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2024-08-01 29:46

132 本棚 | 孫泰蔵『冒険の書』から

2024.8.1設置。途中経過ボイスメモは2024.8.13までの4回分をまとめました。

ボイスメモ第1回(2024.8.4)

ボイスメモ第2回(2024.8.6)

ボイスメモ第3回(2024.8.10)

ボイスメモ第4回(2024.8.13)

孫泰蔵さんが本書で明らかにしたご自身の「探究の旅」を共にしながら,しかし所々スキップしたり,寄り道したりしながら,私なりの「探究の旅」に出たいと思います。

探究の始まり:なぜ学校の勉強はつまらないのだろう?

「遊び」と「学び」と「働き(仕事)」が分けられたから(p.105)。

  • 学校の勉強がつまらないのは,無目的で自発的な遊びと分離し,能力を向上させるという目的を持ち,非自発的に(=強制的に)させられる活動となったから。

なぜ大人は「勉強しなさい」と言うのか?

子どもが勉強しないと,能力が高まらず,子どもが不幸になると思い込んでいるから(p.162)。

  • 格差は,ほぼ偶然により決まり,努力の結果ではない。しかし,学校は,それを努力の結果と信じ込ませている(by 小坂井さん)。→それゆえ,勉強が強制される。

早く学んだ方が良い,基礎を先に学んだ方が良い,という思い込みがあるから,子どもが興味をもっていないことを勉強するよう強制することになった(p.92)。

  • 禅の修業では,失敗から学ぶことを大切にしている(by 松山大耕さん)。
  • 各自が学びたいこと学びたいときに学ぶのがよい(それは人によっていろいろなはず)。それで失敗しても,失敗から学べばよい。学ぶべき内容や時期を一律にして全員に強制するから,学びがつまらなくなる。

能力を身につけてなにがいけないのか?

能力を身につけられなかった人は,やる気や自信を失い,不幸になるから(p.205)。

  • したがって,やりたくもない勉強を強制し,悪い評価を得て,「能力」の低さを見せつけられ,自信をなくさせるようなことはすべきではない

評価は本当にいらないのか?

評価に代わるものとして,相手の良さを認めるアプリシエーションをすべき(p.186)。

アプリシエーションこそが,学びを楽しく豊かなものにし,学ぶ者を励ます(p.187)。

では,どのような学びが望ましいのか?

もし僕が今、君のように生徒だったら、学校には行かないだろうと言うこと。そのかわり、自分が今好きでやりたいことをとことんやるだろうね。(p.13)

好きなことがあるなら、なぜそれだけを一日中やれるように環境を変えない?(p.14)

ひとつの学校に縛られるのではなく、いろんな学校で好きなように学べたらいいんじゃないか。それも学校単位じゃなくて、あの先生のこのクラス、この内容、と言う細かい単位で選べたほうがいいんじゃないか。もっと言うなら、学びたいものや人が一番集まっている最前線の「現場」や、探究者が一番集まっている「本場」で学べた方がいいに決まっている。(p.20)

教師じゃなくて、詳しい人から学んでもいいじゃない。講義もいいけど、プロジェクトを実行することからもたくさん学べるし、学ぶために会社を作ったら、より本気で学べるかもしれない。子どもも大人も、学びたいものは何でも一緒に学べばいいよね。(p.21)

本来、学びは大学に行かなくたって、いつでもどこでもできるものなのに、ライフステージの「仕切り」にとらわれて、そう考えることすらできなかったのです。(pp.65-66)

学校がつまんないと思うなら、無理して行くことはない。したくもない勉強を無理やりさせられて嫌いになるくらいなら、しないほうがマシ。遊びたいなら遊べばいいし、学びたいなら学べばいい。働きたいなら働けばいい。もしなにかをすることに疲れたなら、休めばいい、と。(p.66)

僕が行きついた新しいアイデア、それは現在の小中学校をやめて、そのかわりに新しく「初心者のための学びの場」をつくるというものです。子どもも大人も関係なく、同じテーマに興味がある「初心者」が誰でも一緒に楽しく学べる場をイメージしています。(p.67)

生まれて最初の20年かそこらのうちに詰め込み教育をする必要が一体どこにあるのだろう。いつでも興味を持った時に学び始めればいいじゃないか。生涯かけていろいろなことをじっくり学べばいいじゃないか。無理やり詰めこんで、わざわざ学びをつまらなくするくらいなら、むしろ、本当に興味がわくまではあえてまったくやらないほうがいいんじゃないかとすら僕は思います。 学びの楽しさや喜びを追究するなら、「早い教育」よりもむしろ「遅い学習」のほうがいいんじゃないか。(p.75)

