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2024-12-09 26:49

学び合い高め合うのは結構大変かも

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サマリー

学び合いと高め合いを通じて、個々の成長や自発的な学びの重要性について語られています。また、教育における自主性と関与のバランスについても考察されています。このエピソードでは、学び合いと高め合うことの難しさについて触れ、自発的な学びの重要性が強調されます。さらに、創発的な学びが求められ、他者との協力が学びを深める鍵であることが示されています。社会人が自分の興味を追求することは時には難しいですが、共通のコミュニティで学び合うことが重視されています。教えることによって学びを深めるための環境づくりが求められています。

学び合いの可能性
シゴクリラジオ
こんばんは、シゴクリラジオの大橋です。今回もシゴクリラジオを始めていきたいと思います。
今回ですね、学び合い、高め合いとも言えるかもしれませんが、学んでいくやり方みたいなところで、お互いがですね、
先生役、講師役となるというかですね、一緒にお互い学び合うと、聞いたことある人もいるかもしれませんが、非常にこれがですね、
人に残された、最後というと大げさですが、特徴かなと思いましたので、少し共有していければいいかなと思います。
今回もどうぞよろしくお願いいたします。
はい、シゴクリラジオの大橋です。今回ですね、学び合い、高め合い、成長し合うという感じですが、
これいいなーって思いまして、
僕自身もですね、一人で、一人でっていうのも変なんですが、一人で学ぶってなかなかできないですよね。
そういうところで、人と一緒というとですね、24時間一緒になってみたいなことを思うかもしれませんが、そうじゃなくてですね、共通のテーマとか、
共有できるものとかがあると、学びって促進されるようなって感じた話です。
冒頭でも話した通り、学び合いなんで、例えば一冊の本を読書会じゃないけど、読み合って学ぶもありですよね。
学びのペースって人によって全然違うじゃないですか。
1時間あって、はいみんなやりましょうって言って、学びが進んだっていうと、例えば30ページ進んだぞみたいな、50ページこちら進んだみたいな、
そういう物差しもありますよね。
ダメじゃないですけど、それが良いとか悪いとかじゃなくて、まず物差しとして、その量があると。
もう一方で、質というとちょっと違うんですけど、深める方向もあるわけですよね。
哲学書の読み方とかそんな感じだと思うんですけど、1ページ読んで、それで何が書かれているのか、なんでこうなのかと。
なんかね、そういう昔関東の読み解くみたいな講義があった気がするんですけど、
非常にテキストは薄いんだけど、なんか進まないみたいなね。
そういうのもあるかなと思います。
その2択というか2つの選択肢がないわけじゃなくて、別にハイブリッドでもいいわけですね。
少し進んで深めて、もしくは気になったとこだけ深めるとかね。それもやり方次第です。
時間も限られたり、各時ですよね。いろんな人がいる中でやるとなると、これが結構難しいわけですね。
決まった一緒に時間を取るのも、もしくは時間も自主性自発的ってことですね。問われるからですね。
学校とかでの教育みたいなのをもうちょっと広げてみると、どう考えても詰め込みなわけですよね。
詰め込みじゃなくて自主性を育むで、それが成功しているっていうのは、ある程度その手前でやる前に自主性があった。
もしくはそこで自主性自発的って言ったときに、その自主性自発的っていうのを放置ではないというね。ここ難しいんですけどね。
丸投げ放置、よしなりみたいな感じで、任せないっていうね。わかりますかね。
要は放置っていうのは関与しないわけで、勝手にやっといてってことですし、丸投げっていうのももう全部やっといてなんですよね。
で、もちろんこの丸投げとか放置が通用するというかね、成立にはやってきたことに対して注文を付けないってことですよね。
多くは注文付けられるしダメって言われるんで、放置ってストレートセットだと思いますけど、自発性自主性を育てるのはそうじゃなくて、
あくまでもそのポイントポイントは管理家っていうものにはめ込みつつも、鳥籠の中で自由にやっていいよみたいな感じよりもですね、
たまには鳥籠壊して出ちゃうとかね、もちろん戻ってこれるような柵も構築しておくと。
こっちの方がですね、良さそうかなって思ったりします。
