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皆さん、おはようございます。
今日の礼拝にようこそいらっしゃいました。また共に礼拝できることを、これから感謝いたします。
この教会は、メッセージの前に隣の方と挨拶したり、握手したりするときを持ちますけれども、よろしかったら、周りの方と軽くですね、挨拶しませんか。
はい、それでは、一つお祈りさせていただきます。
こういうわけで、いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。その中で一番膨れているのは、愛です。
神様、この朝このように、一人一人主が引き寄せてくださって、生きている好きな神様の御前に集まって、共に礼拝できますこの恵みを感謝いたします。
主よ、神は愛なり、その愛を、今日、主よ、私たち一人一人に知らせて下さいました。
あなたの愛を示して下さいますよ。
そして私たちが、神様の愛のように、イエス・キリストの十字架の愛のように、愛する人へ帰られますように。
主よ、恵みをお与え下さい。
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン
今日は開かれている御言葉より、神は愛なりという題にして、共に御言葉の恵みをお受けしたいと思います。
世界で一番短い説教をしたという、アメリカのある牧師のお話です。
アメリカのミシガン級のレイク・オリオン教会という教会があってですね、そこにジョン・アルブレヒットという先生がいて、
それがギネスに残っているかどうかわかりませんけど、一番短い説教をしたそうです。
何分ぐらいだと思いますか、皆さん。
実は一秒にもならなかったです。
ある礼拝のことでした。
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高山に乗った先生が、神徒を見て、アメリカですから、ラブ・キトウと言って、高山から降りて行かれた。
神徒さんはみんなですね、戸惑って、何だろう、とったまいですね、ぼちたの、ぼちたのと思っていたときに、ある神徒さんがこう言いました。
今日、先生は一番多くの準備をした深いメッセージをされましたんじゃないですか。
皆さん、実は私たちは、神は愛なりとか、互いに愛し合いましょうとか、そういう説教メッセージを、
その数だけ言うならば、これ以上聞く必要がないかもしれません。
多分ですね、ここにいらっしゃる方は、何らかの形で、高山に愛し合いましょうとか、神は愛なりとか、
日本エースキリスト教団協会はどこの教会にいても、神は愛なりとか、そういう覚悟がかかわってありますけれども、
ところが皆さん、なぜ私たちは、愛について説教しなければならないのですし、
なぜ聞かなければならないのでしょう。
その答えは、私たちは相変わらず、神の愛のように互いに愛していないからではないでしょう。
私たちは相変わらず、イエス様の十字架の詩の愛のように、
夫を、妻を、あるいは親を、あるいは子供を、あるいは自分を苦しめる人、厄介な人、
そういう人々をイエス様の十字架の愛のように愛していないからではないでしょう。
ですから私たちは、愛のメッセージを語らなければなりませんし、聞かなければならないのです。
今日の第一公倫党十三書、それから聖書には、弱音の手紙第一という聖書がありますが、そこには、神は愛です。
つまり、もっとも簡単にわかりやすく言うならば、神様イコール愛ということになります。
つまり、神様の霊は愛であるということです。
逆に、悪霊のサタンの霊は憎しみであって、分裂、分破の霊であると聖書は語っています。
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ですから、神の愛をもって愛する人、イエス様の自分の命を投げ捨てた十字架の愛をもって愛する人は、神にとらわれた人であるということです。
ところが、様に聞く話によると、宗教を持つ理由が、恐怖とか怖いからとかという人があったりするようです。
神様は怖いからとか。ところが皆さん、この言葉には誤解があるんじゃないかなと思います。
天皇父なる神様は、決して恐怖や脅迫で人を信じさせる方ではありません。
天皇父なる神様は、決して人を私たちを怖がらせて支配する方ではありません。
もし神様がそういう方であるならば、世界の今70億人ぐらいですか。
70億人はすべて神様を信じる人になっているかもしれません。
毎日周りの人が、家族が毎日死ぬ。夜ごとに恐怖の夢が来る。
恐怖や威嚇を持って、おびやかしを持って神様は人を支配したり、信じさせたら、その効果はものすごく早いかもしれません。
神様は信じない人は、神なりに当たらないわけですね。もう死ぬ。
そういうことは決してありません。
またなら、神様は愛だからです。
主役の聖徒に、ルカノフクイン教という聖徒があって、その時に弟子たちとイエス様がこういう話をしました。
