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第百九十五回:Tak.さんとなぜ文章を書くのは難しいのか?
2026-08-27 1:57:50

第百九十五回:Tak.さんとなぜ文章を書くのは難しいのか?

感想

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サマリー

今回の「打ち合わせCast」では、文章を書くことの難しさについて、ゲストのTak.さんと共に深く掘り下げました。まず、WiZやテーラーストーリーといった専門分野に特化したツールの登場や、WordPressから静的サイトジェネレーターへの移行といった、生成AIの普及がもたらすツールの多様化とデジタルDIYの流れについて触れました。また、かつてのSNSの形を目指す「はてなパークス」や、Twitterの商標問題から生まれた「X」の動きにも言及し、リバイバル現象の可能性について考察しました。 番組の後半では、なぜ文章を書くことが難しいのかというテーマに焦点を当てました。特に「ブロガー」という期間を設け、毎日ブログを更新しようとする中で直面する壁について、SNSの普及による「記事単体」での勝負意識や、プラットフォームの影響、そして「ちゃんとしなければならない」というプレッシャーが、かえって執筆を困難にしているのではないかと分析しました。さらに、AIによる文章生成の現状と限界、特に日本語における文脈理解の難しさや、人間が書く文章の本質的な価値について議論しました。最終的には、文章を書くことは「自由からの闘争」であり、思考や身体性、そして編集プロセスが重要であると結論づけ、読者や書き手がこのプロセスを楽しむことの重要性を強調しました。

専門ツールの登場とデジタルDIYの流れ
スピーカー 2
うちあわせCast第百九十五回ということで、今回もゲストにたくさんお迎えしております。よろしくお願いします。
いろいろあったんですけども、まず以前紹介したWiZという小説用テキストエディターに新機能がバンバン追加されてるんですけども、印刷機能が付いたということで、これはたぶん喜ぶ方が多いんじゃないかなと思いながら見ておりました。
スピーカー 1
いや、多いでしょ。僕それ最初にちょっと使ってみて、あ、印刷できないんだなと思ったので止まってましたから。
スピーカー 2
まあ、PDFにして、iPadで読むなり、ちゃんとプリンター落として赤いレールという使い方ができるようになったということで、小説用とかもともと出版を意識して作られているエディターなので、順当だなと思います。
関連するんですけども、脚本執筆専用ツールというのが出たというのを見かけまして、テーラーストーリーっていう名前のやつで、脚本を書くことに特化したエディターということで、スクリブナーとかでも脚本用のプレートみたいのはあるんですけども、
基本的には普通のリッチテキストエディターだけなので、書く方が多色風がいるとは思うんですけども、こちらも専用にそれしか脚本を作るためだけにデザインされているということで。
思うんですけど、やっぱりこのように業界とかその分野ごとのツールがやっぱり生まれつつあるなという感じを受けておりまして、これは間違いなく生成AIの良い面、光の面だと僕は思います。
スピーカー 2
その分野の専門知識を持っている人がある程度デジタル的なものに慣れているときに、生成AIが間に挟まるとツールが作れるということで、もちろん専門ツールが出たからといって、例えばマイクロソフトのワードが消えてなくなるわけではなくて、その時々で必要なツールとして選ばれていくということで、選択肢が広がっていくのはいいかなと思いますね。
スピーカー 1
ニッチなツールが多分増えていくし、ニッチなものでもペイできるケースが増えてくるんだろうと思いますよね。
スピーカー 2
そうですね。多少もちろん一般的なツールに対して価格帯は上がっていくというか、本書籍で言うと専門書みたいな位置づけになるでしょうけども、それでも全然ね、自分で作れると言ったって、作ってもらっていいのがあればそれで凛としたことはないわけですから、そういうのにお金が払われていく流れというのはいいかなと思いますね。
あと関連する話題なんですけども、ひてうブログさんというライフハック時代から有名なブログがありますんですけども、ワードプレスをやめて静的サイトエンジンを自作したということで、静的サイトエンジンっていうのはHugoとかいろいろあるんですけども、それだけでも自分で作っちゃったと。
静的サイトエンジンって結構簡単なんですよね、要するに。マークダウンがソースにあったらそれをHTMLに変換するというようなことと、ページ全体のインデックスとかタグボタンを押したらタグ一覧が出るみたいなことをプログラムでやってしまえば、あとはこっちから文章を書くだけでいいという構造なので。
この手の話、チラホラ聞きます最近。ワードプレスをやめて、もともとの静的サイトエンジンを使うほうに移行するか、全部自分でやっちゃうかのパターンがありまして、どちらの場合でもやっぱり生成AIとの相性がいいというのは間違いなくありますから。
スピーカー 2
最近ワードプレスもMCPあると思うんですけど、最近見てないから知りませんが、全部自分でやってしまうという。これはデジタルDIYというか、かつてのHTMLサイトを自分で各サイトの手作り感に戻っていく、復帰していく、開庫していく流れの一部じゃないかなとはちょっと思います。
その流れの一部なんですけど、ハテナパークスというサービスが出まして、株式会社ハテナが提供しているサービスなんですけど、パークスの広場みたいなイメージだと思うんですけど、ケージ版サービス?大型総合ケージ版サービスということで、いろんなスレッドが集まっているサービスでして。
