ストーリーズ人生相談室!
ストーリーズ人生相談室パーソナリティーのビリギャルが生まれた人生投稿サイト、STORYS.JP編集長の清洲隆です。
メンタルコーチの川端輝之です。
このポッドキャストは、日本全国1万人以上の人生に触れ、取材している清洲と、小学生から社長まで150名以上のお悩みを聞いてきた川端が、
いろんな人生を生きる人たちから寄せてもらった相談をもとに、僕らの今とこれからの生き方について考えてみるポッドキャストです。
このポッドキャストのプロフィール欄から、人生相談を募集していますので、皆さんもぜひ日常で考えていることを投稿してみてください。
ポッドキャストのフォローもよろしくお願いいたします。
はい、ということで、今日はですね、なんと、なんとなんと、
私が、私がストーリーズ人生相談室を卒業すると。
えー、編集長なのに?
そうですね、編集長なのに卒業することになりました。
別に誰かに命じられたわけでもなんでもないんですけども。
はい、自分でそうですね、選んだわけなんですが、はい、あの、ストーリーズ人生相談室とですね、
あとストーリーズ.jpもですね、もう13年、僕が23かな?
時からもう約13年ですね。
そう、もうずっと、あの、いくら赤字でも手放さなかったストーリーズ.jp。
もうコンテンツだけは命がけで守るみたいに思ってたんですけど、
それをまあ、あの、えー、まあこの一緒に、
あの、これ今言ってほうがいいのがエンディングで言うべきなのがちょっとあれなんですけど、
まあそのね、この流れがありますけど、
一緒にストーリーズ人生相談室をやってきてくれた川端さんに託させていただくということでございます。
えー、いやー、僕もびっくりですよ、最初。
えー?
びっくりしたでしょ。
最初びっくりした?
なんか、そんなこと言ってた?
まあ、川端さんもね、そのー、まあなんて言うかな、
まあ元々こう、まあ元々コーチングをね、ずーっとやってきて、
で、コーチングで、そのー、まあ相談者さんのこう、
自己理解とか、こう、まあ悩み、お悩み解決だったりとか、
そういうことをやるときのプロセスが、
そのー、ストーリーを書く、今自分の人生を振り返って内省して、
で、言葉を選んで自分の心、自分の人生を、まあ多少客観的にこう書いていくっていう、
で、そう、自己理解、メタリッチするみたいなプロセスとすごく重なる部分があるってことで、
ストーリーズ.jpを運営してる僕、まあ元々ね、あのー、同僚同士だったんですけど、
一緒にやらないかっていうふうに声かけてくれて、
まあストーリーズ人生相談社始まったので、
これからストーリーズ.jpを川端さんになっていってもらえたらなということでございます。
ということで、あのー、まああのー、ちょっとこのね、ポッドキャストを聞いてくださっている人にとっては、
あのー、びっくりというか、あのー、ちょっとね、やめちゃうんだみたいな気持ち、
ところもあると思いますけども、そういうふうなことでございます。
改めましてですね、いつも、これまでですね、僕にとってはこれまで、
ストーリーズ人生相談室を聞いてくださり、本当にありがとうございます。
もしね、あのー、機会があったというか、実は聞いてたよ、みたいなことがありましたらですね、
あのー、匿名でもなんでもいいので、あのー、なんていうかな、プロフィールダーにあるですね、リンクから、
ぜひちょっと、実は聞いてました、こういう感想を持ってました、みたいなことをですね、
言っていただけると、僕は今後の人生において、要請ですね、要請というか、あのー、はい、要請はあれですね、
まあそのすごくモチベーションにあるので、はい、非常に、
はい、非常にありがたいなというふうに思います。で、
今日はですね、川端さんも、あのー、どうしようかと話し合ってたときに、
えー、僕の人生といいますか、
そうですね、うん、京瀬さんのストーリーを聞いてみないかっていう、そういう感じですね。
はい、ということだ、そうなので、はい、
ここぞとばかりですね、えー、僕の、京瀬隆一のですね、承認欲求をフルフルに全開にしまして、今まで、
今まで、それでも抑え込めてきた僕の、はい、承認欲求を全開にして、皆さんに僕の人生をお届けしたいなというふうに思います。
はい。
フルフルに、フルってください。
