1. XCrossing
  2. ep52 記者と言えば夜討ち朝駆..

アメリカのスタートアップ創業者への体当たり取材を繰り返すうちに、ビジネススクールに入学し、ビジネス経験もないのにスタートアップの立ち上げに参画した話。

01:19 大学で二留。「自分の名前で仕事がしたい」という思いから記者の道へ

03:51 就職時にはバブルがはじけ、面接に行くだけで交通費がもらえる時代ではなくなっていた

05:35 新聞系出版社に入社

06:18 3年目の人よりもいい記事を書いて、いい評価を得ようと燃えていた新入社員

07:09 ジョン・スカリー氏とは?

09:24 AOLの日本進出に関連してスカリー氏が来日しているという情報をゲット

10:52 早朝5時前にホテル前に張り込み

12:16 ジョギングし始めたスカリー氏をスーツ姿で走って追いかける!

15:47 ”Are you Mr. John Sculley?”

16:35 朝8時からのパワーブレックファストに招待される

18:27 スカリー氏からの手書きメッセージ付きの名刺

21:23 タクシー車中でジム・クラーク氏(Netscape共同創業者)に取材

22:04 取材時間が15分から50分に大幅拡張

23:28 経営者と記者の共通点:質問がよくないと面接でも交渉の場でもいい答えが引き出せない

25:16 教育係のデスクから教えられたこと「一番前に座る」「一番最初に質問する」

28:19 経営者に取材を重ねても、なぜ企業は上場するのか、上場したら何が起こるのか分からなかった

29:14 ビジネススクールへ入学した理由

30:45 Six Apart社の日本での立ち上げは最初断って、その後に断りを断って入社


エピソード内で取り上げた情報へのリンク:


プロダクトマネジメントとプロダクト開発組織づくりを専門とする及川卓也。アメリカ・ニューヨークでスタートアップ投資する関信浩。マーケティング・広報・プロダクトマネジメントを幅広く手掛ける上野美香。テクノロジー業界で働く3人が、気になる話題を毎回、異なった視点で語り合います。

XCrossing website https://x-crossing.com/

XCrossing Official X account (former Twitter) @x_crossing_

及川卓也 @takoratta

関信浩 @NobuhiroSeki

上野美香 @mikamika59

サマリー

このポッドキャストは、ジョン・スカリーさんとの出会いをきっかけに始まり、スーツ姿での夜のジョギングの取材風景が描かれています。 おしゃべりの中では、記者としての勉強やスキルについて言及され、夜討ち朝駆けの仕事ぶりや、スーツでランニングする記者のエピソードも話されています。 また、ソーシャルメディアやブログ、記者時代の話題についても議論がなされ、関さんのお話で締めくくられています。