なにかにたどりつく道は無限にある。 それはつまり、「どれが基礎でどれが応用だという境目はない」ことを意味します。(p.79)

なにはともあれ、初めは自由に遊んでなれ親しむ。その後、深く極めたいと思った時に初めて「自分が基礎だと思うこと」を徹底的にみがく。このほうが、よっぽど自然で、その世界に入りやすいと僕は思うのです。(p.81)

それよりも「自由に遊んでいる中で、気がついたら学んでマスターしてしまっている」という状態が最も理想です。そういう学び方なら、学んでいる本人は楽しいので、長続きします。何かを習得する最良の方法は、長くずっと学び続けることです。その観点からも「遊んでいるうちに学んでしまう」というのはとても理にかなっていると思います。そして、教師も「教える人」をやめて「一緒に遊ぶ人」になればいいのです。基礎はおもしろくない。なのに、基礎をやらされる。だから、「夢中になったまま大人になれない」。そう、私たちの中にある「基礎」と言う常識がジャマをしていたのです。/「 基礎」という常識の無意味さに気づいてしまった以上、僕はもう「基礎」などという考えにとらわれるのをやめようと思います。そうすることで、学びとともにあった遊びを、再び私たちの手に取り戻すのです。(p.82)

つくるべきは、ルールではなく、「試行錯誤できて、失敗から学べる環境」。それは、実は1000年も前から証明されていたのでした。これから僕もこういう場のデザインを心がけていこうと思います。(p.89)

教育を変えたければ、まず、子どもの見方を変えるところから始めれば良いと言うことが言いたいのです。「子どもを子どもあつかいしない」のはもちろんのこと、人間にあるのは一人ひとりの個性だけで、ただそれを愛でるだけでいい。そして、同じ分野に興味や好奇心を持つ人たちが、好き好きに集まって一緒に学び合う多様な場があればいい。今、必要なのは、そういう学びの場だと思うのです。(pp.151-152)

学びの場は、評価をして自信を失わせる場ではなくお互いが多様なアプリシエーションによって勇気づけられる場であればいいと僕は心から思った。(p.189)

学校に行く行かないは全く関係ありません。学びの根底に流れる自由な精神こそ、人間を自由にする技、すなわち「リベラル・アーツ (liberal arts) 」なのだろうと僕は思います。(p.247)

僕は、そもそも「専門家」とか「素人」とかいう区別をしなければいいと思います。これまで大人と子どもとか、学びと遊びとか、いろいろ分けたのがいけなかったとお話ししてきましたが、そもそもそうやって分けて考えるからいけないのだと思うのです。少なくとも、専門家だけが発言できるより、素人が本気でおもしろがって次々にいろんなアイデアを出せる世の中のほうが絶対に楽しいし、学術的にも社会的インパクトとしてもよい成果がでるんじゃないかと思います。(pp.263-264)

人々を「自立」の呪いから解放するには、実は子どものうちから自分の好きなことを追究できる環境に身を置き、まずは自分を満たすのがいちばんだと確信しています。(p.289)

学びの場はどのようにあるべきか。/結論から言うと、「世界を良くするために集まった探究者のコミュニティ」であるべきだと僕は思います。それは志を同じくする人々によって構成された、助け合いながら自分たちだけで運営していけるコミュニティであり、「アンラーンするために集まるコミュニティ」と再定義したいと思います。/これまでの教育機関は「学ぶために通ところ」でしたが、僕はそれを真逆の意味に変えたいのです。正直なところ、ラーニングは一人でもどこででもできます。しかし、アンラーニングは自分だけではなかなかうまくいきません。アンラーンしようとしている人と交わる中で、対話を通じて初めてできるものです。ですから、わざわざ集まる意味はアンラーニングのため以外にないと思うのです。(p.321)

大人と子どもはなるだけ一緒にいて、互いにラーニングとアンラーニングを繰り返せるようにしなければならないと思うのです。それが、初等教育の場を「年齢を問わず、新しく探究や学問をしたい初心者が集う場」と再発明する意味です。(p.322)

孫さんの考えを活かす方法:

