1. 名谷教会 podcast
  2. 2015/11/29:聖日礼拝(旧音源)
2015-11-29 32:47

2015/11/29:聖日礼拝(旧音源)

2015/11/29 聖日礼拝(旧音源)




00:01
みなさん、おはようございます。
今日もよくいらっしゃいました。
今日からアドベントに入りますけれども、
イエス様の御降参をお祝い、
また、そこから私たちに語ってくださる神の御言葉に耳を傾けていきたいと思います。
聖日礼拝に入る前にですね、一緒の質問のように周りの方に挨拶しませんか。
よくいらっしゃいました。
では一方、お祈りいたします。
愛する天皇父親の神様、この朝も神様がこの世にいて、
主の兄弟姉妹たち一人一人を覚えて、愛して、守ってくださって、
この主の礼拝に集まってくださり、賛美をもって主の皆を褒めたたえ、
また今から聖者の御言葉から神様の命と神様の光に照らしていただきまして、
生きる力が上から与えられますように、
一人一人の礼の中に主が優しく、また気づきを悟りを導きをお与えくださいますように、
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
今日は読んでいただきましたキリビタ手紙2章、5節から11節の御言葉から、
会話を受けと十字架というタイトルから、アドベント第一集の御言葉を共にお聞きしたいと思います。
私が専学生の時、大勢の教授先生がいらっしゃったわけですけれども、
その中に神論と人間の科目を教えていらっしゃったチェイという先生がおられました。
今年その先生は引退されましたけれども、
その先生の授業はまるで講義というより、とても素晴らしいメッセージを聞いているような気持ちでした。
その先生の授業が終わったら、いつものように進学者たちが、
03:03
今日もとても恵まれましたね、そうだよねと、本当によかったねと、
口を背負って話をしていたことがありました。
特にその先生は、イエス様のこと、特に十字架を語るときには、
いつも必ずと言っても良いほどですね、感情が込み上がってきて、
言葉も詰まって、お話できなくなってしまうくらいでした。
チリスの愛に圧倒されておられるんだなと思わされました。
その先生はですね、よくこうおっしゃっていました。
本当にもったいない。この私のために、と語ってですね、
神様の一人ごとあるお方が、この私のためにここまでよくしてくださったからには、
私はどうやってこの方の愛に報いることができるでしょう。
何を捧げても足りないくらいです。
というですね、抗議なのかメッセージなのか、
そういうお話をしてきておりました。
さて今日のピリビツの手紙の今日の箇所には、
まさにチリスとイエスが私たちのために、
いかにもったいないことをしてくださったのか。
そのことがよく告白されています。
今日からですね、アドベントに入りますけれども、
イエス様の講談を待ち望む、日本語で言うならば対抗説ですね。
教会ではこのようにですね、アドベントのときにチャンドルに火を灯します。
それぞれ意味があるわけなんですけれども、
1本目は希望、2本目は平和、3本目は喜び、4本目は愛を意味します。
また本当にするならば、1、2、4本は紫の色のチャンドルを使って、
3本目は赤のチャンドルを使ったりするようです。
ともあれ、このアドベントにイエス様の講談を思うたびに、
赤ちゃんの生まれのことを思いながら、
先週の礼拝において子供祝式が行われました。
20人以上の子供たちが来て、神様の祝福の祈りに預かることができて本当に嬉しかったです。
特にその中で、今年生まれて初めて来ていた赤ちゃんたちもいました。
06:06
僕の気持ちとしては、皆さんの気持ちもそうでしょうけれども、
毎週来て親子一緒に礼拝の恵みに預かってほしいなと思いつつ、切に願っておりました。
ところが赤ちゃんのことを考えてみたら、
家庭に赤ちゃんが生まれる、赤ちゃん誕生の出来事は、
その家族にとって本当に嬉しいことです。
赤ちゃんを見ていると、こちらまで嬉しくなってくるのではないでしょうか。
それは、赤ちゃんは生きるために生まれてくるからです。
その喜びが、その命が伝わってくるんですね。
ところが聖書は、
ミエス様は十字架に架かるために生まれて来てくださったと教えています。
今日の箇所でヒトファウルは、キリストは神の姿、すなわち神の身分ですね。
キリストは神の身姿である方だと語っています。
しかし、神の身姿であられる方が、
使える姿、すなわち下辺の身分となられたと語っているんですね。
解剖から始まるこのイエス様の生き方というのは、
私たち人間の生きる方向とは、
イエス様の生きる方向は、全く逆方向の歩みなんですね。
普通、赤先は生きるために仕事をし、
生きるために食事をし、
生きるために働きをしたりします。
