2024-05-19 26:45

#3つの愛と2つの物差し 24/5/19

マルコ-34からの礼拝説教。2024年5月19日録音。今日の箇所でイエス様は「最も大切な戒めは愛することである」と教えています。また、ある学者は「わたしは、私の隣人を正しく愛するためにまず自分自身を正しく愛さなければならない。」とも述べています。そこで愛の対象を神様と自分と隣人の3つに分けて、1.唯一の神を愛する、2.第1の愛の物差し:寛容、3.第2の愛の物差し:親切、の点から学びましょう。


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00:07
それでは、お読みします。
マルコ12章28節から34節
立法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。
すべての中でどれが第一の忌ましめですか?
イエスは答えられた。
第一の忌ましめはこれです。
聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。
あなたは心を尽くし、命を尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
第二の忌ましめはこれです。
あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。
これらよりも重要な命令は他にありません。
立法学者はイエスに言った。
先生、その通りです。主は唯一であって、その他に主はいないとあなたが言われたことはまさにその通りです。
そして、心を尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな前生の捧げ者や生贄よりも遥かに優れています。
イエスは彼が賢く答えたのを見て言われた。
あなたは神の国から遠くない。
それからあとは誰もイエスにあえて尋ねる者はいなかった。
以上です。
今日はこのところから三つの愛の二つの物差しと題して見事を取り付けます。
皆さんおはようございます。
今日は日曜日ですけれども、先週はですね、ちょうど埼玉というか新宿近辺、5月らしいですね、カラッとした陽気が続きました。
今日はちょっと夜か午後から雨が降るようですけれども、
沖縄はそろそろ中入りする予定ですけれども、
ともに5月のこの19日に礼拝が守れることを感謝しています。
さてしばらくですね、イエス様はエルサレムに入って神殿で見諭をめと言われることを行いました。
そして立法学者パリサエビト、またサドカエビトなどですね、ヘロデトもそうですか、
当時の国会議員や裁判官、サンヘドリンの議員たちから議論をふっかけられてですね、
そして今日のところはですね、ある面落ちのような部分です。
今日出てくる立法学者は実は敵対的な思いはそれほどなくてですね、
褒められたとは言いませんけれども、イエス様からですね、よく答えたと言われた人です。
そして彼がですね、質問しました。
03:02
今日は愛ということなんですけれども、神を愛し人を愛するということに関して、
ある学者がですね、こういうことを言ってですね、前にも提示しましたが、
イエスは正しい自尊心と自己実現とが、神への献身と他者への奉仕の中に、
神と人を愛する生活の中に乱されるべきであると教えと、
自らの模範を持って教えたのであるということなんですね。
今日のこの有名な最も大切な今しめは何かという答え、
伊藤に対するイエス様の答え。
それはですね、神と人を愛することだと言っています。
で、最も大事なものは何ですかと言ったら大体一個言うじゃないですか。
でもイエス様はここで二つ述べているように思いますよね。
でも、愛するということに関しての一つの今しめなんです。
その愛するということが大きく分けると二つ、神と人ということで分かれているんですけれども、
もっと細かくですね、今日は分かりやすくするために三つに分けました。
神を愛するということが一つ、そして隣人を愛するということが一つ、
そして三つ目が自分自身を愛するということがあります。
この三つの愛ということをですね、考えるために三つの点を見ていきます。
唯一の神を愛するということ、そして最後の二つはですね、
自分と隣人を愛するということをそれぞれ、一つ目は寛容という観点から、
最後は親切という観点からちょっと絞って見ていきたいと思います。
ちょっと割とね、みんな今日は考えてもらうことはあるかと思いますので、そういうふうに覚えてください。
このようにですね、立法学者から最も大事な今しめは何ですかということで、
グレートコマンドの愛の今しめ、最初はですね、まず唯一の神を愛するということです。
イエスは答えられた、第一の今しめはこれです。
ちょっと読んでみましょうか。
イスラエルよ、主は私たちの神、主は唯一である。
あなたは心を尽くし、命を尽くし、姿勢を尽くし、力を尽くして、あなたの神主を愛しなさい。
まあこれはですね、愛する方法が心から始まって力まで言ってるんですけども、
簡単に言うと、全身全霊を持って神様を愛しなさいと言います。
頭を使って、心を感情を使って、そして意思を持って、行動を持って、
06:03
まあそれは今日は詳しく言いませんけども、まず最初は神を愛する。
実はこれはですね、ちょっとだけ難しいことを言うと、
今日質問をした立法学者の賢い答えとも関係しています。
彼はイエス様の答えを聞いて応答したんですね。12章33節。
心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして、主を愛することは、
どんな善称の捧げ者や生贄よりも遥かに優れています。
ここから思い出しませんか?
