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2021-01-08 1:04:10

BC003『功利主義入門』

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面白かった本について語るPodcast ブックカタリスト第3回。

今回は、『功利主義入門』について語ります。

Amazon.co.jp: 功利主義入門 ──はじめての倫理学 (ちくま新書) eBook: 児玉聡: Kindleストア

概要

倫理学とは「倫理について批判的に考える」学問である。すなわち、よりよく生きるために、社会の常識やルールをきちんと考えなおすための技術である。本書では、「功利主義」という理論についてよく考えることで、倫理学を学ぶことの意義と、その使い方を示す。「ルールはどこまで尊重すべきか」や「公共性と自由のあり方」という問いから「幸福とは何か」「理性と感情の関係」まで、自分で考える人の書。

選んだ理由

ブックカタリスト第1回、ダーウィンエコノミーについて考えているときに、Kindleセール時にこの本を買っていたのに気がついた。

自動運転にしてもコロナにしても、これからの時代のあり方などを考える際に倫理の重要性が増してきた、と感じている。ダーウィンエコノミーの内容ともつながる部分が多く、知識を補強するため基礎を学んでみようと本書を読み始めた。

読み進めていく中で、自分は高校以来倫理というものをまともに学んでいなかったことにも気がついた。

変化がますます激しくなる今の時代だからこそ、考え方の基礎となる、普遍になりうる理論を学ぶメリットは非常に大きいことではないか、と思うに至った。

読書メモ

倫理を学ぶ際に、1つ「型」を身につけておくと他を学ぶ時にも学びやすい。その中でも「功利主義」というものは、比較的習得が容易で、これをまず入門として身につけておくとよい。

この流れに沿って、前半は主に功利主義とは何か?から始まり、時代とともに功利主義がどう変化していったのか、というのが論じられる。

功利主義は「功利原理」に基づき、最大多数の最大幸福を目指すもの。この考え方に対する批判を紹介しながら、その批判への返答を書いていく、というのが本書の基本的な流れ。

その後、それを社会政策に当てはめて「自由主義(リバタリアニズム)との類似点、相違点などを語りつつ、幸福についてや、現代功利主義の主流はどうなっているか、などの話まで書かれている。

2011年に書かれた本だが、コロナ禍のこの時代に深く考えたい「公衆衛生(Public Health)」という概念についても入門的な解説があり、その部分だけでも今の時代に読む価値はあると思う。

J・S・ミルはすごい。知れば知るほどそう感じるようになった。

末尾のブックガイドも解説つきで充実しており「入門」として非常に良い本だった。この本のおかげで、他の倫理関係の本を読むのが非常にスムーズになった。

用語解説

批判的思考

これまで身に付けてきた考え方について改めてその根拠を考えたりその性格の意味を問うたりすること。倫理学、道徳哲学を学ぶ際にもっとも重要だ、と言われていること。

倫理的相対主義

絶対的に正しい答えなどない、という考え方。

例:倫理観は時代で変わる。ずるいと言われても合法ならいい。

多くの人が知らずに支持している立場でもある。

J・S・ミル

1806-1873

自然論の著者。ダーウィンエコノミーでも名前が登場。危害原理の提唱者でもある。

自然論では、自然に従うことは、不合理で不道徳である、という主張。

ジェレミー・ベンタムの弟子。

🐷この時代にここまで未来を見越した普遍性のあることを考えていたのはすごい。この人の凄さを思い知った本でもあった

ジェレミー・ベンサム

(本書では「ベンタム」と表記されている。この本の著者はベンサムの研究者)

1784-1833

功利主義の主張者。

書籍:道徳及び立法の書原理序説(序説

自然は人間を、苦痛と快楽という二人の王の支配下に置いた。

弟子にJ・S・ミルなどがいる。

功利原理

人がなすべきこと、正しい行為は社会全体の幸福を増やす行為。正しくない行為はその逆。

幸福とは快楽で、不幸とは快楽がないor苦痛のこと。

ベンタムが批判したもので「禁欲主義」というものや「共感・反感の原理」(正しいものは気に入った行為)などがある。

功利計算

快苦の量を計算しないといけない。強弱、長短がある。今すぐか、将来か、ということもある。

快には14種類、苦痛には12種類ある。(味覚や触覚、記憶や想像、親切にした喜びの共有。人の不幸を見て得られる悪意の快。身体や精神的苦痛、苦しみを共有する苦痛、他人の幸福を妬んで感じる苦痛など)

帰結主義

行為の正しさを帰結によって評価する主義

結果と帰結は違う。こう行為すると、こういうことが起きるだろう、という予測に基づいて評価する。

幸福主義

快楽を増やし、苦痛を減らすような行為が含まれる

快楽主義などもこれに含まれる。

自由や真理の価値は、それが幸福を増進するから

内在的価値を持つものは幸福だけである、と考える。

リバタリアン・パターナリズム(ナッジ)

ナッジ、と呼ばれる政治哲学的な立場。(肘で突っつく、背中を押す、という意味)

強制するのではなく、それを選ぶようにうまく誘導する。

人間はあまり合理的に行動しない、という前提に立っている(行動経済学)

ウイリアム・ゴドウィン

1756-1836

アナキスト(無政府主義者)

家族や友人を優先することは許されない、と強く主張していた。

のちにメアリ・ウォルストンクラフトと結婚。

結婚制度自体を批判していたので、多くの人に非難された。

(本人は信念を曲げることに問題を感じていなかったようだ)

妻は出産で死亡。その伝記を書いて、婚外子、自殺未遂などが明るみに出て、さらに評判を落とす。娘は駆け落ちし、フランケンシュタインを執筆。

間接功利主義

家族への義務、道徳を考慮して行為すれば、結果的に功利主義的に行動する。

功利主義者も、常に功利原理に基づいて意思決定する必要はない、という考え方。

規則功利主義

過度な道徳規則や義務を疑い、社会全体の幸福に貢献するか評価。認められる義務や規則を採用する。

最初期の功利主義は「行為功利主義」と呼ばれる。

ミルの危害原理はこういう「二次的な規則」として理解できる

↑行為功利主義者ではこの概念は通じない。

ミルは「個人の自由を保障した方が長い目で見て大きな幸福が見られる」と考えた。

あとがき

回数を重ねてブックカタリストもようやく収録から更新までの流れが安定してきました。

私の中でも、ついにようやく「このくらい準備しといたらいいんだな」というのが見えてきた感じで、本を読むという行為もいい意味でこれまでと違うものになってきています。(これは、やってよかったな、ってしみじみ思ってます)