なんですが、鳥籠をぶっ壊すとかも、壊しておくないな、鳥籠から脱出するっていうのも、環境もありますから、
その鳥籠の中とかもしくはレールがあってそっちがいいですという方はそっちがいいですよねって思うので、
これは強制する強要するわけじゃないですね。僕としてはレールとか、まあいいけど面白いですかねって言った時には面白くないんで、
教育における関与
ってなるからレールがあるところを絶対行くなとね、
レールがあるところに乗れないなら既存のシステムに乗れないから電車使うなみたいな話になるんですけど、そこまでは行ってないですけどね。
考え方ですね、生き方としてそれだけではどうなのっていうのはまあなるべく言いたい。ただそれは言うんだけど、
別にレールで行きたい人は危うかしいね、自分はできないやり方してるなぁみたいなね、
感じになるんじゃないかなと思ってますけど僕はね。 思われている、思われ続けているというかね。
まあそういうのはあるかなと思ってます。 どちらにしてもですね、その学び合いとか高め合いみたいなものを考えていきますと、結局ですね、
自分が自動的に受け身にね、
受け身にですね、なるのではなく自発的にやる必要性があるわけですよね。要は生徒役、先生役みたいなところが生まれますと、
その局所的にね、こういうふうにやったらいいじゃないですか。 なるほどと。一方でこういうやり方もありますよってこうなんていうんですかね、
対等、もしくは先生生徒みたいなのが交互に入れ替わるイメージっていうんですかね。 それはもうリアルタイムに進んでいくと。
この時に難しいというか面白いなぁと思うのは、 まああのパッと思いつく方いらっしゃるかもしれませんが、
じゃあそのね、
同じような趣味というかね、共通の目的を持った人たちの中にいた時に、 教える側が損するんじゃないかみたいな方いらっしゃいませんか。
聞いてる方いらっしゃらないかもしれませんが、こちらに、この中に、 何かを教えると損すると思われている方いらっしゃいませんか。
もしですね、いらっしゃったら、損すると思ったら別に損するからもう止めようもないし、
価値観みたいなものになるんで、別に強要するわけじゃないんですけど、 僕は別に損得とか全然ないので、
むしろ得段ですよね、損得。 損する側ですよね。損するのを極端に嫌うから行動が
制限されて、その、 悪循環が生まれやすいというかね。
わかります?最初もしくは今、まさに行動を何かする時に、 これなんか別に意味ないんじゃないかっていうようなね、
損している、要は何か価値がないみたいなね、 感覚に陥る方もいらっしゃるんですよね。みんながみんなと言ってないですよ。
方もいらっしゃると。まぁわかるんですよ、気持ちね。 保証されて安全だって言った方が、それは楽ですよね。
ただ、完全にそれだけだと結局、新しいものって生まれないっていうものですし、 見たことがないものは出てこないっていうんですよね。
その状況で見たことを生み出したいとか、 新しいことをやりたいっていうのが違いますよねってことなんで、
そこだけご認識くださいと。 損じゃないっていうのは何か、要は得するというのは何かというとですね、
知っている側が、教えられる側、先生役をやる人は、 何とでもないんですけど、教えることにより自分も学べるんですよね。
もう一回言いますと、教える側が教えることによって、 例えば僕がアイディアの話、大事な出し方って言ってますけど、
それは別にね、お金取ればいいじゃないとかって、 もしかしてお菓子さん損してますよみたいなことを、
もしかしたら言う方がいらっしゃる、思っている方がいらっしゃるかもしれませんが、 それはなくてですね、教えることにより僕が定着、より定着している。
もしくは、話すことにより伝えることにより何か、 あれ、そんな風なんだっていう風に気づくね、
ことを主導しているわけですよね。要は、 教えられるというのはですね、教えることができるというのは、
写真でもいいし、イラストを描くでもいいし、 ジョギングの仕方でもいいし、読書の仕方でもいいし、
料理でもいいですよね。なんでもそうですけど、 教えられるということは、そのレベルを問わず、どのような状況でもね、
初心者と言われようが、一番ですね、一番高いというか、
知識とか経験というのを、いわゆる総合して高めていった人しかできない。 もしくは、教えられるというところに行かないと分かってないってわけですね。
教えることの価値
要は、理解度の定着と考えていいかもしれません。 例えばですよ、
