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2023-08-06 31:20

「手遅れの後悔と決断」2023年8月6日(日)のメッセージ

東京ぶどうの木教会 2023年8月6日(日)主日礼拝のメッセージです。
牧師:アブラハム黄
▼教会へのお問い合わせ:tokyo.vine.church@gmail.com
▼メッセージの自動文字起こしはこちら

https://listen.style/p/tokyovinechurch/anmagsor
▼動画によるメッセージ:
https://www.instagram.com/reel/CvlkNI-p1UZ/?igshid=MTc4MmM1YmI2Ng==

創世記-24エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。 22エノクは、メトシェラが生まれた 後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。 23エノクは三百六十五年生きた。 24エノクは神と共に歩み、神が 取られたのでいなくなった。

サマリー

年を取っていくと、人生がつまらなく感じることがあります。彼/彼女(あなた)は悔いや後悔を感じながらも、どのように人生を過ごすべきか考えています。それに加えて、彼/彼女(あなた)は愛の欠如や他人への奉仕の不足についても悩んでいます。彼/彼女(あなた)は失敗し、ひとつ悟ったことは、信仰の本質は教えることではなく、愛することだということです。彼/彼女(あなた)は改めて神様を知り、神を愛し、神と共に過ごす時間を増やしていくことを決めました。これは本当に大事だから、これ一つで。まだ興味のある方は彼/彼女(あなた)と一緒にやりましょうという気持ちがあります。なぜなら彼/彼女(あなた)も今は心の中で燃える心があるから言うけど、冷めてしまえばまたいつの間にか彼/彼女(あなた)もやっていない時が見えるかもしれません。その時皆さんから助言をいただきたい。

人生の最後をどのように過ごすか
今日は、「手遅れの後悔と決断」という題をもって メッセージを分かち合いたいと思います。
非常に暑いです。 息をすることが少し難しくなるほどですね。
この暑さの中で、私たちの子どもたち、 勉強をどうしているんでしょう。
また、職場の生活をされる皆さん、 本当にお疲れ様です。
その中で、私は年取っていきながら 他の苦労があります。
これは、記憶力がだんだん弱くなるということです。
記憶力のゆえに、いろいろミスも犯しているし、 また、いろいろ叱られているところにもあります。
昔、私は、私がいなければ世の中が回らないんじゃないかという気持ちで 熱心に働いたこともありました。
しかし、今はどこでも私を呼んでくれるところはありません。
私たちは、子どもたち、人生たち、 また、皆さんの踏ん張りを祝福しながら、
踏ん張りを祝福しながら、これから私たちは、 この人生の最後をどのように過ごせばいいかということを
いろいろ考えるところであります。
やりたいこと、また、私ができること、 何なのか、いろいろ考えるんですね。
人生は、私は若い時があったんですけど、 今はみんなそうなんです、年取っていくなら。
私は正直に、すべてがつまらないんじゃないかと、 つまらなく感じる時があります。
たびたび、私の息子が私に聞きます。
パパ、お金がたくさんできたら、何をやりたいの? 正直に私は、やりたいこと全くありません。
早く天国に行きたいだけです。 だったら、息子は面白くないと言うんですよね。
私はいつも考えます。この世の中で本当に大事なことが何なのか、
年取って生きながら、それをいつも思うんですね。
そうしながら、私たちはこれからどのくらいこの世で生きていくんだろう、
また、この残りの人生、何をしていかなきゃいけないんだろう、 いつも思います。
神の国と神の気を求めること
しかし、まず私は一つ信じることがあります。 マッタイの6章33節です。
何よりもまず、神の国と神の気を求めなさい。 そうすれば、これらのものは皆、加えて与える。
私は、人生に行われる全てのこと、私たちが求める全てのことは、 この御言葉に当てはまると信じます。
まず、神の国と神の気を求めるなら、 神様は私たちの全ての必要を満たしてくださるんだという約束、
私はこの約束はすごいと思います。 私の全ての人生の問題はここに当てはまります。
だから、問題の前に問題を持って心配するより、 ここで私がまず神の国と神の気を求めるんだということは、
何なのかを神様に聞いて、それを実践します。 そうするなら、神様は必ず私の必要を満たしてくださった経験があります。
だから、これから私が死ぬまで私の必要は、 神の国、神の気を求める限り、