これを読んでくださったあなたにも、ブックカタリストを面白いと思っていただけたら大変嬉しいです。

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00:02
面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第3回の本日は、公理主義入門について語ります。
はい。
これで第3回目ですね。
第3。
やっと続いてきた。順調に続いてきた感じがします。
とりあえず1往復して、今2往復目に入ったということなので、なんとなく形が見えてきたかなというところなんですけども。
続きものなので、まずこの本。この本というか、公理主義とは何かという、ちくま新書かな。ちくま新書の本で、2012年に出るんですね、これ。
そうですね。本自体は古いというほどでもないけど、それなりに年月は経っている。
その本を買って、今このタイミングで読もうと思ったきっかけみたいなのってあるんですかね。
これ6月ぐらいに買ったつんどく本がそのまま残っていたんですが、第1回で紹介したダーウィンエコノミーとドストレートにつながっているというか。
そこでちょうどダーウィンエコノミーの話をしたりとか調べたりしているときに、いろんな用語が出てきて。
ダーウィンエコノミーは経済学の視点から社会問題を考えるみたいなニュアンスだったと思うんですけど。
今回は同じような社会問題だけじゃないんだけど、世の中を考えるにあたって倫理学というジャンルでも勉強をしてみてもいいんじゃないかって思い立ったのが理由ですかね。
なるほど。つながりというか前の本つながりでの興味の持ち方と。
そうですね。ちょっと読んでみて思ったのが、そもそも倫理学、倫理って高校1年生の時に1時間、週1コマで1年間やったんですけど、何一つ覚えていない。
何一つは言い過ぎか、でも演劇っていう言葉を覚えているとか、ソクラテスとかプラトンが出てきた気がするなとか、そんなレベルでしか覚えていなく。
僕も倫理を受けてたんですけど、ゲヘナっていう言葉しか覚えてないですね。
なんかあったっすね、そういうことはね。だから倫理って意外と小学校で道徳として倫理に至っていないことは多くの人が多分やってると思うんですけど、それ以上のことって何もやってないような気がするんですよね。
ここでまず疑問なのが、道徳と倫理は何がどう違うのかですよね、まず。
03:00
この本に書いてあった範囲での理解で言うと、道徳っていうと倫理学に至っていない社会生活を営む上で身につけておく、もうちょっと倫理の入門という前向きな言い方をすれば倫理の入門とも言えるかもしれない。
でも自分が受けた道徳の授業の印象を言葉にするとですね、先生の都合のいい生徒を育てるための教育というふうに俺は思っています、道徳というものは。
だから倫理学という言い方をしますけど、あんまり一般的に道徳学とは言わないですよね。
うん、全然言わないっすね。
その良くも悪くもっていうか、全然違うものだと考えてもいいんじゃないかなぐらいに思いましたね、改めて読んで。
あえてその2つを切り分けるとしたら、道徳っていうのは教育者、それを教える人が考える、今この社会で生きていくために身につけたほうがいいルールというか、難しくて規範について教えるという授業であって、倫理学っていうのはそのようなルールとはどのようなものであるかについて考える学問なんですよね。
そうですね、批判的思考が大事だって一番最初に出てきたかな、倫理学を学ぶ上では。
だから今ここにある社会のルールっていうのが道徳で教えられない人でも、それが果たして本当に今この現代社会で生きる上に必要なのかっていうのを考えるときに倫理学的な視点が必要になってくる。
つまり変換の時代において倫理的な視点っていうのは再構築されなければならないんだろうなというような理解がありますね。
そうですね、例えばの話で、今現在自分が例えば自動運転とかってすごい興味あるんですよね。
で、車の自動運転について調べていると、やっぱり自動運転で行き当たるのが結構倫理の問題で、よく出てくるトロッコ問題って多分前回とか前々回にも出てきたんじゃないかと思うんですけど、
スイッチを切り替えることで1人を助けて5人を殺すということをやってしまうのが正しいのかどうなのか。
これって自動運転にもものすごく当てはまることで、ドライバーの運転者の命を守らなければ10人20人が助かるという場合、運転者を守らないというのが果たして自動運転の車として正しいことなのか。
もしくは可能な限り運転者を守るということが自動運転の考えとして正しいことなのか。
少なくとも簡単に答えが出る問題ではないんだけど、考えておくべきというか考えないといけないような時代がそういうところにも出てきているんだなって思っていて、機械が入ってくるから余計難しいなのかな。
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まあそうでしょうね。
そこへの答えが正直この本も言ってみたら入門だし、そもそも倫理学というものに答えがないので答えは何一つ出てきてはいないんですが、こういう考え方。
この本にも書いてあったんですけど、倫理学の入門として一つの型を身につけましょう。
いろんな型があるんだけど、公理主義というものが入門としては割と考えやすいもので、一度この公理主義という考え方を覚えておくと倫理学を学ぶときにも都合がいいというかわかりやすくなるよみたいなことが書いてあって。
で、例えば前回のダーウィン・エコノミーを読むのはめっちゃ難しくてめっちゃ大変で、その大変さが100だとしたらですね、今回は20ぐらいの労力で読み終えることができました。
まあ新書というところもあるでしょうし、入門だから触りの部分しか語られていないから難しいのがちょっとないっていうのもあるでしょうね。
でね、もう見事なまでに前回ラシタさんと話していた、現代社会、社会問題を考える上で出てくる用語というものがいっぱい出てきて、それがわかりやすく書いてあって、結果論から言うとこっち先に読んでおいたらもうちょっと楽に読めただろうなっていうふうに思って。
それはそういう順番の兼ね合いは多分ありますね。
で、J.S. Millさんは出てくるし、ジェレミー・ベンタルさんは出てきて、パターナリズム、リバタリアニズム、で最近はナッジっていう考え方が出てきているよみたいな話も出てきていて。
結構じゃあ現代資格まで射程はあるわけですね。
そうですね、公理主義がどのように始まって、今現在の問題についてどういうこと、どういう変化をしてきたか。
公理主義自体も言ってみたら結構変わってきているっていうことだったり、個人的には偶然にもというか今の時代にちょうどマッチしている公衆衛生と言われること、それに対しても公理主義的にはどう考えたらいいのかみたいなことも書かれていて。
すごいね、わかりやすく。新書って楽なんだねっていうことを何冊か読んだことあるんだけど、今回すごい思い知ったですね。入門としてこれはすごくこういう本は役に立つんだなっていう。
だからよく読書術とかの本で、特定の学問を読みたかったらまず新書さん読みなさいとよく言われるんですけど、まさにそれですよね。
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まんまそれですね。ちょうどね、しかもこれもまた倉下さんに前回聞いた独学大全をですね、面白いだろうなと思って読んだらちゃんと面白くなってきまして。
でしょ。
やっぱりセルフマネジメントが自分にとって興味がなかっただけで、あとは知らなかったことだらけなんですよ。
