1. たべものラジオ 〜食を面白く学ぶ〜
  2. #210(s23-17) 燃やすより食べ..

サマリー

前回からの続きで、胡麻の用いられ方や食べられ方について、時代を追ってマイルストーンを置いて話が進みます。最初は胡麻が薬味として使われ、七味唐辛子の発明やごま油の使用などが話題になります。その後、江戸時代になるとグルメブックに登場し、胡麻が一般庶民に浸透していく様子が描かれています。このエピソードでは、菜種油が灯明用の油や明かりの油として使用され、関西から関東に運ばれるようになったことが語られます。また、農学の研究者である宮崎康貞さんの活躍も紹介されます。宮崎康太さんの研究によって生まれた農業全書は、400年以上の間、日本で最高の農業書として評価されています。明治時代には西洋料理や石油の影響により、菜種油やゴマ油が食用として定着し、油を食べる文化が広まっていきます。しかし、その他の植物油は衰退し、一時消える時期もありました。菜種油とごま油の生産・輸入について話しました。

胡麻の薬味としての使用
はい、では前回からの続きです。で、今回は?
燃やすより食べたい
燃やすより食べたい。胡麻どこいった?
胡麻の話ね。
そういうことだね。
まあまあ、もともと食べてたんだけど、より庶民化していくよねっていう話です。
で、胡麻の用いられ方、食べられ方について、時代を追ってパパパッとマイルストーンを置いて読んでみたんですよ。
日本最古の料理書と呼ばれているのが、料理物語ですね。
料理物語。
はい。たびたび出てきます。1643年。
で、胡麻の記述に関しては、たった一品でした。
豆腐に出汁で伸ばした味噌をかけて食べるっていうね。
胡麻出てこんじゃんと思ったら、上にかかってるのが、トッピングとしてね、胡麻とかくるみとか生姜とかネギとか、そういうのが出てくる感じ。
薬味の位置づけだね。
うん。完全に薬味なんですよね。
だからね、まだこのぐらいの時点では、胡麻は薬味なんですよね。
1643年頃。
で、この料理物語という書物自体が、もともと料理をする人が書いてる本じゃないんですよね。
ほう。
いろんなお店だったりとか、大名家、武家の食卓からレシピを教えてもらって、それをマイルストーンに入れてくるんですよ。
それをまとめて書いたっていう、そういう本なんですよ。
ああ、そうなんだ。
比較的上流階級の本の、現実を書き取ったっていう本ですね。
うん。
だから、やっぱり薬味なんだなと思って、そういえば、胡麻を使った薬味といえば、これがあるわと思って、軽く調べてみたんですけど、七味唐辛子ね。
七味唐辛子。
うん。
ああ、確かに黒胡麻入ってるね。
入ってる入ってる。胡麻とか、あとは、麻の実とかね、山椒とか、もちろん唐辛子とか入ってる。あれですね。
うん。
そうなんですよ。
はいはい。
で、まあ、この七味っていって、7種類ですけど、この七味のバリエーションは、お店によってちょっとずつ違うのね。
ああ、そうなんだ。
うん。で、胡麻が入ってないのは、基本的にないんじゃないかな。
ああ。
うん。で、七味唐辛子が発明されたのが、1625年。
1625年。
うん。これ、明確にわかってるんですよ。
そうなの?
うん。八幻堀の八幻中島というお店ですね。
ん?八幻、八幻中島?
うん。これ、八幻堀っていうね、地名なんですよ。
八幻堀は、地名。
うん。今で言うとね、両国の辺り。
ああ、両国ね。
うん。で、八幻っていうのは、なんて言ったらいいんだろうな。あの、薬の研磨の研の字を書くんだけど。
ほう。
まあ、要はね、八幻堀っていうのは、お医者さんとか、薬局がいっぱい立ち並ぶ街だったんですよね。
ああ、薬の研究の研に堀?
そうそうそう。
へえ。
で、この八幻堀には、そういうお医者さんとか薬局がいっぱいあったので、そこからヒントを得て、薬で味を整える薬味というものがね、の一環で七味唐辛子というのが出てくる。
ああ、そういう流れなんだ。
これが大ブームになっちゃってね。
ほう。
これが大ブームになったおかげで、胡椒とかが淘汰されてっちゃうんでね。
うーん。
七味唐辛子、独り勝ちみたいな状態になっていく。
七味唐辛子とごま油の使用
ほうほうほう。
うん。
こうやってるっていうのは、ある意味しさ深いなという感じがしますからね、この時代。
うん。
うん。
で、料理物語からおよそ50年後くらいかな、ゴールイ日曜料理賞。
ゴールイ日曜料理賞?
うん。
日曜料理の本、レシピブック。
はいはいはい。
これが1689年に出てくるんですけど、この中で目を引いたのは揚げ豆腐かな。
揚げ豆腐?
うん。
いわゆる今で言う油揚げですわ。
ああ、油揚げね。
うん。
揚げ豆腐は黒ごまの油煮て揚げるという風に書いてある。
うん。
黒ごまは油で揚げるっていうか、油で煮るみたいな表現かな。
うん。
この当時ね、揚げるっていうよりもね、油煮って書いたりもするから。
油煮?
