じゃあ今日は、イエス様を愛することが一番大事ですよという題で、メッセージを分かち合いたいと思います。
夏の一番暑い時期、2週間続けて、 救い論と教会論について分かち合いました。
結局、結論は何だったんですか? 表裏を信じることではなく、
イエス様を愛することが一番大事ですよということを申し上げたんですけど、 それがうまく伝われたんでしょうか?
じゃあ皆さん、行為は神様が与えてくださったことではありません。
人間が聖書を理解するために、人間が作ったんです。
ですから人間の知恵であり、人間の教えです。
しかし、教理は完璧ではありません。不完全です。
カルバン主義の教理、 アルマニアン主義教理があるということを学びました。
しかし、カルバン主義の教理に従おうとするなら、 聖書の中で大部分を切り捨てなければいけません。
アルマニアン主義も同じです。 神様の御言葉である聖書を、
自分が作った教理を正当化するために、 切り捨てる、
これはあり得るのでしょうか?
ですから、教理を妄信することは非常に危険です。
以前学びました、バブ・ジョンス先生が
死んだんですね。天国地獄ということで、 証をしたことを私は聞いたんですけど、
天国の入り口で、シューッと見ていたんです。 天国の入り口でイエス様は質問されたという。
本当でしょうかね? 私はこれは、それが正しいのか、 まだ分かりませんけど。
天国の入り口で、あなたは愛することを学んだのか?
あなたは私を愛しているのか? よう聞いたそうです。
当時私は、イエス様を愛することで天国に入ることではなく、
信じるなら天国に行くんじゃないかと、 それを今まで学んできたから、
何が、どっちが間違ったのか分からない。
それで私は、動揺した時期もありました。
なぜ私が動揺したのか、私は聖書を信じたのではなく、 教理を信じたからです。
また、教会論も同じです。
夫婦がお互いに愛し合う一心同体であったから、 夫婦の美しさがあるでしょう。
同じように、教会は、頭であるイエス様と、 体の部分である私たちが、
愛し合う時、イエス様を愛する時に、 一体となって教会が建てられるんです。
要するに、私たちの信仰生活、 イエス様を愛するなら、信仰生活はやりやすいです。
イエス様を愛しないなら、信仰生活は難しいです。
今度の夏、皆さん大塚駅から教会まで来るのに、 大変だったんじゃありませんか。
しかし、皆さん大変じゃなかったでしょう。
なぜなら、イエス様を愛して、 イエス様に恋愛する時に来るのに、
愛するイエス様に出会う、この気持ちで心がドキドキして、 それで力が生じたんじゃありませんか。
そうです。愛する人に出会うために行く道は、 これは楽しいです。
出会ってどうしようか、何を話そうか、 いろいろ考えるでしょう。
ですから、愛するなら、信仰生活すべてが 優しい、楽になります。
では、どうすれば愛することができますか。 六華の七章四十七説。
たくさん許された人は、たくさん愛する。 許されたことがあまりなければ、愛することもあまりない、
ということを六華の七章には教えてください。
では、今日は、なぜイエス様を愛するしかないのか。
また、イエス様を愛するなら、 イエス様は愛する人に何になられてくださるのか。
それを一緒に考えていきたいと思います。 今日読んでくださった、聖書第一コリント一章三十節。
もう一度読みましょう。 神によって、あなた方はキリストイエスに結ばれ、
このキリストは私たちにとって、神の知恵となり、 貴と聖と贖いとなられたということです。
イエス様が私たちの知恵、貴、聖、