麻婆豆腐、僕は好きなんでよく作ってるんですけど、 麻婆豆腐の作り方教えてくださいって言われて、
別にね、その人に教えたくないとか、そういう個人的感情を一旦排除しまして、 教えることができると。
で、そのに関して特にめちゃくちゃ時間がかかるとか、 1年がかかるとかそういうことじゃなくて、
レシピを手順とかね、提案することができるとするじゃないですか。 それを仮に教えると、伝えると。
そうすると、僕は麻婆豆腐自身の作り方を、 よりですね、こういうふうに教えることによって、
よくあるのが相手ですね、相手のレベルに応じて、 普段料理してられている方なら、
何だろうな、その手順ですね、ここがポイントだよって言えば、 理解されるし、料理をされたことがないのであれば、
本当にそのフライパンとかね、扱い方とかね、 火の入れ方とかを結構言わないと、
結構火力で強めでやるとか、それもちょっとわかりづらいから、 ちょっと言い方変えなきゃいけないなとかになりますが、
とりあえずね、少なくとも僕も学べるわけなんですよね。
まずここが第一ポイント目で、教える側が学べるよねっていうことを、 っていう人じゃないとまず無理で、
教える側が、なんかこっちが教えるからね、損してるから、 教えまいさないよみたいな人は、
これもう厳しいかもしれないんですけど、 学び合いできないんですよね。
学びの主体性
なんですけど、大体、勉強ができたりする人ですよね。 学校の教室、クラスにいたかもしれませんが、
そういう人って教えてくれるし、上手かったりするし、 別に嫌な顔せずね、
それは家庭教授でやってくれないと思いますけど、 そこまではね、
教えてくれたりする人が多かったんじゃないかなっていう、 っていうか、むしろそこで教えられるからこそできるんですよね。
面白いところですよね。
で、もう1個ですよね。2つ目のポイントというか、 視点として、教えられる、
教える側がね、そうやって教えてもいいよ、学べるからねってこと。 今度学ぶ側がですね、別にヘビコツラウというかね、
ヘビコツラウ?なんか違いますかね。 ヘツラウ?よく分かりませんが、ちょっと、
言葉間違ってるかもしれませんが、
なんていうんですか、
なんか自分が、 いわゆる下になるみたいな感じですね。
下になって、ごめんなさいみたいな、 私は何も知らないものですみたいな、
立場で、こう、やると。 要は待ってるってことですね。
自分で取りに行かない、ひたすらその場っていて、 この指示が出てくるのを待つ、
何々してください、もしくはこれを学んでください、 っていうのを待っちゃう人は、
これも厳しいわけですよね。主体的、能動的、 積極的ではなくてもいいですけど、積極的じゃない。
で、こういう話をすると、例えばイラストを描く みたいな話で、フォトショップとかね、
イラストレーターでもなんでもいいですし、 僕がやってるブレンダーっていう3Dモデリングのね、
ソフトでもいいんですけど、なんでもいいんですよ。 それを学ぼう、映画でもいいです。
そういう時に、完璧を求めたりするとまずできないですよね。 完璧というかわかんないから。
で、じゃあそのイラストを描くには、という時に、 よくあるんですけど、僕もわかってないですけど、
イラストが描けるというイメージが湧いてないんですよね。 で、完成物としてイラストってものが何で、
描いている人が上手いっていうか、そういうのをやりたいのがわかる。 イラストレーターの人とかね。
それがプロじゃない問わずね、こういう人いいよなっていうのが見ててわかる。 だからイラストって言っていて学びたいと思っている。
そこまではいいんですけど、学びたいよね。 でもそこの熱量っていうと、これは一つの考え方なんで、
目安というか、若干違うかなと思ってくればいいんですけど、 学びたいんだけど、自分からそこまでやるっていう状態じゃない。
っていうのも僕はよくわかるんですよ。あるんで。
なので、学ぶっていう時に、自分から自ら動いて適切に何かやって、 こんな感じでやればいいかなっていう、学びの設計図みたいなものですね。
設計図っていうとね、緻密に組んでいるようですけど、もっとざっくり、 こっちかな、あっちかなーって言ってやりながら、
混乱してきたら整理するみたいな。 もしくはヘルプ、誰かに聞くとかね。
なんかそれって、
なんて言うんですかね、みんながみんなやってるのかなって思ったんですよね。 あり程に言うとね。
率直に思った感じで言うと、多分ね、やってないんじゃないかなって思ってまして、
なんかねー、なんか違うんですよ。わかります?
