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皆さん、おはようございます。
今日も、聖日礼拝にようこそいらっしゃいました。
それでは、今日もですね、メッセージに入る前に、隣の方々と挨拶しましょうか。
おはようございます。
よくいらっしゃいました。
ありがとうございます。愛があふれてますね。
では、一言お祈りします。
神様、あなたは生きておられます。
私たちは、主に従い、主を愛し、また、人々を愛するものになりたくて、願っておるこの胸の上に、主の愛をあげるほど必要。
今日、我々に主に悟らせ、また、深く味わわせて下さいますように。
お願いいたします。
主ご自身が、この朝、我々一人一人に、その礼の中に、心の中に、主が御言葉を語って下さいますように。
お願いいたします。
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
今日は、4月3日、教会の会計年度、あるいは様々な学校とか、社会的には、2016年度の新年度が、今日から始まるということであります。
それで、先ほども白石兄弟に祈っていただきましたけれども、今年も今年度の教会称号は、何なのかご存知ですか?
世界に愛し合う生徒家政教会でございます。
この内容的には、慣れている言葉ですし、あまりにも当たり前のような称号、スローガンであります。
それほど大事であり、また、私たちがよく守っているかのように思われるかもしれませんが、一方では、またそれほど守りにくいことでもあると思います。
今日の御言葉を通して、私たちが、この称号が、私たちの生き方になり、私たちの人格になり、また、私たちの信仰や人生の実になることを説に願っております。
私たちの信仰は、この世にある人間が作り出した宗教とは、根本的に違います。
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その違いは何でしょう?
それは、私たちの信仰は、自分から、私から出ているものではなく、神から出ているものである。
神から始まったものであるということです。
それと同じく、今日一緒に味わっていきたいと思うのは、神の愛ですけれども、
この愛も、実は、私から出ているものではなく、神から出ているものであるということです。
もちろんですね、神様は、私たちを作られるときに、私たちの感情の袋の中に、愛や、あるいは喜び、あるいは悲しみ、あるいは怒りとか、そういった感情を、主が入れてくださりました。
ところがですね、愛だけ考えてみたら、私たち人間の愛というのは、本当に自己的で、自己中心的なものではないかなと思います。
皆さんはどうお思いになるのでしょうか。
では、どうしたら、本当に御言葉のように、神の愛のように、互いに愛し合う生徒・家庭・教会になることができるのでしょうか。
その答えが、まず今日の7節に書かれています。
7節を一緒にですね、もう一度お読みたいと思います。
第1ヨハネ4の7節。
もう一度に、3、はい。
愛する者たち、私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者は、皆神から生まれ、神を知っています。
皆さん、ここをご覧ください。
愛する者たち、私たちは互いに愛し合いましょうと進めて、その後の言葉が大事です。
その後、愛は誰からですか。私からですか。いいや、違います。
神から。愛は神から出ているということです。
皆さん、私たちが求めている愛は、誰からどこからくるのでしょうか。神様からくるんです。
昔ですね、私が6歳、7歳ごろ、うちに掘って作った井戸がありました。
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それで、パケットを揺れてですね、汲み上げる井戸がありましたけれども。
水のないところに、その水を、揉み水を得るためには、土を掘って井戸を作らなければならないんですね。
ところが、1メートルとか5メートル掘って、揉み水が出てくるのでしょうか。出ないんです。
50メートル、あるいは100メートル、あるいは200メートル、深く深く掘っていかないと。
掘らないと、揉み水は得ることができないんです。
私たちが本当の愛を持って愛するためには、互いに愛し合う夫婦になるため、互いに愛し合う親子になるため、
互いに愛し合う兄弟姉妹たち、この社会のなるためには、本当の愛に出会わなければならない。
その愛を受けなければならないんですよ。
その愛は誰から出ていますか。神から出ているのである。
そしたら、どこに行かなければならないんでしょうか。神様に行かなければならないんです。
愛の厳選であられる、根源であられる神様に行かなければならない。
