当然英語とか使ったことないのですごく苦労するんですけど、でも中学生の英語の2年生くらいまでのところでなんとなくコミュニケーション取れたり、なんとなくわかったり。で、なんか午前中は英語のトレーニングするような学校に行って、その先生がオーストラリア人の先生でしたけども、なんか英語を教えてくれるみたいな。
で、午後になんかアクティビティーが入ってるみたいな、そんな感じのプログラムだったんですけど、なんかね、わかった気になるっていうか、これ英語いけるじゃんみたいな、あの頑張ったらこれ理解できるかもみたいな感覚にちょっとなって、いやこっからやっぱり自分は海外どっか住んでみたいなっていう気持ちにものすごくなったんです。
で、近いうちに海外住むぞって心に決めて、あの目黒に帰ってくるわけですけども、なんとなくそこから日常がまた始まっちゃって、中学卒業して高校入って、高校もなんかそういえば海外行きたいなーなんて思ってたけど、高校生活もそれなりに毎日こなしながら。
むちゃくちゃ日本の高校がじゃあ楽しかったかって言われると、あんまり高校楽しかった思い出はそんなに思い出せないんですけれども、まあなんかあれよあれよという間に高校2年生が終わりそうなくらいまで確か進んでいきます。
あれ、なんか海外行きたかったんじゃなかったっけとか海外住みたかったんじゃなかったっけって。で、自分でそこで何か転機があればよかったのかもしれないですけど、僕の場合は非常に小学校の頃からもよく知ってる仲のいい友人が、高校の掲示板に貼ってあったポスター見てですね、テスト受けて合格すると交換留学で奨学金が出て留学費用を全部支払って、
そういうプランみたいなのを見つけて、これいいじゃん一緒にテスト受けようよっていうふうに誘ってくれたんですよね。で、その時僕も海外住むっていうことを何か思い出して、ああそうだと思って、いいよいいよって言って受けたんですよ。
で、何かすごく対策の勉強って言ってもどんな試験かよくわかんなかったので、何か英語のテストと面接やって、確か親同伴の面接みたいなのもあったような記憶があるんですけど、何かそんなのをやってみると、何とですね、合格をしてしまいました。
何かよくありがちの話かもしれないんですけど、その僕の友人はですね、誘ってくれた友人は奨学金には落ちてしまって、誘われた僕がラッキーに受かっちゃったみたいなことがあって、これ受かったら行くでしょうっていう感じで行きました。
アメリカのその交換留学だったんですけど、ちょうどその前年くらいだったかな、確かハットリさんって、ハロウィンの時に日本人の高校生の留学生が打ち殺されてしまうという。
ハロウィンのお菓子をもらうので、いろんなお家を渡り歩いて、変装して渡り歩いて、子供たちと一緒に、高校生の友達なんだと思うんですけど行ったところ、何かある家庭で不審者だと街が割れたみたいで、そしてその不審者に対して銃を撃つみたいなことで亡くなったっていうようなニュースが、
結構衝撃なニュースがあって、アメリカってそんな感じの国なのかとかですね、それから高校留学みたいなものをかけるアメリカってどうしてもその記憶があったりとかっていうのもあったし、僕自身がオーストラリアが初めての国だったし、行くならオーストラリア行きたいなとかって思ってたんですけど、
その奨学金はアメリカしかダメだったんですね、もうなんで、じゃあ、そうやって受かったんだからアメリカ行くかって言ってアメリカに行くことになります。
で、まあホストファミリーを選ぶというか、こちらからは選べないので、なんか自分がエッセイみたいなのを書いて、そのエッセイとか履歴書的なやつなんですかね、それをアメリカの団体の方に送って、それでホストファミリーやってもいいよっていう人たちがそういうのを見ながら、じゃあこの子だったらホストしたいみたいな感じで選ばれるんですけど、
なんで、同じ団体から行く人もアメリカ中どこに散らばるのかよくわかんないみたいな50州あるうちの、結構アリゾナ州とか行ってた人もいるし、オハイオだからインディアナ州とかですね、行ってた人もいるし、カルフォルニアだったりとかですね、オレゴンとかいろんなところがあったんですけど、僕はホストファミリーが決まったっていう通知見たらニューヨーク州だったんですよ。
ニューヨークってもう誰でも知ってる場所っていうか、ニューヨークだって思ったら、ニューヨーク州なんで、ニューヨークシティからですね、実は行ってみると3時間半とか、車で飛ばして3時間半みたいな感じで、よくアップステートニューヨークなんていう言い方されるんですけど、
オカが給料地帯が非常に綺麗なエリアでしたけども、そこに行くことになります。超田舎でみんな町の人は白人さんだらけっていう感じの町でした。アジア系なんてまず見ないし、黒人さんもほとんど見ないみたいな、そんなような場所でしたけれども、そこに1年間住むことになります。