目次

スクランブル交差点での出会い
Mika Ueno
XCrossing、英語でスクランブル交差点を意味します。
趣味も世代も、住んできた町も違う3人が、スクランブル交差点で出会うように、様々な話題を聞かせる、おしゃべりの交差点です。
今日のXCrossingであなたが出会うのは、どんな話題でしょう?
Takuya Oikawa
おはようございます。東京でいろいろやっております。及川です。
Nobuhiro Seki
こんにちは。ニューヨークからお届けしております。スタートアップの投資等をしている関信浩です。ちょっと喉が痛いです。
Mika Ueno
こんにちは。上野美香です。健康体でございます。マーケティングとプロダクトマネジメントの支援をやっているフリーランスです。
今日は、先週の回が1周年ということでですね、
Takuya Oikawa
めでたい。
Mika Ueno
めでたい。丸1年経って2年目に第一歩を踏み出す回。
アンケートでいただいたコメントに基づいて、関さんの生い立ち的なところ、プロフィール的なところを取り上げたいなと思います。
Nobuhiro Seki
よろしくお願いします。
Mika Ueno
と言ってもすごくいっぱいあると思うんですけど、どの辺から行こうかな。
でも関さんは知っている人も知らない人も多いと思うので、どういう経歴なのかみたいな、最近のお仕事、社会に出てからみたいなお話、まず聞くのはどうでしょうかね。
Nobuhiro Seki
社会人になってからですね。実は私は大学で二留してまして、大学に行っている間に同級生がどんどん就職していくというのを見てですね。
Mika Ueno
二留ね。
Nobuhiro Seki
二留です。なので大学3年生の時に同級生が社会人になると。大学2年の時に実はみんなが就職活動していたんですけれども、その時はいわゆるバブル最後の就職リクルーティングで、みんな拘束されたりですね。
いきなり銀座から電話がかかってきて、今みんなで寿司を食べておごってもらっているんですけど、こないいみたいなことを言われるみたいな、映画でしか見られないような光景ということですね。
でもその時学生だったので暇なんですよね。二留もしているので、やることもないから本当に電話かかってきて、銀座まで行ったりとかしてましたけど。
みんなが就職したって自分だけ残されて、さてみんなにどうやったら追いつくだろうみたいな。そんな感じで実は社会人になってから自分の名前とかで仕事をできる職業をしたいっていうのを考えていて、それで実はマスコミとか戦略コンサルとかそういったところを目指していた1993年ですね。
Mika Ueno
自分の名前でっていうのは、マスコミだと記者とか、アンカーみたいな名前が出るみたいなそういうことですか。
Nobuhiro Seki
名前が出るかどうかって新聞とかってほとんど出ないんですね。そこまで深く考えたかっていうと実はそうでもない。
そんなことは詳しく知らないよね。取材に行ったりすると、最近だとむしろネガティブな面も多いんですけど、記者会見されて質問するとかって別に会社の誰かから言われてこの質問してこいって言われてするわけでもないし、自分個人としての質問力とか、要するにこの人じゃないとできない質問とかって絶対あるはずなんで。
そういう意味で言うと、例えば上司にこれやってください、はーいとかっていうことは全くなくて、実際にいろんな職場がそうかどうかって全くわかんないんですけど、それっていうのを人に差別されずに自分でやるみたいな。
自分でやることによって早く社会人として成長できるんじゃないかというふうにその時は思ってたっていう。
実際にその時は、僕の同級生がバブルで一人予算5万とかいって、夜飲み食いしてタクシーで帰ったときから、たった2年でえらい変わりまして、就職活動の会社案内とかってやるんですけど、会社案内の申込書とかを送ると、往復の交通費は自己負担ですって書いてあるんですけど、
つまり、ちょっと数年前までは全部そういうのも交通費も支給みたいな、そういうのが当たり前だったっていう時代があって、知り合いとかで北海道に住んでるんだけど、東京の会社で面接をするみたいな。
記者としての経験
Nobuhiro Seki
で、そうすると往復の飛行機代が出ます。3社やると3社分出るみたいな。だから、東京に行って話をするたびに10万円浮きました、10万円儲かりましたみたいなことを言ってる人がいるっていう。そういうのが僕らの2年前だったんですけど、僕の時は、行き帰りのJRの交通費も自分出すんですよって書いてあるぐらい。
これはすごい相当。
Mika Ueno
2年でそんな違うんだ。
Nobuhiro Seki
知らない人から見ると当たり前じゃないですか。でも、北海道で2年見てて、もしかしたら大学に行って、自由活動したけど大学に行ってもう1回見てる人は違うかもしれない。同じこと見てるかもしれないですけど、あんまりそういう人っていないんで、そういう意味で言うとなかなかそういう差に気づくっていうことはあんまりないと思うんですけど。人事部の人はもちろんそういうふうに意識してやってると思うんですけど、受けてる側でそういう人はあんまりいないと思うんで。