うん。
まあ今で言う揚げることをね、油煮とかいう表現をしてますかね。
へえ。
うん。
だからこの辺でね、油揚げとかごま油っていうのがこう出てくる感じかな。
うん。
うん。
揚げっていうのはね、そもそも豆腐っていうのが代替肉として出てきていたので、より肉っぽくしたい。
うん。
豆腐って油っぽさないじゃん。
ないね。
でも肉って油があるじゃん。
ある。
この組み合わせですよ。
ああ、油を足すね。
そう。で、水っぽいから水を抜いて、まあ今で言う豆腐絞って、で、それを揚げて作るのが代替肉としての揚げ豆腐。
うん。
で、同じぐらいの時代、ちょっと後ですけどね、1697年。
はい。
本朝食漢。
本朝食漢。
本朝食漢、もうこれはね、グルメブックなんだけど、レシピブックなんだけど、本朝っていうのは本邦っていうのと一緒ですよね。
ん?本邦?
うん。本獄みたいな感じ。
はいはいはい。
朝は朝ですけど、朝廷の朝なんで。
うん。
日本における食の図鑑みたいな感じね。
はいはい。
そういうのを見聞きしたのを書きまとめたのが本朝食漢。
うんうんうん。
で、この中で瞳必大という人が書いてるのが、ごまの香濃について。
うん。
結構長々と書いてるんですよね。
へぇー。
めっちゃ健康にいいぜみたいなこと。
で、ちょっと読むとね、面白いのが、父は常々黒ごまにくるみの実、くこの実、うこぎの葉、山椒、塩などを調合して、これを粉末にすると。いいですか。
ごま、くるみ、くこの実、うこぎ、山椒と、あと塩を混ぜて、ゴリゴリゴリゴリ粉にするわけですよ。
うんうん。
これを鞘油に入れて、食後に飲む。
ほう、もう漢方っぽいけど。
そうだね。
うん。
これを食後に飲むと、老いても健康で病気にかからない。
あー、まんま漢方だね。
うん。お父さんがそうしてます。
はい。
で、僕もそうしてるよ。
あー、そうなんだ。
何の話っていうのが書いてある。
レシピ本でしょ。
はい。
うん。
ということで、割と食べるっていうのと、漢方っぽい、体にいいよっていうのが、行ったり来たりしてる感じかな、この辺までは。
うんうんうん。
1704年の貝腹一軒なんかも、やっぱり似たようなこと言ってる。で、薬なんだけど食ってうまいよっていう、ちょっとその中間を行ったり来たり書いてる感じですね。
あー、そうなんだね。
で、これがね、1700年代中頃から様子がガラッと変わってくる。
はいはい。
江戸食い物重宝記っていうね、これはもうガチのグルメブックね。
江戸食い物重宝記。
もうね、どこそこの店があって。
じゃあ例えば、揚げ豆腐だったらこの店がいいよとか、寿司だったらこの店がいいよっていうのが、ずらーっと店の名前が並んでるんだよね。
あー、本当にグルメガイドブックだね。
そうそう。レシピとかじゃない。ただのグルメブック。
うんうん。
で、このね、グルメブックで面白いなと思うのが、本ごま場所っていう表記が出てくるんだよね。
ん?本ごま場所?
うん。本ごま場所なんとかや、みたいな。
へー。
これ何かっていうとね、これね、揚げ豆腐屋さんなんだよ。
揚げ豆腐屋さんのこと?
うん。揚げ豆腐屋さんのこと?
油揚げ売ってるとこだよね。
はいはい。
で、このね、本ごま屋さんっていうのは、本ごまっていうのは黒ごまのことを指してるんだけど、本物のごま使ってるところだよ。すげーだろうちって言ってるのね。
あー、そういう意味?
うん。うちは他の菜種油とかそういう安い油じゃない。いいやつ使ってんだよ。ごま油なんだよ。どうだすげーだろっていうアピール。
はいはい。
うん。これさ、それこそ和食店行ったときに天ぷら屋台のレプリカ出てたじゃない。
はい。
あそこにさ、横岡はかな、側面のとこに本ごま屋さん。
はい。
本ごまって書いてあったの覚えてる?
えー、どこだ?
あそこだと、左から蕎麦屋台、真ん中に寿司屋台があって、で、一番右端に天ぷら屋台があったよね。
はいはいはい。
それの正面から見ると、目の前にこう天ぷらの揚げたのとか油の窯が見えるんだけど、その横、側面。
側面?
のところに本ごまって書いてあった。
あー、確かにあったね。
あったでしょ。うちはごま油使ってますよ。美味しいですよっていうアピールね。
あ、そういう意味?
