1. なんでも倫理
  2. #22 ヴィーガンのアライとはー..
2024-11-18 1:18:30

#22 ヴィーガンのアライとはーLGBTQ、非ヒト動物、私...それぞれにとってのアライから考える

今回はヴィーガンのアライについて考えました 当事者にとって、どんな人がアライと言えるの?LGBTQのアライとは違う?そもそもアライって? もやもやしながら語らいました〜


ご意見•ご感想は@animotethicsをメンションの上、"#なんでも倫理" を付けてご投稿ください🐔 是非、ASの投稿のシェアもよろしくお願いいたします。 参考文献:メラニー・ジョイ(2023)『ヴィーガンとノンヴィーガンのためのコミュニケーションガイドブック』(玉木麻子訳)青土社


ご紹介した竹下さんのブログ:


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LGBTQ のアライとの違い / ヴィーガンのアライでありながら非ヒト動物のアライではないことは不可能? / ヴィーガンでなくても非ヒト動物のアライになれる / "ヴィーガンの" アライであることの重要さーヴィーガンもまた差別の対象でありうる / モスはヴィーガンのアライか? / ヴィーガンのアライでないが私のアライではある場合 / 強さのためじゃない選択 / ヴィーガンを選ばざる得なかった? / 私のアライが非ヒト動物のアライにもなり始めてくれていた / アライにもグラデーションがある / イスラエルとマイノリティのアライの問題 / ヴィーガンの私からノンヴィーガンのあなたへのリクエスト

00:05
さあ始まりました、なんでも倫理ラジオです。このポッドキャストは、動物と倫理と哲学のメディア、ASがお送りします。
進行は私、村田です。よろしくお願いします。はい、では今回は4人でお送りしますので、早速自己紹介からいきたいと思います。
今日は、お名前と最近取り組んでいることとか、あの、紹介していただきます。では、黒さん、お願いします。
はい、黒です。よろしくお願いします。久々の出演になるんですけど、今、終始論文を書いております。
秋目にできて、ちょっとやる気を出さなきゃと思って、ガーッと取り組んでいるところです。よろしくです。
頑張ってください、論文。では続いて、千春さん。
はい、千春です。今、社会人やってます。あと、最近、両輪郷で英語の勉強を始めました。
今、40日くらい続いてて、連続記録を更新していきたいと、ぽちぽちやってます。お願いします。
お願いします。はい、では竹下さん。
はい、竹下です。私も最近は白論を書いていて、きっとこのホットキャストが公開される頃には白論提出が終わっているといいなと、終わってなきゃヤバいなと。
そうですね。よろしくお願いします。お願いします。
すごい、学位がかかっている方がお二人おられるという、応援してます。
はい、私最近、そうですね、頑張りたいなと思っているのは、ピアノの練習ですかね。
ちょっと、あの、習ってたりもしたんですけど、ちょっと間開いちゃったり、その時あんま頑張ってなかったなぁみたいな、あの、最近、はい、思って、もっと弾けるようになりたいぞっていうので、ちょっと頑張ろうかなという感じです。はい。
今日はこの4人でお送りします。
今回は前回に引き続き、ヴィーガンとノンヴィーガンのコミュニケーションだったり、良い関係を築くにはというテーマでお送りするんですが、中でも特にヴィーガンのアライについて取り上げようと思っております。
はい、アライって言うとあれですね、LGBTQのアライとか、連帯する人っていう意味かなと思います。
03:09
はい、前回に引き続きというか、メラニー・ジョイさんのヴィーガンとノンヴィーガンのためのコミュニケーションガイドブックというのを素手で読んだので、そこでもヴィーガンのアライという言葉が出てきたりしたので、今日はそれを取り上げるということになります。
はい、今回この4人は一応ヴィーガンとかベジタリアンとか、そんな感じ、各々自分のやり方でやってますよっていう理解で大丈夫そうですかね。
はい、そんな4人でお送りします。
今回ヴィーガンという言葉を使うと思うんですけど、このメラニーの本でも書かれてた通り、ヴィーガン・ノンヴィーガンという言葉の使い方で、必ずしもヴィーガンが完全再食、徹底してる人っていう意味じゃなくて、
ヴィーガンに対してヴィーガンに共感してたり、できるだけベジタリアン、ヴィーガンやってたりみたいな、そういう関係性というか、相対的な感じでヴィーガンという言葉、ノンヴィーガンという言葉を使っていくことになるかなと思います。
今回なんですけど、竹下さんのブログをちょっと元に考えたいなと思っておりまして、ASでもちょっと話題になったんですけど、竹下さんがノートで書かれたヴィーガンの洗いになることっていうブログがありまして、こちら理論編と実践編に分かれてますね。
その内容を、特に理論編のところをシェアしてもらって、ここでみんなで疑問だったり感想だったりをぶつけていきたいと思います。
そこから自分たちの洗いってどんな人なのかなっていうところまで、みんなで考えていきたいなと思っております。
はい、ということで早速本題に入っていきたいと思いますが、竹下さんにそのブログの内容を紹介していただいていいでしょうか。
竹下です。もともとノートっていうところでヴィーガンの洗いになることっていうのは、メラニー・ジョイのヴィーガンとノンヴィーガンのためのコミュニケーションボーンの中で洗いっていう表現が出てきて、それにインスピレーションを受けて書いた記事です。
06:15
これ自体は理論編も実践編もどっちもノートで公開していて誰でも見れるので、ポッドキャストの概要欄のところにリンクも貼っていることになると思うので、そちらから見ながら聞いていただければいいかなと思っています。
理論編の方は何を書いているかっていうと、そのヴィーガンの洗いってなんだろうっていうのをちょっといろいろ考えてみたっていう感じのものになっていて、
実践編の方はその理論編の議論をもとに、ヴィーガンの洗いって実践として何をすることになるのかっていうのをいろいろ書いてます。
理論編の方の目次からちょっと説明していくんですけど、まず洗いっていう表現って元々はどうかわかんないですけど、少なくともよく使われるのはLGBTQプラスの文脈です。
つまりセクシャルマイノリティの人たちが当事者としていて、その人たちに連帯ないし、その人たちの仲間という意味で洗いっていう表現がよく使われています。
最初はそのLGBTQの文脈での洗いの話と、ヴィーガンの洗いってどこが同じでどこが違うんだろうかみたいなことを話しています。
次にヴィーガンの洗いであることっていうのが、ヒイスト動物、つまり人間以外の動物の洗いであることとどういう関係にあるのかっていうのを話しています。
これは結構メラニー・ジョイの本の中では割とヴィーガンの洗いであることの方に強調点が置かれていたんですけど、
私にとってヴィーガンの洗いであることって、ヒイスト動物の洗いであることと密接に結びついているようなっていうふうに思っていたので、それについて書いています。
その後にヒイスト動物の洗いであることっていうのはそもそもどういうことなのかっていうのを話して、最後にもう一回ヴィーガンの洗いであるっていうことに戻っているっていうような構成になっています。
ということで、まず最初にヴィーガンの洗いとLGBTQの洗いについて判断していこうと思います。
お願いします。
LGBTQの洗いの方から考えるのが、まず類推としてやりやすいかなと思っていて、
っていうのはヴィーガンの洗いって一言に言ってもよくわかんないんで、LGBTQの洗いっていうのはどういう存在のことを指すのかっていうのを書いています。