昔で言う通り、最近やったREDITみたいな感じの日本版みたいなことを目指されていると思うんですけども、あんまり流行ってない今のところ。
今この時期に、このタイミングでこれをやってサービス成功するのかはちょっとわからないし、イノベーションが薄いなという感じがしてしまうのは、ちょっと僕は夢を見すぎなのかどうかわかりませんけども。
もうちょっと新しい経験値じゃなかったかなと思うんですが。
スピーカー 1
でもこれ知らなかったですね。
スピーカー 2
でしょ?僕のタイムラインでもサービス当初の日に誰かが投稿してたのは見て、それ以降一切僕のタイムラインに話題が上がっていないので、そこまで人気ではないのだろうなという感じですね。
SNSが延長しがちで特にアテンションを集めるような投稿がアルゴリズムで優先的に表示されるみたいなものに対しての、昔の中からの掲示板サービスということだと思いますし。
スピーカー 1
それはわかりますけどね。
スピーカー 2
それは一つの方向だと思うんですけど、別の何かを模索してもいいんじゃないかなとはちょっと思いました。僕はちなみに使ったことはないです。
一旦画面を共有しておき。さらにカイコなんですけど、Twitterというサービスが生まれようとしてまして。
何だそれ。
Twitter.nowというと思わないんですけど、Twitterと今はXというサービスになってますし、ツイートっていうのもポストっていう名称になってるんで。
でも昔はこのツイッター社がツイッターという名前とかツイートっていうのの商標を持ってて使わせないように動いておられたんですけど。
スピーカー 2
でもアンタンとかもそれ使ってないよねみたいな話して、裁判所からもあまりその所有権が認められてないような動きが出ているらしく。
なったらツイッターを立ち上げようじゃないかというムーブメントがあるらしく。
もともとのツイッター社の関係者の方へというような話をちらほら聞きましたが。
まだ現在アーリーアクセスの状態で1回の20ドルをファウンダーとして払うとアーリーアクセスの状態でアカウントがもらえて、多分ツイッター的なことができるというようなことだと思いますけど。
このサーキットバックも全く同じ感じでイノメイトがないよなという感じがするんですよね。
僕らが昔を懐かしがってるだけではないかという気持ちがすごくしてしまうんですけど。
あの時代のツイッターが帰ってきたら今果たしてそれがハッピーなのかがちょっと僕にはわからないんですよね。
スピーカー 1
それ難しいですね。
ハッピーだような気がしなくもないけど。
でももう人は変わっちゃいましたからね。
スピーカー 2
それは桃源郷を見ているような気がしないでもないなと思いながら、ちょっと遠い目で見てました。
この変な鳥の絵がなんかおかしいですね。
スピーカー 2
リバイバルといえばリバイバルですし、芸術というか芸能の世界ではそういうリバイバルって普通にあるわけですけどね。
昔の楽曲とか歌い直すとか。
だからそういう意味でテクノロジー技術のリバイバルがあってもいいとは思うんですけども、ちょっとねという感じがしております。
AI変換と文章生成の現状
スピーカー 2
AI変換っていうのをたまたまツイッターで見かけまして、これ結構面白いんですけど、
日本語の変換って日本語の同音異義語があるんで、うまいこといかないことがあるわけですよね。
私は司会ですっていう広がな、私は司会ですって変換したときに、
モデレーターの方の司会っていう場合とお医者さんの司会って2つあり得ますよね。
それは基本的に例えば直近その人が何を変換したのかとか、
一般的に使われているのはどれが多いかみたいなことでその変換ソフトが判断すると思うんですけど、
このAI変換という実験的にやられてると思うんですけど、
後ろの文章の文脈を見て変換を決めるという方策を採用されてるっぽいんですけど見た感じ。
私はアナウンサーですの後に司会って言ったら、さっき司会じゃなくてモデレーターの司会として出てきますし、
私はハイシャですの後に司会って言ったらハイシャさんの方の司会が出てくるという感じ、
一発目がそれが出てくるという感じになっておりまして、文脈を見た変換をSAIの助けを借りて行うということで、
どれぐらい便利かわかりませんけど、これ面白い。文脈を見た変換ということ。
日本人のこの変換装置を使ってる人間ないと思いつかない機能だと思うんですけども、ちょっと面白いなという具合ですね。
スピーカー 1
これですね。80年代の終わりぐらいに、90年代の初めぐらいに結構ワープロのメーカーさんとかが
AI変換っていう言葉を使ってマーケティングしてたんですよ。
要するに変換が賞味になったよっていう時に、最新AI変換搭載とかって結構90年ぐらいですよ。
平成元年とかそのぐらいの話ですよね。
要するに今で言う携帯素解析をやっていたりとか、
そういう単純に前回変換したのが最優先でクリアとか一番長い文節を優先するよみたいなそれ以前の仕組みから、
ちょっと一段階進んだ変換をしてるよっていうことだと思うんですけど、
スピーカー 1
でもこれ結構前後の文脈を見るっていうのも、
エイトックとかのエイトックエイトとかあの辺の劇的に賢くなったあたりでやってたんじゃないかと思うんですよね。
スピーカー 1
そうでしょうね。文脈の解釈度がたぶん上がっているということだと思うんですね。
これを生成AIを使って、さらに劇的にやろうということだと思うんでしょうね。
スピーカー 2
文脈を読めるAIだからこそだと思いますね。
あとその読む文脈の範囲がすごく広くなるということですね。
スピーカー 2
そうですね。そこは面白いなと思う。
こういう使い方、つまりプラ素質そのものに介入してくるわけじゃないけど、
アシストの精度を上げるという使い方は面白いかなと思いますね。