なぜなら、愛の根源は、源は、私ではなく神様からだ。
だから皆さん、私たちが口先での愛ではなく、十字架の愛、あたための愛を持って、
愛し合うためには、誰に行けばいいんですか。神に行けばいいんです。
私たちが互いに愛し合うためには、誰にあって、誰と深い親密な交わりを持たなければならないんでしょうか。
恋人でしょうか。夫でしょうか。妻でしょうか。子供でしょうか。孫でしょうか。親しい友達でしょうか。
違います。神様に出会わなければならない。
そしてその神様と深い、深い、100メートル、200メートル、井戸を掘るように、深い親密な神様とのお交わりを持ってこそ、そこに私たちは初めに本当の愛にお会いするまで。
なぜなら、愛は私からじゃなくて、神から出ているものだからです。
神の愛を私たちが経験することです。深く、深く、その深い愛を味わうことであります。
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その時に、神の愛が出てきて、溢れ流れて、私の方に溢れ流れて、その愛によって、
私たちも、自分を愛し、夫を愛し、妻を愛し、子供を愛し、巨大姉妹を、この社会を愛するようになるのです。
皆さん、いくらですね、おいしいおいしいと評判の良い店があってもですね、直接行ってみて、食べてみないと味は分かりません。
先ほどですね、一大一巨大に、今の世の中に出てきましたけれども、
藤本康正巨大と毎週水曜日か土曜日に会ってですね、個人伝導の学びをしております。今まで8回ありました。
その学びをですね、今月の29日です。個人伝導講師会があります。A1234、B1234ありますけれども、今回はですね、1日8回全部やるのはやりきれないと思いますので、
A1から4の学びをしたいと思いますので、皆さん、ぜひ来ていただきたいんですね。
それで、昨日でした。昨日ですね、選手行けなかったので、学び終わって、ラーメンに行こうって言ってですね、食べに行きましょうって言ってですね、
一人暮らしているし、お昼を一緒に食べに行きました。ラーメンタロウという黄色い看板のお店があるんですけれども、
僕はあそこが好きなんですね。旧市のとんこつは食べれないんですよ。こっちはちょっとアサリして食べれますけど。食べてみないと味がわからないんです。似てます。
皆さん、祈りの深い味をどうしたら知ることができるでしょうか。学んで知ることができるでしょうか。いいえ、できます。
直接に自分の膝をかかめて、神の身代に指令をして、深い祈りの中に入った人だけが祈りの味をわかるのでしょう。
この清掃の蜜より甘い、バビルが言いましたね。蜜より甘い、この甘い味をどうしたら知ることができるでしょうか。
たまに枕に行って寝たらわかるでしょうか。たまにキャンプに行ったら、枕に枕がかかったら、タオルで巻いて寝たりすることもあるかもしれませんが、それでわかりません。
清掃を開いて読むときに、10分でも30分でも1時間でも2時間でも読むときに、そのときに、この蜜より甘い清掃の御言葉の味を知ることができるのでしょう。
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では、愛の深い味、豊かな味をどうしたら知ることができるでしょうか。
愛の神様にお会いして。その中で深い、親密なお交わりを私が持つときに、神の愛を知ることができる。
今日の7節の後半にこういう言葉があります。
愛のある者は?愛のある者です。愛のある者は、つまり愛する者は、皆誰から生まれるんですか。神から生まれます。
そしてその次の言葉ですよ。誰を知っていますか。神を知っています。
つまり、愛のある者、つまり愛する者、互いに愛し合う者はどんな人なんでしょうか。それは神から生まれた人であって、神を知る人です。
ですから皆さん、神を出会ったことがない、神を知らない人はですね、いくら愛愛言っても、愛を持っていない人になります。
自分は愛を持っていると思うかもしれませんが、その愛はインスタント愛で、自己中心的な愛で、履行的な愛であるかもしれません。
人間はですね、この本能的にとても履行的なんですね。自己中心的なんです。
ちょっと調べてみたら、日本の言葉に、縁にして月、勘にして不という言葉があります。
似たような言葉が韓国にはですね、甘ければ揉み込み、苦ければ吐き出すという言葉がありますけれども、そうなんです。
皆さん、そうでしょうか。神を知っていますか。神を知っていらっしゃるでしょうか。皆さん、互いに愛し合う人は神を知っている人なんです。
ところが、この知るという言葉は、言葉の限界があるわけですから、知るという言葉だけを見たら、
何か勉強をする、学びをする、あるいは本を読むような知識的なイメージが強いんですね。知るという言葉。