素朴な話としては、LGBTQの当事者ではないものの、その人たちの支援者、味方、仲間であるっていうことを意味しています。
よくLGBTQの洗いであることによって、じゃあ何をするのか、洗いに役割って何だろうかみたいなことを考えると、
09:06
まず仲間だから、そのによってちゃんと当事者に対しての理解を、少なくとも勉強したり、自分の理解をちゃんと反省して理解を深めようとする、そういった姿勢を持つっていうことがまず大事だと。
そういう味方がいるんだよっていう存在感によって、そのLGBTQの人たちに対する安心感を与えることができるっていうのが一つ洗いの役割としてあるかなと思います。
これとは別に、当事者がいないときに、その非当事者たちの会話のコミュニティの中とかで、セクシャルマイノリティの人たちの話になったときに、何か誤った事実が主張されたりとか、
あるいはすごく間違ったステレオタイプ的な発言がなされたりとか、あるいは逆にもっとひどい場合には差別的な発言が行われたりとかっていうするときって多々あると思うんですね。
そういうときに洗いの人たちが、いやそれは違うんだよっていうふうに、まさにその当事者の味方である洗いがそれを伝えることによって、当事者がいない文脈でもそのセクシャルマイノリティに対する理解を深めていく。
社会的にそれを広めていく。そういった役割が洗いにはあるかなと思っています。
でまぁこれ自体はビーガンの洗いとも恐らく共通していると思うんですね。っていうのはそのビーガンもまたその仲間が欲しいわけですよね。
やっぱりビーガンって多分セクシャルマイノリティよりも人口が少ないと思うんで、そういう意味でもその味方がいるっていうのはビーガンにとっても安心感につながるはずですし、
加えてそのまあこの後ちょっと話していきますけど、ビーガンに対する差別あるいはビーガンの誤ったセロタイプ的な主張ってまあツイッターとかエックスとかを見てきてもたびたび見かけるわけですよね。
その時にビーガンの当事者だけがなんかこう頑張って反論したりとかっていうのはもう疲れてしまうわけなんで、そこで洗いが何か役割を果たしてくれるとビーガンにとっても嬉しいと思われます。
そういう意味でビーガンの洗いとセクマイの洗いっていうのは結構似てるところがあるかなとは思いますが、違うところが私が考えるに少なくとも3つぐらいあるかなと思っています。
1つ目はセクシャルマイノリティの洗いの場合ってその洗いの人が当事者になるっていうことはあんまりなさそうっていうことですね。
これは例えばもちろんセクシャルマイノリティに関しての理解を深める中でもしかしたら自分もそうかもしれないっていうことはあり得るかもしれないんですけど、
ビーガンの場合とちょっと違うと思っていて、ビーガンの子っていうのはそのLGBTQと違って選択して当事者になるっていうところがあるかなと思います。
例えば私自身はパンセクシャル、LGBの中だったらBに近い、バイセクシャルに近いものになるんですけど、それって私の場合は結構自覚してなったものであって、
12:10
何か選択して私はバイセクシャルになるぞって選択してなったわけではないんですね。
でもビーガンっていうのはやっぱり自分で選んで動物性のものはもう一切買わないぞっていうふうな選択自発性が結構あるかなと思っています。
なので、そういうところで粗いでありつつ粗いが当事者になるっていうことがLGBTQの文脈だとそんなにないんですけど、
ビーガンの場合だったら結構それがありそうだし、なんならおそらくビーガンの人たちはビーガンの粗いに対してビーガンになってほしいなって思っているっていうところもちょっと違うところかなと思っています。
これが一つ目の違いです。
二つ目の違いですね、セクマイの粗いとビーガンの粗いの違いはさっきもちょっと触れましたけど、やっぱりセクマイの当事者は粗いに対して同じように当事者になってほしいって思っているわけではないわけですね。
というのは基本的にはセクマイの粗いの場合は当事者に自分でなるぞと自発的になるぞっていうのはできないから少なくとも難しいケースの方が多いはずなわけです。
でもビーガンの場合はやっぱり粗いに対しても同じようにビーガンになってほしいって思っている点は、セクマイの粗いとビーガンの粗いの違いの二つ目としてあるかなと思っています。
三つ目の違い、これが最後の私が考えている最後の違いですけど、セクマイの当事者っていうのはその属性自体が何かの粗いになっているわけではなさそうです。
例えば自分自身がバイセクシャルパンセクシャルであるっていうことそのものが誰かにとっての粗いになっているわけではないと思うんですね。
もちろんその私はバイセクシャルパンセクシャルのみとして、例えばそのレズビアンとかゲインの人たちに対しての粗いになることっていうのはできますけど、それはパンセクシャルであることによって粗いになっているわけではないわけです。
でもビーガンの場合はそうじゃなくて、ビーガンっていうのはビーガンであるってこと自体がヒヒと動物、人間以外の動物の粗いであるってことになっているはずなんですね。
というのは私たちビーガンっていうのはまさにその人間以外の動物のためにビーガンを選んでいるわけなので、そういう意味で人間以外の動物にとっての粗いであることを選択して、つまりそれはビーガンになることを選択しているっていう点で、
そこも結構当事者性、粗い性の違いとしてセクマイナーの粗いとビーガンの粗いっていうのの違いとしてあるかなというふうに思っています。
この3つ目すごい面白いというか、確かにビーガンってヒヒと動物の粗いか、なるほどっていうの結構思いましたね。
自分の説明でも使ってみたいっていうか、私ヒヒと動物の粗いやってますみたいな感じでも、ビーガンのことは結構ちゃんと説明できる表現だなって思いましたね。
15:15
あんまり使ってる人いないですよね、こういう表現を。人間以外の動物の粗いなんだよっていうふうに思ってやってる人ってそんなにいないと思うんですけど、でもぴったり当てはまる感じが私はする。
ビーガンって自分のこと説明するのはばかられたり、厳密にはできてないけどやりたいとは思ってる、なんて自分のこと説明すればいいんだろうって思ったりするときに、自分のスタンスを説明しやすいなって思いました。
ちょっと内容と外れちゃいますが、このビーガンの粗いがビーガンと同じように粗いで、ヒヒと動物の粗いであるのかっていうのがこれから論点になるのかなと思いますが、続いてどうでしょうか。
次はまさにヒヒと動物、人間以外の動物の粗いであるっていうことはどういうことなのかっていうのも踏まえてちょっと話したいと思っていて、私はビーガンの粗いであると同時に、ありながら、でも人間以外の動物の粗いではないよっていうのは不可能だと思っているんですね。
不可能か少なくともそれはビーガンの粗いとしては失格なんじゃないかみたいなふうに思っています。理由は3つあります。
1つ目は、やっぱりビーガンの粗いっていうぐらいだったら、ビーガニズム、ビーガンの思想に対しての何らかの肯定的な態度、指示をしてほしいと思っていると思うんですね。
まさにビーガニズムっていうのは何かって言ったら、それは動物擁護、人間以外の動物の粗いであることであると思うんですよ。
これセクマイの場合で考えると、例えば私はノンバイナリーなんですけど、ノンバイナリーっていうのは男女二元論の否定を伴っていると思うんですね。
でもじゃあノンバイナリーの粗いでありながら、男女二元論を指示していますっていうのはかなり奇妙、なんかそんな粗いって言えるの?みたいなふうに言いたいと思うんですよ。
