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2021-04-18 31:56

「復活の希望と最後の勝利」2021年4月18日(日)メッセージ

東京ぶどうの木教会 2021年4月18日(日)主日礼拝のメッセージです。

牧師:アブラハム黄

00:00
今日は、復活の希望と最後の勝利について メッセージを分かち合いたいと思います。
4月になって、私たちは復活という体をもって 今、メッセージを分かち合っているところなんですけど、
第1週目は十字架の福音と 復活の福音について分かち合いました。
第2週目は死者の復活について分かち合いました。
今日は、3番目の時間として、復活の希望と最後の勝利について 御言葉を分かち合いたいと思います。
大信学者であり、牧師である ジョン・ストートという立派な先生がいます。
その先生が、キリスト教が他の宗教と 何が違うのかといったときに、
キリスト教の独特性ということで、 これを説明してくださったんですけど、
これが本当に分かりやすいです。
キリストの誕生が異なるんだ、独特だと。
また、キリストの死が独特だと。
また、キリストの復活が独特だと。
これをもって、他の宗教と確実に違うんだと。
ここで一番大事なのは、復活なんです。
復活は、他の宗教が真似できないものなんです。
キリスト教に復活があるということは、 キリスト教は生きているということでしょう。
また、生かすことができるんだという証明です。
ですから、命の福音と証明されるんです。
復活がこんなに大事なんです。
ですから、キリスト社はみんな、復活について、
また、復活に対する希望について、
しっかり覚えていかなければなりません。
パウロが第一コリンド中古書で、 復活について証をしました。
でも、コリンド教会の神道の中には、 希望を持っている人が多かったんです。
希望が二つなんですけど、
死んだ人がどうして蘇られるのか。
では、蘇られた時には、どんな姿で蘇られるのか。
事実、これは私たちも知りたいものではありませんか。
でも皆さん、考えてみてください。
私たちの体は、死んだら臭くなります。
臭くなって、臭いが出ます。
日本は火葬ですね。
最近、韓国も火葬にしました。
全世界もそのような稽古になっているのではないかと思いますけど、
臭くなって、土に変えてしまったその体。
また、燃やして灰になってしまったこの体が、
03:04
どのように、またどんな姿で復活するのか。
ここには、私たちも疑問があるのではないでしょうか。
また、私たちの大きな問題になっているのは、
キリスト社たちが、復活に対して信じない人も大勢います。
また、復活に対する期待感があまりありません。
ですから、教会が復活、復活希望、復活の栄光と言っても、
復活についてよくわからない状態で、
復活の希望よりは、今目の前の世の中の希望、
世の中でどう生きるか、そこで宇宙になっていることではないかと思います。
今日のメッセージを通して、私たちが復活に対して希望を持って、
復活の希望がこの世を勝ちます。
罪に勝ちます。
サタンに勝ちます。
この、私たちが勝つ勝利のもとが復活なんです。
ぜひとも、今日のメッセージを通して、
復活の希望に十分な私たちになりたいと思います。
まず、一番です。
私たちには二つの疑問があります。
35世紀ですね。
死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのかと聞く者たちがいますと言います。
その人たちに答えを、パウロは種を蒔くことと立てようとして答えをしています。
皆さん、まず種は、蒔かれた種が死んだ時、死んだ種から命が芽生えるようになります。
そうでしょう。
種を蒔いて、種が死んだら、その死んだところから命が芽生えるようになります。
これは大自然の法則です。
種が死ななければそのままです。
種が死んだら、そこから芽が出ます。
同じように、私たちも新しい命として復活するためには、
今の私たちの体は、死んで腐っていかなければなりません。
そうする時、新しい命がその種から、死んだ種から芽生えるようになります。
それをもって、キリスト社が死ぬということは、新しい命としての復活の準備をする。