この御言葉の約束通り、神様は全て満たしてくださることを信じます。 だから私は、私の必要をどうするか、これは心配しません。
もう一つ、年をとっていきながら、 私たちのキリスト社がいつも肝に銘じるべき御言葉があります。
これがヘブナーション9章27節です。 また、人間にはただ一度死ぬことと、その後裁きを受けることに定まっているようにと言います。
みんな一度は死にます。 この後、裁きがあるんだということを、私たちが覚えなければいけません。
一体、私はもう皆さんより裁きに近いづいていると思いますけど、 私は神様からどんな判決を受けるんでしょう。
イエス様は当時、私たちの牧師のレベルで一番信仰が良いと思った人がパリサイ人でした。
自分たちが一番信仰も良いし、神様も一番愛していると思ったパリサイ人たちに、イエス様はこう言われます。
ヨワネ5章37節、38節です。 あなたたちは神を知らないんだ。
神に出会ったこともないんだ。 あなたたちは心には神様に対する愛も全くないんだ。
だからあなたたちには永遠の命がないんだ。 イエス様はこう言われました。
皆さん、イエス様、最後の時の裁きは父なる神様が行われることではありません。
裁き主はイエスキリストなんです。 イエスキリストからこのような話を聞いたということは、
当時のパリサイ人の中で天国に入る人は誰もいなかったということです。
これは本当に厳しいお話です。 皆さん、神様の判断、ご判断は私たちはわかりません。
正直に私は今まで教会を愛し、 熱心に私なりに働いて、礼拝の準備、メッセージの準備、
聖書勉強会の準備、私なりには熱心にやってきました。 しかし今になって考えてみますと、いざ私が主人として拝んでいる神様に対しては、
おろそかにしてきたのではないかと、これを感じます。 また私は牧師として、
今まで私に出会った神と皆さんから、 愛がない牧師だという話をいつも聞いてみました。
これは私なりには私に対する不名誉的なお話です。 私は神様の前で言って、あなたは愛がない牧師だったなという、
そのお話を私はどうすれば挽回できるか、 これが私の課題です。
自己の欠点と課題
ですから残された私の人生の最後に、 このような課題を持って、
これをどう解決できるか、私は神様と真剣に、 真剣に出会ってお話をして、それを解決していきたいと思います。
夢のようなお話ですけど、 タビデが求めた一つのこと、詩編の27の4節ありますね。
命ある限り主の御矢に留まり、 そこで神様に礼拝する、それがタビデの一つの願いでした。
またインドの聖者ソンドシングの話通り、 イエス様をお祈りを愛すること、それが自分の心の全てにできる人生、
イエス様を愛することが自分の心の全てになることを、 ソンドシングを求めてきたと言います。
私は人生の今70に近くなって、 これを考えることは恥ずかしく思いますけど、
これから私の人生どう生きるか、 私はもう早く次の先生が来てほしい、
だから私たち教会、日本の教会になってほしいと、 いろいろ考えているところもありますけど、
私は最後の時に、少しお金を稼ぐためにアルバイトするとか、 もっといい幸せを求めるために、また別のことを求めるというより、
神様にもっと近づく、神様をもっと愛する、 このことを求めることが一番いいのではないかと思います。
ですから今日私はこのようなメッセージを準備しました。
しかし神を愛すること、神様に近づくことは、 私がやりたいということでできることではありません。
神様がまず私の目を開いてくださり、出会ってくださらなければ、 私は神に出会うことができないので、
神様が来てくださるように、精霊様に切に切に求めながら、 今日のメッセージを続けていきたいと思います。
まず私が告白するべきことは、私は失敗した選挙をしたということです。
私は1998年度会社を辞めて、主のために献身したと思いますけど、 当時私は献身というこの深い意味をわかりませんでした。
多分妻もわからなかったと思います。 私たちは何にもわからないまま献身して、
日本で会社を辞めて、神学を学んで、牧師になりました。 そして2001年度、九州で牧会を始めましたけど、
牧会5年目に家族みんな病気になり、私は牧会完全に失敗して、 2005年度終わりに韓国に戻りました。
そして3年間完全失業者、浪人をしました。 幸い2008年度私を再び同居に呼んでくださったから戻ってきたんですけど、
当時私はなぜためになり、なぜ神様が私を日本に再び呼んでくださったのか、わかりませんでした。
皆様ご存知のように、キリスト教は愛の宗教です。 韓国人が韓国ではなく日本にまで宣教に来たと言うなら、
みんなそう思うでしょう。 愛がどれほど深いので、
韓国人だけじゃなく日本人まで愛するために日本に来たのか、思うんじゃありませんか。
しかし私は、人を愛することが一番難しく、愛することができない人間です。 人を使えること、チャンスはいろいろありました。
