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2018-10-28 32:50

2018/10/28:ヨハネの福音書講解説教(46)互いに愛し合うという主の戒め

2018/10/28 聖日礼拝
尹善鎬牧師
ヨハネの福音書 15:9-15
00:00
ありがとうございました。おはようございます。
今日も礼拝にお越しいらっしゃいました。それでは私たちの前に、周りの方と挨拶しましょうか。
おはようございます。よくいらっしゃいました。
ありがとうございます。一言お祈りします。
一言お祈りします。
私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合うこと、これが私の今の使命です。
主よ感謝します。
イエス様が私たちを病めから罪から救うため、命を渡すほど、私たちを愛してくださいました。
その愛のゆえに私たちは生かされています。
自分で努力して、頑張って生きようとして生きるものではなく、主が命を許してくださるから、実は私たちは生かされているのです。
そしてなお、神様のイエス・キリストの測り知れない恵みのまた愛のうちに、私たちは守られ導かれ生かされていることを、この朝も改めて覚えて感謝するところであります。
主よ、今日も私たち一人一人に生きる主御自身が、この朝の命の言葉を、希望の言葉をお与えください。
その御言葉によって生きる、そして死のために生きるものとして、今日、私たちの霊が引き上げられ、また新しく生まれるようなめくみの朝となりますように、主よ祝福してください。
悩みを抱えている人はいるでしょうか、どうか、今日のこのメッセージを、神の御言葉を聞いているうちに、主にお会いし、癒やされ恵まれ、主よ、最も素晴らしい神の命をいただける恵みの時となりますように、主よ祝福してください。
感謝して、イエス様の皆によってお祈り致します。
アーメン。
メッセージに入る前に、先週の礼拝の後は、多くの方々が残ってくださって、妙谷教会の未来のために、特に子供たちのことのためにですね、心を一緒にしてくださって、
03:18
また、いろんなとても貴重なお話を、ご意見を皆さんが分かち合って話し合ってくださって、本当に心から感謝致します。
特に皆さんが心を一つにして、どうしたら次世代、子供たちを養っていけるだろうか、そして妙谷教会が子供からお年寄りまで一つになって、神を礼拝する教会となるのか、
そのためにですね、一緒に祈ったり、あるいは悩んだり、そういう時が持たれたこと、心から感謝致します。
私が祈りながら、また神様に期待しながら、あるいは伝導していきながら、私たちの思うところ、願うところを遥かに超えて施すことのできる神様に支給いただく、その信仰をもって歩んでいきたいと願っております。
いずれ私が口癖のように申し上げていることは、妙谷教会が赤ちゃんからお年寄りまで全世代が集まって、礼拝して一つにする、そういうふうな主の心にかなう教会でありたいと、そういうふうに願っております。
皆さん、教会の封筒をよく使われているでしょうか。教会の封筒に、この封筒を作る時に、祈って祈って、私としては良い文を作りたいなと思ってですね、封筒の教会の名前の上に筒が入ってあるんです。
幸せな生徒、美しい家庭、夢見る教会。読ませたことありますか、皆さん。気づいていないでしょうか。幸せな生徒、美しい家庭、夢見る教会。
私は、妙谷教会が、私も含めて、まずお一人お一人が、ただ神聖的に物質的に身体的に幸せというより、全人格的に神様によって幸せな生徒であること。
また、そうすると当然、家庭が家族が本当に美しい家庭になるでしょう。そして教会が神にあって夢見て、それを心一つにして歩んでいく教会こそ美しい教会じゃないでしょうか。
06:12
私は自分を含めて、私だけがこのような生徒、家庭、教会となるために、毎日本当にね、皆さんの名前を挙げながら、早天にもあるいは昼にもあるいは夜にも、毎日皆様のために祈っております。
また、先日はですね、このアンデレカードを皆さんが、21名の方が出してくださいましたから、早天の後ですね、一人一人名前を読みながらですね、ちょっとふりかながら書かれていない方は、これ何て読むんだろうと思う方が、一人一人すいらっしゃいますけれども、だいたいわかりますので、名前を呼びながら、朝ごとに祈っております。
また皆さんも、私のために、あるいはお金のために、いつも祈ってくださって、本当に誇りから感謝いたします。
このように、私たち一人一人が、また教会が神の心にかなった生徒、教会となるため、あるいは神様に喜ばれる生徒、家庭、教会となるためには、何が必要なんでしょうか。
おそらく皆さんも、みんな共感していらっしゃると思うんですけれども、もう何もしなくて、このままでも最高ですよと言える人は、たぶんいないんじゃないかと思うんですね。