また、贖いになられるとはどんな意味なのか。 それを一緒に考えていきたいと思います。
今日、これを通して、イエス様がすべてだ。 イエス様愛することがすべてだということを、
ぜひとも考えられたらと思います。 まずは初めに、イエス様は私たちの知恵となるという
お見言葉です。 この世で住みながら、一番大事なのは知恵です。
知恵がある人は、 よく見てますと、無駄なことをしません。
知恵がない人は、 無駄なことがたくさんあります。
だから、無駄なことを解決するのに、 人生を、大切な時間を全部無駄遣いをします。
以前も申し上げたでしょう。 お友達が借金をするのに、お前、友達じゃないか。
保証人になってくれ。 ああ、いいよ。
保証人になってあげた。 ところが、その友達がお金をたくさん借金して、
いなくなった。消えてしまった。 だから、自分が
友達の借金したお金を返さないといけないから、 会社で働く毎月の給料、借金返しに、全部使っているんだ。
皆さん、 もし自分の子供が
友達の借金の保証人になって、 皆さん、今こんな状態だと、考えてみてください。
腹が立って眠れないでしょう。 なぜそうなったんですか。
知恵がないからです。 気の毒ですね。
ですから聖書の中で、知恵の章である神言。 神言4章7節をこう言っています。
知恵が一番だ。 知恵を獲得せよ。
これまでに得たものすべてを変えても、 分別を獲得せよ。
知恵と分別。 本当に大事です。
ヘンリブレイカビ先生は、この世は地雷畑、 聖書は地雷畑のマップだと言います。
この危ない、この世の中、 どうすれば一番安全でしょう。
ですからイエス様が、私は道であり、 真理であり、命であり、だから私に従いなさい。
私について来なさいと言われるんです。 ダビデは詩編の23編で、
主は羊飼い、私には何にも欠けることはない。 死の影の谷を行く時も、私は災いを恐れない。
なぜでしょう。主が私の羊飼いだから、 私の知恵になられるから、主について行けば何にも恐れることはないと、
ダビデはいつもこう言いました。 ソロモンは、一千頭の生贄を捧げる、この神捧げながら、神様に願いました。
イスラエル民は大勢います。私はその人を、 とにかく治める、何か知恵がありません。
私に知恵を下さい。 それで神様が知恵を与えて下さいました。
その知恵でイスラエルを統治しました。 その時が、一番イスラエルとして繁栄する時期。
その時どうだったか。歴代経の9章27節には、 銀、宝石が道端の石、石というように、道をあふれていた。
道端の石だらけ、それが、イスラエルの宝石が、 そんなにたくさんあったと言われるほど、イスラエルは豊かだったんです。
しかし、終わりの時に、自分の知恵を、神様の知恵よりもっと委ねて、
成楽結婚として、妻を一千人と得て、 空上崇拝をしながら、ためになりました。
ですから私たちは、始めだけではなく、 終わりまで、イエス様は私の知恵だと、
イエス様に委ねる、その生活をしなきゃいけないんですけど、 皆さん知恵をどのように得ることができますか?
イエス様と親しい愛の交わりの中で、 イエス様の見越えを聞き従うこと、これが知恵の道なんです。
要は、1章1節から3節は、イエス様は言葉と言いました。
この際、2章3節には、イエス様のうちには、知恵と知識の宝がいっぱい隠されていると言いました。
そのイエス様が、教会の頭です。 ですから、教会は、神の知恵と真理の御言葉が満ち溢れるところ、
毎週毎週、永遠の命を言葉が、 教会には、もう延べ伝えられます。
だから、皆さん、世の中どこにいて、 永遠の命を言葉を得ることができますか?