ということはやっぱりビーガンの粗いであるっていうことは、ビーガニズムの指示を伴っているはずで、つまりそれは動物擁護をすると、それはさらに言うと非人動物の粗いでもあるということになると思うので、これがビーガンの粗いでありながら、非人動物の粗いではないっていうのは無理だっていうことの理由の一つ目です。
2つ目は、ビーガンはおそらく動物擁護的でない洗いを必要としてないと思うんですね。
っていうのは、もちろんビーガンの生活を改善してくれる、例えば社会にビーガンの認証マークがついている商品を増やしてくれるとか、そういったことはもちろんありがたいなとは思うわけですけど、でもそれが動物擁護的なモチベーションからなされてなくて、全然単に売り上げに貢献するからみたいなぐらいでやってくれると、ありがたいですよ。
18:18
ありがたいですけど、でも洗いって名乗ってほしくないなとは思うわけですね。
じゃあここもまたセクマイの場合で考えると、ノンバイナリーの洗いを名乗りつつ、何かノンバイナリーのための、例えばダンジョニー原理に偏りすぎないようなセラティフィカルじゃない服を設計してくれると、デザインしてくれたりしてるとしましょう。
でもこの人は実はダンジョニー原理をがっつり支持してます。
みたいなことになったときに、もちろんそういう服を設計してくれるのはありがたいですけど、でも洗いって名乗ってほしくないと思うんですか、と私はそう思います。
そういう意味でもやっぱり、当事者に望まれてない洗いじゃないと、当事者にとってはこういう風な洗いでいてほしいなって思うのに、そうじゃない人が洗いって名乗っているのは何か当事者の味方なの?
ちょっと疑わしいように思うので、そういう意味でこの2つ目の理由はそんな感じです。
最後3つ目の理由は、仮に非人動物の洗いではない仕方でヴィーガンの洗いであろうとする人がいたとしましょうと、でもこれってそらくヴィーガンにとって喜ばしい結果を招くことにはならないと思うんですね。
ヴィーガンにとっての目標って、ある種動物擁護的な世界、反種差別的な社会を目指しているわけで、そこにおいて何か種差別を肯定するような人がヴィーガンの洗いですってやっても、全然その反種差別的な社会の方に行かないと思うんですよね。
単にヴィーガンの洗いであるっていうだけでやっぱり不十分で、そこには動物擁護的な指示も伴っていないとヴィーガンにとって望ましい結果を引き起こすことができない。
そういう意味でも、ヴィーガンの洗いであると同時に非人動物の洗いでもあってほしいし、そうじゃないとヴィーガンの洗いであるとはとてもじゃないけど言えないっていうのが私の考えとしてはあります。
一見厳しいことを言っているような感じもしますけど、確かにありがたい存在、例えばハンバーグチェーンで植物性のものを出してくれるとか、
ありがたい存在っていうのは5つ、でもありがたい存在イコール洗いではないんだなっていうのがちょっと今ので確認できたような気がしますね。
ありがたい人が必ずしも味方と言えるかというと違うのかなっていうのは思いました。
21:11
理解してもらえているかとか、ただ役に立っているだけなのかどうかっていうのは思いましたね。
もちろんないよりはそりゃあった方がいいのはそうだけど、モスバーガーとか洗いかって言われたら全然そうは思えないんですよ。
だってグリーンバーガー以外の消費を見れば動物消費をガンガンに加速している側ではあるわけで、そこでそのグリーンバーガーの存在っていうのは嬉しいけど、
でもじゃあモスバーガーが我々の味方かって言ったら、いやーちょっとみたいな気がしますよね。
ちょっと論点出してもいいですか。
今の日本ではビーガンって言ったら、いろんな理由からベジタリアンでもいいんですけどビーガンをやってる人がいて、
環境のためだったり自分の健康のためだったり、あるいはもともと肉があんまり好きじゃなくて自然とビーガン寄りの生活になったっていう人もいるだろうし、
それで今の少なくとも日本だとビーガンっていう言葉はそういう人に対しても使われてる。
確かに。
そういう商品を出す側にとってもアレルギー対策のためとか、健康上とか環境でっていうのもあると思うし、
そうした時にビーガン以外の人からすると、ビーガンである人とビーガンって名乗ってる人と動物の、
その人が動物の今の状態を憂いていて何とかしたいと思ってるっていうところとか結びつかない。
簡単には結びつかない可能性がある。
その人にとっては、その非当事者の人にとっては、今目の前にいる人が困っていることっていうのは第一に自分の食べ物がないっていうところに多分フォーカスが当たると思うんですね。
その人の食べ物がないっていう状態は何とかしてあげたいなと思って、ビーガンのオプションのあるお店を積極的に連れて行って選んでっていうことをしたり、
大人数の集まりとかでもちゃんとビーガンのオプションを用意してあげるとか、そういうことが最初にやるべきことみたいになるとは思うんですよ。
その非当事者の認識としては、これがノンバイナリーだったりトランスジェンダーだったりと違うところは、
トランスジェンダーやノンバイナリーの人はその人自身が社会の偏見に晒される、直接に晒される、直接に暴力的な排除っていうのをされうる存在っていう。
24:08
ビーガンもそういうところがあるんですけど、例えばさっき竹下さんが言ってくれたことだと、男女二言論。
男女二言論を社会の側から、あるいは非当事者の側から積極的に男と女って違うよねって。
男が美味しくしてたら気持ち悪いよねとか言われたら、その人が自身が傷つく。
けどビーガンの場合は、例えば肉がスーパーで安い肉があっておいしそうって言って買って、それを目の前で食べられたりすると、
ビーガンの人が傷つくっていうのはもちろんあるんだけど、直接に暴力を被ってるのはビーガンの人ではなくて、
肉になってしまった、殺されてしまった動物。だからそこが間接的でちょっと遠回りになってるっていうところがちょっと難しいところなのかなと思っていて、
ビーガンじゃない非当事者の人にとってはそのリンクが見えにくいことが、
LGBTQプラスのあらいとビーガンのあらいとの一つなりにできないような難しさがあるのかなっていうのは思いました。
なんか今ので2つぐらい考えて、今まで話してきた感じだと、ビーガンイコールその動物の権利を尊重したくて、動物性のものを立ってる人っていうことで進めてきましたが、
確かに健康上の理由とか環境問題への意識っていうところから、ビーガンを、菜食を選ぶ人もいてというのは確かに思って、
その人たちへのあらいっていうとまた別の話になってくるのかもしれないですね。
今回は、人間じゃない動物のあらいとしてのビーガンにフォーカスを当てていくことになるのかなと、ゆりかえでいいでしょうかね。
そうですね。私も自分のノートの記事のビーガンっていう言葉の使い方は、基本的には種差別に反対して、動物倫理的な理由でビーガンやってる人のことを念頭において書いてはいます。
今回ビーガンっていうのは、動物を守る意識から動物性のものを取らない選択をしてる人たちっていうことになるかなと思います。
あとは、傷つく対象が本当に自分なのか、それとも別の存在なのか。
27:07
LGBTQの場合は、男女に言論的な言動されることによって、本当に自分の存在自体が脅かされるけれども、
ビーガンの場合だと、実際に傷つけられてるのは畜産動物だったりってなりますねっていう話で、
こここそやっぱりビーガン自体があらいである、非人動物のあらいっていうことから来るのかなと思いますが、
次の説につながってくる、この非人動物のあらいってどういうことなのかっていうことにつながってきましたね。
そうですね。ちょっとじゃあそっちの話に移っていきましょう。
非人動物のあらいであるっていうことはじゃあ何なのかっていうのが次に私がノートで書いていることで、