イスラエルは、このイエルサレムとかデスレムというところは南にあって、下の方に行くためにはサマリアという地域があって、
この街を通らなければならない。そうしないとかなり遠回りをしなければならないんですね。
そしてイエス様と弟子たちが、北のガリリという街に行くために、サマリを通り抜けて行こうとしました。
ところがサマリア人は、そもそもいろいろ歴史の遺影があって、ユダヤ人と付き合いたくない。通りも禁止、断る。
そしてイエス様と弟子たちが通り抜けるのは断られてしまった。
そしてその時に、ある弟子がイエス様にこういうふうに言いました。私は読みますね。
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弟子のヤコブットユハネが、これを見て言った。
ですよ、私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうかと。
そしたらイエス様は、こう答えられました。イエスは振り向いて、彼らを戒められたと言いました。
彼らを戒められました。それは私の心ではありませんよ。神の愛ではありませんよと彼らを語られました。
もちろんなら、イエス様の心は恐怖や威嚇ではない。愛だからです。
もちろんですね、イエス様は何度も火を呼び下して、焼き滅ぼすことがお出来になる方でしょう。しかし、そうなさらないことです。
神様は愛であらえますから、決して恐怖や、あるいは脅かしや怒りをもって人を扱われる方ではありません。
神様は愛をもって、今日の御言葉のように我慢し、忍者、忌退し、堪え非論で私たちを取り扱って下さい。
神様は愛で私たちを生き寄せて下さい。
何より私たちが自発的に進んで火を愛することを、私は我慢して、信じて、忌退して、堪え非論でおられるということであります。
つまり、私たちが喜んでイエス様を愛せますと、神様にイエス様にプロポーズする時までしては、
福が国様の中で、たまにいますと、こういう祈りをする方がいます。
神様、もっと深いあなたの愛の人に私を作り返して下さい。
すべての人を許し、すべての人を抱き、まことのイエス様の愛の人のようにならせて下さいと祈るよりは、
その自分自身のために祈るよりは、主をもっと力を与えて下さい。
誰々のように祈りの力を与えて下さい。誰々のように癒しの力を与えて下さい。
誰々のように神の声を聞かせて下さい。
そういうように、祈る信者、読解者が意外と多いそうです。
ところが、私たちが知るべきことがあります。
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聖書が語る最も優れている力は、神様を愛することです。
真心をもって、全く愛をもって、主を愛することです。
これが一番大事なことです。
神様が私たちに教えてくださった、神様の本当の力は、愛であるということです。
韓国のある女性の牧師が、癌の症状を持って、こういう本を残して、手にされていましたけれども、
こういう話があります。
先生は、とても祈る人であって、朝夜晩に祈る人であって、祈りの力もある先生でした。
たくさんの魂ものを持っている先生でした。
祈ったら応えられる。患者さんのために祈ったら病気が癒される。
そしてですね、その教会が属している、韓国では老会と中会と言いますけど、日本の方に言うならば、
教区で本当に他の男性先生より有名だったらしい。
ところが、その中で、その先生の心の中にしきりに、自分の親に対しても、夫に対しても、教会の信徒に対しても、他の教会の先生たちにしても、
みんな自分より信仰のないように見えたから、いつの間にか見避けてしまって、
そして、もう信徒は足りない、足りないと。
あかんさったら、祈ったら、病が治るのに、なんであの人が病院に行くんだろうと。
そういうふうに、信徒がないのかなと言っていた。
ところが、その癌の闘病の中に、この先生の霊が改めて開かれて、大きな悔い改めをして、外れがあったそうです。
信徒は神様ではない。
賜物も神様ではない。
力も神様ではないことを悟ったそうです。
信者に、仏会者たちに、信徒がないね、祈りの力がないねと、祈っているうちに、いつの間にか、自分のうちに、愛がなかった。
高ぶりの霊に、いっぱいなっていた。
不信仰だ、不信仰だと捌いているうちに、自分は高ぶっていて、その心の中に愛がないのを、その先生は、癌の闘病、県に行く。
数日前に運んだそうです。
そしてその先生は、こう言っていました。
信仰とか、賜物とか、力は、それがいらない、不必要ですよ、そういう話ではありません。
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それは、本当の力であるイエス・キリストに、導いてくれる道具にすぎないと、その先生は言いました。
私たちが到達すべき目標は、イエス・キリストであって、神様である、愛である、という話でした。
その先生が読んだ、記述された御言葉は、今日のこの、ホリントビトへの手紙第1、13章でした。
