クイズノックを運営するバトンに勤務して、ビジネスをされている。両立で活動されているんですよね。
会社員哲学者というふうに書かせていただいたりして、一応二足の折らじとしてやってますね。
とにかく僕らは、見えているものばっかりを重要視しているけれども、その裏に隠れてしまっているコンテクストであったり、選択されなかったもの、背景となっているものに、
へを向けることで、自分たちについても、世界についても、もっと深く、あと僕なりに言うと面白く理解できるんじゃないのかなっていうことを。
ポスパっていうのがよく言われますけど、その最短距離でそこに向かうっていうことっていうのが必ずしもいいことなのか。
その成果自体にはとても価値のあることだと思うんですけど、それやってて楽しいですかとか、発生感のなさみたいなものは、自分の人生に帰ってくるんじゃないかな。
こんにちは。パーソナリティーの野村隆文です。本日のゲストは哲学者の田村忠さんです。
田村さんはフランスの哲学者メルロポンティの研究者、その傍らでクイズプレイヤーとしての顔もお持ちです。
かつてはクイズ王伊沢拓司さんと共に高校生クイズで優勝された経験もお持ちです。
今日はですね、そんな田村さんとですね、今の世界をどう認識し、我々はどう生きるかについて一緒に考えていきました。
AIにはできない人間らしい対話になったんじゃないかなと思っています。
それでは本編をお聞きください。
それではゲストをお呼びします。哲学者の田村忠さんです。よろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
まずは田村さんのプロフィールをご紹介させていただきます。
1992年東京都生まれ、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。
専門は現象学、特にメルロポンティを研究されています。
開成高校時代にはクイズ研究部リーダーとして伊沢拓司さんらと共に、第30回高校生クイズで優勝を経験されました。
現在はYouTubeチャンネルクイズノックを手掛ける株式会社バトンに勤務されまして、新規事業開発を担当されています。
そして業務と並行して哲学研究や作家活動を展開されています。
田村さん現在、哲学研究、哲学者としてのお顔と、後はそのクイズノックを運営するバトンに勤務して、
ビジネスをされている、両立で活動されているんですよね。
そうですね、Xのプロフィールとかにも会社員哲学者っていうふうに書かせていただいたりして、一応二足のわらじとしてやってますね。
これも多分100万回くらい聞かれてると思いますけど、クイズノックは私、普通に一視聴者として熱心に拝見してまして、
田村さんが出ている回も面白く見ました。
難しいですね。あんまりクイズノックって結構賢けな感じだと思うんですけど、僕はあんまり動画の中で賢けのムーブができていないので、
動画見てますって言われるとすごい恥ずかしかったりするんですけど。
無限にルールが、制約条件が増えていくクイズっていうのがあって、それでドボンを引くとそこで退場しなきゃいけないっていう回があったと思うんですけど、
クイズに正解しても、ルールを侵すと即失格になるっていうルールだったんで、クイズ強いメンバーからどんどん先に抜けていっちゃうんですよね。
で、最後の方まで残ってらっしゃいましたね。みたいな回も面白く拝見しました。
最後すごい面白いことになるので、ぜひ皆さんも見ていただければ。
神回ってタイトルについてですかね、あの回が。
あと田村さん、今年出されたのが思考のストレッチ。昨年は独自性の作り方。
一番最初の本は、これは哲学研究書なんですけど、問いは世界を作り出すという3冊今まで出されていますかね。
そうですね。1冊目が僕が大学に提出した博士論文ですね。メロポンティという哲学者の研究で書いた博士論文なんですけど、それを書籍化するような形で出させていただきまして、
なのでこれはすごい専門書チックというか、読むのが結構大変かなと思うんですけど、
その後去年今年と立ち続けに独自性の作り方というビジネス書の判元から出させていただいた本と、
今年は思考のストレッチという講談社さんの方から、もともと文芸誌に連載していたエッセイをまとめた本を出させていただきました。
ちょっとまず田村さんの興味関心の全体像を伺いたいなと思うんですけど、メロポンティを哲学者として研究されているじゃないですか。
独自性の作り方は読ませていただいたんですけど、本当にことをなんでしょうね、このAIが発展し、そして情報が無限に出て、
他人の軸っていうのは多分再現なく流れてくる中で、どういうふうにして自分の軸を持つのかという話だというふうに私は解釈しました。
思考のストレッチの方はどちらかというと世界への向き合い方っていうんですかね、ことこの曖昧な世界っていうんですかね、それに対してどういう距離感で向き合い、
どういう問いを設定するのかっていうことを試作の記録として書かれているのかなっていう感じがしたんですけど、田村さんの中でこの3冊っていうのは繋がっているのか、
割とその時々の興味関心に基づいて書いているのか、まずそのあたりでいかがですか。
そうですね、本を書いている時にはことさらなんていうかね、僕はこういう哲学者だからこういうふうに一貫した試みをやってやろうとかって考えながら書いているわけではなかったんですけど、
実際なんか書き終わってみて読み返してみると、なんか自分って結構いつも似たようなことを考えている、その同じことを書いているわけではないんだけれども、
違うトピックで書いてもなんか僕っぽい感じの語り方とかアプローチになるんだなっていうことを実感しまして、
そういう意味では1冊目の本から3冊目の志向のストレッチまでずっと一貫しているなと思いますし、
じゃあどこが一貫しているんだろうっていうのを今度はその筆者というよりは読者、田村忠として筆者田村忠を分析しようと思うと、
やっぱりメルロポンティを研究している人が書いたんだなっていう側面はすごい強くて、もちろん1冊目はメルロポンティという哲学者の研究者が書いているので、
ずっとメルロポンティの話をして彼の主要な概念、例えば動機づけとかそういうものであったりとか、
知覚っていう私たちの日常生活の中でどこでも常に生じている出来事であったり、そういうものの構造を論じているんですけど、
ひるがえって独自性の作り方っていうビジネス書のテイストで書いた本の中では、僕がメルロポンティから学んだ図と字っていう、
もともとゲスタルト心理学っていう20世紀初頭に流行っていた心理学の潮流の中で打ち出された考え方なんですけど、
その図と字っていうものを基礎において自分が普段意識しているものって実は自分が経験していることのほんの一部に過ぎないんだよねっていうところから、
僕たちの曖昧な世界との関わり方について紐解いていくであったりとか、思考のストレッチなんかもっとそういう部分が直接出ていると思うんですけど、
僕が哲学を学びながら何を考えていたとか、哲学を学んだ自分になったことで世界との関わり方がどう変わっていったかとか、
そういうことが色濃く出ているなと思っているので、そういう意味では何ですかね、ちょっと言葉の重複はあるんですけど、
一冊目の本が理論編で、二冊目の独一線の作り方がもう少し理論から落とした実践編みたいなところで、
思考のストレッチはちょっと被ってますけど応用編、応用編実践編、独一線の作り方と思考のストレッチが応用編実践編みたいな位置づけになっているなと思いました。
やっぱりメルロポンティの研究をされていたっていうのが一番田野さんの中ではベースにあったってことですよね。
やっぱりメルロポンティっていう哲学者は何か独特の懐の広さを持っているような気がしていて、
もちろん色んな哲学者がいるので一概には言えないし、僕も他の哲学者をより深く学んでたら同じように捉えてたかもしれないんですけど、
なんか自分が普段見聞きするもの、何でも哲学の素性に挙げていいんだよっていうふうに、何でもちょっと考えてみると楽しくなってくるよねっていうふうに思わせてくれるような手つきを持った哲学者なのかなというふうに思っていて、
