こんにちは、上水優輝です。
永里優輝です。
さて、今日は、引退インタビューということで、やっていきたいと思います。
イエーイ!
イエーイ!ですね。
なんか、今後どうなるのか、みたいなところは、どうかなってのは、去年結構ね、この番組でも聞いてきてて。
そうですよね。
で、ちょっとだけね、お休みしてる期間とかもあったんですよね。
ありましたね。
で、それを経て、引退が決定して、で、YouTubeチャンネルの方でライブ配信されてましたよね。
しました。そこで大体、軽く話した感じですね。なので、自分が一方的に話しただけなので、誰かに何か聞かれて深掘られて話したってわけじゃないので、そこまで出し切れてないところがあるので。
なるほどですね。やっぱり、そうですよね。一人でこう喋ろうとすると、どうしてもこういうこと言わなきゃっていう台本というかね、構成があって。
そうなんですよ。
だから、ちょっと細かい部分をね、言い損ねたりするっていうのはあると思いますので、今日ね。
はい。
あの、それを、この番組でね。
いいね。
嬉しいですね。
めちゃくちゃ嬉しい。
いやいや、僕も嬉しいです。そんな話聞かせてもらえるのね。
で、多分YouTubeチャンネルとね、被る部分も出てくると思うんですけども、また違った切り口で少しね、惚れたらいいなというふうに思っています。
ただね、初めて聞く方もいっぱいいると思うんで、改めて被るところもたくさんあるかと思いますが、まずですね、何年プレイされてたんですか?
え、プロでってことですか?
そうですね。
でも正式にプロになったのは2010年からなんですけれども、
でもその、日本の今で言うプロリーグの前身である、そのトップリーグみたいなリーグがあったんですけど、ナデシコリーグっていう、
全員がプロになれるわけじゃなかったリーグなんですけれども、そのリーグでデビューしたのが15歳の時だったんで、それが2002年ですね。
20何年?3年4年とかってこと?
それぐらいになりますね。
すごいね。
やばいですよね。
なかなか23年ね、現役でプレイしてる人ってそうそう多くないっていうか、まあちゃんとした人じゃないと続かないですよね。
ちゃんとした人の定義って何ですか?
いわゆるその、なんていうの、怪我とかもせず、衰えもあまりそこまでせずじゃないと、やっぱ30ぐらいで一旦来るんじゃないですか。
体的にはそうなんですかね。でも実際、最近選手寿命伸びてる感じはしますよね。30後半過ぎてもやってる人結構いますし。
はいはいはい。
なのでどうなんでしょうね。結構なんかこう、気持ちの部分で早めに辞めていく人が多い気がします。
怪我とかそういう感じより。
なるほどね。体の部分じゃなくてもう精神的にちょっとこれ以上はっていうので辞めていくんだ。
それでいうと長里さんは、一つじゃないと思うんですけど、複合的かもしれないですけど、辞めた、決めてっていうか、もう辞めようって思ったのってどこになるんですか。
まあ一つはその、プレシーズンに向けて準備しようっていう気持ちになれなかったんですよ。
それが初めてで。
20何年やって。
20何年やってて。いつもプレシーズンに向けてオフシーズンのトレーニングはいつも楽しみで、いろんなことやって、準備してって、いざ次のシーズンに望むみたいなのが結構好きでやってたんですけど、
その気が全く起きなくて、これは何かのサインかなっていうのを思い始めて、けどなんかそのね、引退っていうところまで決断するのって難しいじゃないですか。
一回きりのそのサインで。
なので、それでじゃあちょっと時間を置いて、もう一回ね、やりたくなるかもしれないっていう風に思ったんですけれども、結局ならなかったので辞めましたっていう感じです。
なるほど、もうその気持ちは起こってこないから、これはもう無理かなっていう風にっていう感じですね。
はいはい。そうですよね。ほとんどのキャリアは海外でもなんか、やっぱすごいですよね、改めて。
そこですよね、ほんと。プロとしてのキャリアはもう完全にずっと海外なので。
はいはいはい。そうか、日本にまだね、今でこそちょっと盛り上がり始めてるけど。
確かにね。
ライブ配信の中でも、原液時代楽しかったことはありますか?とかつらかったことは?みたいな質問があって。
ありましたね、そんなの。
全部つらかったですみたいなことしてたと思うんですけど。