今日の御言葉には、そして手紙を見ますと、
愛は決して絶えることがありません。
予言の賜物なら、敷かれます。
意見ならば、やめます。
知識ならば、敷かれます。
というのは、私たちの知っているところは、一部分であり、予言することも一部分だからです。
完全なものが現れたら、不完全なものは敷かれます。
賜物も力もすべて敷かれる、やむ、というわけです。
それならば、聖書は、神は愛ですと、はっきりと私たちに教えているからです。
誤解しないでほしいんですけれども、
聖書どこにも、神は信仰ですと語っている御言葉は、私が知っている限りはありません。
あるいは、神様は祈りですという言葉も、私が知っている限りはありません。
イエス・キリストは賜物ですという言葉も、実はないでしょう。
しかし、聖書は、神は愛ですと、定義をはっきりと語っています。
今日の御言葉は、私たちにこのように言います。
私たちがイエス・キリストに再びこの地上に来られる、再臨なされるイエス・キリストにお会いする日が来ると。
アメリカにハンドリックスンという聖書をたくさん書いた先生がおられました。
その先生が、イエス様が再臨なされるその理由をこのように言いました。
裁きの目的があるんですけれども、
それより、神様とイエス様は愛そのものだから、私たちをあまりにも会いたくて、
もう一日でも一刻でも早く会いたくて、私たちに会って会いたくて、抱きしめて口づけしたくて、
そして神の天のお供えに私たちを連れて行きたくて、そしてイエス様はこの地上に来られると、この聖書に書いてありました。
この文を読んで、なるほど、そうだなと私は思いました。
もちろんイエス様の再臨の日は裁きの日です。しかし同時に愛の日でもありがたい。本当にそうです。
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だから皆さん、この世の終わりの日が必ず来るでしょう。
その時にイエス・キリストを救い主として信じる私たちは、
強い花嫁として、花をむこなるイエス・キリストにも会いたくて、会いたくて、どうしよう、どうしようと、
そして、巻き上げて、花嫁として、花をむこなるイエス・キリストをお迎えすることです。
だからその日が、もうその日を待ち望んでいるのです。早くお会いしたいからなんです。
あれでしょうか。我々の心の中に何があるのでしょうか。愛があるからです。
どうでしょうか、皆さん。結婚された奥様の皆さん、旦那さんがですね、会社仕事から帰ってくると、
ああ、いつ帰ってくるの、いつ帰ってくるの、8時に帰ってくるのか、9時に帰ってくるのか、待て待ておられる奥様。
イエス様を愛するから、神様を愛するから、イエス様にお会いしたいんです。
だからその日を待ち望んでいるわけなんです。
だから、この世の終わりにイエス様が再臨なさって、新しい天と新しい日に全てが変えられますと、
そこに残るのは、礼拝と愛、他にはないんです。
礼拝は、私たちが今日愛する神様を愛するその愛の証言と言いましょうか、表しなんです。
実は、祈る必要もないでしょう。
様物もいりません。予言もいりません。
既にもう神様に愛していて、一つになっているわけです。
ところが皆さん、互いに愛しましょうということは、もう命令したからといって、愛せるようになるわけではないんです。
自分の妻、自分の夫に子供に、愛しなさい、愛しなさい、愛しなさい、それで愛したとしましょう。
それは本当の愛ではないんですよね。
信じられただけ。
あるいは、愛のメッセージをたくさん聞いたとして、神様のようにイエス様のように愛せるようになるんだろうか。
決心したからといって、本当に十字架の愛のように愛する意図になれるんでしょうか。
皆さんいかがでしょうか。
一日、三日ぐらい、一週間ぐらいできるかもしれませんが、三日坊主という言葉があるように、人間の決心というものは、意思というものは弱くなる。
ところが、誠の本当の愛は、愛なる神様が私のうちに満たされて、生きて働いておられるときに、誠の愛は私の心から起こります。
21:17
あせなら、本当の愛は神様から来るものだからです。
神は愛だから。
そのようになるときに、神に満ちあわれるようになるときに、私たちは今日の御言葉のように、
愛は寛容であり、愛は親切です。
また人を妬みません。
愛は自慢せず、傲慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
どうやってこれができるのでしょうか。
神の愛に満たされるとき。
神に満たされるときに、イエス・キリストに満たされるときに、その愛が自然に溢れ出るという。
これを可能にしてくれるのは、人間の決心ではない。
ただの親切ではない。
どうですか皆さん、決心したからといって、自然にどんな異動も許せるようになるでしょうか。
自分をいじめる人、苦しめる人、厄介な人、みんな本当に許せるようになるでしょうか。
なかなか難しい。