善称の捧げ者や生贄を捧げる。どこでやりますか?
神殿ですよね。これは案に、これまでイエス様が議論の場としていて、
また強盗の巣にしていると言って批判していた、
イスラエルの特に指導者たちの神殿でのありようを批判してきましたけども、
ここでですね、この立法学者は鋭く、いや本当、礼拝の本質は主を愛することなんだ。
あと次できますけど、なり人を愛することなんだ。
それが神殿の礼拝も大事ですけども、それに勝る神への最も尊い捧げ者なんですね。
明解としているんですね。
そういう実は大きな流れの中で、この愛するということが出てきたということをまず覚えてください。
それで、この模範的な回答をした、あえて良い立法学者は、このような問題の本質をついているんですね。
ここでちょっと私たちも考えてみたいんですけれども、
皆さんね、本当にここで礼拝、私も含めて来ていますが、
私たちはですね、皆さんそんなことないと思いますけど、
習慣として礼拝に来るということではないですよね。
あるいは聖書を読んで、また聖書を通して知った神の御心に沿って歩きたい、
良いことをしたいと思いますね。
それは本当に皆さんは純粋な思いからしている。
どんな純粋な思いかというと、
神様の愛を知って、その神様の愛に応える生き様として礼拝に来るし、また聖書を読むし、
聖書やいろんなところから知った神様の御心をこなう。
別の言い方をすると、イエス様の弟子として生きる。
そのとにかく最も大事な動機。
よく思い出しますが、岩鉄学の日能教先生はね、動機が大事なんだよ。
それで動機は神への愛。
日能先生の言葉をついでに引用しますと、
お医者さんとして曖昧なことを言わなきゃいけないときがあるんですね。
09:04
例えば、ガンの患者さんに、「嫁何年ですか?」と言われたときに、
曖昧なんだと言われているんですよ。
だけど彼が言うには、曖昧なことをちゃんと知っているために最も必要なことは愛です。
まあそれは油断ですけれども、
とにかく私たちの礼拝生活、信仰生活の根本に、
神の愛を知って、その愛に応えていく。
そういうことがまず基本にあるということを、
ここで捉えていきたい、確認していきたいということですね。
まあそういう基本を今確認しましたけれども、
いろんな御言葉がありますが、
神の愛、イエス様の愛を表しているものの一つに、
こんな言葉がいますね。
ヨハネの手紙第1の4章10節ですね。
これ、なだめ、なだめって言うんですね。
ちょっと読める方、最初から読んでみましょうか。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、
私たちの罪のために、なだめの捧げ物としての御子を使わされました。
ここに愛があるのです。
まあ皆さんもこの聖書の言葉をね、
時があればちょっとじっくり考えてみてください。
あるいは何か本当にこう、
まあありてに言えば、自分が幸せを感じる瞬間、
嬉しさを覚える瞬間、
その時に、あ、ここに神様の愛とか恵みとか、
導きがあるんだってことに思いを馳せるとですね、
ああ、神様って私を愛してくださっているんだなと、
そんなことを思うことができるわけですね。
私はなんか、ペットのワンちゃん猫ちゃん見ながらそんなことを考えたりしますけれども、
まあ皆さんどうか分かりませんが、
そういう心が躍るような瞬間、時に、
神の愛と連想して考えてみたり、
いろいろちょっと神の愛について、
今週考えてみたらいかがでしょうか。
はい、2番目。
では、人を愛するということを見ていきましょう。
愛の物差し、1番目。
寛容、寛容ですね。
で、イエス様は立法学者に答えて、こう言いましたね。
じゃあこれ読んでみましょうか。3、はい。
第2の忌ましめはこれです。
あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。
これらよりも重要な命令は他にはありません。
で、ここからちょっとですね、
人を愛する、自分を愛するということを掘り下げていきたいと思います。
で、実はこの箇所を解説して、
ある学者はこんなことを言っているんですね。
12:01
私は私の隣人を正しく愛するために、
まず自分自身を正しく愛さなければならない。
で、この隣人を正しく愛するためには、
まず健全に自分を愛する。
これ学者もそう大事だと言っているんですね。聖書の学者。
で、興味深いことにですね、