これでパウロは説明しています。
私たちが種を蒔く時に、種を完成した姿で蒔くのではなくて、種粒を蒔きます。
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そうするなら、神様がこの種に、種粒にふさわしい形を与えてくださるのです。
例えば、バラの種を蒔きます。
だったら、そこから芽が出て、花が咲きます。
考えてみてください。
バラの種と、またバラの花は、中身は同じですけど、形は全然違います。
種を蒔いたのに、花が咲いた。
同じものだけど、バラの種とバラの花が違うように。
今、私たちの姿は、種の姿です。
今、いくら美しくても意味ありません。
それを蒔いて、死んで、臭くなって、そこからバラの花が咲きます。
だから、私がどんな姿で復活するのか、今、これは種の姿です。
復活の姿は、バラの姿が出てくるのです。
私はここで希望を持ちました。
私は昔から背が小さく、あまり女性に人気がない姿で、もう私は劣等感の塊でした。
しかし、私が復活するとき、この種が蒔かれて、復活するとき、どんな姿になるのか、私は信じます。
恵み深い、愛深い神様が、私に一番素晴らしい姿を与えてくださることを信じます。
あとは、私は背が高くなると思います。信じます。
信じます。背が高くなるのは私の夢なんです。
ですから、私たちは今、種の姿であまり絶望をなさらないでください。
復活するときには、立派な姿で復活すること、それが楽しみですね。
3番目、神様は各々、環境にふさわしい形を私たちに与えます。
ですから、人には人の姿、動物には動物の姿、また天井に直する姿が違うし、地上に直する姿も違います。
また、輝きも違います。太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、また星と星との輝きが違うように、
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神様は私たちに各々違う栄光に輝く姿を与えてください。
また、私たちが今生きているのは、地上にふさわしい体を持っていると同じように、
私たちが復活するときは、天井にふさわしい形を神様がくださるんです。
ですから、死のということ、死者の復活ということは同じなんです。
今、私たちはこの地上で生活ができるような形をくださいました。
しかし、復活するときには、未国で、天の国で住むところにふさわしい、素晴らしい形を神様が与えてくださるでしょう。
そのとき、私たちの体はどんな体として復活するのか、これを42節から44節は教えてくださいます。
死者の復活もこれと同じです。
撒かれるときは、朽ちるものでも朽ちないものとして復活し、
撒かれるときは、癒やしいものでも輝かしいものとして復活し、
撒かれるときは、弱いものでも力強いものとして復活するんです。
つまり、自然の命の体が撒かれて、霊の体が復活するんです。
ここで聖書は、地上での私たちの体を根本的に朽ちるもの、癒やしいもの、弱いものだと教えてくださっています。
そうです。今、私たちの体はすべて朽ちるものです。
結局、朽ちるようになっています。
朽ちない体は一人もいません。
女性たちは可愛いこと、美しいことを求めます。誇ります。
それで、女性の皆さんの美しさを求める動力、すごいでしょう。
戦争のときも化粧品は売れるという話があるものですから。
戦争のときも化粧するということ、本当ですね。
美しくなりたいという欲望、すごいですよ。
しかし、皆さん、私たちはみんな朽ちるようになります。
朽ちてしまえば、うじがうようよします。嫌ですね。
また、私たちの人生は癒やしいものになります。
私たちは誰もみんな栄光に満ちた人生を過ごすことを願います。
しかし、人生の最後になればなるほど、いろいろ衰えた体の機能によって
過ち、つまづき、まだ後悔しかありません。
12:01
牧師である私も、初めに牧師として赴任したときは、
みんな期待感を持って見てくれました。みんなうまくやると褒めてくれました。
しかし、皆さん、今どうですか。
10年ぐらい経ったんですけど、失望とつまづきだらけではありませんか。
私たちは年を取れば取るほど、癒やしいものになっていくんです。
私は違うよ、私は違うよとして、頑張ってみようとやっているんですけど、
