面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト。 第26回の本日は、「ヒューマンカインド 希望の歴史」について語ります。
はい、よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
今回は倉下のターンなんですけども、今年一番の一押し本というか、一番面白かったというより一番すごかった本という感じですかね。
ですね、同じく読みましたが、今年一番すごかったのはこれと言って間違いないんじゃないかというのは同じ意見です。
はい、日本で2021年の7月30日に初版が出てます。文系春秋さんからですね。
上下本のハードカバーでして、ちょっとだけ式が高いというかね、値段的にもボリューム的にもちょっとドッツキづらさはあるんですけども、読む価値はあるんじゃないかなと思います。
ですね、上下にしなくても、なんかちっちゃくして文字詰め込めば一冊にできるんじゃないかと思いつつ、でもそれは分厚すぎて読みにくいけど、これはちょっとスカスカな感じはしたなっていうのは思いました。
はい、まあね、いろいろ、単価の設定の問題とかね、翻訳権とかいろいろ事情があるのでございましょう。
著者がルドガ・ブレイクマンさんという方で、オランダ出身の歴史家・ジャーナリストとあって、1988年生まれなんで、ちょっと年下の方ですね。
割と年下ですよね、俺たちから比べると。
ちょっと今確認してびっくりしたんですけど、すごく若いわけではないですけども、この本が扱っている領域の広さからすると驚くぐらいに若い方ですね。
なんか信じられないと思いましたね。これだけのことを30代前半で、ひょっとしたら20代のうちにほぼ終わっていたのかもしれないぐらいですよね。
そうですね、その可能性はありますね。それぐらいすごい本なんですけども。
タイトルがHUMANKIND。日本語の場合はその後ろに希望の歴史というのがついてて、現代はHUMANKIND、ホープフルヒストリーと。
HUMANKINDって聞き慣れないというか、あんまり使われない言葉なんですけど、KINDっていうのは種類とか種っていう意味で、HUMANKINDで言うと人類種、人類っていうのはちょっと固めに表現したらこういう言葉になると。
文化人類学とか学問系で使う言葉ってイメージですよね。日常用語だとHUMANとかになるけど、
学術っぽい言い方だとカタカナの人とか人類みたいなイメージですよね。
そうですね。で、もしかしたらこのKINDっていうのは種類の他に優しいという意味もありまして、もしかしたらそれとかけて使ってるんかなというのは深読みなのですが。
この人ね、オランダ語で書いてるから多分本人ではないはずですよ。そうだとしたら。
ああ、なるほどね。なるほど、確かに。基本的に人類について書かれた本で、当然その副題が示すように、暗い話ではなくて明るい話が語られてます。
そうじて言うと、人間とは何かっていう人間観についての本で、簡単にまとめると人類っていうのは善であると思う。
人間の本質は善であるということを語っているというか、そういう論を構築しているという本ですね。
この本がすごいなとまず思うところは、人類は本質的に善であるというのは、ちょっと幼い考えに聞こえるというか、思想的には大体逆のことがよく言われるわけですよね。
現代の学問分野、善否定ぐらいの勢いですよね。あらゆる領域の。
そういうイノセントに聞こえる話に対して出てくる反論みたいなものを、一つ一つ丁寧に反論しているっていう形になっていて。
その論の進め方自体が本書の面白さですし、領域がめちゃくちゃ広いんですよね。この話を主張を支えるための論辞がめちゃくちゃ広い分野で。
主として挙げるとしても思想の分野、思想哲学の分野があって、生物進化学の話があり、文明論があって、心理学、内緒は高度経済学の話があり、
あともう一個ジャーナリズム、これは著者がジャーナリズムの人でもあるからでしょうけど、ジャーナリスティックな現代的な出来事の解き明かしもありということで、
さまざまな分野から人間の善性を肯定していこうとしている本です。
それがあれですよね、パート1から5まであるんだけど、いろんなジャンルからいろんな切り口で、人間は善であるっていうことを言っているっていう流れですよね。
目次なんですけど、18章まであって、全部あげていくとさすがに時間がかかりすぎるんで、大きく5つのパートに分かれてて、一応そのパートだけ拾っておきます。
パート1が、自然の状態、ホップスの性悪説とルソンの性善説が対比されていると。
自然の状態ってノーついてますけど、自然状態というやつですね。ホップスがよく言う自然状態というものを、本当にそうなのかっていうことを解いていくと。
パート2が、アウシュビッツ以降ということで、アウシュビッツの事件があった後に、様々な心理学の実験とかニュースとかで、人間の精神の性質ってこういうもんだろうっていうことが解き明かされてきたはずなんですけど、
それって本当だったんだろうかと、かなり根本的なレベルで反証しているのがパート2です。僕、読んでて一番面白かったのがここでしたね。
ここまでが上巻の部分で、続きが下巻。下巻からパート3で、善人が悪人になる理由ということで、人間が本質が善であるとしたら、なぜ悪という行為が現実的になされてしまうのかっていうのを論考するのがパート3。
パート4は新たなリアリズムといって、実際に人間の善性が発揮されている場というのを解き明かすと。パート5、もう一方の方法というのはちょっと難しい話なんですけど、困難な状況にあっても人と人が手を結ぶことは可能であるという実例とともに希望を示すというのがパート5です。
これ全部話したら1個1時間ずつぐらいで5時間ぐらいかかりそうな勢いですね。
かかりそうな勢いなんですけど、なので軽く要点だけさらって、各パートの要点だけをさらっていきたいんですけども。
とりあえずパート1ですね。自然の状態とホップスとルソーの思想の対立で、これは僕らが結構これまでのポッドキャストでも喋ってきたこととも重なるんですけども、まずホップスですよね。
非常に偉大な思想家で、リヴァイアさんという概念を提出されたと。どうですかね、ゴルフスさん。リヴァイアさんとかホップスはどこか今まで読んできた本で出てきましたか?