直感的には、私がここで念頭に置いているビーガンは非人動物のあらいであるっていうのはそうだと思うんですよね。
でも非人動物のあらいであるんだったらビーガンでなきゃいけないのかっていうのは、この逆の関係が成り立つかどうかっていうのがここで議論していることです。
じゃあビーガンじゃなかったら非人動物のあらいじゃないのかみたいな話になるんですけど、そうはならないと思っていて、
ビーガンにならなくても、ビーガンでなくても非人動物のあらいであるっていうことは続けられると思っているんですね。
それはやっぱり、例えばもちろん仲間であるあらいとして生活していて、守るべきはずの存在をビーガンじゃないってことは別に食べている。
日常的に購入したり食べたりしているわけですけど、それは確かに直感的にはそれであらいってなるのってなんかおかしいなって気はするとは思うんですよ。
でもビーガンになろうとしたり、あれがなっている人だったら多分わかると思うんですけど、めっちゃ大変じゃないですか。
すごく日常生活の中で困難を感じるはずだし、しかもこの困難さってその人が置かれている経済的な状況だったりとか、
あるいはその人の例えばアレルゲンとかによっては大豆が食べれないっていう人もいたりするわけで、
その中で個々人でビーガン実践の困難さが違う中で、やっぱりどうしてもビーガンになるっていうのはすごく難しい人っていうのも絶対いると思うんですよね。
そういう人たちが反資差別的な考えを持ちながらも、でもビーガン生活、つまり動物性を食べないっていう生活を送れないからといって、
30:04
じゃあもうそれの時点で非人動物の荒いじゃないですとはやっぱりならないと思うんですね。一定程度その人たちもやっぱり非人動物の荒い実践をずっとし続けていると思うんですよ。
これはメラニー・ジョイの本の中でもビーガンって結構程度問題だよっていうこともあったと思うんですけど、
まさにビーガンだって別にその食事以外の文脈では完璧を貫いているかって言ったらそうじゃないと思うんですよね。
動物実験を経た製品を回避しようとしても化粧品とかだったらできるかもしれないけど、
美術舎病院行って薬もらってるみたいな話になったらそれはそうはいかなくなるはずですし、
あるいは他のビーガン実践として、例えば原材料のそれ自体は動物由来じゃないけど、
非人動物を利用して減ってきた製品、例えば砂糖とかって一部は牛骨炭使ってるみたいな話とかがあるわけですが、
それも厳密に避けるかって言ったら多分そこは避けてる人避けてない人って結構バラバラだと思うんですよね。
そういう意味でも、ビーガンであっても非人動物の犠牲っていうのはどこかで避けられない部分がどうしても生じてきてしまう。
でも粗いとして生活しているって言えると思うんですね。
その意味でビーガンでなくても非人動物の粗いであり続けるってことはできるんじゃないかっていうふうに私は考えていて、
だからこそ非人動物の粗いでありつつ、ビーガンじゃないけどビーガンの粗いではあれるよっていうところにも繋がっていくところがあるかなっていうふうに思っていて、
次はそのことをいろいろ書いてるっていう感じですね。
私がその考えに救われたなって思ってて読んだときに、
自分が今ビーガンにはなりきれていないベジタリアンだけど、ビーガンの粗いと私は自分のことを思ってるっていう状態なんですけど、
そういう状態の人に対しても、今の感じでも大丈夫だよみたいな一緒に動物作詞に対して抵抗していこうみたいな感じで両手を広げてくれているような文章だなって思ってて、
この先の文章も私結構、なるほどってなったんで、説明お願いします。
私の意図としてもまさにそうやってノンビーガンの人たちにもドアを開けるために書いてるっていうのもあったので、その意図が伝わっているとすごい嬉しいです。
まさにビーガンじゃないけど、非人動物の粗いであると同時にビーガンの粗いでもあるっていうことができるっていうことがここまでの議論から言えると思っていて、
33:00
その中で、非人動物の粗いであるんだったらもうそれで十分じゃないってビーガンの人って一部思ったりすることがあると思うんですよね。
でも私はやっぱりビーガンの粗いでもあることっていうのが大事なことだと思っていて、それは大きく二つ理由があります。
一つ目は、ビーガン自身もやっぱり差別される対象なんだっていうことなんですね。
先ほど黒さんが、確かに石米の当事者との違いとしては、石米当事者自身が危害をこむっている、苦痛を負っているんだけど、ビーガンの場合はある種間接的なものだっていう話をしてくれたと思うんですけど、
もちろん、例えば動物擁護的じゃない理由でビーガンやっている人の場合は、そういうケースの方が多くなっていくっていうのはそうかもしれないんですけど、
多分そういう人であってもやっぱり何かしら直接的な差別の対象になっていると思うんですね。
それは例えば、ここからはちょっと動物擁護的なビーガンの話を念頭に置いて話しますけど、
まず、動物擁護的な人たちとか、あるいは動物愛護って言ってる人たちって感情的だとか、あるいは全然科学的じゃなくて、すごい主観的な物事を言ってるとか、
あるいはビーガンであることによって、自分を道徳的に優れた人物だと思ってるみたいな傲慢じゃないかみたいなことを言われたり、Xで見かけたりするっていうことは結構日常的に見かけると思うんですよね。
これだけじゃなくて、構造的な問題もあるはずで、まさに私たちって食選択においてめちゃめちゃ困っているわけですけど、
じゃあ他の人たちって基本的には困ってないわけですよね。
じゃあなんでこんな困っているかって言ったら、食選択の選択肢って明らかに社会構造の問題としてあるわけですよね。
これに加えて職業選択でも恐らく困難があるはずで、
例えば私がバイト先を考えようかなみたいな風になったときに、目の前に肉を調理しているようなところにはっきり言って行きたくないんですよ。
行きたくないし、もちろんもっと直接的に非人動物を傷つけるような職業にはつきたくないと思うんですね。
これって職業選択の自由が損なわれている状況になっていると思うんですよ。
こういう意味でも構造的な差別をビーガンってずっと受け続けていると思っています。
しかも、そんな差別を受けるような属性なのに、それを自分から引き受けているっていうのがビーガンっていうところで、
これはセクマイの場合とはちょっと違うところ。
セクマイの人たちも全員が全員そうだと言っているわけではないですけど、
ビーガンの場合はほとんどのケースでは、自分からマイノリティ属性を引き受けようとしているっていうところが特殊な文脈なのかなと思っているんですね。
これによってビーガン当事者って結構謙虚に発言しがちかなと思っていて、
36:06
自分のことじゃなくてビーガンのことじゃなくて、もっと非人動物のことを考えてよって思ってると思うんですよ。
私もなんだかんだ思っちゃうし、思っちゃうというか思うし、
自分は傷ついてもいいから、あるいは自分なんか全然傷ついてない。
そんなのと比べたら、人間以外の動物が受けている被害と比べたら全然大したことないよみたいなふうに思っちゃうと思うんですよね。
もちろんそれ自体の謙虚さはある程度は道徳的に望ましいこと、ある種の美徳なのかなとも思う一方で、
全然自分の生活にリソースを割こうとしないことに繋がっていくことだと思うんですよね。
その時にビーガンだけで社会を変えていく、さっきの構造的な問題だったりとか偏見とかに抗おうとしてもかなり難しい。
それに抗おうとするよりは、むしろ人動物のために抗っていくためのリソースを費やすわけなんで、
ビーガン差別のことに対してのリソースを、ビーガン自身はあんまり割かなくなっていると思うんですよね。