ある方は助けてください、求める人がいたんですが、避けました。 になお自信がなかったからです。
恥ずかしいことですけど、私の家族さえも今アメリカと日本に散らされて過ごしているほどです。
人を愛すること、また人に使えること、 どれほど難しいことでしょう。
以前の教会は教会の看板を見て、ホームレスの方がたびたび教会に来るんですね。 そして助けを求める場合がたくさんありました。
また脱北者、北朝鮮から脱北者も来られて、助けてくださいと言う時がありました。
その方に私はごめんなさいと言いました。 なぜなら、私はその方をどう助ければいいかわからなかったからです。
以前、九州で一緒に進行生活に来た兄弟が、私を信じて東京まで訪ねてきたんですが、私は帰らせました。
ある方は私を信じて自分の子供を面倒見てくれと助けたんですが、 ごめんなさいと言って避けました。
正直に私は担う自信がありませんでした。 遠藤さんは親戚をうまく助けて、恩返しでいろいろ報いをいただくことを私は見るんですが、
私はそんなことは全くありません。 なぜなら、私は他の人に愛を施したことは全くないからです。
たぶん私は最後の裁きの時、 奉仕と関連した報いは全くないと私は覚悟しているところであります。
このような私に、以前から妻は私にこう言いました。 あなたは牧師としてふさわしくない。
聖書の教師だったらわからないけど、という話をしました。 正直に私は愛して使えるために来たのではなく、教えるために来たような気がします。
私が悟った薄い福音を、私は教えようとしました。 日本語もうまくできないのに、いつも教えることばかり考えました。
ですから人々は私を負担と思って避けることがありましたので、初めは大きな失敗をしました。
信仰は教えることではなく、愛することだということをその時に悟るべきだったんです。
信仰の本質と愛すること
私は日本で失敗して韓国で浪人の生活をしながら、信仰の本質が何なのかをわかったと思って、
戻ってきてからはまた悟ったことを教えようと頑張りました。 そして失敗しました。
私は人々が学ぼうと言う姿勢がないんじゃないかという、それを私は弁明としていつも言っているのですが、
最近神様が私に続けて言われています。 信仰の本質が何なのか、
信仰の本質は教えることではなく、愛することだということです。 当時私が牧師になろうとしたのは、
当時流行っていた弟子訓練。 弟子訓練は教えることだから、だったら私は牧師になってもいいんじゃないかと思ったんですが、
愛ができないことを私自身、今まで仏会をしながら苦労しているところであります。
ですから私は神様の前で、いつも悔い改めながら、愛がない私をどうしたらいいんでしょうかと、
いつも祈っているところです。 そして私は神様に妥協してこんな話をしました。
私のレベルに合わせて愛してはいけませんかという、 妥協案を神様に申し上げているところであります。
そして私は、私ができるところはどこなのか、 まず私は決めました。
それは今まで私が拝んできた神様。 神様をまず一番愛するものになりましょうということです。
そして聖霊様、主を一番愛するものにしてくださいと祈っています。 結婚するとき私は妻を一番愛するものになりたいと思いました。
できませんでした。 日本の宣教師に来るときに、日本人を一番愛するものになりたいと思ったんです。
しかしできませんでした。 牧師になるとき、神様を送ってくださる信徒たちを一番愛すると思ったんですが、
それもできませんでした。 これから最後、神様を一番愛する下辺になってみたいと目標を決めます。
それなのに私は愛が難しく思って、それで愛は天土師さんのお仕事、 私は教えることばかりやりますって言って、
隅分け、役割分担をして今までやってきました。 しかしそれは続けることはできませんでした。
なぜ、先週メッセージをしながら、ルカの中二症47節48節の御言葉、
主人の御心を知らなくて行わなかった者は、 打たれるのは少しで済むけど、
主人の御心を知っていながら行わなかった者は、 酷く鞭を打たれるようになるよということでした。
ですから考えるのは、私はもう報いを受けるのよりは、 鞭を打たれることは遥かに多い、そのような下辺になるんじゃないか。
ですから私はどうすればいいのか、それが事実、牧師の悩みでした。 ですからこれから具体的にこれを行いたいと思います。
私が決めたことは3つありますけど、 まず改めて神様をもっと知りたい、知るものになりたいということです。
今まで私が神を知ろうとしたのは、 説教するために理論的に神を知ろうと思ったんです。
しかしこれからは神様を人格的に知りたいと思います。
イエス様はパリサイ人たちにこう言いました。 また私にお使いになった父が、私について証をしてくださる。
あなたたちはまた父のお声を聞いたことがなければ、お姿を見たことがない。 またあなたたちは自分のうちに父のお言葉を留めていない。