スピーカー 1
こういうのがどのくらい学面通りの力を発揮するのかによっては、
ずいぶん生活が変わりそうな気がしますよね。
スピーカー 2
そうですね。この辺は面白い。
目立たなく地味で生産性が10倍みたいな話にはなりませんけど、
日本語で使ってるときに漢字変換がパッとうまくいかないという問題がありますので、
スピーカー 2
そこを解決するのが面白いかなという話ですね。
東大山先生がお亡くなりになったということで、
これはかなりショックで、まだまだ全然若かったんですけども、
うち歴史的な技術でいうと論文の教室というのが有名でして、
アウトラインの捉え方をもうちょっと自由に考えていく。
スピーカー 2
アウトラインを作りながら、作り変えながら論文も書いていくよということを示唆されている本であり、
非常にカジュアルというか、ちょっと軽率ぐらいの勢いの文体で書かれている。
基本的に石井先生の技術系はお堅い文章が多い中で、
かなりはっちゃけた文章ということで、もうこれは完全に好き嫌いはありますが、
硬い印象が変わるタイプの本だなと。
これもNHKブックスから出るんで、非常にインパクトの多い本で。
それ以外にも哲学分野の本とか、あるいは一般啓蒙書というかな、
スピーカー 2
知的啓蒙書みたいなのもたくさん書かれておられて、
どれもその文体が非常に独特の方だったんです。
基本的に一般向けの方は全部買っていると思うんですけど、
それぐらいの方だったんですけど、お亡くなりになったということで、非常に残念ですという話と、
逆にこの新世代の知的啓蒙の技術書を書かれていると言っても過言ではない、
安倍先生の全く新しいテキスト分析の教科書というのが新しく出まして、
一つ前のライティングの方は買って読んで非常に啓蒙されたというか、
スピーカー 2
目を開かされたんですけど、こっちは買いましたが読んでないんですけど、
これも面白そうだなと思って注目しております。
スピーカー 1
面白そうですね。
なぜ文章を書くのは難しいのか?
スピーカー 1
本題なんですけども、なぜ文章を書くのは難しいかということで大きく風呂敷を掲げたんですけども、
スピーカー 2
というのも8月はブローガストという期間で、目標としては毎日ブログを更新しようということで、
現実的には普段更新しているよりもちょっと更新頻度が上がったらいいなということで、
ブログ啓蒙期間の1ヶ月という感じなんですが、
僕も10年近くぐらい毎日ブログを更新していた歴史があり、
簡単やったとは言いませんけど、そんなにそこまで困ることはなかったんですが、
スピーカー 1
いやおかしいですね。
スピーカー 2
ちらほらと書くのが難しいという話もタイムラインに上がってきているので、
何が難しいんだろうかなというところをちょっと考えてみたいんですけども、
まず最初に思うのは、書くのが難しいという投稿をSNSでされているわけですよね。
それはもうある種パブリッシュしているわけですよね。
だからこの文章を書くっていうことが主語がもうでかくなっているわけですね。
ブログの記事を書くのが難しいということだと思うんですよ。
スピーカー 2
しかもそれはおそらくその人が持っているブログの記事というものの水準が高すぎるということがまず起因としてあると思うんですね。
例えば10年なら10年毎日更新していたとしても、1行しか書かなかった人が普通にあるわけですよね。
それを合サインを出すのは誰かというと僕なんですよね。ブログだから。
だから本来自分のマイメディアであるブログは更新するのが一番簡単な場所だと僕は思うんですよね。
でも逆に新米側を持っているのが自分だから、まあいいやって誰も言ってくれないわけですね。逆に言うと。
これなんではダメだって自分が思っている限りそれは永遠に公開されないわけですよ。
スピーカー 2
ここが多分だから難しい。自分の心の水準というものの硬さがあるとまず書けない。
あるいは書いたとしてもこのクオリティではダメだという心が強く出すぎてしまう。
逆にブローガストで彼に毎日書くと決めたとするじゃないですか。
その時にクオリティを落とす練習というのはちょっとおかしいな。基準を落とす練習か。
として僕は機能するんじゃないかなと思うんですけども、どうですかねこれは。
スピーカー 1
だからそれをクオリティと考えちゃうからダメというか違うんだと思うんですよね。
例えばクオリティを落とすのではなく、さっきぐらいさんが言われた基準というのが近いと思うんですけど、スケールを落とすとか、もしくは対象を広げるとか。
スピーカー 1
だって昔二三行でブログを更新することなんていくらでもあったじゃないですか。
ツイッター以前は一行でブログ更新してもよかったんですよ。
何でしたっけ、初期のブログで有名になった、主に芸能人だったり有名人の方々のブログが。
初期の頃ってどうしても真田で香里さんと古田厚屋さんとかそういう感じの人。
でも結構ね、一二行しか書かない代わりに一日何回も更新するみたいなやり方を昔はしてた。
それがツイッター以降なくなっちゃった。
逆にブログでそういうことをやっちゃいけないみたいな空間がなぜか広まったんですけど。
スピーカー 1
僕も結構一行とか二行とか三行で記事にしてましたから。
でも別にそれクオリティを落としてるわけじゃないんですよね。
スピーカー 1
逆にそれが面白いと思って三行で、もしくは意図的に一行にしてたりすることもあったんで、
これは全然クオリティを落としてるわけじゃないんですよね。
何を変えてるのかというとスケール感を変えてるわけですよね。
スピーカー 2
なるほどなるほど。
スピーカー 1
基準を変えてるわけですよね、ブログというものの。
だからそれができれば全然問題はないんですけど、
何かそれをさせない何かの力が、
