津田賀央
そうですね。多分本当にあれは奇跡的にそういう形が許されたというか、それもアンオフィシャルな形で許していただけたんですけども。
そうだったんですね。
あれは本当ソニーだからできたのかな。他のメーカーだったらちょっと無理だったかななんていう風に。
田中健士郎
確かに。でもすごくクリエイティブな会社というイメージはあるので、やっぱりそういうところも理解してくださる会社だったのかなと思うんですけども。
田中健士郎
そんな出会いをずいぶん昔にして、ずっとFacebookとかで実は見てたんですけども、なかなか接点もそうなんですよ。
接点なく過ごしてきて、僕も会社自分で作って、いろんな活動してたんですけど、ちょうどとあるイベントで、
僕がもう一つ関わってるマチプロタウン関係のメンバーが、渋谷Q'sっていうところでマチコバプロダクツの活動のプレゼンをするっていう機会があったんで、
じゃあ応援します。応援しに行きますって言って応援部隊として行ったら、ちょうどその日、同じイベントでピッチみたいな感じで津田さんとパイルっていうコラボラティブスタジオのメンバーがそこでプレゼンするっていうのもちょうどやってて、
あ、あの人、確か津田さんだと思って、あの新しい働き方をしてた津田さんだと思って、そこでパイルっていう新しい取り組みやってるのも知って、これは何か縁だなと思って、
田中健士郎
もう今日は津田さんにだけを話しに行こうっていうので、そのイベントの後、ちょっと並んでたんですけど登壇者だったんで、並んでですね、名刺交換して、実は僕会ったことあるんですっていうのがちょうど年末?
年末? そうですよね、去年末ぐらいで、そこからですね、その時話したらすぐに働き方ラジオも聞いてくださって、何か色々と共鳴することがあって、僕もパイルに遊びに行かせていただいたり森のオフィスにも行ったりですね、何かこの数ヶ月で何かいつの間にかすごく濃い関係性になって、
あとこの間あれですね、意味のイノベーション入門講座の方でも津田さんに講師やっていただいてみたいな感じで、色々とコラボレートさせていただいているという感じになります。
津田賀央
すごい、確かになんかもう年末からなんで、4、5ヶ月ぐらいしか経ってない。
田中健士郎
これはちょっと自分でも不思議なぐらいですね、もうパイル行って森のオフィス行って、森のオフィスもちょうど10周年のイベントだっていうので、何か縁を感じて、しかも日にち的にも行けるっていうのでもうパーッと一人で行って、
ちょうど10周年っていうタイミングで森のオフィスが、ある意味津田さんが作ったコミュニティなんですけど、津田さんなしでイベントが回ってるっていうのを目の当たりにして、めちゃくちゃ。
津田賀央
配信係でしたからね、普通にストリーミング担当でずっと機材に貼り付いてずっと音声チェックしてました。
田中健士郎
僕、津田さんがさぞかしずっと登壇するのかなと思ってみたら全然出てこなくて、裏の方になんか横の暗いところでずっと。
津田賀央
最後は今の現場のディレクターが、「いや、津田さんちょっとは喋ってください。配信担当です。」って話をしたっていうね。
田中健士郎
いやー、ほんとそうなんですよ。でもその時は生態系のような、ある意味自然とプロジェクトとか人が育っていて、
それが循環しているある意味生態系みたいで、これが森のオフィスだったのかって10年経って気づきましたって言ってて、
おーって、それすごい僕の中で印象的な言葉として残ってますね。
津田賀央
よかったです。真理に気づいた感じですね。
田中健士郎
いやー、真理そうですよね。やっぱ後から気づくものってありますよね。
ほんとなんかそんな感じで、森のオフィスにもその後も実はクラウドワークスの合宿で使わせてもらったりとか、
いろんななんか本当にこの数ヶ月、と思えないぐらいの時間を共有させていただいてるんですけど、
田中健士郎
今日はせっかく働き方ラジオ出てきていただいたんで、やっぱりその最近の津田さんのなんて言うんでしょう、
この感じというか僕らとちょっと共鳴している部分とか、パイルの話とかもちろん聞きたいんですけど、