【授業】

  • 強制はできるだけ少なくする(ライブの授業への出席など)。
  • 試行錯誤できる場をつくる。
  • 教材は,小出しにせず,最初からすべてアクセスできるようにする。
  • 自信を失わせるような評価はしない。
  • 教師も,学生と共に学んでアンラーニングを楽しむ。

【授業外】

  • 教材を細かい単位で公開する(可能な範囲で)。

その他

  • 『冒険の書』冒頭にある「父からの手紙」のモデルを提供している本。清沢はこの本の冒頭に「序に代へて わが児に与ふ」という子どもへの手紙のような文章を掲載しています。

参考:孫泰蔵さんへのインタビュー

上記ビデオ,文字起こし記事(ログミーBiz)

  • 本書は,愛する人のために遺書のつもりで書いたブックガイド。簡単でもいいので同様のものを書いて残すことを勧める(by 孫さん)。

#LISTEN本棚 #孫泰蔵 #冒険の書

サマリー

孫泰蔵の『冒険の書』を通じて、学校教育がなぜつまらないのかを探究する旅が語られています。遊びと学びが分離されたことが要因で、現在の教育制度には虚構が存在していることが示されています。また、新しい学びの場の概念や教育に対する批判が探求されています。このエピソードでは、教育における評価の意味や新たなアプローチへの関心が強調されています。

