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  2. #2 1日3千両が動いた日本橋の..
2024-04-08 30:28

#2 1日3千両が動いた日本橋の魚河岸

おすすめの聴く場所「東京都の日本橋」。

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00:06
たべものラジオ
たべものの世界を探求する、たべものラジオの掛茶料理むとう、むとうたくろうです。
むとうたろうです。
このラジオは、少し変わった経歴の料理人兄弟が、食べ物の知られざる世界を、ちょっと変わった視点から学んでいくラジオ番です。
はい、ということで、今回は何でいくんでしょう。
日本橋の魚河岸です。
日本橋の魚河岸。
はい。
魚河岸って言ったらね、何のイメージありますか?
普通に魚売ってるとこ。
魚売ってるとこ、まあそうですね。
東京の魚市場、集約された市場といえば、今は豊洲ですか?
ああ、豊洲だね、今ね。
で、その前が築地ですよね。
築地。
で、その前が日本橋。
その前、日本橋な。
はい。
あ、そうなんだ。
ピンときます?
ピンとくるか?
今この音声を聞いている方、日本橋にいらっしゃるんでしょうけども、
日本橋コレドとかね、三井があったりとか三越本店があったりとか、
日本銀行があったりとか。
ああ、あるね。
あの辺りですわ。
全然イメージないけどね。
あそこ魚河市なんで。
へえ、高層ビルの高級街ってイメージだけど。
あそこがね、日本一の魚河市があったところなんですよ。
へえ、そうなんだ。
だいたいイメージないですけどね。
日本橋の魚河市があったのが江戸期間中、江戸のちょっと前からね。
慶長年間から始まって、最後大正十二年。
大正十二年。
大正十二年をもって移転します。築地へ。
へえ、1923年。
はい。これは関東大震災があった時ですね。
あ、関東大震災ね。
江戸は終わってるけどね、東京だけど、壊滅しちゃうんで、
もうちょっと広くて、海運の便のいいところに移動しましょうと。
今築地もちょっと内陸化しちゃってるんですけど、
当然ですが築地に移転した時はあそこ海の際なんですよね。
直接船がつけられる場所。
そういった場所に移転したということで、
日本橋からは魚河市が消えてなくなったということですね。
日本橋なんだね。
橋ってついてるのにね。
そう、日本橋という橋が架かってるその田元あたりですね。
はあ、なんか海岸に最初からつきそうなもんだけど。
えっとね、橋という字がですね、漢字で書くと川岸と書くわけですよ。
ああ、確かに。
この川岸に船を乗り付けて荷上げをするわけですね。
うんうん。
で、今の墨田川かな。
今よりももうちょっとね、広いというか海が近いと言いますかね。
03:04
今のそうですね、新橋あたりがもう海の際際だったりするんで。
これ古地図と現代の地図を重ねてみるとわかるんですけど、
こんなに海近かったんだってぐらい海ですからね。
そうなんだね。
築地界隈、もうほとんど海ですからね。
ほとんど海?
はい。
地名でなんとか島とかありますでしょ?
分かりやすいところで言ったら築島とかね、ありますけど、
あそこ本当のただの島なんで。
ただの島?
そんなに大きくない。
昔の江戸屋敷で言ったら財務屋敷1個入るかなくらいの面積しかない。
そんな小さいの?
今そんなことないですけどね。
ないね。
埋め立てたから。
ああ、それも埋め立てたんだ。
そうなんですよ。
築地島ですら江戸時代に埋め立てたものなんで。
そうなんだ。
なんなら浅草の辺りまで海ですからね、元は。
確かに浅草って書くもんね。
1500年代はそうなんで。
1500年代ね。
それは徳川幕府ができてきて、どんどん埋め立てをしてて広がっていくっていう感じなんですよね。
町になっていった時ね。
元々この日本橋のところの川ね、この日本橋にかかってる川、これ自体も日本橋川って言うんですけど、
元は平川っていう川なんですよ。
平川?
