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笑倍繁盛チャンネル、望月まもるです。本日もよろしくお願いします。
戦国時代の商人の過酷な状況
さあ、今日もですね、室町時代、戦国時代というですね、そういう角度からですね、お話ししたいかなと思いますけど、戦国時代ですね、商人にとっては、これは当然ですけど、最もやっぱり過酷な時代ですよ。
だってさ、今日の主君お殿様が、明日にはさ、敗れてですね、城下町がですよ、一夜にして焼け野原になったりとか、商品が運んでいた街道もですね、戦によって遮断されたりしたからなんですね。
ところがですね、この激動の時代でもですね、日本の商売人というのはですね、負けないんですね。
楽市楽座の登場と織田信長
戦国時代の商人はですね、楽市楽座という政策で変革したわけですね。楽をするですね、市場の市、楽座ですね。座という言葉はまだ、市とか座という言葉がですね、ここでも使われているわけなんですけども、
1549年ですね、大見のですね、方が発令して、大体小田信長なんですね。
基本的にこの小田信長が積極的に推し進めたのがこの楽市楽座なんですね。
従来の座は何かと言うと独占権があったんですね。
でもそれは一切廃止だよとね、誰でも自由に商売できる市を開くよということですね。
楽っていうのは自由という意味なんですね。楽になるっていうのは自由になるということなんですね。
この楽市楽座の登場はですね、これまで座の既得経費に守られてきた商売人たちいますからね。
年頃になってた商売人たちがいますからね、この人たちにとってみれば大変な脅威よ。
ところがですね、同時にですよ、新しい才覚だとか才能だとかアイデアだとか思っている商売人たちにとってみれば大きなチャンスだったんですね。
信長が楽市楽座を推進した本質
じゃあなんで信長はこの楽市楽座を推進したのかっていうところなんですよね。
これ表向きにはですね、城下町の経済活性化と言われてるんですけども、
本質的にはですね、商売人の力を信長が直接支配することだったんですね。
さすがでしょう、信長。作詞ですよね。
この座の背後にはですね、これまで必ず自社仏閣とか貴族がいたんですね。
で、糸を引いてたわけですよ。
だから彼らの権威をですね、年頃になってですね、そういうものを一切排除してですね、
商売人を自分の権力にですね、直結させようとしたんですね。
なぜかというとですね、信長は商売人の経済力というものをですね、
自分の戦の資金として必要としてたからなんですね。
堺の商人たちと千利休の精神性
で、この典型っていうのが今の大阪の堺ですね、堺の商人たちですね。
当時ですね、南蛮貿易で莫大な富を持ったんです、堺の商人たちはね。
で、どの戦国大名ともですね、ぱっちりくっついてるじゃないですね。
一定の距離を保ちながら堺は堺として自治都市としてですね、独自の判断で動いてたんですね。
だから今大阪府に入ってるんですけど、堺ってのはちょっと特別なんですよ。
こういった経緯がありますからね、ちょっと特別な土地なんですね。
他の大阪とは若干というかかなりやっぱり違いますね。
で、今井曽久とか津田曽久だとか千利休っていうですね、こういう方たちが大勢いらっしゃったんですけど、
彼らはね、商売人です。でも茶人でもあったんですね。
お茶をたててってね、お茶で有名でしょ、千利休さんとかね、津田曽久さんとか今井曽久さんとかは。
だからこの多くの権力者の信頼を得ながらもですね、一定の距離をもって自治都市の中で、
それなりの判断、自分たちの独自の判断で動き、自らの美意識っていうものと商売の軸ですね、
これは決して手放さないという、そういう姿勢でいたわけですね。
この千利休ですけどね、この時代の商人の精神性っていうのはやっぱり鮮やかに体現してるなと思うわけですね。
利休七足っていう言葉があるんです。利休の七つの乗っ取る規則の足ですね。
これググってみてください。意味を本当に本当に深く考えてみてください。
これはお茶の心得なんですけども、これはそのまま商売におけるおもてなしの美学とか、
在り方を説いている素晴らしいものなんですね、内容なんですね。
そのあと秀吉か、っていうこの絶対的権力者の差、要はお茶の担当みたいなところで使えてるわけですよ。
結構いい立場をもらいながらですね、お二人とはつながってましたけどね。
でも利休はですね、和美・寂っていうこの美意識を一切曲げなかったんですね。
大体どっちかというと豪華絢爛を好んでいたわけですね。
特に秀吉なんかはね。
その前でですね、あえて質素で不完全なですね、お茶碗、茶器をですね、選んでっていうのは単なる感性だけの話でもないんですね。
これは権力に媚びないよってね。
こういうやっぱり職人であって、商人であってっていうですね、こういう表現だったりもするわけですね。