冒険の書の探究
◆1◆ 本棚「孫泰蔵『冒険の書』から」を開設したのが8月1日ですが、今日は8月の4日です。
本棚に、本といいますか、実際の本とそれからエピソード、さらにオンライン上の様々なコンテンツ、こういうのを並べまして、私の学びを進める一つのツールとして使っているんですけれども、
途中経過をですね、声で残したいなと思いまして、今ちょっと話します。
今日は、この本、探究の旅をするというその経過を記した『冒険の書』なんですけれども、この探究の始まりの問いがですね、「なぜ学校の勉強はつまらないのだろう」というものなんですね。
これは、この問いですね、学校の勉強はつまらないのが当たり前だというですね、そういう考え方の人もいるかもしれませんが、これあえて問うている、そういう問いからこの本は出発しているんですね。
で、その問いに対して、孫さんはすぐにその答えを示すような本は出してないんですね。
コメニウスだったかな、近代教育学の父と呼ばれている人でしょうか、私そんなによく知らないんですが、その人の書いたですね、一種の教科書の元祖みたいな本を紹介し、
この物語、旅の物語をですね、始めているんですけれども、ちょっとこれ分かりにくいと思うんですね。
なぜ学校の勉強がつまらないのかということの答えとして、この教科書の元祖みたいなものを作った人の考えを知るというのはちょっと距離があるような気がしまして、
もっと直接的に答えているところまでちょっと本をですね、飛ばしまして、第2章のところまでいきまして、それで、そこに答えがですね、書いてあったように思いますので、
それに関係する本をですね、ちょっと読んでみました。
まず答えですけれども、それは学びと遊びというのはもともと分けられていなかったものが、学校においては学びから遊びが抜き取られて、つまらない勉強になってしまったと。
遊び的要素がなくなったので、学校の勉強は面白くないのだと。こういう話なんですね。
で、そのことを述べている人として、佐伯胖さんというですね、有名な学者の方なんですけれども、その方の『「わかり方」の探究』という2004年に出版された本を紹介していましたので、
それを早速ですね、すぐ読みたいので、Kindleで買いまして、該当部分を読んでみました。
で、私、この本知らなかったんですけれども、もう今から20年も前に出版された本なんですけれども、その部分とても面白く読みましたし、ここから孫さんは様々なインスピレーションを受けているなということがよくわかる。
言ってみれば、孫さんのこの『冒険の書』のネタ本というんでしょうかね。そういうものになっているなということがよくわかる。そういうものでしたね。
この本はですね、佐伯さんの本は、いろんなところに書いたものをまとめた本ですので、関係するところ遊ぶということの意味というですね、そういうセクションなんですけれども、そこだけ読んでもですね、話がよくわかるので、
今回そこだけ読みましたけれども、全体的にもですね、興味深いテーマがいろいろありましたので、ゆっくり読みたい本だなというふうに思いました。
ですが、探究の旅はですね、ちょっと続けなければいけないので、次はですね、また新しい問いを立てて考えていくんですけれども、
学校の勉強がつまらなくなったのは、遊びがですね、学びと離れてしまったということなんですよね。
それは、なぜかということですね。なぜ別れたのかというと、これは学校というところが、勉強をさせる場所になったわけですね。
勉強という言葉自体が何かこう、かなり無理を強いるという感じがありますよね。
遊びというのとやっぱり語感が全然違う。
商売でもですね、勉強しますというと、頑張って値引きするというのはそういう意味になるんじゃないかと思うんですけどね、なんか頑張るという感じがありますよね。
ですので、何でそういうふうに今、勉強を強制するようになったんだろうかということを新しい問いにしまして、
この本の中ですね、孫さんの本の中では、「なぜ大人は勉強しなさいというのか」という問いから始まる章があります。
この第2章の続きの第3章なんですが、それがありますので、その学校で勉強が強制されるようになった理由をですね、また孫さんと一緒に探究していきたいなというふうに思うんですけれども、
この冒険の章を見てもですね、なんかこの本を読めばすぐわかるというような感じでは書いてないんですね。
中のところにいくつも文献が挙がっているんですが、ですので、その辺のですね、文献とかあるいはオンライン上の情報、YouTubeとかnoteとかの記事とかですね、そういうのもありますので、
その辺も参照しながら、この問いに答えていくというか、答えは孫さんの本に書いてあるんですけれども、それを元の本とか情報源にさかのぼってですね、深く理解していきたいなというふうに思っています。
ということで、途中経過の記録、これで終わりにしたいと思います。
教育の虚構
◆2◆孫泰蔵さんの『冒険の書』を手がかりに始めました探究の旅、途中経過ボイスメモの2回目となります。
前回8月4日から、今日8月6日まで2日間の経過報告となります。
その間、なぜ大人は勉強しなさいというのか、という問いに答えるためということで、まず1つは小坂井敏晶さんのオンライン講演会、「教育という虚構」というタイトルのものですが、
これを視聴しまして、そこで学校での教育が一種の虚構であると、そういう話を聞きました。
学校では、すべての子どもたちの能力を高める、それによって社会で誰もが活躍できるようにする。
子どもたちは皆平等であり、皆可能性を持っている、そういうある種の虚構の上に成り立っているということですね。
実際はどうかというと、それぞれの子どもが将来どうなるか、もちろん格差があるわけですが、それは子どもたちの努力とは関係ないところでほぼ決まっている。
努力すれば良くなるというのは本当ではないということですね。
そもそも努力できるかどうかということすら、それは本人の責任ではないという話になるかと思います。