地元の公立の高校に行くということになりました。ただその時のホストファミリーはですね、もともとニューヨークシティ出身で、それでよくニューヨークシティ連れてってくれたんですよね。
本当の子供だったら、スペイン系だったりとか、おばあさんにあたる人はポルトガル系だったりとかして、もともとニューヨークシティに住んでたし、僕のホストファザーもニューヨークシティで生まれ育ってみたいなことがあったので、しょっちゅう行きました。
それから本当の子供だったら、おばあさんにあたる人はニューヨークシティに住んでいたので、ニューヨークシティよく行きました。僕は東京で生まれ育って、世界でも人口密度なかなかすごいし、人口規模でも世界的な都市でこんな大きな都市圏ないんじゃないかっていうくらいのところで育っているので、大都市はだいたいどこも、なんていうか、そんな驚くことないだろうって思ってたんですけど、
ニューヨークシティだけはもうびっくりしましたね。初めて行った時に、夏だったんですけど、暑かったっていうことだけじゃなくて、なんかもうエネルギーがすごすぎてですね、アスファルトとかがなんかこう、わーって、もうアスファルト自体がなんかダンスでも始めるんじゃないかっていうくらいに、
とにかく街全体が蠢いていて、熱気に包まれていて、あらゆるものがあって、そしていろんなものをだんだんわかってくるようになると、芸術レベルとか、オペラみたいなものからミュージカルから、そして金融街がウォール街とかあって、そして歴史的なビルディングがあって、
エンパイアステートビルみたいなのがあったりとか、五番街とかがあったり、そしてセントラルパークとかがあってとかっていう、これに魅了されました。高校の、アメリカの高校時代っていうのもいろいろあったんですけど、都市の話に行かないとですね、なかなかこの自己紹介会とアルプスシティのコンセプト終わらないので、
アメリカの高校の話とかっていうのはもしかしたらまたどっかで別の機会にお話しすることになるかもしれないですけど、とにかく僕はそこでニューヨークシティっていうものに出会います。
ところが2001年の9.11というのが起きるわけです。僕の言ってたマンハッタンの先端にあったワールドトレッドセンターに飛行機突っ込んでいって崩れるみたいな。
当時も僕は世界を理解したいとか、特に情報通信系の技術と政治とかですね、そういうようなところに関心があって、大学院に入っていましたね。その時にはもう大学院で研究者になるぞって思って、いろんな勉強してみました。
特にインターネットとかそういう情報通信の政策とか政治とか見ていたので、そうするとアメリカでインターネットすごく発達していくので、アメリカの情報通信政策とかアメリカ外交みたいなこととか、そういうのを見ていくってことをやってたので、アメリカによく行ってたってこともあるんですけど。
でも、世界を理解しようと思ったら、アメリカから世界を見てても理解できないかもって思ってですね、イスラーム側から見るとどういうことが起きるんだろうみたいなことに興味を持つようになるんですね。
あとからだんだんわかってくるんですけど、9.11のオペレーションは、かなり暗号の技術とかインターネットとかも駆使しながら、現代的な情報通信技術を駆使しながらオペレーションをやったってことがわかってきていて、
そうするとイスラーム側の人とかですね、非欧米圏の人たちもインターネットも当たり前のように使うようになるし、そういうものを使いながら平和的に使うこともできるんだけど、そういうテロみたいなものとか起きたりもすると。
なんかそんなようなことが起きていましたよね。そういうのを見ると、やっぱりすぐ現地に行きたくなっちゃうんですけども、どっかイスラム圏で行けるとこないかななんて思ってたら、なんかいろいろと紹介をしてもらえて、
で、シリアのアレッポという町に、アレッポ大学という大学があるんですけども、そこで受け入れてくれるっていうことになり、それで結局当時お付き合いしていたのが今の妻なんですけれども、
博士論文のネタが上がるくらいまではシリアでちょっと勉強してというか研究してなんていうことを言って、それで一緒に来てくれるっていうことになり、結婚をしてシリアのアレッポという町に住み始めると。で、これが僕の新婚生活みたいな感じだったんです。
で、アレッポという町はシリアの中でも2番目に大きな町で、首都はダマスカスですけれども、アレッポはその次に大きい町。で、商人の町なので、イメージとしてはダマスカスが東京だとするとアレッポが大阪みたいな、なんかそんなようなイメージかもしれません。
で、アレッポって言って、なかなかすごいなという感じだったんですね。というのは、2001年9月11日に9.11が起きて、そこからすぐ思い立ったら行動してしまう感じなので、2002年の2月、だからもう半年くらいでアレッポに住むようになりました。
