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皆さん、改めておはようございます。先日は皆さんに祈っていただきまして、大阪の駿見六次教会の春の聖書講演会を無事させていただきまして、
無事帰ってきました。お祈りありがとうございました。感謝いたします。では、隣の方と挨拶しましょうか、皆さん。
はい、それでは一つお祈りいたします。
あなた方のあった試練は、皆人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなた方を耐えられないほどの試練に合わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてください。
アーメン、主よ、この朝もこの世に来て、神の人々を主の教会に集めてくださって、本当に感謝いたします。
神の恵みなくしては一瞬も生きられない私たちですが、主の恵みによって私たちは生かされ、恵まれ、主に祝い、また家族をもって過ごし、祖父母をもって過ごし、また主の教会の中で恵まれ、養われ、生としておること、本当に主を感謝いたします。
この朝も、神様御自身が、御様御自身が、我々に主の言葉を、主をどうぞお語り下さいますよう、我々は心を低くして、純粋な心、素直な心をもって、渇き切った心をもって、主の言葉をいただきますよう、イエス様の御覧によってお祈りいたします。アーメン。
今日は、シリーズ説教の、私は神の作品、9番目です。誘惑に引っかからないために、でございます。
私たちは今まで、大きなテーマ、私は神の作品というテーマに沿って、多くの内容を聖書から教えていただきました。
今日はですね、9番目ですけれども、今までの内容を簡単にですね、複出してみたいと思います。タイトルだけになると思いますけれども、1番目では、神がなぜ私を救られたのかを知ろうという内容です。
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2番目は、こうはなりたくない自分ということ。3番目は、御様の流れを見つけるというテーマを2回に分けてお話をしました。
5番目は、神にあてわたし続けるというテーマでした。6番目は、御様による思いということです。7番目は、どうやって聖書からやき直れるかでした。
8番目は、日常の言葉を祈りに変えるということ。そして今日は、9番目として、誘惑に引っかからないためにというテーマになりました。
大体覚えていらっしゃいますでしょうか、皆さん。そんなことがあったっけですか。ありました。
そのときそのときですね、神様が語ってくださって、皆さんの魂を養ってくださったと、私は信じて感謝しております。
そのセリフはこれです。神様が私を作られた目的を正しく知って、そして救いに招きくださったその目的にふさわしく生きる、その中で神の栄光をあらわす神と一人一人となるためであります。
その中で私たちが超えなければならない、あるいはクリアしなくてはならないことがあります。それは誘惑のことです。いわゆる罪のことです。
私たちはですね、生きている中で多くの誘惑に晒されていると思うんですね。子供も青年も、少年も、婦人も、男性も女性も、神徒も御会社も皆。
どんな誘惑があるのでしょうか。たくさんの誘惑があるかもしれませんが、その中には人を批判すること、あるいは人を判断すること、あるいは傲慢、あるいは妬み、あるいは染み、あるいは実際のことで因数の問題、物欲の問題、あるいは負け方、性欲の問題、
あるいはやりすぎの怠惰、あるいは挑発、あるいは暴力、暴言、あるいは金銭の誘惑、たくさんの誘惑があると思うんですね。
今日は私たちはクリスチャンになってからも、我らの周りにそういった誘惑が、もうぐるぐるぐるぐる回っていると思うんです。
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ところが早速、どうしたら私たちは救われたクリスチャンとして、今日のタイトルのように、誘惑に引っかからないためにはどうしたらいいんでしょうか。
今日は大きく四つのことを分けてお話しさせたいと思います。
まずその一つは、自分がどれだけ大きな罪人であるかを知ることです。
今日の御言葉に、パウロ先生は、あのギリシアにあったコリント教会の信徒たちに手紙を送って、
彼らに大きく四つの罪を指摘というかして、そこに引っかからないように注意してほしいという手紙でした。
そのタイトルだけ二末と七末の偶像通廃のこと、八末にある肝炎の誘惑、九末にある種を試みる誘惑、そして十末にあるつぶやきの誘惑。