当時、昔はなかった何かの力が働いてるような気がする。
スピーカー 2
確かにそうですね。
一つはさっきおっしゃられたようにSNSがあるからでしょうね。
つまりSNSじゃないものをブログに求める、申請が働くというのはナチュラルなことだと思うんで。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
だからあれを自分のブログを自分のタイムラインだと認識し直せば、
もっと自由にというか気楽に書けるんじゃないかなという気がしますね。
スピーカー 1
そうなんですよ。今特にノートを中心になっちゃったから余計そうなんですけど、
記事が自分の作品という感覚になっちゃうんですよ。
なるほど。
昔のブログの頃ってわかんないですけど、
僕はもっとブログ全体が自分の作品という感覚だったんですよ。
スピーカー 2
ありますねそれは、確かに。
スピーカー 1
で、その中に自分の思うヒントとかタイミングで、
すごく気合の入った真面目で長いパワフルな記事があるかと思うと、
ものすごいくだらない124がその2続けて投稿されるみたいな、
そのバランス感覚自体を作品として認識しているみたいな感覚があったんですよね。
スピーカー 2
はい、確かに。
今はどっちかと言ってやっぱり記事書けない、文章書けないっていう時に、
スピーカー 1
その一つの記事が書けない感覚だと思うんですよね。
僕自分自身もそうなんですけど。
スピーカー 1
で、やっぱり一つの記事で勝負する感覚になると、
やっぱりその一つ一つの記事のクオリティとか長さとか形式とかがどうしても重くなってくるというか。
スピーカー 2
だから比喩的に言うと、一つの記事に視点がズームインしてしまって、
その全体像のズームアウトができていない。
だから一個一個に対する切迫感が強まるという感じですかね。
スピーカー 1
そうですね。で、あとやっぱり一つの単独の記事としては成立しないけど、
ブログの中の1投稿として成立するっていう視点が持てなくなってくる。
スピーカー 2
それはどうなんですかね。
それは例えばnoteというプラットフォームだからなのか、
つまり自分のサイトならもっと全体感を持ちやすいのか、
それは現代のインターネット全体の風潮としてそうなって、
つまりSNSに乗っかるときに記事単体で扱われることが多いわけで。
スピーカー 1
そうですよね。
スピーカー 2
だから自分のサイトであってもやっぱりそうなってしまうのか。
スピーカー 1
いや、なってしまうんじゃないかと思いますね。
なるほどね。
スピーカー 1
実際僕note以前は?ブログに数年いましたけど、
やっぱりそういう感じはありました。
確かにな。
スピーカー 2
ブログ活動を自分のサイト全体の活動と考える場合と、
一つ一つの記事を表現として考える場合では、
重みが全然違うんで、もっと気楽に書きなさいっていうことの
受け取られ方がやっぱり違うよなというのは今の話聞いて思いましたね。
そうだと思いますね。
スピーカー 1
noteだったら例えば個別の僕なら僕のページ。
何て言うんですかね。
僕の記事だけが表示される画面が。
スピーカー 2
あれはプロフィールページかな。
スピーカー 1
プロフィールページ。
それをプロフィールページなんて名前になってるからいけないですよね。
プロフィールページっていうと、その人のプロフィールがあって、
その人の記事はこうですよって。
その人の作品の一覧みたいなイメージになっちゃいますけど。
スピーカー 1
noteだってもともとはタイムライン的な発想が強かったじゃないですか。
スピーカー 2
そうですね。そうだと思います。
スピーカー 1
いわゆるつぶやき形式が廃止されて、完全にそれなくなっちゃったじゃないですか。
本当はツイッターよりも長い塊の記事がタイムライン的に、
自分のフォローした人の分が流れてくるみたいな感じだったと思うんですよね。
確かに。
スピーカー 1
その今で言うプロフィールページを開くと、
その人の個人の単独のタイムラインが見られるっていう感覚の方がいいと思うんですけど、
今の表示のされ方も含めてあんまりタイムラインには見えないですよね。
記事の一覧に見えますよね。
スピーカー 2
そうですね。見えますね。
タイムラインになってれば、全体が一つの作品っていう感覚をもっと持てるような気がするんですけど。
だから逆に言うと、
例えばブルース・カインでつぶやきやすいっていうのはタイムラインでしかないからっていう感じかな。
スピーカー 1
そういうことですよね。
スピーカー 2
そうか。
スピーカー 1
だからタイムラインというものがツイッターに移っていったことによって、
そのブログからタイムライン感がなくなった。
タイムラインという言葉は当時使われてなかったと思いますけど。
ブログってだってもともとログなんで、もともとタイムラインでブログなんでね。
本来タイムラインだったはずですよね。
スピーカー 2
基本的には時系列で並べるサイドの形式のことをブログと呼んでましたからね。
スピーカー 1
そうです。
言ってしまえば一番初期のね、デイブ・ワイナーさんが最初のブログを始めた頃は、
あれはアウトライナーと深く結びついていたので、
スピーカー 1
時系列で並んだアウトラインだったんですよね。
スピーカー 2
なるほど、なるほど。
スピーカー 1
だからその影響をもって僕は全体が一つの作品で、
個別の記事は要素に過ぎないという感覚がずっとあったんですけど、
やっぱさすがになくなっちゃいましたね、その感覚が。
スピーカー 2
ああ、そうっすか。
スピーカー 1
僕もやっぱり、そうっすよ。
僕もやっぱり個別の記事を書こうとして苦労する感じがありますね。
スピーカー 2
それはやっぱり上手く書けなさな感覚がちょっと理解できるってことですか?