これを整備していくつかの支流に分けて細くして、
ここの部分は日本橋川ねとか、こっちは何川ねって分けていくんですね。
分けたんだ。
これが水運でずっと繋がって、今の皇居、当時の江戸城の外堀に繋がっている。
そうすると空いた石書があるにしてもずっと船で物が運べるというね。
江戸っていうのは水運の町でもあったんですね。
だいぶ川が曲げてたりしてるもんね。
かなり水運整備が発達していた場所なんですよ。
品川のあたりとかね、それこそ築島のあたりで漁業を営んで、
それを江戸城に届けようと思ったら日本橋を通り過ぎてさらに外堀の方まで行ってですね。
そっちで煮上げをしてその魚を収めるってことを、
初期の段階、幕府開封前とかはそういう感じでやってるんですよね。
幕府が出てきて少し町ができてくるとこのあたりがいいよねっていうので、
その日本橋という橋を五海道の起点にしたのもあったので、
ここら辺が都合がいいよねっていうことでここが魚菓子になっていくわけです。
ちょうど水揚げをするところね。
物流としてはちょうどいいんだね。
この魚菓子を造成したわけじゃないけど、
そのきっかけになった人っていうのが森孫江門という人ね。
きっかけになった人。
これ語ると長いね、この文字数結構あるんで。
森孫江門。
孫江門さんね。
孫江門。
06:00
この人、もともと大阪節通の国西成郡津久田村の人なんです。
津久田村の人。
西成郡津久田村の人。本能寺の辺ありましたね。
本能寺の辺。
明智光秀が織田信長を打ち倒すところ。
あの時に家康も近くにいたので、逃げ出すんですよね。
逃げ出す。
逃げないとやられちゃうから。
まあまあ、それそうだね。
その時に逃げる手助けをしたと言われてるのが、
この津久田の漁師集団だったって言われてて、
そこの津久田村の名主、党首ですね、一番偉い人。
それがこの森さんなんですよ。
この森さんはわりと家康に好意にしてもらってるというか、
ずっと持つ持たれつの関係だったりするので、
例えば伏見城にいる間の家康の魚とか青物は、
この森孫山さんが全部養駄手してたりとかね。
あと大阪冬の陣、夏の陣とかの時も平坦を整える。
食料を送ったりとか、海辺の偵察とかもこの津久田集団がやってたりとか。
まあ大阪の名主の人が手助けしてた。 そういうことです。
この縁があったので江戸を開いた時に、
こっちおいでって、いらっしゃいって言って森さんを呼ぶんです。
よっぽど仲いいんだね。 うん。
恩義もあったし活躍もしたし優秀な人だったんでしょう。
ということで幕府に治める専業。
魚はもうこの津久田集団のお仕事だということで、
漁業権を全部渡すみたいな。
めちゃくちゃなんか刺激してるね。
この津久田村の人たちが住む場所が必要だよねっていうので、
幕府側が用意した場所が今の津久田島なんですよ。
津久田島。
津久田集団が住んでる島だから津久田島ね。
ああ名前が土地の他から来た時の元の。
そう。津久田村から来てるんで元々大阪由来の地名なんです。
ああそうなんだ。
江戸の名産の一つである津久田に地名が西成軍津久田村から来てますからね。
何のこっちゃわかんないっていうね。
だから津久田ってよく津久田にってわかんないもんね。
文字考えても加工法でもなんでもないからさ。
地名です元々。
地名だったんだ。
ここで何の話かっていうと、幕府御用のお魚を取って献上するじゃないですか。
はいはい。
余るんすよね。
余る。
たくさん取れたら。
まあまあ確かに。
で生物だから取っとけないんでもう売るしかないわけですよ。
それを元々ボテフリの人たちとかで分けて売ってたりなんかしたらしいんですけど、
意外とこの余って売る方が需要が高くなってきちゃう。
そっちの方が売れるの?