なんかその辺ちょっと、どうつらかったかみたいなところを、あんまりえぐみのない範囲で。
えぐみのない感じ。
あってもいいんですけど、言える範囲、つらくならない範囲でですね。何がどうつらかったのかみたいなのが、漠然としてやっぱりね、プロの生活は想像できないんで、僕たちは。
なんだろう、どこから説明すればいいんでしょうね、これね、何がつらかったって。
やってたときは、なんかそのすっごいつらいっていうわけじゃないんですよ、なんか。
で、結局今になって思ってみて、あ、つらかったなみたいなふうに思うだけなんで、あれなんですけれども。
でもその合宿とかはやっぱつらかったですよね。
理不尽な感じの走りとか。やっぱ走りたくないんですよ。やですよ。つらいですよ。
身体的苦痛。
走りたくないのに走ってるという苦痛ですね。
なんで走らなあかんねんっていう。
なるほどね。
もうね、なんでしょうね、体がなんかバラバラになるんじゃないかってくらい追い込まれるんですよ。
そういう感じの追い込まれ方とか。
結構激しいんですね、やっぱり。
そこはちょっと理不尽な感じのところありましたけど、そんなふうにやる必要はないと思うんですよね。
もうちょっと科学的にちゃんとやったら、もう少し効果的にできると思うんですけれども、精算性高く。
昔はそんなのなかったじゃないですか。
気合と根性みたいな感じだね。
そこですね。それはつらかったかな。
あとやっぱりいじめとかですかね。
そういうのもやっぱあったんですね。
やっぱありますよ。なんか差別的ないじめですか。
チーム内でってこと?
そうですね。
ドイツのチームとか結構院室なんで。
そうなんだ。笑っちゃいけないけどそうなんだ。
そういうのとかがあったのは、ドイツの時代が結構つらかったかもしれないですね、そう考えると。
ドイツ時代って最初ですか?
プロの最初のキャリアですね。
それじゃあね、自分の年齢的にも若いから精神的にね、そこまでいろんな経験もしてないから、余計つらかったじゃないですか。
でも若いから耐えられたみたいなことはありますよね。
逆に?
逆に。これを歳とってからあの経験をしろって言ったら無理ですよ。っていうぐらいのやっぱつらさだったんで。
そういうのありません。なんか若いうちって何もわかんないじゃないですか。
で、これが当たり前なんだっていうふうにやっぱ刷り込まれるじゃないですか。
刷り込まれる、うん。
で、その世界から出て違う世界見てた時に、あ、あの世界は当たり前じゃなかったんだっていうことに気づくという感じですよね。
その時はそういうもんだと思って頑張って受け入れてたっていう、だから受け入れられたんだみたいなね。
だからつらいとはいえつらくはないみたいな、そういう自分に対する思い込みもさせてたみたいなところがありますよね。乗り越えるために。
すごいですね。でもそうやって乗り越えて乗り越えて乗り越えて、結局ね、この今に至るまでっていうところですよね。
ですよね。なんかちょっとね、引退発表してね、時間が経って思ったことがあって、
あ、去年のヒューストンでのシーズン結構最悪だったじゃないですか。
まあ、それで聞いてる限りは結構辛そうでしたね。
で、結局自分のサッカー人生をコンプリートする上で、あの経験が最後必要だったっていうのに、今ちょっと気づかされていて。
はい。
で、それは今、オンラインでそのプログラムを作ってるって言ったじゃないですか。
はいはい。
そのプログラムを作る上で、いろんな話をやっぱり引っ張り出して話していくってなった時に、やっぱり最悪の経験をしてたことによって、自分の言葉に説得力を持たせられる。
そうですね。こうなってしまうという、なんか事例としてちゃんと話せるってことですよね。自分の経験として。
そうなんですよ。だからそれがなかったら多分、結構深いところまで話すことはできなかったなっていうのがあって、
あ、これはこの物語で完結するためにこのステージは用意されてたんだって最後に思いました。
確かに深みは出ますよね、そのコンサルティングにですね。
そう、コンサルティング今後ね、やっていったりもするんですよね、サッカー選手の。
コーチングとコンサルティングを合わせた感じでやっていきたいっていう感じですね。
あとプレイ分析含めて。で、オンラインで講座を受講していただけながら、私のそのマインドセットだったりっていうのを
に触れた上で、そういうことをやっていくみたいな。一番やっぱり変えていきたいのはマインドセットの部分なので、