中頃からは結構アカデミックな話ですからね、あれ。
そういう意味でも、その視点からこの本を振り返ってみても、入門のものを読んでおくというのは、まず全体を大きく知っておくというのはすごくその後の本を読むのが楽になるんだろうなっていう。
順番を逆で苦労したんですけど、苦労したからこそよくわかった感じがする。
なるほど。ちなみに一応だからこの本は倫理学の中に公理主義を位置づけてるということですね、要するに。
そうですね。倫理学で考える公理主義って言ったらいいのかな。倫理の中、そうかな。
だから哲学史として語られてるわけじゃなくて、倫理学として語られてるわけですね。
ただ、哲学と倫理が今回読んで、むしろどう違うのかっていうのをちゃんと説明できなくなってしまった部分もあって。
だから僕の中で言うと哲学が大カテゴリーで、倫理学が中カテゴリーですかね。
じゃあそうですよね。俺も同じような認識ではあったんですけど、そこで哲学の話とかも出てきたりとかしていて、
たぶんラシュタさんはある程度わかってるかもしれないんですが、簡単に公理主義ってどんなものなのかみたいな話を説明できたらなって思うんですが。
はい、じゃあ公理主義って何でしょう。
一言で言うならば、公理原理に基づいて、世の中全体の幸福を増やそうとする社会の考え方って言ったらいいのか。
はい。
公理原理って何なのかっていうと、人が成すべきこと、正しい行為というものは、社会全体の幸福を増やす行為だ。
正しくない行為というのはその逆のこと。
幸福とは何なのかって簡単に言うと、幸福とは快楽で、不幸とは快楽がない、もしくは苦痛の状態である。
大事なのが、一人一人が幸福になるというのではなく、一番原理的な公理主義というものは、社会全体のプラスが一番大きくなるように全員は行動すべきだっていう考え方。
ただ、それをそのまま当てはめてしまうと批判されまくるし誤解されまくるので、割とそこから歴史を200年300年くらいかな、歴史を経てだいぶ公理主義というものは丸くなってきて、
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みんなが受け入れられるようなものに変わってきたよっていうことが前半に大きく書かれているのか。
なるほど。だから、丸くなってきたかどうかは別として、最初にあった公理主義っていうのが結構細分化されてきて、いろんなバージョンの公理主義が生まれていることは確かでしょうね。
そうですね。社会の流れとして、やっぱり丸いものが受け入れられて主流になってきているっていう言い方なのかな。
例えとして出てきたのがウィリアム・ゴドウィンさんっていう18世紀の人かな。無政府主義者、アナーキストとしても有名な人で、社会全体の幸福を考えないといけないから、
例えば家事で自分のお母さんとキリスト教の大事な司祭さんみたいな人が閉じ込められているとしたら、自分のお母さんじゃなくてキリスト教の司祭を助けないといけないみたいなことを言っている過激な人がいて。
その人は結構ストーリーが面白くて、その人実は結婚してからそうやって言っておきながら考え変えて、俺やっぱそういうのやめたとか言ってて、やっぱ家族大事だわっていう風に意見が変わってきたらしく。
なぜ家族が大事なのかっていうのも、ちょっと無茶な無理矢理思いついた気弁に近いんじゃないかぐらいのことは思ったりするんだけど、家族関係の中で愛情を育む人の方が家族を含めた身近な人々をより幸福的にできて、
公理主義的にも見て望ましい。そればかりでなく家族への愛によって他人の幸福に対する感受性が高められると、他の人々の幸福にも関心を持つ立派な公理主義者になれる可能性があるっていう。
そういう理屈をつけることで家族も、本来のもともとの始まりの公理主義というものは世の中全体が良くなることが一番重要で家族とか友達を優先したらダメだって言っていたものが、こういうふうにいろんな新たな派閥というものが現れて、今の公理主義界としてはやっぱこういう家族ある程度大事にするのは仕方がないよね。
仕方がないという言い方はしていないんだけど、俺が受け取った印象で言うとある程度は仕方がないよね。でもできるだけ全員が幸せになることを考えましょうっていう感じに流れが変わってきた。
確かに結構丸いですね、その言い方は。
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公理主義と幸福みたいなことだったり、最後にはなぜかファストアンドスローみたいなシステム1システム2みたいな用語もちょろっと出てきたりしていて。
ここは個人的には何回も読んでいるような分野なので、あんまり特に面白かったとかはないんだけど、公理主義的な構造というものが構造経済学とか心理学の発達で変わってきたというか、結局そこで前回出てきたパターナリズムとかナッジだとかっていう話とかも出てくるんですけど。
ここが最後の最後が一番あれかな。結局次第1回のダーウィンエコノミーにつながるっていうような話になってきたのかな。
おそらくそうなんでしょうね。ちなみに公理主義の歴史と発展が語られているとして、公理主義に向けられている批判みたいなも紹介されます?
めっちゃあります。すごいあります。一応この人もできるだけ客観的な立場で、こういう批判に対してはこういう返し方ができるよっていうのは結構丁寧に述べられていて、そういう意味でもやっぱりわかりやすいし、あと過激な言い方をしているので、変に思想が染まったりもしにくそう。
あくまでも入門なんだけど、ちゃんとしたポジションでお話を教えてくれる良い先生だなっていう感じですね。
公理主義で一番よく批判されているのが、その全体を幸福にするために少数の犠牲を伴って全体を幸福にしようとしているものじゃないかっていうのが今の時代で言う一番言われる公理主義の批判らしいんだけど、
そもそも公理主義の始まりというのは、一部の特権階級、貴族、要するに貴族・王族がすごいお金と権力と世の中の富を欲しいままにしていたものに対抗して、社会全体が幸福にならないということを考えている学問で、
そもそもがそういうものなので、決して少数の不幸の上で成り立つという考え方ではないっていうのは結構強く書いてあったかな。公共政策の部分では特にそう書いてありましたね。
そこがこれの話の一番大切なところなんですよね。公理主義って言うと、2人まず思いつくのがジェレミー・ベンサム、日本で言うとベンサムの方が通りがいいからベンサムで言ってますけど、ベンサムとジェイ・スミルですね。
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この2人は避けては通れない2人なんですけども、例えばジェレミー・ベンサムって18世紀のイギリスの人なんですよね。
で、前回、第1回か、ダーウィン・エコノミーの話をした時に、もう何人か名前挙げたじゃないですか。
で、アダム・スミスっていう経済学の祖父と呼ばれてた人は、
あの本では祖父だった人ね。
1700年代から16世紀のイギリスの哲学者なんですよね。
ジェイ・スミルも1800年だから19世紀のイギリスの哲学者なんですね。
で、ケインズもイギリスの哲学者なんですね。
これ、実は有名な人が全員イギリスなんですよ。
17世紀から18世紀頃にめちゃくちゃ集中してるんですよ。
それ、なぜだと思います?
あれですよね。産業革命による文明の発展があって、歴史から考えても面白いよってやつですよね。
そうです。だからこれは、その頃から先ほど言われた貴族っていうものがあって、
領地があって、その中で働く人々っていうものが、いわゆるマッチっていうものに工場ができて、
そこに労働集約で人々が移り去ると。
