聖なる者となること・イエス・キリストに見習って成長すること
今日は、聖なる方に習って、聖なる者となりなさい という対応を持って、メッセージを分かち合いたいと思います。
先週、聖霊様に対して分かち合いながら、 ローマ書8章を一緒に考えてきました。
ローマ書8章30節に、神様はあらかじめ定められた者を召し出し、
召し出した者たちを寄とし、寄とされた者たちに 栄光をお渡しになったと分かち合いました。
そして、神様が私たちを何を願っておられるのでしょうか。 そのすべてを通して、私たちを
巫女イエス・キリストに見習った、 イエス・キリストと同じような姿になること、それを願っておられるのです。
じゃあ、私たちは救われた天国に行くんだ。 それだけが目的ではありません。
救われた理由は、あなたはイエス・キリストと同じような姿になりなさいという、 神様の切なる願いが救いの中で含まれています。
だから、救われたからまあいいんじゃないかと思って、 勝手に信仰生活することは、
神様の究極的な目的とは本当に違う信仰生活をするから、 その信仰は本当の正しい信仰ではありません。
じゃあ、イエス・キリストに見習う人になるために私たちは呼ばれ、 そして素晴らしい特権を3つ与えてくださりました。
はじめは、アッパー父王と呼ぶ特権を与えてくださり、 またイエス・キリストと共に天国を創造するものとしてくださいました。
またイエス様と共に、聖なるグナンに預かるものとしてくださった。
じゃあ、そこで聖なるグナンということは、 私たちが天国で大きな報いを得られるような、本当に祝福できるグナンです。
じゃあ、それを一緒に考えていきました。 皆さん、このことをよく覚えていらっしゃるんですか?
じゃあ、今日はこの後続きまして、これから救われた私たち、 キリスト社になった私たちに神様が願われることがあります。
これが第一ペトロ一書15節でありますけど、
神様が私にならって、あなた方自身も生活のすべての面で、 聖なるものとなりなさいと言いました。
聖なるものとなること、キリスト社は聖なるものとならなければいけません。 そのためにイエス・キリストを送ってくださり、私たちに聖霊様を送ってくださったんです。
ところが、聖なるものとなることを神様が願っているんですけど、 ならない理由は何ですか?
これは、創世紀3章、チェンヤクの知識の木の実を食べて、 私たちに入ってきたこの現在という
人間の本性になってしまった、このむさぼり、欲のゆえに、 私たちは聖なるものにならないんです。
皆さん、欲、むさぼりが人を汚くする、怪我するんですよ。
私たちが清くなるためには、欲、むさぼりがなくならなければいけません。
このむさぼりが取り扱われないまま、信仰生活するなら、 結局、神様さえも利用して、自分の欲を満たそうとします。
これが一割信仰であり、実行中心的な信仰です。 このような信仰はいくら熱心にやっても、神様は喜びません。
天国もありません。 神様は、聖なるものとなりなさいと言っているのに、
私たちの欲のゆえに、聖なるものとならないんです。 じゃあ、ではどうすれば、聖なるものとなれるのか?
この欲の問題を解決することができるのか? 今日はこのことを一緒に考えていきたいとおもいます。
欲望の問題とその原因
まず、この欲、どこから来たんですか? 創世紀3章5節に、
人間は悪魔の誘惑を受けます。 それで、純悪の知識の絹みを食べて、それで悪魔の奴隷になるんですけど、
その時、悪魔が人の心の中に入れたのことが、 悪魔の属性である欲ということ、むさぶりということです。
イエス様がパリサイ人に、こう言います。 要は、8章44節です。
あなたたちは悪魔である父から出たものであって、 その父の欲望を満たそうと思っている。
パリサイ人たちに、あなたたちの父は悪魔だと、 悪魔の欲望を満たすために、あなたたちは今努力しているんだと、
そう言います。 パリサイ人たちは悪魔の子供ですか?
そしてパリサイ人たちは、自分たちがこの悪魔の欲望を満たそうとために、 信仰生活しているんだと思ったでしょうか?