なるほど。世の中ってこういう個人の能力では抜きさせられないマクロの波みたいなのがあるんだなって感じなかったりしてたんですけど、そんなことがあったのは就職活動ですね。
就職活動をして、いろいろ紆余曲折あって、マスコミは新聞系の出版社に入って、他にもいくつか内定も出たんですけど、その年はとにかく内定が全然出ないっていうので有名で、
僕の同級生とかでも7月になっても内定出ない人結構いたみたいな、だったんですね。氷河期の初めみたいな感じだったかなと思うんですね。
それでも入って、とにかくがむしゃらに追いつかなきゃいけないっていう、そういう意識はずっと社会人入ってから持ってたんで、編集部に配属されて、研修が3週間あって、
7月の23日か何かに配属されたんですけど、その中で自分が考えたのは、とりあえず3年目ぐらいの人よりもいい記事をいっぱい書こうみたいな、そういうちょっと感じ悪い新人でした。
だからもう自分の中でターゲットはその人たちよりも編集会議とかでいい企画を出して、その人たちよりもいい記事を書いて、その記者としていい評価を得るみたいな、そんなことを考えておりました。
で、そういうようなギラギラしてるっていうか、なんとかしなきゃいけないっていう中で、実は2週間ぐらい前にブログ書いたんですけど、ジョン・スカリーと走った話っていう。
Mika Ueno
ジョン・スカリーとは。
Nobuhiro Seki
ジョン・スカリーとはですね、Appleという会社があって、スティーブ・ジョブスとスティーブ・ウォズニアックが設立したと言われていて、ジョン・スカリーはスティーブ・ジョブスがペプシコというアメリカの清涼飲料水の社長をしていたジョン・スカリーっていう人を引き抜いて、AppleのCEOにした。
もともとはスティーブ・ジョブスがたぶん、その時はCEOだったと思うんですけど、自分だけではやっぱり大企業にしていくという中では限界があると思ったのか、いいマーケティングのプロをハイヤーしようということで、ジョン・スカリーっていうのを引き抜いて、自らくどいて自分の会社のCEOにしたという、そういう人ですね。
で、Appleに入って最初は三ヶ月だったらしいんですけど、だんだんいろいろ対立があって、最後はスティーブ・ジョブスはジョン・スカリーを率いる取締役会で解任されて、Appleを去らなきゃいけなくなるっていう、そういう時のCEOなんで。
Takuya Oikawa
あれですよね。一生砂糖水を売っていくんですか? ってくどいたんですよね。
Nobuhiro Seki
そうですね。ペプシ、ペプシコでセ清涼飲料水っていって砂糖水ですね。で、その後ジョン・スカリー、CEO時代になってスティーブ・ジョブスいなくなった後っていうのも、その後、いわゆる携帯電話、PDAで当時してたのかな、ニュートンでしたっけ。
Takuya Oikawa
ニュートンですね。あ、ニュートンの前かも。ナレッジナビゲーターとかってのもなかったでしたっけ。まあでもニュートンかな、たぶんニュートンですね。
Nobuhiro Seki
で、なんかそういうのやってたんだけど、あんまりうまくいかなくて、たしかに93年か何かにApple辞めてる。で、なんでかって言うと94年の4月に社会人になってるんですけど、その前の年に辞めていて、で、僕がちょうど社会人に入って1、2ヶ月の時は、Apple辞めた後、Apple辞めた時に結構お金ももらっていて、
それでいろんなアドバイザーをするみたいな感じでプラプラしてたかな。プラプラしてないですけど、たしかいくつか会社も引き受けてたと思うんですけど、で、その時にちょうど話に戻すと、僕がギラギラしてる時にですね、なんかこう記事を書かなきゃいけない。
で、当時、アメリカではパソコン通信っていうのがすごい結構流行っていて、これから大きな技術になると。その時にアメリカで当時1位になったのか、すごい勢いで1位になったのがアメリカオンラインっていう会社があって、そのアメリカオンラインがどうも日本に進出するらしいっていう噂を聞きました。
それは、もちろん全体としてそういうのがいつかあるだろうっていうのは、みんな知識の中にあるんですけど、どうもそろそろ来るらしいっていう噂を聞いて、で、編集部の人とか隣の編集部とかいろんな人にこう声、あと外部の人とかに声かけまくっていたら、どうもスティーブケースっていうAOLのアメリカオンラインの創業者で、司業だったんですけど、なんかお忍びで来てるらしいと日本に。
で、その提携先を探してる日本に進出にあたってっていう情報を聞いて、で、さらにずっといろいろこう聞いていると、これ全部同じ日の話なんですけど、聞いていると、どうもアドバイザーとして、アップル、元アップルのジョン・スカリーを採用していて、ジョン・スカリーと一緒に来てるらしいっていう情報が夕方ぐらいになってわかったんですね。
その後も編集部の中でデスクとかと話をしていたら、ちょうどそのデスクがちょっと前にニューヨークに駐在したときに、アップル時代にジョン・スカリーにインタビューしたんだけど、彼はどこの国に行っても必ず朝5時に起きてジョギングをするんだと、そう言ってたと。