これがですね、私のこの1年間の読書ログの中では全然出てきてなくって、これを読んで多少知ったぐらい。リヴァイアさんって言ったらまずファイナルファンタジーですよねぐらいの認識なので。
そうですね、水系のちょっとデカめのクジラみたいな感じですね。
半分どの次に強いやつ。
ホップスさんっていうのは、社会契約っていうのとリヴァイアさんの一種は自然状態という概念を出されまして、人間っていうのは何もない状態、それが自然状態ですけど、お互いに争いまくってしまうと。
これは番人に対する闘争などと申されてるんですけど、人々は奪い合ってしまうと。
それでは最終的に結果的にはみんながマイナスの結果になると。それは困ると。
僕らは自由を持ってるけど、その自由を全開で発揮させるとお互いの自由が根本的に失われてしまうんで、その自由を一部返上しようと。それで社会を作ろうというような暗黙の契約を結んで社会というのはできてると。
だから社会生活の上で自由が損なわれるのは、これはもう仕方がないことなのだということをおっしゃってるわけですね、ホップスさんは。
現代の社会というのが割とこの人が言っていたことに基づいて仕組みが作られている部分がめちゃくちゃ多いんですよね。
君たちをほっといたら大変なことになってしまうんだから、管理する人が必要ですよねという意見は管理する人にとったらすごくありがたいわけですね。
それはこんな偉い人が言ってるんだから間違いを言ってるわけねえだろうってなるわけですよね。
なので、この著書でよくホップス君の考えた考え方がもう後年にずっと魅惑づいている。
魅惑づいているというか、それが全部じゃなくて、私たちが管理というものを必要とするという考え方。
これから紹介するもう一個ルソーの考え方をツイートするなら、その半分部分をほぼ彼のこの考え方が支えているであろうと。
もう一個がルソーなんですよね。
ルソーさんという方が自由論を論じた人なんですけども、そもそも人間というこの作ってきた社会とか文明っていうものが実は人間を悪い状況に追い込んでいるんだと。
そういうものがない方がいいよねと言ったわけ。
だから人間は逆に自由であればあるほどより良いという考え方。
だからホップスは管理の必要性を説き、ルソーは自由の必要性を説いたと。
だから人間そのものが善性であるか悪性であるかっていうその根本的な人間感がこの二人で対立しているというところがまず確認されます。
これは二人はほぼ同時代の人ぐらい。
ちょっとルソーが遅いぐらいかな。
ホップスを否定する形でルソーが出てきてみたいなイメージなんですかね、そうすると。
順番的にはその順番だと思います。
これは思想上の対立であって、現実的にどちらが一方的に正しいということはもちろんないわけですけど、
あまりのホップス寄りになっていて、ルソーの考え方が軽視されているという点はあるというのと、
この本でジャーナリズムの力が結構発揮されてるんですけど、戦争の話がよく出てくるんですよね。
出てきますね、いろんなところで。
これは僕は別に兵士になったことはないのですが、フィクションとかまた劇する話を総合したところ、やっぱり人に人を撃たせるというのはすごく難しいらしいんですよね。
だからそのために徹底的な教育が行われると。
例えば非常に厳しい訓練をするとか、敵と呼ぶ、エネミーと呼ぶ、これからロシア人の人々を殺しに行くぞとは言わないわけですね。
そこが大事なんですよね。敵を人間にしてはダメなんですよね、悪の。同じ人間扱いはさせようとしないですよね、全般的に。
徹底的にそういうふうにある種思想的な誘導を経てようやく始めて兵士は兵士になると。
そのようなことが行われていなかった時代、第一次とか第二次の大戦の頃って、銃を与えても撃たない兵士がたくさんいたというのが一つの例として出てきますね。
だからここで面白いのは、自分の生命が危機が迫っている状況であっても、人に銃を向けて撃たないというのは、悪ではないですよね。
普通に考えたら悪ではないし、さらに言うと自分に関しても人を撃ちたいとは思わないんですよね、普通に言われて考えたら。
ここにもうすでにホップスが想定している状況、つまり番人に対する闘争みたいなのが本当に起こるのかっていう。
そもそもホップスは、そんな研究をしたわけじゃないですよね。未開の人たちがどんなことをするのかとか言ってない、別に。
ただ思想的にそういう考えを出しただけ。
ここに論争の甘さというか、思想的な構築でしかない現実の戦争という極限状態から見たとしても、そういうことが行われないとしたら、
それはもしかしたら現実じゃないかなっていうようなことを、この辺を読みながらいろいろ感じさせられます。
これは順番的に逆なんですけど、ハエの王の話がありまして。
これもハエの王という小説を読んでないと全くわからないんですけども。
ハエの王の小説の中では、かなり若い少年たちが無人島に漂流すると。
最初は楽しく遊んでいた少年たちも、やがて賢悪な感じになり、支配的・暴力的な側面が出てくるっていう話で。
これはもう一大ヒットしたんですね。今でも古典の作品によく挙げられる本なんですけど。
そういうフィクションとは違って、実際に本当に漂流してしまった少年たちの霊を著者が見つけると。
彼らはハエの王になったような状況になったかというと、実はそんなこと全然ならなかったっていうのが、これもジャーナリズム的に解き明かされていて。
だから自然状態に乗っても人間って仲良くするんじゃねっていう話が、かなり序盤の方で語られています。