そうですね、まあ、どこ、まあ、ちょっとなんか、ここからずーっと喋りだすと、ちょっとね、自分語りが過ぎるので、前の手というかね、質問もいただければと思うんですけども、
どこからどう話そうか、その、ストーリーズ.jpを始めたきっかけというか、まあ、なぜ始まったのかとか、
もともと僕が起業したわけじゃないんで、僕がまあ、ジョインしたんで、急インターンだったので、そこからなぜ代表になったのかとか、
まあ、あの、このポッドキャストでも触れたときありましたけど、まあ、ちゃんと、えーと、まあ、頭からお尻までってことはないですし、
まあ、初めて聞く方もいらっしゃると思うんで、そこらへんちょっとね、触れられたらなというふうに思いますし、
今とはこう、ストーリーズ実践相談室、これまでやってきた感想だったりとかですね、あとはまあ、今後どうしていきたいのかみたいな、お前はどうしてくれたみたいなこともですね、
まあ、しゃべらせてもらえればと、はい、いうふうに思います。はい、ということで。
聞いて、聞いていきたいです。
はい、ありがとうございます。そしたら、そうですね、ストーリーズ.jp、えー、まあ、もともと僕は、まあ、今はですね、えーと、2017年に
僕が代表で、代表取締役の社長としてですね、JUJU株式会社という会社を立ち上げまして、そこに、えーと、ストリート、そのJUJU株式会社の僕が代表で、その運営事業としてストーリーズ.jpがあって、で、そこから7年、8年くらいかな、
あのー、いろいろありましたけども、運営してきまして、はい。
こんなに経つんだ。
経つよ。
ね、気が付けば、あれから。
そう、だからこいつが長いのよ。
確かに。
そう、長い、そう、で、でもその2017年、まあ、ストーリーズ.jp自体は2013年からかな、2013年の2月だったと思いますね。
2月に初めてオープンしたのかな。
なので、まあ、4年間は僕以外の人が運営してたわけです。
で、まあ、コインチェック株式会社っていう、仮想通貨取引所で、えーと、日本でもね、最大手の一つですけども、で、運営されてた事業で、元、初業ですね。
あのー、コインチェック、まあ、元々レジプレスっていう名前の会社だったんですけども、そのレジプレスが、えー、起業というか始まる時の、まあ、初業、一番最初の事業として。
一番最初?
うん、そうね、あのー、始まったものがストーリーズ.jpですかね。
で、そっからなんか僕、まあ、そうね、そう、で、僕は元々そこのインターン、というか無休インターンだったんです。
はい、で、まあ、あのー、コインチェックに代わってた川端さんが入って、川端さんはそこで知り合うんですけど、で、それで、まあ、2017年のタイミングで、まあ、えー、独立、僕が独立して、まあ、事業長としてもらっていくという感じなんですけど、えーと、そうだな、どうしようかな、なんか、えーと、そう、なんで僕は、まあ、ストーリーズ.jpに入ったかの嵐。
うん、どうもね、うん、なんでそこに惹かれたのかっていう。
そうそうそう、いやー、なんですけど。
無休のインターンとして、ね、無休なのにも関わらず、それでもやりたかったっていう。
やりたかったですねー、もうすべてでしたね、もうすべてでした。
あのー、えー、そうね、ストーリーズ。
まあ、僕2000、ああ、そう、大学、どっかいけばいいかな、ちょっと待ってね、えーとね、そう、無休インターンになったときは、そのー、もともと僕、起業しようと思ってたんです。
起業、起業したかったんですよ。
はいはいはい。
えーと、そう、人生の共有サイト、共有するサイトを作りたくて、起業しようと思ってたんですね。
で、そう、で、あのまあ、大学卒業して、大学は静岡の大学で、まあ、座中堅大学みたいなところの大学を卒業しまして、で、上京して、で、いざ起業だって思ったときに、そのー、
僕が上京したタイミングで、ちょうどローンされたサービスがあって、それがストーリーズ.jpだったんですよ。
はい、で、あのー、そう、そこに、あのー、だからもう、そう、それで入るんだけど、なんかなんだろうな、そう。
あのー、なんでまあ、先起こされたみたいなことがあって、はい、入っていくわけなんですけど、えーと、まあ、もともとなんでじゃあ起業したかったんですが、えーとね、
えーと、話は、えっと、私のまあ本当にちっちゃい頃、まあ、小学校かな、小学校5、6年生ぐらいのときに遡りますと、で、えー、僕結構悩みが多い、えー、人生だったなと思っておりまして、そのー、まあ別に家庭はね、幸せだったと思うんです。