やっぱりその10年前から2拠点でリモートで副業、起業しちゃってる津田さんって一体何者なのかっていうことですね。
津田賀央
そうですね。これ実はあんまり2人で話した時にもちゃんと聞けてなくて、というか働き方ラジオで聞きたいなと思っててですね。
田中健士郎
なのでちょっと今日は置いといたので、津田さんの歴史というか、
老いたちみたいなところも含めてですね、ぜひ教えていただければなと思ってますが、
今の津田さんに繋がる何かエピソードとか老いたちの話って何かありますか。
津田賀央
いやー結構本当に昔の話からするとね、でもあれですね、
僕でもアメリカに家族で、親の転勤で家族で移住というか引っ越ししたんですよね。
田中健士郎
で、それが小学校3年生の時。妹なんか幼稚園の頃ですよね。
津田賀央
で、あれが一番やっぱり自分の中でもショッキングな出来事で、ほとんど日本の小学校1年2年生の時の記憶が消えちゃってるぐらいなんですよ。
思い出せないぐらいやっぱり都米っていうものがショックで。
うる覚えではあるけど、やっぱり一番自分の中での古い記憶の一つって、
僕はアメリカのワシントン州のシアトルの郊外でレドモンドっていうところがあるんですけど、
今じゃあマイクロソフトの発祥の地であり、本拠地なんですが。
田中健士郎
そうですね、シアトル。
津田賀央
当時はまだね、たぶんちっちゃな田舎の郊外、ちょっと綺麗な郊外みたいな感じで、本当に何もないところだったんですが、
その一番古い記憶が、シアトルのシータック空港っていう空港に飛行機が降り立った時に窓から見えた景色が一番古い記憶かなと思って。
その時もうすごい広い森で向こうに山脈みたいな、そういう景色がすごい一番古い記憶の一つですね。
田中健士郎
何年ぐらいアメリカにはいらっしゃったんですか。
津田賀央
ほぼほぼ7年近くっていうところですかね。
田中健士郎
結構いたんですね。
津田賀央
小学校3年生か中3の終わりに帰ってきたという形なので、結構長かったですし、やっぱり自分の中の人格形成は結構アメリカでした。
田中健士郎
そうなんですね。
津田賀央
全く英語は話せない状態で、いきなり現実に1週間後に打ち込まれている状態なので、本当にマイノリティとして過ごすわけですし、
アジア系の外国人という形で、ずっと小学校の頃も過ごして、中学に入っても過ごしてということなので、
英語しゃべれないから全然友達できないし、
でもだんだん感覚的に違う文化に入って適応していく。
子どもにとっては生死を分けるような、いかに自分がその中で生き残るかっていう生存戦略みたいなもんですから、
多分本当に本能でひたすら適応するという感覚になるんでしょうね。
だからやっぱり1年とかでしゃべれるようにはなったし、1年半、2年ぐらいしてやっと友達もできるようになったみたいな感じで。
でもそれまでは結構、補修校、週に1回の日本語補修学校以外では本当にほぼほぼ1人みたいな感じでした。
田中健士郎
なるほど。今まさに娘が小1だったりするんで、もうあと数年みたいなところでいきなりアメリカにポンと行って、
田中健士郎
しかもインターナショナルスクールじゃなくて現地校ですよね。
津田賀央
現地のパブリックスクールですね。
本当にそういう、自分が、うちは別に親の転勤で行ってるんで、移民ってわけじゃないですけども、
田中健士郎
同じ移民の子のような形で現地にいて、やっぱりワシントン州は結構アジア系が多いので、周りの友達とかも台湾、韓国、中国の友達。
津田賀央
あとはハーフで、ドイツ系とネイタルアメリカンのハーフの子とかもすごい仲良かった。
あとタイ人の友達とかもすごい仲良いやつがいたりとか、結構本当に地域に住んでる人たちみんな他種多様なバックグラウンド持ってて。
なんとなくアメリカの公立なので、結構悪いことやってるやつもいれば、普通におとなしいやつもいれば。
田中健士郎
そこまで荒れた学校ではなかったですけど、それなりにいろんなことが起きる場所でもあったしね。
津田賀央
やっぱりそういう中で過ごしていくと、自分が要はマジョリティではない人間としての感覚はすごく身につきますね。