古代のコリント教会だけではないでしょう。今日の私たちにもいろんな誘惑があるんですね。
だからパウロ先生は、このコリント教会にあなた方の中にあるこの誘惑による罪を犯さないように、
まず自分たちがどういう罪に落ちているかを正しく知りなさいということです。
ですから皆さん、私たちが誘惑に引っかからないためには、まず第一のステップとしては、我々自分自身がどれだけ多くの罪人であるのかをまず認めること、知ること。
少なくない場合、誘惑に落ちてしまって罪を犯す、この罪のことを軽く処理してしまう場合には、自分がどれだけ大きな罪人であるかを知らないでしょう。
自分がどれだけ大きな罪人であるかを知るためには、自分の罪と直面することです。向き合うことです。捨てないで、騙さないでということです。
私は普段 いろんな先生方の いろんな教会のメッセージを教団 教は関係なく聞くようになりました。
進学生のときには いわゆる教路派の進学をできたから 教路派だけが正しいというか 合っているというふうに思ってしまって そこばかり聞いていたわけですけれども 今はそうではありません。
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また やっぱり もちろん 日本語の説教や日本の先生方の説教も ホーリネスやあるいは解策派 もちろん教団の先生方のメッセージも よく聞いたり見たり本を読んだりしている中で
また皆さんが日本語で聞くと 僕で聞いてほっとすることがあるでしょう。
私も韓国人がどう言っても 韓国の説教を聞きたくなるわけなんですね。
多くの先生方のネットで聞いている中で ある先生方のメッセージの中にあった罪の問題に対する その教会の進度さんのあたりを三つちょっとまとめてみました。
この方々は最初は自分がどれほどひどい罪人であったのか知らなかったところが 本当に精霊の恵みによって 神の恵みによって 自分の罪に向き合って そして悔い改めて新しく生まれたですね その方々のお明かしです。
ある別教会の長野さんの話です。 この長野さんは長谷平長野として教会で過ごしている中で お酒 飲酒の罪を軽く思ってしまいました。
ことのためによくお酒を飲むことが多くありました。 家にいても飲むことがしょっちゅうありました。 あるいはビジネスのために接待のためにお酒を飲んで 女遊びをして それでも悔い改めまわっているつもりなんだけれども それが振り返っていた。軽く取り捨てしまった。
ところがそのときに自分の罪がどれだけ汚れたもので 修学のものだったのか聞けなかった。その罪と直面していなかった。 そして何かのきっかけとして 本当に自分がどれだけ汚れたものであるのか。
長谷さんは徹底に悔やかめて その飲酒の罪を引っ張りと断ち切って そしたら不思議にもオプションとの関係も回復されて 教会でもとろどろして尊敬されるようになったというお明かしです。
またある大教会の話です。今度はある大学の総長をしている質疑の話です。教会で一生懸命にいろんな報告をしていましたけれども 自分は大学の総長をしていながらも いわゆる十分の一の研究を月に円にしたら1万円、2万円しか捧げていなかった。
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数年とが数年の間、彼の言葉ですよ。 神の献金を盗んでいながらも 信仰の良心に価借1個しか感じていなかった。
神の献金を盗んでいるという罪の深刻性を悟っていなかった。不意改めたこともなかったそうです。
その方がその教会で開かれた聖会、そこで神の力強いメッセージを聞いて、徹底に悔やためて、自分はその者だと悔やためて、その場で神の献金を盗んだことをすべてお捧げしたそうです。
その後、彼は二度と神のものを盗んだことはなく、そして尊敬される父父として、夫として、お父さんとして、また大学の総長として信仰生活を送っているとお伺いしておっています。
また、北にある外教会の信徒さんの話です。これは青年の話です。結婚を予定していた姉妹と付き合っていましたけれども、もうしょっちゅう暴力を振るっていったそうです。
悔やためはしていたというつもりでしたけれども、その暴力と暴言はやめなかった。その罪がどれだけ深刻なものなのか、直面していなかった。
ところがその中で、その僕先生と弟子訓練の聖書学びをしていく中で、御言葉によって砕かれて、徹底に悔やためて、
そして彼の若子はその姉妹に行って、日本語に言うならば、誠意だって謝って、その姉妹はその虚偽を許して、そして今は恵みのうちに信仰生活をしていると私は知っています。