それが通じるぐらい、ごま油の良さが一般庶民に伝わってるってことだよね。
江戸時代からの庶民向けレシピ
あー、そういうことだね。
だからこの前提になってるのが多分その薬味とか漢方的な文脈もあり、ごま油が美味しいもの、うまいものだっていう前提があって、これは噛み合わさないと本ごま場所っていうこの単語が広告にならないわけですよ。
うんうんうん。
で、これと同じぐらいの時期の本でいくと、まんぽう料理秘密箱ね。
おー、まんぽう料理秘密箱。
これも和食店の中でちょっと展示されてたけどさ。
あー、あったね。
あったね。この中の卵料理の項目の中をつらつら読んでたらですね、利休卵なるものが出てきました。
おー、利休卵。
うん。もうね、ごまたまごだよ。言い換えると。
うん、ごまたまご。
これちょっとレシピ言うね。
はい。
白ごまをよくする。
よくする?
うん。もうゴリゴリすります、とにかく。
あー、よくするね。はい。
1合です。
1合?
うん。結構だよね。180cc。
多いね。
うん。これをゴリゴリすりまくります。
はい。
で、そこにコシュを半合、90cc入れます。
うん。
で、ゴリゴリよくすります。
はい。
で、ドロドロになったところに卵を10個ほど割り込む。
おー。
で、これをよく混ぜます。
はいはいはい。
で、箱か鉢に入れて蒸すべし。
あ、蒸すんだ。
うん。茶飯蒸しみたいな感じじゃない?
まあ。
まあ、そうだね。でももう10個だとよっぽど固くなると思うけどね。
結構固いと思うよ。
うん。
それを酒とごま、まあ練りごまで伸ばしてる感じかな。
うんうんうんうん。
どんな味なんだろう。
確かにね。卵5個ぐらいで半合ぐらいの水分量だったら卵焼きになるからね。
うん。
もうそれよりもっと固いもんね。
結構固めだと思いますよ。
ちょっと固めの卵焼きになるね。
うん。ねっとりもっちり。で、すごいのはね。
こうやってごま1合使ってんだよね。
確かに。
これよく思い出して。
うん。
奈良時代とか平安時代の話。
はい。
ごま1升もあったらですよ。
うん。
ごま油1升で米4トですよ。
うんうんうんうんうん。
ほら、これごまの粒の方だとしても、ごま1升だったら米1トとか2トとかいきますよね。
うんうんうん。
1合だと米1升に値する?
米1升分か。
以上。
以上だね。
2升とかだね。
うん。
そのぐらい高価だったごまが、一般向けの、一般庶民向けのレシピブックにもう書かれるところもできてる。
うんうんうんうん。
このね、1680年代、終わり頃80年代から1780年代までの100年間の間に大きくごまの立ち位置が変わってる。
うんうんうんうん。
で、このね、1885年っていうのは、割り切り言うとどの時代かっていうと、
これ、天明なんですよ。
天明。
はい。天明何年だったかな、忘れちゃったけど、天明期。
これね、法暦から天明の間っていうのが、法天文化とかいうふうに呼ばれるんですけど、別名、田沼時代なんですね。
おぉ、田沼時代?
うん。田沼・置継の時代。
はいはい。
まぁもっとザクッと言うと、江戸の中でもピークと言ってもいいほどのバブル時代。
あぁ、そうなの?
経済がめちゃくちゃいい時代。
へぇー。
ここから、火星文化に向かって、文化がどんどんどんどん、庶民の文化として花開いていくんですよね。
うんうんうん。
うん。なんで、バブル期だっていうのも手伝って、高級品のごまと高級品の卵をふんだんに使った料理っていうのがね、出てくるようになっているということですかね。
はいはい。
じゃあ、この150年間くらいか、1640年代から1780年代のこの変化を知った上で、じゃあその原因なんだろうなっていうのを、ざっと見てきて。
はい。
まず一つには、ナタネ油の登場。
ナタネ油?