では、私たちもそのような問題になる可能性があります。
聖書で、この欲望ということを一番よく説明してくださるところが、 今日読んでくださった第1要の2章15節から17節です。
中6節にこう言います。
なぜなら、すべて世にあるもの、 陸の欲、目の欲、生活の奢りは、
御父から出ないで、世から出た。 世から出たということは、サタン、悪魔から出たということです。
聖書が言っているこの欲、3つなんですけど、 陸の欲、目の欲、生活の奢りです。
じゃあ、陸の欲は何ですか? 現在のもとにある人間の体が要求するすべての欲望です。
この堕落した体が願っている、求めている欲は何ですか? 食べること、または色々なことがあるでしょう。
目の欲。 目の欲は、見ることによって、それで何とか快楽を得ようとする欲です。
また、生活の奢りということは、 自分のたくさん集まってきたこの所要を通して、
他の人に誇りをして、それで誇りたいという共鳴心、 これを生活の奢りと言います。
皆さん、サタンは人間をどのようにして動かすんですか? サタンが人間を動かす力は2つです。
1つは、陸の欲、目の欲、生活の奢り。 それを上手く、もっともっとやりたいというこの欲望。
もう一つは何ですか? この恐れなんです。
ヘブナイショー2章15節にこう言います。 死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態になった者たちを解放するために、
イエス様が、十字架で死んでくださったと言います。 欲、また恐れ。
この2つが人の中には深くあって、 それが人が何とか頑張らなきゃと思うように、私たちを促すんです。
結局、この2つが人間を頑張らせる、また人間を怪我する、 すべての要因はここから出るんです。
以前、私が通っていた会社。 この会社の社訓が何かと言います。第一主義です。
自分の分野で最高になるということが、第一主義、会社。 これが本当に皆さん、野望の社訓じゃありませんか。
それが、私みたいな当時社員たちには、もう心に火をつけるような何かパワーになって、
私はこの会社だったら、もう給料をもらわなくても、 私は一生懸命頑張りたいと思いました。
みんなそうですよ。あなたはあなたの分野で最高になれって言ったら、 なるほど、私はこれを達するために、私は頑張ってますよと思いながら、
会社のために一生懸命働くんじゃありませんか。 だから、うまくやる人にはボーナスとか、
今、インセンティブを与えてくださったら、もう社員は目に見えることはない。 会社から認めてもらったからと言いながら、精一杯頑張るでしょう。
世の中の会社は、みんなそれで人々を促して、それで頑張らせて、 それで何とか実績を積めようと思っています。
人間は、何かうまくやって、人々から認めてもらいたいという心があるんですけど、 それで認めてもらって何ができますか。
結局、将来に対するもっと確かな安心、保証を得たいという欲があるんです。 認めてもらったら、私はもともとできる。
見てもらわなければ、クビになるかもという恐れが、私たちの中にはあるんですよ。 それで皆さん頑張っているんじゃありませんか。
しかし、欲ということはどれほど怖いものなのか。 聖書は数々の警告を持って、私たちはそうしたらいけないと言います。
皆さん、欲ということは、燃え続ける炎と同じです。 地獄の炎と同じような。
堕落した人の人間には、欲の塊だと思っても、小劇ではないでしょう。 神様、私たちがキリスト社になったら、
昔のようなその欲、悪魔の属性によって生きてはいけないと言われます。
ヤコブ一書五説、そして欲望がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
欲望を持っていくなら、お前は死ぬよということは、聖書が言っていることです。 またヤコブ四書四説、
欲望を取るための解決策
世を愛するのか、世の友になりたいと思っている人は、神の敵になるのです。
皆さん、今日教会学校にいますので、ノアの洪水、この後のことをいろいろ子供たちに勉強させてくださって、本当にありがとうございます。
私はその中で学ぶことがたくさんあって、今いろいろ絵をつけているところであります。