私が申し上げたことは、この方々の共通点というものは、自分たちが犯している因数の誘惑、あるいはお金の誘惑、あるいは暴力、あるいは暴言の誘惑に引っかかったときに、
実は引っかかっているにも関わらず、自分たちが犯している罪のその誘惑の深刻性を知らなかった。悔やためをしても、もう軽く処理してしまったということだ。
皆さん、我々はいかがなんでしょうか。もしも、お酒の誘惑、あるいはお金の誘惑、あるいは性的な誘惑、あるいはこのコリント教会のような、偶像崇拝、叛逸、朱穂心見る、つぶやきといった誘惑、傲慢の誘惑、怠けの誘惑に、
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我々は本当に自由になって、まず第一のステップとしては、その誘惑に引っかからないためには、あるいはその方の誘惑に負けないためには、自分自身がどれだけ大きな罪人であるか、それをまず悟ること、知ること、そこになります。
私の政策の人物、ダビデのことをちょっとお話ししたいと思います。ダビデは、自分がどれだけ大きな罪人であるかを四篇の51編に、こういうふうに告白して、いわゆる懺悔、悔やためをしているんですね。ちょっと政策を開きましょうか。四篇の第51編です。
私の政策では954ページです。そこの評判を読みますと、「指揮者のためにダビデの参加、ダビデがパセシェバのもとに通った後に、ウベンチャーナさんが彼のもとに来た時。」とあります。
つまり、皆さんご存知でしょう。ダビデは絶対権力を持っていた王として、人の妻パセシェバが通って、寝て、子供ができてしまって、その間違いの罪を犯してしまった。五輪道教会と同じですね。
そして、それを隠すために、その本当に求実な妻、部下のウリアを先祖に送ってしまった罪があった。知らんぼりをしていた彼は、その罪に向き合って側面していなかった。
ところがですね、ナカンがある日、彼のところに来てですね、その時にそのナカンの話を聞いて、ダビデはそこですぐに食い上げたのです。その時に彼が食い上げた時の、このね、難儀の使徒と言いましょうか。それがこの51編なんです。ちょっと私が読みますので、しばらくご覧くださいますか。
1節。神よ、御恵みによって私になさっておかけ、あなたの豊かな憐れみによって、私の草木の罪を拭い去って下さい。
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ダビデは自分に、本当に草木廃棄の罪があることを認めて、それからどれほど深刻なものなのかを認めて、主よ、この罪を拭い去って下さいと求めているんですね。
2節。どうか私の徒がを私から全く洗い去り、私の罪から私を清めて下さい。自分の徒が、罪があることを主の御前に認めて、それを清めて下さいと求めているんです。
3節を一緒に読みたいと思います。
3節。まことに私は自分の草木の罪を知っています。私の罪はいつも私の目の前にあります。
これなんですね。ダビデは自分が罪人であること、その草木の罪がいつも自分の目の前にあることを知っていて、それを認めて神様に助けて下さいと叫んでいるわけなんですね。
さあ、戻りましょう。このようにダビデは自分がどれだけ大きな罪人であるか、神の御前にそれを食い渡げて認めて知っていること、そこからダビデの回復はそうから始まりました。
どうか願わくは皆さん、この四篇五十一篇、この四篇がですね、願わくは私と皆さんお一人お一人の心からの食い渡げの告白でありたいと願っております。
自分自身がまずどれだけ大きな罪人なのかを知ること、それが救いの始まりです。そして聖歌の第一ステップではないでしょうか。
なんとかって御言葉を読む中で、あるいは説教を聞く中で、あるいは聖歌に行って中で、あるいは祈りの中で、これを取らなければならないでしょう。
この全託のプロセスを我々が通り抜けるときに、我々は神の形を深く察していただき、そして神の作品として私たちは新しくされる恵みに厚くあることができるのではないでしょう。
二番目。誘惑に引っかからないためには、まず二番目です。誘惑に引っかかったときに、その罪の結果がですね、どれだけ悲惨なものなのかを知ることです。
これがですね、なぜ大事なのかを申しますと、罪のゆえに我々は神の形を、神の品性を失ってしまいました。
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それを回復するためには、誘惑に引っかからなければならない。
でも、誘惑に引っかからないためには、私たちは時々あるいはたまに誘惑に引っかかってですね、罪を犯すことがあり得るものですから、そのときにその結末が、罪がもたらす結末がどれだけ悲惨なものなのかを知ることです。