当時ちょうどロス暴動が、僕が中学に上がった時にロス暴動が起きたんですよね。
皆さんあんまり記憶にないかもしれないですけど、アメリカではものすごく歴史に残る暴動で、もうカルフォルニアが死の海になったっていうような。
ロサンゼルスが本当にすごく荒れた。
今のブラック・ライブズ・マターの、本当にあれと同じぐらいの運動だったんですけれども。
それをやっぱり一番、いろんな関心がすごく高い時に、国心を押せな時に自分もあれをテレビで目の当たりにして、
同じ西海岸でこんなことが起きてるっていうところから、やっぱりすごく人種問題とかにはすごく興味があったし、
田中健士郎
一番自分がその当時から興味があったのは、黒人の差別に関する問題で。
結構、中学・高校とかそういうものにすごい興味があった。
じゃあ、7年アメリカにいて、日本に帰ってからも割とそういうことに興味を持って。
津田賀央
そうですね。日本に帰ってくると、また帰国史上ベッテルがずっとあるので、
ひたすらお前帰国史上だからっていうので、ずっとその枠にはめられる。
田中健士郎
だから、いわゆるマジョリティなことはほぼなくというか、
本当に常に周りと少し違うみたいな感覚の中で生きてきたみたいな感じがあるんですかね。
田中健士郎
なるほど。やっぱりその、ある意味マイノリティーだからこそ、周りの前例とか当たり前みたいなのがない状況の中で、何かこう、何でしょうね、01みたいなのが身についていったみたいな感じなんですか?
津田賀央
01が好きかどうかっていうのはその当時は全然わからないですし、何かすぐ起業してやろうとかそういうマインドでも全くなかった。
田中健士郎
なかったんですね。
津田賀央
ただ、今でも思うのは、興味あることに対しては、本当に直感的に結構動いてしまうっていうところもある。
あと、あんまり飽きやすくないんですよね。
物持ちいいんですよ、僕。
田中健士郎
物持ち。あれですよね、興味、好奇心が旺盛な人って、すぐに飽きて次行くみたいな話もよく聞くけど、そうではないですね。
津田賀央
独身は旺盛だけど、物持ちもよくて、全然どうでもいいですけど、僕スニーカーとかすごい毎月磨くの好きで、同じスニーカー10年履いてるんですよね。
田中健士郎
スニーカー、革靴とかならまだあれですけど、スニーカーを磨いて10年使うとあんま効かないですね。
津田賀央
もちろん毎日履いてるわけじゃないですけど、休ませますけれども。
でも長く、あんまり飽きにくい。一回はまると飽きにくいし、でもこっちも結構旺盛な方だと思うので、割とちょっとやってみようっていうふうにすぐなってしまうっていうところ。
で、そこは何でしょうね、あんまり前例とか関係なく、戦略的に考えるわけでもなく、割と直感的に動くタイプかなと思ってて。
田中健士郎
めっちゃわかりますというか、僕の話になっちゃいますけど、すごい僕も結構似たタイプですね。
長く続く派の人少ないので、好奇心を持つような人多いですけども、なるほど。
その辺は結構コミュニティとかの相性にもつながりそうな性格ですよね。
津田賀央
そうかもしれないですね。
あと、会社に入ってからずっともう本当に、むしろデジタルっていうセクションで、最初に入った会社は広告代理店の東急エージェントという会社なんですけども、
広告会社だと普通、王道はやっぱりテレビCMとか、特にその時はテレビCMでメディアを売ったりとか、CMを考えたりみたいなところのメディア部門だったりとか、クリエイティブ部門っていうのが王道なんですけど、
完全に僕は当時まだ黎明期で、すごい端の方にあった部署のデジタルの部署、デジタルストラテジーのセクションに配属になってて、でも僕はそれを望んでたんで、新人で初めて配属されたのが僕らしいんですけれども、
本当に文字通り、本社ビルの隣のちょっと小さなビルの2階に部署があって、本当に初めて。
田中健士郎
メインのビルに入れてもらえなかったんですか。
津田賀央
入れてもらえない。大学もずっと小さい頃からそうだし、大学もマイナーなとこだし、入ってもいきなり、誰も動機とかが寄ってこないようなビルなんですよ。
みんな隣の本社にいるんで。
田中健士郎