やっぱり記憶がなくなるし、だんだんだんだん、
過ち、失敗、そして皆さんに嫌がれる姿になっていくんですね。
また、私たちみんな、土で作られたものですから、
根本的に弱いんです。
いくら強いと思ってきた私たちなんですけど、
病気にかかったら弱くなります。
また、私は罪を犯さないように頑張るでしょう。
しかし、罪に負けます。
絶えず、利口の欲に患います。
私たちがどうすれば、この弱さから解放できますか。
私たちの体が死んで、復活するとき、それが可能なんです。
42節から44節、私もう一度読みます。
死者の復活はこれと同じです。
まかれるときは朽ちるものでも、朽ちないものとして復活し、
まかれるときは癒やしいものでも、輝かしいものとして復活し、
まかれるときは弱いものでも、力強いものとして復活するんです。
どれほどどれほど幸いなことでしょう。
本当に感謝ではありませんか。
私たちはどうしてこんなに朽ちるものがまかれて、
朽ちないものとして復活することができますか。
これは45節に、これは最後のアダム、イエス様が、
命を与える霊だからということですね。
この命を与える霊、イエス様によって、
私たちは天に直する姿として変わっていきます。
この姿は天に直するお方、イエス・キリストと同じような、
完全な姿に変わるんです。
そのときは、今すべての不完全さが消えてしまいます。
また私たちが今知っているということを部分的にしか知らないんですけど、
それも解除されて開かれます。
ですから、主が私を知っているように、私も主をしっかり知るようになります。
このように復活の姿によって、私たちは完全な知識を持ち、
15:03
イエス様のような完全な姿を持つことができるんですけど、
これは想像もできないほど栄光に満ちた姿なんです。
これこそ、まことに、まことに、私たちが期待して喜ぶべきものなんです。
今まで私は負けることを嫌い、また他の人に恥を起きることを大嫌いな私なんですけど、
罪と過ち、私の弱さによっていつも悩んできました。
息子が私に、昨日のことも覚えないの?
パパできることは何なの?日誌書じゃないか?
息子だけではありません。周りの方々もたびたびその話をします。
私は完全なものになりたいんですけど、それができない。
いつもそれによって悩んできたんですけど、私たちが復活するときは、
完全な知識、完全な姿として復活して、永遠にそのように生きるようになります。
皆さん、復活という言葉で、私たちに完全なすべてを与えてくださる素晴らしいことなんです。
これを覚えながら、パウロは復活による最後の勝利を歌っています。
これは2番です。
パウロはまず、最後の時に行われる秘密を教えてくださるんですけど、
50世紀から52世紀、51世紀に行われることがあります。
私はあなた方に秘密をつけます。
最後のラッパーがなると、死者は復活して朽ちないものとされ、私たちは変えられます。
私たちが全部変えるということ、変わるということです。
それが最後の日にできることです。
この最後の日は、神様に敵対する人たちには裁きの日ですけど、
私たちのように神様に従った私たちには救いの日です。
その日に天使庁のラッパーがなる。
それと同時に、いきなりすべてが変えられる。
その変わった姿で空中に引き揺られて、そこでイエス様を出会うようになります。
皆さん、これは信者にだけ当てはまる秘密なんです。
信者たちが復活の栄光に参加するようになるとき、死の力は完全に滅ぼされます。
その時54節、死は勝利に飲み込まれたという言葉が応じるようになります。
今まで死の力、サタンの力は人類の上、王として君臨してきました。
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人間たちは死の力に刺されてみんな死んでしまいました。
死にたくない、死にたくない、身も体をするんですけど、死の力の前には仕方がない。
屈服してみんな苦しみながら死んでいきました。
まだ生きている間も死の力によって私たちは凶悪感、無意味、つまづき、挫折、不安、悩み、恐れ、患いました。
いつも罪意識、宅石感で私たちは苦労したんです。
しかしその日には死の力が滅ぼされることによって死の力と立法の力が、力を失ってしまいます。