今日の御言葉から、それについていくつかのことを教えていただきたい。そしてまた、いつも申し上げているように、実践していただきたいと、そういうふうに願っております。
まず、旧説、今日の旧説の御言葉を、もう一度一緒に読みたいと思います。今日の御言葉、ユハネの福音書第十五章の旧説です。よろしいですか。ご一緒に、はい。
父が私を愛されたように、私もあなた方を愛しました。私の愛の中にとどまりなさい。アーメン。
感謝します。ここにですね、イエス様はまず、この十字架を前にしたすいこしの、その晩餐の席で、私の愛の中にとどまりなさいとあたり。
皆さん、私一人一人が主の喜びとなるため、また実際に生きているこの人生が、神にあって幸せで美しくて、希望に満たされる、命に満たされる歩みとなるためには、まず第一としては、イエス・キリストの愛の中にとどまり続けること。
09:19
イエス様の愛の中にとどまり続けること、というのは、これは私たちの人生のすべてのことの動機が、イエス様の愛ということであります。
つまり、私たちが生きる理由も、あるいは目的も、それはイエス様の愛のためである、またその愛を受けたから、あるいはこれから受けて欲しいから、そしてその愛を伝えるために私たちは生かされている。
それから、イエスの愛の中にとどまり続けるということは、それは私たちが働く理由も、お金を稼ぐ理由も、あるいは健康を堪能する理由も、あるいは学生さんだったら勉強をする理由も、実はこのイエス様の愛のためである。
その愛を受けたからですし、またその愛を伝えるためなんです。
これを知る人は幸せな生徒です。これを悟った人は本当に幸せな生徒であり教会なんです。
それからもう一つ、イエス様の愛の中にとどまり続けるということは、とどまり続けるということですから、それは途切れることなく常に絶えずイエス様の愛を豊かに豊かにあふれるほど受けているということです。
ですから、自分の人生のあらゆることのその厳選がイエス様の愛ということなんです。
皆さん、何でもそうなんですよね。教会の法師もそうですし、信徒として、あるいは物価者としてもそうですし、あるいは家庭で、家族関係でもそうですし、親子関係もそうですし、
12:00
またクリスタントとして世の中で仕事をすることでもそうですし、その土台と言いましょうかね、その厳選がイエス様のこのあふれまかりの愛とならなければならない。
それなりには法師がしんどいんです。教会の法師だけでなく家庭のこともしんどいです。やる気がない。
とにかく疲れてしまう。喜びがない。ワクワク感がない。歳と年齢とは関係ありません。
もし皆さん、私も含めてこの頃、教会の法師がもしも、しんどいな、疲れているなと感じておられる方がおられるでしょうか。
あるいは家庭のさまざまなことで、なんかしんどいなという感じていらっしゃるでしょうか。
もちろん確かにね、体が衰えて弱くなっていることももちろんありますけれども、でもね、最も根本的なところは、
我々の霊がイエス・キリストの炎、豊かな愛に満たされているかどうか、実は底にかかっているんです。
ですから皆さん、イエス・サマが私の愛の中にとどまりなさいとおっしゃったということ。
だからこのイエス・キリストの愛を何とかして、乏しくことではなく、豊かに溢れるほど受けている人は、本当に幸せな人であります。
その人は年齢や健康と関係なく、イエス・サマの愛のゆえに生き生きと生かされていくんです。
ですから皆さん、イエス・キリストの愛の中にとどまり続けていてください。
そしてイエス・サマのその愛を豊かにいただいてください。
そのためには、日々深い祈りの世界に入ってください。
入り込んでください。
そしてそこで、イエス・サマとの深い親密な関係を築き上げていってください。
これをなくしてはいくら愛があるね、愛がないね、いくら口先で言っても、それは何にも起こらない、流れないということです。
15:10
だから、シト・パウルはエペソ教会の信徒さんに、イエス・サマの愛の広さ、長さ、深さ、高さがどれくらいであるかを理解する力を持てるように、
人中遥かに超えるキリストの愛を知ることができますようにと、教会の信徒さんに手紙を送ったんです。
ちょっとそこ、聖書を開きましょうか、皆さん。
エペソ人への手紙、3の18節です。
エペソ人への手紙、3章、18、19節です。
私の聖書では、376ページ。
新約聖書、376ページです。
18節と19節です。
ここだけ一緒に見たいと思います。
18、19、3、はい。
すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人中を遥かに超えたキリストの愛を知ることができますように。
こうして、神御自身の導きした様にまで、あなた方が満たされますように。
アーメン。