菜種油の流通
もうね、油がね、ごま油とかエゴマ油以外の油が出てくるんですよ。
うんうんうん。
で、すごく簡単に流れを言うと、このナタネ油が、灯明用の油、明かりの油として非常に安くて優秀。
ほぉ。
だから、明かりとしての油はね、ほとんどナタネ油が主役になっちゃう。
あぁ、まぁ、いいね。
うん。
だから、このナタネ油が、灯明用の油、明かりの油として非常に安くて優秀。
ほぉ。
まぁ、安いっていうのは、大きいのか。
安くてね、質がいい。
うん、絶対に。
うん、大量に作れる。
ほぉ。
だから、駒油は、より食べる方にシフトしていくんだよね。
うんうんうん。
追いやすいuetセ balanceが走る。
ゆるさだだラジソン、スコーリング、などのまち жест 썩れてる。
ものの、今日の映像もہ、きっとこれ、これ、今回のM einges・・・
のやつ。
うんうんうん。
やられていくっていうかね
どっちが本筋か知らんけど
だからゴマの立ち位置がね
食べる方に行くから
絞らずに回していける
っていうのもあるよねやっぱりね
今となってはいい流れだね
そうだね
菜種油ちょっと来歴話すと
もともとね油菜っていうのは
結構古い時代からあるんですよ
原料の油菜ね
日本に
やってきたのがおよそ
弥生時代
だいぶ古いね
原産地は
西アジアから北欧にかけて
北欧にかけてなんだ
そう結構遠いよね
遠いね
弥生時代に来てたね
弥生時代からずっと
日本に来て栽培化されていて
平安時代の書物にも
残ってるんだけど
ほとんど野菜だね
葉っぱを食べてる普通に
美味しく食べてます
美味しく食べてる
お浸しにしたり和え物にしたり
もう完全に定着して
在来化してるんですけど
油になるとは誰も思ってない
ただの野菜だから
そしたらちょうどね
豊臣秀吉が
前世紀の時代
朝鮮出兵とかね
大阪城を建てるとか
そのぐらいの時代だね
このぐらいの時代っていうのは
ものすごく海外貿易が
活発になる時代なんですよ
瞬間的に
どーんっていく
そうなの
もう博多の街なんか
日本人もいるし
白人西洋人もいるし
大陸の中国系の人もいるし
東南アジアの人も来てるし
みたいなそんな感じ
へー
博多とかとも堺の街だね
そんな感じな時代なんですよ
この時に
菜種油とか
あと麺じつゆって言って
麺ですね
綿取れるやろ麺
あー麺かの方ね
それの身の部分を
絞ったら油が取れるとかね
そういうことを知らされるんですよ
特に菜種油
弥生時代から定着してる
その辺にある野菜じゃない
この植物から油取れんの
そんなマジックある
できるやん
すげーってなるんだよ
そこやっと気づくんだね
しかも食べるとこ以外の分でね
できるわけだから
身のところだから食べてないからね
これ絞って油できるんだ
絞ってみようって思って
絞ったら
これなんかエゴワよりも全然いいことない
すげーいっぱい取れるし
綺麗だし臭くないし
あの明かりつけても長時間持つし
これいいなっていうことになって
豊臣秀吉が大阪城作ってる最中だからね
大阪城下だね
お城の城下町
ここにね作油業者を呼んできて
お前らここに全員住めと
ほう
油がいっぱい
集めっから
このお前ら菜種油絞れっていう指示を出すんだよね
へーそうなんだ
でこん時に連れてきたその作油業者の集団ね
うん
大阪摂津は住吉郡
折尾の村の人たちだよね
おー前回前々回ぐらいで出てきたんだよね
そうもう伝説上のもう古事記や日本書紀よりも前から油絞ってたと言われてる
あの人たちを呼んできて
で大阪城下町でその
菜種油を絞らせるわけ
はーめっちゃプロ集団呼んだね
そう超プロ集団にガンガン油を絞らせるわけね菜種油で
そうすると大山崎の人たちは保護されてるはずなのに秀吉によって
にもかかわらず強力なライバルを秀吉が作っちゃうわけじゃん
うん
これでね大山崎はどんどんどんどんしぼんでくわけだよ
だいぶひどい話だね
あれお前庇護したんちゃうんって
わしらあかんやないかーって言ったら
その山崎州の一部はもうあかん俺らこのままやったら生きていかねえ行くって言って
何割かはね大阪城下町に引っ越す
で合流
合流しちゃうんだ
合流しちゃうんです
はー
で時は移ってこの豊臣政権が倒れて今度徳川幕府になるわけじゃないですか
はい
家康は賢いからその辺
うん
そのまま引き継ぐのね
あーそうなんだ
もっとやれと
で大阪っていうのは
徳川幕府の直轄領になりますから
そこから油を作って
江戸に新しい町作ったじゃないですか
はい
でここでめっちゃ油使うんで
この大阪で作られた菜種油をガンガン江戸に輸送するってことを始めるんですね
はーそうなんだ
でねそんなに油いるんかなそんなに必要とか思うんだけど
めっちゃ必要でさ
庶民とかねいわゆる底辺の僕らみたいな一般庶民ですよ
僕らなんかだったら魚の油とかやったら
安い油使ってもまあいいわけです
言ったら
けど江戸って高級官僚とか武士とかがめちゃくちゃ多いんですよ
まあ役付きみたいな人いっぱいいるね
えらい種いっぱいいるからこの人たちにそんな魚の絞った油なんか使わせらんないじゃないですか
いい油を提供するもしくはいい油が買える環境を整えておく
はいはい
これやっとかないとなんだ徳川殿はそんなに力があるわけではないのだな
江戸の町も鷹が知れておるの
っていうことになるわけですね