これはまずここで、この人実際にハエの王の現実の話っていうのがトンガで起こったお話らしくて。
偶然見つけた人のところに会いに行って話聞いてきてとか、取材の量から何からすごいですよね。この章を書くためだけに。
ここにリアルな事象があるからこそ、思想的な空想なものをひっくり返せる力がありますよね。
小説よりも事実の方が、それは多分現実に近いというか現実なんですからね。
5章で文明の呪いっていうのがあって、これもちょっとややこしい話で飛ばしますが。
6章がイースター島の謎ということで、イースター島もこれ結構有名で、モワイ像がありまして。
でもそのモワイ像ってよくわからないし顔が倒れたままになってたりするんですよね。
それって彼らが野蛮なことをして争ってしまって衰退したという意見が結構多勢やったらしいんですけど。
それも別の論章から、いやそうじゃないと。むしろイースター島を滅ぼしたのはヨーロッパ人であると。
ヨーロッパ人がその島に上陸したから滅亡しちゃったんだっていう話で。
ここでジャレット・ダイヤモンドさんが言及されてるんですよね。
ジャレット・ダイヤモンドっていうと、この手の話を好きな人は読んでる。
一冊二冊は必ず読んでるタイプの超有名人なんですけど。
バッサリと彼の推論は一部間違ってるって書かれていて。
これ言う気あるなと僕は思ったんですが。
10秒現金鉄を書いた人ですよね。
このジャンルで超有名人なんですけど、そこのバッサリと否定して書かれてると。
僕この本に最初興味を持ったのが帯なんですね。
ニュワルドの方はハラリが推薦って書かれてて。
僕サピエンス伝誌大好き。これは読むしかないっていう。
サピエンス伝誌の著者の考え方が一部否定されてるんですね。
それは確か3章とかでしたっけ。
そこでもここはユバルノはハラリ間違ってるぞみたいなことは堂々と言ってますよね。
僕が全体的に監視してるのは、世の中で当たり前とか言われてるとか人気であるようなものを
襲われずに批判しているところっていうのが、これは簡単にできることではないなと思うんで、すごいなと思ってる次第ですね。
簡単なことじゃないっていうかね。こういうのを読んでる人なら絶対読んでるだろうし、みんながみんなきっとすごいって思ってるだろうところをぶった切って
でも読んでて思ったのが、この人が言ってることの方が正しいっていう感じに思えるんですよね。
もちろんダイヤモンドスラー、モーカー、ハラリとかって巨大な論を構築してるんで、一部間違ってるというか語尾があるのは当然の話で、
全体の論そのものをことごとく覆すような評論ではないんですけども、でもやっぱりあの人間違ってるっていうのは難しいですよね。
だからそこの勇気に簡単にするんですけど、もっとすごいのがパート2なんですよ。
だから大好きなんですね、そこが。
もっとすごいのがパート2で、パート2は3章から構成されてまして、第7章がスタンフォード監獄実験は本当かっていうのと、
第8章がミルグラムの電気ショック実験は本当かっていうのと、第9章キティの死という3部立てになってまして、
たぶんスタンフォード監獄実験は名前は知ってる人はむちゃくちゃ多いんじゃないかなと思うんですけど、ゴルゴさんどうでした?
この3つはやっぱね、超有名な人間の性質を表す、たぶん戦後最も有名な3つの実験なんじゃないか、実験というか事実っていうやつですよね。
僕も心理学系の本とか行動経済学系とかその手の、人の心系の読み物を読んでると、まず出てくるタイプの本なんですね。
スタンフォード監獄実験っていうのはスタンフォード大学で行われた実験のことで、メンバー、実験者を集めまして、それを2つのグループに分けると。
1人が、片方のグループが監獄を監視する方の人間、もう片方が監視される方、監獄に放り込まれる方の人間と。
もともとスタートは同じ大学生やったんですけど、その実験の中では監守と犯罪人。
監守と囚人。
監守と囚人に分けられてしまうと。で、そのように分けられてしまったところ、彼らはもともと同じような大学生だったのに、監視側がものすごく監視らしく振る舞うようになり、
捕まっている方は卑屈にどんどんなっていくっていう現象。
そういうふうに、置かれた環境に人は適応してしまうのだと。何の操作もなく、人はそのように振る舞ってしまうんだという文脈で、よく言及されるんですけども。
そうではないと。そうではないと言っている上に、この実験結果が、その実験を行った方によってかなり歪められていると報告されております。
まあ、ピッチ上げたぐらいな言い方をしてますよね。三つとも全部。
そうそうそうそう。これまでの二つの話は、そんな根本的な反論じゃなかったんですけど、この章はもう根本的に反論してますね。
その実験そのものの結果が、ほぼ捏造されていると。目立ちたい科学者によって、自分の功績として、その実験がバイアスがかかっている形で実験されていると。
だから、実験者が何もしなくてもそうなったっていうのは嘘で、かなりの圧力を加えてようやくそのような、そのようなっていうのは実験者が望んでいるような結果になったっていうことがかかってて。つまり、法は信用しないほうがいいということなんですね、このスタンフォード観光実験っていうのは。
それだけでは、基本的にこの心理学を構成している心理学というか、人間がこういう行動を取り得るっていう認識の土台がちょっと崩れるわけですけど、次のミルグラムの電気ショック実験というのもありまして、これもご存知ですか?