しかし今、学校という制度は、それをすべて個人の努力の結果だというふうに思い込ませて、もしそれがうまくいかなければ、それはその本人の努力が足りないからだということで、本人の責任にして終わりにすると。
そういう現在の社会の様々な格差を、本人の責任、いわゆる自己責任ということで説明し、みんなもそれが本当だというふうに信じて、社会はそれなりに安定しているという話ですね。
つまり現在のこの社会はそういった虚構の上に成り立っているという話になります。
みんながそれを信じてますから、子どもは学校に行くのが当然だ、やりたくもない勉強しなければいけないのも当然だという話になっていくわけで、
なぜ大人は勉強しなさいというふうに言うのかというと、みんながそういう虚構を信じているからだという話になるわけですね。
それから、そういう虚構のようなものは色々あるんですが、例えば早期教育ですね。何かに熟達するためには早めに始めたほうがいいと。
例えば英語をちゃんと話せるようになるためには早期の英語教育が大事だということで、かつては中学生から始まっていた英語の授業も現在は小学生から始めるようになっていますよね。
それから、よく言われるのが基礎が大事だということで、何をやるにもまずは基礎を固めなければいけないということで、学校の勉強というのは基礎的なことから順々に積み上げていくという形にカリキュラムが組まれているわけですけど。
これも誰もが当然のことというふうに考えているわけですよね。
だけども、早い時期に何かを学ばせられて、それを面白いと思う子どももいるかもしれませんけど、面白くないと思う興味を持たない子どももいるわけです。
また、基礎を固めることが大事だということを言われてもですね、その基礎というのはあまり面白くないことが多いわけでして、その面白くないことをやっていくうちにそのことをやること自体が嫌になってしまうということもよくあることですよね。
こういうものもやはり一種の思い込みから来ている共生だと思うんですけれども、その背後には全てを合理的に進める、もとも無駄のないように進める、そういう考え方があるだろうと思います。
そしてその無駄の一つが失敗ですね。何か失敗するというのはそれは一種の無駄であると。失敗せずにどんどんどんどん成功を続けて進んでいくのがいいという、そういう考え方があるではないかと思うんですけれども。
しかし学びというのは失敗から学ぶということがとても大事なわけですね。そこから新しいものが生まれてくるということがあります。なぜ失敗したのか、それを探るためにいろいろ試行錯誤をする。
こうすればうまくいくんじゃないかと思っていろいろ考えてやってみる。また失敗する、また考える、また失敗する、それの繰り返しによって考える力というものが育まれていくわけですが、最初からうまくいく方法を教えられると、もうその方法をやるしかない。
そして何かをするにはまず教えてもらわないとできないというふうになって何も考えなくなってしまう。そういう子どもがあるいは大人が育てられていくわけですよね。
それではこれから何か新しいものを生み出さなければいけないと言われている社会において、全然新しいものが生まれてこないという悲劇が待っているわけですよね。
ですので効率が良いようであって全然良くないという話になります。むしろ良いのは何でもいいから好きなことを自由にやってみて、もちろん失敗する、でもその失敗を楽しんでまたさらに楽しいことを続けていく。
つまり楽しいことをやっていれば失敗というのはそんなに苦にならないわけですね。嫌々やっていることを失敗するとますます嫌になりますけれども、楽しいことですと失敗も楽しみの一つになってくるわけです。
じゃあ次はどうしたらいいだろうか。こうしたらうまくいくんじゃないかと言って次にやることを楽しむわけですよね。それとワクワクします。うまくいかなくてもそんなに落ち込むことはない。またやってみればいいわけですから。
そうやってそれぞれの人が自分の好きなことをやりながら新しいものを生み出していく。そういうことが可能となる社会がいいんじゃないかというのが孫さんの考えていることだろうと思うんですけれども、その辺全く私も同感だなというふうに思いながら、
この『冒険の書』とそれからそこに紹介されている資料ですね。一つは先ほどの小坂井敏晶さんのオンライン講演ですが、あともう一つはですね、その失敗から学ぶことが大事だという話はちょっと紹介するのを忘れてましたが、
お寺のですね、副住職の方で松山大耕さんという京都のお寺の方がいるんですけれども、その方が禅の修行では必ずみんな失敗するようにさせていると、わざとそうさせていると、そうすることによってどうすればうまくいくか試行錯誤させ、そして必ず最後は成功で、
そういう経験をさせているんだという話をしていました。失敗から学ぶということがいかに大事かということが禅の修行ではもうプログラムの中に組み込まれているということですね。
これは現在の学校教育の中にも組み込んでもいいかもしれませんね。
失敗から学ぶ重要性
常にですね、成功できるようにということで、いろんな準備をですね、させる。それが今の学校ですけれども、あえてそういうものをしないで失敗から学ぶ機会を提供する。
それも学校と言いましょうか、学びの場の一つの大事な機能だろうというふうに思うんですが、今の学校ではなかなか難しいかもしれませんね。かなりその学校の在り方を変えていかなければいけないだろうというふうに思うんですけれども、
いろいろと考えさせられる内容を今回も学ばせてもらいました。ということで、2回目の途中経過、ボイスメモ終わりにします。
◆3◆孫泰蔵さんの『冒険の書』を手に出ました探究の旅、途中経過の3回目となります。
今日は8月10日です。前回から4日目となります。
その間、私はこの冒険の書の能力主義への批判の部分と、それから評価に対する批判の部分を読みまして、大事だなと思うところを抜きがきしましたけれども、