あのー、普通に別になんか客観的に、まあね、不幸だなって思われる家庭ではない、全然。でも、なんか僕自身悩みやすい性格で、うーん、まあそう、いろいろ悩んできたわけですね。
で、そのー、まあ、人間関係とか、まあ、あのー、そうね、えー、まあ、学校だったりとか、家族間だったりとか、あのー、まああるときはあり、まあ、人生誰でもあると思うんですけど、そういうときに結構悩んでたんですね。
で、すごく悩んでたんで、そのー、苦しかったんです。悩んでる自分がすごく嫌だったんですね。なんか、なんでこんなに俺は悩んでるんだろうみたいな、そう。
ってときに、こう、まあ、悩んでる自分を否定してたわけなんですけど、そのー、えーと、おばあちゃん、まあ、僕、おばあちゃんがまあ、仏教やってて、そのー、熱心な仏教徒で、そう、というわけで浄土神社なんですけど、その、おばあちゃんから、なんていうかな、要はそのー、まあ、仏法というか、あのー、なんていうかな、こう、要は仏教をやってる方の死とか、
あとはこう、教えみたいな話を、まあ、おばあちゃんの話として聞くわけですね。仏教にはこういう考え方があってね、みたいな。で、俺の悩みも聞いてもらったりしたんですけど、
そういう中で、そのー、藍田光雄さんっていう詩人がいらっしゃるじゃないですか、あのね、人間のもの光雄みたいな、あの藍田光雄さんもまあ、仏教だったりとか、ね、おとけ様とかって話をされるんで、そのー、藍田光雄さんのカレンダーを、近所の節骨院さんに会ったのを見せてもらったんですよ。
これは藍田光雄さんだ、みたいな。おばあちゃんの部屋にあったのかな。まあ、そう、藍田光雄さんのカレンダーを紹介してもらって、まあ、いいこと言わっしゃるよと。たかしも呼んでみられ、みたいな感じで。で、それを見てたときに、ペタペタめくってたときに、あのー、悩みは尽きねえんだが生きているんだものっていうのがあって。
で、僕は悩んでる自分を否定してたわけですよ。でもその、悩みは尽きねえんだが生きているんだものっていう、まあ、生きていれば悩みはあるよねっていう風な詩があったわけですね。で、えっと、なわけねえだろって思ったわけです。なわけねえ、みたいな。悩みがねえ人間もいるわいって思ったのね。
まあ、クラスメイトを見ても、けらけら笑ってるやつもいるわけですよ。なんか悩みなんてゼルデスみたいな顔して、うわー叫び回ってる人もいて、なわけねえだろみたいな。で、この悩みは尽きねえんだが生きているんだものみたいなセリフは、その悩みがある人向けの、そのマーケティングの、なんていうか、悩みがある人向けにマーケティングされた、そのー、まあなんていうかな、要はそのー、
まあ、製品であるみたいなことを思ったわけです。ビジネスじゃないかと。すごい受かった見方をしてたわけですね、僕は当時。
はい、小語録でしたけど。はい、そう。で、ただ、でもこの詩を書いた人は、きっと人生で悩んだであろうと。それは多分、確かなと言っていいんじゃないかと思ったんですよ。
そうしたときに、そういうふうに思えたときに、僕、世界で悩んでるのは自分だけだと思ったんで、その要は、ねえ、子供ってそういうもんじゃないですか。それぐらいのレベルだと思うんですよ。そんなわけないのに。
でもその、その人も悩んでるんだって思えたときに、あ、自分だけじゃないって思ったんですね。それがすごく、僕は結構救いで、あのー、そう。
悩みは別に解決してないんですけど、それだけで救われたんですよ。そう。なんで、人の経験を知るとかって、すごくこう、人の心を支えることになるんだなっていうふうに思ったのが、僕のまず一つ目の経験、体験ですね。
で、そっから、えっとね、まあ、時は流れ、えっと、僕もなんか大学生とかかな、になって、自分も詩を書きたいなあ、みたいな思いを始めるわけです。
で、なんか路上詩人とかやってみたりするのはね、えっと、自分も詩を書いて、間水さんがそうだったように詩を書いて、誰かの心を支えられたらなとかって言って、フェイスブックで投稿したりとか、ちょっとこう、路上で座って詩を売ってみたりとかするわけですよ。
でも、ちょっとどっかで違和感もあって、詩とか、ポエムというか、いろんなクリエーション、想像があるわけじゃないですか。
そういう表現を通じて、人の心を支えるみたいなことっていうのは、過去から今までずっといられてきたことだと思ったんだよね。