おだしょー これも有名なやつですよね。あと、アウシュビッツと関連しているっていうのでも有名というか、毒ガス室でその人を殺してしまった人っていうのが、よく調べてみたら、実は極めて平凡な悪人でもなんでもないやつなんだけど、言われるがままにやったらとんでもない悪事をしてしまったっていうのを実験でもう1回証明したっていう感じの実験ですよね。
おだしょー そうですね。これはタイミング的に非常にその話と近しい。この実験が行われたのと、アウシュビッツの話が近しいときに起こったんですけど、電気ショック実験ってどんなのかっていうと、実験者を呼んで実験してもらうと。どんな実験かっていうと、ガラスの壁の向こうにいて、耳は見えないんですけど、声だけが聞こえる電気椅子に座っている人がいると。
実験を被験者の方はその電気ゲージ、電気の量のゲージを上げてくださいと言われると。一番上はほとんど人が死ぬまでの強い電流が流れると説明されているんですけど、実験者が上まで上げてくださいと言われたら、大抵の人がそのゲージを上に上げたということで、つまり命令に盲目的になる人間像っていうのがここで描かれるわけなんですけど。
これも嘘だと。
おだしょー 結論から言ったらそれだけですよね。嘘だって言ってるっていう。
おだしょー 嘘だと。そのミルグラムという人が自分の名声を得るために、そういうふうに実験結果を出しまけたと。かなり大胆に断言されてて、これすごいなと思ったんですけど。実際は多くの人が躊躇したと。躊躇したし、辞めたし、実験を発揮する人もいっぱいいたと。で、そうですよね。
おだしょー あと、バレてたっていう感じのことも書いてありましたよね。
おだしょー そうそうそう。そういうことも。
おだしょー その音だけ聞こえてきて、実際はやってねえっていうのがバレてて、それでもやってたとか。
おだしょー っていう場合もあって、だからもうその実験結果そのものに信憑性はないんですけども、そういう実験結果、人が盲目になって、ただ命令に従うだけの存在だっていうのと、アレントっていう方が、凡庸の悪っていうか、悪の凡庸さについて論じてて、それと同じようなことがそこで言えてるよねっていうことで、代々的に注目されたんですけど。
おだしょー 実はその詳しい、その実験の詳細な検討っていうのは、そのうちあんまり行われてなかったと。だから結構怪しいよねという話で。で、つまり人間っていうのは、そんなに簡単に悪を成すわけではないし、悪人になるわけでもないというのが、この2つの実験結果の真実の姿が逆に示すんですよね。
人間って別に言われた通りのことを別にするわけでもないし、自分の良心に従ってやらないこともあるということがわかるのが、この2つの章なんですけど。この2つの章は逆に、成果をあせる科学者の話は鵜呑みにしてはいけないという、1つの真言としても受け取れるというか。
そこまでやるんやっていうのはちょっとね、読んでて思いました。
ここまでやらないと、欲しい結果が得られなかったんですよね。
おそらくは。だから、今でも高度経済学のいくつかの実験結果が、つい実験しても望む結果が得られないみたいなのがポコポコ出てきてて。カーネマンの発表してる実験はかなり強度が高いらしいんですけど、それ以外の実験って結構作られてた。バイアスがかかってたとかっていう話も出てきてて。
だからやっぱり、数年単位とか、もうちょっと長い単位でそれが本当に使えるのかどうかっていうのを見極めた方がいいよなっていうのは、この本を読んでて思います。
ダニエルカーネマンも最近、間違いを認めてたっていうのでやってたりとか、他にも怪しいって言われてるっていうのは無数に出てきますよね。
多分、この学問が人間で実験してみないとわからんっていうことがあるので。
さらにその実験の仕方というのが、みんなが正しいと信じることをできるだけ客観的に証明するだけだけど、それはやっぱり、科学、物理ほど明確に証明できるものじゃないですからね。
心がどうなっているのかとかいうことと、あと実験者とその実験状況によっても人の心理って変わってくるんで、再現性が難しい上に、だから再現性が難しいからデータを捏造してもわかりづらいというのがあって。だから学問的な難しさはあるでしょうね。
ちょっと前まではさらに言うと、アメリカの大学に行っている若い白人男性しか実験対象になっていないので、あの頃の実験なんて言ってみたらもう全部それなので、絶対偏っているぞっていうやつですよね。
それはでも絶対あるでしょうし、サンデールさんの話とかでも出てきますけど、要するに競争社会に勝ち抜くことに特化された人たちがそこにいるわけですから、スタンフォードを使って。だから利己的な態度を取りがちでしょうね、きっと。
大学生をバイトで雇う段階でも絶対に偏りがあって、ある程度の一般性は取れるかもしれないけど、もうその前提で考えないといけないですよね。
結構偏っているということは受け取っておかなければならないと。もう一個、心理学の実験ではないんですけど、キティの死という競争で扱われているので、都会の真ん中で女性が殺害されそうになっていたのに、周りに住んでいた人は一切通報しなかったっていう、都会の冷たさというか、傍観者として振る舞ってしまうっていう話が、これもまた超有名なんですけど、それも実際そうではなかったと。