そういうね
それはあかんわけですよ
海外にもそれを示していかなきゃいけない
さすが徳川殿の江戸はすごいという環境を作るためには油をガンガン持っていかなきゃいけない
江戸ってねめちゃくちゃ武士とか僧侶多いんですね
武士だけで50%くらいいますから
多いね
人口に対して武士って何パーセントかっていうと7%なんですよ
7%しかないの
全国平均で
へえ
江戸の人たちが残りの90%くらいを支配するって構図なんでね
すごい格差というか
そうなんですよ
人口割合だね
あと1%くらい貴族とか公家とかいますけど
ほとんど一般人
92%は一般人
みたいな感じ
でわずか7%しかいない武士のっていうのがそれが全国の基本じゃないですか
江戸だけ50%いるんですよ
めっちゃいるね
むちゃくちゃ油消費するの
まあそうなるよね
でこれで良質の油が大量に必要だから関西からガンガン運んでくるんだよね
なんで関西から運んでるかっていうと関東圏でねその菜種油作れない
菜種油なんか育たないとかねいうことがあったりしたらしい
あっそうなの
で綿花の綿実油も綿花自体は育てられるし
例えば今の愛知県だね三河とか終わりでも着物を作ったりしてるんですよ
あそこもね織物の町としては相当歴史古いから江戸時代からなんで
綿花があるんだけどその綿の実から油を絞るっていうのができなくてこの実を関西に売っちゃってたりしたわけ
これ一生懸命地回り油を作ろうと思って関東近郊で作ろう作ろうって努力をしまくるんですよ
幕府が
幕府が
頑張れ頑張れって言ってどんどんこう推奨したりとか技術発展のために投資をしたりとかするんだよね
これがねなかなかうまくいかなくて
でやっと軌道に乗るのが1700年代中頃なんだね
だいぶかかるね
でだいぶかかってなんとか形になったら途端に江戸の市中に出回る菜種油の価格がグンって下がるじゃないですか
関西からも相変わらず来るんだよ
で関東地回りもあってグンと下がったところで油がごま油とかえごま油とか椿とかそういうのを燃やさずにもっと食べられる環境ができるわけじゃないですか
うーん
その直後に出てくるのが漫法料理秘密箱とか豆腐100種とかあの辺の時代なんだ
あーそうなんだ
ちょうどそのぐらいのタイミングなんだよね
だから一つには燃やさなくても良くなった食べられる環境が整ったという意味では菜種油が間接的にごまの消費に影響を及ぼしてるんじゃないかなというふうに見えます
うーん
調べたでしょ自分ちょっと褒めて
よく掘ったね
掘ったでしょ
うーん
何かしたらちょっと呆れ始めてる
呆れんな呆れんな呆れんな
だから尺長くなるんだよ
そっかすいませんじゃあもう少し行くぞ
まあもうここまで行ったら最後まで行ってください
農学ガチ勢の宮崎康貞さん
農業生産力の向上
農業生産力が向上する
これはさ今までにも何回かお話をしてると思うんだけどね
はい
戦国時代に培った土木技術
ほう
これによって灌漑ができるようになって
河川の整備がガンガン行われた結果平野部が開けていって
水田がどんどん増えましたよね
あと肥料が使われるようになったり
鉄製の農具が使ったりとか
牛や馬が働くようになったことで
1単位あたりの生産量もどんどん上がってきますよね
こんな話したと思います
はいはい
でお米の生産量が上がってくることによって
結果として商品作物が価値を持つようになってくる
こんな流れですね
ちなみに油菜っていうのは
夏の終わり頃から秋に
繁殖をして植えて
春に栽培終わるわけですよね
あーはいはい
収穫をする
ちょうどね米の裏作なんだよね
あー確かに
ちょうどいい
そうだね今の今のナバダとかね
キャベツとかみんなこの時期だもんね
まさに油中はみんなそうですよね
ちょうどいいんで
それが向いてる土地が先に関西の方が始まって
あとから関東に行くみたいな
流れなんですけど
これとは別にもう一つですね
農業に関する知識
知識
今で言う農学ですよね
はい
この農学をガチでやった日本人がいるんですね
農学ガチで
ちょっと違う顔が浮かんできちゃったんで
ガチなんか言うもんでね
農学ガチ勢の宮崎さん
宮崎さん
宮崎康貞さん
宮崎康貞さん
1623年生まれですね
ほー
だいぶ前
TGさんとずいぶん先輩だね
だいぶ先輩だね
この人マジですごくてさ
はい
もともとね
一応武士の家系ではあるんだけど
そんなに高級官僚でもない
あーそうなんだ
もともとね
林とかを管理する
お林の森的なね
そういう武業を務める家系の人なんだよね
はいはいはい
でこの人ね
班を2つぐらいまたがって
お勤めをするんだけど
なんと30歳で引退をしてしまうんですよ
はー若っ
そこからねすげーのが
農業に関してめちゃくちゃ研究する
へー
一応班に勤めていたので
隠居所を与えられるんですよ
小さいけど
うんうん
200穀ぐらいの小さなこう
農地付きの家を与えられて
一応班からお給金もらえるような
そんな環境ではあるんですね
あー200穀って結構低そうだね
結構ある結構ある
生きていくのには全然困らないんですけど
自分で畑耕していろいろと実験をしつつ
近隣の農家の人たち農民に
学問的に農業の指導をして
開墾したり干拓をしたりとか
あと農業をより良くするにはどうすればいいか
といろんなチャレンジをするんですよね
はいはいはい
そのうちに関西全域