そして、人はいろいろなチャンスを生かして、
なんとかして、自分の身分を高めようとしていくものです。
ところがイエス様は、神様であること自体を諦められて、
自分を無にされました。
しかも、ただ死んだだけではなく、
その不名誉で、むごい十字架系による死に向かって歩まれました。
人間として一番不名誉な形で、
罪人としてその地上の生涯を終わったということであります。
こうしたことを踏まえて、まず第一に注目したいのは、
解剖と十字架の出来事が起こった理由についてです。
09:04
なぜ神の一人子が会場桶に生まれ、
そして十字架で処刑されなければならなかったのでしょうか。
それは私たちの罪のゆえである、というのが聖書の教えです。
ここで旧約の聖書をちょっと開きたいと思いますが、
四編の130編を一緒に開きたいと思います。
旧約聖書1040ページです。
それではですね、一節から八節までですけれども、
私がお読み出します。
四編130編、一節。
主よ、塚康から私はあなたを呼び求めます。
主よ、私の声を聞いて下さい。
私の願いの声に耳を傾けて下さい。
主よ、あなたがもし不義に目を止められるなら、
主よ、誰が見舞いに立ち得ましょう。
しかしあなたが許して下さるからこそ、
あなたは人に恐れられます。
私は火を待ち望みます。
私の魂は待ち望みます。
私は火の御言葉を待ちます。
私の魂は夜回りが夜明けを待つのに勝り、
誠に夜回りが夜明けを待つのに勝って主を待ちます。
イスラエルよ、主を待て。
主には恵みがあり、豊かな贖いがある。
主はすべての不義からイスラエルを贖い出される。
これは兄弟に書かれているように、
宮古の御理の詩とありまして、
個人の嘆き、個人の悲しみを歌った詩です。
まず一節から見ていきますと、
主よ、深い淵から私はあなたを呼び求めます。
主よ、私の声を聞いて下さい。
と祈っているんですね。
それはこの詩編のどちらかですね、
神様との関係が立たれて、
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黄泉のような苦しみのどん底から、
主よ、私はあなたを呼び求めますと叫んでいるような仕方です。
同じく、私たちは日々の生活の中でさまざまな困難を経験したりします。
奇跡的な出来事、まさかと思うような出来事が、
時として私たちを襲うことがあります。
そのような時に、
私たちにもその詩人のように苦しみの場所から、
神様に向かって叫ぶこと、祈ることが許されているのです。
ところが、神に向かって叫ぶこの詩人の心に一つの不安がゆげりました。
それは三節のことです。
三節をご覧下さい。
主よ、あなたがもし不義に目を止められるなら、
主よ、誰が御前に立ち得ましょうとありました。
主が愛と慈しみのお方であると同時に、
聖なる公義のお方であることを、この詩人は深く知っていて、
その者の絶望の叫びのような言葉でした。
もし不義を、罪を、主が不義に目を止められるなら、
神の御前に立ち得る者は誰もいない。
許されないということなんですね。
ところが、そこで終わっていません。
続きます。四節をご覧下さい。
しかし、あなたが許してくださるからこそ、あなたは人に恐れられます。とありました。
皆さん、このしかし、しかしという、このつなぎの言葉が実は大事です。
聖なる神様が、私たちの罪を全て心に止められる方であるならば、
誰一人として神の前に正しい者、聖なる者はいないのです。
誰も神の前に立つことはできません。礼拝すらできないでしょう。
しかし、この詩人が言うように、歌っているように、主は私たちを許してくださるのです。
まさにイエス様は、私は罪人を裁くためではなく、許しを与えるためにやってきたと言われました。
15:02
これが福音ではないでしょうか。
そして続きまして、聖なる神様が許しの神であることを知ったこの詩人は、次のように告白しています。
御説明。
私は主を待ち望みます。
私の魂は待ち望みます。
私は主の御言葉を待ちます。
この、私は主を待ち望みますという神科学のこの訳は、
私は主に望みを、希望を置きます、というような意味であります。
自分のことを考えるときに、希望は見えない、見えだせない。
しかし、許しの神様がおられるからこそ、その神様に望みを置くことができる。
この希望に満ちた信仰につながっているんですね。
そして続いて彼は、六説。
私の魂は夜廻りが夜明けを待つのに勝り、
誠に夜廻りが夜明けを待つのに勝って主を待ちます。
もう、本願詩で、もう願って願って、説に願っていることが、
この夜廻りが夜明けを待つのに勝るという言葉です。
このような確信に導かれた主人は、
また、七説、八説をもって、
主にある兄弟姉妹達に入って、このように進めています。
七説をご覧ください。
イスラエルよ、主を、主を待て。
主には何がありますか?