この2つのテーマに関しては気にはなりますけれども、大体実感としてもわかっているところです。
私は大学で長年学生を教えてきましたけれども、そしてその教育活動は学生の能力を高めるという目的で行い、その能力は様々な評価によって行ってきました。
その評価を成績という形で示すこともずっとやってきまして、それがあまり意味のないものだなというふうに実感として非常によくわかっています。
それがどうしてなのかということをもっときちんと理解し説明できるようになることも大切だとは思うんですけれども、私は教師としてもそれが実感としてわかっているので、それ以上そこを突き詰めて考える気持ちはあまりありません。
ですので、関連する文献などもとりあえず読まずに先に進もうと思いました。
私が一番関心を持っているのは、やはりこれまでの教育とは違う新たな学びの場というものがどういうものなのかということ、そしてそれを孫さんがどのようにイメージしているのかということでして、
それを知るためにこの本をまたざっと読み返し、私がところどころ線を引いたりしているところなども手がかりにしながら、孫さんが新しい学びの場をどのように表現しているかということを付箋をつける形でチェックしていきました。
その結果、かなりたくさんの付箋がついたんですけれども、もう覚えることができないぐらいの分量ですので、これはもうとりあえずは文字化するしかないと思いまして、
その付箋がついた私が線を引いたところを、LISTENのこのエピソードの概要欄に抜粋しようと思いまして、これ手で打つのは大変ですので音声入力でやろうということで、Macの音声入力機能を使いまして、読み上げながら入力を行いました。
新しい学びのアプローチ
ところどころ修正する必要はありましたけれども、全部を手で入力するよりはずっと早く、また労力も少なく入力することができました。
◆4◆ 孫泰蔵さんの『冒険の書』を手に始めました私なりの探究の旅、途中経過メモの第4回となります。前回から3日目となりますね。
前回は、孫さんの新しい学びの場に関するイメージを明らかにするために、『冒険の書』からそれに関係するような箇所を抜き書きしまして、このエピソードの概要欄に掲載しておきました。
その後、それをもう一度読みまして、そこから私なりに、私の教育活動に活かせるような内容を引き出すということをしまして、いくつかの点を同じく概要欄にメモしておきました。
次のようなものです。
まず、授業に関連することとしては、5つありまして、
1つ目、強制はできるだけ少なくする。
2つ目、試行錯誤できる場を作る。
3つ目、教材は小出しにせず、最初からすべてアクセスできるようにする。
4つ目、自信を失わせるような評価はしない。
5つ目、教師も学生とともに学んでアンラーニングを楽しむ。
以上です。
それから、授業外に関すること、広く社会に対してという感じになりますが、教材を細かい単位で公開するということも大事かなというふうに思いました。
授業に関することでは、もうすでにいくつかやっていることもありますけれども、
もうすぐ始まる後期の授業からは、教材を最初からすべてアクセスできるようにするというのをやってみたいと思います。
これまでは、授業の約1週間前くらいからしか使えないようにしていました。
すなわち、少しずつ学生に教材を提供してきたんですけれども、
それだと、どんどん先に進みたいという学生が待ってなければいけないということになりますね。
ですので、先に進みたい学生はどんどん先に進んだり、あるいは土地を飛ばして先のところだけ先に学んでみたいというですね、
自分の関心に従って、今やっているところはあまり関心ないんだけれども、先に行くと関心があるということはよくあると思いますので、
そういうことも関心があるときにですね、学んでもらえるような、そういう教材の提供の仕方をしたいなというふうに思っています。
それからもう一つ、また別の話になりますが、この『冒険の書』という本の最初のところに、「父からの手紙」という文章が載っています。
タイトルの通り、父から子に対して手紙の形をとって、この本の紹介をしているような、そういう文章ですね。
そこのところにですね、参考文献が挙げられていまして、清沢洌という人が書いた『非常日本への直言』という1933年、昭和8年に出版された本が挙げられていまして、
どうしてこれがこの父からの手紙の参考文献になるんだろうかというふうに疑問に思いまして、
それでちょっと調べてみました。
この本は比較的入手しにくい本だと思うんですけれども、幸い国会図書館のデジタルコレクションで公開されていまして、
今は非常に簡単に見ることができるようになっています。
戦時中はこの本、発禁処分にあいまして、普通の人は読めなかったと思うんですね。
この本を見てみましたらば、最初のところに、女に変えて我が子に与うという文章がありまして、
まさに自分の子どもに対する手紙のような形式の文章が載っているんですね。
書いてあることは違うにしても、その形式は非常によく似ていて、
これを真似したというか、参考にして書いたのだなと、それをこの参考文献にあげたのだなということがわかりまして、
そのこともこのエピソードの概要欄のところに少しメモしておきました。
ということで、一応大体私、この本から学びたいなと思ったことを大体学べたかなと思いますので、
とりあえずこの冒険の章、手がかりに進めてきました探究の旅はこの辺でひとまず終わりにしまして、
また何か機会があればもう一度探究の旅に出たいなというふうに思っています。
またこの途中経過のボイスメモですね、これ4回ほどにわたって記録をしてきましたけれども、
最終的に全部まとめてエピソードの音声の部分に載せておこうかなというふうに思っています。
それではこれで終わります。
29:46

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