そこが変わらなかったら技術も伸びていかないし、他の能力も伸びていかないっていうのがあるので。
今準備中なんですよね。もう始まってるんですけど、メディアはね、ずっとやってると思うんですけど。
メディアは出してますけど、まだ全然宣伝とかしてなくて、一応出してはいるんですけれども、
4月からスタートの予定なので、それに合わせてもう少し宣伝活動もやっていこうかなと思ってますけど。
すごいですね。もうなんか着々とね、その引退宣言されてから1ヶ月で、もう次は始まろうとしてるみたいな。
まあ、なんか次にやりたいことが見つかったから、なんかパッと辞めれたみたいなところはあったかもしれないですね。
これ多分次がなかったらもう少し渋ってたのかもしれないなっていう気はしますし、
なんか無理やり自分のケツ引っ叩いてやりたくない作家をやるみたいなことになってたかもしれないですね。
結構時間かけて考えたから、うまくスライドできたっていうか、移行していけた感じはあるのかもしれないですね。
なるほどね。そっか。
なんか、これどこまで聞いていいのかちょっとわかんないですけど、結構、そのしそふれの中とかでも断片的にエピソードを聞いてきたと思う。
確かね、初回とかで、代表は日本代表だったけど、自らもう降りてとかいう話とかもあったと思うんですけど、
結構そういう作家人生の中で、自分で決断してこういうことをやったっていうのは何回かあるんじゃないかなと思うんですよね、大きな決断みたいなの。
そういうのを聞いていきたいですね、時系列で。大きな決断1、みたいな感じで。
大きな決断1?
なんだろう。
例えばドイツに行くみたいなのって流れだったんですか?大きな決断ですよね。
そこが多分一番最初だと思います。
どういう流れで行く流れになったんですか?
大学卒業と同時に行ったんですけど、4年生になると進路を考えるじゃないですか、必然的に。
やっぱりプロサッカー選手として、それを仕事にしたかったので、それ以外の仕事には絶対つきたくないっていうふうに思ってたので、
その時所属していた日本のチームで、大学卒業したらプロにはなれないっていうふうに言われて、
だったら海外に行くしかないっていうふうになって、大学4年になってから、自分で当時DVDですか、DVDに自分のプレイ映像を編集して、
そのDVDを作って、それを海外のチームに送るっていうことをやってて。
すごいね。めちゃくちゃすごいじゃないですか。自分で売り込んだんだ。
そうです。その当時まだ日本がワールドカップで優勝する前だったので、日本の選手なんて誰も注目してないわけですし、
女子サッカーがまだプロとしてそこまで確立してない時代だったので、プロとしてプレイできる国っていうのも限られていて、
アメリカかドイツかもう一個どこかみたいな感じだったんですよ。
なのでアメリカにはもう既に日本人の選手が何人か行ってたので、当時はもう。なのでじゃあ誰も行ってないドイツに行こうって思って。
その発想こそですね。何人かいるアメリカに行こうということで、誰も行ってないドイツに行こうと思ったんですね。
誰かと一緒のことをやるっていうのが昔から嫌いで、いつも自分が一番新しいのが好きみたいなところがちょっとあって、
その方がオリジナル感もあるし、よくわかんない理由があって。
それで自分でDVD作って送って、返事があったところの練習に参加しに行って、それで2つほど練習参加しに行って、
一つはちょっとみんな下手くそすぎてやめて、もう一個行ったところは練習参加せずにすぐに契約書見せられて、急にサインしました。
なぜか。もうドイツ語がわからないし、代理の人もドイツ語わからないし、いきなり契約書見せられて、え、サインすんの?みたいな。
え、この展開大丈夫?みたいな感じだったんですけど、その当時このチームはドイツで一番強いチームで、
だったので、こんな機会ないからサインしちゃおうと思ってサインしました。
何書いてるかわかんないけどサインしとこうって。
わかんないけどそう。
いや、その行動力がまずやっぱすごいですよ。サッカーの自信があっても、ドイツ語全くわからないのにドイツに行ってサッカー練習してサインするんでしょ。
勢いありますね。
そう、それで一旦日本に戻って、いろいろと荷造りをまたして、またドイツに渡るっていうことをやったんですよ。
でもドイツ語わかんないんでしょ?