スピーカー 1
できます、できます。
ただその、できますっていうか、
上手く書けない感覚の内容は人によって違うと思うんで、
そのすべてを理解できるわけじゃなくて、
自分の中にも上手く書けない感覚はありますね。
文章を書くことの本質とAIの限界
スピーカー 2
少なくとも僕、Rスタイルを書いてて上手く書けない感じたことがないですね、今んとこ。
うーん、そうかー。
そこはでも、上手く書けないと感じることがダメなことではもちろんないので、
それはまあいいんですけど、
それで例えば生産性というか、その人が書く行為が止まり続けてしまうのはちょっとあれかなと思うんでね。
スピーカー 1
あとその、実は他の人の目から見れば十分、記事として整理するものも書けてないな、
ちょっと書けてないから出すのやめようみたいになっちゃってる場合もあると思うし、自分もそれあるし。
それはもう技術的なところじゃなくてメンタル的なことも含んでると思うんですけど、
自分個人の場合で言うと調子がいいときは結構がっつり構成を持った記事感のあるものになりやすいんですよね。
調子悪いんだけど、書けないんだけどっていうときは割にブツ切りの、ブツブツ並んだ感じのあれになることが多いというか、
そのリハビリであれをやることがあるんですよね。
どうしても書けなくなっちゃうときがあって。
だけど記事を出さないでいると本当に書けなくなる。
スピーカー 2
そうですね。はい、わかります。
スピーカー 1
書くと書けるようになるんですよね。
書かないとどんどん書けなくなるんで。
スピーカー 1
一度形として書くために、ブツ切り形式で元々全く関係ないものをつなげて記事にして、
出すと、それで勢いがついて書けるようになるという場合もあるんですよね。
もちろんあの形式は逆にもっと書けないからじゃない理由でやることもあるんですけど。
でも、ブツ切り形式の記事の、ブツ切りの一塊で出したって本当はいいはずなんだよね。
スピーカー 2
そうですね。
スピーカー 1
なぜかブツ切りで集めて1500字くらいにした状態で出すっていう。
そうしないと記事として成立しないような感覚が自分にもあるのかもしれないですよね。
スピーカー 2
まさにその記事という呼び方そのものがニファンスを帯びていますよね。
スピーカー 1
そうなんですよ。記事ですからね。
スピーカー 2
記事ということは、文章の連なりによってあるパッセージを表現するみたいなニュアンスが発生しますよね。
でもああいう形式って、一つの記事の要約を作ろうとしてもできないと思うんで。
スピーカー 2
確かに。
スピーカー 1
そうするとじゃあ何かっていうと、あれは記事とはいいながら、要するに断片の集合体であって、
じゃあなんで一つ一つの断片を独立して出しちゃいけないのかっていう疑問が今さらながら感じるわけですよね。
スピーカー 2
まあもう出してもいいはず。
スピーカー 1
出してもいいんですよ、だから。
スピーカー 2
出してもいいし、並べることで生まれる業間みたいなものを演出するっていう一つの手でもありますけど。
スピーカー 1
ノートで言うと、とばさんのアカウントでたまに過去のツイートを並べただけの記事が、
スピーカー 2
あれ全然成立してるんですよね。
スピーカー 1
あれいいですよ。あれ僕大好きですよ。
スピーカー 2
だからやっぱその、記事と読んでしまうことによって表現の型が狭められていて、
それで掛けなさが増えてしまってるんであれば、それをディストラクションしてみるのはまあいいかなとは思いますけどね。
スピーカー 1
思います。本当に思いますね。
スピーカー 2
でもまあなかなかそれはおそらく難しい。難しいという言い方はあれかな。
促されないとやってみようとすら思わないというのが近いと思うんですけど。
スピーカー 1
そうですね。
やっぱりね、やっていいのかな。やっていいのかなとは僕はやってきた実績にあるんで思わないですけど。
スピーカー 1
逆にそうしてなかった人が、それでもいいからやってみたらどうですかって言われて、
簡単にやれるかっていうと、なんか難しいのかもしれない。
スピーカー 2
多分難しいと思います。
ある種のもう少し強い強制力。
あなたのツイートから記事を起こしてくださいという、
ある種のミッションというかゲーム的な制約を与えられたらちょっとやってみるかもしれませんけど、
やってもやらなくてもいいぐらいのニファン性だと多分やらないと思いますね。
スピーカー 1
でもそのネガティブに、記事らしい記事が書けないからそういうんでもいいんですよって言うと、
なんかこうやっぱりダウングレードしてる感じがあるんですけど。
スピーカー 1
僕はそれあれ面白くて好きなんですよね。そういう風にして。
あれは面白いんですよ。そういう書き方にしか出せないニュアンスというのがあるんで。
だから、いろんな人のそういうものを読みたいというところはありますね。
連続ツイートしかしない人。ものすごい超大な連追をするんだけど記事書かない人っていうじゃないですか。
はい、いますね。
スピーカー 1
この人のツイートツイートっていうか連続ポストじゃなくて、
普通のエッセイ的な入れ物に入れて読んだら、
エッセイ集とか出たら間違いなく買うんだけどなという人がいるんですよね。
誰のこと言ってるのかなんとなく暮らしさんは想像つくんじゃないかと思うんですけど。
はい。
単純に個人的にそういうのが大好きっていうのがあって、
スピーカー 2
もっとみんなにやってほしいなという気もしますね。
スピーカー 1
長いのも好きですけどもちろん。
スピーカー 2