でも、この知るという言葉は、とても人格的な関係の意味であって、もともとの意味は、
夫婦がお互いの体と心と長所、短所、お互いにすごく親しく知る、経験した関係、それが知るという言葉です。
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教学生徒にも、アダムがエヴァを知った、アブラハムがカラを知った、それは名前を知った、そういう意味ではありません。夫婦関係を持つことです。
それが知るという言葉の意味なんです。ですから皆さん、私たちが本当の意味で愛し合う生徒、家庭、教官になるためには、
神様をこのように人格的に知らなければならない、経験しなければならないんですよ。
教会に行ったり来たりすることだけでは十分ではありません。知識を積んでだけでは十分ではありません。
年数が20年、50年、100年経っていても、深い神様の愛に触れたことがなかなかない。
人格的な交わりを持っていないと、神の愛を実は知っていないのです。
皆さんは神様ととても親しいですか?皆さんの神様との関係は本当に本当に強く、
皆さん、健康な信仰と健康な愛は、神様との親密さ、親密感と指令します。
ですから、神様と親しければ親しいほど、私の愛は全くほぼ無し。
自分と神の間に何も距離感もない、違和感もない、本当に親密さ、愛、信頼があるのかということなんです。
もう一度聞きましょう。皆さんは神様ととても親しいですか?
深い、深い、味のある親密感を日々味わっているでしょうか?
隣の人に聞きましょう。あなたは神様と親しいですか?と聞きましょうか、お互い。
あなたは神様と親しいですか?聞いてみてください。
互いに愛し合う人は、神を知る人です。
そのためには、日々神を礼拝し、日々深い祈りと深い御言葉の味を味わわなければならない。
御言葉と祈り、神様への礼拝なくしては、神様を知ることも、愛を得ることもできないのです。
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ところが、ここで注意しなければならないことがあります。
このような御言葉、祈り、礼拝という経験生活は、これは変えられた、生まれ変わったクリスチャンが持つべき目標ではなく手段なんです。
私たちの目標は愛なんです。
それはコリン島人への第一の手紙13章で書かれている愛であります。そこをちょっと開きましょうか。
コリン島人への手紙第1章13章。皆さん多分よくご存知の箇所だと思いますけれども、336ページです。
聖書をお持ちの方はお開きください。336ページ。第1コリン島13章。
4節から7節まで一緒に声を合わせて読みたいと思います。
4節から7節まで。
小泉さん。
愛は寛容であり、愛は親切です。また、人を妬みません。愛は自慢せず、傲慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、
怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真意を喜びます。すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
皆さん、この愛を私たちがどこで見つけることができるのでしょうか?十字架です。十字架。
イエス様のあの十字架の愛、アラペの愛、命を捨てられた愛、誰のために?私のために、あなたのために。
そこにこの愛があるんです。だから十字架のもとに行かなければ、この愛を知ることも愛することも実はできないのです。
ですから皆さん、我々の信仰の最後の実は、クライマックスは愛なんです。
その愛は十字架の愛、命を捨てた愛、すべてを捨てられた愛なんです。
もう一箇所、清書を開きましょう。
第2ペテロ。第2ペテロです。第2ペテロ1章、5節から7節です。
460ページです。新約聖書460ページ。
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460ページ、ペテロの手紙第2、1章、5節から7節を、こっちもですね、一緒に読みましょうか。5節からこれを合わせて一緒に読みたいと思います。
こういうわけですから、あなた方はあらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自性を、自性には忍耐を、忍耐には経験を、経験には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
皆さんよくご覧ください。皆さんに信仰がありますか。そこに徳を加えるべきです。その徳がありますか。その上に知識を加えるべきです。
