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2025-07-03 52:26

第49回 余白を楽しんでください(CV.井上陽水) 〜『日本の小説の翻訳にまつわる特異な問題』・後編

今回は、『日本の小説の翻訳にまつわる特異な問題』(伊藤真依 著/中公選書)の続きと、『井上陽水英訳詞集』(ロバート・キャンベル 著/講談社)を紹介しています。謎に満ちた井上陽水の歌詞を訳する過程で見えた日本語ならではの表現方法の面白さや、マンガ特有の文法について話しています。


【今回のハイライト】

・浮遊する時制に戸惑う

・日本語翻訳に精通したが故の誤解

・風あざみに意味はない

・日本語だからこそ成り立つ「傘がない」

・蝉の声=壊れた洗濯機

・マンガ特有の文法

・日本文化を紹介した人たちの楽屋話


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サマリー

日本の小説の翻訳における特異な問題が議論されています。特に、会話の翻訳の難しさや時制の問題が取り上げられています。また、翻訳者の意識や編集者の反応が作品の受容に与える影響についても触れられています。このエピソードでは、日本文学翻訳における表現の難しさや異文化理解の重要性が語られています。井上陽水の歌詞の翻訳プロセスや文化背景に基づくニュアンスの違いについても掘り下げられています。翻訳の難しさが、言語の特性や表現方法を通じて浮き彫りにされています。また、俳句や蝉の声など、日本文化に根ざした感覚が他の言語ではどう表現されるかが考察されています。日本の文学や文化を通じて、漫画やアニメが海外での理解を促進し、日本への親しみを深める重要な役割を果たしていることが語られています。

翻訳の難しさ
安崎純一郎の『茶で食う虫』とか、あとは『ささめ駅』とかも取り上げられてるんですけど、これはどっちかと言うと、言語的な部分に由来する翻訳の難しさなのかなっていうので、
これ結構他の小説、他の本でもちょっと聞いたことがあるんですけど、
日本語の会話とか日本語の文章って、主語がなくても成立するじゃないですか。
谷崎の小説って、特にやっぱその誰が喋ってるのがよくわかんないシーンって結構あるんですよね。
今誰喋ってるのかなっていうのを書かないで、ずっと続いていく会話ってあるんですよ。
3人、4人とかでそれやってるんですよね。そうなってくると、今誰喋ってんの、これみたいな。
だからといって、今この人がこれ喋ってますよっていうのをわかりやすくするために安易挿入しようとすると、やっぱり流れがそがれてしまうから、すごく不自然になってしまうと。
一体どうすりゃいいんやっていう。なんでそれ日本語で何人もいろんな人が出てきてるのに、会話はそこまで混乱せずに成り立ってしまうかっていうと、
一つはその立場というか、その人の人別像によって話し言葉が結構バランスがあると。
例えば、この年代ぐらいの女の人はこういう喋り方するよねとか、こういう育ちの人ってこういう喋り方するよねとか、子供はこういう感じの喋り方でとか、っていうのって結構あるじゃないですか、型みたいなのが。
だから、それがまあ割と日本人にはベースとしてあるので、文体さえ分けられていれば、いちいち誰々がとかつけなくても、なんとなくこの人かなっていうのはわかるので、ずっと会話分だけ続いていっても、多分この人喋ってるなっていうのはなんとなく区別がつくっていう。
でも、英語にはそんな便利なものはないっていう。
そうですね。
だから、それがいつもどうすりゃええんやっていう。
訳す方だってね、誰が喋ってるのかわからんけどこれっていう風になるからね、きっとね。
難しい。
だから、最小限の修正っていうか、原文そのままっていうのは難しいから、補足みたいな感じで、今この人言ってますよっていうのをほっそりつけ足すっていう。
小さくAみたいな、小さくBみたいな。
ちょっとだけ補足してあげるっていう、ただそれの調整の仕方っていうのが本当に神経を使うと。
原作の雰囲気を壊さずに、流れるように会話が続いていく感じを壊さずに、でもかつ英語の読む人にも今誰喋ってるのかっていうのがわかるような工夫が必要だから、会話の内容はちょっと変わってるんですよね。
これはちょっとくどいから削除とか、誰々が言ってるみたいなのを挟むとか。
Aさんはそう言うけれども、みたいな感じのことを付け加えるってことですね。
そういうの、改編がやっぱりしないと、もうちょっとどうもならんっていう。
難しいですよね。
時制の問題
あとは、同じような問題で、時制、いつの問題ですよね。時間軸がよくわからんっていう。
これ日本語ありがちだし、やっぱりこれも谷崎の、これは笹見駅の方かな、中でホタル狩りするシーンがあって、すごい有名なシーンなんですけど、ホタル狩りをみんなで、姉妹でこう、あと親戚とかとしに行ったなーっていうのを、
その日の晩、人に入ってから思い出してるっていうシーンがあるんですけど、なんかそこのシーンが、なんて言うんですかね、もう本当に、今日そういえばホタルの、みんなで狩りに行って、ホタル狩りに行ったんだけど、