そうなると、貴族っていう人じゃなくて、いわゆる資本家っていう人が力を持ち出したと。
で、こういう人たちが、ちょっと俺たちにも賛成権、
政治に参加する権利をくれと言い出したと。
そういう社会の変化がある中で、今まで貴族って偉かったけど、
資本家ってなんで偉いんやろっていう理屈のバックボーンがその時代にはなかったと。
で、そこで一番大切だったのが、公理主義の、さっき言った最大幸福なんですけど、
公理主義の中で一番大切なところは、公平性なんですよね。
一人一人の幸福の価値は等しいと考えるんですよね。
絶対一人一人、同じ一人に数えないとダメだってやつですよね。
で、これ現代で聞いたらごく普通な話なんですけど、
例えば貴族っていうものがある時代から言うと、かなりとっぴな考え方なんですよね。
貴族一人の幸福と庶民一人の幸福が一緒っていうのは、結構トリッキーな考え方なんですよ、その時代からすると。
トリッキーっていうか、多分違いすぎてわかんないんだけど、それが当たり前だったんですよね、どうやら。
昔はそれが当たり前だったと。
で、産業革命によってそれが少しずつ変わってきて、その時代の変わり目に対応した考え方として、
この公理主義的な全員が一人一人の幸福が良くて、その幸福の総数が良くなる方が社会が良いっていう風に考える。
つまり貴族性を限界に否定しているっていうところが、この公理主義のポイントなんですよね。
だから先ほど言われたように、例えば現代から見て公理主義がどうっていうことをまず言う前に、
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その歴史の中に位置づけると初めて見えてくるんですね、この公理主義の価値っていうものが。
そうですね、そこはね、ある程度そこら辺は歴史は多少好きで読んでいたりするので、
ある意味ちょっと当たり前みたいに思っていたけど、そこを知っていないと確かに違うっていうのはありますね。
結構イメージとして貴族性みたいなのが、中世ヨーロッパぐらいのイメージで、
もっと古い、1200年ぐらいのイメージを持っている人もいるかもしれないけど、結構最近までイギリスではあったんですよね。
今でも王様ですからね、イギリス。
多分民主制度に完全に移行するきっかけとなったのが、多分第一次世界大戦ぐらいで、
それ以前まで言って、わりかし普通選挙制度っていうのは珍しかったんですよね。
その歴史の中で公理主義が出てきて、ある種人権に近い考え方ですよね。
一人一人の幸福が大切だっていうのは。
それが起こってきたっていう話で、ちょうど最近アニメでやってるんですけど、
夕刻の森アーティっていうアニメがあるんですけど、漫画もあるんですけどね。
あれ19世紀末ぐらいのロンドンの話なんですけど、バチバチ貴族が庶民に悪いことしてるんですよ。
蒸気機関車が走ってるような時代でもそういうことがあったんですよね、実は。
むしろあれですからね、これにも出てきたんだけど、公衆衛生っていう概念が出てきたのも、
産業革命と蒸気機関によってイギリスの都市部に人が集まりすぎて、
その頃衛生面と倫理面っていうのがやばいことになりまくって、要するに粉尿垂れ流しのひどい世界になっていて、
それによって疫病蔓延して実際にそういうペストが流行っただとかなんかもあって、
そこから公衆衛生っていう概念が出てきたっていうのも書かれてあって、
ちょうど公衆衛生っていう項目が公共政策の中でも出てきたんですけど、
そこが結構今このコロナの時代においてっていうのももちろんあると思うんだけど、
結構わかりやすくて参考になることがここもまた多く。
なるほど。
まず当たり前なのかもしれないんだけど、公衆衛生っていう言葉が日本語がわかりにくすぎる。
確かにね。
英語でパブリックヘルスって言った方がわかりやすいよっていう。
公衆衛生というのはみんなの健康を守るということなんだっていう。
確かに。
さらにこれがまた倫理的に難しいのが、
要するにみんなを幸福にするためにどこまで個人の権利を制限していいのかっていうことを考える上でも、
24:03
その倫理として公衆衛生というものはすごく興味深いものだっていうふうにも書かれていて、
実際例えば今現在、もしコロナウイルスに感染してしまった場合、
社会的に隔離されて誰とも会ってはいけない。
国外から日本に来た場合でも、今もでしたっけ、2週間隔離しないと自由に行動ができない。
でもそれって過激な自由主義者の人からしたら個人の人権の侵害だっていうふうに、
もちろんそういうふうに言えるし、そう思っててマスクつけない派の人たちとか派手な活動もしてますよね。
これをどこまでどういう考え方で個人の権利をどこまで制限することが認められるのか、認めていいものなのか。
これに関しても結局答えが出せるものではないし、できるだけより良いものを考えるしかないんだけど、
今に至るまでこういうことがあって、こんなことが起こっていて、これからこうしていくべきなのではないのかっていうのが入門として書かれていて、
多分この部分だけでも今の時代に読んでおく価値はあるなっていうふうに思って。
なるほど。だから結局その隔離政策っていうものの正当性が法理主義で仮に担保されるにしても、
法理主義が間違ってるとしたらその政策が間違ってるってことになるじゃないですか。
別に僕が間違ってると言いたいわけじゃないですよ。
そうやって疑えることっていうのが多分大切なんですよね。
そのための取っ掛かりとしてすごく分かりやすかったですね。
で、やっぱり出てきてすごいなと思うのが、J.S. Millさんは大体においてもはや何百年先のことを言っているんだろうっていうぐらい、この人が言ってること全部すごいんですよね。
Millはすごいですね。自由論は読んだ方がいいかもしれませんね。
基本的に原点って難しすぎるし、時代の変化についていけないので、あんま効率がいいものではないなって思っているんだけど、これは読んだ方がいいかもしれないなって思いましたね、J.S. Millのその自由論を。
だからそう、逆に言うと、その時代、つまり庶民が貴族から離れて個人で生きていくっていうこと、職人としてじゃなくて労働者として生きていくことっていうのが始まったのが結局その変化なんですよね。
で、その変になるまで個人が自由を考えることなんてほぼなかったわけなんですよね。生き方って詰まってたもので。
その存在していないですよね。
だからその自由の問題はそこから始まって、いまだに解決には至ってないってことなんですね。
時代の流れとして公衆衛生の話にしても、まず、エドウィン・チャドウィックさんっていうベンサムの弟子が、わりと強制的に労働者を守ろうと思って、労働者のために公衆衛生でいろんなことをやろうとしたんだけど、
27:18
世の中から猛反発を食らって、結局全然うまくいかなかった。
そのパターナリズムという不権主義ですよね。党人の意向に関わりなく、その人のためだって思って勝手にやってしまう。
その時代でもやっぱりそういうふうに言われると、世間は反発していたんだなっていうのと、そのやり方をしてしまうとやっぱりうまくいかないんですよね。
私たちが自意識というものを持っていて、自由というものの価値を尊重する以上を強制っていうのは嫌われるでしょうね、きっと。
で、やっぱり現代の一番落としどころとして考えられているのがリバタリアンパターナリズムって呼ばれている、ちょっとやる気にさせるために工夫をしようみたいな言い方をすればいいのかな、わかりやすく言うと。
っていうものが今のところの答えではない、現在考えうる最善の方法というのがそれなのかなっていうのが、その公理主義の歴史、流れみたいな感じですかね。