その日には信者たちには救いの日であり、完全な解放の日です。
イエスサムの勝利が私たちの勝利になるその日なんです。
シス・パウロはこの勝利がどれほど素晴らしいのか、彼はそのことを思いながら叫びます。
55節、57節です。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前の棘はどこにあるのか。
死の棘は罪であり、罪の力は立法です。
私たちの主イエスキリストによって私たちの勝利を賜る神様に感謝しよう。
死の力を破られたイエスサムのおかげで私たちがそんなに願ってきた勝利の生活、
完全な生活をするようになります。
ですから私たちはこの復活の進行によって、
しっかりとサタンに負けないで、死を恐れないで、
主の働きにもっと励む者になりなさいとパウロは勧めています。
このメッセージを準備しながら、牧師である私は悩みに陥ってしまいました。
パウロはこんなに感激してこれをメッセージをくださるのに、
今私たちのキリスト社の姿はどうでしょうか。
復活について確信があまりない状態で、
私たちが生きているこの世の中は緊急に解決しなきゃいけないことがいっぱいあるし、
また世の中で魅力的で挑戦したいものがたくさんあるから、
復活、栄光、復活の希望、これは後々考えて、
今世の中でまず金持ちになり、今この役で成功し、今この役でうまくやろうとする、
この世の中の希望で満ち溢れているのではないかということです。
皆さん、復活は世の中の栄光とは比べられないほどの素晴らしいことです。
21:06
世の中の栄光はあってもいいしなくてもいいんです。
しかし私たちは、私たちは間もなく私たちが与えられる復活の素晴らしいこの輝かしい栄光を、
今、皆さん何年後ですか。今私はこれからどのくらい生きると思います。
10年になるか20年かわかりません。
この後すぐ私はこの復活の栄光、復活の希望、復活のこの素晴らしいところに参加するものですから、
後ほどのものですから、今これは私の皮膚に当たったような気持ちで今皆さんに申し上げていることなんです。
私はキリスト社は世の中のことには夢中になっているのに、
間もなくあるべき復活に対してはどれほどの希望を持っているのかということです。
パウロは叫んでいます。だから早く天国に行きたい。
私がこの世に生きる理由はあなたたちのためですよとこれをいつもパウロは言っているところですね。
パウロは早くそこに行きたかった。でも私たちはどうですか。
イエス様後々来てください。今来たら困りますよ。
またこの世の中で何とか何とかうまくやろうとやっている私たちの姿ではありませんか。
ですから復活の希望に満ちあわれてこの世の中で生きていこうということを
私は皆さんにもっと加えて申し上げたいと思って少しもっと考えていたところなんですけど
皆さん私たちの復活の姿はイエス様の復活の姿になることです。
マルコイ中六書にはイエス様は十字架に亡くなられて
それから十一弟子が自分の家の門を閉めてその中に隠れて
そこで食事をしているときいきなりイエス様が現れました。
復活されたイエス様は時間空間の制約を受けられません。
その壁を通して帰ってくるんです。
素晴らしいイエス様に会ってからみんなが驚いて弟子たちは変わりました。
そして大胆な明かし人になったんですけど
皆さん私たちがこのような神霊な姿で変わることを期待されませんか。
マルコイ九書にはペテロ、ヤコプ、ヨアネ三人を連れて
イエス様が高い山に登られました。
そのときイエス様は元々の姿で変えられたと言うんですけど
そこに現れた二人の人がいました。
どなたですか。
24:01
モーセイとエリアでした。
昔々死んだ人です。
昔々死んだ人が今イエス様と一緒に復活の姿でお話をしているんです。
その姿を見たときに
世の中で選択する人がこれほど白くできないほど
輝かしい光が出るこの姿で
イエス様とエリアモーセイが話をしているんです。
そのときペテロが自分自身を忘れてしまって
主よここで住みましょう。
家を建てて住みましょうというところなんです。
皆さん私たちがモーセイとエリアのような輝かしい姿で
私たちがいつも死体を求めるイエス様
愛するイエス様と
私たちがいつも愛していつもお話できる
このような姿に変わっていく
皆さんこれは理解できますか?
