものもいるんですが、
これも再会のシーンなんかちゃんと描いてくれてて嬉しいわけなんですけどもね、
犬ですから気がついても別に他の人たちにはバレることはないので大丈夫なわけなんですね。
ただ忠実な豚飼いのエグマイオスが気がついたら周りの人にもバレる形になってしまいますので、
それは盲目にしたんだなということなんでしょう。
原作と比べていくと足すところを引くところというところが非常に興味深いわけなんですけどもね、
基本的に原作のものを引いていっていることによる改変というものが多いわけなんですけど、
逆に足しているものというのもあるわけなんですね。
それは何かというとオディスセウス自身の、言ってみれば戦争のPTSDみたいなものなんですね。
この紙を引き算した結果ともリンクしてくると思うわけなんですけども、
カリプソという女神にオディスセウスはずっと引き止められていて、
オディスセウス自身は変えたい変えたいと思っていたわけなんですけども、
引き止められていたという状況があったわけなんですけども、
何かこのオディスセウスが自身にトロイ戦争の悲惨さというものを見てしまったというね、
それのPTSDのような症状というものを付与することによって結局その記憶を消したいというね、
潜在的なモチベーションというものも生まれてくるわけなんですよね。
それでロータスの花を食べる云々ということで、記憶を消していくという設定にもつながっていくでしょうからね、
現代的な意味付け、そしてそれによる整合性というものも取れていてね、
改めてこの細かな計算というのもうまいもんだなというふうに思いましたね。
神々のいたずらではなく、そういった合理的、しかし切実な問題に現代的な意味を付与しているということが感じられるわけなんです。
それでいったらまたプラスしているのはシノンという人物、これは原作にいない人物をプラスしているわけなんですけど、
これはアンティノースというね、旧婚者の一人で映画においては一番の悪役という形になっているわけなんです。
もちろん原作でも悪い奴という形で映画を描いているわけなんですけれどもね、
これ最後のシーン、オジュセウスが弓を張って、そしていざ旧婚者たちを仲殺するというところになったときに、
映画ではね、最後までアンティノースは粘るわけなんですけど、
まあ何しようね、せっかく悪い奴で描いているのにすぐに殺されたらいけませんけど、
原作では真っ先に嫌でいられてしまうのはアンティノースなんですね。
ですので、そこら辺はさすがに最後の盛り上がるシーンにおいて、悪の親玉としてちゃんと活躍してもらわないと困りますので、
もう少し引き延ばさせている。
そうやって、いわば最後に現代の映画的カタルシスを与えるためには、悪い奴はより悪い奴じゃないといけない。
あるいは観客の気持ちを面積するためにも比列の行いというものを描いてないといけないわけなんですけども、
その時にアンティノースは本当は戦争に行くくじを引いてしまい、シノンというのは戦争に行かないことになっていったけれどもね、
それをシノンの父親の面倒を見るという条件でアンティノースとくじを入れ替えたわけなんですね。
そのせいで残ったけれども、シノンの父の面倒はちゃんと見てないという悪い奴ですよね。
そういった悪い存在として造形するための工夫というものもされておりますので、
ここらへんは映画として見せるための最低限の、しかし効果的な改変というものも上手くされているなということを感じたりしました。
映像で見た時に、やっぱり弓の威力っていうのは圧倒的だなということを感じますね。
今でもやはり我々は例えば刀とか何とかがあった武器を持っていたとしても、
相手がピストルとか出してきたらちょっと動けないような状態になってしまうけれども、
当時としてもある程度の距離をとったところで弓矢を持たれたら、
いくら刀とか持っていたところでちょっとたじろぐというシーンが当然あったんだろうなというふうに思いますのでね、
そんな中で強い弓の名手によって矢を入れられたら相当な威力だったし、なおとどろかしただろうなということを感じましたし、
それをリアイティーを持って描かれたというもので切実さというものを感じたりしました。
古典を現代に蘇らせる映画の力
そういった意味で、古典中の古典ともいえる武術製画を見返す機会をもらえたという意味でもね、
映画は良かったし、映画単体としても素晴らしかったと思いますけれどもね、
こういう古典の再生というものの魅力、その現代的な意味の付与の仕方、
もちろんね、現代に描くからにはその意義というものは問われないといけないんだけれどもね、
しかし最低限の改変はしているけれども、やっぱりね、基本的には原作に忠実というこの描き方自体ですよね。
それ自体にもね、関心をしたというところがありますのでね、
こういう古典の再生という営みには深い共感を覚え、私も私のできることをね、やっていきたいなという思いに駆られた読書プラス映画鑑賞の体験でした。
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