これはですね、自分を愛する、大切にするって、
21世紀とか最近の風潮に感じるかもしれないんですけれども、
もうキリスト教の歴史の中では、
2世紀くらいにですね、そういうことが教えられ始めてきた。
この箇所を通して。
ちょっと難しい話になりますけど、
人の時代、人の名前わかるじゃないですか、みんなペテロとか言われ。
その後、恐怖時代って恐怖って怖いじゃなくて、
教会の父の時代ってなんですね。
教会を生んだお父さん。
12弟子の子供とか孫世代の。
そういう世代。
嫉妬心情を作った世代ってお世世代なんですけど、
そこの世代からも、
自分を愛することができてこそ他人を愛するってことが入ってきてるんです。
テルトリアウスとかですね、クリストストムスとかの人。
あと、よく皆さんも知っているアウグスティヌスなんかも残ってますね。
それは去っておきまして、
これはとにかく最近の流行ではなくて、
キリスト教の初期にきちんとそういうことが言われているということを覚えておきましょう。
そして、ある学者はですね、
さらにこのことを掘り下げてこんなように表現してですね、
いいですか。
ちょっと皮肉も入ってくるかもしれませんが、
私たちが自分自身に寛容であり、
時間を割き、関心を持ち、
自分自身のために言い訳をし、
深く自分自身の幸せを願うのと同じ仕方で、
隣人にもそのような態度を取るべきであると言っています。
私、これを読んだときにね、
私とかですね、あえて言うと、
今の時代はそうではないかもしれませんが、
日本人は真面目だから、
いや、自分にこういうふうに考えている人ってそんなにいないんじゃないかなと思ったんですね。
まず自分。
だから自分を愛するということをちょっと掘り下げようと思って、
今日はあえて話題にしているんです。
とにかくこういう基本を前向きな積極的な意味で書く人は言っています。
ここのですね、
自分自身に寛容であり、
あるいはですね、
自分自身のために言い訳をするというのが、
別の積極的な表現でいうと、
自分を健全にかばう。
何でも自分のせいにするんじゃなくて、
全部自分が悪いとかいうんじゃなくて、
他人をかばうように自分を健全にかばうというふうに考えたときに、
やはり愛は寛容であるということに思い立ったんですね。
15:02
だから寛容ということをもう少し掘り下げていきたいと思います。
寛容というのはですね、
日本語の辞書、新明解ここ辞典で調べたら、
寛容とは失敗などを咎め立てしないで、
他の良い面を積極的に認めようとする様子を、
日本語で寛容と言います。
それを踏まえた上で、
まず健全な自己愛ということをですね、
私も含めてみんなで考えていきたいと思うんです。
自分自身に問うたら、この問いについて考えてみましょう。
あなたは自分自身に寛容でしょうか。
自分自身を健全にかばうことができるでしょうか。
どうか別に言わなくていいので、考えてみてください。
それと同時にですね、
そういうことができない傾向があるかどうか、
そんなことを考えてもらったと思うし、
あとでも時間をとって考えてほしいんですが、
そういう中でできる人とできない人がいらっしゃると思いますけれども、
でも大事なことはですね、
イエス様自身が繰り返してますように、
私たちに対して寛容であられるということを、
もう一度思い出すことが大事だと思います。
イエス様は私たちのすべての罪を負うために十字架で死んでくださいました。
ですから神様は、またイエス様自身も、
たとえ私たちが失敗しても、私たちを咎め立てするようなことはなさらないんですね。
弱さのゆえに罪を犯してしまった、
十分自分の理想や神様の理想に届かなかったとしても、
イエス様も神様も私たちを咎め立てするようなことはなさらない。
寛容に私たちに対して接してくださる。
良い面を見て期待してくださる。
それが神の愛であり、イエス様の私たちに対する愛なんですね。
そして再び立ち上がらせてくださる。
ですから皆さんで考えていただきたい、覚えていただきたいのは、
たとえ自分自身の欠点や弱さに心が痛む、咎められることがあったとしても、
自分を咎め立てせずに自分の良い面を認めて、
そしてこの神様の愛とイエス様の許しの業を根拠にですね、
自分に対して寛容であるということをお互い目指していければと考えるわけです。
その上で次に、
あなたは他の人に寛容であり、他の人をかばうでしょうか?