それはどこの国に行ってもそうなんです。実際、その後最近になってジョン・スカリーの名前でジョギングで調べたら、ジョギングをしているところが写真として残っていて、それ自身が何か雑誌の特集が何かなってるんですね。
そういう写真も出てきて、それぐらい有名だったんです、毎日ジョギングするのに。僕はそんなこと知らないですけど、とにかく朝5時にやると。じゃあ明日の朝5時にとにかくジョギングするとこ捕まえようと。
その後色々調べたら、アップル時代は来るときはいつもホテルオークラのバスだということがわかりまして、そうか、じゃあホテルオークラの前に朝4時半ぐらいから張っていればジョギングしようとしているジョン・スカリーが会えるに違いないと。
と言ってもうちょっといてもたっといれなくなって、すぐ9時ぐらいにもう家に帰ってですね、次の日朝3時に起きて、新聞社とかだと社用車とかってなるんですけど、雑誌じゃなくてそういうのなくて、3時だと電車も動いてないんで自分の自家用車を出しまして、当時まだ運転してたんで、
スーツでの追いかけ
Nobuhiro Seki
ホテルオークラに、それもスーツ着てるんですけど取材するつもりだから、一緒にジョギングする機会は全くなかったので、とにかく出てくるところ捕まえてスーツでいれば絶対これはなんか取材だろうと思ってくれると。
スーツを着て車で行って、4時50分か55分くらいになっちゃったんですね、着いたのは。
とにかく車止めて、降りて、さあどこの出口から出てくるんだろうなと思ってキョロッと見て、キョロッと見たらですね、そこから6、70メートルぐらい離れたところの横の方の出口からジョギングしてる白人男性が飛び出してたんですね。
こんな時間に、まだ5時ぐらいなんで、ホテルの周りとか人が全然いないからもう絶対この人だと。
でも5、60メートル離れてるんで、声かけても届かないだろうし、もちろん英語でバッとリュウジョンに話すこともできないし、当時は。
どうしたかというと、これは走って追っかけるしかないと。
それ以外に入り口が複数あるってことがわかったんで、帰って待っててもダメだと。
違う入り口から入って来られたら会えないじゃないですか。
そうするともう二度と会えない。
とにかく革靴、スーツ。
多分5月だったと思うんです。
そんなにもう寒いとかそういうのない時期だったんですけど、スーツで追っかけ始めました。
最初は身の危険を感じたときはすごい振り返るんですよ。何回も走りながら。
まだついてきてる、まだついてきてるっていう。
ちょっと怖いって顔をしてたんですけど。
Mika Ueno
そうでしょうね。
Nobuhiro Seki
でもスーツ着てるから、多分防寒とかではないと思ったと思うんですけど、
でもかたや毎日5時に走ってる人。
僕自身は運動とかも走ってる。
走るのが特に苦手で嫌いだったっていうのがあって。
すごい勢いでどんどん逆ついていくんですね。
東京タワーの近くまで行ったときには300メートルくらい離れてたんですかね。
向こうの方にしか見えなくて。
とにかくもう角曲がっていくところでミスないようにしようっていうことだけでも。
とにかく走るのやめたら絶対歩いちゃうんで。
とにかく何度目から走ろうと思って必死でついていったんですけど。
ジョン・スカリーとの会話
Mika Ueno
結構早めだったんですか?
Nobuhiro Seki
いや多分。
Mika Ueno
ペースは?
Nobuhiro Seki
ペースはそんなに早くないと思いますよ。
ただこっちはスーツ着て革靴走ってるから。
だからもうすねとか痛くなってきちゃって、途中で。
革靴って結構普通に着地できないんで、すねが痛くなってきてと思ってたんですけど、
ずっと走ってたら最後、東京に住んでる人は分かると思うんですけど、
桜田通りっていうのがすごい片側、5車線くらいあるすごいでかい港区にある通りなんですけど、
そこに入ってずっと坂を降りてですね。
最後、何故か右側を走ってたんですけど、
ホテルは左側のところから細い道を上がっていくとホテルだったんですね。
上がっていくところまでずっと右側で、太い道の右側を走っていて、
左を曲がろうと思ったらすごい太い道だから、歩行者用の信号がずっと赤だったんですね。
別に車走ってるわけないんだけど、車道がずっと青でした。
その時、後ろからもう300メーター、400メーターくらい離れてたと思うんですけど、
止まってるわけですよ、右の前の方で。
もうそこから300メーターくらいでホテルオープンしたんです。
300メーターくらいでホテルオープンなんで、
これは最後の力を振り絞って斜めに走って横断歩道の反対側に行くしかない。
とにかく信号が、車道の信号が青のうちに描いてないってことでしょ。
6車線、片側5車線くらいのところをもう車道をスーツで横切ってですね、
斜めに走って横断歩道の前まで行って、もう汗だく息切れしてるんですけど、
ちょうど交差点の向かいあった形になったんですよ、ジョン・スカリー。
ジョン・スカリーさん向こうにいるんですけど、向こうから歩いてね、
僕ももう息絶え絶えになりながら歩いてって、