そこからまたさらに昔の話とか思い出したりとかして。
分かる、分かる、分かる。それ難しい、難しいよ。
あとその遊んでる時に、その遠くから、その川辺にいる人と、川で実際そのホタル狩りしてる人って、ちょっと一関係的に離れたとこにあって、
で、離れたところからぼんやりこう漂ったの、聞こえてくる会話とかが、またぼんやりこう思い出してくるみたいな、ふわーふわーとこう思い出せるシーンがあって、なんか多分それがホタル狩りの風景の、そのふわふわした風景とリンクして、
なんかホタル狩りっぽいみたいな、多分そういう効果を狙って書いてるんですよね、おそらくこのシーンって。
で、日本語で読む文には風情があっていいなっていう感じなんですけど、まあこれに英語に直した時に、訳が分からないっていう。
そうですよね。
これ今、どの時点で誰の視点で何の話してるみたいな。
で、やっぱりその日本語ってその、いつとかあんまり隠蔽、過去、これいつの話なのかっていうのを、そこまで神経質にならずに書けてしまう言語なんだけど、外国のその英語とかやってると、なんかすっごい、時勢にめちゃくちゃ神経質じゃないですか、それいつの話ですかみたいな。
半過去ですか、大過去ですかみたいな。
大過去って何?みたいな感じの
ねえ、わかるわかる。
半過去って何?いって
半過去って何?って本当に
半過去って何って感じでしたよね。
もうちょっと違う日本語つけた方がよかったんだよ、半過去って何よみたいな。
半過去ってなんだよ。
半分の過去ってなんだよ、みたいな。
すっごい細かいんですよね。この話、いつの話なのかっていうのをめちゃくちゃ細かく、客観的に見てる、で記述しなければならないっていうルールが厳しいから
それを無視して訳しようとすると、もうアメリカ人お手上げですよっていう
お手上げでしょうね。
混乱してしまうっていうのがあって、もうそこの役に本当に泣いたみたいな。
それに関しては日本語で読んでても、何か分かんなくなる、ありますもん、たまに。
ありますね。
2ページくらい読んでて、あれ待って待って、これいつの話?みたいな。
そうそうそう。
あれ、どっからこれ続いてるんだっけ?みたいな。あ、寝てんのね、みたいな。
何?
寝てて、あ、そっかごめんごめん、みたいな。
そうそう。
ちょっと2ページくらい戻る時ありますもん、日本語で読んでたってそれは。
それが英語になったらね、それだけ分かんないですよね。
どっから来てんの、この話っていうね。
そうそう。で、これはサイレン・ステッカーさんが、おなじみのサイレン・ステッカーさんが訳してて、
このサイレン・ステッカーさんってすごく日本文学をいろいろ訳してるので、やっぱり実力がどんどんついてきてエキスパートになっていくんですけど、
そういう本とかも出されたりとかしますしね。で、これを訳してる時期が1957年とかそのあたりに仕事をしてるみたいなんですけど、
ただその、訳をした時に、編集の人、いろんな人にこれ読んでもらうんですよね。
で、その、この訳でどうですかね、みたいな感じで。で、もちろんアメリカ人ですよね、これ読むのが。
で、その時に、訳を読んだ人は、めちゃくちゃボロクソに言ってくるんですけど、あの、この訳がどんなにいい訳だといえども、
まあ私には概ねいいように思えますけど、コピーエディターによるいくらかの手直しが必要ですねと。
一つには、この翻訳者はこれ以上ない方の実践に対する意識が低いようで、よく過去形あるいは過去集完了にすることにより時間間隔をめちゃくちゃにしていますと。
で、私自身おそらく200度ほど助動詞としてヘッドを追加しましたが、コピーエディターの方でさらに多く追加しても良いでしょうと。
ボロクソに言ってきてるんですよ。でも、なんでこういう意識の差っていうか、出てくるってしまったのかなっていう。
サイレンステッカーさんは本当に日本語の日本文学にやっぱり精通してきて、どういう時間間隔なのかっていうのも、なんとなくわかってきて、日本よりの間隔を身につけつつあったんじゃないかと。
だから、そこによった翻訳をしてしまったのために試し読みを頼まれた編集者からすると、そういう人はアメリカ人感覚で読んでますから、アメリカ人生の言葉としては、この人実践に対する意識低くね?みたいな。どういうこと?みたいな。
ツッコミを受けて、200度ぐらい直しましたけど?みたいな。わけわかんないんで、みたいな。ツッコミを受けるみたいな。
でも、そうしないとね、アメリカの読者にも伝わらないってことですからね。
そうしないと、アメリカ人的な感覚だと、これちょっとかなり不自然ですっていうので、ちょっともうちょっと修正した方がいいと思います、みたいな感じで突っ返される。
日本語に近い感じで訳をしてしまうと、やっぱりアメリカの感覚では何を言ってるのかわからないみたいな。かもしくはなんか変な文章だっていうふうに思われて、意図するところが伝わらない翻訳文になってしまうっていうのが何回も何回も出てくるんですよね。
翻訳と受容
それはでも、そうですよね。それこそ柴田基行さんたちとか斎藤麻里子さんとかもよくそういう話にしてますけど、