で、当時のシリアのアレッポって、いわゆるスーパーマーケットみたいなのも全然なくてですね。それで、屋上屋さんとかお肉屋さんとか、なんかその専門店しかないような感じで、草木な感じだったんです。そして、僕の研究対象でもあるインターネットっていうものが解禁されたばっかり。で、今までそれまでインターネット禁止だったので、携帯電話も禁止でしたね。
それが解禁された時期で、変化が起き始めたみたいなところだったんです。で、まあ、アラビア語しか通じなくて、英語がほとんど通じないので、言語的にもずいぶん苦労しましたけれども、まあそして、途上国っていうのは途上国なので、いろいろと生活面でも苦労することがいっぱいあるんです。
ただ、だんだんだんだん町に慣れてくると、この町は奥深いなっていうことに割とすぐ気が付きます。実際に世界遺産に登録されていて、特にあの旧市街、新市街っていう風な言い方しますけれども、もともと町だったところ旧市街って言ってます。
で、この旧市街の部分は、現存してまだ人が住んでいる町、都市の中で、世界で一番古い都市のうちの一つっていうことで、首都のダマスカスと並んで、世界遺産みたいな感じになっていました。
なので、長くですね、人が住んでいると。しかも、紀元前からも人が住んでいると。これはなかなかな都市だなと思って、実際その市場の部分とかですね、歩いたりとか、もうほんと迷路みたいになってて、すごいんですよね。
で、その都市の奥深さとか魅力にすごくはまっていくのは、やっぱりシリアのアレポっていうのは大きかったのかなっていうふうに思います。
だから自然があるところで自給自足モデルみたいなことっていうのももちろん成り立つんだと思うし、そういうのがすごく合ってるっていう人は一つの生き方かもしれないですけど、僕はやっぱり東京の目黒で生まれ育ち、ニューヨークシティにも憧れ、アレッポっていう街にも住んで。
別の時にはバンコクだったりとか台湾の台南とかにちょっとだけ研究で住んだりとかっていうのもありましたけど、そういう割と大都市みたいなところが多かったんですよね。
で、それって僕がやっぱり都市文化に対してすごく好きっていうか、都市文化があるところになんか引かれてるんだろうなって思うんですけど、それがなんか大都市だけじゃないよなっていう感覚にだんだんだんだんなってきて。
で、大都市は住まなくてもいいかもなとかって思った時期があったんですよね。これからやっぱり面白い街っていうかクリエイティブな人たちがこういうところで仕事するぞみたいなこととか生活するぞみたいなところって、もうちょっと自然環境と都市文化とがいい感じでミックスされている街なんじゃないかなって思って。
で、僕はそういうことを公演とかで読んでいただくと、なんかそういうデータとかもうまく示しながらですね、これからってこういう感じの都市間移動とかになってくるんじゃないですかねみたいな話とかしている、自分が大都市に住んでるとなんかあんまり説得力がないから、自分もなんかクリエイティブなことをずっとやってたいみたいなことを思うと、やっぱり自分の拠点をどこに置こうってことを考え始めて、
そこからどの街にしようかなっていうのを家族でというかうちの妻とよく探してました。世界中探してました。いろんな街行きました。ハワイの方とか行ってみたりとか、北欧の方行ってみたりとか、ニュージーランド行ってみたりとかですね。いろんな候補があって、見てた時期っていうのがあります。
あれっぽのことについて結構重要だなと思うので思い出したのは、あれっぽを去るっていう時、日本に帰るっていう時に、妻ともいろんな思い出話も含めてあれっぽのことを話したりもしたんですけど、その時になんか決めたことがあって、夫婦間で。あれっぽの人ってあれっぽのこと大好きなんですよ。なんか住んでる自分の街のことが大好き。
あれっぽが世界で一番だくらいによく言ってて。でもよくよく話し聞いてみると、その人あれっぽ以外のとこほとんど行ったことないんだけど、でも大好きだ、一番だってこういうふうにみんな信じて誇らしげに話してくれるんですよね。
で、それを見て、うちの妻とこれからやっぱり住むときには、街の人がその街のこと大好きだって思ってるような街に住むっていうのを一個の条件にしようみたいなことを決めて、なので、街選びの時には結構その自然と都市文化のバランスも大事だったんですけど、そして食べるっていうことも非常に僕の中で大きかったので、
いろんな食べ物とか水とかですね。またこれシリアが大変なのは、夏になると渓谷断水っていうのをするんですよ。水道が止まるんですよ。で、一番水が少ない時期なんていうのは朝1時間くらい水道出るんですけど、それ以外の時間ずっと止まってるので。
なんかその水が出るっていう時にですね、一生懸命1日分の水っていうのを貯めておいて、それで生活しなきゃいけないみたいなこんなことがあって、やっぱ水ってすごい大事だよねっていうんで、水へのアクセスみたいなのも結構あの条件としては結構重要視したところがあります。