恵みがある。
また、その次ですよ。何があるでしょうか?
豊かなあだ名がある。
主は全ての不義から、イスラエルを、
つまり、私を、あなたを、私達を贖い出されたと、
彼は結論で謳っているんですね。
主に希望を置き、主を待ち望んでいる者を、
慈しまれる主は必ずその者を、
主を全ての不義から、全ての罪から贖って下さい、
という力強い確信の表明のこと。
この流れを心に留めていただきたいと願っております。
第二のことは、
会場を受けと十字架には力があるということです。
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その力はどういう力でしょうか?
皆さんが普段考えておられる、
神の力はどんな力なんでしょうか?
それは、愛の力ではないでしょうか?
神の愛の力。
福音書によると、十字架の出来事の少し前、
イエス様の十二歴の中の、
ジョレダイの子ヤコブとヨハネが、
仲間の他の弟子達を抱き抜いて、
自分たちの出世を願った出来事が、福音書に書かれています。
これを知った他の十二の弟子達が、腹を立てました。
彼らもヤコブとヨハネと同じことを考えていたからです。
みんなトップになることを願っていた。
ヤコブとヨハネに限らず、
弟子達の歩みは、そこそこ五十歩、八歩です。
弟子達のことを考えてみたら、
イエス様と一緒に、あれほどの時を一緒に過ごして、
イエス様の奇跡や癒しを目の当たりにして、
また親しく御言葉をいただいていたにもかかわらず、
彼らは実を裏切ってしまったんですね。
しかし、福音書のストーリーは、そこで終わりではない。
それが実は福音であって、
彼らにも同じくその恵みが与えられているわけです。
もし福音書がこのストーリーで裏切った、それで終わりだったら、
もう私たちの希望がないんですね。希望を見出さない。
しかし、それでは終わりではない。
福音書のその後の続きがある。
それから、人の働きの続きがある。
実際彼らのストーリーが続いているわけですね。
しかしその後、彼らはどのようになったのでしょうか。
彼らはジョージカの愛を知りました。
そして、よみがえられたイエス様を通して、復活の希望をいただきました。
そしてその後、あのペンテコステの日に、
精霊をいただいた直後から、彼らは帰られていきました。
神様は仲間を押しのけて、
自分だけ特別の地位を取ろうとした欲張りのヤコブを作り返してくださいました。
そして神なりのことを言われる、あのヨハネを愛の人に変えられました。
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それが第一ヨハネ、第二、第三のヨハネ。
神の愛を深く知ったヨハネが、そこに描かれているんですね。
その同じ神様が、私も皆さんもお一人お一人を新しく作り返してくださるのです。
この真理を信じる信仰こそ、神に希望を置くものではないでしょうか。
私が変えられること、それは会話を経て十字架に示された愛の力によってです。
神様は十字架の上で、彼らは何をしているのかわからないのでいるのです。
しかし、神様、彼らの言動ではなくて、
彼らの心の奥底にあるその願いに応えてください。
彼らはあなたに許され、愛されていると知ることが必要なのですと祈られない。
この最後にですね、彼らはあなたに許されて、愛されていると知ることが必要なのです。
このイエス様の愛に触れた時、心のそこから喜びと力が湧いてくるのです。
そして固い心が砕かれて、飛ばされていくのです。
そして不思議な力で、その愛に応えていきたいと願うものへと変えられていくのです。
これが第三のポイント、会話を受けた十字架の結果そのものです。
ある時イエス様はこのように語られました。
多く許された者は多く愛するようになる。本当にその通りだなと思います。
皆さん、どんな人が多く愛することができるでしょうか。
まず多く愛された経験のある人ですよね。
例えば小さい時からお父さんからお母さんから本当に愛されて愛されて、
そして愛が何なのか知った人が大人になっても周りの人、子供、また自分自身を愛することができるようになるのでしょう。
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そしてもう一つは、多く許された人が多く愛するようになります。
例えば皆さん、子供は小さい時お父さんにお母さんにもうしょっちゅう怒られてなかなか許されていない。
もう一度怒られてばかりいて、
ああ、私はお母さんからお父さんから私は許されている気持ちをなかなか大人にまま育った人は、大きくなって大人になっても自分を愛することがなかなかできない。