つっかかりがなく読めてしまう、すごい読みやすかったっていうのが、果たしていい翻訳なのかっていう。原作者に忠実に翻訳すれば、それはわけわからないところも出ますよ、みたいな。
そうそう、それも求めてる。でも読者ってわがままだから、その半々ぐらいがいいんですよね、本当は。読みやすく、わけわからないけど読みやすいのが一番いいみたいな。
そう、だから200ヶ所ぐらい修正入ったときぐらいが一番読みやすいかもしれないですよね。それ以上修正入っちゃうと、全然面白くなくなっちゃう、日本ぽくな感じになっちゃうかもしれないけど、実際の読者の意見としては、「200個ぐらい足してもらっていいですか?」みたいな。
ちょっと初心者なんで、みたいな。もうちょっとね、クロートになっていけば、あれですけど。だからね、ほんと翻訳本って、ほんと役者の人にかかってたりするじゃないですか。
あとは、まあでもこれってやっぱりその、実際の日本文学をそのままお伝えしますよっていうよりは、日本文学ってこういうものですよっていうのをまず紹介したい。で、まず読んでほしいと。
日本みたいな。
だからそのDWT、読みやすさっていうところを結構重要視せざるを得なかった。さっきも言いましたけど、やっぱりこれって、こけると次のもの出ないので、やっぱりある程度の売り上げも確保するようなものとして出さなければならないっていう。
そこもあったから、やっぱり売れるものとして作っていかなければならないっていう。そういう意識っていうのは結構強かったんだな。強かったのかもなーっていう。だからそことの攻めに合いというか。
そりゃそうですよね。
今は多分、こういう訳の内容まで変えちゃうとかなってくると、おいおいそれはってなってくるでしょ。そこはね、かなり問題になっちゃうでしょうけど。だから今は多分そういう訳の仕方ってしてないんじゃないかなと思うんですけどね。
ただ当時のその、まだ日本文学って未知のものだった頃。だから謎の新商品を他の国に売るってなった時に、やっぱり手に取ってもらいやすくするっていう工夫が必要だったんだろうなっていうのが。
この残された資料の、ああでもない、こうでもないのを現場のやり取りの中から浮かび上がってくるなっていうので、翻訳してそれを世に出すっていうのってすごい面白い営みだなと。すぐこの本を読んで思ったところですね。
そうですね、でもきっとそこには書いてないかもしれないけども、やんなきゃよかったなって何回か思ったんですよね。
もう、よりによって谷崎のこれ取り上げちゃったかみたいな。
だって本当、何回もおっしゃってますけども、売れなくていいと思って世に出すプロダクトってないじゃないですか。
そう、売りたいですかやっぱり。
やっぱり売らなきゃいけないし。
広めたいっていうのもあって、やってるのに読まれなければいけないっていう。なるべく読みやすいようにっていう、ただやっぱり相当それは難しい作業だったんだと。
日本語に通じてる人だったら、日本文学に通じてる人だったら、もしかしたらそこまでしなくてもよかったのかもしれないですけど、その下地がない層に、よくわからん日本文学を振るってなってくると。
たとえばさっきの時勢とか、誰が何を言ってるのかっていう問題以上に気を使わなければいけない要素っていうのがいっぱいあったのなっていうのが。直訳だといいのかっていうのがこの三島由紀夫の金閣に訳するときに大失敗したっていうのがあって。
これは役者の考え方でちょっとすれ違いがあったみたいな。なんていうか、紫雲をその役するとわけわかんなくなるよねみたいな。失敗事例みたいな話とか載ってたりとか。
最後の方は売るときにパッケージの仕方ですね。まさに。そのタイトルどうするかとか、表紙のデザインをどうするかとか。もうだいぶその日本の小説の出し方とは違ってたみたいな。ささみゆきってささみゆきってタイトルで出版されてないんですよね。今どうかわかんないですけど。
巻岡シスターズっていうタイトルで。
すごいな。
翻訳の難しさ
The Makioka Sistersっていう。巻岡姉妹が主人公なんですけど、4姉妹で。でもなんかその方がトーマスマンの仏典ブログ系の人々っていう小説がちょうど出されたときであったから、ノーベル文学賞取ってるし、なんかわかりやすいかなみたいな感じで。
ささみゆきとかってなんかよくわかんないようなどういう話かっていうのとかで名前が変えられてしまってたり。あと雪国のカバーがいかにもゲイシャーみたいな。
それはありそう。
でも日本のカバーだと結構抽象的というか、タイトルだけしか書いてないみたいな。
それこそなんかね、白い雪みたいな。グレインとか水玉みたいな雪みたいな。
たぶん雪を連想させるような。
そうですよね。
これモノクロなんでよくわかんないですけど、そんなに派手派手しい絵が描いてあるようなものでは全然ない。
まだないですよね。
ないんですよ。
とかなんですけど、そこら辺の理由みたいなのも、この本の表紙をポスターにして売り出すときにテントに貼ったりとかするから。
そういうものとして作ってるみたいなのとかでなんか書いてあって、本当にやっぱりモノとして売り出すためにどうしたらいいかみたいなのがやっぱり浮き上がってくるというか。