だからこそ独一線の作り方の中でも僕は結構好き勝手に色んなトピックを出している。
例えば一番最初って僕光の後のシーンの一つを引用するところから始めてるんですけど、そういうところから始めて何か自分が哲学的に考えていることに結びつけたりとか、
このストレッチなんかも自分の見た映画、ドラマ、アニメ、漫画であったりスポーツだったり何でも好きなものをつなげながら、でもその全体として一つのことを考えているっていうようなテイストで書かせていただいて、
なんかそういうスタイルで書くことができるようになったのは、やっぱメルドポンティーという哲学者の持つ魅力ゆえなのかなと思いますね。
ちょっと改めてなんですけど、そのメルドポンティーの哲学、そしてメルドポンティーが世界をどう認識していたか、そのあたりをちょっと解説していただいてもいいですか。
はい、そうですね。これが結構、今振り返ろうと思うと当時とまた感覚が変わっているところもあると思うんですけども、
やっぱりそのメルドポンティーって身体の哲学者っていうふうに言われることが多い、その身体論であるとか身体と世界の結びつきについて考えた哲学者って言われることが多いと思うんですね。
これはおっしゃる通りというか、そのポイントがどこにあるかっていうことが僕が学んだメルドポンティーに関わってくると思うんですけど、
もちろん皆さん身体持ってるっていうのはすごい当たり前のことなんですけど、ともすると僕たちが世界をどう認識してどう解釈しているかって話になってくると、
この身体を無視した意識のレベル、意識に明確に浮かび上がって、例えば何ですかね、この作品は面白いとかつまらないとか、この人は意地が悪いなとか、
この人の言ってることは一貫性がないなとか、そのいろんな判断や評価を僕らしながら生きてるんですけど、そういう判断や評価っていうものがものすごく知性的なものというか、
思考とか意識の中で行われているように思われがちなんだけれども、実はそういう評価や判断というものを方向づけているのって僕たちの身体の在り方だったり、
世界との関わり方、例えばもうすごいシンプルな例でメロポンティも出しているものですけれども、風邪をひいて高熱を出している時っていうのはほんの些細な段差でさえもものすごく高く見えてくるだとか、
坂道がものすごく急に見えてくる、元気な時であれば大したことがないし小さな段差だからひょいっと超えられるものでも体調が悪いだけで見え方が変わってくる、
じゃあ例えば失恋して気分が落ち込んでいる時にも世界の見え方ってそれに応じて変わってくるんじゃないかとか、そんな風に僕らって純粋に知性的に何かを受け止めたり認識しているわけじゃなくて、
身体っていうものが先にあってその土台の上でいろんなものを認識したり考えたりしている、でもそういうことって普通に生きているとあんまり見えて、それこそ意識しないとか見えてこないんですよね、
自分のことって自分でしっかり分かっていると思っているし、自分がどんな人間かとか、僕がどうしてこんなことをしたのかっていうそういう理由の部分も自分でちゃんと分かっていると思っている、
でもそれを深く掘り下げていくと自分の意識にははっきりと昇らなかった無意識的な部分であったり、身体的な姿勢の違いであったりとかそういう部分が見えてくる、
だから僕たちってちゃんと生きているように見えて、ものすごく曖昧な土台の上に乗っかっていろんなことをやったり見たり聞いたりしてるんだなっていうことを教えてくれた、
じゃあ逆にまあそれってその曖昧な部分に乗っかっているって必ずしも悪いことではなくて、じゃあ曖昧な世界の中で僕らっていろんなことやってるんだなっていう認識に立つことで物事の見え方もまたなんかもう少し変わってくるし、
逆にそれだからこそこう変化を楽しみながら、世界の変化も自分の変化も楽しみながら生きていく、そういう哲学の可能性もあるのかなっていうふうに感じさせてくれる、そういう哲学者だと思いますね。
いや結構あのこの世界を生きるのに割と必要な考え方かなと個人的には思うんですよね、図と字の話が独立性の作り方には出てきましたけど、
自分が選んだものっていうのが図の方ですかね、なんですけど選ばなかったものを含めてそこは字というものがあって、ただそれがあるからちゃんとその現象として発現されたものがあるんだっていう話を論じられてると思うんですけど、
これ本当にそうだよなと思うんですよね、てかむしろそっちの選ばなかったものがないと人生て豊かにならないよなみたいなことは結構この本を読んで思ったことがあったんですよね。
そうですね独立性の作り方の中でもいろいろ書いてはいるんですけど、まずその図と字っていうものの基本的なイメージはいわゆるルビンの壺って呼ばれる、何ていうんですか、二人の人間が向かい合った顔に見えたり、
ちょっと見方変えると真ん中に壺が見え、壺っていうか杯ですねが見えてきたりするそういうタギ図形の例をこの本では出しているんですけど、
この時顔になっている部分って僕が杯を見てる時は地にこう退いているっていうか、じゃあこの顔の部分は一切関係ないのかっていうと、顔の部分が背景に引いてるからこそちゃんとお杯の部分が手前にこう競り上がってくる、
そういうふうに僕たちが見ているものってその見ているものだけで成り立っているんじゃなくて何かが見られていないことによって見えてくる。だからそのカメラのピントを何かに合わせたらピントが合ってない部分は背景に退いていくんですけど、
そういうふうに主張をしないで背景に退いてくれるものがちゃんとあるからこそ真ん中に何かがピックアップされてくる、そういう構造が僕たちの知覚にはあって、ということは知覚について考える、つまり僕らと世界との関わり方について考えるときって単純に中心に見えているものだけじゃなくて、
背景に退いているものまで含めて考えた方がいいよなっていうのが一つこの本の中で出しているものなんですけど、そこからさらに広げていくと今野村さんが選んでこなかったものの方が重要だよなっていうふうにおっしゃっていただいたんですけど、
まさしくそうで、僕たちが何か作品や人の言葉に感動したりする瞬間の言葉の重みってなんだろうっていうのを一つ例としてこの本の中で考えてるんですね。例えばですけど、まだ言葉をほとんど知らない幼児が悲しいなとかって言ったりすると、それは確かにそれ自体で胸を打つシャベッターとかね、そういう意味で胸を打つ光景であると思うんですけど、
でも僕らからするとまだその子の中にはあんまりボキャブラリーがないから悲しいものと嬉しいものの二つしか世界にないみたいな、すごいあらあらなあの世界の味方になっちゃってるな、この子あれも悲しいんだ、これも悲しいんだ、悲しいものめっちゃあるねみたいなふうに見えるんですけど、
反対にその例えば詩人の方とかものすごくこう僕らには想像がつかないほどボキャブラリーが豊富な人が言った悲しいなというポツンとした言葉があったとしたら、それは何かこう子供が言った悲しいなって言葉よりも胸を打つ気がする、何か重みがあるような気がするんですね。
その重みって何だろうっていうと、その詩人の人が悲しいなって表現をするために切り落とした他のすべてのボキャブラリーの大きさだと思うんですね。他にいろんな言葉があるけれども、あえてこの一つだけを選んだ。
すなわち選ばれなかった選択肢の多さだったり広さっていうものが選ばれたものの価値だったり意味の重さっていうものを形作っているんだっていうのがその図と字の議論を何か僕らが感動したりする瞬間に応用できるなというふうに思っていて、そんなふうに考えるととにかく僕らは見えているものばっかりを何か重要視しているけれども、
その裏に隠れてしまっているコンテクストであったり選択されなかったもの、背景となっているものに目を向けることで自分たちについても世界についてもっと深く、あと僕なりに言うと面白く理解できるんじゃないのかなっていうことをすごい書いた記憶がありますね。