しかし多く許された人は本当に多くを愛するようになる。
それが福音書の聖書のお話なんです。
許しの愛を実感する時、ああ、自分は神様に娘様に許されていると、その時に私たちの内側に喜びが湧いてくるんです。
そしてその許してくださった、その神様の恵みにも答えていきたい、どう答えたらいいのかという思うものに変えられていくんです。
それがペテロ、ヤコブ、ユハネ、あの弟子たちのストーリーなんです。
そして皆さんの私たちのストーリーではないでしょうか。人生のストーリーではないでしょうか。
その時、私たちはどのように答えていけばいいのでしょうか。
イエス様は、自分の十字架を覆って私に従って来なさいと言われました。
つまり、キリストユースに従っていくこと。
4番目にいきますと、私たちの喜びの源は、イエス・キリストに愛されていることです。
普段皆さんは、あるいは今朝、あるいは昨日、先週一週間、何のために何があって皆さん喜んでおられたんでしょうか。
普段の暮らしの中で、皆さんの喜びの源は、人生は一体何なんでしょう。
その喜びの源は、イエス・キリストに自分は本当に愛されている。
冒頭に申し上げた教授先生のように、もったいない。これほどよく聞けたにもかかわらず、私はどう答えたらいいんだろうか。
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その愛に圧倒されて答えていきたい。
そのキリストに愛されている、その経験を積み重ねていく中で、喜びが湧いてくるんです。
カエバオケに生まれて、十字架で命を捨てるほどに、私たちを愛してくださっている。その愛です。
そしてその愛は、一言で言うならば、許しの愛。
アドベントとは、クリスマスを迎える準備の時、主を待ち望む時です。
イエス・キリストを私たちの心の王座に迎える時。
私たちの人生の一番の中心に、このお方に来ていただきたいと心から願うその時が、実は皆さん、このアドベントなんです。
単なるクリスマスをお祝いする、その意味以上の使い意味があるわけなんですね。
主を、私のこの人生の人格の、ただ真ん中に来てくださって、私のこの全人格を、主を巣で納めてください。
私の王座に、主を落ちてくださいと願うその時が、実はアドベントなんです。
ですから皆さん、今年のアドベントを、おいしいケーキが食べられていいでしょう、パーティーをしていいでしょう。
でもその中で、必ずこの一つだけは覚えていただきたいんですね。
主を、私の人生の中に、私の生活の場の中に、私の人格の中に来てくださいまして、
私を、主を、私を丸々、主を巣で納めてください。
来てくださいとですね、その願いを持って、真正午後もアドベントでありたいと、そう願います。
私たちが、主にお仕えする者となるために、イエス様は、もとこんと、私たちに仕えてくださいました。
しのべの身分となって、私たちのところに来てくださいました。
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そして、私たちの心の中の渇きを癒されるまで、不安が平安へと変えられるまで、主がどれほど私たちに仕えてくださったのか、そのことを深く味わいたいと願います。
そのような愛に包まれているときに、その恵みを覚えているときに、お互いに励まし合い、愛し合う教会になれます。
その根本、その源が大事なんです。
私は常に許されている。だから自分を許す。また、人を許すことができるようになるでしょう。
ああ、あの影幕から十字架に至るまでのあの愛によって、私は自分を愛されている。だから自分を愛することができる。周りのどんな人をも愛することができるような信者へと変えられています。
そして今日のピリビテの手紙の箇所に戻りますと、この見言葉は最後にこのように進めています。
まず五節をもう一度一緒に読みたいと思います。
ピリピ、ピリピ書、二書、五節を一緒に読みましょうか。
二書の五節、五一緒に三愛。あなた方の間ではそのような心構えでいなさい。それはキリストイエスのうちにも見られるものです。
どんな心構えなんでしょうか。それは、神の身姿である方がしもべの姿になられたこと、ご自分を無にされたことですね。
この朝、イエス・キリストの身姿を知っていて、しもべとなられたその愛、そして十字架の勇気を覚えて、この見言葉を今日受け取り直していただきまして、キリストに習うものとして支えていただきたいと願っております。
お祈り致します。
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