わかんないですよ。
一人行ったんですか?ドイツって。
2回目はもう一人ですよ。一人で行って。
すごくない?何もわからんのに急にチーム入って。サッカーのもちろんルールわかるけどさ、その交わされる言葉わかんないじゃないですか。
わかんないですよ。
何言ってんだろこいつみたいなことやるわけじゃないですか。
そうなんですよ。だからその当時なんかインターネットとかもあんまちゃんとしてなくて、スマホとかもないし。
ないですよね。
だらけなんで、行って1週間ぐらいとはもう疎遠で日本の人たちと。
なんかもうひとつは家でもやることないし、ひとつはなんかドイツ語の勉強するとか、そんな感じの生活を送ってましたね。
それメンタルどんな感じだったんですか?僕だったらもう早々に負けちゃいそうですけど。
でもその目的があってちゃんと言ってたので、自分の中で。
やっぱり成功するまで日本には帰らないって自分で決意して、その当時覚えてるんですけど。
っていうのをブログに書こうかなと思ったんですけど、その当時のブログも全部残ってるんですけど見返してみると相当ちゃんと覚悟を決めていったんだなって感じはしてましたし。
すげえな。
結局何をもって成功かはわからないんですけど、結局ちゃんと日本に帰らずに海外のまま終えましたね。
面白いなあ。それでドイツ何年いたんでしたっけ?
6年半です。
どのあたりからコミュニケーション可能だなっていうレベルになってきたんですか?
あ、でも3ヶ月ぐらいですね。
あ、そんなんでなるんだ。
でも3ヶ月ぐらいで急にドイツ語のインタビューを受けさせられて、ドイツ語でインタビューを受けて、1年後にはテレビのインタビューかなんかも受けさせられて、なのでだいぶ早い方だったじゃないですか?語学に関しては。
早いよね。3ヶ月とか1年でそうやってインタビューに答えられるって。
週に3回、1日4時間語学学校に行かさされてたんですよ。
あ、なるほどね。
強制的に。
で、フリータイムが全然なくって、そのチーム結構厳しいチームだったんで、週に2回午前午後って練習がある日があって、それ以外の午前練がない日に4時間学校ぶち込まれるみたいな。
もう1日私は学生やってる気分なんですよ。毎週毎週。自分の時間がないので。
だから詰め込みな感じで上達したのかなと思いますけれども。
ものすごい環境やな。
今思うと。
すごいですね。確かにおっしゃる通り、今戻ってやれって言われたらしんどいみたいな、そういうことですね。
戻り無理。
そっか、最初のじゃあそこのジャンプがものすごいまず勇気も出したし、やり切ったところが大きかったんですね。
そうですね。その一番最初が一番多分成功っていうか結果をしっかり出したというか、結果を出すために行ったので、そこに対するコミットメントがものすごかったので。
だから辛いことすらも辛いっていうふうに思ってられないし、そうやって自分に言い聞かせて、全てをネガティブな方向に生かさずにちゃんと乗り越えるが前提ですよね、全部。
逃げるじゃなくて乗り越えるが前提なんで。
そういうのがあったから乗り越えられたみたいなところはあると思うんですけど。
てか、日本代表ってその間に日本代表があるんですかね。
そうです。
ワールドカップ優勝は。
その間に優勝があります。
そこら辺のなんかエピソードとかもあったりするんですか。
あんま私ワールドカップ優勝にいい思い出ないんですよ。
で、私のタイプは自分が納得するかどうかが重要なんですよ。チームが結果を出すことよりも。
で、またいつかのね、お話ありましたけど、その次のワールドカップでしたっけ?