これはエペソ教会を愛する使徒パウルの伝聞、お祈りなんです。
そこで、全く神様を知らない人々に向けた、手紙じゃないですよね、教会の信徒さんに向けて、
すべての聖徒とともに、その広さ、何の広さですか。
キリストの愛の広さ、愛の長さ、愛の高さ、愛の深さが、皆さん実は私たちはまだ十分に理解して知っていないんですよ。
だからこの広さ、長さ、高さがどれぐらい深いのか、どれぐらい広いのか、それをもう知ってほしい。
私たちが考える人中より遥かに超えたキリストの愛ですよ。
エペソ教会の皆さん、これをぜひ知ってほしいんですよ、味わってほしいんですよ、という、全く同じです。
私たちは聖徒を応えるこの声に耳を傾けたい。
そして本当に一緒に生きていきたいんです。
18:03
味わっていきたいんです。
イエス様の愛は、もしかしたら私たちが考えているものより、あるいは私たちが今まで経験したものより、もっと深くて、もっと長くて、もっと高くて、もっと深いものであるんです。
まだまだ十分に味わっていないかもしれません。
それを味わってほしいんです。
深いイエスキリストの愛の世界に、海であれば、それにもう入り込んで、思い切り豊かに味わって。
そして、ああ、主よ、あなたの愛は、十字架の愛は実はこんなものだったんですね。
実は私は十分知っておりませんでした。
主よ、でも、この日なしにもこのように主を味わわせてくださって、来るように来てくださって、この深い世界であることを悟らせてくださって、主よ、感謝します。
というふうに祈るものであり、何事にも満足してきた状態が一番危険な状態かもしれません。
次に、神の心にかなった教会、神に喜ぶような教会となるためには何が必要なんでしょうか。
それは二番目として、実際にイエス様が私たちを愛されたように、私たちも同じくある。
その十二節一緒に読みましょうか。
ジョハネ15章の十二節です。
十二節ご一緒に。
私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合うこと、これが私の今姫です。
皆さん、皆さんに一つお聞きしたいと思います。
イエス様が私たちを愛してくださったんですね。そのイエス様の愛はどれくらいの愛ですか。
どれくらいの愛でしょうか。
それは死ぬほどの愛なんです。
また、苦しみと侮辱、屈辱、恥ずかしめ、おもしりを耐え切れた、耐え抜けたほどの愛なんです。
また、神様が人間になられるほどの、癒しくなるほどの愛なんです。
それくらいの愛なんです。
21:01
ですから、私たちは御言葉の通りに、そこに行って戻って、その通りに生きるものでありたいです。
教会がさらに教会らしくなるため、教会がさらに、のなに教会がさらに死の心にかなった教会となるためには、
イエス様が私たちのために死なれたほど、私たちが互いに愛し合うことなんですよ。
互いに愛し合うことは、よしよし仲良しくらいの、それくらいの浅い愛ではないんですよ。
癒しくなるほど、苦しみも、ももしりも、屈辱も、不足も、それも喜んで耐えるほど、死ぬほどの愛なんですね。
イエス様が互いに愛し合いなさいとおっしゃった時の愛は、その愛なんです。
皆さんもし考えてみてください。教会が、どこの業界であろうが、教会が本当に私たちが死ぬほどの愛で愛するならば、
癒しくなるほど愛するならば、兄弟の姉妹のため、教会のためにできないことはないでしょうね。
そして、それでその愛を本当に知るならば、こういうふうに祈るんじゃないでしょうか。
主よ、主の教会のために私の命を渡すほど愛します。
主よ、私が先に兄弟姉妹をイエス様が愛されたように、その限りなき愛、命を施すほどの愛をもって包み込み、
また限りなく条件無しに哀れに愛するものとならせていただきます。
そんなものにならせてくださいと祈るんじゃないでしょうか。
またそういうふうに祈る私たちでありたい。
まず私自分自身からそれを実践させていただきたい。
皆さん、愛というものはある意味で本当に熾烈な戦いをやって納得られるものなんです。
主は愛というものはそんなに甘くて簡単なものではないんですね。
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イエス様のヌルカの愛が本当にそのほどじゃないでしょう。
皆さんに我々は、私たちを含めて私たちがまず先に神のために命を渡せるほどの愛、
憎みのために全てを捧げられるほどの愛、それほどの愛をもって互いに愛され合う教会でありたい。
その時にそこに本当の愛の罠が満開するようになるんじゃないでしょうか。
そしてそういった本当の愛の関係が築き上げられている時に、
そこに新しい人が、子供が、弱い人が来たならば、
その愛に包み込まれて、本当の愛がここにあるんだと分かってくるんじゃないでしょうか。
そうするとそこで福音が働く、愛が働く。