でもそこで粗いの人たちがいれば、一緒にまさにキイト動物に対する差別、種差別と同時にビーガン差別に対しても一緒に抗っていく、
リソースを一緒に増やすことによって対応できるようになっていくっていう意味で、
ビーガンの粗いでもあることっていうのが大事になってくるのかなっていうふうに思っています。
まさにこのことが二つ目の理由としてにもつながっていくんですけど、
そういうビーガンの粗いがいるっていうことによって、ビーガン自身も勇気づけられるし、
自分も差別されている対象で、マイノリティ属性で、自分のことも大切にしなきゃいけないんだっていうふうに思えるようになると思うんですよ。
ビーガンの粗いなんかよりはキイト動物の粗いになってほしいっていうような考えを持っちゃうと思うんですけど、
でも私がここまで議論してきたように、ビーガンの粗いであるってことはキイト動物の粗いでもあること、
同時にそれは成り立たなきゃいけないことなので、この心配って取り除けるかなと思っていて、
だから両方の粗いであることが同時にちゃんと成立するっていうことが言えるっていうことがわかれば、
ビーガンの粗いも増えてほしいなって思えるだろうし、増えていくことによって自分自身もすごく勇気づけられるところはあるんじゃないかなっていうふうに思っていて、
そういう意味でキイト動物の粗いでもあると同時にビーガンの粗いでもあるっていうことが大事になってくるのかなっていうふうに考えています。
ノートの記事は理論編はこんな感じです。
ありがとうございます。めちゃめちゃ勉強になったし、勇気づけられるというか、そんな心地もしました。
そうですね、ビーガン粗いってどういう存在かっていうと、
39:05
まず非人動物の粗いであること、つまりビーガンの思考というかモチベーションだったり、何を考えているかっていうその人の頭の中を理解するみたいな、
自分を理解してもらうっていう意味で、まず非人動物の粗いであってほしいというのがあって、なおかつそれだけじゃなくて、ビーガンも傷ついたりしてて差別の対象になったりしていて、
そこに寄り添ってくれる存在でもあってほしいっていうことですね。
本当に公社の方を寄り添ってくれる存在でもあるっていうのは確かになぁと思いました。
ビーガンを選ぶ人って理論的にすっと理解して、よしじゃあ始めようみたいな人もいると思うんですけど、結構多くの人は実際に畜産動物が飼育されている場所だったり、
その中でご暴力を受けたりで多殺されたりっていう映像なりを見てショックを受けてっていう人もいて、
それって結構トラウマ的なことでもあったりして、スーパーで食肉売り場を見てそういう映像がよみがえっちゃうとか、
あとはこのメラニーの本でもそういったビーガンであることで受ける辛さみたいなところ書かれてて、サバイバーズギルト的なあんなに動物たち傷ついてて、
私はなんかのんきにやってて、時にはそれに加担したりしてたっていうことへの罪悪感だったり、色々ビーガンを選んだこと、ビーガンになったことによる息づらさみたいなのは確かにあるので、
そうですね、その人たちを支える洗い、本当に必要だなってめちゃめちゃ思いましたね。
42:03
どうでした千春さんとか、ここまで全体的なご説明いただいて。
本当に勉強になることばっかりで、ちょっと書いてくださってありがとうっていうのは大切ですけど、最初のところでLGBTQプラスの文脈で使われるあらいという言葉とビーガンの文脈で使われるあらいっていうのは似ているけれど違うところはあるっていうのは、
私は最初このビーガンあらいという言葉を聞いたときはそれ分かっていなくて、同じ仲間とか連帯しているよっていう文明っていう意味で使ってたので、
こんなに違うところがあるんだっていうのをここで知って、そういう言葉の意味を知ること、違いがあるっての前提であらいっていう言葉を使うのはコミュニケーションの中でもズレが生まれるのを防ぐことにもなるし、大事だなとまず思いました。
あとは、私最近自分の住んでるところで、ベジタリアン、ビーガンに優しいそういうメニューがあるお店全然なくて、唯一あるのモスバーガーなんですよ。
そこよく使ったりしてて、マクドナルドを避けたいっていうのもあったりして使ってて、モスバーガーありがとうって思ってたんですよ。
この気持ちは嘘じゃないけど、確かに全然そのグリーンバーガーだけじゃん、しかもそうだハンバーガー屋さんじゃんって、今会話を聞いて。
ひひと動物に別に理解を示しておけじゃないし、っていうのは改めて思い返しもました。
確かにプラントベースのメニューを提供してくれているお店に対する考え方もこれを機に考えさせられましたよね。
そうですね。ありがたいけど、でもそのお店にお金を落とすと間接的に動物搾取に加担することになるのかなみたいな悩んじゃったり。
だからまた別ってことですね。生活に食事にちょっと困った時に頼れる存在ではあるけど、まるごとヴィーガンの味方とは言えないんだなって思いましたね。
45:05
あと感想としては、私最初のヴィーガンの洗いとひひと動物の洗いは必ずしも一緒じゃないのかなって思ってたんですよ。
例えば自分がご飯行くってなって友達が私がお肉を食べないっていうのを理解してくれて、プラントベースのお店を選んで、
待ち合わせの時にその友達が革ジャンを着て洗われたとしたら、それはヴィーガンの洗いだけど革ジャン着てるっていうことは動物搾取を避けるっていう根本の意味を理解してないから、ひひと動物の洗いではないのかなって思ったんですけど、
よくよく考えて、それはたぶんヴィーガンの洗いじゃなくて私の洗い、私個人の洗いなんだって思ったので、竹下さんのこのお話はその通りだなって理解しました。
ありますよね、きっと。その人個人の洗い、ヴィーガンの洗いじゃないっていうのも。
いや、めっちゃ思いました。聞いてて。自分の今話していただいたヴィーガンの洗いがヴィーガンの洗いだとすると、あれ私の周りってこういうエースとか実際にベジタリアンビーガンやってる人たち以外にいるかな、ヴィーガンの洗い。
ちょっと思い始めちゃって。でもかといって別に自分がものすごく孤独とか、全く味方がいないっていうわけじゃないなぁと思ったので、
確かに。自分の洗いとヴィーガンの洗いっていうまた別の括りがあるのかもしれませんね。どうですか、黒さんとか。
一番印象に残ったのがそのヴィーガンっていうのはそのLGBTQと違ってそのマイノリティ性を選択している。自ら進んで選んでマイノリティになっているっていうところが大きな違いだって言って、
それその通りだなって思ったのと、でもその選択っていう言葉の意味がちょっと普通の意味の選択とはちょっと違うんだろうなっていうのもどうかと思っていて、
今の競争社会、資本主義の中、どんどんお金を稼いでいろんな学歴なり資格なり自分のステータスを磨いていって、その一つ一つが自分の努力と選択によって勝ち取られていくみたいな成功のストーリーが、
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ドラマとかでもメディアとかでも垂れ流されているわけじゃないですか。この意味での選択って、例えばその資本主義の過激というか強い新自由主義っていう考え方があるんですけど、ミルトン・フリードマンっていう人がその提唱者で、
新自由主義の提唱者というより、資本主義の業務の一人としてよく名前が挙がるんですけど、その人が選択の自由っていう言葉で著書を書いてて、その意味での選択ってすごい強いマッチョな、他者をしのいで、他者を踏み台にしてでも勝ち上がっていくみたいな選択なんだけど、
ビーガンの選択って、それと正反対の選択。自分から進んで成功の階段を降りるような。だってビーガンとかベジタリアンになって、すごい不利なことばっかり。本当に職業選択のほうが狭まっちゃうし、友達との関係もやっぱり難しくなっていくし、
