This is ReinaMoro's Podcast. 世界のクリエイティブ思考
Hi everyone. This is ReinaMoro. 皆さん、こんにちは。
ニューヨーク、東京、シンガポールを拠点にするグローバルイノベーションファーム、I&CO共同創業パートナーのレイ・イナモトです。
この番組では、世界で活躍するトップランナーのクリエイティブ思考に迫り、21世紀を生き抜くヒントを探ります。
さて、今回のゲストは、石川県金沢市出身で、ブロードウェイ俳優として活躍する裕水美奈美さんです。
美奈美さんは、18歳で演劇を学ぶために都米し、演劇学校を卒業。
その後、一旦日本に帰国をして、劇団式に入ったんですが、それでもブロードウェイの夢を捨てることができず、
その後、またアメリカ、そしてニューヨークに行かれて、なんと87回のオーディションに落ち続けても諦めず、88回目の正直で初舞台を踏み、
これまでに王様と私、ミスサイゴン、マイフェアレディなど、本当にメジャーのブロードウェイのミュージカルに出演されています。
今日から始めるショーアップの習慣、選ばれなかった私のそれでも折れない心の作り方、という本も出版されていて、
今日はそれにちなんで、折れない心の作り方をテーマにお送りします。
So, let's get started.
ミナミさん、初めまして。
初めまして、レイさん。
突然のリクエストをご開催いただき、非常に嬉しいです。
こちらこそ、とても嬉しくて楽しみにしておりました。
ちなみに今日はニューヨークにいらっしゃるんですよね。
はい、今日はニューヨークから参加させていただいてます。
ちょっと、ミナミさんの方から簡単な自己紹介をしていただければなと思います。
はい、ありがとうございます。
ユースイ・ミナミです。
私は長年、ミュージカルの本場、ニューヨークですね、ブロードウェイにいて俳優として活動しております。
日本でもですね、劇団式で3年間在籍させていただいて、その時はアメリカの経験も買っていただいて、俳優としてオーディションして入団したんですけれども、
翻訳ですとか、演出助手だとか、作る側でも関わらせていただいたんですが、やっぱりブロードウェイの舞台に立つ夢が諦められなかったので、
もう一度戻ってきてですね、再飛べをして、おかげさまで2015年に渡辺健さん主演の、
王様と私という作品でブロードウェイデビューをさせていただいたんですね。
その後も、ミス・サイゴン、マイ・ペア・レディーですとか、ブロードウェイで舞台に出演させていただいているんですけれども、
今年の3月もニューヨークで舞台に出演していたんですけれども、俳優業と並行して、Uプロジェクトという事業も通してですね、
これまで約10年間、講演会、セミナーですとか、オンラインプログラムも提供していまして、
一人でも多くの方が自らの可能性を実感して、前向きにチャレンジを続けるお手伝いをさせていただいています。
僕、ニューヨークにもう合計で25年くらい住んではいるんですけれども、
妻はすごくミュージカルとかブロードウェイのシアターが好きで、よく行っているんですけれども、
恥ずかしいことに、僕あんまり行くタイプではないんですね。
本当にド素人で、ちょこちょこと妻について行ってみには行っているんですけれども、
そもそもすごく初歩的な質問かもしれないんですが、
外国人じゃないですか、ニューヨークに来るっていうことは、
それのハードルっていうのは結構高いんじゃないですか。
そうですね、やっぱり10代の強みというのは、
私は高校まで石川県金沢市で育って、中から18で都兵衛したんですけれども、
10代の強みは怖いもの知らずというか、あまり多分今のデータですね、
何パーセントの人が実際に舞台に立てるのかとか、
そういうところを具体的に調べたら、あまりにも果てしなく遠い夢に感じていたと思うんですけれども、
当時は本当に自分の漠然とした憧れですよね。
ミュージカルもする場所も、見る場所も金沢にはなかったですけれども、
テレビで見てその世界に憧れて、本当にワクワクをたどってですね、
どうやったらそこに近づけるんだろうっていう、
怖いもの知らずなのは10代で飛び込んできた甲斐があったなとは本当に今も思いますね。
そういうところから言うと、俳優になろう、ブロードウェイに立ちたいというふうに思われたきっかけだったりとか、
今の仕事につながるターニングポイントっていうのはどこにあったんですか?