そうですよね。新卒的な時って動機で一緒に遊ぼうぜみたいな、このまま飲みに行こうぜみたいになりますよね、オフィスで。
津田賀央
本当だから、入ったところもそういうところだったっていうのもあって、ずっと端のほうというか、やっぱりオルタナティブな感覚ではあったんですよね。そういう地筋だからこそ。
田中健士郎
そうですよね。だから、すごくどうなんですか、マイノリティでいることが好きというよりも、直感に従って周りがどう見るかとか気にせず自分の直感を信じて動くと、基本的にちょっと周りと違うところにいるみたいな、そういう感じなんですかね。
津田賀央
そうかもですね。自分がマイノリティみたいな部分っていうのは、本当に幼い頃の体験とかからすると、どちらかというと少しトラウマ的なところもありますよね。
やっぱり日本人っていうだけで、ちょっと差別にもあったりとか、一部はアジア系の人間だっていうところもあるし、英語も最初はまともに喋れないみたいなところで、つらい思いはしたんですけども。
いつしか自分が直感的に、こっちの方が面白いんだったら前例とか関係なく、メジャーカーぐらいか関係なく好きっていうふうなものに、どんどんそっちに走ってってしまうっていうのは、いつしか自分の性格というか傾向として出てきたんだなと。
当時、環境情報に入ったのも、僕はテクノが好きなんですよ、音楽とか。テンション音楽がすごく好き。テンション音楽とヒップホップとハードコアがすごく好きなんですけども。
その中でも、当時自分がだんだん高校の2年ぐらいとかから、テクノと同時にメディアートの走りとかがすごく好きで、そういうものを作りたいし勉強したいなって思ったときに、慶応の環境情報学部とかかっこいいなと。
あんまりまだ情報がない中で、他にも新しい学部ができるっていうんで、慶応落ちたらもう一つに行こうみたいな感じで。いろいろこういう環境情報っていうほうが未来を学べるのかもしれないとか、そういう思いから行ったし。
そこで大学生活もそれなりに楽しかった中で、後半からVJ始めたんですよね。クラブイベントで映像を流す係ですけど、VJの後ろとかで。そこからVJは結局社会人入っても89年ずっと本当にコンスタントでずっとやってたんですが、
当時はそういう映像表現とかそういうものがだんだんネットが出てきたときと相まって、そういったクラブミュージックだったりとか、そういったものの周辺にあるアート領域みたいなものもすごくテクノロジーが関与するようで、
デジタルと、別に自分はエンジニアではないけれども、デジタル領域とそういったクリエイティブ領域がされていくと絶対面白いだろうなと。そういうものができる会社、どうせ就活するんだったらそういうようなところに行きたいなと思って。
僕は全くCMの勉強とかコピーとか、そもそも広告代理店が何の仕事をしてるのか全くわからなかったんですけど、泣いて受かった後に知ったぐらいの感じだったんですけどね。
デジタルのそういった領域でクリエイティブなことができる会社に行きたいと思ったときに、たまたま大学の採用の情報とかに来てたのがその会社だったので、そこを受けてみたっていうので入って。
入った後に同期がみんなコピー学校に出てますとか、こういう講座受けてますみたいな話してて、何それみたいな。コピーとかって勉強するもんなんだとか思って。
もう内緒に話せる話だった。転々会議って何?みたいな感じで。こんな雑誌あるんだーとか。それを後で知って内緒に話せるっていう。本当そういう感じで、未来あるなーとかワクワクするなーと。
田中健士郎
するなーみたいな。
津田賀央
結構未来を感じられるものとか、そこに自分の表現だったりとか、次の暮らしみたいなものまで描かれ、自分の中でピーッと線を引けるようになったら、そっちに行ってみようっていう風になるのかなって。
田中健士郎
なるほどー。
自分と社会の未来とみたいなところが一致したところに進んでいってるから、自分の中では割と筋は通ってるというか、こっちだなっていう感覚だけど、周りから見ると、なんでそっち行ったの?みたいな、割と感じにはなるみたいな感じなんですかね。
津田賀央