外国で売っていくって、こういうところにもやっぱり記憶はあるじゃないですけど、どういうイメージで売っていくかっていうのが出てくるなーっていうのは、それはそうなんだろうけどっていう。
川端康成は雪国の英語版の本を届けられて見てびっくりしたみたいな。やっぱり芸者みたいなような驚きがあったっていうふうに書いてありましたね。
そのタイトルとかパッケージはどこの国でもあるじゃないですか。ちょっとうろ覚えですけど、若草物語だったかな。愛の若草物語みたいにすると日本では売れるけれども。
本当のタイトルはリトルユーマンかなんかだったのかな。そんな別に可愛らしいタイトルとかじゃなくて、割とそっとしたタイトルだったんだけど、愛の若草物語みたいに書いた方が日本では売れるみたいな感じで。
あれかな、モンテクリスト博王がんくつ王とか言ってるようなもんですかね。
そんな感じ、そんな感じ、そんな感じ。
ちなみにはないかもしれんけど、なんかごんくつ王みたいな。
そうそう、なんか大きく離れてはいないけれども。
あとレイ・ミズラブルをああ無情とか。
そうそうそうそう。上手い、上手いと思いますけどね。
あとビートルズの曲とか謎のなんか日本語タイトルとかついてますよね、昔のような。
そうそう、わけわかんないタイトルつけちゃうけど、そういう映画とかでもね、なんか日本のタイトル日本のビジュアルだと。
あーそうですよね、日本のあれですよね、映画の確かにポスターとタイトル問題結構ツッコミ入りますよね。
入りますけど、まあそういう感じでね、やっぱり芸者出したくはなりますよね、向こうで売ろうと思えば。
確かにそうですよね、いろいろあったらカレーとターバンですよ。
そうですよ、そうですよ。やっぱりカレーとターバンあれば手が伸びますもん。
そうそう、わかりやすいですもんね、やっぱりね。
わかりやすいですよ。
でもやっぱりわかってる文化の、それをもう知ってる人からするとすごくあざとさを感じちゃうと思うんですよね、そういうもので。
そうですね、ちょうどでも和人さんの話を聞いて、いろいろ思い当たるところがあって、すごい面白かったです、なんか。
これなんか良かったな。
逆パターンで、若い頃に読んだ若き植えてるの悩みとか、サリンチャン、ニンジンとかもかな、ニンジンは全部読んだな嫌な話だなとか言うんだけど、嫌な話ですよ。
全員嫌な奴しか出てこない。
本当にもう。
子供もそんなにいい奴じゃないからね。
そう、もう胸クソ案件ってやつですよ、あれは。
胸クソですよね、全員。
本当に嫌な話なんですけど、でもああいうのも、なんでこれがそんなに名所と言われてるのか、名所と言われてるのかわからないっていうのがありましたけど、
あれもやっぱり翻訳の仕方っていうのもあります。ニンジンはちょっと置いといて、他のものとかも、なんだろう、今思うと主語がないように翻訳されるじゃないですか、日本語になると。
いちいちほら、見てれば言いましたとか、そういうふうには書いてなかったりするから、日本内図されてるからこそわけがわからない本になってる場合も。
確かにありそうですよね。
だから、昔のそういう純文学的な、図書館に昔からあるみたいな本って、結構読んでても全然わかんないなって思ったのは、そういう裏が良かれと思って日本語っぽくしたけれども、逆にわかんないっていうのも、数多く昔のはありそうですよね。
今はほら、全然面白く読めるようになってるけれども、語彙力とか、自分の語彙力も上がってるっていうのもありますけど、翻訳家の方々のおかげで、本当に努力のおかげで、皆様のおかげで本当に楽しく読書ができてますけども、昔のって割と荒削りじゃないですか。
そうですよね。でも昔ってやっぱりなんか、外国の文学ってなんか良いものみたいな博来品的な感覚ってあったでしょうし、あとこれもちょっとまだ読んでない、つんどくの中に入ってるんですけど、昔の西洋小説がなぜ、世界文学がなぜこんなに訳されたのかと。
井上陽水の歌詞
でも世界文学って、実は、A、B、普通、ドイツ、あとは、ここにドシアかイタリアが入ってくるんですよ。まぁドシアかなって感じなんですけど、この5大、5カ国が入ってくるなぜかっていうと、明治時代になってから日本とその関わりが深かった国のトップ5みたいな。
やっぱりそのトップの国と付き合っていくためには、どういう人たちなのかって文化背景分からんといかんから、やっぱりそれ分かるためには小説を読まねばならんみたいな理由があって、すごい役をされたみたいな。そういう背景もあったみたいなのを書いた本があって、ちょっとそれもいつか見たいですけどね。
あとこれはさらっとですけど、いつかやっぱりこれもちゃんとやりたいなと思いつつやれてないのが、ロバートキャンベルの井上陽水英訳詩集っていうのが出てまして、これ2019年ですね。出まして、買ったんですけど、私井上陽水大好きで。
井上陽水って日本人でもわけわかんねーよって思うじゃないですか。日本人でもこの人はもうトップクラスにちょっとわかんない人ですよと。でもそのわかりなさがいいんだよなっていう人じゃないですか。
夢の後先って何?美しすぎるけど何?っていうね。
それをキャンベルさんはちょっと病気されて入院してる時に、暇つぶしでやってみるかって。ちゃんとはちょっと弟と交流があるらしいんですけど。やってみたっていうのをやってみたらなんかやっぱすごいなってなって、やったけど本当に難しかったと。