これまでターニングポイントは本当にいくつもあったんですけれども、
やっぱり舞台いきなり俳優になりたいというのを決めきっていたわけではなくてですね、
やっぱり漠然とした憧れからどうやったらまずはアメリカに行くですとか、
英語も好きだから英語が使えるアメリカの大学に行くだとか、
本当に進みながらだんだん焦点を明確にしていったというか、
最初からもうミュージカル俳優になりたいっていうのが決まっていたわけじゃないんですけれども、
断然オーディションの合格率がグッと上がるきっかけになった出来事を、
今日はぜひ共有させていただきたいなと思っていたんですけれども、
やっぱりアメリカに戻ってきて、激難指揮をお世話になりましたといって対談して、
もう一度再チャレンジするのにアメリカに戻ってきて、
オーディションをいっぱい受けるわけですよね。たくさんたくさん受けて、
もう来る日も来る日も。
ある日ですね、シカゴという、ブロードウェイではなくて、
アメリカは全米に素晴らしい劇場がありますので、
それはノースキャロライナーにある劇場の作品だったんですけれども、
もうたくさんの人たちがオーディションに来ていてですね、
4人一グループで踊るんですけれども、一通り踊った後にですね、
演出家が他に特技がある人は言ってって言われてですね、
踊って歌ってお芝居するだけじゃダメなのかって思うんですけれども、
やっぱり才能あふれる人たちがアメリカには多いので、
私はなんか炎を操りますだとか、炎を飲み込みますだとか、
すごい技を持った人たちがいっぱいいるわけですね。
私はそんなものはないと思ってですね、
冗談混じりに日本語を話すけどという感じでですね、
冗談で言ったらその会場が湧いたので、
それぐらいどうせ多分このオーディションも受からなかっただろうなと思って、
その日はまた別のオーディションに行ってたわけなんですけど、
その夜にコールバックですね、月の審査に進むお呼びがかかってですね、
はぁと思って、課題もとっても難しくてですね、
たくさんのセリフを覚えなきゃいけない、
そしてシカゴ独特の鉛でやってくださいという課題だったので、
私はもう英語のスタンダードですね、標準もままならないのに、
それでシカゴ鉛なんて無理に決まってると思ってですね、
自分ができないことをリストアップしていったら本当にキリがなかったんですけども、
ある時ですね、天気となる逆転の発想で、
What is it that only I can do? 私にしかできないことってなんだろう?
っていう180度を転換させて自分に問いかけた時にですね、
そういえばあの会場で多分日本語を話すのは私だけだなと思ってですね、
じゃあ日本語だとどうなんだろうと、
自分の日本人らしさを前面に出してみたら、
どんなことが起きるんだろうということで、
リサーチをしたらですね、この作品の中で一人外国人の役があったので、
シカゴの中で、
はい、シカゴの中でハンガリー人なんですね、
そのハンガリー人がもし日本人だったらどうなんだろうと言ってですね、
自分の中でイマジネーションを広げて、
実際にですね、1920年代ですね、
物語の設定である1920年代に、
シカゴに日本人がいたっていうのをデータで自分で調べてですね、
日本人がいたので、それはもうあまりかけ離れた話でもないと、
見てもおかしくないと、
で、モノローグをですね、
ハンガリー人が、ハンガリー語でやっているのを英語役を見つけて、
これで激難式での経験が役に立ったんですけれども、
それを今度は日本語に訳して、
それをデータと元にオーディションを持っていってですね、
言われた課題も練習してきたけれども、
こういう提案もありますと、
私は日本人だし、そのオーセンティシティを使って、
日本語でこの役を作ってみたんだけど、聞いてもらえますかと、
そしてその当時には日本人もいましたというデータも持って、
歴史的な、ちゃんと事実もあって、
持ってハイライトして、そのデータをプリントアウトして持って行ったんですよ。
聞いてみようじゃないかと言って、
演出家が聞いてくださって、で終わった後にはジーニアスと言ってですね、
おかげさまでそのオファーをいただいて、
その役を日本人に変えてくださったんですね。
その時に本当に思ったのは、
本当に自分ができないことをいつまでリストアップしたの、
本当にキリがないですけれども、
本当に自分のコンプレックスに思ってたことが、
実は強みにもなるんだなっていうのは、
本当に物事っていうのは捉え方次第だなって思った時に、
その後のオーディションのショーアップの仕方ですね、
オーディションにどう自分が望むか、
その参加の仕方も本当に変わってですね、
謝るアポロジェレックな、ちょっと申し訳ない自分は、
外国人だし、英語ネイティブじゃないし、身長も低いし、
じゃなくて、自分ができないことじゃなくて、
自分はこういう日本人で、
美味しいお魚を食べて、金沢で育った日本人ですっていう、
自分らしさを全面に、フルにですね、
尊重して、オーディションに臨めるようになると、
自分が自分を肯定して、肯定的に提示できると、
受ける側の印象もとても変わりますので、
それからオーディションの合格率も圧倒的に変わってきましたね。
でも、その今のシチュエーションだと、
シカゴというお話の中での外国人という設定で、
ハンガリー人だったんだけども、あえて、
歴史上の事実に基づいて日本人もいたから、
じゃあ日本人でっていうのを提案して、受けられたわけじゃないですか。
その後のオーディションとかは、
自分が日本人であるっていうことをアピールしたんですか?