短いのがいいとかツイートの性ということよりは、
ブログメディアというかマイメディアの表現形式というのは非常に幅が広いはずで、
もちろんその超大な文章もいいんですけども、
それ以外の書き方もあっていいし、
もちろんその人が自分なりの書き方を模索する場としてのブログという価値が多分あると思うんで、
文芸誌に応募するときには文芸誌のフォーマットに沿わなければならないじゃないですか。
スピーカー 2
実験がしにくいわけですけど、
自分のメディアであれば、
急に自作小説を書き始めてもいいわけじゃないですか、明日から。
そういう場として捉えると、
いわゆる自分の中にあるブログっていう言葉が紡いできたある種の歴史観みたいなものから解き放たれるんじゃないかなと。
スピーカー 2
日本人の言葉で言うと、ちゃんとしてしまうわけです。
ちゃんとしようとしてしまう。ちゃんとブログをしようとしてしまう。
スピーカー 1
ちゃんと書かなくていい場所だったと思うんですね。
スピーカー 2
ブログというのはあなたの有儀場所であって、
ちゃんとするための場所ではなかったはずで、今でも全くそうなはずで。
その気持ちを持てば、うまく書けなさのある種の部分は解消されるのかなと。
スピーカー 2
先ほどもおっしゃってましたけど、書かないと書けなくなる。
逆に言うと、毎日書いてると毎日書けるようになってくるんですよね。
ちょっと根性論に聞こえますけど、頭が慣れてくるんですね。
書くということに対して。
スピーカー 1
それはわかりますね。
スピーカー 2
どんどん、さっきの言い方でクオリティを落とすような感じですけど、
ある程度これでもいいなと思うようになってくる。
こういうものでないといけないという規範性から、これでもいいというか、
逆にお茶にごしたような感じで書いた記事が割にウケるみたいな、
自分の予想が評価とひっくり返るような経験も増えていくんで、
スピーカー 2
アウトプットの数が増えれば増えると、
自分が持ってる自己評価の危うさっていうか、
スピーカー 2
一面性に気づくことができるんで、
もっとどんどんいろいろなことが書けるようになるということで、
非常に知的マッチョな感じですけど、
書きたかったら書けって書き続けろというのが、
だからやっぱり脳にも筋力みたいなのがあって、
使わないと衰えていく部分がないって確実にあるんですよね。
スピーカー 1
それはよくわかりますね。
毎日って必要ですかね?
スピーカー 2
それはまあさすがに、毎日じゃなくてもいいんですけど、
書ける日に書こうみたいなことをやると、
スピーカー 1
どんどん書かなくなっていく傾向があるんで、
スピーカー 2
月に何回か書こうぐらいのあれは持っといた方が、
書くという行為から遠ざからなくて済むと思うんですね。
そうですね。
スピーカー 1
だからやっぱり、週1とかね。
まあね、毎日が逆に大きく、
自分の中でどんどん大きくなっちゃって、
メンタル的に圧迫してくるっていうこともあると思うんで。
でもなんかね、書きたいことがあったら、
もうそれを書いちゃう。
価値判断をしないで書いちゃう。
もしくは、
Xとかブルースカイとかそういうものに書く、
書いていることをちょっと一定期間、
ブログなりノートなり、
もうちょっと記事っぽいところまで許容できる枠に書いてみると、
ちょっとそれが膨らんだ伸びた状態ぐらいの、
わからないですけど、
400字とかそのぐらいの記事になると
意外に面白かったりするんじゃないかなと思うんですけどね。
スピーカー 2
400字って、200字詰め原稿紙2枚ですから、
そんなものを目の前に出されて、
これ埋めろって言われたらかなり絶望すると思うんですけど、
ツイートなら簡単なんですよね、400字は。
スピーカー 1
簡単ですよね。
しかもスレッドにつなげて、
結構ね、1200字ぐらい書いてる人いますからね。
スピーカー 2
だからね、やっぱり形式、フォーマットっていうものが
私たちの認知に与える影響というのがあまりにも大きくて、
やっぱり上手く書けないって感じるときに、
もう言葉が全く続かない。
1行目から続かないパターンもありますし、
文字としては並んでるんだけど、
なんか違うなとか、
結論がうまくまとまらないなみたいなときもあると思うんですけど、
結論なんてまとまらなくていいんですよね。
スピーカー 1
投げ出せばいいですよね。
スピーカー 2
1行目書いていろいろひこうをこねくりまわして、
1000文字目ぐらいになんだかよくわからなくなったら、
なんだかよくわからなくなったって書いてパブリッシュしたら、
それがもう記事なんですよね。
スピーカー 2
これはブログの記事なんですよね。
でも最近だからそういう、
ある種、乱雑な記事を見かけることが少なくなってきたのかな。
スピーカー 1
そうなんですよ。逆にね、
ちゃんとした出版物でもそういうの結構昔ありましたね。
スピーカー 2
ありましたありました。
スピーカー 1
ひどいのありましたから、昔。
僕が覚えてる一番ひどいのね、あれですよ。
週刊朝日の連載記事で、
週刊朝日の連載記事で、
高上障子さんなんですけどね。
忙しかった。すごい忙しかったんですよ。
忙しくて原稿を書く暇がないという話で一本書いちゃってる。
スピーカー 1
もう全然寝てなくて眠い。
ぐーぐーぐーぐーぐーぐーで、
7行ぐらいぐーぐーで、
あ、寝てしまったみたいな。
スピーカー 1
でも、毎回それだったらちょっとどうかと思うんですけど、
全体の中で見ると、
本業の演劇が過強に入って、
大変な時期もあれば、そうじゃない時期もある中での、