知識を持ちですか。その上に何が必要なんでしょうか。自性が必要です。自性を加えたその後に忍耐を加えるべきです。忍耐には何を加えるんですか。
経験を加えるんですね。経験はいわゆる祈り、見事が礼拝の生活でしょう。しかしそれが最後のゴールではないんですよ。最後のゴールは何ですか。兄弟愛なんです。
いくら知識を持っていたとしても、徳を持っていたとしても、いくら自性を知る人だとしても、忍耐が強い人だとしても、経験のない人であっても、いくらでもパリサイル人のようになれるということです。
新約政策で出てくるパリサイル人の経験差は世界最高でしょう。660何個のその立法があります。それをですね、いちいちそれを守るんです。徹底的なんです。経験差は誰もですね、それを乗り越えることができないほどの経験差を持っている。
しかし、そこに何がなければ、それは無駄でしょうか。兄弟愛がなければ。ですから私たちの人工の最高の実は、ゴールはそのものじゃなくて愛なんです。
ところが皆さん、素人の関係を考えたときに、関係がいいときは、お互いに愛し合うのは難しくないですね。ところが嫌なとき、敵のような人と添いと愛することが実は、私があなた方を愛したように、あなた方もお互いに愛し合いなさいというメッセージではないでしょうか。
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皆さん、イエス様は、私たちが敵であるときに命を捨てられた。イエス様の正義から見たら、私たちは嫌なものなんです。敵なんです。愛することができないんです。しかし、愛を持って愛してもらった。どこまで命を捨てるほど愛してください。
この愛が、私たちが目指すべき愛なんです。世の中にはいくらでも愛があります。そんな愛を求めているわけではありません。十字架の愛。本当に何があっても、どんなことがあっても、互いを捨てずに愛し合うこと。それが十字架の愛なんです。何があっても。
このところが、このように互いに愛し合うためには、まず、私たちの知性のある神様を心を尽くして、命を尽くして、力を尽くして、愛していなければならない。皆さん、神様を愛していらっしゃいますよね。
みんな、愛しています。例えば、本当に神様を愛しています。神様を愛していない人は、ここに誰一人もおられないと思います。ところが、その愛の基準を、聖書を語る基準に適応するならば、話は違ってきます。
ちょっと聖書を開きましょう。マサイの訓書二十二章三十七節。新約聖書の四十六ページです。マサイの訓書二十二章三十六三十七節を一緒に読みたいと思います。
先生、立法の中で大切な今決めはどれですか。そこでイエスは彼に言われた。心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。アーメン。
皆さんは、心を尽くして、思いを尽くして、力を尽くして、命を尽くして、神様を愛していらっしゃるでしょうか。皆さん、尽くすのはもうないんですよ。心を全部神様を愛するに使い切って尽くしてないんです。
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それほど尽きるまで愛するのがイエス様が私たちに求められる愛なんです。互いに愛し合う愛はこの愛なんです。そして、まず神を愛することから愛は始まるんです。
皆さん、この37つこの御言葉、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。この御言葉が私たち一人一人の中にそれが成就されなければならないんです。
皆さん、もう一つ申し上げます。私たちが心を尽くして、思いを尽くして、力を尽くして、主を愛するときに、本当の意味での互いに愛し合う聖堂、家庭、教会になるのです。この愛は十字架の愛です。命を捨てた愛です。
皆さん、命を捨てたら捨てられないものはないでしょう。今年の教後のこの御言葉、第1ヨハネ4の7つ、その愛は命を捨てられた神の愛です。だからまずは、第一はその愛を深く味わうことです。経験することです。
たまにではあります。日々、朝も昼も夜も、その愛を味わうことです。愛を浴びることです。私たちは、十字架の愛をみんな好みます。私を愛してくださった。許してくださった。限りのない愛を、いつまで哀れみの愛を持ち、私を愛してくださる。感謝しています。賛美しています。いいことです。
ところが、私たちは、その十字架の愛をもって、そのイエス様を愛しているか、ということが問題ではないでしょうか。メッセージを送りたいと思います。皆さん、まずは、第一は神の愛を、今年こそ、神の愛を深く味わってください。経験してください。
そして、その十字架の愛をもって、神を愛し、家族を愛し、兄弟姉妹だけを愛してください。お祈りします。