皆さん、ノアの洪水、裁きの原因は何ですか。 創世記六書二説にこう書いてあります。
人は各々、自分が好きな全ての女性を自分の妻にした。 神様は一人の男性に一人の女性を許されたんですけど、
全ての女性を自分の妻とする。 これ何にするんですか。
ノアの洪水の原因は不倫だったんです。 不倫が滅ぼされる、裁かれる理由でした。
皆さん、不倫をしたら裁かれますよ。 悔い改めなければいけませんよ。
また、ソドムとコムラの滅亡の原因は何ですか。 創世記中九書古説にあらわれて、快楽を求める欲望です。
中九書古説には、相手が誰であるのか関係ありません。 男が男と共に快楽を求めようとする同性愛がその時にあったんです。
誰によっても快楽を求めたいという。 事実、ノアの時代に的事、またソドムとコムラの的事が終わりの時の特徴だと言います。
終わりの時、不倫と同性愛が今、全世界を堕落させ、汚くして怪我させています。
私たちはこれから気をつけなきゃいけません。 その以外でも、塩の柱に乗ったロットの妻、
またイスラエルに災いを呼び起こしたアガンの堕落、 バラム預言者の堕落、イスカリウユダの堕落、その原因は何ですか。
富を少しでももっともっともっと得たいという欲望ではありませんか。 その欲によって、個人が滅ぼされ、民族が滅ぼされ、世界が滅ぼされたんです。
じゃあ、皆さん、この欲を取るように勝ち抜くことができますか。 この世の中で欲望、欲を勝ち抜く人はいません。
なぜなら、人間の本能になってしまったから。 堕落する前はそうではなかったんですけど、堕落した後は本能になってしまう。
なぜ、主導員に入って主導師になりますか。 なぜ、お寺に入ってお坊さんになりますか。
無欲、無心。 なんとかして、この欲の問題を解決したいと思っているんじゃありませんか。
では、もうこれを勝ち抜くことができたんですか。 ところが、私たちもキリスト教派だとしても、
欲の問題が解決できない限り、正しい信仰も天国もありません。
皆さん、貪り、欲を持って天国に入ることができると思いますか。
天国に入って貪りに満ち溢れた心を持って、天国でこれも私のもの、これも私のもの、
これをやる人は天国にふさわしいと思いますか。
では、私たちはどうすれば欲を勝ち抜くことができますか。
旧約次第に神様が神のために実戒を与えてくださいました。
実戒をよくよく読んでみてください。 これはすべて欲を禁じる御言葉です。
シュッチェイジプトル20章の13節から。 殺してはならない。
皆さん、なぜ人を殺すんですか。 欲です。
会員してはならない。なぜ会員しているんですか。 欲です。
欲の問題と解決
盗んではならない。なぜ盗むんですか。 欲です。
あなたは隣人に隣人に対して貴重してはならない。 なぜ嘘を明かして話をするんですか。欲です。
中七節。あなたは隣人の家を貪ってはならない。
隣人の妻、下辺、橋溜め、牛、老婆、またすべての隣人のものを 貪ってはならない。
皆さんの隣人の中で誰かこのような貪りを持っている人がいると思ったら危ないでしょう。
隣人が危なくて皆さん住めますか。 貪りは悪いんですよ。
ところがこの貪りをこの立法の規定だけで禁じるならなくなりますか。
思ってにはしない。その貪りがないふりにするでしょう。
大事なのは心の中です。 心が新たにならなきゃいけません。
信仰の目的は聖なるもの、清さです。 清くならなければ誠の信仰はできません。
欲の問題が解決できなければ生活は変わりません。 信仰の目的である私が聖なるものだからあなたたちも聖なるものになれ、できません。
皆さん、聖なるものにならなければ神様に出会うことはできません。 正直に聖なるものにならなければ聖なる天国には入ることはできません。
私たちはどうすれば聖なるものになりますか。 このためにイエス様が十字架で死んでくださり、聖霊様を送ってくださいました。
救い主イエス様は私たちの罪の本性を解決するために 十字架で死んで私たちの罪を清くしてくださいました。
また清くなった神徒たちには清い霊、聖霊を送ってくださって 私たちといつも共にいるようにしてくださったのです。
これから私たちは聖霊に従って歩まなければなりません。 カラディア古書中6節、私が言いたいのはこういうことです。
霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば決して肉の欲望を満足させようとすることはありません。
欲を勝ち抜く方法は何ですか。 聖霊に満たされて、聖霊に導きに従って生きることだけなんです。
また聖霊様は私たちに来られ、私たちの心に聖霊の実りを与えてくださいます。
カラディア古書24節からです。 霊の結ぶ実は愛であって、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、乳和、節制。
皆さん、聖霊の9つの実りはすべて欲、うさぼりの反対の属性です。
神様は私たちに聖霊の実りを通して私たちを聖なるものにしてくださるんですけど、
私は特にこの愛と節制という霊が私たちに満たされることを願います。
カラディア古書25節、キリストイエスのものになった人は陸を欲情や欲望諸共、十字架につけてしまいました。
これから聖霊の導きに従って歩みなさい、神様は私たちに言っています。
もう一度申し上げます。信仰は欲の問題が解決できない限り、信仰の目的は解決できません。
欲が解決できていない信仰は、結局信仰の力で欲を満たしたいだけです。
それが一割の信仰であり、そのような信仰をもっては神様の祝福も天国もありません。
解決する方法はイエス・キリストの十字架に委ね、毎日クリアするため、毎日新たにされ、
また私たちの心に来ておられる聖霊様に従って、聖霊によって実られ、聖霊によって神の栄光を体験し、
栄光から栄光へとますます新しく変わっていく、これが信仰生活です。
聖霊の導きに従う
特に信仰の本質、イエス様を知り、イエス様を愛することによって、イエス様に見習っていく私たちにならなきゃいけません。
ですから皆さん、私たちの信仰は、信仰を通して自分の問題を解決することではありません。
私たちは神を知り、イエス・キリストを愛すること、見習っていくこと、これが信仰生活だということをしっかり覚えなければなりません。
では、信仰の先輩たちはどうされたのか。まず、孟瀬です。
孟瀬は83歳になったとき、主治医師の参照2節を見ますと、芝の木があるんですけど、そこで燃え上がるんです。
しかし芝の木に火がついているんですけど、芝は燃え尽きないんです。
不思議だなと思って、その木に近づくところで、神の御声が聞こえ、彼がそこで神様に出会います。
それから彼は、神の山に登って実会、立法をいただくこともありますけど、40日間神様の前で何を見るんですか。
神の栄光の輝かしい姿を見るんです。
彼はそれを見てからは、世の中何によっても自分の心が満足できない。
彼は一生前、主の栄光をもっと見せてください。昨日見たことで満足できません。今日も見せてください。今日も見せてください。
孟瀬はますます栄光から栄光へと、清い人になっていきました。
天国にふさわしい、神の子供にふさわしい人になりました。
ダビデは、ダビデの幕屋の礼拝を通して、神様を体験しました。
皆さん、神様の生きておられる御臨在が、彼の中に豊かにあったんです。
そこで彼はいつも礼拝、礼拝、主の礼拝、それで、詩編の27の4節、これは素晴らしい聖書ですけど、
一つのことを主に願い、それだけを求めよう。命ある限り主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えたい。
彼の一つの願いは、主の宮に留まって、主に礼拝することでした。
礼拝で大きな祝福を頂いた人がダビデです。
ペテロ、彼はマルコ宮所で、イエス様と共に山に登ったのに、そこでイエス様の姿がくるっと変わって、栄光に輝かしいイエス様の姿になって、エリアと猛精が現れて、また神様の御声が聞こえて、
彼はその場面、それがいつも自分のすべての細胞の隅々までその姿が認識されたと言いましょうか。
第2ペテロ1章17節18節は、彼が準拠される前に書かれたこの手紙ですけど、そこにも私がマルコ宮所の時に、
イエス様と共に山に登った時、人間が想像できないことを見て、神様の御声が聞こえて、それも死ぬまで続けられた。
彼はそれによって自分の使命をうまくまとおし、正義なる者として天国に行きました。