ちょっと話が外れるんですけど、今の話を伺っていて感じたのがAIが出す正しい文章っていうのがあるじゃないですか、何かについて調べると無限に正しい文章が出てくるんですけど、それを長時間読んでられないなっていうのを最近感じていて、全部正解なんですけど、それを読むことに自分の人生を使うことに対する虚しさっていうんですかね、っていうのをどうしても感じちゃうなと思うんですよね。
必要に応じて何かを調べるときに読むはやるんですけど、じゃあ2時間3時間その文章に浸りたいかっていうと全然そうは思わなくて、それよりも人間の例えば作家さんが書いた文章とか、作家さんってほどプロじゃなくても生身の人間が書いたちょっとゴツゴツしてる文章の方がそこに時間を使うに値するなっていう感じは最近すごくするんですよね。
だからこれ何なんだろうなっていうのは結構思ったときに、でも確かにこれってひょっとしたら田村さんの言葉で言うと達成感であるとか、それ本当に楽しいんですかっていうのに何か共通するのかなっていう感じはしましたね。
そうですね、この読むことっていうのはすごい難しいテーマだと思うんですけど、まず何が起こってるかっていうと生成愛になるものが登場してきて、テキストの出力のされ方が大きく変わったわけですよね、それまでの文章ってどんなものであっても必ず誰かの頭の中を1回通過したものがここに出てきていたはずなんですけど、
今は何か例えば2000字でクイズに取り憑かれた男が破滅する小説を書いてとかっていうことを出すと何かそれっぽい文章がパーッと出てくる、それはその文章は誰の頭の中も通過していない急にポッと出てきた、それこそ生成された文章なわけなんですけど、
じゃあ書くことにおいてこういうふうに誰の中も通過していないテキストがあふれる時代になったと。そうなった時の読むことの変化って何なんだろうなっていうことを最近よく考えるんですね。先日朝日新聞さんのデジタル媒体の方のインタビューでもそのAI時代の読むことを考えるっていうテーマでちょっとお題いただいてインタビューに答えたんですけど、
そこで言ったのは先ほどの図と字の話ともつながるんですけど、字のない文章ばかりが身の回りにあふれてくるような感じがするっていうのがまず一つなんですね。
その字があるっていうのは例えば先ほどの詩人の例のようにこの人はわざわざこの言葉を選択したんだとか、うるさいとは言わずにやかましいと書いたんだとか、なんかそういう字の部分があるんだなっていう風な姿勢で僕ら読むわけですね。
だからその時文章っていうのは単なる表面に現れたテキストだけじゃなくて、なぜこんな表現にしたのか、なぜこんなことが書かれなければならなかったのかっていう奥行きを持っている。
だから立体的なものとして僕らは文章に向かい合うことができていたんだけれども、みんなが出力してきたり送ってきたりする文章、その仕事の場面だともうAIが作った資料をこっちもAIで要約させて読み込んで返信もAIに書かせてみたいなことはもう結構当たり前になってると思うんですけど、
そういう文章が身の回りにあふれていると読むことを立体的にやろうっていう意識がどんどん僕らの中から消えていっちゃうんじゃないかなって思うんですね。
それはこの文章をAIで書きましたって言われて出されたらもう僕らすんとなって、何か意図とか必然性を読み取ろうっていう意識がなくなって、単なる情報のっぴりした情報の束にしか見えないから、さっき野村さんがおっしゃったようなツルツルした感じ、
人間が書いた文章ってゴツゴツしてるなっていうのは、なんかやっぱり引っかかりがあった時に背後に人を感じられるような読み方をしてるからだと思うんですけど、AIにはそれができない。もしかしたらAIが作った文章でもうまく人格をつけて本屋で売って、それを知らずに、AIが書いたっていうことを知らずにやったらそういう読み方ができるのかもしれないけれども、
その人もAIが書いた資料です、読んでくださいって言われたらなんかすごい読む気なくすし、ポイントはどこなんだろうとか思うわけなんですね。例えば会社でも人間が作ってきた資料だったらわかりにくい時に、この種類のポイントどこなんですかって質問できるじゃないですか。
そこからその人が考えていることとか黙論でいることが見えてくるんですけど、なんかAIが作った資料にポイントは何ですかって聞けるんですよ。聞けるしいい答えが多分返ってくるんですけど、なんかそれをやっても理解が進んだ感じがしないっていう気持ち悪さみたいなのがあって、
僕がちょっと恐れているのは、そういうふうにのっぴりした文章、文章というものは基本はのっぴりした文章なんだっていう価値観が蔓延してしまうことで、僕らが立体的に読むっていう姿勢を忘れてしまうんじゃないかっていうことをむしろAI時代すごい危惧している。
文章自体がAIによって書かれたかどうか以上に、僕らが文章というものは立体的なものだっていうことを忘れてしまう可能性があるっていうことの方がなんか僕は怖いなって。
なるほど。ここで立体的っていうのは、さっきのずっと字の話じゃないんですけど、書かれなかったもの、いろんな可能性の中でこれが書かれたから、本来多分書かれなかった可能性っていうのもあるし、この行間じゃないんですけど、ここに書いてあること以上のものっていうのがおそらく背景にあるし、それに対して自分はどう思ったかとかそういったものも含めて読むってことですよね。
そうですね。そういうふうな立体的なものとして文章を見るからこそ、僕らは読みながら自分の頭の中だけでもコミュニケーションができたりするんですよ。なんでこの人はわざわざこんな表現を使ったんだろう、もしかしてあのシーンとのつながりを持たせたかったのかもしれないとかっていうふうに思考のフックをかけられる場所っていうのが実はいろんなところにあるんだっていうのを考えながら読めるんですけど、
なんかそれがAIが作りましたみたいな文章相手だと、その姿勢が発動しにくくなっていくんじゃないか、そういうふうに思ってますね。
なんかそのある作家さんが、例えば小説をそのテーマにAIの影響っていうのをその私が書いた時に、やっぱり機械が生成したストーリーっていうのはそこに背景に当然人間がいないわけなんで、誰かが書いているというドラマがないっていうことをおっしゃってたんですよね。そういったものを我々は読みたいのかと。
で、作家さんがそのあるその人の人生をちゃんと下地にした上で書いたものっていうのは面白いっていう、そこが絶対に差になるって話をされてたんですけど、やっぱり今の話とすごい共通してるし、字のない文章ばかりがあふれているっていうのは本当おっしゃる通りだなと思いましたね。そうなっていってますよね、今。
そうですね。ここはちょっと難しいんですけど、じゃあ実際にAIが生成した文章だから、そうというかなんか文章のクオリティの問題ではないなと僕は思っていて、AIが出した文章をなんか例えば村上春樹の本ですとかって言って出すと、みんなは喜んで読んでいろんな深読みをし始めたりとか、
今回の小説では女性を主人公にしているけれども、これは村上の中でこういう変化があったんじゃないかっていうふうな読みを起動させ得ると思うんですけど、そういう読みを起動させる回路だったり、何か深く読み込んでいくことで自分なりの構造を世界の中に見出していくっていう姿勢がなんか失われちゃうんじゃないか。
なんか世界には今目に見えている、今はっきりと与えられている情報しかなくて、その奥ってものはないんじゃないかっていうふうにみんなのマインドが変わってしまうのかもということを、やっぱりそのAIと文章ということではすごい考えてしまいますね。
そうですね、いやこれは本当になんか深めたいテーマだなと思うんですけど、あとちょっと1個話を変えて、独自性の作り方というのは冒頭で指摘をされてましたけど、現代の社会が何なのかというときに競争っていうそのお話をされてましたね、内田達郎さんを引いて競争が呪いをもたらすってことを書いていると思うんですけど、今の現状認識というか、今の世はこうであるっていう田村さんの認識を伺っていってもいいですか。
田村 はい、そうですね、これも結構独自性の作り方の中に書いた内容のリフレインになるかもしれないんですけど、今やっぱり評価社会というか、自分たちがやった発信というものが常にこうデジタルなプラットフォームに乗っかっていくことで、いいねとかリポストとか、そういった形でなんか数値がついてしまうと。