選ぶところはザーッと早送りするんですけど、いっぱいいろんなところを行って国内外行って、で最後ここいいかもって思ったのが今住んでる長野県の松本だったんですよね。
で、この松本っていう町は非常にその都市文化も素敵で、いろんなものがあって歴史があって、そしてお城もあって、お城も戦国時代に建ったお城で、それが残ってるのも第二次世界大戦中に空襲を幸運にも避けているので、
そうすると江戸時代の城下町の区画っていうのが未だに残っていたりとか、そういう歴史の連続性、これまたシリアのあれっぽとすごく通ずるというか、歴史の連続性を感じられる都市でもあるんですよね。
人がそこで息づいてきた。でまた歴史を紐解くと、松本には古墳があるんですけど、確か3世紀とかで東日本の中でも最古の部類の古墳だっていうふうに言われていて、ということはやっぱその時からその古墳作るだけの文明があった。
余剰エネルギーがあった。社会があったっていうことだし、長野のあのエリアって割と縄文の遺跡とかも出てくるんですけど、そういう時代からずっと人が営み続けてきた場所で住むみたいなことで、そういう歴史もそうだし都市文化もそうだし、そしてその周りには圧倒的ないわゆる北アルプスとかですね、
それから美しヶ原も松本の一部ですけれども、そんなような景色があって、日本の人が山の街とかって言ってイメージするときの割と典型的な風景は松本から北アルプスの方を望むと本当に山がどーんと迫っているみたいな感じがあって、この両方を見るのがすごく僕は良かったんですよね。
住むなら街中の中心市街地の歩いて住めるところに住む。もっと別の言い方で言うと、松本でどこに住むのか探すときにですね、博物館にあった江戸時代の地図っていうのを見て、それと現代の地図重ね合わせてみて、江戸時代に街だったエリアに住むみたいなのが1個なんです。
なんでそんなことを考えるかというと、別の言葉で言うと江戸時代までっていうのは100%再生可能エネルギーだけで社会を構成していたわけですよね。明治とかになって石炭とか化石燃料とか使うようになってきますけれども、化石燃料がゼロの時代に都市として成立している範囲内っていうのは、これからのその自然と都市との関係性とか、特にそのEZオイル時代みたいなのがだんだん陰りを見せて、
次の時代に向かってシフトしていくっていう時には非常に重要なことなんじゃないかななんていうのを思って、そんなようなことをしました。
で実際にその不動産とかって本当にタイミングなので、まあ縁がなければ進まないだろうなぁなんて思っていて、いたら松本に関してはあれよあれよという間に進んでいって、これまた半年くらいなんですけど、
2011年の7月の末に初めて松本っていう町に出会って、9月くらいにやっぱこの町にしようって家族会議で決め、家族会議って言ってもうちの妻と2人で、娘はまだ生まれたばっかりくらいな感じだったんで、2人で松本にしようって決めて、
でその江戸時代に町だった範囲になんか家建てられるような土地あるのかなって言ったら、まあ見つからなかったらそれは縁がなかったってことかなぁなんて思ってたら、あのすぐに初めてその土地探しに行ったその日にもう見つけ、その日の夜に電話してここ買いますって言ったら、
あのそのまま契約が済んで、で家建てるっていうところの段取りもあのうまく進んで、そんでもう次の年の4月の末ゴールデンメイクに入るくらいの時にはあの家も建ち終わって引っ越していたので、半年っていうよりはもうちょっと長かったですけど、でも1年は全然経たないくらいで、松本に出会ってからあの住み始めるまでそのくらいのスピードで進みました。
なんでそういうのも松本との運命的な出会いというか、なんかすごくそういうので縁があったのかなぁなんていうふうに思っています。
今日は松本に住むまでの話っていうのをちょっとしたんですけども、アルプスシティっていうふうに言っているのは、アルプスに代表される自然環境とシティに代表される都市文化の間に、
ハイフンとかスペースを入れなかったんですよね。まあこんなあの言葉は辞書を引いてもどこにも載ってないんですけど勝手に作った造語なんですけども、この自然と都市文化の間、人間社会の間にハイフンとかスペースを入れるのはもしかするとあの西洋的な自然感とかだったら入れるのかなーって気がしますけど、
日本的な自然感ってなんかこれ一体みたいな、自分も自然の一部みたいな、そういうのがあるじゃないですか。なんかこれからの思想とかってことを考えていくと、こういう日本が古来から持っていた自然感みたいな感覚とかっていうのも、実は世界の人にとってみても一つのモデルを提供できるんじゃないかなっていうのをすごく思っていて、
それをアルプスシティっていう造語でちょっと表現したんですね。なんでハイフンやスペースを入れてないっていうのはとってもポイントで、結構多くの人がアルプスシティペイっていうデジタル地域通貨やってるんですけど、みんなアルプスペイアルプスペイって呼ぼうとするんですけど、僕の中にはここにアルプスだけじゃダメで、