売れる。人口が増えたからくれくれって言われるわけですよ。
ああそっか。江戸作っていった時とかね。
そう。で一般市民も入ってくるんだけど、産金交代なんかで江戸の屋敷ができるわけじゃないですか。
大名屋敷っていうのが。そこの需要もかなり高いわけですよ。
09:00
まあまあ確かに。
でそれだったらどっか一箇所に集めた方がいいよねっていうので、
ちょうど水運の起点でもあり陸運の起点でもあった日本橋が選ばれて、
で日本橋の橋のたもとあたりに動かしがだんだんと成立していくと。
そっちの順番だから割とその日本橋がメインに置かれてるんだね。
そういう感じですね。
なんかきっかけはねこの孫江門さんの息子の旧江門がそこに店を開いたのが始まりだっていう風に言われてますかね。
ああそうなんだね。
いろんな漁師とかその辺の人たちが俺も俺も俺もって言って店を出店していって、
そのうちにいろんな商人が集まってきて今度魚の豚屋さんがたくさん出てきて、
何十軒とかにもなって組合ができてみたいな感じでどんどんどんどんでかくなっていくわけですよ。
確かに森一族というのかな。森家自体が徳川県にね、
すごい地域にされてるっていうのはわかってるからね。
その人が子供たちが始めたなんて言ったら周りが集まってくるよね。
ちょうど交通の拠点としてもいいしこれ立地的にもね、
日本橋界隈っていうのは食べ物で言ったら魚だけじゃなくて青物も集まってくるし、
あと米とかも集まってくるし、米の倉庫である蔵前ね。
ちょっと離れてますけど船で言ったらそう遠くないところにありますしね。
あと日本橋の今の銀座川のところなんか材木菓子とかもあって。
材木菓子。
全部その菓子ってついてるところはその材木を水あげする場所だったりとかするんですよ。
ああそっか。川に岸だからね菓子がね。
そう。ただただ川岸なだけだからさ。
商店とかそういう感じなんだろうね。
にだんだん発展していくんですよね。だから大工町とかさ、
なんかのこぎり町みたいな変なよくわかんない名前がいっぱいついたりするんだよ。
昔の古地図見ると。
一番に近いのか。意味としては。
築地の周りに城外ができて城外にいろんな雑貨屋さんが集まってきて、
そこに買いに来る人たちを目当てにした飲食店が出てきてみたいなそんな感じで
だんだん町がでっかくなっていくじゃないですか。あれが起きてた。
で、走行してるうちに五福屋さんも出てきてさ。
で、今度取引があるような町じゃない。
だから銀行みたいな役割をする人が必要だったりするわけだよ。
まあお金は必要だね。 そう、貸してくれる人も必要だし、
金銀を領外してくれる領外賞みたいな人も必要だし。
で、あと専業以外の貫物ね。 貫物。 糊とかさ。
鰹節とかさ。ああいったものを取り扱う人もだんだん周辺に集まってくるわけですよ。
要は仕入れに来る人たちがそこに集まってくるんだから、
お客さんが来るところに見せ出したほうが絶対いいよねって話ですよね。
なんでここがどんどんどんどん町が大きくなっていく。
で、ここで出てきた、当時できたお店で今でも残ってるところがいくつかあって、
12:02
有名どころちょっと言うと越後屋さんね。
越後屋さん。 越後屋お主もあるよの。
そっちのイメージだな。 よく言われちゃうけど、
これは三井孝俊という人が京都から江戸に支店を出したんですよ、越後屋を。
三井家の越後屋さんで三越になりましたね。
三越。そういう名前なの三越って。 そうです。
三井家の越後屋。 はい。両方とって三越になりましたね。
あと三井さん、同じグループの中で当時の越後屋さんの隣で両替所もやってたんですよ。
じゃないと本店がなにせ京都にあるもんだから、向こう銀が中心でこっち金が中心でみたいになると、
ややこしいんで自分で両替してたんですね。
で、周りの人たちも便利だからそこで両替所をやってた。
それが後に三井銀行になり、今の三井住友銀行ですよね。
それで銀行になってくるの? そうですそうです。
三井住友なんだ。 今ガップして住友とくっつきましたから。
あとすぐ西隣ぐらいのところにあるのかな、日本銀行が今あるところね。
日本銀行。 あそこは公的な両替所がある金座ですね。
金座? 銀座があれば金座があるんですよ。
そういうこと? 金の座なの? そうですよ。
そういうこと。江戸は金、神方は銀なんで。逆だったっけ?