飲み会なり、遊びでもプライベートでもパブリックでもどっちでもやっぱり、政治活動とかもしてるんですけど、やっぱり政治活動でも人と話して一緒にご飯を食べるってすごい大事になってくる。
それは政治家との交流でも、支援者との交流でも、その時にビーガンであることすごい不利。すごく不利なんだけど、でもそれでもやっぱり自分はもうビーガンを選んだんだなっていうのが同時にあって、
自分で弱さを引き受けるって意味の選択って、そこを尊重してあげたいみたいな気持ちもある、同時に。その意味での選択ってすごい大事な気がするから、僕はビーガンになったと思うし、
選択っていう言葉の意味を変える、その強さのための選択じゃないような選択っていうのが大事なんだよみたいなことをメッセージとして伝えるのも伝えているのもビーガンなのかなとか思ったりしましたね。
いやーなんかめっちゃ素敵。なんか強さのための選択じゃない、他の人間、動物への共感だったり、そういう意味での選択っていう。
いやーちょっと染みちゃいました。
そうですね、黒さんの競争社会とか資本主義への不満っぽいところも見えましたけど。
いや本当ですね。
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そうですね。
お願いします。
資本社会の中でとか肉食主義が広がっている社会の中で、生きやすさを思えば、肉食べてとかで勝ち上がるっていう選択をするのがよくあることなのかと思うけれども、私たちはそれを逆を選択したんですもんね、自分で。
なんかその、なんか噛み締めてました。確かに進んで、そうですね、少数派を選んで。
なんかちょっと自信になるかも。
みんな偉いですよ、すごく。
偉い。
でもなんか今のこの選択の話聞いてて思ったのは、なんか別の観点でもこの選択の意味合いの違いってありそうだなっていうのがあって、なんか一回知り合いに言われたのが、
あのビーガン、あなたがビーガンを選んだんだから、そのビーガンになることでこう生じる不都合だったり、難しさも引き受けないとダメだよみたいな、ちょっと言われたことがあって。
で、やっぱあの、もやっとしたんですね。
ちょっとわかってくれてないなみたいな悲しさもそうだし、それで本当にそうかなというか、なんかちょっとビーガンを選択するって、
あの、能動的だけどちょっともう仕方なくというか、自分としてはもうビーガンになるしかない一択の場面でそれを選んでるような感じがするんですよね。
自分がビーガニズムをちゃんと理解したっていうことだったり、動物が苦しんでることを知ったっていうことから、なんかその状態で、
その状態でそのまま動物搾取を続けることってもう、なんか心理的にも無理だったりすると思うんですよね。
動物搾取に加担し続けることで、自分もこう辛くなるわけだから。
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なので、そうですね、こうビーガンの周りの人には、あなたが選択したことなんだからそれぞれの責任があるみたいな意味での選択だと捉えないで欲しいなと思ったりしました。どうですか?
なんかあの、私一応セクマイとビーガンを最初違うとこあるよねっていうふうに区別はしたものの、まさに今言ったような意味で類似しているところはやっぱあるかなって思っていて、
なんかもうそうならざるを得ないっていう意味でも選択っていうことの意味がもう違っていると思うんですよね。なんか私自身もじゃあそのもちろん選ん自分で選んで本当に自発的にその何かじゃあ何ですかね。
その男性も女性も好きになるような傾向性を持ったわけではないものの、でも自分がそのパンセクシャルであるとかバイセクシャルであるっていうことを引き受けるそのアイデンティティにするっていう作業はえっと強いられつつもでも自分で自己理解を深めつつそれをもう選ばざるを得ないよねっていう仕方でそういう属性を引き受けてるっていうところもあると思うんですよね。
ジェンダーアイデンティティとかもそういうものでその何か他人から勝手に決めつけられるものじゃなくってまさにそのあれはその自己理解を深めていく作業によって自分自身がある種トランスジェンダーになっていくノンバイナルになっていくっていうところもあるし、それはしかも選ばざるを得ないような感じでもあると思うんですよね。
ビーガンもやっぱりそこは結構似てるのかなと思っていて、まさにその種差別的な現状を認識した後にはもうそれを選ばざるを得ないような状況になってるっていう点で、かつその単にビーガン実践ってその選ばないっていうだけ、動性全部避けますっていうだけじゃなくて、それ以上にそのこの社会におけるその種差別的な構造、種差別的な偏見とかに対しても抵抗していくってことも伴っているわけじゃないですか。
こういうのってビーガニズムとか種差別の理解を自分で深めていくっていう作業も必要になると思うんですよね。
なんかそういうところって、ちょっと違うところは確かにある。セグマイト、ビーガンちょっと違うところは確かにあるけれども、知ってしまった後、理解してしまった後にはもう引けない、もうそれを選ばざるを得ないっていう点で、ある意味でその選択をしていないものでもあるのかなっていうのは結構思いましたね。
なんかこのメラニーの本の中で、アライについて書かれている章で、ビーガンでもそのビーガン、ビーガニズムという考えを、そういう価値観を持っている人のその価値観がパートナーだったり、ビーガンの人と、
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衝突した時に、どのくらいビーガニズムという価値観を調整できるのかっていうところで、違いがあるよっていうのが言われてて、どういうことかというと、
ビーガンの中でもものすごくビーガニズムと自分のアイデンティティを同一視している人と、
やってるビーガンではあるけど、それほど一体化していないというか、ビーガンを否定されてもそんなに自分自身は揺らがないというか、
なんて言ったらいいんだろう、そういうことが言われてて、話通じてます?今、あ、良かった。そういうこともあったので、
ビーガンを選ばざるを得ないっていう感覚の人もいれば、そうじゃない人も、そんなに一体化してない人もいるのかもしれないですけど、ちょっと何言いたいのかわからなくなってきました。
ビーガンなりたての頃って、そこまで自分をビーガンって思ってないというか、単に自分にラベル張ってるだけな感じしませんか。でもそれずっと、私はもうちょっとで7年ぐらいになるんですけど、だんだん自分がビーガンであるということがアイデンティティ化していくというか、
まさに自分自身にもなっていくっていうか、単なるラベルとは別物になっている感じがあると思うんですよね。そういうときにビーガンであることを否定されたりするのって単にラベルとして使ってたときとアイデンティティ化した後だったら全然違うと思うんですよね。そういうところは結構あるかなっていうのは今聞いてて思いました。
そうですね。さっき自分のアライとビーガンのアライっていうのがまた違うんじゃないかっていう話がありましたけど、このビーガニズムと自分のアイデンティティを同一してる人にとっては結構、自分のアライがビーガンのアライであることって結構重要で、
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一方で、そんなにビーガニズムをアイデンティティとして持ってない人にとっては、そんなに自分のアライであることの必要条件がビーガンのアライであるわけではないのかもしれないなーなんてことを思ったりしました。
どうですか、この自分のアライだと思える人って皆さんの周りだとビーガンのアライですか?