その苦労の後っていうのを書き綴った話で。たださっき言ったように、陽水さんと繋がりがあるので、答え合わせができるんですね。これでどういう意味って。教えてくれる時もあれば教えてくれない時もあると。
最初の方にNHKの番組でインタビューされてる時の少年時代に対してコメントを依頼されて。事前に番組からキャンベルさんのとこに。それについて陽水はどう答えたかって。
夏が過ぎ、風アザミっていう歌を歌い出しなんですけどって。曲を作る時は、風アザミってあるのかな。でも鬼アザミもあるから風アザミぐらいあるんじゃないかと思って作ったと。もしなかったらなくてもいいやぐらいの大雑把な感じで作ったと。
でも、とにかくロバートさんが本当に怖いなと思うのは、このアザミっていうのは秋の主語じゃなくて春の主語じゃないって日本語学者ですから、文学の研究者の方ですから。そこは通じてるわけですよ。アザミっていうのは秋の主語じゃなくて春の主語だよね。
って言われて、いやお前もう早く国に帰った方が良くないかと思ったんですけどみたいなこと言ってて爆笑したんですよ。ことは言うのは酷いんだけど、自分たちの仕事は真実を提供することをモットーにしてるわけじゃないんですよねって。
そこを厳密に考えて曲作ってなくて、鬼アザミもあったら風アザミもあっていいんじゃないぐらいの感覚で作ってるんだけど、訳する人からすると、これって何を出典にされてるんですか?みたいなこと聞かれるか。なんかめんどくせーなーみたいなこと思ったみたいな。
美しいものって大概適当ですよね。
そう、でもかといって、じゃあすべての歌詞を適当に書いてるかというと、まあそんなわけはないんですよ。だからちゃんとというか、もうすぐ意味を詰め込みに詰め込み、そしてそぎ落としにそぎ落とされてあれなのであって、かといってそれはこうですよっていうのはものすごく部粋だと。
なんていうか、その人の歌詞そういう話なんだろうなーって。
そぎ落としてそぎ落として、傘がないですからね。
傘のないの話もこれ出てて、ああそういう意味だったのかーって思って、全く思い至りませんでしたっていう。
ああそうですか、わーこれ楽しみだな。
出道って思いました。
あ、まじでまじで。
私は出道だなって思いました。もうこの解釈に私至ってなかったって思って。
あとその、別の曲で、昔そのニュース2・3だったかなこれ。の曲の最後のニュースっていう曲を、それエンディングに確か使われてたんですよね。
ニュース2曲で。で、最後の終わりが、今あなたにグッドナイ、ただあなたにグッドバイっていう終わりで終わるんですよ、この曲。
で、それをどういう風に訳するかっていうところになった時に、キャンベルさん最初、無意識にあなたに向けてグッドバイだと、ただあなたに向けてグッドバイと思って、
で、ジャストフォーユーグッドバイと訳をした。ただあなた。
うん、ただあなたに。
あなたに向けてね、あなたにだけねっていう意味で訳したんだけれども、そうじゃない、そうじゃないんじゃないっていうことを返したっていうんですね、ヨウスさんは。
で、え、違うの?なって、ただあなたにはちょっと違うんだよねって。
で、これ本当は、ただあなたにってはなくて、かける言葉はいろいろあるかもしれないけれども、グッドバイただ言葉ぐらいかな、ぐらいのニュアンスですね。
だから、これニュースの、最後のニュースっていうタイトルだし、ニュース番組の最後にこれかかってくる言葉で、曲で、いろんな今日のニュース、いろんなことがあって、
戦争とか暴力とかも本当にもうどうしようもない政治の話とか、環境問題とか、曲の中にもそれがすごく歌われている曲なんですけど、
実際の世の中も本当にどうしようもない何とも言えない事件とか出来事とか、今日もお話ししました、お伝えしましたけれども、
今声がかけられるとしたら、最後になるぐらい、グッドナイトぐらいですかねと。そういうニュアンスなんだっていう。
だから、ジャストだとあなたに、ただあなたにグッドナイトになっちゃうんだけど、このただっていうのは、
Cテーマ、ただこの言葉ぐらいかな、ぐらいの話なので、シンプリフォーユーグッドバイと書き直したと。
むずい!と思って。私は全くそこまで思いたいませんでした。と思って。
すごいなと思いましたよ、これ。
文化背景とニュアンス
そうですね。
っていうのは、カサはないわ、本当にちょっと機会があれば読んでいただきたいので、私この解釈に思い足らなかったですね、全く。
何回も聞いたのにすごいなと思いました。
ねえ、洋水さんねえ。日本語ねえ。
でもこれ確かに、英語で書くとすごく主張が強くなってしまうから、
主語を誰っていうのを指定しない言語だからこそこれができるんだなっていうのを、
なんかこの洋水さんの解説というか、いや、こういうつもりで作ったんだけどっていうのを聞いたときに、聞いたと読んだときに思いました。
確かにこれが誰がっていう風に入れてしまうと、ちょっとニュアンスが違うんだけど、
でもどうしても英語の内容的、文法的には主語というか誰がっていうのを言えないといけないので、