それとも、そういう経験、
自分らしさが受け入れられるってことを経験を元に、
また何か他のことをやられたり、
その辺どういう感じなんですか?
はい、まさしくそうですね。
別に毎回日本人らしさをアピールしたわけではなくて、
自分はI am enoughと十分なんだと、いつまでもできない、
ネイティブになれたら自分は100%なのかといって、
そうじゃなくて、本当の自分らしさって、
今の状態、ありのままをちゃんと自分がまずは受け入れられて、
あるものなんだって思ったときに、
何かないものを追いかけるのをやめて、
今十分だからこれで今できるものを精一杯提供しようという、
アプローチが変わった、マインドセットが変わったというところですかね。
具体的には、それ以外のオーディションでは、
どんなふうにしてその自分らしさを出すようにされたんですか?
でもやっぱりそれはエネルギー、エナジーで変わってくるんですよね。
どこか自分で引いてしまったり、謝ってる人っていうのはやっぱり、
どんだけ同じスキルセットですよ。
同じ身長で、例えば同じだけ足が上がって回れて、
同じ音域で歌える人でも、
自分を100%受け入れずにショーアップする人、その場に行く人に対して、
100%自分らしさを自分のものとして誇りを持って提示できる方って、
全然アピールというか、受ける側の印象とエネルギーが変わりますので、
そういう意味です。エネルギーって本当にキーですね。
オーディション会場で本当に30秒もいただけない、
オーディション会場でいただけない中で、やっぱり第一印象にしても、
エネルギーってすごく最初に印象として測られるというか、
そこで審査されるというか、それで印象が決まることは大きいので、
そういうところで影響を与えましたね。
じゃあその後、日本人だからではなくて、
南雄水として選ばれるようになった、認められたみたいな、
そういうふうに感じた瞬間ってのはあります?
そうですね。林間センターでですね、
マイフェアレディという作品にキャストしていただいた時にはですね、
そのキャストの中で唯一のアジア人女性俳優としてキャストしていただいたんですね。
設定がイギリスですし、
労働階級と貴族の階級と2つの階級も演じ分けなければならなかったりだとかだったわけなんですけど、
そこでですね、ダンスキャプテンといって俳優をまとめるリーダーのポジションを任命していただいたんですね。
それまでは主に白人男性が任命されてきたポジションでして、
女性でアジア人で、しかも外国人が任命されるということはほとんどなかったですので、
とても珍しいことだったんですけれども、やっぱりそこで勤めて、
林間センターでは王様と私ですね、ブロードウェイデビューをさせていただいた作品も林間センターでしたので、
やっぱりそこでのお仕事を見ていただいて、やっぱりそこでの信頼がやっぱりマイフェアレディのキャストしていただくきっかけにもなったと思いますし、
その後にですね、コロナでブロードウェイが1年半シャットダウンして舞台が一切閉鎖されてたわけなんですけども、
それがブロードウェイ再開されて、今度はナショナルツアーですね、全米ツアーにマイフェアレディで回るというときにですね、
またダンスキャプテンとしてオファーをいただいたときにはですね、やっぱり自分が外国人だから、
しかもマイフェアレディに出演される俳優さんというのは本当に早々たるメンバーで、
シェイクスピアだとか素晴らしい作品でも流暢なスピーチができる方々で、
そんな方々に指導するのが外国人の私でいいのかと最初はちょっと引き気味だったんですけれども、
やっぱりそのときにリーダーシップっていうのはどんだけ流暢に喋るかではなくて、
その聞く姿勢、私はいつでもあなたが何か困ったときに聞きますよという安全なスペースをですね、