でも、僕たちのつぶやきとか、なんとなく考えたことっていうのは、常にそれ自体で人に影響を与えられるかどうかっていう視点で評価されなくても良い。なんか自分がつぶやいたことで満足しちゃうとか、なんか自分の中で一旦心に止めておきたいから声に出してみたとか、そういうものっていうのがたくさんあるんですけれども、そういったものであっても、
デジタルなプラットフォームに自分たちが依存してしまってるからなんですけど、常に数字がついて、なんか場合によってはバズっちゃったりすると。で、なんか一回みんなの注目を浴びると、なんかもっと浴びたくなるっていうところはやっぱり人間の中にはあって、どんどんどんどん発信がエスカレートしていく。
例えばSNSを、僕はSNS大好きなんですごい見てるんですけど、普段はあんまりインフルエンサー的な活動していない人が、一つ誰かに対する批判、それはすごく真っ当な批判なんですけど、それを展開したことでものすごくいろんな人に見られて反響もあったと。
そうすると、なんかみんなに注目されたことが嬉しかったのか、味を占めて似たような批判をあらゆるところに繰り返していく。でもそうなってくると、なんかだんだん目的が変わってくる。何かこれは批判すべきだと思ったから批判したとかじゃなくて、こういうことを言ってるとみんながかまってくれるから批判するみたいな構造がどんどん生まれていったりすると。こういうのがまず一方にあると思っていて。
もう一つは、僕がリトルリーグの崩壊っていう言葉で独自制の作り方の中で論じたことなんですけど、例えば自分が何かギターを始めたいと思ってギターを買って練習をし始めたけれども、そうするとSNSもちゃんとアルゴリズム通りにギターに関するポストみたいなのをたくさん表示してくれるようになる。
そうすると僕は今33歳でギターを始めた。でもまだ全然何も弾けない。好きな曲のコードくらいはちょっと弾けるようになりたいなと思っているところ、急に10歳で超絶技巧みたいな感じで、あのとんでもない曲を弾きこなしている子供の映像が流れてきたりするわけですね。
それ自体はすごいなと思うし、こういう人が将来すごいミュージシャンになるのかなとか思うわけですけど、同時に自分はこうはなれないなって感じる瞬間っていうものがすぐにアルゴリズムによって見せられてしまうというか。
で、かつてであればそういったSNSでみんながつながってなかったら、テレビの向こうにはすごい人たちはいるけれども、自分の身の回りにじゃあ友達と一緒にギター始めて誰が一番先にうまくなるかやろうぜとか、あとは例えば野球、リトルリーグって言ってるので野球であれば年齢別とか実力別でいろんなリーグがあって、
その中でなるべくレベルの近い人たちと切磋琢磨をして、勝った負けたをいい感じに繰り返して向上していくっていう環境が用意されていたというかいるわけですよね。
その僕らの教育段階の仕組みってものすごくよくできていて、いい感じに競争させるっていうことで能力を高めていく仕組みがすごいできるんです。
それは学校でもそうだし、塾でもそうだし、あるいは例えばスプラトゥーンとかそういうゲームの世界なんかもそう、そのゲームを始めるとだいたい最初は一番下のランクから始まって連勝すると一気にランクが上がって、自分と同じくらい強い人と戦えるようになるしっていうふうに適度に勝ったり負けたりを繰り返せるような場所にいることで能力を効率よく向上させられるっていうのが競争というシステムのいいところ。
だとまず思うわけですけど、その競争っていうものの良さがSNSとかいろんなデジタルのメディアが展開されていくことで、少しずつ成り立たなくなるというか気の不全を起こしていく瞬間っていうのがあると。
自分が趣味として始めた瞬間にとか、何か手をつけた瞬間に世界最高峰の実践を見せられてやる気をなくしちゃう、こうはなれないなとか、別に一番になろうと思って始めたわけじゃないんだけど、こんなにも差があるなと思うと頑張る意味あんまないな、実況だけ見ようかなとかっていうふうになってしまうというか。
なんかそういう、もともと競争っていうものすごくよく機能するシステムだと思うんですけど、それが始まりの部分とものすごくよくできている人を短絡させるようなデジタルなプラットフォームがあることによって、みんなうまく競争に乗れないし楽しめなくなってしまうっていうことがいろんなところで起きてるなと思いますね。
いやこれ結構面白い話だなと思って、競争自体は別に悪じゃないと、いい感じの競争は我々の能力を高めてくれるし、いいライバルがいるからこそお互い上にいけるみたいなのもあるじゃないですか。
おそらく学校現場っていうのはそうなんですよね。なんですけど、いきなりトップランカーが見えちゃって、しかもトップランカーが自分とは全然違う世界の人ではなくて、割と同じ土俵に立ってるんだけど、SNSってそうじゃないですか、YouTubeとかも完全にそうで、自分もYouTubeをアップできるし簡単に、一方でトップランカーの何百万人とフォローがいる人も同じようにアップするっていうふうになると、
同じような環境でやってるように見えるんだけど、この結果の違いは何だっていうふうに、今思いやすいのかもしれないですね。
そうですね、だから今のにつなげると、そのみんなが発信するプラットフォームが同じになりすぎて、なんか適度、頑張りに対する適度な承認を得にくくなってるんじゃないかなみたいな、
学校で落書きして絵描いてたら、友達にお前うめえじゃんとか言われるみたいなことって、なんか全然あったと思うんですよ。
それが別にものすごく漫画家のようにうまいわけではなくても、人よりちょっと絵が描けるっていうことが褒められたりとかする場面ってあったと思うんですけど、
今はそういう場面でも、え、でもXで流れてたあの人の絵の方がめっちゃうまいよとかっていうことを周りが言えちゃうし、周りにも見えちゃう。
なんか絵がうまい人、ギターがうまい人、スポーツがめちゃめちゃできる人、消費が強い人みたいなのがテレビの向こうであったりとか、全然関係ない世界の人たちではなくて、
X開いたらパッと見えるし、なんならメッセージも送れちゃう距離感になってしまったからこそ、身の回りのいろんなことをちょっと頑張ってる人たちが、なんか適度な承認を得られなくなってしまっているんじゃないかなっていうのもありそうな気がしますね。
なんかあの、何かの記事で読んだんですけど、人間は誰に嫉妬するかっていうところで、その、やっぱ似てると認識する人には嫉妬するらしいんですよね。
だから例えば野球を始めた人が大谷翔平選手には嫉妬しないと、基本的には。もうそれはもう似てるどころか、完全に違う世界の人に見えるんで、まあちょっと同じくらいのその野球選手は嫉妬するのかもしれないですけど、
一軍で活躍していてっていう人は嫉妬するのかもしれないですけど、始めたばかりの人は多分嫉妬しないと。なんですけど、似てる人が現れて自分よりも上手くやってると、人間は嫉妬するってことで、SNSはなんかその同じところに立ってる感っていうのは、本当は違うんだけど出しやすいのかもしれないなっていうのは思いましたね。
なんかいろんな人が有名な人に結構、なんなら失礼なリプライとか送りやすくなってるところとかも含めて、なんか同じ土俵に立ってるとか、すぐ近くにいる感じっていうのは出せてしまう。それがその本当は裏に隠れてしまってる努力の量とか、
住んでいる世界っていうか積み重ねてきたものだったり、環境が違うっていうこともいろいろあるはずなんだけれども、それが見えない状態で、例えば絵の練習し始めて1ヶ月でこんなに上手くなりましたみたいな人がバッと見えてくると、なんか俺全然上手くならないんだけどつまんないなとかってなりやすくなっちゃう。
そうすると、やっぱり比較っていうものが僕らの日常のあらゆる場面に入り込んでくると、その活動の中で得られる自己満足みたいなものっていうのが見えにくくなってくるわけですね。やっぱ絵って上手いって言われた方が嬉しいし、下手って言われたら悲しいけれども、描いてる時の満足感とか達成感っていうのは絶対あるはずなんだけれども、そこに目を向けることが難しくなってしまう。