私、最近嬉しかったことがあって、ビーガンのアライであり、非人動物のアライでもあるなって思えた出来事なんですけど、周りの人で夏だったら、日焼け止め、チャールさん何使ってますか?みたいな。
自分は色が白くなるのを意識して選んでるんですけど、動物経験してないとかビーガンとかで選んでるんですか?って聞いてくれた子がいたりとか、
あと、私が今ビーガンコンセプトの美容院に通ってるんですけど、その話を知ってる方が、最近新しい夏ハルさんが好きな所、行ってそうな所見つけて、私も行ってきたんだって教えてくださって、
調べてみたら、使ってるシャンプーとかが全部ペタ認証付いた動物経験してないので、自分のことを知るだけじゃなくて、私の味方であることに加えて、自分の生活の中で変化を起こそうとしてくれてるっていう人たちを見ると、
ビーガン洗いであり、私の洗いであり、生きて動物の洗いになり始めているというか、そう感じられて嬉しいなって思いました。
すごい素敵ですね。
自分の生活にも、そういう動物博士を避けるチョイスをしてくれてるっていうのが嬉しいですね。
より理解してくれて、より味方感を感じられる気がしますね。
プロさんはどうですか?自分の洗いについて。
難しいな。
友達は大切にしたいという気持ちがあって。
友達と食べるときに結構気を使って、自分がビーガンであることを早めに伝えて、相手が判断しやすいように情報はちゃんと伝えておくっていうのをやってるんだけど、
一緒に食べるときはビーガンにしてくれたりっていうのはできる、そういう関係が結構あるんだけど、
そういう人が他のところでは普通に肉を食べてたり、インスタとかSNSに肉の料理とか上げてたりするっていうことはやっぱり寂しいなとすごく思う。
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この寂しいっていう気持ちは何だろうなと思って、自分に向いてるのか、動物のためをもってこの寂しいという気持ちが起こってるのか、
そういうのを区別できないところがあるな。
たぶんビーガンのマイノリシー性を考えると、自分の味方になってほしいっていう気持ちと、動物の味方になってほしいっていう気持ちどっちも持ってる人が多いと思うんですよ。
でもみんなが頑張っちゃって、動物のためにっていう方を優先しようとする、アクティビズムやってるような人はそういう人が多いと思うんですけど、
ただやっぱり、さっきも竹下さんも言ってたけど、自分のためっていう方もやっぱり大事にしていった方が長期的に運動として見てもちゃんと広がっていくような気もするし、
自分の周りとの関係ってすごくやっぱり難しくて、いちいち思ったりする、すごく考える。
新しい友達関係なり、恋愛に近いようなことになったら余計考えるし、すごくね、だからこの人はアライで、この人はアライじゃないみたいな判断をすることっていうのは僕にとってすごく難しくて、
今はアライっぽい振る舞いをしてくれてるなっていう、でもこの行動はアライじゃない行動だなみたいな感じで捉えてるかな、もちろんヴィーガンであっても他のところですれ違うことだってあるし、
すごくそう、アライっていう問題ってすごく難しい。ヴィーガンの問題が難しい理由の多くを占めてる気がする。
そうですね、アライにもちょっと程度があるのかもしれないですね。
究極的なアライは本当に自分がヴィーガンを選んでる理由とかまで深く理解してくれて、それに共感してくれて、
本当に非人動物のアライとしてもアライにもなってくれる。それは本当に竹下さんのこのブログのヴィーガンのアライはマジのヴィーガンのアライ、なんていうんだろう。
でも、アライは程度はあると思うんですよね。
私、例えばヴィーガニズムにいて、ヴィーガンでさえ100%理解してるなんてことはない気がしていて、
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それこそ動物倫理めっちゃ勉強して、社会学とか勉強もして、そんなことやってる人なんて世界に何人いるんだろうみたいなぐらいなわけで、
それはヴィーガン自身でさえヴィーガニズム100%なんてことは理解はしてないと思うんですよね。
そういう意味でも、ましてやアライが全部理解できるかっていったらそんなことはないはず。
やっぱり、それこそヴィーガン実践をして分かってくるところもいっぱいあると思うんですよ。
そういう意味で、結構程度問題として考えたほうがいいかなとは思っていて、
これは多分メラニー・ジョイの本の中でもいろんな箇所で言及があったかなと思うんですけど、
単一のそういう単発のあんまりよろしくない中差別的行動があって、
もうそれであの人は全然自分のアライじゃないんだみたいなふうになるのは、
多分悲観主義的すぎで、そこはやっぱり程度として考えなきゃいけないし、
加えてその人があくまでもヴィーガンのアライであってヴィーガンじゃないっていうところを
ちゃんと認識しておくのも大事だと思っていて、
その人はその人なりにヴィーガンのアライ、そして非人動物のアライをしているけども、
でもやっぱり時にはいろいろな困難によってできない時もあるだろうし、
多少はやっぱり自分の方のことを優先する時ももちろんある。
でもそれでも一貫してアライ的な思想は持ち続けてくれているはずだし、
そういった時たまその行動を見て、この人も全然自分のアライじゃない、悲しい寂しいっていうのは、
気持ちはめっちゃ分かる、私もそうなっちゃうんですけど、
多分なんか悲観的すぎるのかなっていうふうに思ったりはしますね。
そうですね、一緒にいてくれる人も、
あなたのアライになりたいって思ってやってくれてることたくさんあると思うので、
そういう部分をちゃんと受け止められたら、
悲観的になりすぎず味方感を、安心感を感じられる関係になるのかなーなんて思いました。
この話はしておきたいっていうものを言ってもいいですか?