いつでも持って待ち受けてますよっていう姿勢を見せること、安心ですね、信頼なんだっていうのをですね、
ブロードウェイで学ばせていただいて、今度コロナで不安な時期にですね、
全米の劇場を回って舞台をしなきゃいけないというときにもですね、またそのときにダンスキャプテンのオファーをいただいたのは、
やっぱりそのときでブロードウェイでやっていたときの仕事を見ていただいて評価していただいたのがあったかなと思うと、
それは必ずしも日本人だからというよりは、やっぱりこれまで積み上げてきた金岩大ですね、
王様と私もそうですし、ブロードウェイでのマイフェアレディでのお仕事がそのときの活動ですとか仕事の姿勢を認めていただいたからなのかなと思いますね。
やっぱりそのブロードウェイだったりとかシアターだったりとか演技、ダンスって外から見ると、
その観客としてオーディエンスとして見るとすごく華やかで、もちろんその肉体的にも精神的にもたくさんの訓練をされて、
その舞台に上がるっていうのはほんの一瞬だと思うんですけども、
多分その白鳥が優雅に泳いでるけど水の水面下ではすごく頑張ってるみたいな言い方があったかわからないんですけど、
辞めたくなるときとか、もうこれをやってられないとかって思うときっていうのはあるんですかっていうのがまず一つと、
あと、そうなったときにどう気持ちを切り替えているのかっていうところをちょっとお聞きしたいと思います。
つらかったです。本当に心が折れました、一回。
あと少し一歩というか、実際実質ブロードウェイもキャストされたんじゃないかっていうところで私は落とされたことがあったので、
その後は本当につらい時期が続いてたんですけど、そのときに9ヶ月ぐらいです。
本当に手の皮も剥けるぐらい、顔から笑顔が消えるぐらい本当につらい時期が9ヶ月ぐらいあったんですけど、
そのとき本当に心もカチコチで、自分の気持ちも向き合わない。
つらいっていう気持ちも見る勇気がなかったので、周りには大丈夫そうに見せる、
大丈夫だよって言いながらいたんですけど、実質も体も悲鳴を上げてたので、
そのときに本当に肩書にこだわりすぎてしまって、
自分はブロードウェイに立てたらOK、立てなかったらダメみたいな肩書にすごく固執してしまって、
執着をしていて、それで自分で自分の首を締めてたんですけど、
一回そこで外してあげて、もう心の底から本当に正直に、
もしブロードウェイに立てなくても自分を受け入れてあげるって本気で言えた瞬間に、
いろんなものが外れて、そのタイミングで実際にブロードウェイのオファーも来たんですけども、
本当に手放したりだとか、自分のそのビッグワイですね、
なんでそもそもこれやってるのか、それはこの肩書のためじゃなくて、
舞台に立つのが楽しくて、その喜びから始まったんだよねっていうところに一回立ち戻るきっかけをいただいて、
それぐらいやっぱり心が折れたからいただいたのかなと思うんですけど、
オーディションで言うと、合格しないまで私は価値がないって言い続けると苦しいんですよ。
もう30回受けたらもうこの業界諦めようって思っちゃうんですよね。
きっと30回やって落ちるたびに、だから私はダメなんだ、だから私はダメなんだ、だったらきっと気持ちは持たないんですけど、
30回受けてる中にも必ずプログレスですね、成長してることってあって、
例えば前よりもちょっとうまく歌えただとか、
例えば演出家が言っている英語が今回は聞き取れただとか、
コールバックですね、1次審査から2次審査に行くこと、5次審査から最終審査に残る、
とりあえずお呼びがかかることですね、もう1回お呼びがかかることをコールバックって言うんですけど、