僕自身が見ている感覚では、もちろんいろんな方がいらっしゃるし、 日々ね、学んでなんか高めようとされている方いらっしゃるのはわかってるんですけど、
なんかそういう感じが、まさに僕の言っているようなこと、 その高め合いとか学び合い自体が意識が高いみたいなふうにカテゴライズされて、
違うなーとかね、 思われているかもしれないなと思っているところです。
ですがですね、そんなことはどうでもよくて、人からどう思われるかどうでもよくてですね、 自分がどういうふうにしていきたいかというだけなんで、
そこらへんってあんまりカテゴライズが微妙だなって思いますから、 まぁまぁまぁまぁまぁ、余談ではあります。
で、ただそういう学び合い、高め合いができている、 できているというか、やるのが難しいというのはですね、僕もなんかわかってまして、
別に僕が全部学び成功しているとは思わないし、 うまくいっているとも思ってないんですけど、
なんか気分もあるしね、体調もあるし、時間もあるし、 で、時間の中でも1日っていう単位で見ちゃったら、
その1日で使えるものってすごい短いわけですよね。 で、まあ仕事勉強いろいろやってたら、
遊びたくなるわけ、休憩したくなるわけじゃない、疲れたから。 で、それでもうやらないともう終わると。
ただそこで追い込んで何かやっていっても、 やれる人はいますよ。やれない人の方が多いと思ってて、
1日1時間ね、そのやりたかったことって言うんだけど、 本を読もうとかね、動画を見ようとかした瞬間にもう眠気が来たりとか、
これなんでやってんだろうなって思っちゃったりすると。 それこそさっきのそん時じゃないけど。
それなのに何か詳しいんでしょう、教えてくださいみたいなことを言ってきて、 怒らないけども、何だろうなみたいに思ったり、
自分がやりたいことじゃない仕事を押し付けられてやらされて、 自分の人生何だろうなと思っちゃったよね。
そういうネガティブなところがあるわけですよね。 というかそういうのが毎日発生していくわけですよね、実際にね。
それって学生さんとかで、いわゆる社会人、就業ですよね。 働くっていうことがメインでないと、
勉強がメインだとちょっと分かりづらいところではあると思うんですが、 そんな感じです。要は変わらないんで。
毎日、明日になったら変わる劇に変わったとかね、 そういうことが頭の中ではあっても、実際としてはなくて、
いきなり何かができるっていうのは、 日々何かやった積み重ねしかないですから、
そこは手抜かずに日々何かやるしかないんですよね。 話戻しますと、そういう自発性、自主的なところで自分のその熱量を学びたい、
みたいなものがある状態が非常に稀じゃないかなって僕は思っているんです。 だからその学ぶとかやりたいっていうところが、
本当に1ミリです。そのわずか、ほんのわずかでもいいなと思ったら、 なるべくやってみるですね。もう全部無理です。
創発の重要性
なるべくやってみる。 全部をやらない。興味があるところは何かつまんでいく、つまみ食いみたいな、
いい意味でね、つまみ食いですね。つまんで食べるからまだいいみたいなね。 いっぱい食べようとか整理して何か
調理された、これは何か皿の上に乗ってないから食べてはダメだとかね。 もしくはそのランチョンマットが敷かれて、
食べる場所っていうことでセットされているから食べますっていうのを待っていては、 遅いわけですね。この場合、学ぶって。
要はそのリアルタイムで人と話してて、もしくはこのラジオですね、このポッドキャスト、 どこまで届いているかわかりませんが、
聞いているときに気づいたことはメモしていただいて、それでもう一個でもね、何か変なこと言っとったなみたいな。
あれば、 変なことっていうかね、気になったことがあれだって思えれば、それでもうオッケーです。
なんでそういうふうに学びを積み重ねていかないと、要は今のだと、 自発性、実性っていうのですね、そういう意味ですね。自分で面白いなと思えることを探していく。
この生徒、先生なり、要はその学びのレベル感みたいなのはもちろんありますよね。
高め合い方ね。違うのはわかっているんだけど、その上で創発というのがありまして、僕はそれが創発だと思ってますけど、創造に発信の発。
要はその僕の言葉っていうか、僕の仕事で言えばアイデアをお題いただいて出すみたいなことはやっている中で、それだけでは多分結構限界は感じてまして、
というかもう、なんていうんですか、作風みたいなアイデア、アウトプットが、どうしてもこの人のアウトプットになってくるんですよね。
それは悪いと思ってないし、別にそれでいい。ただ、それが創造レベル、はい10です、はい終わりですっていうことじゃなくて、
それをもどり、さらに超えていくためにはその依頼者であるお客さんが、お客様をですね、さらに被せて、こうしていった方がいい、高めていくって感じですね。
共に。それを競争、共に作る、共にクリエイティブするっていう意味であればいいんですけど、なんかそこの前提がないのに競争って言っていると、