一番勉強になる人がパウルです。フィリップ3章で彼の信仰告白がありますけど、パウルはこの世的には成功した人でした。
しかしフィリップ3章5節から、なんて言うんですか、しかし私にとって有利だったことらを、キリストのゆえに損失とみなすようになりました。
そればっかりか私の主キリストイエスを知ることのあんまりにも素晴らしさに、今では他の一切を損失とみなしています。
キリストのゆえに私は全てを失いましたが、それらをチリアクタとみなしています。
私はキリストとその復活の力を知り、その苦しみに預かって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中から復活に出したいと思っています。
成すべきことはたった一つ、後ろのものを忘れ、前のものを前進を向けつつ、神がキリストイエスによって上へ召して、お当たりになる賞を得るために目標を目指してひたすら走るのですと言います。
私はこの告白が大好きです。
信仰の目標と神の栄光
皆さん、キリストイエスを知ることのあんまりにも素晴らしさ、そのために一生がイエス様についていきます。
またイエス様の十字架を通して復活というこの不思議な神秘的な秘密を知りたいと思いました。
また彼は第三の天まで登って、人が口にすることができないものすごい不思議な世界を見てしまいました。
そのすべてを通して、この神様のすべての宝はイエスキリストのうちにあるということをわかりました。
そしてイエス様はついて行ったのですが、パウロがイエス様を知り、イエス様のうちにあるすべての宝を得るのに一番邪魔になったことは何か知っていますか?
この世の貪り、この世を愛することでした。
ですからパウロはそれを排泄物として思ってイエス様についていきました。
皆さん、この世のものを愛し、その世のものを得ようとする、これが堕落のもとなんです。
堕落のもと、欲を捨てたときに人が清くなります。
清い人だけ、神の宝であるイエスキリストを得ることができます。
結局私たちは神様が見られるとき、排泄物のようなこの世の中の欲を満たすために信仰生活するのか?
神の栄光であるイエスキリストを得るために信仰生活するのか?
これを私たちの教会は神の手を求めるのか、神の御化を求めるのかと言うでしょう。
まことの信仰、またイエスキリスト、天国の宝物を得る道は神の御化を求めるときだけなんです。
神の御化を求める人は、欲がない人が神の御化を求める。
欲ある人は神の手を求める。神の御化を求める。
ここで聖霊様の助けが大事ですけど、皆さん、ペンテコステの時に聖霊五輪、
これは聖霊の炎が、各一人一人、神様からの炎が一人一人に望んだんです。
聖霊の炎をいただくことがなぜ大事なのか、神様と私の間に欲の壁があるんです。
この欲の壁を誰が壊すのか、聖霊の炎のような、この力、炎のような力が破るんですよ。
それが欲が破られる時に、神の栄光が見えるんですよ。
この神の栄光を見た人は、一生以来それ以外は満足できないから、それに追いかけてついていって、
それだけを求めながら自分は、自然に清い人、聖なる人に変わっていったんですよ。
私たちの教会が今やろうとしているのは、リバイバルを準備する教会。
リバイバルは何ですか? 聖霊の炎のような力が私たちに望むことなんです。
楽しみではありませんか? 欲が燃やされて切り捨てられる、この素晴らしい聖霊の炎のような力が私たちに与えられるリバイバル、
私たちはそれを準備しているんです。 ここで恥ずかしい私の証を皆さんに申し上げたいと思います。
私自身は野暮の塊です。 子供の時から私の性格がそうでした。
薬物みたいな。 勉強する時、私より勉強がうまくできる人がいたら我慢できない。
私はその人に勝たなければ私は眠れない人。 それなのに韓国の最高の大学に入れなかった。
地方大学に行ってしまった。 地方大学出身者という劣等感、
恨みが私にはありました。 会社に入ってからはトップにやりたかった。
地方大学の出身はなかなかトップに難しいんですけど、 しかし私はできるぞと思ってトップになるために、
もう気が狂ったほど命がけて働きました。 職場の同僚たちは私はひどいやつだと思いながら、
私の別の名前がサイという人間でした。
とにかくぶつかって、私は勝ちたい、勝ちたい。 こんな人間でした。