なんか下手って言われながら、それでもって言って物事を続けていくのはやっぱりみんな難しいと思うんですよね。だから適度に承認を得ながら自分なりに頑張っていくとか、自信をつけていくっていう場面が本当はどんな活動でも必要なんですけど、それが成り立ちにくくなってるのかな感覚はありますね。
まさにはその自己満足っていうふうにおっしゃいましたけど、独自性の作り方においては、自己満足をやはりちゃんと目を向けるということの重要性が説かれてますよね。ただそれは自己満足だけじゃなくて、やっぱ一定社会と接続した自己満足っていうんですかね。そこが重要だというふうに書かれてると思うんですけど、このなんとか塩梅というか上手い具合な社会に接続された自己満足ってどう作っていけば良いんですかね。
なるほどそこはそうですね結構難しいところでもあると思うんですけど、やっぱり僕はこんな時代だからこそまずは人と切り離された仕方でも自己満足をしっかり認めてあげるっていうのが大事だなと思っていて、他の人にこうした方がいいよとかあっちの方がいいよって言われても、いや僕はこれがいいんだ、これをやりたいんだっていうふうに言える領域っていうのをちゃんと作っておくことが、
究極的には人の作った土俵を人の作った価値観に流され続けてしまわないために必要だなというふうに思っています。ただとは言っても人間ってやっぱり社会的な動物なんで、自己満足自己満足って言っててもそれが人にある程度褒められたりとか、何か人と繋がるきっかけになったりしていかないと続いていかないとか、何か人にそれで貢献できたらいいなっていうことも考えると。
そうなった時にどうしたらいいのかっていうことは一応この本の中で考えるようにはしていて、うまく人にも伝わるような仕方で自己満足を伝えられるようになったらそれは独自性に変わるんだっていうのが一応この本の中のロジックなんですね。
自己満足っていうのは他人にどう言われても僕はこれがいいんだと言えると。例えば今ここで僕が何でもいいんですけど、ちいかはって面白いんですよっていうふうに野村さんに何か語るとして、僕がちいかを見ているとき読んでいるときに感じている満足感みたいなものを野村さんが心から味わうことはなかったとしても、
確かにこういう見方をしたらこの作品って面白いんだなっていうふうに納得できればそれは自己満足が独自性に変わった瞬間だと僕は思っていて、だからその時は自分と相手の目線の違いっていうものを意識しながら自分の視点をどうやれば、どうやったら相手が自分の視点に立つことができるのかって考えながら自己満足を表現に置き換えていくこと。
それが大事だし、それがうまくいったときには単なる自己満足に留まらず、社会的な価値を持った独自性に変わるんだよねっていうことを言っていて、じゃあそれどうするんですかっていう話にはなってくると思うんですけど、これは各々が自分が今向き合っている相手にどうやったらうまく伝わるかっていうのを考えていってほしいというのが一つ結論ではあるんですけど、
一応、僕なりの独自性の作り方みたいなところで出している例としては、一つはクイズっていうものがあって、クイズっていうと普通は答える方をみんなイメージしがちなんですけど、回答者ではなく取材者的なコミュニケーションをしようっていうのを一つ考えていると。
クイズって全く答えられないクイズばっかりだとつまんないんですよねやっぱり、クイズを出題するからには相手がギリギリ答えられるとかっていう難易度の問題をうまく出題できるとお互い盛り上がったりするし、答える側もなんだろうあれな気がする、なんだっけ思い出せるかもみたいな感じの駆け引きとかがあったほうが盛り上がると。
じゃあそういうクイズを作るにはどうしたらいいかっていうと、相手が何を知ってるんだろうかっていうこととか、どのヒントを使えば相手が答えのことを思い出せるかなっていうふうに考える必要が出てくる、そういうホスピタリティを働かせながら自分が伝えたい情報をうまく包んであげる、包み込んであげるっていうことが一つ独自性を作るためのやり方のモデルになり得るよねっていう話をしていますね。
だからなんでもいいんですけど、その小田信長っていう答えを出題したいときにそれを小学生に出すのか高校生に出すのか歴史学者に出すのかっていうときには全然問題の作り方、考え方が変わってくるなというふうに思うんですね。
小学生向けだったらもう歴史学的に厳密な表現を使うとかあんまり考えず、ほらあの秀吉のさみたいな感じで表現を出したらいいし、高校生とかだったらもう本能寺の編でとか結構テストに出そうな表現を使ってあげる方が親切でわかりやすいかなとか、逆に歴史学者だったらもっともっと難易度を上げてものすごくマイナーな事実を持ってくる、マイナーな事実が僕には思いつかないですね。
楽一、楽座とかだと多分高校レベルとかだと思うんで。
でも定説はこうなんだけど実はこんなこと知ったんですよって言われると、へーみたいになりそうですよね。
実はこんなことをしていたことが最近明らかになったみたいなそういうマニアックなクイズを出すと歴史学者の人も、これあれじゃんっていう楽しめる瞬間があったりとかするんで、そういうあり方は一つモデルになるかな、出題者的なあり方っていうのはモデルになるかなっていう話をしてますね。
それでもすごい面白いですよね、相手が何を知ってるんだろうかっていうのを想像する、それがまあホスピタリティだと思うんですけど、した上でそこから先ですよね、何を提示すれば相手がへーって言って楽しんでくれるかっていうのを考えるというその態度ってことですよね。
そうですね、相手が知っていることと相手が知らなそうなことをうまくミックスしてあげると、クイズの中でも相手に発見があったりとかってこともあるし、でも知らないものと知っているものを結びつけて答えを出すっていう知的な快感が得られたりとかっていうこともあるし。
ちょっと話が少し脱線したんですけど、私その職業柄、その良い聞き手とは何かっていうのを聞かれることがありまして、その時に必ず一個の要件として情報の相場感って言ってるんですよ、これ何かというとメインの方が何かを発話された時にその話っていうのが想定するリスナーさんとか受け点とって当たり前の話なのか珍しい話なのかっていうのをその時にこうジャッジする能力っていうのが
必要ってことを言ってるんですよ、で当たり前の話だなと思ったらそこは深掘りしちゃいけなくて、そうですよねってその次に行くような反応をしなきゃいけなくて珍しい話だったらそこ深掘りしなきゃいけないんですよ、何ですかそれっていう反応をしなきゃいけないと
でこれっていうのはそのリスナーさんが何を知っていて、世間としてはどの情報は珍しくてどの情報は珍しくないのかっていう相場感を身につけた方がいいですよってことを言ってるんですけど、今のそのクイズの出題者的コミュニケーションってまさにそうだなって感じがしましたね
かなり同じ話かなというふうに思っていて、しかもそれをポッドキャストでやるのってすごい難しいだろうなっていうことを今思って、僕もたまにトークイベントとか出させていただいたりするんですけど、その時ってやっぱり目の前にお客さんがいらっしゃるので
なんか専門用語とか出てきた時にお客さんがふんふん頷いてたら大丈夫かみたいなもんだけど、頷いてたお客さんがみんなピタって止まり始めると、俺まだ伝わってないなとかっていう呼吸を伺って、それって何ですかとか僕が知っている知識で補足をしたりとかっていうことは
なんか比較的やってきたなっていう思いはあるんですけど、ポッドキャストとかリスナーさんの顔が見えないわけじゃないですか、今そこでうなずいてるのか、しかめ面をして聞いてるのかわかんない中で、その相場コミュニケーションを身につけるのって、どういう心がけとか何か参考にする感覚ってあるんですか
それで言うとおっしゃる通り確かにいないんですよオーディエンス、いないから想像するしかないんですけど、なんかここはだからひょっとしたらこの独自の作り方に帰ってくるのかもしれないですけど、最後は自分の感覚を信じるみたいなところに着地するかなと思っていて、自分が面白いと思った話は深掘るし、知ってるなと思った話は流すっていうのが最後は何かそれが答えになる感じはするんですよね