そうするとそこに魂が救われる、養われる、育まれる、恵まれる、成長するように。
奥三番目にとって、実際に具体的な話を簡単に話したいと思います。
まず、そういうふうに互いに愛し合うために、兄弟妻のために、あるいは僕たちのために、毎日お祈りください。
祈りより大きな愛の行いはありません。
祈れば祈るほど、愛するようになります。
愛すれば愛するほど、さらに祈るようになります。
でも逆もありなんです。
祈らなければならないほど、愛は覚めてしまいます。
愛が覚めてしめばしむほど、祈らなくなります。
そうすると、その人の魂は枯れてしまいます。
皆さん、今日から決心なさっていただきたいです。
毎日、時間を決めて、兄弟妻のために本気で、命を懸けて、祈る四谷教会でありたいです。
祈りというものは、この世の中で一番大きな愛の投資なんです。
二番目、皆さんの持ち物で施してください。
才能であるかもしれません。
金銭であるかもしれません。
愛というものは、イエス様は実際に自分にある命を捧げたわけなんです。
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皆さんに何も持っていませんよ、という人は誰もいないんです。
命も持っておられますし、食べていけるお金も持っていますし、才能も持っておられますし、
実は多くのものを持っているんですね、私たちは。
別の話ですけれども、この前テレビを見たら、日本のたくさんの古着が捨てられるんですよね。
それをたくさん、何トン、コンテナみたいにたくさんそれを買い取って、
東南アジアに商売する人のテレビ番組にちょっと出ましたけれども、
その日本で捨てられる服が東南アジアに行ったら、もう無くて買えないほど大人気なんですね。
その人は結構な金持ちみたいなんですけれども、
だから私はあまり持っていませんよと言っても、実は世界中では上位2%の中に皆さんは含まれているんです。
あらゆる面、経済からあらゆる面を考えると、
世界の今銀行が何十億人くらいですか、60億?
そのうちの上位の2%の中に皆さん入っていらっしゃる。
またイエス様が生存を見ますと、
疎外されている人々、貧しい人々、病んでいる人々に寄り添って、
彼らの友となって、
そしてそのパマチを作ってくださったかのように、
私も自分の持ち物を持って施し、哀れに寄り添う。
そういう神と教会でありたい。
最後に一つだけお話しして終わりたいと思います。
もともと根本的なではありますが、
でも私たちは肉にある限り、よくよく自己中心のものとなりやすい。
愛がないわけではありませんが、
まず自分がたくさん味わって食べて自分が持っていって、
そして少し残るものでこれを味わってみてね、
というふうな愛のレベルに留まりやすい。
しかしイエス様は、互いに愛し合うこと、これが私の今姫です。
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今姫というものは私たちが守るべきものですし、また守られるものでもある。
イエス様が私たちにとって決して守られない今姫をお与えになるはずがない。
今姫を与えてくださったことは、私たちが守ることができるということなんですよ、実は。
どうやってこの高谷に愛し合う、
命を捨てた赤瀬の愛をもって高谷に愛し合うことができるのでしょうか?
それは神様がイエス様と私たちに新しい霊を注いでくださりました。
聖霊様を、御霊をお与えになりました。
その新しい霊によって私たちは高谷に愛し合うことができるんです。
御霊の御は何から始まりますか?
愛から始まるんです。
だから御霊の御の小物がありますけれども、それは愛の結晶体のようなものです。
だから聖霊に満たされることをなくしては、愛することはできないんです。
今姫を守ることはできないんです。
こそ皆さん覚えてください。
もっとも根本的に私が高谷に愛し合うためには、
イエス様の愛を実践するためには、聖霊に満たされていてください。
そのために祈りにあげてください。
御言葉にあげてください。
満たされて本当の愛を持って愛し合うものになります。
そしてその時にこういうふうに愛を私たちが愛を持って高谷に愛し合うならば、
それを通して神様は栄光を受け取りになるのです。
愛する皆さん、皆さんが先に愛の泉になっていてください。
そして皆さんがポンポンポンポン、愛の泉を沸き出してくださって、
そして渇いている人、愛を受けたことがない人、どうしたらいいのか、
渇いている魂が皆さんお一人お一人の泉、妙谷教会というこの泉に来て、
その命の愛をたくさん飲んで生かされる、新しい命を得られる、
そのために生きる我々でありたいと切に願っております。
お祈りします。
32:50

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