クマと人間の対照性
おはようございます。ライフバランス×タスク管理コーチのしろうずあつしです。
この放送は、コーチ歴21年の僕が、行動家具やコーチング、そしてライフバランスやタスク管理について、
仕事も生活も大切にしたい、あなたに向けてお届けする番です。
はい、土曜日ですね。土曜日は、今週ね、僕の近況とか、今週考えたことはね、
まあ、結論のない話ですけど、ちょっとお話ししようかなというふうに思いますね。
最近、クマがね、人を襲うニュースとかいうのがよくあるじゃないですか。
で、まあね、クマ大変だと。で、亡くなる方とかもいてね。
で、一般的には、人間が自然をね、破壊したから、クマが里に降りてきたと。
そういうふうなね、認識の人が多いと思いますし、僕もそういうふうに思ってたんですよね。
まあ、思ってたというか、思ってるんですけど。
森が痩せてしまって、餌がないから仕方なく人間の生活圏にクマが出てくると。
で、人間に危害を加えるからね。クマはもう処分せざるを得ないと。
だから、自然とのバランスをうまく取りながらね、うまくゾーニングしてやっていく必要があるよねっていうのが、
大抵の人はね、そういうふうに理解しているんだと思うんですよ。
でね、中澤真一さんっていう文化人類学者、宗教学者の人がいて、
その人がクマから大江っていうね、クマから大江っていう本を書かれてるんですけど。
そこに対照性っていうふうな概念が出てきて、
ああ、なるほどなっていうふうに、改めてちょっと思ったんですよ。
クマから大江っていう本っていうのは、大学の講義が元になっているんで、
比較的ちょっと読みやすいんですけど。
対照性っていうのはどういうことかというと、
自然と人間っていうのは、同じように世界を理解している存在として扱いましょうっていう視点なんですよ。
自然っていうのは、象徴としてのクマっていうこともあるわけですけど。
要するに、クマも人間も同じように世界を理解している存在として扱いましょうっていうふうな、
そういうふうな視点が書かれているわけです。
どういうことかというと、人間は自然を管理しましょうっていうふうに考えるわけです。
ゾーニングするのも人間の安全のため。
そっちのほうが、動物たちにとっても、要するにクマにとってもそっちのほうがいいじゃないかと。
警官法だったりとか、それを守るべきだみたいなね。
だけど、そうじゃなくて、実は人間っていうのは自然のことはあんまりよくわかってないんだと。
でもクマは人間よりも自然のことをわかっている存在ですよと。
自然には、自然という世界の論理があるわけですよ。
人間がこうしたいと思う文明の意思、文明の考えと同じように、自然にもちょっと人間には理解できない概念がちゃんとあると。
で、それをね、ちゃんと並列に扱いましょうというのはね、このね、中澤新さんが書かれている対照性っていうふうな考え方で。
人間社会における対照性
僕それ読んでて、なるほどね、クマとかね、自然とかとの共存共栄っていう考え方が、実はそれも非対照性なんだなっていうのがね、ちょっとね、思ったんですよね。
つまり共存共栄という考え方そのものがもうすでに非対照的ですよと。
人間の側からしか見てない考えなんだと。
つまり人間がうまく栄えるためのね、共存であって、自然っていうのは別にね、なんか栄えたいって思ってるわけじゃないわけですよ。
価値基準が違うわけです。
だから人間側がね、まあ人間というか文明側がね、これがバランスだよねって勝手に決めてて、全然対照的じゃなくて。
だからそのね、この対照性っていうのが崩れると関係が壊れてしまう。
だからクマが襲ってくる。
対照性が崩れたわけだから。
だから、あーなるほどな、対照性が崩れてるっていうことが原因なのかもしれないなーなんていうふうにね、この本を読みながらちょっと思ったんですよね。
で、同じようにね、これってね、人間社会の中でも、社会の中でもね、普通によくあることなのかなとちょっと思ったんですよ。
あの、バケバケっていうアサドラがあるじゃないですか。
で、あの中でね、元武士の家っていうのが文明改革でね、落ちぶれていくっていうふうな話があるじゃないですか。
で、武士っていうのはエリートなわけですよ。
でもエリートって別に、なんかこうすごい家に生まれました。
それから勉強がたくさんして、いろんな勉強ができますよ。
っていうからエリートというわけではなくて、