西日本か最後九州に行ってるので
九州から機内あたりまでの西日本全域を
安屋して旅するんですよ
あーそんな広い範囲
歩いて回って農村を歩いて
ここの畑はすごく実りがいいな
これはなんだ
そしたらおじいちゃんが一生懸命畑耕したり
農作業してるわけですよ
宮崎康太と農業全書
これちょっと教えてくれぬか
話を聞きに行く
どうやってるんだって
どんな工夫をしたらここの畑はこんなに良くなったんだ
代々こうこうこうしていって私はこんな工夫をしてます
そうかお主偉いの
ちなみにここに
どこから水を引いておるんじゃ
どこそこの山からこういう湧き水があって
こういう川が流れております
で行くんだそこに
へえ
でその水の環境とか
自分で土を触ってみて
この土はどういうものなのかっていうのを
ずーっと暗記して調べていくのね
はー本当のガチだね
スーパーガチでしょ
めちゃくちゃ聞き取りして
それをまた自分の畑に持って帰って
実践してまとめてまた聞きに行ってを繰り返しまく
ひたすら
すご
でそのうちにその研究だけじゃ
これは勉強しないと
先行研究も見ようってなって
で同じ藩の藩士に
海原一賢っていうね
儒学者、学者さんがいるんで
その人京都にずっといるんだけど
そこに手紙を送ったり
自分も京都まで訪ねて行ったりして
判定に
で直接会って
そしたら
農政全書っていう中国の書物があると
でそれのどういうふうに解釈すればいいかっていうのを
同僚の学者さんと一緒にこう
中国の農書を研究していくんだよね
でこれを合わせて
ずーっと研究し続けて
なんと40年
40年
70歳
すごい
隠居する前の方が短いよね
うん
そう
30で引退して70歳過ぎまで
ずーっとこれやってんの
あーすごー
でちょっとずつちょっとずつ書いて
1696年
7年から7年にかけてやっと書き上がる
95年だったかな
で書き上がったやつをその
自分の藩の藩邸が京都にあるんで
そこにいる貝原一賢とか
そういう学者さんたちと
情報共有するわけですよ
でこれは素晴らしい
時は元禄ですよ
元禄9年
ちょうど上方で出版文化が花盛りの頃でね
おお
こんな素晴らしい種物を
私は見たことござらぬ宮崎殿
これは素晴らしい
なんとか書物に出そうって言って
京都の本屋さんですね
出版業者に売って出版させる
はあ
これが1697年
本当に亡くなる直前
そう
そしてこれが出版された数ヶ月後に
宮崎康貞さんは息を引き取ると
はあすごい
すごいでしょ
まさに人生を捧げたね
この本があまりにも素晴らしくて
明治より前の時代における
近代農業以前における
最高の農業書って言われてる
そうなんだ
ここから400年間くらい
この農業全書を上回ると言われるような
書物は出てない
へえ
でこの農業全書が出てきたことによって
すごく大きなインパクトがあったのが
それまでにあった農業関係
農学書系の本っていうのは
あるはあるんだけど
主に中国でね
目線が支配者目線なわけ
統治するのにこのように
農業を促進すると良いよとか
そういう目線なわけですよ
ところがですね
この宮崎康和さんっていうのは
自ら歩いて農民たちと触れ合いながら
自分も実践しながら作ってるじゃないですか
これはね
実践者のための農学書なんですよ
うんうんうん
どのように植えてどのような手入れをすれば良いか
とかも書いてあるし
それこそ商品作物の栽培をするのが
これから先はみんなのためにもなるし
国益にもかなってる
そこに商業的な農業をするためには
こういう風な販売ルートを
持ってたら良いよとか
お金になれたらどうするべきなのか
どこに投資をすべきなのか
みたいなところも研究してるんですね
そういうのも? あるんですよ
もう一つ大事なのは
土地土地で水だったり土だったり
気温だったり
環境全部違うじゃないですか
これに合わせて
その土地ならではの農学っていうのを
体系化していくっていうことを
その概念を形作るっていうのは
この宮崎さんなんですね あーそうなんだ
だから農業全省を
叩き台にして
この人西日本の人なんで
中部東海地区とか
関東の方とかでも
この農業全省を叩き台にして
じゃあうちの土地ではどうなんだろうっていうのを
叩く人たちがこの後
高発で出てくるんですね
宝物 そうだね
日本農業史における そういうことだね
でこの宮崎康貞の
農業全省のことを
偉い人がすぐに見つけて
これは素晴らしいと言って
このように評価してます
これ人の世に一日も
なかるべからざるの所である
要はこの人の世の中にね
この社会に一日たりともない
っていう状態を作っちゃいけないと
言わせたねだいぶ
これを言ったのが徳川光邦公です
おお 水戸黄門
水戸黄門だね
副将軍現役時代にこれを言っている
へえ
でもう一つ有名人いくと
八代将軍徳川義宗の
座右の書です
座右の書?
常に手元に置いておくべき本
明言してるし読んでる実際に
はあ
そうなんだ
宮崎康貞
明治時代の食文化の変化
名前も覚えた方がいいと思うし
僕農業全書は教科書載せるべきだと思う
ああめちゃくちゃ今
興味ある ね
すごい読んでみたい 読んでみたい
俺中身全部読んでないけど概略しか知らないけど
これすごいね
そうだね1600だよ
元禄だもん
元禄の本400年間
ほぼ現役だったんだよ
400年間400年間?