これもジャーナリスティックに結構検証されていて、通報自体はあったんだけど、結構警察を無視してたんじゃない?みたいな話が書かれていて、やっぱり人間って困っている人をそんなに簡単にほっとける存在ではないかなっていうところがここで確認されます。
システムっていう、制度っていう意味でのシステムね、現代社会にはいっぱいあって、組織もそうですし国家もそうなんですけど、権力っていうものが固定される状況にあると。で、先ほどの修了時代っていうと、誰か無礼を率いる人っていうのはたぶんいただろうと。リーダーっていうのはいただろうと。
でもそのリーダーがあいつおかしいなってことになったら、ボコられたっていうか、はぶられるというか、リーダーの座から引きずり下ろされると。で、大体は恥っていう概念。恥ずかしいということ。あいつはリーダーにふさわしくないっていうんで恥をかいて、で、下ろされるっていうことが起こっていただろうけど、そのようなリーダーの侵侵対策が現代では非常に起こりにくいというか、まあ無理ですよね。
一応、選挙ってそういうことをないようにしようとした制度だけど、どうやらうまくいっているイメージはあまりないですよね。
選挙区の形のあり方とか、あるいは一票の拡散みたいな選挙制度そのものがうまくいってない要因なのかもしれませんけど、トップが容易に変わらない上に、そのトップ自身が自分の位置を固定化させる施策をいっぱい持ってしまうと。だからひっくり返りにくい状況になっていると。
この話はね、ちょっとまあ難しいところにあるんですけど、権力を持った人間っていうのは、権力を持ってない状況とは、どうやら立ち振る舞いが変わるのではないかと。そこを具体的な論章は別にないんですけども、人間って赤面するという結構珍しい特徴を持ってまして、恥ずかしくなった時に顔が赤くなるんですよね。
これは確か人間にしかない特徴なんですよね。他の生物にはない。
だからコミュニケーション上でその人がどう感じているかが外側に出てしまうと。だからわかりやすいですよね。わかりやすいっていうのはコミュニケーションしやすい、安心、信頼できる人ですよね。
中にはそういう特質を持たない人もごく一部にはいると。そういう人たちは恥っていう感覚を持たないから、コミュニケーションが取りづらい。顔を赤める人からすると取りづらい人になっていると。
ただ、そのようなコミュニケーションを取りづらい人たちと権力を持った人たちが結構似た反応をするという話がありまして、権力になると共感を感じにくくなるらしいんですよね。恥っていう概念も消え去ると。
例えば偽話なんですけど、昔の貴族は奴隷を人間と思っていなかったので、奴隷の前で裸になっても恥ずかしくなかったみたいな話を聞いたことがあります。ほら、ほんまかどうか知りませんか。そういう話と同じですね。権力を持った人間はそうじゃない人間に対して共感を持たないと。
自分が強く振る舞えると。逆に権力を持つ人間に対しては、私たちは随分控えめな態度になってしまうと。こうすると、非常に管理がしやすい構造が生まれるんですよね。
【佐藤】悪人が上に来て、善人が下側の立場になるっていう。
強者になった状態が固定されてしまう。これが文明病というか、現代が持っている悪い状況の一つではないかと。確かに言われてみると感はあるんですが。
具体例の話になってくるので、ややこしいのでやめますが、そういう側面は確かにあると思います。共感を覚えない人の方が、この社会では利益を得やすい構造は多分あるでしょう。
【佐藤】ここで書いてあった例で言って、恥を感じないソシオパスっていうのは人類の中では1%しかいないんだけど、企業のCEOに限定すると4%の人がそういうタイプの人らしくて、少なくともそういう人たちが統計上ではうまくいっている確率が高くなっているというのはあるみたいですね。
【佐藤】そういう管理に向いた状況。この本で言うと、文明論というかどっちかというと経営論というか、人をどう管理するかっていう話にも触れられてるんですけど。
さっきのコップズの話とかって、一応国家の話でしたけど、企業の話としても受け取れるんですよね。従業員は放っておいたら怠けるから、ちゃんとした管理が必要だっていうのは、もう構造的に掃除ですよね。それは規模が小さくなっただけであって。
現代で言うとテイラーという方がおられまして、科学的な手法を用いた経営をするっていう。T型フォードとか車のラインとかって効率的だよねっていうことを言い出した人なんですけども。
あれも従業員を一人一人の裁量に任せるんではなく、作業を明確に決めてしまって、その通りやらせるのが最高の形だっていうのが、ものづくりとか工業を支えてて、現代にも結構脈々と受け継がれている。
経営学の古典みたいなやつですよね。ジャンルで言うと。
そうですね。これらの共通のやっぱり人間を弱いものというか、怠け者とか無知とかっていう風に見てる視点は全部一緒やと。
啓蒙主義っていうね。これもある種、人を良い方向に導く考え方の一つなんですけども、啓蒙主義って逆に言うと、人間は啓蒙されなければ弱々しい存在だという前提がその後ろにあるんですよね。
これも結局、裏返しただけで人間の見方そのものは一緒なんですね。啓蒙したら良い人間になれるってことは、啓蒙しない状態はあんまり良い人間ではないということなので。
その点もやっぱりそこは弱かったんではないかというところで、第3章が終わります。