なんかすごい過密なスケジュールだとかなんだとかで。
それは、次のワールドカップの後のオリンピック予選ですね。
オリンピック予選か。なんかすごい過密スケジュールで、なんじゃこれみたいな。
あれもひどかった。あれもひどかったよ。あれ何だったんだろうって。
誰もなんか分かってないですよ。うやむやにされて終わりました。
日本女子サッカー協会が組んでるんですか、スケジュール。それとも世界が組んでるんですか。
いや、あれはアジア予選なので、おそらくアジアと日本ですね。
日本がホームだったので。詳細は分からないですけど。
もうほぼ休みがないっていうか、疲れが溜まってる状態でどんどんやっていくような、
むちゃくちゃなスケジュールだったみたいな話でしたよね。
その後あれでしたっけ、もう代表はやらんって言って。
その前にちょっと私、そこの予選敗退が決まって、リオオリンピックに行けなかったっていうタイミングで、
試合の後にインタビューがあるじゃないですか。
私は結構カメラのインタビューに立たされる人だったので、
そこで私言ったんですよ。
教会もファンも全ての人が含めて、ちゃんと勝つ気でやらないと、
これは選手だけのせいではないし、そういった全員がしっかり協力しないと、
こういう予選は勝てないんだっていうことを言ったら、
お前はファンのせいにするのかとかって言われて。
なんかXみたいですね。
今のXを見てるかのようなクソリップじゃないですか。
クソリップがめっちゃ飛んできて。
多分それなんかカットされたんでしょうね、テレビとかでも、前後を。
で、そのちゃんと戦える準備ができている選手もいなかったみたいなことも言ったんですよ、ちょっと。
気持ちの部分で足りてなかったみたいな。そういうところも影響してたと思うんでね。
ことも言ったら、お前は人のせいにするのか?って。
インタビューに答えただけですけどね、なんか聞かれたことをね、自分の意見を。
ダメなの?人のせいとかじゃないよ、これっていう。
いろんな要因があるよって話をしてるわけですよね。
そうですよ、はい。
で、やっぱ日本人って、そういう負けた時のインタビューって、美学的に私のせいですみたいな、私の責任ですみたいなことを言うことを盲目的に求めるところがあるじゃないですか。
ありますね、会社とかでもそんな感じありますよね。
あれやったところで意味ないじゃないですか。
意味ないですね。
で、解決すべき原因っていうのは、自分じゃなくて全てのものにあるから、そこをちゃんと一つずつ見ていかない。
解決はしていかないよっていうことを伝えたかったのに、そういうふうに捉えられるみたいな。
なるほどね。
そっか、リオの予選だから、リオオリンピックが2016だから、ちょっとその前ぐらいだと思うんですよね。
14、15とか。
そうです、16年の同じ年に予選があったので、3月かな。
オリンピックが夏で、そうですね、ちょうど半年ぐらい前になって。
2016年からやっぱりその、そういうね、クソリプンみたいなのは飛び交ってた。
クソリプンすごかったです。で、ちょうどそのワールドカップ準優勝で2015年。
で、その後に本を出さないかっていう依頼を受けて、で、本を書いてたんですよ、一緒に。
いろんな方たちに協力してもらって。で、そのリリースをそのオリンピック予選に合わせてやろうっていうふうに言ってて。
で、結果がやっぱ散々になっちゃって。で、そうやって私も叩かれてしまって。
で、けどね、本も出版、本を出版するしみたいなので、あんまね、売れなかったと思うんですけど。
で、ちょうどその一週間後に離婚するってことも発表して。
はい。いつの間に結婚したんですか?