だからあなたたちは信仰ができないのだ、と言われたように、
パリサイ人に言われたその御言葉が私に当てはまるんじゃないかと思います。 ですから具体的にこれから父のお声を聞くこと、
父のお姿を見ること、 また父のお言葉を心に留めること、
それを通して本当に神様を知りたいと願っています。 なぜなら知らなければ愛せることができないからです。
本当に精霊様の照らしによって神を知るなら、私の姿勢が変わるでしょう。 またパウルが経験したこの立体的なこの信仰、
これエペソー3章16節からちょっとありますけど、18節から読んでいますと、
またあなた方がすべての聖なる者たちとともに、 キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるのかを理解し、
人の知識を遥かに超えるこの愛を知るようになり、 そしてついには神の満ちあふれる豊かさのすべてに預かり、
それによって満たされるようにと言います。 私はこの見言葉を読みながら、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ、
いったいこんな世界がどのどんな世界なのか、 またこの驚くほどの霊的な秘密をこの世の中でも味わうことができるように、
神様が許しておられているんですけど、 私たちはこの世の中で食べて生きること、また心配、欲、そのごとに故に神を信じるんだと言いながら、
それが経験できないということを本当に恥ずかしく思っています。 ですから私が生きている限り、
パウロが経験したこのような世界を私も経験できればと思います。
神様を一番愛するものになる
2番目決めているのは、イエス様よりもっと愛することがないようにしていきたいと思います。
第一の今氏名、新明記5章7節はこう言います。 あなたには私において他の神があってはならない。
私はこの見言葉が本当に素晴らしいと思います。 あなたには私において他の神があってはならない。
皆さんこれは結婚制約の時のことでしょう。 あなたは私をおいて他の男性があってはならない。
あなたは私において他の女性があってはならない。 これは夫婦の制約ではありませんか。
これは事実、神様と私たちの第一の今氏名、約束なんです。 だから私の心に
神様以外、他の者が私の心を占領することをこれから許してはいけない。 私はそれをこれから考えていきたいと思います。
そのためにまず第1話年2章16節。 私たちの心に憎の欲、目の欲、この世の奢り、この世を愛すること、
ここに私たちが陥らないようにやっていかなければならない。 そのために私は格礼とか名誉とかこれは大好きなんで、
これを徹底的に食い改めながら、そのようなものが私の心を占領できないようにやっていきたいと思います。
また一つ私の心を占領するものが心配なんです。
問題に対する心配。問題に対する心配があったら私の心がもういつの間にか問題、心配でいっぱいになります。
神を愛するのではなく心配のことで心が満たされていること、これからこれを許してはいけないと私は思います。
ですから私の心の中で第一の忌ましめ、神を愛する、神様以外の他のことが私の心を占領してはならないという、
神様だけが私の心の全てになる、これが事実、ソン・ドゥ・シングの神様に対する祈りなんですけど、これが私にもこれが実現できればと思います。
神様との交わりと時間を共に過ごす
そして神を知り愛することをそれに私は集中していきたいと思います。
また3番目、神を愛するためには神様とたくさんの時間を共に過ごさなければならないと思っています。
マルコ1章35節、イエス様が朝早くまた暗いうちにイエスは起きて人里離れたところに行ってそこで祈っておられた。
イエス様は神様との交わりの時間を最優先的に確保してそれで持ち行って行かれたんですけど、
今私の時間に一番神様との交わりを邪魔になるのはユーチューバーなんです。
携帯のユーチューバー。ユーチューバーの中には面白いことがたくさんあって、なんとかその誘惑に私は弱くなって落ちてしまって、見始めたらもう1時間2時間もあっという間ですね。
神様との愛の交わりで1時間2時間は使わないのに、ユーチューブを見るんだって1時間2時間をいちいち使ってしまうということは
これは神様に対して本当に申し訳ないことで、これからこれを精一杯時間を減らして削減して、私は神様の時間を増やしていきたい。
これを私は今度は覚悟しなきゃいけないと思います。これが私の力、努力ではできません。
聖霊様の助けがなければいけません。ですからエピソード1章17節、どうか私たちの主イエスキリストの神、栄光の源である御父が、
あなた方に知恵と敬意との礼を与え、神を深く知ることができるようにと、タオルはいつも祈ったように、私もそのために祈っていきたいと思います。
皆さん、神様と愛の関係、どうすればいいでしょう? どうすればそれができるんでしょうか?