でもちろんテクニック的に、今世間の例えばビジネスコンテンツだったらビジネスメディアではこういうことは割と語られてるから、その先に行かなきゃいけないみたいなインプットはできるんですけど、根本は自分の心が揺らぐかどうかみたいなところに帰着するという感じですかね
そういう野村さんの感覚と、あとは普段からニュースには一定触れて、一定以上ですね、の密度で触れてらっしゃるっていうところの掛け合わせがやっぱりあるのかなーっていうのは思いましたね そうですね
やっぱりニュースになることって、これクイズ的な見方ですけど、ニュースバリューがあることって、へーってなることだというのがやっぱりあると思うんですよ
これはちょっと難しい問題ではありますけど、国際情勢とかでニュースに取り上げられるかどうかって、なんかへーとかインパクトを持って受け取られるかどうか、そういうふうになると日本だとやっぱりヨーロッパとかアメリカで起きている出来事の方がへーってなりやすいとか、みんながちゃんとこうアテンションを向けてくれやすいっていうところがあるので
ニュースメディア的な場に居続けることっていうのはやっぱりそのリスナーに向けた相場感が必要だし、それを養うにもなんかやっぱ大事なんだなーっていうことはすごい思いました そうですね、多分その何が中心的に語られているかに対する感度は、ニュースを扱っていると嫌が多いにも身につくっていうのはありますね
なんで多分そこが、どっちが集でどっちが銃ってわけじゃないんですけど、テクニック的に多分身につけられる部分で、でなんか本質的なところはもう最後は自分に帰ってくるみたいなところかなっていうのがなんとなく最近感じてることなんですけど、ちょっとごめんなさいあの今の話がなんかこうすごいわかるわーと思って膨らましちゃったんですけど
もう一個の思考のストレッチ、ちょっとこっちについての話題を展開したいなと思いまして、これは本当にあの面白かったんですよ、すごい面白くて、よく世間のこんなところに着目するなっていうのをやっぱ感じるんですよね、例えばチーカをフックにして何を感じたかとか、フリーリンをフックにして何を感じたかとかですね
あとやっぱり面白かったのがそのさっきのクイズ思考じゃないんですけど、クイズでいうその問題っていうことを言った瞬間に人々の注意が引き付けられるみたいな話とか、そのあたりやっぱり田村さんが世間を見るこの生きている世界を見る視点っていうのがすごく面白いなというふうに思ったんですけど、ちょっとテクニック的な話になっちゃうんですけど、どういうシーンでこれは今生きている中で何かこう自分に引っかかるじゃないんですけど、キャッチされるのか、それがすごく知りたい
知りたかったんですよね、この本を読んだときに
なるほど
そうですね 一概に言えないというのが答えになるんですけど、何か傾向だったりあれば教えていただきたいなと思ったんですけど
傾向ですか、なるほど、そうですね、これかなり難しいというか、僕が僕のことをわかってないなっていうその瞬間だと思うんですけど、でもやっぱり何かこれネタになりそうだなとか考えてみたり書いてみたりすると面白くなりそうだなっていうのは、やっぱり違和感を感じた瞬間
なんでこれこうなんだろうっていうふうにその自分の常識と照らし合わせたときに何か全然おかしいなとか変だなって思った瞬間は何か書き留めておいて後で考えられるようにしていたり、あとは単純にやっぱりさっきの野村さんのお話に近いかもしれないんですけど、自分がすごい気になるとか自分がすごい心を動かされたものとか作品っていうのは何かやっぱり何かあるんだろうなとか
自分と響き合う部分がどこなんだろうかっていうことを考えるために書き留めておいたりはするので、やっぱりその自分を中心において違和感を抱いたりとかものすごく心を動かされた瞬間っていうのをまずは大事にして、じゃあ後はこれは結構このエッセイ書くときもなんか博打みたいな書き方してたんですけど、
一旦その気になるトピックと何か関連しそうなキーワードをドキュメントファイルに書き込んで、あとは何か書けるかどうかみたいな煮詰まっていくかどうかみたいな、そういう実験をずっとしながら文章を書いていたっていうところはありますね。
でもこれはその独自生の方ですけど、書かれてる方ですけど、結構その書いていって放置しとくって話はされてましたよね そうですね、僕はラインキープってわかります?ラインの中で自分しか見れないチャットルームみたいなのがあるんですけど、
もうそこに例えばお風呂入ってる時とか電車乗ってる時とかに思いついたことだったり、なんかこれ面白そうだなと思ったことをその場で打ち込んだりするんですよ。その時にもう文章の繋がりとか考えずとにかく打ち込んでいくので、それだけで何百字とかになったりするんですけど、そういうふうに書いておいて放置されているエッセイ未満のもの、記事未満のものがすごいたくさんあって、
何か依頼をいただいたり書く機会をもらった時に、これもしかしたらあれ使えるかもなとか、一回こうラインキープの履歴を見返して、これの話今やったら面白そうだなっていうふうに、なんかその過去の自分が気になったものと今の自分の関心が交差するところを見つけるっていうような書き方はしてると思いますね。
いいですね、エッセイ未満のものを蓄積していて、であれですよね、だから完成させないんだけど常になんかバックグラウンドで動いてるというか、何かは動いてるんですよねきっと、今その瞬間にそのネタに意識を向けてるわけじゃないんですけど、きっとどっかでそれは動いてるってことですよね。
だからなんかある種問いのような形に一回仕上げておいてなんかストックしておくと、その無意識のうちにその問いが満足させられそうな対象を探している状態になるので、何かに出会った時に、これあそこで使えるじゃんとかっていうふうになっていく。
だから、サッカーの監督があのポジションにうまくはまる人探してるんだけどなーみたいなことを考えながらいろんなチームの試合見てた時に、この選手はまるやんみたいなのがあるかなと勝手に想像してるんですけど、そのポジションが無数にあるみたいな、募集中のポジションが無数にあって、
このトラップのクオリティだったらあそこに入れると、こう味方からのパスをうまくさばいてくれそうだなーとかっていうひらめきの瞬間がなるべく日の中で多くなるといいなーみたいな感じですかね。
でもそれは似たようなことを私もやってました。なんか私の場合はLINEキープじゃなくてiPhoneのメモアプリなんですけど、未解決の課題は、これ考えなきゃなーみたいなことは結構過剰が気にしてるんですよね。
で、そうすると歩いている何かの瞬間に、意図してこの問いに対して答えが出てくるわけじゃないんですけど、何かの瞬間にこれあれに使えるかもみたいなのがはまっていくっていうのはやってますね、今。
そうですよね。なんか一回書いとくっていう、逆に未完成だからこそ起動し続けてくれるとか探索し続けてくれるみたいなものをたくさんとりあえず置いとく。
で、別に見つからなかったら見つからなかったで全然いいので、なんか役に立たせようっていうよりはとりあえず枠だけ作っておこう、ポケットだけ作っておこうみたいなことは僕もやってますし、その野村さんはじめなんかいろんな方が全然違う仕方ではあると思うんですけど、なんとなくやってるんじゃないのかなーっていうのは思いますね。
で、そのそれをやろうとした時なんですけど、営利活動というか会社員として、私は小さい会社を経営してるみんななんですけど、いずれにせよその仕事をするっていうこととの相性の多少悪い部分があるかなと思っていて、
で、その期日までに決められたアウトプットを出すという動作と、このある意味ちょっと偶然性に身を委ねて、そのハマるのを待つだったり、その自分のその大事なものを中心に置く、自分の感性を中心に置くっていう生き方の総括に結構現代人は悩まされてる感じがするんですけど、田村さんの場合どうされてます?