Are you Mr. John Sculley? って聞いたんですけど、そしたらYesって言われて、
で、そこからなんかこう追っかけてきたら、なんだかわかんないかなっていう話をしてくれて、
すごいビジネスマンだから、そこからあとすごいフレンドリーにしてくれて、
歩きながらずっと、息も絶え絶えで、
Mika Ueno
ぜーはーしてますよね。
Nobuhiro Seki
ぜーはーしてますよね。
多分ね、30分以上走ったと思うんですよね。
Mika Ueno
30分?スーツで革靴で?
Nobuhiro Seki
で、そのままずっとホテルに行ったら、別れ際に、
実は8時からブレックファーストの、パワーブレックファーストみたいなやつがあって、
人も呼んでるから、そこに来なさいと。
ただ、来る時には一度家に帰ってシャワー浴びてスーツを着替えてから置いてねって。
言われたんですよ。
そういう時でも気が回るすごい人なんだなと思って、
そのドロドロの状況で自分の車に戻って、一回家まで帰って、
シャワー浴びてスーツ着替えて、今度は電車でホテルオークラ行ったんですよ。
来たら朝7時45分くらいかな。
ちょうど着くぐらいに行ったら、実はホテルオークラの2台ぐらい黒乗りの車が着いていて、
新聞社の旗がナビでパタパタパタって。
実際に言われた部屋に行ってみたら、既に日本の新聞社の記者2人来てるんですよ。
もともと新聞社の記者には、そういう説明会をしようと思っていて、
新聞社との取材会
Nobuhiro Seki
ブレックファーストのミーティングを設定してました。
そこに僕の席が1個用意されていて、ギリギリになって。
だから3人、要は新聞社2人と、多分2人とも僕より10上ぐらいのキャップよりちょっと手前ぐらいの人だな。
多分それって、スティーブ・ジョブズさん日本に来るの初めてですみたいな感じで、
ジョン・スカリーにどうしたらいいかって言ったら、じゃあ新聞社呼んでやるよって多分言われたんでしょうね。
呼んで、記者会見とか記者会見じゃなくて、内々のミーティングをセットアップしたんですけど、
そこに呼んでもらったと。
で、座ったらスティーブ・ケースがいてですね。
スティーブ・ケースがアメリカオンラインについてのプレゼンを始めたわけですよ。
記者3人と、スティーブ・ケースと。
で、後ろの方にちょっと離れて、ジョン・スカリーンさんですけど。
で、ずっとスティーブ・ケースさんがAOLについて話をずっとしてたんですけど、
その時にずっと聞いてたら15分ぐらいしたからかな。
突然なんかジョン・スカリーさんが後ろの方にスーッと寄ってきて、名刺をくれたんですよ。
スーッと。
そしたら名刺に手書きで、関さんIt's a pleasure to meet youとか書いてあって。
Mika Ueno
ほんと?
Nobuhiro Seki
うん。って書いてくれたんですよ。
まだ説明中だから無言でニヤって、私にニコッと笑ってくれて。
でもそれで基本的にはその、取材終わって、どうもありがとうございましたって感じだったんですけど。
Mika Ueno
Seki-sanって書いてくれたのは、関さんは自己紹介とかしてたんですか?
名刺渡してたんですか?それでちゃんと名前渡したんですか?
Nobuhiro Seki
そうそう、あの時です。
Mika Ueno
横断歩道の時?
Nobuhiro Seki
横断歩道、別れる前に当然名刺渡してるんで。
名刺渡してるんで。
名刺はもうとにかく渡さないと。
Mika Ueno
めちゃめちゃ印象深いでしょうね、それはね。
Nobuhiro Seki
ちょっと怖かったと思いますよ、絶対。
Takuya Oikawa
関さんその名刺まだ残ってるんですか?
Nobuhiro Seki
多分どっかにあると思います。実家とかにあると思いますけどね。
Takuya Oikawa
宝物じゃないですか。
Mika Ueno
宝物ですよ。
Nobuhiro Seki
その時ジョン・スカリーは、兄弟立ち上げたスカリーブラザーズって書いてあったかしらも、何もなくて名前だけかもしれないですけど。
なんかそんなすごい結構分厚いエンボスの名刺だったっていうのはよく覚えてますよね。
そんなことをやったりとか、あと当時はネットスケープがちょうど創業したばっかりで、やっぱり同じパターンで、
マーク・アンドリーセンと当時大学卒業したばっかりで、
それとあと当時シリコン・グラフィックスの創業者で会長だった。
ネットスケープの創業者。
Takuya Oikawa
何だっけ、名前出てこない。
Mika Ueno
マーク・アンドリーセン、ジェームス・クラーク。
Takuya Oikawa
もう一つの方です、もう一人の方です。
Mika Ueno
ジェームス・クラーク?
Nobuhiro Seki
そうそうジェームス・クラークですね。
ジム・クラーク、ジム・クラーク。
ジェームス・クラークさん。
この人は確かスタンフォードからシリコン・グラフィックスっていうのを創業して、
ネットスケープ作る時にはシリコン・グラフィックス直前に辞めていて、
マーク・アンドリーセンは当時イリノ大学っていう、
シカゴから南に300キロぐらい離れてるかな、
ところの大学で、