それは離婚されたことは存じ上げてますけど、いつ結婚したのか全然わからなかった。いきなり離婚したんだけど。
結婚したのはワールドカップの後です。ワールドカップ優勝した後です。
で、その離婚のタイミングも重なってて、でもその本はその旧姓の方で、旧姓じゃないよ、その前の苗字の方で名前は書いてあったから。
で、じゃあ離婚するってなって、それも全部台無しになっちゃって、みたいな感じで。
散々だったんですよ、タイミングが全部あそこ。
それ結構精神的に来ました?
あそこ、来ましたよ。だってサッカーどうしようかぐらい悩んでましたもん。
10年前だから、そっか。でもまだ20代ですもんね、全然。
そうですね、まだ20代です。28、29あたりですね。
そっか、サッカーどうしようかレベルで迷って、でも乗り越えたんですね。
それもまた乗り越えましたね。なんかでも一人じゃ乗り越えられなかったかな、その時は。
なんか、当時フランスのニースっていうとこに住んでたシェフ、松島圭介っていうシェフがいて、
その人を知人に紹介してもらって、その人に会いに行けって言われて、会いに行ったんですよ。
落ち込んでる時に、会いに行けと。すごいね、面白いね、映画みたいだね。フランスのシェフに会いに行けと。
会いに行けと。
で、その前にもメッセージとかでね、ちょっとやりとりはあって、それで会いに行けっていうことだったんで、実際に会いに行って。
で、結構そこの現実から逃避したくなるような現実だったんで、めちゃくちゃ逃避してたんですよ。
で、その時所属していたチームがフランクフルトっていうチームで、そのチームでもうやる気出なくて、
で、やる気出ないから、やる気ないのが監督にも伝わって、で、試合にも出れないみたいな感じになって。
いやもう、踏んだり蹴ったりですね。
踏んだり蹴ったりですよ。
そんでそんな状態の時に、その現実に向き合わせさせられて、その人に。
で、生きる、作家をする目的っていうのをもう一度見つけ直させてくれたみたいな感じ。
それは結構どういう感じだったんですか?優しい感じだったのか、割と厳しいことを言われた感じ?
厳しい感じですよ。
そうなんだ。厳しい感じですよ。
グサグサ突き刺してくる感じですよ。
痛いとこついてくる感じ。
わかってんだよそれは、頭の中でっていうことを言葉にしてあえて言ってくるみたいな。
だからその人たぶんいなかったら普通に逃げてたと思います。
へー、すごいね。そんなことあるんですね。シェフに会いに行って、現実と向き合うようになったって言って。で、また戻ったんだ。
はい。で、そこからコミュニケーションの取り方とかを変えて、監督との。で、自分がちゃんとやる気があるっていうことをしっかりと伝えて。
で、プレーでもそれをしっかり見せて、で、徐々に立場も変わっていって試合に出られるようになったってのもあったんですけど。
そこからですね、監督とのコミュニケーションだったり、自分をどう見せるかっていうのがいかに重要かっていうことを学んだのは。
そうですよね。さっきの話で言うと、日本代表とかでも自分のプレースタイルでやりたかった、で衝突したみたいな話もあったから、
なんかその周りとの調和みたいなのが、その辺からかなり意識的に通るようになったみたいな感じなんですかね。
あんまり監督とかとコミュニケーションとるタイプじゃなかったので、その辺りから多分通るようになったと思います。
うーん。なんかひとつじゃあ、超えた感じがあった方がいいですね、壁を。
ひとつだけちょっと、はい。
そこからどうなっていくんですか、2016からは。
2016も、まあそんなね、いいシーズンではなくて、で、ちょっと契約も切れるっていうのもあって、で、一番ほぼ2016年の日本代表としてプレーした最後の試合がアメリカだったんですよ。
はい。
で、そのアメリカ遠征に行ったときに、そのドイツ時代、一番最初に行ったチーム、ドイツで、そのチームのチームメイト、元チームメイトですね、がアメリカ代表のゴールキーパーでいたんですよ。
で、その選手はアメリカでプレーをしていて、アメリカのクラブチームで、で、そのときに誘いを受けたんですよ。
アメリカおいでよ。
で、その選手が多分クラブに行ってくれて、で、次の年にそのチームに移籍したんですよ。
そんなことあんの?