締め切りがあるものがいっぱいあるじゃないですか、絶対にこの生きてる以上は、ですし会社員としてお勤めじゃないですか、絶対その必要なものはありながら、でも多分自分の好きっていうのを大事にするっていう、だからそこって何かありますか。
そうですね、ただ僕の場合締め切りも一つ思いつくための装置みたいなきっかけみたいなふうに思っていることはあって、締め切りがなければ思いつかなかったものっていうのも自分で書いてる文章の中にたくさんあるなっていうふうに思うわけですね、とりあえず書いてみるっていうのはそのアイディアをストックするじゃなくて、
もう例えば昨日も原稿の締め切りだったんですけど、そのまだ全然完成してないけど、とりあえず荒書きのものを置いた状態で、とりあえず書くっていう姿勢に締め切りがあるので持っていくってことで何か生まれてくるものみたいなのもあると思うんですけど、
ただ結構漠地ではありつつ、なんていうんですかね、その見通し、これくらいのものだったらこれくらいの環境を整えればなんとかなるんじゃないかみたいな見通しというものがあるなと思っていて、
これは原稿の場合もそうですし、会社で何かクリエイティブな発想を求められているような場でもそうだと思うんですけど、自分がまだうまくできているか自信がないので他の人の例を出すんですけど、哲学者の野谷茂さんっていう方がいらっしゃいますね、
もともと東大で僕も授業を受けたことあるんですけど、今は退官されて別の大学で教えたり本を書かれたりとかしている、特に論理トレーニングみたいな本とか哲学の謎とかそういう本はものすごく売れているので読んだことがある方も多いと思うんですけど、
野谷先生の授業を受けてた時に哲学者っぽいなって思った瞬間っていうのが何回かあって、そのうちの一つがゼミの中で、例えば一人の哲学者の文章の中にAと書かれている部分とBと書かれている部分があると、
で、AとBは普通に考えると矛盾しているからこの人何言ってんだってなりそうなところなんだけど、どう解釈したらいいんでしょうかみたいな、そういうトピックがよくゼミの中では出てくるんですよ。
で、最終的にはそのうまくAとBを両立させる解釈みたいなものを導き出したり、いやそうじゃないからこういうふうに批判すべきだってどっちかの結論になったりするんですけど、
それを考える時に野谷先生が、なんかこれは今はちょっとわかんないけど15分くらい散歩したらいい感じの解釈が思いつく気がしますねみたいなことを言ったりされるわけですね。
で、なんて言うんですかね、例えば答えのある問題を解くってあったりとか、ここにある荷物をあそこに運ぶとかそういうものって結構定量的に処理することが可能だと思うんですけど、
哲学的な問いに何かこう一定の方向性を示すとか、そういうのってなかなか定量化はできないし、なんかしちゃいけない感じさえするんですけど、
なんか野谷先生の中ではこの問題の難しさ、この問いの難易度みたいなものがなんとなく何分の散歩みたいな感じで見通しがつくんだなみたいなのを聞いた時に、
なんか哲学者っぽいし、なんかそういう見通し、なんていうのかな、答えのない問題だからいつひらめくかに全く任せるしかないのではなくて、
なんか同じことにずっと取り組んでいるうちに、知的なとかなんかこうひらめきを要するような作業でも何らかの見通しってつけられるんだみたいなのがすごい面白くて、
それを受けてではないですけど、なんか自分でも何か発想の転換が必要な問題であったりしても、なんか見通しはつけられるんだなっていう感覚で臨むようにはしていて、
じゃあそれがこう例えば4000字の原稿とか8000字の原稿とか、会社でやるいつまでにこういう企画のアイデアを考えてくるとか、
なんかそういうものに関してもどうやったら見通しがつくのかなとか、見通しつけるとしたらどれくらいの時間考えたら何かしらは出てくるだろうなっていうふうに、
自分の能力を見積もるのかっていうのは考えてなるべく回るようにはしているっていう感じです。
なんかそういう知的なものにも見通しつくんだっていう感じを1回持ってみるのは大事かなと。
で、それが人によっては全然異なると思うので、自分の場合どれくらいだろう感じですね。
面白いですね。哲学的な問いであっても15分の散歩でいけるかもっていうのが見積もれるんですね。
あれやっぱ面白いし衝撃的だったなと思って、ただその後なんかいろんな原稿の仕事をいただいて書かせていただくときには、
なんとなく自分もこういうトピックであれば何文字までは書けそうだなとかっていう見通しなんですかね。
その散歩15分っていうのは野谷先生の見通しなんですけど、こういうトピックだったら何文字くらいだろうなみたいな見通しとか、
なんか自分の中にいろんな見通しの立て方みたいなのがあるんだなっていうのは自分でも意識できるようにはなったと思うんです。
なんか今の点でもう1個伺いたいんですけど、なんとなく想像するに必要に駆られてやらなきゃいけないこと、
期限が設定されていて打ち返さなきゃいけないことっていうのが、人生の中で比率が高いとなかなか自分はこれが満足するんだとか、
このアイデアが思いつくまで寝かせておこうっていうのがやりづらくなっていって、タスクを処理することが優先するじゃないですか。
だからやっぱりそのウエイトっていうのを下げていかなければいけないのかなという感じもしたんですけど、
田村さんご自身はそういう動き方をしてますか、それともあんまり関係ないですか、そこは。
田村 ああそうですね、もちろん場合によるとは思うんですけど、なるべく手作業を減らすよりも考えなきゃいけないことを減らすっていうことの方に自分は気を使っているかなと思っていて、
なんていうんですかね、ちょっと仕事の中で上手い例が出てこないんですけど、例えば明日フットサルに行くみたいな用事があったときに、僕はもう小学生かみたいな話なんですけど、先に明日の着替えとフットサルシューズをもう玄関の前に置いとくんですよ。
いえいえ、準備が。
田村 そうすると、明日朝起きてから何も考えてなくても玄関でフットサルの予定があることに気づき忘れずに持っていけるだろうっていう風になって、
その場その場でいろいろ思い出したり考えたりして処理しなきゃいけないことをなるべくいらしておく。
だから暇なときに何をするかっていうと、明日困らないために何を玄関に置いておいたらいいかなとか、誰にメールしといたらいいかなとか、
これは普通のショートな話ですけど、自分がボトルネックにならないために誰に何を伝えておけばいいかなってことは、暇なときに考えておくというふうにはしてますね。
そうすると考えるメモリーを空けとくっていうんですかね。
いろんなことを同時に考えちゃうと、その考えること自体が理想としては有限なんで、考えなくてもいいことは早く終わらせておくっていう。
そうですね。その都度考えずに、なんなら環境の側にもう書き込んでおくみたいなことですね。
だから付箋を貼ったりとか、フットサルシューズを玄関に置いておくとかじゃないんですけど、
なんかそれで済ませられることはなるべく済ませておいて、その都度あれどこにあったっけとかって、僕はなんか物の置かれた場所とかを覚えておくのなんかすごい苦手。
そうなんですね。
なんか本に哲学者の固有名詞とかを覚えるのはすごい得意だと思うんですけど、
家の中であれドライシャンプーどこにあったっけとか、なんかそういうのを思い出すのってすごい苦手なので、
いちいち考えなくてもいいように先に出しておくとか、その予定が来る前にもうセットを作っておくとかっていうことは心がけてますね。
でもそうですよね、書かれてましたけど、本棚をたまに増書の配置を変えていって、
そこでそのアイディアが出てくるのを待つって話も書かれてたじゃないですか、それもやっぱその環境の方を動かして、そっから何らかのフィードバックを受けるってことですよね。
そうですね、もう環境の側に考えさせることができるから、それはもう環境に任せておいて、
自分はなんかこことここに線を引くだけみたい、っていう感じのアイディアはよくやるので、
その自分が大学院生時代とかに論文を書くときにやっていたことは、今も原稿を書くときにすごい使っていて、
僕って一から書くみたいなのがやっぱり苦手で、どっちかっていうとすでにある文章をこんなんじゃダメだなとか、
こことここのつながり悪いなと思って編集していくっていうスタイルで書くっていうのを自分ではやっていると思ってるんですけど、
それは何かっていうと、読むときは読んで読書メモまで作るっていうのがセットなんですね。