当時はNCSAモザイクっていうのを開発してたんですけど、
そこから彼をマーク・アンドリーセンを引いて、
一緒にジム・クラークが会社作ろうと言って、
1994年4月に当時モザイクコミュニケーションという名前で作って、
その後モザイクという名前がちょっとまずいということで、
ネットスケープという名前に変えたんですけど、
やっぱりその時もすごい似たパターンですね。
ジム・クラークさんってシリコン・グラフィックス時代に
日本に来てるから日本のことをよく知ってて、
ネットスケープの日本展開っていうのをやっぱり探しに来てるらしい。
またそれもゲットして、
その時はどうもいろんな人の話を聞いたら、
ほとんど出題の時間とか長そうなんだけど、
どうも築地にある電通から大手町にある日系に移動するらしいということを
情報を聞いてですね、電通の入り口で待ってたんですね。
電通の入り口で待ってて、
その時はジム・クラークについてる日系人の人がいたんで、
その人に事前にちょっと聞いといたんで、
入り口で待ってるんで移動中にタクシーに同乗させてくれと。
多分15分ぐらいですから、15分でインタビューするからって言って、
乗ったんですけど。
逆だ、逆だったかな。
大手町から築地かもしれない。
乗って、後ろの席にジム・クラークと2人にしてもらって、
ずっとそこでインタビューしてたんですけど、
運転手さんが築地の電通に行くはずなのに、
電通ってだけ言ったんで、
当時は電通ってもっと先の聖路加タワーっていう聖路加病院の先に
記者の仕事
Nobuhiro Seki
本社が一時期あったんですね、建て替え会なんかの時に。
間違ってそっち行っちゃったんですよ。
なんで、15分のはずが50分ぐらいかかったんですね。
50分あったんで十分いろんなことを聞けて、
それで記事書けたっていうのがあったんですけど、
それは別に名刺とかそういう劇的なものないんですけど、
それ仲良くなったらLINEするたびに
ジム・クラークからメールをもらえるようになったりとか
あったりしたんですけど、
そういうのを頑張ってやったのが1年目だったっていう感じですね。
Mika Ueno
なんかすごいですね。
記者なんですけど、本当に記者みたいな感じ?
張り付いて。で、引き出しているっていう。
Nobuhiro Seki
マスコミの勉強とかもしてるわけでも何でもないじゃないですか。
とにかくどうしたら目的のことができるかってことを
短期間で考えてそれを実践するみたいな。
そればっかりやってたっていう感じ。
結局情報あってもそこに行くとか、
いるらしいって言っても
それ以上情報を取らなかったら会えないんで、
やっぱり会って話を聞くっていう風に特化して、
やっぱり1年目、2年目とかすごい頑張ってやったなと
今は思いますね。
のが社会人になった頃の思いですかね。
なんかちょっといい感じの話しかしてないですけど。
Mika Ueno
その後、経営者になるじゃないですか。
記者の時代にやってたことで
生きてることとかって共通点とかってあるんですか?
Nobuhiro Seki
やっぱり経営者もそうだし、
今の投資家もそうなんですけど、
人と会って話をするってやっぱり
慣れもすごい大きいと思うんですよね。
人と会って、
特に記者って短期間で質問しなきゃいけないですか。
要はダメって言ってもずっと時間終わっちゃう。
やっぱり質問がある程度良くないと
いい回答も返ってこない。
それもさっき言ったように妙に片肘張ってて
一人でやるっていうのをすごい意識してたから。
いつも一人じゃないですか。
だから質問が悪いと
他の人に振って待ってるとかできないから
ずっといつもだいたい一対一なんですよ、取材って。
だからその中で
例えば相手に印象付けるみたいな、
インプレスするみたいなところとか
相手が普通に言ってたら話せないようなことを
聞き出すとか、その場で聞いたことから
さらに質問をしてもっと聞き出すみたいな。
そういうのっていうのは
記者になるともちろん面接とか
人を採用する面接とかもあるし
提携先と話すのもあるし
いろんな交渉とか話をするのがあるじゃないですか。
だからそういった意味で言うと
僕自身は実はマスコミに入る前って
人と話すのがすごい苦手だったんですね。
特に講習の面前で喋るのがすごい苦手で
前でスピーチしなさいって言ったら
そういう日は欠席するぐらい嫌いだったんですよ。
だからもう前で喋るとか
人前で喋るとかあり得ないって感じなんですけど
記者生活の中でとにかく
質問力とコミュニケーション
Nobuhiro Seki
配属された最初の教育係のデスクの人が
関君、僕はあんまり人を教育できることはないんで
これだけやってください。
記者会見っていうのは
そこら辺にずっと大体貼ってあるんで
それを見て面白そうに言ってください。
一番前に座ってください。
一番最初に質問してください。
一番最初に名刺交換してください。
以上です。
配属されたその日ですよ。
それだけやってください。
記者会見って後ろの方に座ろうと思うと
そういうことを一応
他の記者とかは聞いてるらしくて
関君この辺に行っていいんだっけみたいなことを
言われるわけですから