僕が多分、このタイミングで、この時代で詩を生み出す人になったとして、
なんかそれって本当に、救われる人いるんだろうかというか、すごく違和感もあったんです。
僕が救える人ってすごく限られているように思うんです。
人の発言とか言葉表現っていうものは、合う人、合わない人いるわけで、
そうした中で、当時の自分はよ、詩を書くっていうこと、自分が詩を書くっていうことは、
世の中のためになるように、人の心を支えたいとかって思いながら詩を書くんだけど、
その詩を書くっていう行為は、過去何百年と何千年とやられてきた表現形態の1個だけであって、
枠をはみ出てないわけね。
かつ、俺が詩を書くって言っても、それで支えられる人っていうのは、人って好き嫌いあるから限られてるわけで、
それって世の中のために、支えたいみたいな、良くしたいとかって思ってる自分、
その願いを本当に最大限叶え得るものなのかな、みたいな気持ちがちょっとあったわけですよ。
っていう、詩を書くのか、この時代でか、みたいなちょっと思いつつ、
っていうときに、おじいちゃんが亡くなるんですね。大学1、2年か、おじいちゃんが亡くなるんですよ。
おじいちゃんは、当時94歳かな、亡くなって、戦争を経験した人なんですね。
18歳から28歳まで戦地にいたんですよ。
青春の10年間を戦争に費やされた人で、
本当に長野県のどいなか出身なんだけども、赤髪が届いて、行くっていう。
お兄さんもいらっしゃって、お姉さんお兄さんいらっしゃって、一番末っ子だったけども、
お兄さんは確か病気というか、体が悪かったのかな、だから弟の自分が行くみたいな感じだったのかな、
とかなんかそこら辺だったんですけど、行ったんです。
18歳から28歳まで行って、帰ってきたと。
いろんな経験をされたと思うわけですよ。
10年間も戦地にいるんで、家族には言えないような経験をめちゃくちゃしてきたんだよ。
でもそれを語らないあまり。語りたくないし、語ると思い出すし。
断片的に自分も聞くんだけど、結構惨憺たる経験をしてきたわけで。
っていうことがあったおじいちゃんが亡くなったんですね。
で、その時に、おじいちゃんの物語が消えてしまったような気がしていて。
おじいちゃんのストーリーが消えてしまった気がしたんですよ。
おじいちゃんは結構感受性が良いタイプなんだけど、あまり語らないのね。
94年間も生きてきたわけだから、いろんな経験をして、いろんな感情があって、いろんなことを思いながら生きてきたわけだと。
家族に言えてること、言えてないこととか、いろんなことがあったと思う。
言いたかったけど、言うタイミングを逃したこととか、いっぱいあると思うんだけど。
そういうものが、もちろん亡くなってしまったから、誰も聞けない。
それがすごく悲しかったんですよ。
僕が小学校6年生の時に、あいだみつおさんの死をきっかけに、他人の経験は他の人の誰かの心を支えるんだっていう強く思ったわけなんだけども、
いっぱいあると思うんだけど、
一方で、人の経験とか、人の物語っていうものは、寿命とともに消えていくっていう、忘れていくっていう、
それの悲しさ、もったいなさ、切なさ。
だって今までめちゃくちゃ懸命に生きてきて、その人生の経験って絶対に、
だし、戦争を生き抜いてきたおじいちゃんの経験とか、感情って、戦争を経験してない世代にとっては、すごく危険だと思うんだよね。
戦争をしたくないと思っている今世においては、そういった経験があって、
戦争をしていない世代にとっては、すごく危険だと思うんだよね。
だから、残されるべきものだと思うんだけども、でもその機会もなく、亡くなっちゃったっていうのが、すごくもったいなく感じて、
いろんな人が、今日もどこかで、生まれてはまた死んでっていうのを繰り返すわけだし、
いろんな人の物語がどんどん消えていってるんだなっていう、それでもずっと社会は動いていってっていうのが、よくないなと思ったんです。
すごく悲しいなと。
さっき言った、死を嗅ぐっていうのは、死を嗅ぐというのは、
おじいちゃんの死でわかった、経験物語が後ろに落ちていったんじゃないかと、
その後に、死を嗅ぐという、経験物語が、その後に落ちていったんじゃないかと、
それが、おじいちゃんの死によって、その経験物語が後ろに落ちていったんじゃないかと、
でも、おじいちゃんの死で分かった経験、物語が失われている世の中と、