難しいのがあれですよね。偉くなった人がルールを作るので、その感覚がない人たちが世の中の仕組みを作ってしまって、自分はそうなっているからそれが当たり前だと感じてしまって。
そう。
そうならない人は偉くなれないから、善人のままなんだけど、小器使われる側のままでいてしまう。
そうそうそうそう。だから、現代に根付いてても当たり前になりすぎてて問題だと感じてないようなことが実は問題なんですよね。
第4章のこの辺が若干ギアが変わるんですが、新たなリアリズムということで、ここも3つの章で構成されているんですが、珍しい話ではなくて、内発的な動機づけっていうのが人間の力を一番発揮させるよっていう話で、これは心理学の話でよく出てきますよね。
お金のためにやるんじゃなくて、楽しいから結構やるもんだみたいなやつですよね。
だから、逆に言うとお金を与えてしまうとその人のモチベーションが下がることすらあるという話で。
前に出てきたちょっと逆の事例ですけど、ユダヤの幼稚園でお金を払ってしまったらみんなますます遅れるようになったとかっていうのは逆パターンというのか。
だから外的な動機づけで人を導くっていうのは教育とか会社経営でよく使われるんですけど、むしろそれは人の力を見損なっているというか、低く見積もりすぎてて、その人の持っている本来の力を出し切れてない状況があると。
ホモルーデンスっていう概念がありまして、人間が遊ぶ存在だというような話も絡めつつ、パート4の一番最後の15章、道筋はこんな風に見えるというタイトルがありまして、これがむちゃくちゃ面白いんですよ。
これがむちゃくちゃ面白いですね。とある政治家が、自分が当選したら自分が持つ権力を市民に、住民の皆さんにいくつか返上しますって言ったんですよ。
実際にその人が当選して、行政に関する決定が市民の話し合いの場で結構決定するようになったらしいんですけど、そこで市民は非常に活発な議論を行ったと。
基本的には良い方向に向かったと書かれてるんですね。これがどこまで本当かどうかは知らないですけど、でもそういうことが起こりうるんですよね。
だから住民の力を信用するっていうこと。彼らは無知なんじゃなくて、適切な情報と場を与えれば建設的な意見議論ができる存在だと認めると、実際に彼らはそのように振る舞うんだっていう話なんですよ。
この本の一番前提となるメッセージっていうのが、人間が人間のことをどう考えているかによって人間の性質って変わってくるっていう、ある種循環的な構造なんですよね。
で、私が例えば5人いて、この5人全員が他の人は信用できないと思ったら、当然自分の利益になるようなことばかりをしますから、他の人から見たらやっぱりねってことになるわけですよね。だからその人の思いがその人の結果を作ってしまうんですね。
逆に5人ともが1人もみんながみんなの利益になることをすると思ってたら、別に自分の取り分を焦って取ることはなくなるんで、結果的に調和した場が訪れると。だから人間観、あるいは他の人が、自分とか他の人間がどういう性質を持つかっていうその理解そのものが結果として現れてしまう。
だから私たちがどう自分たちをどう考えるのかが重要なんですよっていうのが本書全体のメッセージになってます。
人間を信用できると思えば人間は信用できる人間になる。
信用できるようにとして振る舞うっていう。
逆に信頼できないと思うようになると人間たちはみんな信頼できないような振る舞いをしてしまう。
最後らへんのパート5のもう一方の方っていうのもこれも結構ジャーナリスティックなエピソードがあって、これはちょっと紹介すると長いんですけど。
双子がいて、片方はある種のテロリストの方にトップになり、もう片方は国側のトップになって、政府側のトップになって、その二人が兄弟やったことでうまく朝廷ができたっていうような話で。
戦争の話も出てくるんですけど、ついさっきまで銃を打ち合ってたような人たちであっても、ある契機によって一緒に踊り出すような手を組んでハグし合うようなことも普通に起こると。
だから変化っていうのは訪れるし、調和っていうのも可能性がないわけではないというエピソードで締められてます。
ここで出てきたので、大事だなと思ったのが、距離が遠くなれば遠くなるほど憎しみは大きくなりやすくて、近くにいる存在とか交流をすることによって相手のことを好きになる。
めっちゃこれも普通のことやんって思うんだけど、それを全部ストーリー含めて出てきてますよね、いろんな話が。
その距離とか近さっていうのがインターネットによってどう変わるのかっていうのはまた別の問題としてありそうですけどね、これは。
たぶん現代の今の人類の能力でいうと、やっぱりインターネットでは近いと感じるほどの情報量がないんじゃないかと思いますね。
もしかしたらVRとかメタバースって最近言われてますけど、ああいうのがもしかしたら親近感みたいなものを変えていくんかもしれないですね、インターネットで。
だからやっぱり文字だけの情報というものは親近感にはなりがたい、なる人もいるかもしれないけど、みんなに分かりやすい親近感にはならないですよね。
ここは現代の問題でもあるんですけど、一番さっき言ったメッセージ、自分たちをどう考えるかによってどのように振る舞うのかが決まるし、結果もそれに影響されるということなんですけど、
共感しやすくなってしまって、共感することで、やっぱり何をしてもいいっていう感情になるもんね、加害者に対して。