前の方に行くんですけど
全然知らない分野で質問できなさそうになると
そのデスクの後ろ
2、3列後ろぐらいにいるんですけど
紙が回ってきてですね
最初に質問することって紙が回ってきたんですね
一番前で記者会見聞いてるときですよ
後ろからなんか
トントンって肩たたかれて
何かと思ったらこの人から紙が来ましたみたいな
紙を開いたんですね
小学校の授業かと思いますけどね
紙の中に一番最初に質問しろって書いてあって
そういう感じで
鍛えられたっていうのはもちろんあると思うんですけど
その結果として
また会って話をして
会った記録とかもつけておいて
何か
あ、そういえばあの人って半年後に
こういうことやるって言ってたけど
そろそろ半年経つからまたあの人に会いに行ってみよう
話聞いてみようみたいなこともしなきゃいけない
そうしないと
半年後にやるって分かってるのに
聞かなかったから
他者に抜かれちゃうみたいなこともあるんで
だからそのだんだん
先回りして前に会った人に
もう一回会いに行くとか
そういうことやるんでしょうっていうことを
逆に少しかまかけて
取材依頼を入れたりとか
みたいなことをするのは多分
ビジネススクールへの入学
Nobuhiro Seki
その後のスタートアップの
企業とか経営経験っていう意味には
すごい役に立ったかなと
Mika Ueno
共通点あるんですね
結構まだまだ一部だと思いますけど
Takuya Oikawa
面白い
Nobuhiro Seki
ジョン・スカリーの話は長すぎましたね
Mika Ueno
いやいやいやすごいいいエピソードじゃないですか
なかなかそのぐらいのインパクトのあるのは
あんまないと思いますよ
じゃあ今度
日本帰ってきた時の実家でその名刺をですね
探して写真アップしてください
Nobuhiro Seki
ねえ
スキャナーとかデジカメとか
ないじゃないですかほとんど
だから今だったら多分スキャンして
撮ってるとか写真残ってるんでしょうけど
全部
20世紀の出来事なんで
撮ってるとしても
カメラで撮ってるみたいな感じですよね
さすがにカメラで撮るみたいなことはしてないと思うんで
多分名刺入れの中に入ってる
すごい
Mika Ueno
こんな感じですね
人に歴史ありってよく言いますけど面白いですね
そういう昔の話とか
面白い
人に聞き方とか
話の引き出し方とか
こういうバックグラウンドがあるからなんだな
っていうのちょっと今分かりました
Nobuhiro Seki
こういうのいろいろやっていく中で
90年代後半に
すごいシリコンバレーとかに来て
取材とかをしていて
なんか
こういう
ドットコム
ブームで
どんどんスタートアップが上場してたんですね
上場しましたみたいな記事も書いてるんだけど
上場って
理屈は分かると
株式を公開するんだけどねみたいな
その通りに株価つきましたみたいな
記事書けるわけですよ
そこ分かんない
事実を書けばいいからね
でもなぜ上場するのか
上場した後にどういうことが起きるのか
全然分かんないじゃないですか
分かんなかったんですね当時
当時いろんな人に
アメリカに来てると取材
数人してたんですけど
これはいくら
この人たちに聞いてても
ただ右から左に流すだけになっちゃって
なぜやってるのかどうしても分かんない
なぜっていうことを
経営者の人に
聞く時間ももったいないじゃないですか
聞きたいのは会社の戦略であったり
何をするのか聞きたくて
なんで上場したんですか
っていう質問しても
バリューはないから
どうしようかなって勉強しよう
どっかでしなきゃいけないなと思ったときに
いやこれ待てよと
ただ勉強しても生きた知識が
得られないなと思って
でこの人たち
どういうところでそれを勉強したのかと思ったら
ビジネススクールに
当時はビジネススクールを出て起業するのが
すごい早かったですね
だから90年代後半のドットコムって
ビジネススクールのNBA卒の人たちが
すごいスタートアップを立ち上げて
上場してたっていう時代があったんで
そうかこれは
ビジネススクールってところに行けば
こういう人が周りにいっぱいいるんだっていう
風に思って
そうだビジネススクールに行こうと思って
それでビジネススクールにアプライしたっていうのは
99年ですね
結果からすると言ってみたら
そんなにブリリアントな人だらけなわけがなくて
ですねブリリアントな人は
ビジネススクールでも一握りの人がうまくいって
それで抜けて会社作って
さらに抜けてうまくいってる人だから
もちろん
僕が当時会ってたのは
上澄みの上澄みだったんですけど
毎日のように会って
みんながすごいブリリアンな人だったんで
ビジネススクールに行くまでは
ビジネススクールって
こういう人が周り中にいっぱいいるんだ
200人300人っているんだ
これはすごい楽しいだろうなと思って
行ったっていうのを思います
こういう話をすると
同級生からこれを聞くと嫌がるかもしれないですけど
そういうふうに思って
行ったっていうのが
2000年ですね
そこから多分だんだんみなさん知ってる
シックスアパートに入っていく
っていう紆余曲折なんですけど