言えなかったけど、何とかとにかくこれは誰っていうのをぼやかして、最大限ぼやかして、訳をしてこうなったみたいな。
そうですね。これはすごかったですね。これも合わせてさっきの本と一緒に読んでいただくとまた面白いかなと思いますけどね。
そうですよね。なんかただあなたにっていう、さっきの歌詞じゃないですけども、
あなたにって言ってるだけで、あなたに言ってない場合とかあるじゃないですか、日本の言葉って。
ぼやっとしてたりとか、目の前の人を流してるわけじゃなくってことですよね。
ないこともあるし、あなたにと言っておきながら、自分に対しての言葉だったりとか、
なんかそういうわかりづらいからダメだね。
わかりづらいから成り立つ表現みたいな。
翻訳の難しさ
っていうのは、やっぱりその時勢が曖昧であるっていうところによって、やっぱりロースや曲を書いてきたり、
谷崎もさっきのホタルのシーンみたいな、ぼんやりした幻想的なシーンになるような表現ができるっていうのがあって、
実際のコミュニケーションの時が、多分そこがすごく、もうこう、なんていうか、めんどくせえってなると思うんですけど、
表現ってやっぱりそこの言語の特性にすごくよって書かれるものだと思うので、
それはやっぱり強みだと思うんですよね。特徴というか。そういうことができる言語であるっていう。
そうですね。美しい。美しいなと思いますけどね。
面白いなっていう。だから、それこそ場所の句とか、もうそんなじゃないですか。
そう、だから俳句を、英語で俳句みたいなの流行ってるじゃないですか。流行ってるっぽいんですけど、
で、それは俳句なの?ってやっぱり思っちゃうし、それは短い文じゃないの?みたいな。
短い文ですね。ツイッターですね、みたいな。ツイッターですね、それっていう。
つんやきですねっていうね。そう、でも場所、場所とかね、本当に。
場所、やっぱり用水みたいなこの歌詞って、英語でどうやって書くんだろう?
英語よくわかんないんで、他の言語は全然よくわからないので。
でも、ほんと俳句のその漢字とか、それから松尾和装が、なんだろうな。
山形のガッサン、それをガッサンで読んだ。
雲の実にいくつ崩れて月の山みたいになって。
なかなかこれ、いくつ崩れてって、それどうやって訳したらいいんだろう?ってなりますよね。
そう、なんかね、俳句とかも難しそうですよね。
ほんとあの、蝉のやつとか、静けさが岩に染みる蝉の声か。
そうですよね。なんで岩に染みっちゃうわけ?みたいなね、ただでさえ蝉の声。
蝉の声ってないやねんっていう。
そうそう。
蝉の声はわかるでしょうけど、ジータの何百年、何十年前みたいなやつ。
いやいや、でもやっぱりその地域によって蝉の声がわからない。
ただの雑音みたいな?
そう、だからなんかこの間、この間って何年か前に、
うちの俳句社がワインのブドウを収穫するアルバイトというか、ボランティアに参加したんですよ。
その時に海外から女の子が来ていて、ちょっと立ち話とかしてたら、その女の子が、
ずっと洗濯機の音が裏からしてるんだけども、あれは何?とかって言われて、
洗濯機の音?みたいな、もうずっとずっと洗濯機の音がしているみたいなことを言われたらしくて、
え?蝉の声じゃない?とかって言ったら、蝉?みたいな?何十万匹いるの?蝉?みたいな。
キモーン!みたいなことを言ってたらしいんですけど、
そのやっぱり蝉の声とかも雑音に聞こえるってよく言いますけど、蝉の声もほら、わからない人からしてみたら、蝉の声って何?から始まっちゃいますしね。
何にしてもそうですけど、この臨場感。やっぱり山寺に行った時がある人とか、静かな中で蝉の声が聞こえてて、
余計に静かな感じを引き立てているみたいな感じのことは、なかなか説明するの難しいですよね。
日本人好きじゃないですか。蝉の声を静かなものの引き立て役に使うの。
そうそう。そうなんですよね。そういう背景もあるんですよね。
そうそう。蝉が一斉に鳴き止んだ時の静けさが最も静かなものみたいな感じの表現の仕方、大好きでしょ。私も好きだけど。
それはね、説明してくれって言われたら、さっきみたいにまた、お前の国に帰れって言われるんですけど。
そうですね。ひどい。
それにほらね、松本さんもね、陽水さんみたいにね、いやいや、そんなふうに思ってないよって言うかもしれないし。
そう思うかもしれないしね。
いや、ふわっとみたいなね。
ふわっと、その時の感覚でみたいな。いやでもあれは多分何回も遂行せそうな気がするな。
私はね、やっぱり松本さんはね、そのタイプだと思う。
ですよね。
何回も遂行する人だと思う。
何回も遂行すると思いますよ。
どうしたらバズるかってずっと考えてるタイプだと思う。
いや、あの短文で勝負する人は本当に、まあ普通の小説とかもそうでしょうけど、短ければ短いほど多分何回も練り直して染み落としみたいな。
なんかその曲詞の陽水の歌詞なのかなって思いましたね。
なんかその、いろいろな曲の解説というか、ニュアンスで作ったんですよとか書いてあるので、
役とかもそうですけど、日本語で読んでもよくわからない歌詞が多いんですけど、
ちょっとびっくりするようなエピソードが多くて、
私はこれ読んで興奮しっぱなしでしたね。