目を背けることをしないことです。
こうして神の品性が、神の職人として作られた私たちが日々新しくしていただけるということです。
生徒の中に、旧約生徒は、罪がもたらすその結末がどれだけ悲惨なものなのかをですね、とてもリアルに語っているんですよ。
誘惑に陥って罪を犯してしまった人々の結末はどんなものだったでしょうか。
イスラエルの人々は、カナンに入る前に、神様の申しを通して、あの市内さんでの立法を通して、また私たちの職人ですね、新暦がそのメッセージですけれども、大きく3回も長い、いわゆる勲告を、勧告をしました。
カナンに入ったら、そこにはたくさんの偶像があるのよ。そこに拝んではいけませんよ。まだ堕落した聖的な罪を犯してはいけませんよ。と語られました。
しかし彼らはどうだったでしょうか。カナンに入って、彼らはそこのカナンの原住民の偶像を拝んでしまいました。
聖的な罪を正義に犯してしまいました。死の避けた人たちをからかって、迫害って、殺すことまでもありました。
その罪をもたらした国家は何でしょうか、皆さん。もちろんですね、神様がすぐにですね、大きな刑罰を与えたわけではありません。
この点にも申し上げましたけれども、イスラエルの人々が地元から出た時が、だいたい1,000BCですよ。紀元前1,451年、そのあたりと言われます。
そして、このイスラエルの住民が彼らがですね、それを食い温めないでおかしてしまって、そして神様がこのイスラエルという国を分かれてしまった北イスラエル、南イスラエルを全く滅ぼしてしまって
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この地球上からなくしてしまったこの刑罰は、1,586年なんです。
そうするとですね、だいたい860年間、神様は忍耐強く、食い温めるチャンスを与えてくださった。猶予の時間を与えてくださった。
そしてですね、それだけではないですよね、多くの元素を使わせてくださいました。イジャヤを、エレミヤを、ホセヤを、送って送って送って、そして食い温めができるように促して語って続けてくださった。
ところが、彼らは変えることをしなかった。その結果は何でしたか。滅亡、滅びということでありました。例外はありません。
神様は恵みの神でありながら同時に、正義の神でもありました。罪を忌み嫌われるお方です。ですから、私たちもその罪を忌み嫌うべきであります。誘惑、罪を軽々しく考えたり、処理してはいけないということ。
旅で分かりました。自分が人殺しの罪を、関与の罪を、偽りの罪を犯してしまった、その結果がどれだけ悲惨なものだったのか。
もたらされるものは、別れであって、恥であって、破滅であって、すべてを失ってしまう。自分の魂は深い、そこしらの、知らぬ、もう盆底にですね、落ちてしまうことである。
もう一度、回復するためには、どれだけ多くの苦しみを、涙のトンネルを通過しなければならないのか。旅ではそれを知りました。
皆さん、日本は地震が多い国ですから、地震が起きたりすると、警告の音が鳴るんですね。携帯にもすぐ来るんですよね。テレビより携帯の方が早いんですね。
結構前ですね、昼間に神戸にちょっとした揺れがあったときです。そのときですね、ちょうど私、月に一回学びかけていた選挙区たちと、ある食堂で福寿をしていたんです。
ところがですね、あの食堂に行った携帯を持って行くとですね、一斉にですね、ひひひひひひひひひですね、警告音が鳴ってですね、その後揺れたんですね。
すごいなと思います。揺れる前に警告音が来るわけですけれども。もしもですね、もっとひどい、避難しなさい、避難しなさい、津波が来ますよ、地震が起きますよと、そう警告の音が鳴る。
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テレビでラジオでそれが鳴るとしたら、皆さんどうするんでしょうか。いやいや、もう泣いたわけじゃない。大丈夫、大丈夫。もうそうするんでしょうか。そうではないでしょう。
逃げるでしょう。逃げるわけなんです。大丈夫よ、まあいいですよ。そこにいた人は、もしかしたら命を失うかもしれない。
聖書を語っています。罪の報酬は知り合い。あたさきが誘惑に引っかからないためには、罪がもたらすその悲惨な結果を知ることです。
3番目、誘惑に引っかからないためにはどうしたらいいんでしょうか。それは、1番からつなげて申しますと、まずは自分自身がどれだけ大きな罪人なのかを知ること。