教会、素晴らしいです。 だから、教会にちゃんとくっついていって、
最善の生活、祝福の生活が何なのか、 イエス様の見事ばかり、イエス様に従う、
その生活を、私たちが、熱心にやっていきましょう。 これが、イエス様が、私たちの知恵となる、という話です。
第二ペトロ2章20節から22節で、こう言います。私たちの主、救い主、イエス・キリストを不覚して、
世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて、内に巻かれるなら、
そのような者たちの後の状況は、前よりもっとずっと悪くなります。
そこで、犬は自分が吐いたものに、ところに戻ってくる。
豚は、体を洗って、また泥の中に転んでいる、というような言葉が当てはまると聖書は言っています。
皆さん、イエス様を信じて、私たちは世の汚れから清くなりました。
キッドされた。新たに生まれた。しかし、また汚い罪の中で、
タバコを捨てた人が、タバコをやめた人が、またタバコを吸う。
お酒をやめた人が、またお酒を飲む。
麻薬を捨てた人が、また麻薬をする。
そうするなら、どうなるか、ということです。
ですから、私たちは、イエス様の家に、持続的に留まっていける。
ああ、たびたび、私はイエス様から離れる場合もあるでしょう。
そうするなら、早く悔い改めて、戻ってくる。
早く戻ってくる。これが大事なんです。
プドの枝が、プドの木から離れるなら、もう死んでいるということです。
早く繋がっていかなきゃいけないということです。
さあ、ここで、プドの枝が木に繋がる。
これが信じる、信頼する、愛する、みんな同じ言葉です。
ですから、私たちは、イエス様に家にいること、
イエス様に繋がっていることを、熱心にしなきゃいけません。
そうするときに、神様は私たちを、イエス様を通してみるから、きっとされた。
あなたは正しいと言う。
正しくないのに、正しいと言われて、いいね、素晴らしい。
ありがとうございます。恵みです。
みんな、私たちは、こう言っているのではありませんか。
そうです。
2番目、あ、3番目。
しかし、きっとされたことで、私たちの救いが全て終わったのではありません。
聖書は続けて、イエス様は私の生徒になられたと言います。
きっと、せいと、あがないとなられて、きっと、せいと、と言います。
イエス様は、私たち信じる人に、せいとなられるお方です。
この際、1章22節。
しかし今や、神は、みくの肉の体において、
その死によって、あなた方と和解し、
ご自分の前に、正なるものを、傷のないものを、
とがめるところもないものと、させてくださったと言います。
さあ、ここで、みなさん、きっと、せいの違いは何ですか。
きっとされたという、きは、これはきっとされたことです。
せいは、成果を意味します。
私たちが成果を求めるのに、私たちの目標が必要です。
気よくなれ、どこまでですか。イエス様までになります。
目標、また、モデル、ロールモデルが必要でしょう。
模範が必要です。それが、イエス様です。
イエス様は、私たちの信仰と、生活と、働きのすべての側面で、
私たちの目標、私たちの模範になります。
要は、8章34節から36節に、
イエス様は、私たちを自由にさせてくださるんですけど、
この自由が自由になるためには、私たちを清めて自由にされる。
清めないまま、臭くなっているそのどころで飢え、
イエス様を衣をかぶして、清くなったとしたら、
悪魔は、私たちを続けて、これを咎めるんです。
私たちは、続けて、訴えるんです。
皆さん、私たちは、心の中には悪魔から討たれ、
神様から、きっとされた。
皆さん、これが本当に自由になりますか。
自由になりません。
だから、衣を着させたとしても、
私たちの中身を清くされる働きを、
イエス様は必ずなさるということです。
これが、聖火ということです。
私たちはツインビットです。
私たちは、私たちは、自ら救われることはできない。
同じように、私たちの力で、
自ら清くなることはできません。
白人が、黒人が、頑張るんだって、白人になれますか。
どうすれば、私たちの内面が清くなれるのか。
そこで、みんなが頑張っています。
キリスト者なら、
聖霊様がおられるなら、みんながそこで負担を持っています。
じゃあ、ここで、中国の宣教師、
フォドスン・テイルの証は、非常に役に立ちます。
フォドスン・テイルは、どのようにして聖火ができたのか。
これをぜひ、知っていただければと思います。
フォドスン・テイルは、清くなるために、
お祈りもし、断食もし、悩みもし、決心もし、
聖書を読み、牧草をし、
自分ができるすべてのことをやってみたんですけど、
聖火はできなかった。
なぜなら、自分の心にはいつも、
罪意識、在籍感、
それで、サタンの訴えが、いろいろあったからです。