そんなことあんの?選手がクラブに掛け合ってくれて、なんかちょっと検討されるみたいなことってあるの?
うん、なんか、うんうん。
なんかその、当時結構その、ね、監督、クラブチームでもその監督と選手とのその関係性だったり、クラブのオーナーだったり、
その選手をリクルートするのって結構選手だったんですよ、女子の世界って。
ああ、そうなんだ。
友達つながりみたいなので、こう選手をリクルートしてくるみたいなのがあって。
はいはい。
で、それでリクルートされていったっていう感じですよね。
面白っ。
ちょうど環境を変えたかったっていうのもあったんですけど、タイミング的に。
もうドイツ行くかなって、アメリカにも行きたいなっていうのは思ってたので。
うんうんうん。
いいタイミングかなと思って。で、それで環境を変えたっていう感じですね。
そこからなんか結構、あの、生きる目的について考えるようになったかもしれないですね。
そう。
それはどういうことですか?なんか心に余裕が出てきたみたいな感じなのですか?
それもあったし、今代表も辞めてるので。
で、アメリカ人のその生き方とか、あり方とか見てたら、
何だったんだ、私の今までの人生みたいな、ちょっと思い始めちゃって。
結構なんか、サッカー一筋思い詰めてみたいな、そこに対しても全力でみたいな感じだったけど。
で、厳しくしなきゃいけないし、みたいな感じだったけど、
アメリカの人たちって、なんかそこまでサッカーが全てじゃないみたいな感じなんですよね。
選手であってもどうですかね。
選手であっても。その、選手ではあるけど、その前に人としてのライフがある。
はい。
そこを大切にするところがちょっとあったので。
で、それで考え方も少しずつやっぱ変わっていって。
で、今までは、それまではその結果を残すために、とにかくやらなきゃいけないだったのが、
その自分が感じる喜びを満たすためにやるっていう方向に変わってたんですよ。
なるほどね。
結構その外的なものから、その自分の中の方にシフトしていったんだ。アメリカに行ったものから。
はい。その、そこからですね。はい。
で、プレー自体はそれでどうですか。そこからその。
変わっていきましたよ。
変わっていったんだ。
で、そのポジションもそれによってやっぱ変わっていったし、フォワードだったのが中盤にね、こうなってみたいな感じになって。
今まではね、得点、もちろんアメリカでも得点でアシスト求められてたんですけど、それ以上になんか、その、違う能力を求められるみたいなことの方が多くなって。
はい。
で、別にそのゴールを目指さなくてよくなったから、で、そこまでその毎回ね、変にこうプレッシャーを感じずにプレーできるようになったし、楽しくちょっとプレーできるようになっていったっていうのはありますよね。
へー。
結果別に残さなくていいんだって。
それでも結果にはそういうのにはこだわってましたけど、そんな昔はこだわらなくなりましたけどね。
昔がむしろなんかものすごい。
ものすごかったです。
プレッシャーの中でやってたってことですよね。
ゴール決めなかったら私はプレイヤーとしての価値観がないって思いながら生きてたんで。
すごいですね、やっぱり。
究極な感じの思考回路だったんで、そこからちょっと解放されましたね。
でもそれぐらいの感じじゃないとやっていけない厳しさもあったってことですもんね、その当時は。
自分の中では感じてました。
そこまでする必要なかったのかもしれないですけどね、実際のところは。
じゃあもうそこからは割と順調に楽しくサッカー生活を送ったみたいな感じになっていくんですかね。
そうですね、そこから3年、コロナ騒動が始まる前。
そっか、コロナの時とかどうしてたんですか。
アメリカにいましたね。
結構な騒ぎだったでしょ。