それも一度シックスアパートに
入るのを
依頼を受けて断ったんですけど
その後にちょっと事件が起きて
あの断ったのをなしにして
っていうふうに声をかけられた
伊藤穰一氏に
メールを送ったっていうのをよく覚えてます
霞ヶ関の駅で
シックスアパートに入るのなしなし
みたいな感じでそういう
メールを送ったんですよ携帯で
っていうのをよく覚えてます
それで結局入って
最初はネオテニーっていう会社から
シックスアパートという会社を
投資した
投資することにしました
日本ですごい可能性もあるし
ソーシャルメディアとブログ
Nobuhiro Seki
ソーシャルメディア
メディアじゃないですかブログはね
ブログ出身でスタートアップの
経営とかを分かっている人ってあんまりいないから
関さんちょっと興味ないって話を
したんですけど
当時は出版社で
MITテクノロジーレビューっていう
雑誌の日本版創刊
プロジェクトに担当していて
3人しかいない1人だったんですね
で僕はその
MITのボストンの
向こうのヘッドクォーターとリエゾンしてたんで
僕がいなくなると全部が解する
ということでやめられません
だから祝サーブが入れませんって
言ったんですけど
その翌週か翌々週かなんかに
経営会議でMITテクノロジーレビュー
日本版の出版は取りやめ
になったんですね
でそれを聞いて
断ったのは件なしでやっぱりやれます
みたいなそういう話をした
でその足で赤坂に行きまして
ネオテニーのオフィスに行った
それがたぶん2003年の
7月だと思いますけど
Mika Ueno
20年前ですね
Nobuhiro Seki
そのMITテクノロジーレビューを
急にやめるときとかもすっごい
ドラマがあってちょっと
ジョンスカリー並みのネタがあるんですけど
ジョンスカリーの話はブログにも書いてあるんですけど
そっちの話はまだ書いてないから
まだなんかちょっと
ネタなくなった時があれば
ぜひそっちの話しましょうか
Mika Ueno
ネタ帳に書いておいてください
やっぱりですねメディアの話とか
記者時代の話とかがやっぱり
パッと出てくるってことで
関さんの中でも
記者時代の話
Mika Ueno
一番大きなというかインパクトがある
とか土台になっている部分なんだな
っていうのを私勝手に感じました
Nobuhiro Seki
今投資家もやってますけど
この話をしましょうみたいな話を
したじゃないですか
3週間前に
その時にどうしようかなと思ってたら
実はスティーブジョースと
NHKの話がちょうど盛り上がったのが
あったじゃないですか
日本の版画でしたっけ
その担当してた記者の人がやめて
なんかすごい長い
取材ノートを書いてたじゃないですかNHKの
でそれは話題になったんですよねちょうどね
であれを見てなかったら全然
今のジョン・スカリーの話はほとんど忘れてた
と思うんですね
でもあれを見て
おーなんか取材って
確かに熱くなるよね
一回可能性が全部途切れると思ったら
急に
予期せぬところで話が繋がったりするよね
うんうんって読んでたんですけど
最後の第3回に来たらジョン・スカリーが出てきたんですよ
最後にね
俺もジョン・スカリー
そういえばあったなと思って
こういう
追い出しの話をするって言ったんですけど
ジョン・スカリーのやつをどんな話だか思い出そうと思って
それでブログを書いたんですよ
すごいブログを書いたんですごいビビッと覚えてるから
今今日すごい細かく話せるんですけど
それブログを書いてる途中で
結構これってどうだっけどうだっけって
結構うろうえんところもあって
古い資料とかを見て
保管して
だからもしかしたらちょっと
保管の時に若干の熱像が入ってるかもしれないですけど
でも大体そんな感じでやったから
今日すごいビビッと話せたという感じですね
という感じでしょうか
Mika Ueno
面白かったです
ありがとうございました
普段1年間
これやってたのもなかなか聞いてない話
っていうのはいっぱいありますねやっぱりね
Nobuhiro Seki
特にねこういうのはね
選んで話しますからねこういう時ってね
30分くらいに尺ちゃんと
持つように話そうと思うとやっぱり
普通はもっとね5分くらいで終わっちゃうと思うんですよね
ああジョン・スカリー知ってる知ってるみたいな
終わりみたいな感じになっちゃうんですけど
Mika Ueno
十分いただきました
ありがとうございます
Nobuhiro Seki
じゃあ
Mika Ueno
今回は関さんのお話でした
35:17
5 Stars

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コメント

面白かったです。こういう、個人の深掘り回も良いですね。 関さんがスーツで走って追いかけている姿を想像して、とっても親近感が湧きました😊

スーツより、靴の影響の方が大きかったです。確か紐靴ではない革靴だったので、走っているうちに脛(すね)が痛くなった記憶があります。 ちなみに何度も何度も諦めそうになりました

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