バタイユの紹介と書籍の内容
はい、tantotの時々読書日記第34回です。今日はですね、ちょっとまた一風変わった本。
ジョルジュ・バタイユの呪われた部分 全般経済学資論 当人
という本をお話ししてみたいと思います。 筑波学芸文庫から出ている本で、
坂井隆一さんの役。
バタイユの本を読んだのは、多分初めてですね。 やたらと目玉の話をする人っていうくらいのイメージしかなかったんですけど、
この本はですね、ちょっと1年ぐらい前、もう1年半ぐらい前か、
仕事上で、
仕事上というわけでもない、知り合いから紹介されて、この人面白いから一緒に飲みに行こうよという風な感じで、
紹介されて、飲みに行ってすごくその場でめちゃくちゃいろんな話で盛り上がった中で、その人から
これおすすめですよって言われて、その場でポチッとした本です。
ポチッとした本はいいんですけど、あまりに飲み会の時におすすめされているもので、どういう経緯で勧められたのか、ちゃんと覚えてなかったりするし、
届いてみたら、やっぱりお世辞にもさらっと読める本ではないので、途中まで読んで、
最初の方だけですから読んで、しばらく放置しているんですけど、ふと1年後ぐらいですね、またちょっとその人と
また一緒にプロジェクト的なことをやりましょうみたいな話になって、
そういえばと思って、改めて読み直してみた。
晴れてしっかり読み切ったという感じになります。読んでみたら結構面白いなという本で、
これ何の本?そもそも呪われた部分って何だよ、タイトルみたいな。
その時点でいいですし、あと全般経済学思論というサブタイトルと、最後に当人。
当人って難しいんですけど、宝刀息子の刀に人は尽くすっていう。
言語ではコンサンプシオン。なので消費とかそういう意味合いですね。
無駄遣いと経済の重要性
なんですけど、これ何かって言うと、
どこから説明したらいいのかな。
これは馬太佑による、現代の資本主義の行き過ぎた世界に対する批判の本なんだと私は思っています。
この当人っていうのが、実はこの当人、物を要するに無駄に消費すること、何の生産性もなく使うこと、無駄遣いすること、それが当人なんですけど、
それは今のこの世の中、馬太佑はこれを書いていると1949年ぐらいらしいんですけど、今でも全然同じですよね。
何かを無駄に使って、全く非生産的に無駄に使うことって、それはもうやってはならないことというふうにされている。
それが呪われた部分、呪われたものであるという意味合いで、その当人こそが実は経済にとってとても重要なものであるというような話です。
最初、冒頭が経済学の話って言っているのに、いきなり宇宙のエネルギーの話をし始めて、この時点ですぐ挫折しそうになるんですけど、ここをきちんと読むと、すごくなるほどなと思って。
これは本当に科学的に正しいかどうかわからないんですけど、馬太佑曰く、地球の活動って基本的には太陽からのエネルギーで全て成り立っている。地球が受けるエネルギーで太陽からのエネルギーだけなので。
ただそれは常に過剰である。過剰なまでの太陽エネルギーを受けていて、宇宙のエネルギーを受けていて、そのエネルギーはどんどん増大していくので、どっかの過程でそのエネルギーを無駄遣いせねばならぬ。
結局溜まって溜まってきたエネルギーはどっかで溜め続けると爆発してしまうので、どっかで無駄遣いしながら終始合わせていく必要がある。
実はこれちょうど第一次大戦後に書かれた本なんですけど、戦争というのはなぜ起こるのかというと、無駄遣いのサイクルがうまく回らなかった結果、一つのエネルギーの無駄遣い消費の仕方としての戦争ということに行き着いてしまう。
すごくこの本、第三次世界大戦というものに対してリアリティを持って危機感を提示しているんですけど、
第二次大戦がせっかく終わって、この後また同じようにそういう非生産的な凍人をしないで、どんどん生産性を高めてエネルギーを溜めていってしまうと、
いつかまず第三次世界大戦という形でエネルギーの消費が行われてしまう。それは避けるべきことなのではないかというような、そんな話なんです。
異なる文化に見る無駄遣いの事例
この全近代社会の分析、この凍人という観点というのは全近代社会の分析がいくつかあって、事例を出しているんですけど、
例えばメソアメリカ文明のアステカ人の釘、アステカ人で結構生贄を殺して太陽神に捧げるみたいな儀式をやるということで、結構その辺は有名な話かなと思うんですけど、
その釘がまさに凍人の一つの形だったりとか、これも同じくアメリカのメキシコ辺りのポトラッチという、北西アメリカインディアンか、メキシコじゃないか、ポトラッチという、どんどん送り物をし合うようなその習慣、
これも結局無駄遣い、凍人の一つの形である。ここまでは凍人をすることによって、ある意味で安定的な社会を築いていたという事例だった。
もう少し時代は下って、その次に出てくる事例がイスラムの話なんですけど、イスラムはちょっと毛色が変わってきて、イスラムの教えでは無駄遣いはやっぱりしちゃいけないんですね。
それをどういう形で、これまで凍人されていたようなエネルギーをすべて、この場体をいわく戦争、戦いという方向にものすごく尖らせた。
そこに異教徒との戦い、それをイスラムで教えを広めていくということに、全て力を注ぎなさいというような話があったり。
ちょっとまた場所が変わって、ラマ教、チベットですね。チベットでは逆に宗教というものにものすごく中心として社会を作ることで、ラマ教の僧侶達って全く生産的な活動はしない。
近代的な意味では生産的な活動はしないので、それによって社会の凍人が行われている。
近代社会になると、まさにウェーバーのプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神をストレートに演用しているんですけど、