例えば単行文化されて一冊になると、
スピーカー 1
それはそれで中に意味を持ってくるんですよね。
出版業界的にどうなのかちょっとよくわかんないですけど、
スピーカー 1
でも昔は商業出版物でもそういうのがあったし、
今と違って炎上とかしなかったんだよね。
そういう違いはあるし、
そういう難しさが現代にあることは間違いないんですけど。
スピーカー 2
極端なことよりは、個人のブログの記事がどう書かれてようが、
世間が悪辣なことを書いてたら別ですけど、
結論出てないじゃないかって怒り出す人は、
そんなにいないとは、出ろとは言いませんけど、
少ないなとは思いますけどね。
スピーカー 1
ある種の話題に触れると、そういう人を吸い寄せちゃうっていうことがあって、
そこはちょっと、言論のあり方としては残念なことですけど、
何かそこに触れなきゃならない意図、意思がある場合を除いては、
あんまり簡単には触れない方がいいという話題もありますけどね、残念なことに。
でも触れたって、自由ですから。
本当は自由なんですけど、
めんどくさいことを叫ぶためにはあんまり触れられないっていう話題もあるんですけど。
でも逆に本当に小さい話題で、
細かく積み重なったときに醸し出されるものっていうのもありますよね。
そこから変な話。
いわゆる思想が強いと言われるような言語を使わなくても、
その細かいことの蓄積から自分の思想って立ち上がってくるところもあるので。
スピーカー 2
ありますね。
スピーカー 1
そういう面白さをもっと楽しんで、自分も含めてですけど、
書く側も読む側も楽しむと、もっと豊かなりそうな気がします。
スピーカー 2
そうですね。
SNSが断片的でアテンションを集めるから、
ブログへ回帰するという流れが多分今あると思うんですけど、
スピーカー 2
そこにちゃんとしようっていうマインドセットが付随しているような気がするんですよね。
乱雑なSNSじゃなくて、
あなた自身を表現する文章を書きましょうということは、
スピーカー 2
おそらくプレッシャーにしかならないと思うんですよね。
そういう言い方で促されてしまうと。
で、例えばツイートしている人は半分ブログを書いているようなものなんですよ、要素に。
スピーカー 2
それでいいんですよね。
それをもうちょっと自分のドメインとか限定的な場所に並べておいて、
後から見つけ出すくするとか、並べやすくするというので、
スピーカー 2
ブログを持つぐらいの感覚でよくて。
ちゃんとブログをしようとすると、
ブログの自由な精神とちゃんとのマインドセットは、
たぶんあんまり相性が良くない気がするんですよね。
もっと自由にしましょうというアドバイスは無意味だってことは非常によくわかってるんですけども、
そう言わざるを得ないなという感じはありますね。
スピーカー 1
そうですね。本当に。
だからやっぱり、その人のマインドというか、
その人の総合的な表現なんですよという。
そうですね。
その人ということでもすでに一貫性はもうそこで担保されているわけですよ。
スピーカー 2
間違いなく。
スピーカー 1
たぶん。
だから、その人のという中でどんな形式になろうと、
それはもう自由であるということですよね。
その言っちゃいけないことっていうのもありますけど。
結果として出てきたものがその人らしさなので、
スピーカー 2
その人らしさを意識して構築している段階で歪んでいるので。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
だから別に本当に更新頻度を上げる必要はないですけども、
書こうと思い立った時に書こうと思い立ったテーマを書けばいいという。
それもどんな書き方でも極論いい。
ここは極論でいきますけど、極論どんな書き方でもいいという言い方でいいと思うんですけど。
スピーカー 1
全然いいはずですよね。
自由からの闘争と自己表現
スピーカー 2
やっぱり例えば自分のブログを5年前とか10年前の記事を読むと、
もう絶対に今の自分では書けない文章がそこにあるわけなんですよ。
その時々の時間性とか歴史性を背負って、
別に自分で意識して背負ってるわけじゃなくて、
もう背負わざるを得ない。文章を書く中でそれは背負わざるを得ないものがあるんで、
その時に出てくるものはその時しか捕まえられないと思っておいた方がいい。
だから色々とたくさんネタがあって、
もっと環境が整ってから自分の考えを変えていきましょうというやり方は、
多分不細になって倒産してしまうので、
その時々時間があるタイミングでちょっとした思いとか考えを刻んでいく、
残していくことで、後で振り返った時に結構な、
スピーカー 2
一個一個は大したことのない断片でも、
さっき言われたように思想の方がというか、
コアのようなものが蓄積されてくると思うので、
だからこっちもやっぱり全体を考えるということですよね。
一個一個の断片じゃなくて、自分が時間の中で紡いできたものの全体像として
価値判断をするということは、さっきのブログ全体で勝負する、
表現するということと等しい。
だからやっぱり時間性が刻まれている。
刻まれているは二重の意味があるな。
スピーカー 2
みじん切りにされている。時間性が今非常に細かく切り刻まれている中で、
一個一個の勝負になってしまっている。
それをもうちょっとトータルの舞台として捉え直すことができれば、
いろんな表現が試せるんじゃないかなというのはちょっと思いますね。
スピーカー 1
当然ですけど、広告主もいない、編集者もいないわけですから、
自分で全部決められるわけなので、
素晴らしい自由さですよね。