コールバックがずっともらえなかったのに、30回オーディション受けてたらちょっとコールバックがもらえるようになったじゃないかと。
50回目にも仕事まではまだ、仕事を合格へまでは行ってないけども、
3次審査までは残るようになったとか、最終審査までは残るようになったので、
振り返ると着実に前進していることがあって、
でもその小さな前進を勝利として祝ってあげられると、やっぱり気持ちとしてもね、
持ちやすいですし、やっぱり私たちそういう意味ですごくそこに行くまでお祝いしちゃダメみたいな、
取っておくのが、それがやっぱり苦しめている原因なんじゃないかなと思っています。
なのでお祝いする理由を本当に手前に持ってきて、
どれぐらい小さな単位で今日自分をちゃんとねぎらってあげられるかっていうところで、
頑張れるというか楽しめると、小さな進歩が着実に積み上がって、
いつの間にかそこに近づいてなっているみたいなことがあるんじゃないかなと、
私は自分の経験からそう感じています。
ブロードウェイに立っていても、私たち日々オーディションを受けてるんですね。
本当に俳優の仕事の私は70%ぐらいはオーディションじゃないかなと思ってるんですけど、
本当に実際に舞台に立たせていただけるのは本当にご褒美のようなもので、
常にブロードウェイといっても、本当に3ヶ月以上公演が続く作品のほうが珍しいですし、
ロングランっていうのは本当に奇跡に近いので、
本当に私おかげさまでたまたま1年以上上映された作品に出演させていただいてきましたけれども、
本当にそれ自体が奇跡ですので、
もう次いつ舞台が終わるかわからない、終わったら私たちは失業するので、
常に次のプロジェクトを探しているわけですね。
なのでオーディションを受けて、拒否の脳の嵐ですよね日々。
なのでそれを毎回個人的に撮っていたら心がもちろん折れてしまうわけなんですけど、
やっぱりその時にもちろん個人的に撮り続けていたら、
それが全部自分の価値とつなげてしまうとやっぱり気持ちは持たないわけなんですけど、
たまたまこの作品は5円がなかったですとか、
本当にもうオーディションどうして合格するのかって全て100%私たちにはコントロールないですし、
理由も100%知り得ないんですよね本当に。
たまたまもうロングランでしたらこの衣装に入る人だとか、
本当にもう全然私たちには一切コントロールがないことでキャストが決まることもありますので、
毎回こうそれ落ちたイコール自分の価値がダメじゃなくて、
たまたま5円がなかったって言って、
その中で気持ちをやっぱり保つために必要なものは、
私はビッグワイという自分の著書の中でも紹介させていただいてるんですけど、
やっぱり大きな理由、どうしてそもそもそれを目指してるのかっていう自分の原点となる理由ですね。
それをやっぱり忘れるとやっぱり感情的に難しいチャレンジとか、
壁に直面した時に乗り越えにくいんですけど、
その原点となる自分のそもそもなんで私はこれを目指し始めたんだろうって思った時ですね、
自分が舞台をする喜びですね。
コラボレーションしてたくさんの方々と一緒に舞台を作れる喜びですね。
その感覚を自分が思い出せるとやっぱりエネルギーが湧いてくるわけですね。
だから私はこれをやってるんだな。
ただこの作品に出たって自慢するためじゃなくて、
舞台を作るっていうこと自体が好きだからやってるんだよね。
やっぱり自分の中でのやっぱりワクワクするところに戻れる、
自分の原点を知ってリマインダーとして常に自分に思い出させてあげられると、
やっぱり気持ち的にも長続きしやすいですね。
じゃあそういうところで言うと、
南さんを前進させる原動力、
そしてなぜこの仕事をされているのかっていうことを考えた時に、
それを例えば赤の他人の、僕もそうですけど伝えるとしたらどういうふうに伝えられます?