そんな意味ない。え、そこまで考えて、なんだってみたいな。
うわーって感じでした。
でもなんか、これ聞いてよかったんかなっていう、聞かなければよかったかもなっていうのはちょっと、
思ってしまった心があった。
思ってしまうというか、テジナの種明かしを知ってしまったかなっていう。
でもそれを知ったからといって、魅力が全くなくなるわけではなくて、私の知らない世界がもっとあったみたいな。
思ってたよりもっと奥深かったぞ、これみたいな。
そうか、そしたら。
もうあったし、なんか日本語と英語の違いっていうのはやっぱここですごく、
やっぱりいろいろ書かれていたので。
これはきっかけ、その翻訳、日本語を海外の言葉に翻訳する困難さみたいなのにちょっと興味を持って、
なので今回その本にもちょっと興味を持って読んだってところはありますけど。
ね、翻訳って面白いですよね。
そこで困るんだとか。
話聞くのすごい面白いです。
そこでしんどくなるんだ、悩むんだとか。
日本人全くそこ意識してなかったみたいな。
なんでそこ困るみたいな。
そんなにそこ問題になるんだっていうのが得意な問題って言われるんですよね。
そうですね。
本当でも逆も本当すごい苦労があると思うんですよね。
逆もあるとは思いますし、
その言語言語でやっぱ難しさとかってあるし。
だから、エドワードゴーリーのあの文を柴田さんが、ああやって日本語にするっていうことの素晴らしさ。
だってそれをエドワードゴーリーに説明するときに、
絶対エドワードゴーリーは日本語としてはわかんないわけじゃないですか。
もちろんニュアンス的なのは。
だけども、きっとあれはジャストフィットしているに違いないっていう翻訳の、
私の中では代表作かなと思いますよね。
あれも結構なかなか大胆なことしてたりしますけどね。
5・7・5調で訳してみようみたいな。
そうそうそうそう。
文化の違い
ウロンナとか使ってるじゃないですか。
ウロンナってみたいな。
日本語、日本語多いですからね。
この2冊まとめて読むと結構、そういうことだったんだとか。
そういう苦労っていうか。
あとやっぱり、本作るってこんなに大変なんだなっていう現場の大変さみたいな。
切実な苦労とか裏話的なものがお好きな方だと、読んでて興奮するかなって思うんですけど。
制作フィアみたいな感じなんで。
よくこんな資料がちゃんと残ってたなと思うんですよね。
一応アーカイブで残ってて、それを1ヶ月間閉じこもって読みに行ったみたいな話も書いてあって。
多分この時期、この時代だからこそちゃんと紙でお手紙とかが残ってたんだろうなって。
今だったらメールで全部やるから。
このデータが残るんだろうかって。
終わったらもう全部フォルダ元消すみたいな。
流れてっちゃいますからね。
そうですよね。メールとかだと。
こういうちょっと昔の研究ができるのって、まだ紙が残ってた時代だからできたりもするのかなってちょっと思ったりするんですよね。
どうなるんだろうかっていうのはちょっとデータでやり取りするのが基本になってしまった現代のことを、また100年後ぐらいに研究したみたいな人がもしいたとしたらどうするのかなとか。
そうですね。そういうこと、日々が読み取れないですもんね、意外にメールって。
ちゃんと簡潔にしようとか思っちゃうけど、手紙ってやっぱり筆の進み方とかもちょっとわかるじゃないですか。
一応タイプで残ってるんですけど。
タイプなんだ、そっか。
手書きだったこともあったのかもしれないですけど、タイプで。一応ほら、仕事の文章なんで。
手書きじゃなくてタイプなんですけど、ただ面白かったのが、タイプで何かの役の話をちょっとやっぱりダメ出しというか、ここはこうだからみたいなのを説明とかして、
なんでこれがどうなのかみたいなことを説明するための文章を書いてる、その文章が残ってるんですけど、それの日にちが最初10日って書いてタイプしてるんですけど、
結局上から7日後の日付をペッて手書きしてるのがあって、よっぽどこれ書くのに時間かかったなーみたいな。苦労の後が偲まれるみたいな、その手書きの習性に。
そういうメールとか確かに残んないですからね。デジタルだと。
そういうなんか、さっきの最初に紹介した日本の小説にまつわる、文脈にまつわる特異な問題は、なんかやっぱりその辺の行き遣いというか、現場本当困ってるなーっていうのが読んでて伝わってくる本で、
白論ペースで書かれた本というふうに紹介しましたけど、なんかその辺の、当時のその編集者たちの行き遣いというか。
奮闘ぶりというか。
そうそう、すごい悩んだなっていう雰囲気がすごい伝わってくるので、翻訳とかに興味のある人は読んでみるといいのかなと思いますね。
そうですね、面白い本でした。
本当これ面白かったです。なんかちょっとね、私がこういう翻訳とか外国語にあんまりちょっと不慣れなので、面白さ伝わってない感があるんですけど。
いや、大丈夫かと思いますよ。
ちょっと本当にね、こんなに文化差、なんか言語だけじゃなくて、小説感とか考え方の差ってこんなにあって、そこで既に苦労が始まっているみたいな。
やっぱ違う国の人に何か物を売るってこんなに大変なのか。
そうですね、本当ですよね。