400年出したら2097だったから
うん そんなんないな
200何年か行き過ぎた
俺さっき間違った 200
次に農業省が
上回ってくるのが明治に入ってからなんで
うんうん
200年後くらいかな
200年間破られなかったというか
超えるものがあまりなかった
それでもちゃんと読んでないけど
この考え方の基礎を日本に根付かせたという意味では
もう歴史上
ピカ石なんじゃない?
そういうことだよね
すごいことだと思いますよ
40年間ガチでやってさ
書き上げたやつだからさ
まあすごいよね
そりゃそうだよねっていう感じ
もうね感動しちゃったもんこれ
ということで宮崎康太さん
ぜひぜひ知ってあげてください
ちょっと見たいね
見たいね
興味ある人は調べてみてください
農職で
農業全書の話してくれないかな
出た
エアーお便り
専用回をね
エアーリクエスト出ましたね
1シリーズじゃないけど1エピソード全部
やってほしいよね
農学ガチ勢の
後輩
元祖からのパス
ひどいやふたらこれ
いやでも面白いと思うよ
すごい気になるもんね
じゃあ最後
ちょっとだけ明治以降の話しましょうかね
はい
こうしてごま油とかごま自体がね
生産量が上がって
一般庶民が食べられるようになって
ごまドーラーみたいなのができたりとかね
ごませんべいっていうのが
当たり前に売られるようになって
行くのが天明とか
そのあと文化分析
落語の世界ですね
あの辺の時代になってくると
もう当たり前になってきましたよということなんですが
西洋料理の文化が
明治時代になってくると
ドーンと入ってきますね
特に明治5年6年
あたりになって
もう
西洋近代化を進めるぞみたいな
旗振りが始まるわけですよ
菜種油とゴマ油の普及
これは
今までの回にも散々話をしてきたんですが
このタイミングで
石油というものが日本に
やってきます
このタイミングでね
明治時代になると明かりは
石油になります 油がね
石油に変わる
ガス灯がつきましたとか石油灯がつきましたとか
みたいな感じだよね
だから僕らは灯油って言ったら
ガソリンスタンドで売ってるものを買うじゃないですか
うん
今回のシリーズ分かりやすくするために
あえて灯明油とか灯明油って
言ってるんですけど
古い書物の中では
灯油って書いてるんですよ
ああそうなんだ
灯油イコール明かり油ですから
食物油だろうが
石油油だろうが灯油は
灯油なんですよ
だけど僕らは明かりの油といえば
石油だと思い込んでますよね
確かに
そのぐらいインパクトがあったのが
この明治の西洋近代化なんですね
ああそうなんだ
このタイミングで
植物油が思いっきり衰退するんですよ
産業的に
エゴマなんかすぐ消し飛んじゃうしさ
だからエゴマ油って
一回歴史のモテ物体から
消えるんですよここから
ああそうなのねこのタイミングなんだね
エゴマ油は健康に良いよねっていう
文脈で改めて復活したのは平成の
話ですからそれまで
そんなんあるんっていうレベルまで
一回消えますからね
でもう
生き残れるのは菜種油と
ゴマ油ぐらい
他はもう
存在忘れられるぐらい一回消えちゃうんですよね
消えてはないけどもすごく
縮小してしまう
菜種油はかろうじて生き残ったのは
この後軍用の
車ですね
明治軍
明治の時代の政府軍ですよね
陸軍か
の車両で使われる潤滑油オイル
オイル
オイルとして生き残る
そっちなんだ
なんだけどそれもすぐにやっぱ石油だよねってなってくから
縮小してしまうんだけど
そのギリギリ生き残ったのは
ここから
油を食べるっていう文化が
定着していくんですよ
1872年あたり
西洋料理通だとか
アグラ鍋だとか
そういうのが出てきますよね
金垣ロブンって
これも和食店の後半のところでちょろっと出てきましたけど
金垣ロブン
金垣ロブンっていう人がね
この人もともと
本書いたりとかしてる人ではあるんですよ
そうなんだ
新聞に寄稿したりとかしてね
そういうこともやってる人なんですけど
この人が本を出していて
明治天皇が食べるような料理の
料理本の元になる
西洋料理通って本を書いたりとかね
西洋道中ひざくり毛なんて
もう矢次さん喜多さんの
フォーマットで海外を旅する
物語を書いて日本人に
西洋を紹介するみたいなことをやるんだけどさ
こういうのがちょっとずつ
始まっていって
日露戦争くらいね
明治30年過ぎくらいになるかな
そのくらいになってくると
そこそこ一般市民レベルまで
西洋料理的な考え方が
定着してくるんですよ
とんかつみたいなのが
割と街の食堂で
食べられるようになるのもこのくらいかな
ああそうなんだ
一般人がね一般庶民が
一般庶民がね
そうそういうくらいになってくると
これねイコール一般大衆が肉と油を
口にするっていう文化が出てくるじゃないですか