ここにあるのは自分の本だからないですけど、僕本を読むときにはなんか少しでも面白いなとか知らなかったなって思ったところには全部付箋を貼るようにしていて、
それがいい本だなと思ったら読み終わった後に2週目に入るんですけど、2週目何をするかっていうと付箋の貼られた箇所を全部メモアプリに抜粋するんですね。
これは後々のことを考えて全部ページ数もつけて抜粋して、なんかここ面白いなと思ったときにはこれが面白かったとか、
これってあれと一緒なんじゃないかみたいなコメントをつける形でメモアプリに入れておくと。
で、じゃあなんかそのトピックに近い論文とか原稿を書くことになったら、まず何をするかというと、それ用のドキュメントを作って関連するキーワードでメモ帳アプリ検索して、
出てきた抜粋を一旦全部同じドキュメントに放り込むんですね。いろんな本とか論文に出てきた抜粋を一つの場所に放り込むと。
で、あとは寝かせるじゃないですけど、その全部まとまった状態で眺めて、こことここ線引けるな、こことここ線引けるなっていう感じで、
いらない部分は消して、繋がりの悪い部分はちょっと組み直してっていうふうに、なんか抜粋集を編集するみたいな感じで原稿とか論文を書くっていうスタイルを結構やっている、
きたので、なんかそういう、もともとそういう感じなんだなっていうか、その玄関に沸騰される純正を置くのと、
そのもともと作っておいた抜粋を一旦ドキュメントに放り込んで、あと線を引くだけみたいにする、なるべく考えることを減らす、
論文を書くとか原稿を書くとか、なんかすごい知的に高度なことを要求されそうな作業においても、なるべく考えずにできることを増やすっていうのはなんかやってきた気がしますね。
いや面白いですね。頭の中じゃなくて、外部で使えるものは何でも使うっていうような。
そうですね。だから、なんかレゴブロックを組むような感じでできるようになるべく落とし込みたい。
見ながら手を、手でパーツがうまくカチャカチャ組み合うかっていうのを確かめながらやるっていう状態になるべく落とし込みたい。
ちょっとあのそろそろ、すごい聞きたいこといっぱいあるんですけど、お時間が近づいてきたんでまとめにかかろうと思うんですけど、
もう一個ちょっと伺いたいのが、田村さんの今の仕事のスタイルっていうところで、今、哲学の研究をされていて、その文筆活動ですよね、本を書かれてるってことをやりつつ、会社員として株式会社バトンで新企業開発に関わっていらっしゃると。
このスタイルっていうのは、何でしょうね、ご自身の中では、何ですかね、なぜこのスタイルなのかというふうに問われたら、何か答えはありますか。
いやー、こうなっちゃったっていうのが、行き当たりばったりに生きてたらこうなっちゃったっていうのが一つ大きなところですね。
一つ、大学の中にずっと残って教職というか、教授になるようなルートに残っていくっていうことも選択肢の一つとしてはあったと思うんですけど、
それはなんか、今の自分の生活スタイルと大学の在り方とかその辺を考えるとちょっと難しいのかなとかっていうことも思ったりして、
じゃあどうしようかってなった時に、高校生の時に一緒に部活で遊んでたやつがクイズノックっていうのを始めて、始める時からもうちょっと関わってるんですけど、
それが結構大きくなって会社になっていくっていうタイミングもあって、じゃあ自分としては何か知的に考えたり書いたりするようなことっていうのを人生としてやっていけると満足感高いのかなと思った時に、
クイズノックをやってるような会社であれば、そういう融通も効くのかしらとか、そういう領域みたいなものを作ったり、なんなら自分が作ったものを会社の側にも活かしながら、会社にも貢献できるような仕方で加工しながらやっていけるのかなっていうふうに思ったんで、
今はこういう形に落ち着いてるんですけど、そうなったのは狙ってとかっていう、たまたまいろんな歯車が噛み合ってここにいるなっていう感じがしますね。
なるほど、外で探究された内容をバトンの社員としてコンテンツというか企画に落とし込んでいくっていうのはすごくありそうだなっていう感じがしているんですけど、会社員としての経験が文筆に生きてるっていうのも結構感じますか。
そうですね、一つはやっぱりなるべく締め切りを守ろうとか、メールは早めに返そうとか、そういう部分は個人の活動にも生きているかなと思いますし、経費生産とかも会社でやってることを個人でもやったらいいのかみたいな、そういうインフラ的な部分ではとっても生きているなっていうのは一つありますし、
あとはやっぱり一人の活動に閉じすぎないことっていうのが自分の思考にもいろんな刺激を与えてくれる、
やっぱり哲学的なことを考えている中で自分の中で何かうまくいってるように完結していても、人に話すと何かあんまりピンとこないだとか、他の人を巻き込んで一緒にやっていくにはやっぱ魅力が足りないなとか、
そういう尺度っていうものが会社の中にいると得られるので、一つ面白いアイディアがあっても人を動かすためには面白いだけじゃ不十分だよねとか、
すごい基本的なことかなとは思うんですけど、そういう会社の中で他の人と一緒に何かをやらなきゃいけない、他の人を巻き込んで一人ではできないことをやらなきゃいけないっていう活動に携わることで、
うまく自分の価値を相対化したりだとか俯瞰したりできるっていうのは、なんか文筆の中にも生きているような気はします。
生きていることで最初にケイヒジェさんって出てきたのはちょっとウケましたけど。
やっぱりそこ大事だなと思いますね、なるほどこういうふうに仕分けて、こういうふうにやって税金処理とかするんだってことを会社で言われながらやっているから、
自分も確定申告とかすごいスムーズにできたなっていうのは思いますね。
そうですね、確かにそれはこの実社会で生きる上では大事な知識ですよね。でもそうですね、確かに集団で動くっていうことは、
自分の価値を他人からはどう見えるかとか、その相対化する上ではすごくなんか良さそうな感じはしますね。
そうするとどうですか、この後っていうのを聞くのもあれなんですけど、今のスタイルで生きたいのか、それともなんでしょうね、
例えばすごく書きたいものがあるとか、その後の展望っていうのを最後に伺ってもいいですか。
そうですね、これ会社の人も聞いてる可能性あるんですけど、一旦ご容赦いただく感じで言うと、
率直に言うと、なんか書くとか喋るとかそういう活動の比重を増やせたら、僕個人としては嬉しいなっていうのは一つありますね。
今は会社で働きながら土日の隙間時間で何とか完結させるっていうようなスタイルですけど、なんかそこをもうちょっとうまく、
わかんないです、例えば50-50とか、なんかいい感じの比率にできたらいいなというか、自分にとってもっと満足できるというか、
幸福を最大化できるような塩梅があるのかもしれないみたいなことは思ってますけど、とはいえここまで結構行き当たりばったりで生きてきたので、
今後も行き当たりばったりで何か機会をいただけたり、何か挑戦してみたいなっていう風になったら、なんかうまくそれを実現できないかなってことを考えながら、
調整していくのかなと思ってますね。ただやっぱり会社に属すことで、今自分が比較的フットワーク軽くいろんなことができるという意味では、
やっぱ会社に居られる、会社に置いてもらえているってことは、なんかやっぱ活動の株構造というか、経済的な基盤にもまずなっているし、
あとは人としっかり付き合っていく上での基礎体力みたいなものを養う場にもなっていると思うので、それはもちろんないがしろにはしたくないなと。
ただその一方で、自分なりに物事を考えて発信していくってことも楽しいなと思っているので、
もっといいバランスあるのかなみたいなところは引き続き考えたり調整していけたらなと思ってますけど、しばらくはこのスタイルで続けていくんじゃないのかなと思ってます。
そうですね。ひょっとしたらこのスタイルで出てくるものっていうのは、まあわかるんですけど専業になるという道があるかもしれないですけど、このスタイルだからこそ出るものっていうのもありそうですもんね。
そうですね。あとなんか専業になったら僕全然描けなくなるんじゃないかとか、やっぱり1週間使って描いていいですよって言われたら、なんかそれはそれで僕描けなくなりそうだなっていう不安もあるので、今は今でいいのかなと思ってます。
分かりました。ちょっと次回作も楽しみにしております。 ということで、すごく面白いお話でした。今日は田村さんお越しいただきましてありがとうございました。
ありがとうございました。
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