だから、リバタリアンパターナリズムも結局危うさはあって、どんな対象にナッジをかけるのかっていうことが恣意的になってしまうんで、完全無欠とは言いがたくて。
よく民主主義って他の手段がどうしようもないから選ばれているものだという言い方をしますけど、それに近いんですよね。絶対に良いというものではない。
同じですね。やっぱこういう考え方が出てきたっていうのが、ここでも行動経済学の名前がやはり出てきていて、行動経済学という考え方がいろんな学問に影響を及ぼしてるんだなっていうのを思い知った感じもあるかな。
例えば、経済学と行動経済学の一番の違いっていうのは、プレイヤー、市場に参加する人のモデルなんですよね。行動経済学では、いわゆる非合理な、非合理的な決断をする、決定をしてしまう存在だって言うんですけど、
経済学のもともとのモデルって、完璧な情報が手に入ったら自分の利益を最大化するっていう前提に組み立っているんですよね。だから、それはうまくいかないよ、現実ではうまくいかないよってシフトしたわけなんですけど、結局、自由っていうのも、自由に行動できる、判断できるっていうのも、
完璧に合理的な判断ができる主体やから自由を与えたら、その人にとっての幸福なことをするっていうことになるんですけど、そうじゃないんじゃないかっていうのがリバータリアンパターナリズムの揺り戻しなんですよね。
30:05
みんな自由でも、結構合理的に行動できないっていうことに。でもこれに関しても思うのが、ここ10年、20年で当たり前ぐらいな感覚になってきたんだけど、俺たちが10代の頃なんてこんな概念はなかったっすよね。なかったというか、少なくとも一般的に知られてはいなかったですよね。
やっぱここ10年、20年だけでも見ても、これだけ大きく世の中の考え方が変わっているんだなーっていうことを思い知ったりだとか、ちょっと余談なんですけど、自分が今年40歳になって大人になってからもう20年経ってるんですよね。
この20年間でめちゃくちゃ世の中が変化していて、学校で学んだことがもう古くなっていることが多数ある。
でも当時自分は学校の勉強は割と得意でできていたので、自信みたいなものはあったんですけど、改めて変わっているということをちゃんと認識しておかないと、まさにおっさんになってしまうなっていう。
20年も経っちゃったらやっぱ世の中こんなに変わるんだ。50年前の20年間とは全然違いますもんね。100年前の20年とかと。
たしかにね。特に人間とかシステムに関する理解はここ10年20年でだいぶ変わってますよね。当然、歴史とかっていうものについて細かい習性はあるものの大きな流れの変化はないですけど、人間とか心理とか脳とかっていうものについては、ようやく科学が始まったばっかりという感じですからね、今のところは。
だってね、囲碁将棋なんて俺たちがちっちゃい頃ね、コンピューターが勝てるようになるには少なくとも100年かかるとか言われていたのに、気がつけばもう、頭脳ゲームはコンピューターに普通に勝てなくなってしまったし。しかもあれ、それでも将棋は人気だっていうところもまたすごいなと思うし。
たしかにそうですね。
ドラマなんですよね。結局、社会が変わっても人間のドラマみたいなものを求めるのは変わらないっていうか、ある意味それも合理的ではないという言い方ができるのかもしれないし。
でも合理的でなくても良いってことですね。
そうですね。それは大事かもな。人間は合理的でなくても良いんだっていうことをちゃんと認められないといけないですね。
そうですね。その上で、幸福という言い方は僕には強すぎるので、満足して生きていけるかっていうところを探ればいいだけであって、逆に合理的で生きたからといって、例えば幸福を得られるとか満足できるかっていうのはまた別の話っていうのが切り分けておくのが重要ですね、多分。
特にその手のことは多いですからね。
33:02
あとちゃんとさっきの幸福の話が出てきたんですけど、第6章、終盤にもちゃんと幸福についてっていう話も1章割いて語ってくれていて、これはある意味、合理主義とは直接的には関係ないんですよね。
直接的には関係ないけども、ベンサムが幸福っていうものを引き合いに出した以上、幸福とはどのように考えたらいいのかっていうのはちょっと再考しなきゃならないですね、やっぱり。
これは全く知らなくて面白かった。世の中の人は倫理学って要するに幸福について研究する学問だって思っている人も多くて、実際その哲学、ギリシャのアリストテレスの時代、幸福っていうのは倫理学とか道徳哲学として主題の1つだったらしいんですけど、
この本が書かれている段階で、今日の倫理学では幸福論が正面から論じられることはほとんどないっていうふうに書かれていて。
これだけ、そもそも合理主義という考え方がこれだけ一般化して、さらに合理主義とは幸福を増やすものだって言われているのに、幸福について倫理学の世の中ではまだみんなちゃんと考えていないって言ってるんですよね。
それをちゃんとこの人は言ってくれていることは、すごく誠実でいいなと思うんだけど、やっぱりそれだけ難しいのか、これだけ散々言っておきながらまだ学者たちは考えていないのかっていうところもちょっと面白かったり。
例えばベンさんが画期的、画期的というか、僕はその話を聞いてちょっと驚いたんですけど、快楽っていうのを計算できるってしたんですよね。幸福を計算できるって考えたんですよね。
この人ですよね。
その時点でかなりすごいなと思うんですけど、快楽-苦痛が幸福だと。すごい単純なんですけど。
それぞれも強さと持続性、確実性、遠近性、多散性、純粋性、それが及ぼう範囲っていう尺度で計算できるってしたんですよね。
それを全人口を足したら最大多数の最大幸福が出るって考えたんですけど、ちょっと無理があるなってみるは言ったんですよね。
幸福にも質があるって言ったのかな。
そうそう、そこもちゃんと書いてあります。書いてあります。
体験としては、見るみたいな人は定時の快楽と高時の快楽っていうような、高時の快楽っていうのは要するに人間的に誇れるようなことですよね。
美術館に行くのは高時の快楽らしく。
36:04
その強度があるから、それを加味した方がいいって言って、そこから議論を混乱を呼ぶんですよね。
ベンさんの考え方ならば、それがいかに不十分であっても、理数的に計算できますよね。
理数的に計算できるってことは、これが幸福だって示せるわけですけど、質って話になると、体験とか認知の話になってきて、それ各々違うじゃんって話になるんですよね。
こうなると、科学の土俵では扱えなくなる。定量的ではなくなる。定量的、定性的ではなくなってしまうんで。
それでもまだ感覚的にはわかるところがあるだとか、さらに言うと、それの突っ込みどころで言うと、快楽、幸福に優劣がある。
高級と過等があるんだったら、じゃあ苦痛には高級と過等なものはあるのかっていうことを言っていたりだとか。
それはすごい考えたことがなくて、本当そうだよなって転んで痛いものと、誰かが病気をして心配だっていう苦痛があった場合に、果たしてどちらが高級な苦痛だと言えるのか。
苦痛として高級なものである、過等なものである、それってどうやって比べるの?
でもそれができないと、公理主義としては計算できないですよね。
だからそこの時点で公理主義は否定される最大多数。
だから計算できるっていう考え方自体に語尾性があるというか、モデル化というかが理論としてちょっと雑になっているところがあって。
でもそう考え、さっき言ったように、今指摘する雑っていうのも、そうしないと個々人の、一般庶民の権利っていう考えには至れなかったんですよね。