そうなんですよ、それでその年も1ヶ月間のトーナメントだけで終わって、やることないじゃないですか、そうなってくると。
なのでプレイ機会を求めて、その時日本に行ったんですよ、男子のチームでプレイするっていう。
記事読みましたよ、男子のチームに所属しましたよね。
あれコロナの時でしたっけ。
あれそうなんですよ、2021年、2020か2020ですね。
そういうこともやったりとか。
それ知らない人もいると思うんで、ちょっと教えてもらっていいですか。
なぜ男子のところでプレイをしたのかとか、そこでどんなことをやったのか。
これはね、1つ私が叶えたかった目標の1つだったんですよ、男子の中でプレイするっていうのが。
で、実際に記事にもなってるんですよ。
2010年ぐらいのサッカーダイジェストに、いずれは男子の中でプレイしたいです、みたいなこと書いてあって。
で、ちゃんとこれも表に公言はしてたんですよ。
で、そのタイミングがずっと来なくて、頭の中にあったんですけど、ここじゃないかと思って。
で、当時ね、お兄ちゃんが日本で神奈川県にリーブリーグでプレイをしていて、地元の厚木市で。
このチームだったら受け入れてくれるんじゃないかと思って。
で、それで話をしてみたら、お、いいじゃないかっていうふうになって。
街を盛り上げる意味でも絶対注目度は高まるし、みたいなプレイ云々のところは。
そういった感じで実現して、世間を騒がしてしまったみたいなところがあったんです。
そんなつもりなかったのに。
それはどの観点ですか?
アメリカから日本に来て、この時期にサッカーしてるみたいなことなのか、男子の中に入ったってことは、いろいろでしょうけど。
男子の中に入ったことです。
それどうでした?プレイしてみて。
男子の中でやっぱり身体的な違いとかがどうしてもあると思うから、身体能力というかね。
その中でどう感じたんですか?
膝の怪我をしていて、ちょうどその時、100%の状態でプレイできなかったんですよね。
それが一つ心残りなんですけれども。
でも、やってみて思ったのは、身体的な差はあるけれども、その判断の部分と、
判断力の速さとポジショニングと技術の高さで、それはカバーできるって思いました。
本当?そうなんだ。面白い。
それはでも出るポジションにはよると思うんですけれども、それで全然カバーできるっていうふうに思いましたし、
ただ本音を言うと、神奈川県2部リーグの選手なので、そこまで認知レベルが高くないんですよ。
チームメイドとプレイしてても、スペース認知だったり、認知の速さがやっぱり遅いので、
その連携の部分でちょっと難しかったなっていうのがありました。
なるほどね。ドイツだったら、このタイミングでそこ走っとるぞみたいなやつがないみたいなのを出せんわ、そこにみたいなことがあったりしたんだ。
そうですね。ここでもう動き出してるのに出してくれないみたいな。
そういうのがちょっと感じちゃったかなっていうのがありましたね。
もちろんその身体的な速さとか技術的な上手さとかっていうのはもちろんあったんですけれども、
そこの認知の部分、認知の速さと判断スピードの部分は、ちょっと言っちゃわれですけど、私よりは遅かったなって気がしました。
なるほどね。面白いですね。だからやっぱりそこのある種異質なところに入ったがゆえに、
日頃やってることの、例えば認知レベルで言うとすごく自分の方が高かったしみたいなとか、
やっぱ男子の身体能力との違いみたいなこととか、そういうのも肌で感じてたってことですよね。
そうですね。3ヶ月ぐらいしか一緒にやれなかったですけれども、
それでも一つ経験として、このキャリアをコンプリートさせる上であれは必要だった。
いや、そうですよね。その選手あんまりいないでしょ。男子サッカーでもプレーをして、そこの経験っていうのは。