はい、お願いします。
ピーガンであること自体が弱さを引き受けることみたいな、
弱さを自分で選択して不利な状況に自分を進んで、そうなる弱い状況、
脆弱な状況に身を置くっていうことだという話をしたと思うんだけど、
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今全くそれと別の現象が起こっていて、
イスラエルがすごくLGBTQプラスとピーガンっていうのを、
国家の優れた美天としてアピールして、
それが今成功してしまってるっていうのがある。
あそこは、もともとユダヤ教の食事規定って、
ムスリムの食事の規定より厳しい。
それでピーガンがもともと、ピーガンと相性が良くてピーガンが多かったとか、
そういうふうに言われてるんだけど、
いつの時点かピーガンをいつの間にか国家の戦略の一つに位置づけるような状態になってて、
例えば軍事の分野で、服とか軍事品がビーガンであるってことを宣伝してるんですよ、今。
LGBTQはもうちょっと前から、
同性愛とか女性の権利っていうのを損なっている、
イスラームに対して我々は彼ら、彼女たち、
それで他の地域にアピールして、国家を正当化して、
それがガザーに対する暴力の正当化に繋がっているっていうことがあって、
なんでこれが成功してしまってるのかっていうと、
明らかに他の面で明らかに、
自分のマイノリティ属性に寄り添って欲しいみたいな感情って、
生まれてしまうものだと思っていて、
そういう弱さに耐えられないから、自分が弱い状態であり続けることに耐えられないから、
っていうことが今のイスラームに対して、
やっぱり、
イスラルにももちろん、暴力的でない側面はあるんだろうけど、
暴力的な側面を今やっぱり支えてしまっているって言った方が、
今の状況からして適切だと思うから、
そこの問題、マイノリティ属性に寄り添って欲しいというのが、
イスラルに対して、
イスラルに対して、
イスラルに対して、
イスラルに対して、
マイノリティが弱さを引き受けるっていうことに、
どれだけ耐えられるのか、
耐えなければならないのかとか、そこの危うさ、
マイノリティがマイノリティであり続けることって、
社会、国家の責任でもあると思うんだけど、
っていうのは、ちょっとすごく難しい問題だから、
課題として、
考えずに、
イーガンっていう、
弱さを引き受けることで、
それにつけ込む存在みたいなのが、
イスラルで、
そりゃ、
辛い時に頼れる存在っていうのは、
必要だけど、
1:12:00
でも、
イスラルに対して、
イスラルに対して、
でも、
そういう仕方で、つけ込むようなやり方で、
実際は暴力を振っているっていう、
そういう矛盾した仕方での洗いは、
受け付けたくないっていうか、
考えていかないといけないなと思いますね。
あれですかね、
そういうすごい大きい国、
県、みたいなところじゃなくて、
より身近なところで、
洗いになってくれる人を、
作るっていうことができたら、
そういう大きいことに、
抗っていけるのかなとか、
思いました。
そろそろ閉めていこうかなと思いますが、
身近な人に、
洗いになってもらうことの大切さを、
今ちょっと確認しましたけど、
ちょっとだけ紹介したいところがあって、
メラニーの本の中から、
時間も時間なので、
軽く紹介させていただきたいんですが、
このヴィーガンとノンヴィーガンのための
コミュニケーションガイドブック、
編末にですね、
ヴィーガン洗いになってくれるようリクエストする、
っていうところがありまして、
それは実際に、
ヴィーガンの皆さんが、
周りのノンヴィーガンの方に、
味方になってもらうために、
参考にできるページで、
実際にこんな風に話してみたり伝えたりすると、
いいですよという例が上がっていまして、
私結構これ感動したので、
冒頭と一部をちょっと紹介して、
皆さんにぜひ手に取ってもらえたらなと思います。
冒頭読み上げますと、
私には悩んでいることがあって、
今日あなたにそれを相談して、
そしてあなたの力を借りたいと思っています。
自分の弱さを感じるから、
このことを話すのは難しいのだけれど、
でも本当に大切なことなので、
勇気を振り絞って思っていることを話します。
あなたにどう助けてもらいたいかを話す前に、
あなたには何が問題なのかを理解してもらわなければなりません。
だからまずは私の話を最後まで聞いてください。
私の目を通して見た世界がどのようなものであるのかを、
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あなたに分かってもらいたいのです。
ヴィーガンであるということが、
私の人生においてどのような影響を及ぼしているかということです。
私はヴィーガンであることをとても誇りに思うし、
ヴィーガンになったことで良くなったことがたくさんあるとも感じています。
ただ、いろいろなプレッシャーが重くのしかかっているのです。
基本的に世界ではヴィーガニズムがマイノリティなので、
私は大方、いつどこに行っても誤解され、
存在を無視され、否定されたと感じ、
それは憂鬱だし、とても疲れることでもあります。
何よりも本当に孤独を感じるのです。
…といった感じで、
まずヴィーガンであることがどういう辛さを含むものなのか、
心を伝えていって、
最後に新井になってくれるようリクエストします。
その一段落だけちょっとだけ読みますと、
たとえ世界中の人たちがヴィーガニズムや私のことを理解してくれなくても、
あなたが私をわかってくれていると思えれば、
ストレスがかなり減ります。
あなたにヴィーガンになってくれと言っているのではありません。
ただ私のことを理解してほしいのです。
そうすれば孤独にならないから。
あなたは私の新井で、
他の誰よりも私を見てくれていて、
特に辛い時に私に寄り添ってくれると信じたいのです。
あなたに頼ることができるとわかっていれば、
大きな助けになります。
といった感じ。
これ4ページぐらいあるので、
もっとあるんですけど、
結構このページ、
メラニーの考える方、
良いパートナーシップだったり、
コミュニケーションの取り方っていうのを反映しているページでもあるなと思うので、
他の章も勉強になるので、
よろしければ手に取ってもらえたらなと思います。
という感じで今回は、
ヴィーガンの洗いについて4人で考えてきました。
武下さんのブログもめちゃくちゃ参考になると思うので、
見ていただけたらと思います。
ご紹介ありがとうございました。
では、なんでも倫理ラジオではお便りを募集しています。
感想、番組で取り上げてほしいテーマ、
これって倫理的にどうなんだと思ったエピソードなど、
どしどしお送りください。
概要欄のフォームからお待ちしております。
またSNSでのシェアも大変ありがたいです。
Xやインスタグラムでエース、
動物等倫理と哲学のメディアをメンションしていただいて、
1:18:01
ハッシュタグなんでも倫理をつけてご投稿ください。
とても励みになりますので、ぜひともお願いします。
ということで、今回はこんな感じで、
皆さん聞いていただいてありがとうございました。
また次回もお願いします。
皆さんありがとうございました。
さよなら。
01:18:30

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