このときに安い植物性油
っていうのは重要なんですよ
ごま油もちょっと高いからさ
まだ高級品ではあるから
食べられてるんだけど
もっと安い油があったら大量消費できるじゃないですか
何せこの時代
人口3000万から6000万まで一気に膨れる時代ですからね
すげえ膨れるから
ブラジル移民とか
出てくるんだけどさ
増えすぎてやばいから
出てかなきゃみたいな
いう感じの時代なんだけど
必要になって
車両用のオイルに使われてた
菜種油が食用に転じていって
ちょうどいいねっていう感じで
ちょうど食産工業の時代だから
思いっきり機械化して
イギリス式とかドイツ式の機械がガチャンガチャン入ってきて
ガンガン菜種油作っていくんだよね
ところがどっこい
途中でね
国内の菜種油と海外からの輸入
国内の菜種油の原料になる
油が足りなくなっちゃう
増やしすぎて
需要をね
需要が多すぎて工場もガンガン増えて
一気に稼働したから足りなくなるじゃん
じゃあ油な
海外から買ってこようと思ったら
輸入すると高ぇなってことなんだよね
全ての
作業業者がそうしたわけじゃないけど
こりゃちょっと
菜種油きついなって
並行して
違う油を作るようになるんだよね
ほー
ごま油を絞り始める
ごま油も
その機械でガンガン
絞り出して大量生産始めるね
ほー
今でもそのごま油のメーカーとして
有名なとこ何社かありますよね
そのメーカーさんで
明治からやってるところは
大体このタイミングで菜種油を
作ってたんだけどごま油も
もう一本の軸数でガツンと出してきた
ところが結構多いですね
こういう感じ
ここでごま油を作り出すんだね
そうでここで大量生産を
始めてくれるので
今僕たちはあんなに安い値段で
もともと高級品だった
ごま油をもうふんだんに
使えるわけですよね
で同時にごま油の
原料のごまも国内生産で
間に合わないからガンガン海外から買える
なんでかっていうと
今までずっと見てきたように
世界中でごま作ってるからね
で日本は当時
めちゃくちゃ強くなってるじゃないですか
明治大正昭和初期にかけて
もうね買い放題なわけよ
汚せってやくれるんだからな
戦争があって昭和になって
日本が高度経済成長期から
バブルになったら金持ちになりましたよね
買うんですよいっぱいごまを
ごまをね
それこそスーダンもそうだし
ベトナムとかもそうだしミャンマーとかもそうだし
そういうとこからごまを
ガンガン購入して
現代でも日本は
ごまの輸入量
ベスト5には常に入ってんじゃないかな
ベスト5
1位はぶっちぎり中国なんだけどさ
ごま油の生産と消費
圧倒的にね
圧倒的なんだね
人口も違うしね
人口も違うし中国の料理といえばごま油ぐらい
浸透してるから
買ってないんですよ
その次がどこだったかな
中東トルコかな
トルコ
ごまを消費するんで
あと韓国と日本が
この辺にごちゃごちゃっていう感じ
結構ですよ
結構だね
それはごま自体の消費も多いし
ごま油の消費も多いよ
ごま油を生産する体制もちゃんと整ってるよ
っていう感じかな
よく考えてよ
中国韓国日本がベスト5に入ってんだよ
すごいねそういうことですよ
アメリカは来ないんだよねあんまり
アメリカは量的には
輸入量はそんなないんですよ
ああまあそうね
でも消費はしてるんです
消費はしてるんだ
国内でも作れるわけですね
ああ広いからね
まあその辺がセサミストリートにつながる
じゃあ次回ちょっとその話しましょうかね
また懐かしく
セサミストリートの名前は聞こえたね
はいもうセサミストリート
第1話でしましたので
そこに帰ろうかと思いますし
今世界を
東回りに一周してきましたよね
これでも大雑把にヨーロッパとか
割愛してきてるんですけど
佐藤は
西回りしてったけど
ゴマは東回りでこう来て
でついに端っこ日本まで
来ましたって感じじゃないですか
はい
アメリカ大陸どないなっとんのかな
最初にチラッと出てきただけだもんね
予告をしておくと
アメリカ大陸の
ゴマはアフリカから
ちょろっと西回りで移ります
はあそうなんだ
と同時に
極東日本からも
太平洋を渡ります
太平洋渡る
この両方から
最後に合流するのが
アメリカ特に北米ね
うん
ブラジルとかなんですね
そうなんだ
その話次回しましょうか
ということで今回はこの辺で終わりたいと思います
ありがとうございました
ありがとうございました
食べ物ラジオサポーターのぐれです
食べ物ラジオでは
活動を応援してくださるサポーターを
募集しています
もっと食べラジオの話を聞きたいというそこのあなた
私たちと一緒に
サポーターになりませんか
詳細は概要欄
またはホームページをご覧ください
サポーターコミュニティで
お待ちしてまーす
大丈夫ですか
すごいね
42:12

コメント

スクロール