だから、ニュースそのものというよりは、ニュースメディアの情報の出し方がある偏りを持ってるんじゃないかっていう問題意識が、この著者の中にはあると思います。
一応、今の時代でいうと、最近ちょっとずつ被害者に配慮するって言って、名前出さないとか写真を出さないとかっていう傾向は出てきていますよね。
だから、今後変わっていくやもしれん。で、5番目のアドバイスが、他人を理解するように努めようと、たとえその人に同意できなくてもと。
これは激しく難しい話ですけど、その通りですね。で、6が他の人々が自らを愛するように、あなたも自らを愛そうと。これも非常にマインド的なメソッドで。
7番がさっき言った、ニュースを避けようなんですね。これはもうね、でも本当にね、ニュースは見ない方がいいと思います。見るにしても、ごく限定的なものにした方がいいですね、きっと。
一般ニュースとかは可能な限り目に入らないようにしていますね。特に芸能に関わるような話だったりとか。
やっぱりね、SNSが問題ですよ。
タイムラインの工夫によってある程度できるかなっていう。面白いことをつぶやいていても、そのネガティブな感情というか、悪い感情を突き起こすような人とかはやっぱり見なくなりますもん。フォローしないようになるし。
やっぱりある種の問題意識が高い人っていうのは、その手の何かしら引っかかったもののニュースをひたすらRTされることがあって、それって非常に偏ったニュースを見ているのと同じわけになるんで。
だからタイムラインをどう構築するのかっていうのと、ニュースを下げるっていうのは同一の問題ですよね。
究極はやっぱりSNSはやめるべきなんじゃないかと思うんですけどね。
楽しい交流があることは間違いない。これ質問するとか、さっき言った他のことを知る人を知るためのツールでもあるわけですから。使いようですよね、きっと。
そうだから人類にはまだなかなかレベルが高すぎるツールではあるんだろうなっていう感じですね。なんか2,30人だったらやっぱりうまくいくと思うんですよね。フォローするされるとかが。
デザインの仕方っていうのもあるでしょうし、人間には早すぎるっていう話があって、この手の話はポッドキャストでも何回も出てますけど、生物史とか人類史から見ると文明の時間ってめちゃくちゃ短いんですよね。
1秒ですからね、最後の。 だから例えば今の時点で文明はどうかって論じたとしても、早すぎるんですよね。成熟してないところか、青年にすらなってないというか。
我々の遺伝子はまだ狩猟最終で、たぶん濃厚採摘すらしてないですからね。 だからもっと長いスパンで見たときに文明っていうのが初めて人間に対してどうであったのかっていうのが言えるはずで、だからテクノロジーもそうであって、すべてが早すぎる。ありとあらゆるもの、民主主義も早すぎるし、テクノロジーも早すぎるし。でも変化しないわけではないっていうことですね。それが一つの希望ですよね。
良くなっているニュースというのは見えにくいけど、あると思うんですよね。結構いっぱい。しかもこの人はそれをいっぱい書いてくれているし、そういう意味でもみんなが読むべきだって思いますね、この本は。
その人たちへの思いやりがなくなってしまうし、溝は広がるばかりなので、基本的には。あいつらは悪いやつだっていうふうにこっちが捉えると、その人らも悪いことをしていいんだってことになっちゃうんで、基本的にはあんまり良くない。
9番がクローゼットから出よう。善行恥じてはならないということで、これもなかなか日本の場合って難しいんですけど、良いことを言い訳をつけてやるんじゃなくて、素直にやればいいと。日本人は結構よく言うんですよね。親切なこととかっていうことをちょっと茶化した文脈で説明することが多いんですが。
これはこの人が言うぐらいだから、世界中そうなんじゃないかと思うんですよね。
そうなんかな。これは普通に素直にやればいいと。別に人に自慢しなくてもいいけど、わざわざ恥ずかしがってとか躊躇してやる必要はないと。最後が現実主義になろう、10番が。リアリズム。新しい形のリアリズム。
人間が悪であることを知っていることが現実的であるということではなくて、もっと広い意味での現実主義。実は人間って善政であるんだよと。それは場合によっては悪事をなすためにも使われるかもしれないけど、全体的に進化的に、進化論的に人間は善政であると。善政であるからここまでの文明を築けてきたんだっていうことをまず受け入れれば、
そこから新しい制度も組み立てできるんではないかっていうのが、新しい意味での現実主義っていうところで本書の幕が閉じております。
今の話で言うと、進化論的に人間は善だったって言われると、最近自分が読んでいる本とかと繋がって、確かにそうだよね、人間は手を組めたから、人と協力できたから、ここまで発展できたっていうことを考えれば、善だっていうのも納得しやすいですね。
リチャード・ドーキスという方が、理工的な遺伝子というのを書かれてまして、これは非常に有名なインパクトフルな本なんですけど、確か初版で人類っていうのは理工的なのだって書いてたらしいんですけど、それ削除したらしいのね、後の版で。
だから、ドーキスも、あ、書きすぎたと思ったでしょうね、きっと。ちょっと余計なこと書いたなと思った。つまり、これを消したってことは、人間が理工的であるというのは、そこまでは言えないと。あくまで理工的って言えるのは遺伝子であって、人類の視点で見たときに、人間って別に理工的じゃないよってことになったんでしょう、きっと。