そして自分の穢れた罪と匿名して、そしてその罪がもたらす結果の悲惨さを知って、そしてその上で神様を、イエス・キリストを、聖霊様を愛することです。
ちょっと聖書を開きましょうか。新約のマルコの福音書12章30節。マルコの福音書12章30節。92ページですね、私の聖書。
30節をご一緒に読みたいと思います。
心を尽くし、思いを尽くし、姿勢を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。アメン。
これが何でしょうか。29節を読みますとイエスは答えが出た。
一番大切なのはこれです。イスラエルよして、我らの神である主は唯一の主である。
皆さん、我々が信仰生活をしていく中で一番大切なのは何でしょうか。神を愛することです。
心を尽くして、思いを尽くして、姿勢を尽くして、力を尽くして、私の神である主を愛することなんですね。
私たちはここまで進んでいかなければならないでしょう。
留学に引っかからないためには根本的に神を心を尽くして、思いを尽くして、姿勢を尽くして、力を尽くして、神を愛すること。
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ちょっと待って。自問自答をしていただけますでしょうか。もしもイエス様がこの場においでになさって、
私があなた方に語られた、心を尽くし、思いを尽くし、姿勢を尽くし、力を尽くして、
あなたの神である主を愛せよと語ったよね。あなたは愛しているのかと、もしイエスの方においでになって、
そう呼ばれながら我々はどういうふうにお答えできるのでしょうか。
そうです。私は心を尽くして、思いを尽くして、姿勢を尽くして、力を尽くして、あなたを愛してきましたと答えられるクリスチャンになりたいですね。
アメリカにA.W.Todaという先生がいました。この先生はこういう話をしました。
私たちが罪の誘惑に時々引っかかる原因は、
罪の誘惑が強いからというより、神より、イエスより、聖霊様より、罪の誘惑を好むからだと言いました。
本当にそうかもしれません。
怠けの誘惑、たかぶりの誘惑、あるいは妊娠、さまざまな他の誘惑を見ても、あるいは牽制の誘惑を見ても、
実は神より、イエス様より、聖霊様より、罪をもっと好むから、その誘惑に引っかかるのではないでしょうか。
だから私たちは、イエス様が与えられたように、心を尽くして、思いを尽くして、聖霊を尽くして、力を尽くして、死を愛することです。
これができるならば、勝利できると信じますね。
初代教会の監督であったイレニウスは、こういう言葉を残していました。
いずれにせよ、私は日本語に訳していたものですから、いずれにせよ、我々の身体は死んだら死に帰るものだ。
だからこの身体を持って生きている限り、私の愛する主イエス、キリストのために、この身体を持ちさせていただいて、
引き摺り減って亡くなってほしいと言いました。
そうなんですよね、皆さん。いずれにしても死に帰るものになるんです。
そうするならば、この身体を持って神のために持ちさせていただいて、主の教会のために持ちさせていただいて、引き摺り減って亡くなってほしいと言いました。
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なんと素晴らしいことなんですよ。
皆さん、神を愛すること、イエス、キリストを愛すること、聖霊様を命を尽くして愛することこそ、誘惑に引っかからないための根本的な力ではないでしょうか。
だからペテロさんが、イエス様を知りません、知りません、知りません、と言いながら、何もかもやめて、
愛のイエス様はわざわざ、ガリリの寮をしているペテロのところに訪ねて行かれて、
イエス様がその時にペテロに聞いたその声は何でしたか、皆さん。
あなたはこの人たち以上に私を愛するか、この時にペテロは言いました、主をあなたはご存知です。
主をあなたはご存知です。私があなたを愛することをご存知です。
その時にイエス様は彼に、私の羊を飼えなさい、素晴らしい使命を彼に与えてください。
皆さん、主を愛することこそ、誘惑にしっかからないための根本的な力です。
最後の4番目です。
ところが、罪の深刻性を育って、罪と向き合って、力を、思いを、知性を、心を尽くして神を愛することは、
それがどうやってできるんだろうかということですね。
それは、ただ、精霊の力によってのみできることであります。
ここを説明いたしましょうか。
新約聖書のヨハネノ福音書、8章8節。
新約聖書のヨハネノ福音書、8章8節。