毎日神様だけを愛し、祈り、見言葉を知覚にし、礼拝し、見言葉に従順、いろいろなことを考えますけど、
私は信仰をやり直しをする気持ちで、今日皆さんに申し上げたこの3つのこと、
主をもっと知ることを願い、私の心の中で神様を愛すること以外は何も勝手に占領することがないように、それを徹底的にやっていき、
そして神様ともっともっとたくさんの時間を共に過ごす、これをこれから担っていきたいと思います。
このような生活をするのに一番理想的なモデルは、創世記後書で今日読んでくださった聖女ですね、
絵の子です。 創世記2章21節から、絵の子は65歳になってメドセロを設けた。
絵の子はメドセロを設けた後、300年神と共に歩み、息子と娘を設けた。
絵の子は365年生きた。絵の子は神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。
絵の子の人生は365年だったんですけど、365年間の間に絵の子がやったのは子供を産んだこと、
また神様との交わり、神と共に歩む、これしかなかった。 これなのに絵の子の人生は、
もう死んで天国に行くんじゃなくて、生きたまま神様が天国に連れて行かれるほど素晴らしい人生だったんですね。
私も絵の子のように神様と共に歩む。 本当に絵の子のような、このような生活をこれから
やっていきたいと願っていることでいっぱいです。 ところが、
自分が決めたら自分がやればいいでしょう。 なぜ私はこれをメッセージとして皆さんと分かち合っているんでしょうか。
これは本当に大事だから、これ一つで。 まだ興味ある方は私と一緒にやりましょうという気持ちがあります。
なぜなら私も今は心の中で燃える心があるから言うけど、
冷めてしまえばまたいつの間にか私もやっていない時が見えるかもしれません。 その時皆さんから助言をいただきたい。一言
一つ期待していることがあります。
一緒にやろう。何やってますか。 前に決めたことをやりましょうという皆さんの助言、また励ましを私を求めながら皆さんに
申し上げていることであります。 一つ期待していることがあります。
ケンサスシティのマイクル・ビークル先生がこう言いました。 私たちは神様を愛しようとする時、私が愛しようとするんだって神を愛することではできません。
私はその心を持つだけでも神様が私に対する愛を注いでくださる。
神様が注いでくださるその愛によって私は神を愛することができ、また隣人を愛することができると言います。
それは何もなかった時じゃなくて、私が神様を愛したいという私の心がある時、神様が神の愛を示してくださる。
この示してくださる愛が神を愛することができ、隣人を愛することができるとそれをマイクル・ビークル先生が教えてくださりました。
私は希望があります。私は神を愛する時、神様が私をどれほど愛していらっしゃるのか見せてくださるんですけど、
その愛によって私が隣人を愛することができるということが可能性としてわかります。
マルコ3章7節を見ますと、イエス様がヨハネに対して、あなたはボアネルゲと言いました。
これは雷の子と言います。昔ヨハネは非常に気が短くて激しい人でした。
しかし、イエス様を愛することによってだんだん変わって、人ヨハネは愛の人と言われるほど素晴らしい人になったんじゃありませんか。
雷の子が愛の子に変わったように、愛ができない私が神を愛することによって、神様から示された愛によって、愛ができる牧師になる可能性。
これが私が今度楽しみに考えながら、私が死ぬ前に、愛がある牧師、ハーファン牧師、この奴は愛が深い牧師だったという、
神と皆さんから言われるほどのものになりたいということ、これが私の最後の時の私の願いであります。
まずこのために、神様の愛が豊かに私たちに照らされることを祈りながら、神を愛して、絵の具のようにこの世に心を奪われないで、
神を愛しながら、神様が連れて行かれたことによって、天国に行く私たちになれればと思います。
夏は暑いんです。この暑さをどのように乗り越えるか、神を愛する強いこの暑い愛によって、この暑さを乗り越えていく私たちになれればと思います。
今、夏は暑いんです。この暑さをどのように乗り越えるか、神を愛する強いこの暑い愛によって、この暑さを乗り越えていく私たちになれればと思います。
お祈りいたします。主よ、暑い日々が続いているところであります。
まず、この暑さの中で勉強している私たちの子どもたちを、主よ、守ってください。
知恵を与えてくださり、子どもたちがこの暑さの中で学ぶべきことをしっかり学んでいくように助けてください。
また、健老の皆さん、年取っていて健康が弱い皆さんを祝福します。どうか家族を守ってください。
また、職場生活をしていられる信徒たちを守ってください。
しかし、この暑さ、暑さということだけじゃなくて、この暑さを乗り越え、勝ち抜く、イエス様に対する愛、イエス様に対する燃える愛によって、今の暑さを乗り越えていく、勝ち抜いていく私たちにならせてください。
このすべてをイエス様の皆を通してお祈りいたします。アーメン。
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