でもほら、今ね、それこそ日本のコンテストや漫画、アニメとか、すごい世界中であんなに見られてるっていうのは、本当すごい時代になったなと思いますけど。
やっぱ絵があるとね、絵があると突然ほら、わかりやすくなりますもんね。まず誰が喋ってるかわかるから。
確かにね、そこは確かにそう。
まずそこに都合がね、絵で補われるし、そしてまあ時勢もまあ。
まあ確かにそうですよね。
若く描けば若い頃だなってわかるし。
まあほら、日本のアニメとか漫画ってまた、アニメもそうなんですけど、漫画って結構漫画独特の文法あるよなーとか思ったりしますけどね。
なんか吹き出しの形がこういう時は、なんか今思い出してますよってシーンですみたいな。
心の声ですよみたいな。
先っぽが尖ってる時は、今話してますですけど、先っぽが雲になってて、丸っぽぽんぽんぽんってなってる時は、
言ってることわかりますか。
考えているみたいな。
今、はい、これは心の声ですみたいな。
あと何ですか、あの集中線でこう、セリフが書かれてる時はなんかこう、決め台詞じゃないですけど、心の声でもなんか特大の、特大の。
強調されている何かですね。
強調されている何かとかって、読み慣れないと何これ何これみたいにならないかなと思うんですけどね。
あれはうまいですよね。
あれってまた絵なんだけど、なんか漫画独特の文法ってあるよなーとか。
うん、あるある。
それを海外の漫画読み始めた人、どうやって覚えていくのかなとかも、すごい興味がありますね。
あれだっていちいちそんなの訳しないじゃないですか。
海外とかもああいう感じで書くんですかね、吹き出しとかって。
だからほら、ジャンプ。ジャンプはコマが大きいからわかりやすいんじゃないですか。
あーそうか。
だから最初はジャンプとかああいうのから入っていって。
ジャンプとかレベルEとかは結構そういうところをテクニックで読ませてたよなーとか。
上級者向けの漫画だったんじゃないかな、あれとか思いますけどね。
こっちだってよくわからねーよな、あの漫画みたいな。
でも難しい漫画あります?たまに。読むのがすごい。あれ?みたいな。
どっち側からこの吹き出しを読むのかなっていうのが、会う時があって、漫画は飲み物だって言ってる私ですら、やめる漫画がたまにあります。
日本文学の影響
これはちょっと読めないなーと思って、ちょっと挫折した漫画が実はあります。
吹き出しがいっぱいある漫画は別に平気なんですけども、それこそ誰がどれを喋ってるか全くわからない漫画があって、どっちどっちどっち?みたいになる。
漫画も結構独特な文法ある表現のお決まりとかあるじゃないですか。それ多分文法とかだと思うんですけど。
なんかアニメだと多分映画とか実写のその、何ていうか動きとかに近いものになってくると思うんで、
漫画は多分文法とか薄くなってくるのかもしれないですけど、でも結構これ日本の文化とか習慣によってる表現だなーとかいうのもあったりするから。
ねー、だからみんな勤勉ですよね。本当にアニメから入る人がきっと多いじゃないですか、世の中ね。
で、それからアニメで今度原文読んでみたいってなって、漫画になるから日本語を覚えたいとかなるわけじゃないですか。
いやー、あの情熱すごいなーって本当思いますけどね。
本当。で、さっきのその一番最初に紹介した本の中でも、やっぱり日本文学を紹介したいっていうのは、文学って好きになってもらうと日本にやっぱ親しみをすごく持ってくれやすい。
で、なんかその日本人が逆に海外に、アメリカに行った時に感じた印象としては、日本の文学じゃないんだけど、
その時、戦後なので、1950年とかその辺ですよね。行った時、ちょうど冷戦時代で、アメリカとか共産主義はレッドパージーでめっちゃ追放されてたりとかしてた時代で、
共産国はもう本当タブーみたい。ロシアとか、まあそう当時はソ連とかかな。
そういうものっていうのもタブーみたいな感じでしたけど、でも昔から文学読んでる人たちなんとなく、国は嫌だけどロシア人に対してはなんとなく解釈があるのは、多分その昔からロシア文学読んでたからみたいな。
文学の力ってそういう強さはあるよなーっていうのを。だから文学を広めたい。
日本の文学を通じて日本人とか日本の文化を知ってもらいたいっていうので、自分で訳して、自分で書いたものを自分で英訳して出版したりした人もいたりしてましたね。
だから今多分日本を知ってもらう一番強いツールとしては漫画、アニメなんだろうなっていうのも。
日本への関心
そうですね。
逆に他のコンテンツなんかあるのかなって感じですけど。
ないですよね。
でもやっぱり日本に行きたいってなる人たちの大きい理由ってやっぱりアニメとか漫画の舞台になった国に行ってみたいとかっていうのは多いんだろうなと思いますしね。
ですね。
偉大ですね。そういう意味では。
偉大ですね。
偉大なコンテンツですよ。
ねじれていかないことを祈っております。
そうですね。
じゃあこんな感じですか。
今回はこんなところでしょうか。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
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