でも、あれもこの本で触れられていないんだけど、要するに人類にとってインパクトがでかい、人間は悪だっていうことを上手に説明した本だから、これだけ受けてしまって、みんなの印象に残っているっていうのもあるんでしょうね。
だから、そういうことを言いたい人たちが、だってドーキスが遺伝子は理工的って書いてるしっていう文脈で、非常に多く利用されたらしいですね。
ちなみに、前回の話を踏まえて、遺伝子のこととかを考えると、別に理工的でもなんでもなくて、たまたま残っただけなんじゃないかっていうのはすごい思うんですよね。
遺伝子レベルが仮に理工的と言えたとしても、それが人類の理工的と同じ文脈じゃないですよね、きっと。仮に遺伝子が理工的と言えたとしても。
遺伝子にとって、個々の生物っていうのは、ただの容器でしかない。遺伝子をパスしていくための容器でしかないみたいな。体のことまで考慮してるわけじゃないみたいな意味で、理工的とは言えるかもしれませんけど。
でもそれは別に、意思判断とか他人の思いやりがないって、それはでも遺伝子だから当たり前の話であって。だから、人間が理工的、遺伝子が理工的イコール人間が理工的とまでは論理が繋がらないですし、ドーキッズが削除したことを考えても、やっぱりそれはちょっと言い過ぎやったっていうことなんでしょう。
たぶん、あと強いて言うのは、理工的な遺伝子の働きは人間を利他的にさせた方がいいんじゃないかっていう気がしますね。
むしろさせたんでしょうね、適応的に。そのような、利他的な性質っていうのが、ある一部の利他的じゃない人たちとか、権力が生み出してしまった人たちによって固定化されて、よく言うと悪く利用されている側面も文明の中にはあると。
おだしょー でも変わり得るような印象ですね。正解じゃないかもしれないけど、2chみたいな形の方がひょっとしたら今より良い形なのかもしれないし。
おだしょー 最近記事で読んだんですけど、あつまさんがやってられるシラスという動画プラットフォームがありまして。そこでは非常にかつてのインターネットの空気を感じるようなことが書かれてて。
おだしょー コテ版で動画に書き込んで、そこに意見があって。しかもネガティブ、いわゆる炎上的な攻撃はなくて、基本的には内容を踏まえた上での良心的なコメントがやり取りされてると。それだよなと僕は思ったんですけど。
おだしょー あとはコテ版のコメントにちゃんと反論するらしいですよね。そこがでかいんだろうなっていう。YouTubeだと言ったらたぶんね、なんかこっそりバンなんですよね。
おだしょー うんうんうん、確かに。あまり言わない方がいい。反論とかは直接しない方がいいみたいな空気多分ありますよね、きっと。
そこがシラスとかで変わってくる兆しは確かにあったような気はします。
おだしょー だからたぶんそのYouTube的なものってその共感による人気の獲得なんでしょ。だからその共感を妨げるようなことはしたくないと。でもシラスはもっと議論ベースなんで、共感が結構抑えられているというか。
だからインターネットのシステムも設計によってはそういうことは全然あり得るし、だから僕らもインターネット歴なんで、僕ら人類のインターネット歴ってまだ全然浅いわけですから。
いや、俺たちとほとんど変わらないぐらいですからね、言ったら。
おだしょー だから全然、むしろ当初持ってた可能性みたいなのが再発見されて発展していくことはあるだろう。それがこの本の中で論じられてるわけではないですが、読んでて自分の問題意識とつなげると、そういうふうなものも見えてくるなと考えた次第です。
なんか今日話していて思ったのは、共感と思いやりという言葉でいろんなことを説明しやすくなるなというのをすごい思って。
この2つの概念っていうのはなんか良さそうですね、いろんな話をするときに。
あとはだから共感をどうしたら抑えられるのかと、思いやりの力はどうやって育まれるのかっていう実際論を展開できたらいいですね。
おだしょー そうですね、そこは考えていきたいところですね、ここから。
ということで本書はかなり盛りだくさんで、だいぶ端折って話しましたけど。
全体のメッセージというのはさっき言った2つで、人間の本質っていうのは基本的には善性であるはずだと。
なんか今、制度とかジャーナリズムとかニュースとかで認識が歪んじゃってるかもしれないけど、
全ての人間とは言わないがほとんどの人間は本質的には善性を持っているし、そのように振る舞うと。
で、もう1個は人間が人間のことをどう思うかっていうことによって人間の行動が変わってきて、その自分が思った結果が返ってくると。
だから人間の善性を信じることっていうそのことそのものに実際的な力があるから、そういうふうに思えたらいいねっていうのが今書の2つのメッセージです。
やっぱすごい本でしたね。
あと、ぜひ全員という言い方でいいのかな?
もう全員っていいと思うんですけど、全員に読んでほしいと思う本でしたね。
やっぱり知ってるつもりもその手の本の1つですけど、
この本はさらに知ってるつもりって、知ってるつもりは悪いことじゃないよっていうプラスのメッセージですけど、
こっちのプラスのメッセージはね、もっと大きく巨大なプラスのメッセージが挟まれてるんで、読みごたえはあると思います。