だからスタートとしてはそれは必要だったけど、もうそれが当たり前になった時に、計算できるっていうのは無理があるじゃないですかっていう風になっていかざるを得ない。
そこが難しかったり、仮に計算できたとしても、じゃあこれが正しいって幸福を押し付けてしまったら、またパターナリズムに戻ってきてしまう。
お前はこれが幸福だって決めつけてしまったら、それはもう自由ではないよねっていうことになったりだとか。
だからここでもまた問題があって、自由と幸福っていうのは実は合一の概念ではなくて、時に対立するんですよね。
だから自由であって不幸であるっていうのと、不自由であって幸福であるっていう状態はあり得るんですよね。
だからそれのどちらに価値を置くかっていう、また一つ上の次元の対立が眠ってるんですよね。
ここは結構例え話が多くて、例えばアル中になった人がいて、アル中の人がもうお酒を飲むのをやめなかったら離婚するって言われてしまった。
その後お酒を飲みたいと思ったけれども、お酒を我慢しました。
39:06
お酒を我慢するのは幸福のために我慢したのだと思われるんだけれども、
お酒を我慢するという行為は苦痛だよねっていうふうに。
じゃあ果たしてどちらが正しいと言えるのか。
そもそも幸福というものは何をもって幸福なのかというところがやっぱり難しくなりすぎてしまう。
これはだからちょっとそこのネックがあるから、この公理主義って一般的なルールとしては適用していく。
だから公理主義っていう考え方でも、行動についてその規範性を当てはめるのと、定まっているルールについて公理主義を考えるっていう2つの考え方があって、
よく言われるのはすごく貧乏で子どもが食べ物がないと、それを食べ物を盗むっていう行為は良いか悪いかっていう話で、
行為だけ見ると言ったらすごく貧しい人がお腹いっぱいになると。
盗まれた人は別に食べ物がなくなるわけじゃないから、幸福の現象というよりはちっちゃいから良いとするっていう公理主義の考え方と、
そのお腹減ってたら盗んだらいいっていうルールが定着してしまったら、
世の中どんどん盗みが発生して社会全体の満足度が減ってしまうっていうルールについて考えるっていう考え方があって、
だからこれはどちらで公理主義を捉えるかでだいぶ変わってくるんですよね。
どっちも公理主義として考えられることですもんね。
1つ1つの行為なのかそれともルールなのかっていうところで、やっぱりこれ難しいんですけど、
例えば裁判官が判断を下してほしいのはやっぱり前者なんですよね。
そういうことになるのかな。
だから社会ルールとしては全体のルールを盗んじゃいけませんよって言いつつも、
ここの事例を見てこれはしゃーないなっていう判断が個別に下されていくのが多分一番円満やなと思うんですけど。
方角的に考えてしまうとその前例があったらその反例が全部持ち出されちゃいますよね。
もちろんそうですけどルールとしてはそうなってるっていうその立て前と本音っていう形。
だから僕はそこに二重構造がちゃんとあった方がいいなと思うんですね。
そうかもしれないですね。
幸福は考えさせられることがすごく多くて、
例えばアルツハイマーになったら殺してくれって言われていて、
その人が実際にアルツハイマーになった場合に本人の希望通り殺してあげることはその人にとって幸福なのかどうなのか。
何かってもう当人は幸福かどうかを感じれる認知能力がなくなっていると仮定した場合にその幸福がどう正当化されるかっていう問題ですよね。
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とかノーベル賞受賞者が死後にノーベル賞をもらった場合、その人は幸福だったと言えるのだろうか。
とかあともう一個難しい問題だなって思ったのが、
すごく貧乏な家庭、貧困な家庭に生まれた人が飲食獣が満たされれば幸せって感じていたとして、
その価値観としても男性に尽くすことが幸福だって思っていた人が飲食獣満たされて、
その男性に尽くす人生を過ごして幸福だったと思える。
これは果たして幸福なのだろうか。
これを幸福って言ってしまうのだったら、
社会全体を飲食獣が満たされるか満たされないかのレベルにまで落としてしまって、
飲食獣を満たせるようにしてみんなが幸せになってしまった方がいいんじゃないかというふうにも言えてしまう。
だから極端なこと言うと多分本の中でも出てくるでしょうけど、
幸福になれる薬を飲んでみんなが幸福になれるようになったら、その幸福薬をみんなで飲みましょう。
ただし、例えば自意識がそれで消えてしまいますっていうような時になった時にどちらを選んだらいいのかというと、
公理主義では多分選んだほうがいいんですよね。
公理主義の今まで俺が学んだレベルの理解で言うと公理主義的にはそれがいいんですよね。
だから幸福っていうのは快楽と苦痛の引き算、快楽から苦痛を引き算するとして、
人が生きていく上で現状を苦痛を感じるとするじゃないですか。
ファストアンドスローとかでも出てくるんですけど、人間って損失の方に重きを置くんですよね、価値を。
得るものより失うものの方を大きく感じるんで、多分普通に生きてたら痛みの方が多いんですね。
多く感じるんですよね。
プラスとマイナスが仮に等しくやってきたとしてもマイナスの方が多く感じてしまうと。
そうすると言ったらそのマイナスの状態があるとして、それが意識によって発生しているとするじゃないですか。
自意識に私が私っていう認識によって。
怖い話。
その意識を消すとしたらプラスもマイナスもなくなるんでゼロになるんですよね。
つまりマイナスから見たときに数値が上がってしまうんですよね。
ということは公理主義にとってこれは肯定する材料になるんですよね。
でも果たしてそれは本当に良いことなのだろうか。
だから結局公理主義って幸福しか見ないんで善と悪っていうのはないんですね。
それ以外の軸は持ってないんですよね。
だからあくまで公理主義っていうのはあくまでこういう問題を考える上での入門というかこういう考え方が出発点になったんですよってだけでこれを学ぶとますます話がややこしくなるんですよ。
それが面白いんですけど。
難しいですね。
その公理主義を理解すること自体は言ったら数時間かけてこの本を読めば俺の中でなんですけど大体概要は理解できた感じはするんですけど。
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じゃあこれを理解した上でどうしたらいいかっていうのは悪いかとすると難しくなってしまったと言えるかもしれない。
俺的には面白くなったとは思うんですけどいろんな考えることができたというか考え方が増えたというのかな。
なるほどなるほど。
これ現代まで話は伸びてるとするとあの人ピーターシンガーも出てきましたよね。
ピーターシンガーさんも出てきましたね。
ピーターシンガーさん動物のおける権利みたいな話も出てきました?
そこも話出てきました。
そもそもが例えばちょっと前まで黒人は同じ人間だとみなされていなかった。
女性は同じ人間だとみなされていなかった。
でもみんな幸福を感じて苦痛を感じるものだからじゃあ動物ってそこに加えなくていいのっていう。
かつては例えば同性愛なんかに関してもダメだっていうふうに言われていたんだけどそれもまた変わってきていて今の時代の流れとしてもやっぱり動物に苦痛を与えるなっていう流れになってきてますよね。
実験とかではそうですよね。
これがその第1回のダービンエコノミーに出てちゃうわ。
ダービンエコノミーに出ちゃうわな。もう1回前か。
フードテイクが来るね。
フードに出てきた家畜ですよね。