なぜこの仕事をしているのか。
私はやっぱり一番最初のオーディションに受かるまで、
実は88回オーディションを受けたんですけど、
すごい。
つまり87回のNOがあって初めてのYESがあったわけですね。
初めてのYESをいただくまでに。
それはニューヨークに来てからの話ですか?それとも。
そうです。最初の演劇学校を卒業して、
最初のお仕事をいただくまでですね。
なのでブロードウェイじゃないですよ。
最初の仕事は実はインターンといって、
俳優見習いのポジションだったんですけれども、
そのポジションをいただくまでに88回。
それからブロードウェイはさらに10年かかったんですけれども。
でもやっぱりその時に、
本当に各デパートメント、部門、
秘書さんにしても小道具さんにしても大道具さんにしても、
本当皆さん舞台作りが好きで、
同じストーリー、一つのストーリーを伝えるために、
それぞれの才能ですよね。
小道具を作るなり衣装をなり、
それが音楽なり振付なり言葉なり、
それを皆さんが集まって作って、
やっと87回落ちて、
やっと88回目の初期時期で舞台に立たせていただいた時に、
もう本当に幸せ、この上ない幸せというか、
一緒に舞台を作らせていただく、
全部プロセスですね。
舞台立っている時だけじゃなくて、
作り上げるプロセス自体が本当にたまらなく楽しかったので、
やっぱりその感覚っていうのは、
今もとても大切にしているもので、
もうね、ブロードウェイの10分の1以下のお給料でも、
一つの部屋で4人、インターン4人で雑魚寝するような住居の環境だったり、
本当に労働環境で言ったら、条件で言ったら、
本当にきっとこれは違法なんじゃないかっていうような条件でも、
もう本当に最高に幸せだったんですよね。
やっぱりその時の感覚って本当にやっぱり、
自分にとって宝物ですね。
なので本当に、今こうやってたくさん素晴らしい方々と舞台をご一緒にさせていただいたり、
コラボレーションをご一緒させていただいて、
自分が少しでもそれを当たり前に追いかけたりだとか、
感謝の気持ちが欠けそうな時に一番思い出すのは、
ああいう時にもあんなに幸せだった自分を、
ちゃんとやっぱり忘れちゃいけないよって思ってきますね、目の前に。
それと今与えていただいている環境がどれくらい恵まれていることなのかっていうのを、
本当に比較したらもう文句言ってる場合じゃないっていうところに持ってきてくれるので。
今現在の段階では、どれかのショーに今参加されている段階なんですか?
それとも途中というか、どういう状況なんですか今は?
そうですね。3月にニューヨークで舞台を立たせていただいて、
その後今日本で1ヶ月プロジェクトがあったので、
今は舞台には関わってないですね。
本当に一つ終わったら終わりなので、アメリカは。
でもその間もさっきもおっしゃられたみたいにオーディションを常に受け続けて、
次のショーがどれになるかっていうのをずっと常に準備しているっていう、
そういう状況なんですかね?
そうですね。今はUプロジェクトにもかなり注力をしているので、
コラボレーションですね、それこそ石川県、私のふるさと石川県とも、
石川舞台芸術祭というもので、去年から始まったんですけれども、
Healing Harmony Projectというプロジェクトでアドバイザーとして関わらせていただいたりだとか、
毎月オンラインでつないでワークショップを石川県の皆さんとして、
10月にはパフォーマンスをしたりするんですけれども、
やっぱり垣根を越えてのコラボレーションも今はとても楽しませていただいているので、
いろいろなものが同時進行しています。
ご自分の中で、一番最初にやっぱりどうしてもブロードウェイに立ちたいっていう夢が終わりになったっていうふうにおっしゃったじゃないですか。
その夢が叶って、それをまた続けながらニューヨークに身を置いている理由っていうのは、そこはなぜなんですか?