浅川の話は有名ですね。
検索してくださいよ、検索してください。
利休は最後ですね、秀吉との対立によって切腹命じられて、これも有名な話ですね。
結局曲げなかったわけですね。
権力に屈しないよということですね。
死して自分の自らの美学を守ったから今でもですね、こうやって伝説になっていると思うんですね。
だから権力には負けずに、自らの軸を守り通した利休の生き様っていうのはですね、
これそのまんまですね、堺の商人はもちろんですけども、厚生の商人たちのですね、精神的な模範というふうにもなるわけですね。
戦乱の中での商人の活動
で、前回お話したですね、街道とか山道のお話なんですけども、戦国時代になるとですね、街道っていうのはですね、やっぱ戦略的要衝になってくるわけですよ。
お互いがもう、ちょっとでも隙があったら攻め入るわみたいなさ、そういう状況ですからね、戦国時代はですね。
でもこの戦が続く中でもですね、商売人たちっていうのはこの道を歩いてですね、商売をやっているわけですね。
たくましいよね。
で、この頃になると夜戦っていうね、弓矢の矢に善にですね、って書いて夜戦って言うんですけども、通行税とかも払わなきゃいけなくなっちゃったりだとかしてね。
で、時にですね、やっぱりもう戦やったりとか、何かもうあちこちで粗いのがいっぱいいますからね、時に命がけで物資を運んだわけですよ。
でね、何でそこまでして動いたのかってとこなんです。
これ儲かるからかっつーと、いやいやそんなことはないのよ。
もうね、その頃には各地にお得意様とか肯定客さんがいらっしゃったわけですね。
っていうことはその地に住む人々の暮らしにね、必要なものってのも分かってるし、それが届かなくなっちゃったらまずいと、届けられないとその土地の人が困るというこういうものがあるんです。
でましてや戦でしょ。戦だからさ、米が焼かれた村に商売人がさ、米を運ぶんですよ。
鉄が不足したお城にさ、家事道具を運ぶんよ。
だから商人が物を届けるっていう行為はですね、この時代、やっぱり命をつなぐことっていうところにですね、直接的に関わってたということですね。
神仏への信仰と商売の発展
神様、仏様の前で行っている賛同での商売もですね、戦国時代になるとですね、ちょっと独特の発展が遂げてくるんですね。
これ何かと言うと戦乱の世になるとですね、人はですね、神、仏にすがるんです。
時代が混迷してくると、スピリチャルだとか、そういうものに占いとか、そういうのにハマっていくかのようにですね、結局そういうところにすがるようになるわけですね。
伊勢神宮の参拝者が増えたりとか、街道沿いに恩師とかお師とか言われる方がいるんですけども、この方たちは案内人なんですね。
全国回ってですね、参拝者を集めたり、宿の手配からお土産の手配まで行うっていうですね、今でいう旅行大利用と観光業を兼ねた感じのご商売もですね、この時代には始まってるんですね。
先行き不安な時代ほどね、神様、仏様に向かう人たちが増えてさ、その道にさ、道すがらに商売が育っていくと。
ここにもですね、人間の本質と商売の本質っていうのが何か交差してるなっていうふうに感じるんですね。
商売の本質と鍛錬
戦国時代ですね、環境がどんだけ激変していってもですね、ちゃんとやっぱり自分軸を持つ商売人は生き残っていったんですね。
権力にこびず、自流に流されず、必要なものを必要な人に届けるっていうですね、これ本質でしょ、商売の本質なんですよ。
この商売の本質に従ってた人たちだけが次の時代にやっぱりつながっていくんですね。
宮本武蔵はですね、五輪書にですね、千日の稽古を短とし、万日の稽古を廉とすと。
これ何かと言うと、武士が鍛錬をするということですよ、鍛錬ですよ。千日稽古すると、一万日稽古すると。
戦国の商売人たちも戦乱っていう極限の環境の中でさ、結局商売を持って心身鍛えていったわけですね。
万日って言ったらだいたい27年とかよ、本当に。
3年ちょい、3年ちょいの稽古、これただダラダラやるわけじゃダメなんですよ。
きっちり考えて本当に一生懸命1日1日をですね、そこに集中してっていうね、この時間をどれぐらい費やしたかってことを宮本武蔵は言ってるんですね。
この武家社会でもありましたからね、こういったところっていうのはですね、必然的にというか、
この風潮としてですね、やっぱ商売人たちにも伝わっていたりなんかもしたっぽいんですよね。
こういうこの練ですね、鍛錬というですね、この感覚っていうのもですね、次いよいよ江戸時代なんですけどね。
江戸時代でですね、商人文化が花開きますからね、ここの土台になってたなというふうにも感じるわけです。
ということで本日も最後まで聞いていただき誠にありがとうございます。
さあ次回からはようやく江戸時代だよということで、また明日お会いしましょう。
それではバイバイ。