全体を考えて、ちゃんとね、公のために尽くす人っていうふうなことを一般の人がそういうふうに思うから、
そういうふうな存在にしているから、
人々はお侍様みたいな形で敬ったわけですよ。
まあ、待遇が良かったのも当然その結果なわけです。
でも、もし武士がね、エリートが、
俺はエリートだぞと、お前ら庶民とは違うぞというふうな態度を取ったら、対照性が崩れるわけですよ。
で、だからそれで整っていった関係が崩れる。
だから敬意は消えてしまってね。
で、あのドラマの中でも、
侍がなんだみたいなね。
お前、金持ってねえじゃないか。働け!みたいなね、そういうふうな話になるわけですよ。
で、そのね、ちょうど一週間前の土曜日、先週ね、
僕はタスクシュートのマスター講座っていう講座の講師をやってたんですけど、
その時はね、やっぱりすごく自分の態度っていうか、どういう姿勢で参加者の人に、
接しようかっていうふうなことは、自分なりに気を配ってたんですよ。
先生だからすごいね、教えるね。講師側の先生だから偉いよと、教えてやる立場だよと。
だからみんなが知らないことをね、俺が教えてやるよみたいな、
そういう空間を持ち込んじゃいけないなっていうふうに思ってたんですけど、
でもこういうことをわかってほしいなとか、こういうふうなことを伝えないといけないなっていうふうには、もちろん思ってたんですよ。
だけどね、それはあくまで僕の方がそういうふうに思ってる。
そうした方がいいんじゃないかっていうふうに思ってやってるわけで、
必ずしもそれは対照性の中にいるんじゃないというふうに何となく思ったんですよ。
だからもっともっとね、例えばその受講生の人もね、みんな経験もあるし知識もあるわけで、
僕よりも知らないこととかね、いっぱい知ってるわけですよ。
だから価値のね、軸が違うだけで、対等なわけですよ、あくまでね。
で、もちろんね、それをね、意識していると、意識していたつもりももちろんあったんですけど、
で、何となく自分でね、うまくこう、自分が何をしようとしてるのかなっていうのはちょっとうまくわからなかったんですけど、
あ、そうか、自分はね、対照性っていうのを作ろうとしてたんだなっていうことにね、ちょっと気づいたっていうふうなことなんですよね。
だからね、その講師とね、参加者の関係を、上下関係じゃなくね、学び合う者同士の対照な関係として保っていこうというふうに、
その場を調整して、空気を整えてね、話の運び方っていうのを考えて、
あ、なるほどね、僕自身はこれをね、無意識にね、ちょっとね、目指していたのかなっていうふうなことがね、
ちょっと言語化されたなっていう感じをちょっと受けたっていうことなんです。
自然と人間、つまりエリートと庶民、講師と参加者、実はどっちもね、全部ね、同じ構造で、
講師と参加者の関係
やっぱね、対照性が崩れた瞬間にね、僕は関係が壊れるというふうに思うんですよ。
だから、相手をね、これは、講師と参加者、それからエリートと一般、それ自然と人間っていう、
どんな場合でも、相手を、この世界をね、分かっていない存在っていうふうに扱い始めた瞬間に対照性は消えていくというふうに、
まあ僕はね、なんとなく感じたんですね。
そうじゃなくてね、ちゃんとね、相手も自分とね、同じようにね、世界をね、理解している存在だっていうふうに扱うと、
その態度があるとね、うまくね、関係がね、穏やかに保たれるし、
お互いにね、いいものがね、関係性が保たれて、いいものを交換できるんじゃないかなっていうふうにね、ちょっと思いましたね。
まあ抽象的なんですけどね、だけど、こちら側から見た、おそらくこうした方がいいですよとか、こういうふうにした方があなたにとっていいですよねなんていうのは、
あくまで一方的な見方であって、そうじゃなくて、相手側から見るとね、またちょっと違う軸で価値観ができているよと。
そこを考えた対照性っていうことをね、考えるっていうのはね、大事なんだなっていうのはね、ちょっと今週思いましたよというふうな、そういうお話でした。
あんまり結論なかったですけど、対照性っていう話でした。
今日はですね、対照性っていう話でした。いかがだったでしょうか。
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はい、本日は以上です。最後まで聞いてくださってありがとうございます。
お相手は白渦厚志でした。
では、いってらっしゃい。