どっちでもいいや。金座銀座があって、そこが金座だったんで、
今日本銀行のところになってますよね。
金が上だからね。 上とか下、多分通貨が違うだけ。
でも銀座は名前残ったんでしょ? 残った。
金座はないんだね。 金座はなくなっちゃった。
日本銀行になった。 置き換えられた。
あと白木屋さんとかね。これも御福屋さん系だったかな。
今のコレド日本橋があるところね。 コレド日本橋?
コレド日本橋があるところ。 コレド日本橋?
今、総合商業施設になってるところ。
ショッピングモールみたいな感じのところ?
百貨店みたいな、昔言う百貨店みたいなイメージのところですけど、
元東急でしたっけ?ちょっと忘れちゃったけど。
あそこが白木屋さんですよね。
あとちょっと離れたところに山本のり店。
山本のり店。
これも東京の人たち、地元の人だったら知ってるかな。結構老舗なんだけど。
あと人弁。 人弁。
カツオブシの人弁ね。 カツオブシの人弁。
カツオブシの人弁、これも日本でも有数のカツオブシの販売業者ですね。
そうなんだ。
これももともとではこの日本橋、魚菓子界隈。
この辺に全部大きい店がドドドドって集まって、大棚ってんだけどさ。
いうのが当時に集まってて、それが今でも残ってるっていう話ね。
続いてるんだね、ちゃんと。 ちゃんと続いてますよね。
朝昼晩3000両の落ちどころっていうセリフが残ってますね。
15:04
朝昼晩3000両。
朝2000両、昼2000両、夜2000両のお金が動くような街になってったよって話です。
すごいね。 すごい金額だね。
これ元六年間で1700年頃にはそうなってるんですよ。
1700年頃。
すさまじい似合いですよ。
そうだね。
だからね、子供連れていくとだいたい迷子になる人がいっぱい出てくるんで。
まあまあそうだろうね。
日本橋のすぐ西側、外堀側のね、皇居側の方に一国橋っていう橋があるんですけど。
そこにね、橋のたもとに迷子知らせの石の石柱みたいな標が立ってるんですよ、石柱が。
一国橋。
後藤家と後藤さんが二家に並んでたんで、後藤と後藤足して一国っていうダジャレでできた名前なんだけど。
ダジャレでできた名前?
後藤さんって言うじゃん。
後藤。
後藤さん。で隣も後藤さんだったね、たまたま。で音がさ、1と2と3と4と5とに似てるじゃん。
ああ、とのほうね。
そう、とのほう。
量のね。
後藤と後藤足したら一国じゃん。
そういうことか。
はいはいはい。
一国ってその一つの石があるのかじゃなくてね。
そう。
その量とか面積で昔使ってたね。
まえどっかゴイダジャレ好きだねほんとね。
それで一国橋だね。
この一国橋のところに石の橋が立っててさ、地元の商人が建てたんだって江戸時代に。
で子供が迷子になっちゃった困ったっていうお父さんとかお母さんが紙にぺろぺろって子供の特徴書いて貼るわけですよ。
そうするとたまたまそれを見かけて、そういう子がどっか行っちゃったんだなって。
でまた来た時にあそこで見たぞってぺろぺろって書いてまた貼っとくと。
そういう待ち合わせの掲示板みたいなことを江戸時代で機能してたらしいですよ。
そのぐらい迷子が出るっていうね。すげえ人手だよね。
すごいね。
これをさあさらにスケールアップするやつが出てくるんだよ。
日本橋これだけでも動かしとしてすげえでかいのにさらにでかくなっちゃう。
さらにでかくなる?こっから?
そうなんですよ。産金交代がどんどん派手になってってさ。
幕府の御用がどんどん増えるんだよね。もっと魚よこせと。
当時は幕府お城の中で政務を務める役人さんたちのお昼ご飯っていうのは幕府側が用意してた。
幕府側が用意してた?