豚とかニワトリがもうすごい狭いところに押し込められて、ただ人間に食われるためだけに適切に食われるためだけに品種改良されている状況っていうのを公理主義の範囲を広げ見たときにとんでもないことをしてるわけですよね。
とんでもない数のニワトリにとんでもない苦痛を与えてるわけですよね。
そういうことを知ってしまうと食事を取るときもちょっと考え込みますよね。
結局ね、食べ物を買えるしかなくなってしまう。
だからこういうのは学べば学ぶほど人生が複雑になっていくんですよね。
そうですね。複雑になる。複雑になると言えるな。
でも学んで改めて思うのが、さっきも話してたんだけど、俺たちが10代の頃とは圧倒的に時代が変わっていて、この感覚をちゃんと世間の流れとしてこうなってきているんだっていうことを理解していないと、同じなんだけど老害化してしまうよね。
若者の考えていることが理解できるということになりかねない。
前提としている常識というか情報とかが異なるわけですからね。それはもう全然考えることもわからないでしょうね。きっと。
誰かが言ってたテスラの株価が異常に高いのは、投資家よりも個人が力を持ち始めていて、地球環境に優しいテスラというものをみんなが応援として株を買うようになっていて、
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価値というものの、企業の価値というものが資産価値すらもみなから好かれるかという概念が加わってきたっていうのかな。金銭的価値ではない部分が金銭として表示されるようになってきた。
地球に優しい、動物に優しいということをアピールすることがビジネスとしても結構重要なことになってきている。
個人がそういうものを応援するようになってしまっているので、そこまで話を広げるともう教養レベルじゃなくて、やっぱりビジネスをやる上でもこういうことは知っておかないといけないよねっていう次元になってきていて、やっぱり勉強しといて損はないなって繋がりますよね。
そうですね、確かに。
企業価値の多様化っていうのは幸福を定義するのが、幸福の定義って一個ではないっていう話と多分似てて、時代によって変わっていくんです。
さっき言われたように、男性社会の中で女性が使えるのが幸福っていうものが、今は徐々に多様化しているというか、変わってきつつある中で、だから答えられないんでしょうね。
幸福とは何かっていうのが、それぞれの時代とか文化によって変わってしまうところがあるんで。
だから特に多様化すれば、その社会全員が同じような幸福を持っていたらまだマシなんですけど、もうバラバラですからね。
それが少なくとも今の時代はいいことだと思われているから、この流れにどんどんなっていくだろうし。
おそらくはね。これはでも結構、倫理とか公理主義っていうのはいろんなところにリーチしてて、多分これからもいろんなところで見るとベンさんの名前が出てくると思いますけども。
そうですね。やっぱりそういう意味でも、ベースにしやすい学問として、今までフードテック革命とダーウィンエコノミーと公理主義入門っていうのが出てきたけど、全部のベースにあるのは公理主義入門だなっていう感じがして。
確かに。
土台にしかならないんだけど、土台としてこれを知っておくのはすごく良い感じかなと。
必要ですね。
だからそう、公理主義っていうのはさっき言ったように2つ問題にリーチしてて、幸福っていうものは何かっていうものと、あと自由と幸福を同感、個人の自由と幸福の優先のどちらが重要かっていう2つの問題にリーチしてて、これはもう非常に現代的な問題なんですよね。
まさに今のってやつですよね。
公理主義を強く否定したので有名なのはジョン・ロールズっていう正義論っていう方で、社会全体の公理よりも正義のほうが大切だと。正義のほうが大切だって言われてて。
51:12
日本で有名なサンデル教授はコミュニティリズムって言って、人が消毒してる共同体が重要だって言って、それぞれ別の倫理学というか哲学を展開されてて、それはまたプラスアルファで学んでいけばいいと思うんですけど、結局でもそれを理解するにも最初に公理主義を理解しなきゃいけないんですよね、基本的に。
そう、その話もちゃんと出てきておりまして、公理主義が一通り終わってから、この本が独学大全を読んだ後読んで、すごいいいなと思ったのが、最後に結構長いこの後この本を読んだらいいシリーズがあるんですよ。
ただリストとして並んでいるだけじゃなくて、この第一章のこういう話にはこの人とこの人とこの人が出てきて、この人のことを知るには例えばこの本を読んでおくと良くって、この人のことを知るにはこの本を読むといい。
哲学者として例えば有名なカントっているじゃないですか。カントさんはクッソ難しいんで、よっぽどのことがないんだったら読むことはお勧めしないとも言っていて。
カントさんを勉強しようとすると発狂した人すらいるっていうレベルなので、基本的にこの人は最初には読まない方がいい。それでも読みたいんだったらこれがいいと思うけどっていうふうに言ってるんだけど、そういうちゃんとテキスト付きで本を紹介してくれてるんですよ。
カントの話も触れたけど、新章の見分け方って実はここにあって、後ろの方に参考文献とかブックガイドが付いてる新章は新章というか、ここにあらゆる入門という本はいい本です。
ここでもちゃんとさっきの正義の話が出てきて、幸福というものを論じることが難しくなってしまって、特に日本でマイケル・サンデルさんの正義のやつが話してきていて、日本流行っていて、日本でも正義系の本とかは増えているし、
哲学とか倫理学っていうよりはどっちかというと哲学の分野で、正義というものは社会で考える人が増えてきたっていうことは書かれてましたね。
確かに。それはでも結構重要なことで。でも僕は正義よりも自由の方がさらに重要だと思うんですけど、そこは別にいいですわ。ちなみにカントだけじゃなくて、ドイツの哲学者は基本的に全員難しいですよな。
気合がないと読めないです。
いや真面目にね、哲学というものはやっぱり入門ぐらい読んでおけば基本的にはそんでいいだろうなって思いますね。やっぱりむずい。
54:00
例えばアリストテレスとかプラトンとかは全然普通に読めます。
岩波のちょっと古い訳でも読めますし、公文社新訳文庫っていうのもあって、それは現代語訳されているのでもっと読みやすいんですけど、たとえそうであってもカントの本は読みづらいです。論理が追いづらい。
俺ね、正直カントのことは全然知らないんで、なんともわかんないんですけど、前回のダーウィンエコノミーの話を読んでいても全然わからんっていうのがすごいいっぱいあったんで、それがもっと難しいってことなんだろうなって思うと、やっぱり俺はいいかなって思いますね。
だからカントはカントについて書いてる新書とかNHKとかでやってるガイドブックとかで、まずさらっとさらうぐらいでいいです。あとヤムチャっていう人が書いてる哲学入門の本もあって、そういうのは哲学者が簡単にピックアップ、リストアップされてるんで、そういうのである程度下地を作っておくと、この人これについて書いてる人だなってわかりやすいのはありますね。
たとえば最近そのジャンル増えてますよね。さらっと全体をマナブ系、漫画でマナブ系とか。
増えてます増えてます。
ああいうのって、なんか俺軟弱だみたいに思ってたんだけど、なんかいいものなんじゃないかなって考えが結構変わってきていて。
まあいいものもあるし、縁っていうのもあるけど。
それはもちろんそうですけどね。そこだけでやめてしまったらちょっと多分もったいない気がするんだけど。
それはそう思います。
なんかやっぱね、今回の話で痛感したのは、ベースがある程度あるとその後がすごくスムーズになるっていう。