経験というものは、人を支える力が本当はあるということと、
僕に救えない人もいる、救える人もいるということを統合すると、
人の経験がこの世界に蓄積されて、
それが、お互いに相互作用するような仕組みがあればいいなと思った。
それは、死というアートとか表現というものよりも、
社会的な強度があるし、仕組みシステムになって、
人を動かすかもしれない、実際にXとかが人の言論のあり方を変えているように、
そういうふうな、社会における実効性みたいなものがあるものだと思うんだよね、仕組みというものは。
それをウェブとして作ろうというか、ウェブがそれができると思って、
僕は大学、物質工学科という、科学工学で繊維を作ったり、薬を作ったりする学科なんですけど、
ウェブって全然畑違いなんだけど、ウェブの方に行こうと思って、状況をするんです。
それが始まりなんですよ。
さっき言ったように、悩みやすい人生だったというか、
自分に自信がないし、やりたいことがなかったんですね。
だけども、これが初めて俺が本当に心からやりたいと思ったことだと思ったのよ。
初めて心からやりたいと思ったっていう。
結構チキンだったけど、ビビリだったけど、起業だと思って。
状況したら起業するぞと思って飛び込めた。
みんな友達が新卒社会人で、みんなキラキラした感じで、
いろんな経験積んでます、入った会社最高です、みたいなことをあげてる中で、
自分は日当たり労働をしながら、貯金を気に崩し勝つ日当たり労働をしながら、
エッサエッサとドットインストールっていうプログラミング学習サイトで、
プログラミングを学びつつ、西新宿の4畳半のボロボロのシェアハウスの畳の部屋で、
誰にかまれながらプログラミングするみたいなことをやってたんですね。
メビューから始まったんですね。
それから始まりました。
それでウェブ業界に入りまして、それで、よっしゃーと思って、
わーって思ってた時に、たまたまフェイスブックで友達がいいねしてたサイトがあって、
当時いいねボタンとかシェアボタンが出たばっかりぐらいかな、
その時だったと思うんですけど、
そのいいねしてたサイトがストーリーズ.jpっていうサイトなんですよ。
で、人生を共有するっていう。
うわーこれだと思ったの。
みんながストーリーを持っているっていうキャッチコピーで、
共有するサイトがあったわけ。
俺はそのサイトを作っていくときに、人生を共有するってもちろん分かるんだけども、
なんだろうって思ったの。
真面目すぎない?真面目すぎるじゃん。人生経験を共有するって。
真面目くさいんだよね。
ただい感じもね。
ただい感じがするじゃん。
でもストーリーズ.jpっていうものは、人生をコンテンツに捉えるってことですからね。
映画にするとか、本にするとか、小説にするとか、
っていう人生体験っていうものを、
人が楽しめるとか、人が感動できるコンテンツとして捉えて、
それをシェアするってことをやってて、
うわーめちゃくちゃ上手いなっていう。
TwitterとかFacebookで単文投稿が主流で、
SNSっていう言論空間ができたけど、
みんなが自由に自分の思いを吐き出せてないっていう、
ちょっと薄すぎした気持ちがあるときに、長文でいきましょうっていうので、
出したわけよ。
それがもうバズってて、リリース直後に。
それでビリギャルっていう、
学年でビリだったギャルが偏差値49で慶応に受かったっていう話も、
俺が見つけたときには、投稿されて1週間くらいかな、多分。
すごいバズってて、うわーみたいな。
その世はもう、うねりが生まれてたわけよ。
僕が目指したような世界遺産が、そこにまずあったし、
それすごく感動したわけ。
人の人生が人の人生に作用してるんだっていうのを目撃とか目の当たりにして、
これだよって、これなんだって感動したと同時に、
自分がやりたいことがなかったことがコンプレックスだった自分が、
ようやく見つけたやりたいこと。
やりたいことって自分のアイデンティティだと思うんですよ。
僕はこれがやりたいとか、あれがやりたいとか。
それは人のアイデンティティだと思うんですけど、
それが他の誰かが、もっと上手く綺麗にやってしまってたっていう。
もうアイデンティティどころじゃないわけですよ。
誰かが他に普通にやってたっていう。
その喪失感というか。
僕はただここに、ただのニートがパソコンをカタカタやって、
手も足も出なかったというか、その絶望感というか。