もうニューヨークは第二のふるさとですね。
最初に来た時の感覚を今パッと思い浮かんだんですけれども、
やっぱり日本にいるときはいつも出る杭は打たれるじゃないですけども、出過ぎていたので。
やっぱりちょっと窮屈な感じを感じてたんですかね。感覚があったんです。
やっぱり周りを気にして合わせなきゃというか。
ニューヨークに来た時に、地下鉄の一つの車両に劣っても、
もうみんな肌の色も違えば、着ているものも違えば、話している言語も違えば、あらゆるものが違っても比較のしようがない。
みんなそれぞれが自分の中での一番を目指して、頑張ってるんだと思った時にすごく楽になったんですよ。
すごく開放されたというか、自分は自分でいていいんだっていう。
やっぱりその感覚がニューヨークの魅力かなと思うと、
やっぱりなかなかニューヨークに押してしまったら、なかなかここからは。
どうですかレイさんは。
よくわかります。僕もニューヨーク25年ぐらいいるんですけども、途中で一回5年間出たことがあって。
日本ですか。
西海岸なんです、アメリカの。最初7、8年ぐらいニューヨークに住んで、
他のところも試してみたいなと思って西海岸に行って、僕は大学はミシガンっていうちょっと真ん中の北の方に行ってたんですけど、
それからニューヨークに来て、どっかに腰を据える前に試してみたいなと思って西海岸に行ったんですけど、
やっぱりちょっと感覚的にニューヨークのどこにもないこのエネルギーっていうのが。
本当にそうですよね、エネルギーですよね。
日本から来る方々も本当にこの街に来た瞬間というか降り立った瞬間にそのエネルギーだけで来た甲斐があったっていうこれを感じられただけで。
本当に思うのは日々、レイさんも実感されてると思うんですけど、ふるいにかけられるというかいつも。
これでもここにいたいのかって試されるわけですよね、日々。
これでもかっていうぐらい本当にこのアングルからもこのアングルからも試される出来事があって、
それでも残る人たちが残っているので、やっぱり人のニューヨーカーとの出会いもやっぱりたまらなく刺激的というか、
やっぱりそれでもいないっていう人たちの熱量に囲まれているとやっぱりこれはなかなかやっぱりそれ残る甲斐があるかなというか感じはしますね。
いやよくおります、長くニューヨークに身を置いている身として。
はい、ね。
そのふるいにかけられていて。
生半可な気持ちでは残れないですよ、気合いでは。
はい、本当にそう思います。
なのでそれを生き残っている方々がニューヨーカーかなと思うと、一緒にこう同志というかね。
そうですね。
ここまでお送りできました、レイナモトの世界のクリエイティブ思考。
今回は裕水みなみさんに折れない心の作り方についてお話を伺いました。
そもそも今この時代いろんなことが簡単にできるようになって、
そして人前に出るのも人前に立たなくてもインスタだったりとかTikTokで自分のことを発信することが簡単にできる。
でも何か10回投稿してもフォロワーが増えなかったから諦めちゃうみたいなことってすごく普通にあることだと思いますし、
僕もちょっと違う立場ではあるんですけども、なかなかそういうことが続かなかったっていうことはたくさんあって、
なんか今回もダメだったみたいに思うんですけども、
みなみさんの話を聞いてそのことは知ってはいたんですが、
改めてそのブロードウェイを挑戦されて、
1回その日本に帰って激乱式という日本の国内ではほんのトップの1%にも満たないところに入れてるようなトップオブザトップの組織でスターとして活躍されていた方が、
またゼロからニューヨークのブロードウェイで挑戦するってすごい勇気のいることだと思うんですよね。
そんな中で80回とは言わずに、例えば20回やっても十分嫌になるぐらいの衝撃ショックを受けると思うんですけども、
それももう諦めずに87回も挑戦されたっていうこと自体が改めて聞いてすごく驚きでした。
そのみなみさんが日本人だからではなくて、みなみゆうすいだから選ばれるようになった。
その瞬間っていうのは彼女の演じる力とかもあるんですけども、それ以上に彼女が持っているリーダーシップっていうのが発揮できるようになった。
それも私なんかっていうふうに思わずに相手が頼ってきたときに受け入れて、それを受け止めて、
そしてじゃあこうしたらいいんじゃないっていうような指導だったりとかアドバイスをするようになって、
そして今となっては演劇のチームの中のキャプテンという立場になるまで選ばれるようになった。
そしてできるようになったっていうのはすごく印象深かったですし、これから本当に日本人がそれをすごく意識していくべきだなと思うんですね。
というのもやっぱりその日本人のラベルっていうのを使って海外で活動しちゃうと結局そこが天井になっちゃって、
そのラベルを取ったときに認められないっていう状況になっちゃうと天井がすごく低いんですよね。
もう日本の未来は日本の外にあるっていうふうに僕は思ってるんですけども、
そう考えたときにメインのジャパン、フロムジャパンをもちろんそれを完全に取り外す必要はないですし、
それを恥に思う人は全くないんですが、
じゃあそれを取り外したときに認められるかっていうのは非常に大事にしておくことだなと思います。
もしこの番組を気に入っていただけましたら、
Apple PodcastやSpotifyでいつぼしの評価をいただけると嬉しいです。
次回も引き続きゆーすいみなみさんと自分に正直になるにはについてお届けします。
どうぞお楽しみに。世界のグレード思考、お相手はリーナムトでした。
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