プロテスタンティズムの話、特にカルバン主義によって勤勉であることがとにかく重視される。
無駄遣いをする。要は自分のために財産を使うとか、自分の楽しみのために浪費をするみたいなことをものすごく悪である。神のためにとにかく勤勉である。
勤勉であると言われた人たちが何をするかというと、とにかく得た富をもう一度生産のためにだけ使う。生産設備、生産のために使うようになる。
そのサイクルがひたすら回り続けることで、いわゆる近代の資本主義が始まってきた。
それから中産市民の世界がもう少し近現代になってきて、いよいよ生産設備に、とにかく得た富はもう一度次の再生産に使うということが正しいのである。
そういうのが世界の常識になってきてしまったというような近代の資本主義社会が生まれてきたというような形で。
最近、個人的にもこの近代社会の不思議さみたいな話を文化人類学の本とか読んでいると、
いわゆる近代資本主義社会、資本主義の社会と考え方って別に普遍的でも何でもないよねみたいな、そんな話をいろいろ感じるところがあったんですけど、
こういう観点から見てもこの分析、結構聞き放題書いているところもあるんですけど、一見説得力があるし面白いなと思って読んでました。
面白いのは、これ49年くらいの本なので、最後で言ったマーシャルプランの話をしているんですけど、
アメリカが終戦後のヨーロッパにほぼ無償の資金援助をするというような、そのマーシャルプランって実は新しいこれまでの資本主義をもう一度乗り越えるような新しい形で、
その可能性に期待したいというような、そんな話をして最後終わるというような、そんな感じの。
このマーシャルプランが実際どうなのかみたいな話は、役者解説では、結果的にその後冷戦になったときに、
資本主義と浪費の議論
そのマーシャルプランでヨーロッパの復興をすることがアメリカの国防にとって大事である、東側諸国、東側から守るカーテン、鉄のカーテンみたいな話ですね。
共産主義陣営の広がりを防ぐために大事なことであるみたいな意味のある目的が生まれてきてしまったので、
ちょっとバタイユの望んでいたような、全く目的のない目的とは切り離された純粋な東人同比としての性格は、ちょっと実は結局なかったのではないかみたいな、そんな話もあるんですけど、
逆に戦後も何十年も経って、結構このバタイユの語っているような、資本主義の社会のある意味の変なところというか、おかしさ、偏りみたいなところを相対化して、
改めて、東人すること、浪費することの重要性みたいな話は結構大事な議論なんじゃないかなと思いますし、ちょっと否禁な話になっちゃうかもしれないですけど、
近昨今のどんどん成長するぞという話ではなく、もう少し趣味とか自己実現というか、例えば推し勝みとかみたいな代表されるような、生産性みたいな話から言ったら結構無駄なんじゃないのみたいな、
そういうところに結構世の中のそういうのを大事にする人が増えているみたいなところは、もしかしたらここでバタイユの言っている浪費、東人みたいなものが徐々に出てきている可能性もあるかなと思いつつも、
やっぱり最近で言うと、アメリカの大統領が変わって、政府効率化省みたいなものができて、生産的じゃないものはもう政府からクビにするみたいな話があったりすると、ちょっとバックラッシュ的なものを感じるし、
やっぱりこの東人浪費を悪とする、呪われたものとする資本主義的社会の考え方っていうのは容易には変わらないのかなというところも感じたりします。
でもそういうことに色々思いを馳せる上で、この東人という概念が実は人類の中で重要であったにも関わらず、現在では呪われたものとして捉えられてしまっているのではないかというこのバタイユの視点はすごく刺激的だと思います。
この本、私はその1年ぐらい放置してしまったんですけど、最初にお世辞にも読みやすいわけではないみたいな話をしたんですけど、ちょっと読みづらいところはありつつも、意外と特にこの歴史で、
いろんなアステカの話とかポトラッチとかイスラム社会とかラマ教の話とか、この辺の事例を描いているところは事例米の話なんで、結構具体的な話が読みやすいし、
こういう具体の事例、データに基づいた話っていうのは非常に面白いなというふうに思うので、意外と読みやすいというか読める本だなというふうに思いました。
この人は哲学者なので、いわゆる本当にど真ん中、経済学としての正確性みたいなところは、もしかしたら、いわゆる経済学の真ん中、学術的には、
いろいろつぶつけながら読まなきゃいけないところもあるかもしれないんですけれども、これもさっき言ってた刺激を、この今の考え方の何が違和感があるとか問題なんだろうっていうところに対する切り口を得るという意味では、すごくやはり切れ味鋭い本なんじゃないかなというふうに思いました。
何よりもこれ、タイトルが最高ですよね。
中二五五六つぶつけ。だって呪われた部分ですよ。なかなかそんなタイトルつけられないな。
呪われた部分というのが本壇にあるというだけでも、なかなかこの人、ちょっと不思議なことなんじゃないかって、別にそれに思われるのがいいことは目的じゃないですけど、
それだけでも買う価値あるんじゃないかな。本壇に置いておく価値あるんじゃないかなというふうに、内容的にも分厚い本なので、結構熱く語ってしまいましたが、全部長くなっちゃいましたが、
今日はジョルジュ・バタイルの呪われた部分、全般経済学資論、当人について話しました。ありがとうございました。
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今日はこちらで終わります。ありがとうございます。