意味ないですよ。意味ないっていうのは、なんか作っている感じみたいなやつで、何も起きていない。本当に実際何もしていない。
頭の中で、なんか作ってください、作ってください、作りました、作ったんですか、違います、違いたいな、じゃなくて、
共にだから、お互い作らなきゃいけないです。どちらがしょぼいとか微妙とかなく、とりあえず作ってそういうことをイメージをお互いに高めていくっていうのは、
お金っていうのは自分はあるんですけど、かなり対等、もしくは一旦お金の部分は外したときに、お互いの立場で作ることに対して対等かということですね。
学びのポイント
慣れるかは非常に大事だなと思います。ここでは作るんですけど、それが結局学ぶこととかと一緒ですかね。
もっと難しく考えろということじゃなくて、もっとシンプルに言うと、学んでいる人はひたすら謙虚だったり、考え方に対してですよね。
素人というか知らない人の考え方にも重要されるんじゃないかなと思っています。
ここが多分学びのポイントだし、教養というところのポイントだと思っていて、そういう方もいらっしゃるかなっていうところを踏まえてくると。
それに格好つけて攻撃する人はもうダメですよね。退場です、それは。お帰りいただいてください。
お帰りこちらです、出口は。出口こちらですというふうにご案内されると思いますから、それはもう終わりです。
もうお帰りくださいと。出禁ですね。そういう方はほとんどいらっしゃらないと思いますし、レアですが、事故ですね。
学び合いと高め合いということで少し話してきました。
簡単におさらいしますと、学び合い、高め合い、成長し合うみたいなところは色々あるんだけど、
基本的には集団学習とかそういうのではなく、社会人とか一、大人が自分の興味を持ったものを学んでいくって結構難しくないですかというときに、
ある程度何かやりたいことがあったときに共通の集団とかコミュニティみたいなのができていくと。
趣味の会でもいいですよね。そういうときに別にお花の教室っていうのがあって、花道とかね、茶道でもいいですね。
そういうところに行ってもいいんですけど、そこでそういう場でさえ、別にスポーツのね、体を動かすとかイベントでもいいです。
そういうところでさえですよ、お金を払うお金を払わないに関わらず、もしくはお金を払って出る際も先生が一方的に生徒に教えるっていうのはなくて、
逆でその生徒が先生にこういうことじゃないですかって教えられる、もしくは教えていくことで先生側もそこを見ているわけですよね、教えるレベル。
だからそこでのれまげでしたっけ、その弟子にちょっと次をやってもいいぞみたいな風にしていくと。
そこのレベルの見方ってシンプルで、その人が教えられるかってことなんですよね。
教えるからには学んでなきゃいけないというのが構造としてそこにあるんじゃないか。
そして当たり前ですけど、先生が言われたことを全部、最初のほうはいいですよ。
言われたことをやるのはいいし、やらなきゃいけないんですけど、それをずっとやられても困って、そこを打破というか変えていかなきゃいけない。
そこも重要ですよね。そのときにやっぱり自発性、実践が求められるし、それをやらないと、いつまであっても受動的な学びということで、
その場合って面白いのかなって僕は思っちゃいますが、リスナーのあなたはどうでしょうかと。
その2つですね。要は学び合いのためには先生側が教えることで、その側も学べるんだよと。
だからそういう場合は先生も学んでるんですよね。教えることによって気づく。コミュニケーションする。
教えるということに対して、その刺激があるからやれるんですよね。
全く同じようなことをやってたら本当につまらないだろうなって僕は思いますけどね。わからないです。
同じことを繰り返せる方もいらっしゃるのでちょっとわからないですけど、僕はそう思います。
学ぶ側とかね。学ぶ側も実施、実発性が求められて口をポカンと開けて待ってるだけではダメで、こういう風じゃないですか。
こういうことを学んでたらいいですかねっていう風な姿勢が問われるかなって。
それが熱量っていう風になっちゃってるし、僕もそれしか言えないんですけど、そういう意味で環境もやっぱりあって、
誰かがやってるから自分もやりたくなるなっていうのも、いい感じで修行を自分で受けてもらってね、
続けられるかが重要かなっていう話となりました。
自発性と環境の影響
なのでまだ12月まだまだありますから、来年を待たずしてね、今やりたいことを少しでも着手してみてはいかがでしょうか。
1分でも2分でも、見る、触る、聞く、話す、何でもいいです。
やる気が出て、ガゼンですね。突然という意味ですが、ガゼンやる気が出るかもしれません。
そしたらチャンスなのでそこからどんどんやっていきましょう。
今回は以上となります。
しごくりラジオ大橋でした。
ここまでお聞きいただきましてありがとうございました。
以上、失礼いたします。
26:49

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