でも、全く不可能ではありません。
神の愛に満たされるとき。
神様が私のうちに生きておられ、そしてイエス・キリストと深い交わりの中に満たされているときに、
その十字架の本当の愛を味わったときに、その愛に感激し、
その愛に圧倒されて、全く支配されるときに、私たちは、
今日のこの十三章が、たまる遠い遠い文句ではなくて、自分のものになるのではないでしょう。
それこそ、愛のリバイバルであります。
愛のリバイバルであります。
神様のように、イエス様の十字架の愛のように、どんな人をも愛するようになること。
イエス様のように、敵さえも許し、愛するようになること。
愛のリバイバル、これは私のうちに、自分のうちに、この燃え盛る炎のように起こるということではないでしょう。
24:07
夫を愛すること、妻を愛すること、親を愛すること、
自分をいじめる、苦しめる、大差の上司を愛すること、許すこと、
自分に本当にもう、狂く辛い思いをさせた人々を愛して、抱きしめて、
すべての人を許して愛すること、すべてのその人の過去を許して忘れること、
それは、結婚によってはなかなか難しい。
私の話ですけれども、私も小さい時から信仰を持っておりました。
信仰を持っている青年だと思っておりました。
21歳の時に、2歳の時に、分隊に来ましたけれども、
その中で、自分もすぐ上の専任がですね、もうほぼ2年間私をどれだけ苦しめたのか、
本当にね、もう辛かったですね。
ところがですね、日曜日になったら教会に行きますし、
夜はみんなのために祈るものでしたから、
許そう、許そう、愛しよう、愛しよう、ですね。
教会に、日曜日、教会に行ってですね、礼をあげて、心の中に福がためのですね、
死をあなたの愛で満たして、許せるように、彼々を許せるようにってですね、
礼が終わってですね、生活家に帰って、彼の歯を噛みたら、また怒りが燃えてくる。
その見事、その昔の経験を通して、私からとったのは、
そうだ、人間さんなる思いとか決心によっては、本当の愛は実践できない。
しかし、私の礼が、私の心が、家様の手を投げ捨てた十字架の愛で満たされば、
愛なる神様に満たされておれば、どんな人も抱きしめ、
どんな人と口づけができる、愛するようになるということが、御言葉の約束で。
私がイエス様の中に留まり、イエス様が私の中に留まっておれば、
イエス様が結ばれる身を、私も結べるということが、約束の御言葉で。
自分で結ぶものではない。イエス様が結ばせてくださることです。
だから、イエス様が愛するように、愛する人に変えられる。
イエス様が許したように、許すよう人に変えられる。
つまり、神に満たされ、イエス・キリストに満たされることです。
これが皆さん、愛の道です。
27:01
一日でも、数多くの事件、事故の記事が、新聞やニュースに載っています。
その原因は、深く覗いてみるならば、
本当の愛がないからではないでしょうか。
さて、人間は、実は根本的に、
自己中心であって、自己主義の洞窟である、ということです。
古い本ですけれども、アメリカのルース・ベネリクという方が書いた、
「服と刀」という本があります。読まれたことありますか。
日本文化を説明した古典のような、とても有名な本ですけれども、
その方は、この人間の真理を、
日本で住みながら、彼は文化人学者でしたから、
その観点からアプローチしました。
日本人がいう親切というもの、配慮というもの、迷惑をかけないようにするということは、
実はその真理の底には、
自己保護や自己防御のための手段に過ぎない、と彼は語っていました。
結果的に人間は、自己中心的であるということです。
私もあなたのバウンダリーを、境界線を越していかないから、
あなたも私の境界線を、バウンダリーを越してほしくない。
そして私をめんどくさくしないでほしいという、
自己防御の真理が、実は親切とか、迷惑をかけないようにとか、
そういう真理の底にあると、きくと刀には語られていました。
この国の人もそうかもしれない。
人間は、自己中心的なものです。
ところが、イエス・ヒリストに生まれて、そのイエス・ヒリストの十字架に囚われて、
その愛に満たされた人は、自己中心から神中心に、その中心に変えられることであります。
今日も読んでいただきました、愛の滅跡は、神様から来るものです。
イエス・ヒリストから来るものです。
そうしますと、どんな人も抱きしめることができる。
許すことができる。和解することができる。
神は愛だからです。
メッセージをあげたいと思います。神は愛です。
その愛を、私たち一人一人に与えようとしておられる。
そして、私たちが生きている間、この地上で、神の愛で人を愛する。
30:00
その愛を広げてほしいと、神様は願っています。
そうするためには、まず神の愛に満たされること。
イエス・ヒリストの十字架の愛に、私に満たされることです。
これが福音であって、これが誠の救いであります。
私たちには、みんな神が必要です。
イエス・ヒリストの愛が必要です。
お祈り申し上げます。