そうしながら私は心学を学んでボクシーになりました。 ボクシーになっても相変わらず欲望、欲望はそのままでした。
誰より先に大きな業界を立てて、 日本一のボクシーになりたかった。
業界成長、これが私の目的でした。 それが主のために熱心なのか、自分の野望を満たすための熱心なのか、私も知らなかったから。
神様は私の心の中心を見ておられたから、 私には絶対それを許されなかった。
その時、挫折、挫折。 だから私の勃開の過程は挫折の連続でした。
しかし挫折させられて、むしろ良かったんです。 もし挫折させられなかったら、うまくできたとしたら、
牧師の人生
私は日本の業界の怪物のような人間になってしまったかもしれません。 皆さん、命を救うのには欲が入ってはいけません。
命を育てるのには欲が入ってはいけません。 純粋な心じゃなければ、命を救う働きにはこれはふさわしくないんですよ。
私たちは神様の御心で、 ただ自分の何かを求めないで、
ただ一人の人を救って、その人を助けたいという純粋な心がなければ、 一人の人を救うのにふさわしくないんですよ。
結局私たちの信仰の完成は、大きな教会を建てることではなく、 私がイエス様に見習った
公貧性、人格、すなわち聖なるものとなることだということを、私はやっとわかりました。
また年取った牧師として神様が悟りを与えてくださったんですけど、
この世は100年、天国地獄は永遠ということです。
この世の100年の間、天国を準備するチャンスがありますけど、これをうまくやらなきゃいけない。
また人生は手ぶらで来て、手ぶらで帰るということ。 世の中のことをよく思ってはいけないということです。
私は以前の教会を辞任しながら、すでに牧師として退職した人間です。
今はおまけに、毎週毎週奉仕しているだけなんで、
私はこの次の公認牧師が来られるなら、名残なく離れる準備、
もうここから離れる準備をしながら、毎週毎週奉仕しているところです。
そうしたら皆さん、心に負担がない、欲がないから、私は大きい教会を建てるということを考えも全くありません。
もう一人なんとか、人数を増やしたいという、全くありません。
心がどれほど楽なのか、これから私の目標は、欲なし奉仕すること。
また、イエス様に見習っていくことです。 また私がやるべきことは、神様に感謝。
私について来てくださった皆さんに感謝。 日本語で言えば、神様と皆さんに恩返しすることが私の目標です。
振り返ってみますと、まだ生きているんですけど、私の生き生涯というのは何でしょうかと言ったら、
欲の塊であった私を、欲を捨てるようにさせて、 誠意なるものとさせていく神様の訓練、神様の導きだったなと思います。
私の人生、欲の塊である人間を、これを全部壊して、 誠意なるものとさせていく神様の導きが、結局私の人生だったなと思います。
祈りの真言
最後に私は大好きな真言の記者の祈りを分かち合いながら終わりにしたいと思います。
誠意なるものとなりたいなら、ぜひこの祈りを皆さん覚えていてください。 真言の30章の7節から9節です。
二つのことをあなたに願います。 私が死ぬまでこれを拒まないでください。
むなしいもの、偽りの言葉を私から遠ざけてください。 貧しくもせず、金持ちにもせず、私のために定められたパンで私を養ってください。
飽きたりれば裏切り、種など何者かという恐れがあります。 貧しければ盗みを働き、私の神を皆を怪我し、
怪我しかねません。 初めは何ですか?
むなしいもの、偽りの言葉を私から遠ざけてください。 二番目は貧しくもせず、金持ちもせず、私のために定められたパンで私を養ってください。
どうかしよう、私もこのようにならせてください。
そして欲に勝ち抜き、聖なるものとなるようにさせてください。 お祈りいたします。
主よ、僕は45年間信仰生活をしていましたが、
今やっと悟るのは、神様が私の数多くの失敗、思考錯誤を通して、聖なるものとなるように導いてくださったことを感謝します。
これから生きている間、もっともっと聖なるものとなっていきたいと思います。 そして神の子供と子供になるようにふさわしく、
天国にふさわしい聖徒にならせてください。 イエス様の皆を通してお祈りいたします。
アーメン