お昼ご飯用意してた。2000人分ぐらい。
だから魚を出さなきゃいけないけど階級があるからさ。同じもん使えないんだよね。
安い魚から高い魚まで全部揃えなきゃいけない。冷蔵庫ないからさ。
どんどんどんどん取り続けなきゃいけないみたいなので魚がたくさん必要だよねっていうのもあるし、
産金交代があると儀礼が発生するんだよね。
18:00
儀礼。
殿にお目通りをみたいなことがあったりとかさ。
ご挨拶に参りましたったらそこで宴が始まったりしたりね。
人こそこの大名に子供が生まれたつってご挨拶に参りましたったらじゃあ衆議だっていう展開が始まるわけですよ。
そうするとお祝いに使う魚といえば鯉とタイですよね。
特にタイは家康港以来鉱物として知られている魚ですから。大事なもんですから。
タイが足りないと。いつ取れるかわからんの。
ここに目をつけたヤマトヤスケゴロという人がいるんですよね。
ヤマトヤスケゴロ。
その人はもともと出身は奈良県の人なんですけど。
よっしゃ一丁一旗あげたろでって言って上京してくるんですね。
上京とは言わないか江戸に下ってくるんですけど。
でこの人ね何をどういう経路で思いついたかわかんないんですけど。
江戸に来た後に当時ちょっとビジネスやったんでそれで儲けたお金を持って駿河と伊豆をぐるぐる旅するわけですよ。
駿河と伊豆をぐるぐるする。
今の静岡県も東部地方と中部地方ですよね。
この辺は歩き回ってで浦ってありますよねこうなんとか浦なんとか浦っていう。
漁港みたいなところ。
漁港みたいなところね。
その当時の漁業団体みたいなのがあるんですよ村に。
そこをあちこち回って交渉をしてで税にを渡すからこの竹で持ってでっかいイケス作ってくんねえかって交渉するんですよ。
イケスを作ってほしいと。
そう海の中にね。でそこで漁業やってくれと。そこで鯛を飼ってくれと。
鯛を飼う。養殖やん。
そう。スケゴローが管理するんじゃないんですよ。そこの漁業組合みたいなところでその裏でもって自分たちでそのイケス運営経営してくれと。
そしたら俺買いに来るから。何とかしてくれ。この契約を取り付けるために歩き回るんですよね。
で駿河と伊豆合わせて18の裏で巨大な竹製のイケスを作ってもらうことに成功します。
そんな作るんだ。
そう。で一裏あたりおよそ2000匹の鯛を飼うことになる。
超でかいよねその竹の籠。
すごいよね。2000匹かける18だからね。
2000匹かける18を常に大体どこもいるみたいな。
そういう感じですね。
そんなに?
でこれを今度江戸に運んでくるんだよね。
たぶん大仕事だね。
大仕事。で江戸に運ぶったってさ、言ってもエンジンのない時代に駿河から江戸日本橋までですから。
めっちゃあるけどね。
閉めて持ってったんじゃ炎天下で傷んでしまうと。
そうだね。100何十キロあるからね。
生きたまま連れて行くにしても樽の上じゃ限度があると。
それそうだね。
これは無理だと。いうことでですね、池船という船を開発しまして。
21:02
池船?
船のど真ん中にイケスを備えた船です。
すごい船を作ったね。
イケス丸ごと海にチャポンと使ってるんだね。
ああ。
っていうね、小型の帆船。
はあ。
これでもってね、駿河伊豆の裏からタイをドカドカドカっとこう、日本橋、いや日本橋はこれは大阪だね、日本橋の動かしに集めてくるわけですよね。
へえ、いや規模がすごいな。
すごいことやるでしょ。で、これでまた大当たりするわけですよ。
よかったね、大当たりして。
もう江戸の市中でも売れるわけです。庶民も買うし、武士も買うし、大きくなってきた料理屋さんも買ってくるし、もちろん工技御用ですから幕府もちゃんと買ってくる。
幕府はだいぶ安く買えたから儲かないんだけど、とりあえず幕府をおよたしにはなるわけじゃないですか。
まあまあ名前はね。
じゃんじゃん回るので、これ当たるということで、さらに契約してくれる裏をね、さらに広げてくる。
もう駿河を行って東東美行って三河行って、果ては瀬戸内海まで行っちゃう。
瀬戸内海まで行くの。もう日本列島半分ぐらい行ってるけど。