またシロ行伝6章7章
パウルとステパノがイエス様に出会いました。
人々が一例打ち殺しているところで
天井に立っておられるイエス様に出会ったんです。
この復活されたイエス様の輝かしい姿で
ステパノはこの愛の姿をそのまま受け入れて
自分を石で打ち殺す人々に対して
イエス様彼らを許してくださいという話をします。
私がなぜこれが欲しいのかと言いますと
今まで牧師は愛がない
牧師は愛がないという話をたくさん聞いていました。
愛をしようと頑張りました。なかなかできませんでした。
どうすればできるか
どうすれば愛が満ち溢れる牧師になれるか
そうです。復活された愛に満ち溢れたイエス様に出会うとき
この愛が私たちに伝えられて
私が愛に満ち溢れる人になると私は信じています。
ぜひとも愛に満ち溢れた牧師になりたいです。
また、使徒ヨアネは牧師録で復活したイエス様に出会いました。
復活されたイエス様が自分にお話しされるとき
牧師録1章17節
光と栄光に輝かしいイエス様を見て
このイエス様の足元に倒れてしまって
まるで死んだ人のようになったということです。
強力な光、栄光の光に圧倒される姿でした。
私たちはこのような姿に変えられるということを信じますか。
27:02
牧師録19章では
使徒ヨアネが牧師録を伝えてくれた天使の前に
拝もうとするんです。
だから天使を私に拝んではいけないと言うんですけど
皆さん、私たちは天使よりもっと栄光に輝かしい姿として
変わっていくんです。
光よりもっと明るい栄光に満ち溢れた
このイエス様の姿、私たちの姿になります。
このような復活の栄光、復活に対する希望があるなら
私たちが死のうということが恐れなんでしょうか。
むしろ早く死にたい、早く天国に行きたい
イエス様のもこに行きたいと思いませんか。
またもしその復活の信仰を今この地上で
今私たちが持つようになるんだとするなら
どれほど大胆な力を持って私たちの信仰生活ができますか。
罪が問題ですか。サタンが問題ですか。
世の中の心配、悩み、いろいろトラブルが問題ですか。
一切問題にならないと思います。
ダビデはこれを経験しました。
死の行伝2章25節、26節を見ますと
ダビデがイエス様に出会ってこのような告白をするんですね。
私はいつも目の前に主を見ていた。
ダビデは旧約の人なのに主を見ていたというんです。
主は私の右におられるので私は決して動揺しない。
だから私の心は楽しみ舌は喜びたたえる
体は希望のうちに生きて生きるであろう。
ダビデはこの世で生きながら
旧約の時代にいたのに
彼は復活の信仰によって生きたんです。
だからダビデはこの世の中で
怖いことも羨ましいこともありませんでした。
イエス様だけで十分だったんです。
そして彼はこの自分の右に立っておられるイエス様によって
彼はいつも勝利勝利勝利の人生を過ごしました。
復活の希望を持っている人は死んでもいい。
生きていてもどこにいても大胆に
サタン引き下がれ
主よお前の棘はどこにあるのか
サタンを叱りながら
どこでも復活の信仰によって
勝利の人生を過ごすことができるでしょう。
願わくは私たちも復活の信仰
復活の希望を持って
今この世で
天国に行ってこの力を持つのは当たり前だけど
今この地上の上で
今この復活の信仰
30:00
復活の栄光
イエス様の輝かしい姿に照らしてもらって
その力で今を生きていく
私たちになる
そのためには
聖霊様復活なさったイエス様をもっともっと照らして
もっともっと知らせてください
今弱い私嫌なんです
今躓き
今いろいろ過ちだらけの私が嫌なんです
死を聞いてください
私に豊かに望んでください
この祈りをとともに
いつもいつも復活なさったイエス様を
目の前に
いつも私の右にともに生きる
私たちになりますように
お祈り出します
ハレルヤ主よ
4月の復活
メッセージを通して
復活の信仰
復活の希望
復活の栄光
どれほど素晴らしいか
示してくださってありがとうございます
今弱い
足りない
また過ち
罪で悩んでいる私たちなんですが
生きている私たちが
復活イエス様に出会って
イエス様のような
愛と恵みと
イエス様のような力に
豊かに満ちあうれ
大胆な神の子供として
生きる私たちにならせてください
また復活なさって
イエス様はいつも旅でのように
私の右に
私の内に
一緒におられる
この人生
どれほど素晴らしいでしょうか
聖霊様
もっともっと私たちに照らしてくださり
いつも勝利の人生を
過ごすことができるように
させてください
イエス様の皆を通して
お祈りいたします
アーメン
アーメン
31:56

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