18:03
そうですね。
そうされていると思います。
もちろんそうできない。
ハラセメントとかちょっと難しいんですけど、とにかく健全な人人間関係で、
ちょっとしたことでいざこざがった場合。
でも神様はそれでもその方を私たちと同じように愛して、
イエス様はその方のためにも十字架にかかって死んでくださいました。
その神様の愛とイエス様の許しをもとに、相手に対しても寛容な目で見ていける。
それが一つの臨時愛の実践なのではないかと思うわけです。
この神の寛容ということについていろいろな見言葉があると思いますが、
一つ挙げてみます。
第一手もての1章15から16節。
パウロの言葉です。
ご存知のようにパウロは最初の教会の人たちを迫害して、
女性も子供も全部区別なく牢屋に寝たり、
ステパノという人が石打ちで殺されるときに手を貸したりしていました。
そのパウロが証言しているんですね。
キリストイエスは罪人を救うために世に来られたという言葉は真実であり、
そのまま受け入れるに値するものです。
私はその罪人の頭です。
しかし私は憐れみを受けました。
それはキリストイエスがこの上ない寛容をまず私に示し、
私をご自分を信じて永遠の命を得ることになる人々の洗礼にするためでした。
まずは愛という中で寛容ということに焦点を絞って見ていきましょう。
3番目、愛の物差しのその2、親切ということですね。
第一コリントの愛は寛容でありの月に愛は親切ですと言われています。
そこから親切と自分と隣人を愛する子供の関係から考えていきたいと思います。
親切についてやはり辞書を調べてみたんですね。
するとこういうことが書いてあるんです。
弱い立場にある人や困った目にあっている人の身になって何かをしてやったり、
優しく応対したりすること、またその対応を親切と言います。
この第一コリント13章4節のギリシャ語の親切という言葉はもともとの意味でこんな意味があるんですね。
相手に対して善意を持って行動すること、それを親切と言います。
よくわかるんですね。
その上で親切という観点から健全な自己愛について考えてみましょうね。
21:02
あなたは私は自分自身のために時間を割き、関心を持ち、深く自分自身の幸せを願うことができるでしょうか。
それらのことが容易にできるかできない、どちらの傾向があるでしょうか。
いろんな難しさもあるかもしれません。
その上で自分は親切なんだろう、できるだろう、しているだろう、できる傾向かできない傾向か。
その上で神様の愛に基づいて考えていくとですね。
こういうことがいいですね。ここに書いてありませんけれども、神様というのは私たちに関心を持ってくださっています。
そしてイエス様は私たち自身、皆さん自身一人一人のためにご自分の命を捧げてくださいました。
そして私たち一人一人の幸いを願っておられるんですね。
じゃあその次。
じゃあ今度は反対にあなたは誰かのために時間を割いて、関心を持ち、深くその人の幸せを願うことができるでしょうか。
皆さんそういうことができる方々だと思います。
万が一できない場合の時にね、こういうこと考えられたらいいと思うんですけれども、
当然神様は私たち以外、あなた以外の誰か、相手に対しても関心を持っておられて、
またその人のためにもイエス様は命を捧げて死んでくださった。
そしてもちろんその人の幸いを神様が願っておられる。
そのことに思いを巡らしていきましょう。
じゃあそしたらですね、その上で自分自身に親切にする。
隣人に親切にするということを考える上で、約束の御言葉などを見ていきたいと思います。
神言12章25節にこんな言葉があるんですね。読めるか読んでみましょうか。
心の不安は人を落ち込ませ、親切な言葉は人を喜ばせる。
分かりやすい単刀直入の言葉ですね。
親切な言葉はですね、人を喜ばせる。
それをもちろん皆さんかけてらっしゃると思いますけれども、時々ですね。
時々と言っていいか分かりません。
もっと頻繁に自分自身に対して親切な言葉をかけてあげる。
24:04
そんなことが必要な時があるとあるかと思うんですね。
親切な言葉は人を喜ばせる。
それを自分にかけてみてはいかがでしょうか。
そしてイエス様はですね、聖書によくある羊飼い。
良い羊飼いに例えて自分自身のこと、そして私たちのことをこのように言っておられるんですね。
親切の限りを尽くして私たちに尽くしてくださる。
こんな約束といいますか宣言されています。
赤い字で読めるか読んでみましょうか。
イエス様の言葉、私が来たのは羊たちが命を得るため。
それも豊かに得るためです。
私は良い牧者です。
良い牧者は羊たちのために命を捨てます。
この良い羊飼い、まさに親切の限りを尽くしてくださるイエス様。
そのことをですね、覚えていきたいと思います。
そのように神様の愛に思いを込めてですね、自分も愛されている。
自分も自分を大事にする。
そしてその上で隣人をも大事にしていく。
そんなことをしていけるお互いであり、教会であればと願います。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
私たちは神様の愛、イエス様の愛についてたくさんのことを聞いてきました。
しかしそれを時に自分自身に当てはめて考えることが難しい時があります。
神様どうか素直にあなたのその愛について私たちが受け止めていくことができますように。
自分に対しても、人に対しても寛容であり、親切であることができるようにどうか導いてください。
またそれらの中において、あなたのご愛、その深さ、広さ、長さ、高さ、その偉大さをますます知ることができるように、私たちの心の目を開いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、シューイエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは1分ほど、神様に答え、祈る時間を持ちましょう。
黙祷しましょう。
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