それはそうだ。結局一つのプログラミング言語をわかってると、別のプログラミング言語もすごく早く覚えられるっていうのに近くて、基礎ってすごく重要なんですよね、この辺は。
そうですよね、この人が倫理を学ぶために公理主義がいいぞっていうふうにも言っているんだし、そういうことなんだろうなとも思ったり。
当時ね、マイケル・サンデルさんの本も買ったんですけど、つまんなくてやめてるんですよね。
ああ、そうなんや。
もうね、本当8年9年前、2011年12年に買ってて、その頃どうつまんないと思ったかも記憶にないんだけど。
これは逆に言うと、次これは読んでみようかなって思えて。歴史が、やっぱ位置づけがわかってから読んだらきっともう一段階違うだろうなっていうのもあるかな。
ただ正義っていう言葉だけを聞くのと、その倫理学から幸福を考えるということが、今ぶっちゃけて言えば幸福がもうわかんなくなってしまったから、仕方がないから正義というものを考えようっていうことに流れが変わってきて。
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正義というものを考えてみようって言われるとすごく読みやすいというか、理解がしやすい気がして。
なるほど、なるほど。
確かにそれはあるかもしれない。
まあ、だいたいそんなとこかな、これは。この話はね、でも広げるといくらでも広がるんですけど。
でも、さっき一番最初に言った道徳と倫理の違いが一番大きくて、
その社会に基本的にベーシックに何が良いか何が悪いかっていうのはルール化されてて、そのルールが僕たちの心の中に染み込んでるんですよね。
でもそれは別に絶対的なものではなくて、ある主義から立てられたものでしかなくて、時代が変われば変わらざるを得ないっていうところで、
相対化って言うとちょっとかっこいいですけど、をするために基本となる考え方、その考え方がどのような理論でできているのかって知るっていうのは結構コアの部分で重要ですね。
例えば実践的に何か役に立つとかいうよりも、このルールってなぜあるのかっていうことを考える上で非常に重要ですね。
そうですね。単純に物事を考える上でも、やっぱりその倫理が一番倫理業界で使われている批判的思考というやつ。
用語にするとなんか難しい感じはするんだけど、なんでこうなっているんだろうって考えるっていうきっかけとしても良い本だったかな。
しかもね、これセールで150円ですからね。
一時期チクマがバカみたいに安くなってた時があった。
そうそう、確かにラスタさんがツイッターで上げてるのを見て、その後4冊か5冊ぐらい買って、この1冊だけ読んだ。
あれは大バンボル前でしたね。普段セールになるやつって明らかに売れ残ってるやつで売りさばこうみたいな感じじゃないけど、あの時は本当に良い本がたくさんラインナップされてて買えた価値がありましたね、それは。
逆に言うとね、5冊買って1冊しか読んでなかったら値段変わんないんですけどね。
いや、そういうもんですよ。
それはね、分かってきたようやく。
で、さっきみたいに新しい本読んだ時に、これに関連するのって前買ってたなみたいなバックしてくるような感じもあるんで。
そうかも、あとそれで言うと買ってなかったら次手出しづらかったかもしれないから、そういう意味で、そうですね、ツンドクは悪じゃないね。
そうそう、これは悪じゃない、徳なんですよ。
読みたくなった時にすぐ読める。
そうそうそうそう、そこめっちゃ重要なんです。
確かにね、それはそういう意味では、じゃあやっぱセールがあったら買っといて損はないってことですね。
あと損してもいいやんぐらいの心持ちでね。
そこもね、読書学において結構難しいツンドク学。
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でも大抵本読んでる人はすごい山を築いてあるよ、みんな。
だから多分読めば読むほど積むようになるってことなんですよね。
そうそうそう、そういうことそういうこと。
だから知識の関心の濃度が今伸びてる状態やんか、一個ずついろんなところに。
それに引っかかる本が増えてくるわけですよね。
それがどんどん増えてくるわけですよね。
濃度からまた濃度が伸びてっていう風に、オブシリアンのノートがリンクしていくように知識欲求の濃度も増えていくわけですね、これ。
見事にこのJ.S.ミルだったりジェレミー・ベンサブだったりっていう名前がそこら中で出てきて、もう覚えましたからね、この2人の名前は。
結局そういうのって多くて、いろんな本を読んでて出てくるから、これはその学問を知らなくてもこの人って定番なんだなっていうのが事実からわかってくるっていうのがあるんで。
当たり前だけど何回も見れば自然と覚えるもんで、詳しく知れていなくても何回も名前見れば自然に覚えられる。それだけでもいろんな本を読んだり見たりするのは良いのかなっていうのはありますね。
当然に。セットで出てくるやん、当然。だからミルとベンタムはリンクしてると思うね。ゴリゴさんの脳内の中で関連するページとして出てきてると思うね。
もう完全にノート的にもそうだし、自分の脳みそ的にもそうなっている。
そこが使える知識か使えない知識かの差なんですよね。結局単独でベンタムが何した人かって知っててもあんまり知識としては弱くて、
公理主義とか自由論の絡みで何か言った人やねって覚えてるだけで全然違うようになってくるんで。
あらゆる学問で言えることですね。
そうですそうです。
これ自体も歴史として捉えることもできるし、いろんな考え方もできる。
あとは最後になんですけど、この人が言っていていいなと思ったのが、SFを読むといいよって言ってました。
確かにね。
SFっていうのはこれから起こるであろう倫理の問題というものがすごく取り上げられている作品が多くて、
例えばジョージ・オーベルの1984。
Appleが好きな人ならきっと知っているだろうとかっていうそういうようなところもやっぱり共通言語として超有名SFというものが倫理の世界にも出てきたりもするし、
考えるそういう何か問題を考える場合にもSFというものはすごく参考になるものが多いので、
ただのお勉強じゃなくて、やっぱり娯楽としてそういうものも純粋に役にも立つんだなということをちゃんと言ってくれていて、そういう意味でもこの良い本でしたね。
なるほど。確かに今話聞くと必要なところはきちっと抑えられてて立派な入門書だなというような感じを受けましたね。
一応一個追加というか関連情報というか、漫画の話なんですけど。
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ここは今から倫理ですっていう漫画があるんですよ。
全然知らんわ。そんなのあるんや。
ここは今から倫理です〇っていうヤンジャンのコミックがあるんですけど、大変面白いので倫理が好きになったらちょっと読んでみてください。
ちょっと絵柄は暗いですけど、非常に哲学的倫理的な漫画です。
それは読んでみます、それも。
ということで第3回はこんな感じですかね。
感想や質問などがあればツイッターのハッシュタグカタカナでブックカタリストをつけてつぶやいていただけるとゴリゴラしたともに確認できるので、ぜひぜひご意見ご感想などもよろしくお願いします。
あとサブスタックのコメントも自由にできるようになっているのでそちらにもコメントいただければ返信などできると思いますのでよろしくお願いします。
ということで最後までお聞きいただきありがとうございました。
ありがとうございます。
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