もうこれ樽海戦じゃねえかぐらいの距離行くんだよね。
行くねえ。
そこをずっとこの池船がね、がーっと魚を運ぶようになるんですよ。
ただその瀬戸内海とかあっちのほうまで行っちゃうと、池で連れてこれる魚にも限界があって、
そうするとこのひものだとかね、寒物だとか加工品だとか練り物だとかっていうのがこうだんだんと一緒に積まれるようになってくるんですよね。
でこれがまたずーっと行ってどこにたどり着くかっていうと、ここ日本橋の大橋。
日本橋と大橋。
全部集まってくると。
へえ、瀬戸内海のほうからも。
これ何が起こってるかと言いますと、日書海戦とか樽海戦っていうのが江戸時代の流通網になってきましたよっていう話が教科書なんかにもよく書いてあるんですけど。
あの商船ね。
商船とかね、醤油とか酒を運んでる船ですね。
実はですね、この助五郎が手がけたこの池船も結構頑張ってまして。
へえ、池船。
これのおかげでですね、船魚どころかひものや加工品もかなり広域から、西日本から、果ては西日本からずーっと日本橋の大橋に集まってくるっていうこの流通ネットワークが成立したんですよね。
これがだいたい1700年代ぐらいに出てきて、以降100年か200年かずっとこの仕組みで動いていくっていう。
結構長い間その仕組みあったね。
それから日本橋の大橋はさらにスケールアップしてどんどんどんどん栄えていくと。
はあ、今の豊洲とかの市場と同じで、本当に全国から。
当時の全国だよね。
当時のそうですね、ほぼほぼですよね。
全国から物資を集めてそこで売ったと。
24:00
現代と違うのは物の売り買いをされるいわゆる市場ですよね。
でかいショッピングモールみたいなのイコール街になってるわけですからね。
そういう感じね。
豊洲なんかだと食材とかね、そういうのに興味のある方しか行かないので、
だから一般の人が来れるようにいろいろと工夫をしなきゃいけないじゃないですか。
しなくたって来るんですよ、日本橋は。
五福屋さんもあるしさ、エンタメもやってくるしさ、料理屋も揃っちゃうしさ、
いう感じになってくるんで、自然と街が大きくなって自然と人が集まってくる。
はあ、街ギュッてした感じだよね。
で、ところどころで最初の森孫山とかみたいな人がいれば、
大和康五郎みたいな人が出てきて、ちょっとずつスケルアップをグッグッと加速させていくという感じで。
へえ、そうなんだね。
だから今東京の日本橋から銀座辺りっていうのはあれだけの繁華街になってるわけですね。
はあ、確かにね。そっか、一個一個一番有力なところがでっかいビル建てで残ってるとかそういう感じなんだよね。
そうなんですよね、本当細かいこと言ったらいっぱい言うんですけどね。
あ、そうなんだ。
だいぶ時間きたね。じゃあ最後、ここで日本橋の話は一通り終わりなので、
もういいやって方は来ちゃっていいんですけど、最後にですね、魚を売り歩く街の商人いますよね。
ああ、街歩いて。
母手振りって言われてる人ですよね。
ああ、母手振り、はい。
ええ、いわしとか言っていわし売ってるお兄ちゃんがいたりとかさ。
あの棒を抱えて、抱えてってか、担いでか。
そう、天秤棒を担いでね。
うん。
カツオだ、いわしだ、サンマだっていうのを売り歩いてる人たちいますよね。
はいはい。
あの人たちの仕入れの風景ちょっとご紹介しようかなと思いまして。
仕入れの風景。
日本橋の貸しに行ったってさ、何してんだかよくわからないじゃないですか。
うん、わかんないね。
日本橋の貸しに行きます。
で、貸しはあくまでも貸しなので、川岸のところで直接買うわけじゃないんですよね。
ほうほう。
その少し内陸部分、今の三越があるところとかね、三井があるようなところ。
あの辺りに豚や貝っていうのができるんですよ。
うん。
で、そこにいくつかの組合があるような豚や貝があって、そこでお魚を買う。
魚を買う。
買うんですけど、このボテフリの兄ちゃんちね、朝かなり早くに行って豚やに行かないんだよ。
豚やに行かない?
まず行きつけの茶屋に行く。
行きつけの茶屋?
茶屋に行くの。
茶屋?ここで茶屋?