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新約聖書のヨハネノ福音書、8章8節。
これはイエス様が天に昇られた後、神様が使わせてくださる精霊様のことですね。
8節のその方は精霊様のことです。
8節を一緒に読みたいと思います。
その方が来ると、罪について、義について、裁きについて、世にその誤りを認めさせます。そうです。
精霊様が来ると、世に、この世に、我らにですね、その罪を、誤りを認めさせるということです。
だから、我らが自分の罪を認めること、罪の深刻性を悟ること、あるいは神を愛することは、どうやってそれができるんだろうか。
精霊によってのみ、ということであります。
これが実際に起きたことが、ペンテコステなんですね。
そのところをちょっと開きましょうか。その働き、第2章を開きましょう。
箇所はですね、まず、36節から皆さんはご覧ください。
しっぽの働き、第2章、36節からです。
私の精査では、230ページです。
この時に、上様が天に昇られた後、50節の日に、約束の精霊様がおいでになりました。
その場に集まっている人々に、ペテロがメッセージを語りました。
そのメッセージの最後のところに、こういう言葉があります。
36節、私が読みました。
ですから、イスラエルの全ての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。
すなわち、神が今や主ともキリストもされたこのイエスを、あなた方は十字架につけたのです。
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そこに集まっているユダの人々に、あなた方がキリストを十字架につけました。
その時に、精霊様は彼らの罪を認めさせてくださるんですね。
37節、人々はこれを聞いて心を捧げ、ペテロと他の人たちに、兄弟たち、あなたたちはどうしたらよいのでしょうか、と言って、38節、一緒に読みたいと思います。
そこでペテロは彼らに答えた。
悔やためなさい。そして、それぞれ罪を許していただくために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。
そうすれば、様者として精霊を受けるでしょう、とありました。
そしてですね、彼らはどうしたんでしょうか、41節を見たら、そこで彼らの言葉を、あ、彼の言葉、このペテロの言葉ですね。
受け入れて、受け入れた者が、バプテスマを受けたその日、3000人ほどが弟子に加えられた、ということです。
どうやって一日に3000人がですね、悔やためで弟子に加えることが起こるんでしょうか。
精霊の働きによるものでしょう。
あるいは、さっきのヨハネの16節の8節のように、罪を認めさせる、悔やためさせるのは、神の霊である精霊による働きでありますから。
精霊様は神様です。
ですから私は、精霊の働き、精霊の力を求めなければなりません。
精霊に満たされて、この人の働きの人々のように、我々の心の目がはっきり見えるようになって、
まずは自分自身がどれだけ大きな罪人であるかを知って、
罪の深刻性、悲惨さを直視して、そして悔やためて、罪の誘惑を嫌うものになって、
そして心を尽くし、思いを尽くし、姿を尽くし、力を作って、我々の主を愛すること。
最後に一箇所だけ開いて、メッセージを終えたいと思います。
新約のテサロニケの手紙第1号書23節です。
テサロニケの手紙第1号書23節です。
最後にこの希望の言葉を握りしめていただきたいんですね。
23節、これ合わせて大きな声でお読みしましょうか。
平和の神御自身が、あなた方を全く聖なるものとしてくださいますように、
主イエス・キリストの来臨のとき、
責められるところのないように、あなた方の霊、魂、身体が完全に守られますように。
アーメン。
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皆さん、私たちはこういう言葉をしているんですけども、
お互い様、責められるところが多くあるかもしれません。
死もあって、謝りもあって、
さっきの私みたいに、セックスなのに過剰もまともにしていなくて、
慌てる、ミスもひかり、
時にはまたまた情報を教えて発信してしまったりですね。
あるいは、まだまだですね、責められるところが多くあるかもしれません。
しかしですね、平和の神御自身が、
私たちを、皆さんお一人を、全く聖なるものとして下さるんですね。
その神を、必要ない心を尽くして、思いを尽くして、知事を尽くして、愛していこうではありませんか。
そこが私たちが強く生きる力であります。
お祈りしましょう。