そうですね。その後のソニー行った時も、やっぱりなんでそっちなのっていう意見もありました。なんで広告業界じゃないのっていう。その時はちょうど震災があって、その震災がすごく自分の中でもショックで。
田中健士郎
震災、はいはい。
津田賀央
それで、こんなに大量消費ばっかり促している仕事をしてていいんだろうかっていうのが、自分の中でもすごく悩むようになって。社会的に本当にいいのかな。サステナブルなのか。当時はまだ持続可能みたいな言葉があまりなかったですけど。
田中健士郎
なかったですよね。
津田賀央
環境情報学部出身としては、すごく興味がずっと自分の中でもかなり優先の高い分野の中で。やっぱり原子力の話もあったし、地震おきに環境っていう部分も考えるし。
本当に社会にとって、こういった消費を促す報告活動っていうのはいいんだろうかっていうのが、すごくじわじわと出てきて。それが抑えられなくなって、転職とかやめたいなと思って。
当時はアコホドでお世話になった方からもお誘いを受けて、もう一人でも同時タイミングで仲良しの知り合いから、ソニーにその時はその人がいたので、ソニーで新しい部署できるから来ないっていうのがあって、すごく迷ったんですよね。
たぶん広告代理店で女装衣の会社に行くっていうのは、広告会社のサラリーマンの王道的な転職だと思うんですけど、全くわけのわからない業界のほうに行くか、わけがわかっている業界のより上のほうに行くか迷ったんですが。
その時は神沢の山登り、僕山が好きなんで山登りして山頂でちょっと考えて、下山中にソニーに行こうと思って、ソニーのほうに行ってみたら本当に自分が経験したことないような職業の場所で、ちょっとわけがわからなかったぐらいでしたけど最初は。
でもやっぱりそういうほうを選びがちなんだなって。
田中健士郎
いやもう一貫して、ソニーではどういうことをやってたんですか。
津田賀央
ソニーが入ったのは最初はもう研究開発部門っていうふうに言われてたところで、先端研究開発部門っていうセクションで、
ただ内容はもう当時まだまだソニーはハード中心でしたけど、クラウドのサービスを立ち上げるためのクラウドの技術の開発をするセクションで、
僕はそこの中でエンジニアの人たちに囲まれながら、本当に企画が2人3人ぐらいしかいなかったんですけど、
コンセプトを考える担当で、こういう要素技術を世の中に出していったらどんなふうになるのか、
それはどんなサービスコンセプトとしてまとまるべきかみたいなことをひたすら考えたり言語化するような仕事をしてましたね。
それをベースにプロトタイピングしたりとか、そんなことをしていたので、
田中健士郎
本当にこうなったらいいよねっていう、将来の世界を描くようなオルタナティブな世界を描くようなことをやっていて、それすごい楽しかった。
結構そうですね。津田さんの生き方みたいなところにも重なるような話ですもんね。
田中健士郎
じゃあもうそれを聞くと、まあそうなるよなっていうのは結構わかってくるんですけど。
わかってきました。
で、ソニーで、ソニーなんで安定も非常にしている中で、でも2拠点生活とか、その辺もあれですかね。
津田賀央
森のオフィスがもうソニーいるときに立ち上がってくるんですか?
またちょっとそこは、いろいろ前後しちゃうんですけれども、ソニーに入ったのが2011年の年末だったので、ほぼほぼ2012年ですけれども。
入って2、3年する中で、いろいろ部門の中のいろんな政治的な話とかもいろいろある中で、やっぱりプロジェクトがポシャったりするっていうこともそういう経験して。
津田賀央
大きな会社で安定はしてるけれども、本当にいろんなものに自分が正直制御できないようなところで物事が動いたりするっていうのを経験してると、
本当に自分で小さくてもいいから手綱握れるのかなとか、自分の能力も落ちてきちゃうかもしれないし、
10年後、まだサーリーマンとしては安定してるかもしれないけれども、自分のことをしての能力が劣化してるんじゃないかなっていうふうに思い始めて。
で、そんな不安を抱え始めた30代の半ばの時に、ちょうど2013年か何かに読んだのが、リンダ・グラットのワークシフトっていう本ですね。