茶屋ですよ。
ほう。
喫茶店というか定食屋というか、行くわけですよ。
ほう。
ボテ茶屋、ボーテ茶屋とか言うんだけど。
そこに行って、天秤棒預けてくる。
預けてくる?
よろしくねっつって。
ほう。
はいよってなったら、なぜかその茶屋から茶屋札というね、茶屋の名前の入ってるカードを、紙のカードをね、何枚かくれるわけですよ。
渡してもらえる。木かもしれないけど、なんかこう茶屋札っていうのをくれるわけですね。
それを懐にこう入れて、じゃらじゃらして、銭と茶屋札を懐に入れた状態で、ぶらりぶらりと豚や貝をこう回って歩くわけですね。
27:00
これくれって言ったら、あいよーっつって、いくらだいって、あいこれだねって言って、銭を渡すときに一緒に茶屋札を渡してくる。
何件も何件もそれやってるね。
茶屋札も渡すんの?
茶屋札と銭を渡す、お題を渡してくる。
で、一通り買い付けが終わって、魚も受け取らずに茶屋に戻って、えーお疲れさんって、よっしゃ行く前に一杯お茶でも引っ掛けてくか言って、お茶ちょうだいって。
お茶飲みながらボーケーと待ってると、その豚屋の使いっぱしりの小僧さんとかが、お待たせーって言って魚持ってくるね。
はあ、その仕組みもあったんや。
今でも似たような仕組みあちこちやってるけど、当たり前になってるけど、もうこの時点でやってる。
そうなんだ。
これはね、まず、魚どん屋のある豚や貝、狭いんだわ。
まあまあ、やっぱ市場は昔から狭いんだな。
ギュッとしてんのね。裏工事みたいになってるから、ギュッとしてんのね。
まあ広いと大変だもんね、こういうのはね。
そんなところに何十人ものボテフリが天秤棒を担いで入ってごらんなさいな。
まあでかいからね、天秤棒ね。
邪魔でしょ。
邪魔だね。
裾を端を上げて、腹上げて、ギュッとお尻丸出すじゃないけどさ、ちょっと異性よく江戸っこの、
俺ら江戸っこのきかみじけんでぇみたいな人たちが行くわけでしょ。
ぶつかってみなさいな。
喧嘩だな。
何があるかわからないじゃないですか。ということでこの仕組みなんですね。
はあ。
だってさ、朝線量って言ってんだよ。
確かに。
線量を動くのが、あの狭いところで一気に行われるんだよ。
確かに。
天秤棒持っていけないから。
無理だね、それはね。
なんでここでギュッと集まって、そこで買い付けをして、バーッと散っていく。
まあ車はちょっと外にね、城外に置いててみたいな感じだね。
まあもちろんね、あの魚橋の中心地は日本橋だということではもちろんあるんだけど、
それぞれ他の川のところにもいくつかそのカシ、魚だったりとか青物だったりを同時に扱ってるカシはいくつかに点在してるんで、
遠くの方はそこである。
ただ日本橋界隈のところはもうみんなそこに集約されてるんで、バーッと集まるみたいな、そんな感じですかね。
はあ、そうなんだね。
そんな感じですね。
その仕組みすごいね、いま何に使われるもんね。
どうですかね、日本橋が華やかなオシャンティな街に見えていた皆さん、ちょっと違ったふうに見えてきたんじゃないですか。
めちゃくちゃ商売の街だった。
すごいですよね。
すごいね。
今度行ったらちゃんと見よう。
ちょっと違う角度から日本橋を楽しんでみてください。
商売じゃないけど、三越とかね、物売りで行ってたのにね、全然気づかなかった。
店舗の改革まではね、芝居小屋とかね、ありましたからねこの辺り。
ああそう、アンテナショップとか現在とか多いもんね。
ああそうですね。
だからかね。
そういうのもあるじゃないですか、ちゃんと名残がね。
30:02
ということで、食べ物ラジオの本編では今お聞きいただいたような内容のもっとディープな世界を配信しております。
ご興味沸きましたらぜひお聞きいただければと思います。
ということで今回はこの辺で終わりにします。ありがとうございました。
ありがとうございました。
30:28

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