スピーカー 2
だからね、逆に別の回で話そうと思ったんですけど、
逆に思うんですけど、自由からの逃亡という本がありますが、
自由は時に重たいわけなんですね。
それは責任と裏返しなので。
非常に残念ながら、現在の日本社会において、
自由になれる場は少ないわけですよね。極端なことで言えば。
特に表現とか発表とかにおいては、まず批判があり、
いかに批判に従うかというシチュエーションが多い中で、
多分自由なれしてない人が多いんじゃないかなという仮説があるんですよね。
スピーカー 1
なるほど。
スピーカー 2
自由にしてくださいって言われたら多分困る。
自由になれてない、自由な環境にセットアップした経験があまり少ないかな。
スピーカー 2
それよりは、ある程度決めてもらった範囲で書くっていう方が楽というか、
慣れている感じがもしかしたらあるとしたら、
今この2026年において、わざわざ自分のブログを持つ、
自分のサイトを作るっていうのは、自由の練習なんじゃないかなと。
そういうふうに言えるんじゃないかなと思ってまして。
スピーカー 1
はい、なるほど。
スピーカー 2
それは僕、うちはセガストでもよく言うけど、
個人的であるっていうことのパラフレーズなんですけども。
例えばゲームで言うと、マインクラフトっていうゲームがあって、
スピーカー 2
あらゆることを自分で作っていくゲームで、
クリエーションの練習だと思うんですけど、
それが大人版ですよね、大規模版ですよね。
どんな見た目にするのか、どんなことを表現するのか、
どんな更新頻度にするのかっていうことを、
自分の引き受けられる責任において決めていい。
そういう場は、やっぱり現実の日本社会ではなかなか、
若い人は特に体験しにくい気がするんですよね。
スピーカー 1
そうかもしれないですね。
スピーカー 2
例えば一般的な大学生が卒業して会社に入って、
自分の裁量を持てるようになるのが何歳かわかりませんけど、
たぶん30くらいじゃないかなと思うんですが。
スピーカー 1
そこは会社によって違うでしょうけれども、
裁量を持てるようになっても自由かどうかわからないですね。
スピーカー 2
そうですね。それはそうだな。
大きなフレームを含めて自分で決めていい。
スピーカー 2
会社を立ち上げるのに等しいことをするわけですけども、
そういうことを経験して判断する練習をしていく、
ひとつのシチュエーションじゃないかなと。
それは僕は非常に価値があることだなと思います。
スピーカー 1
価値あることですね。大事なことですね。
自由から闘争してるんですかね。
闘争しているのか。
スピーカー 2
大阪って言ってるのか、向こうが。奪い取られている。
スピーカー 1
そうですね。自由からの闘争は、
ナチズムとの関係があったわけですけれども、
今の自由でなさは何と関係しているのか。
スピーカー 2
巨大IT企業プラットフォーム側と政府側。
一番力を持っているのは巨大プラットフォーム側でしょう。
例えば、ノートというプラットフォームを使うことによって、
僕らはラクサを判断する。
ラクサから判断することの区域から逃れているわけですけど、
再度自由に構築する自由さを失っているわけで、
トレードオフなんですけども、
トレードオフを分かってて判断してるんだったらいいんですけど、
世界はそもそもそういうものだという認識になると、
ちょっとまずいかなという気はしますけどね。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
あるフォーマットが定められて、それに合わせて何かを書く。
例えば、読書感想文とか小論文とか、
っていう経験が多いと思うんですよね。
自由に書いていいってあんまりないじゃないですか。
日本の世界の場合。
スピーカー 1
ないですね。
だからトマトオーナーはほとんどトマト当然で、
スピーカー 2
そこからやっぱり慣れていく。
何書いてもいいんだっていうふうに離れしていく。
スピーカー 2
ブログを続けていくと慣れていくという。
面白いことに振り返ると、
自分の興味関心っていうものが時間とともに変わっていくログでもあり、
スピーカー 2
それと同時にミス語の魂100も同時に感じるんですよね。
自分のブログとかを見てると。
スピーカー 1
感じますね。
スピーカー 2
両方あるんですね。
自分っていうのは変わっていくものだっていうのと、
自分っていうのは変わらないだっていうのは、
両方感じるものがそこに出来上がるんで。
マインクラフト的な遊びにそれを感じるかどうかはしませんけど、
ある種の表現活動としてのっていうと、
AIによる文章生成の課題
スピーカー 2
またちゃんとマインド化できそうですけど、
自分が書いたものを残していくっていうのは、
自分のログになっていく。
自分っていう精神活動のログになっていくというところも面白いんで。
だから全て番人がすべきだと思いませんけど、
文章を読むとか書くに興味がある人は、
何かしらウェブに自分の場所を作って書き残していく。
スピーカー 2
時系列で書き残していくのは、
良い知的生活の習慣だなという気はしますね。
スピーカー 1
そうですね。
あと、形式も内容も自由に書いて、
一定の時間蓄積していったときに、
後から振り返ってもちろんログとしての意味もありますけど、
スピーカー 1
そこから後から見ていったときに、
それこそ一行記事、三行記事も含めて見たときに、
一つ一つは成立していない。
一つ一つ取り出してもあんまり意味のないようなものもあるんですけど、
ある視点でピックアップしていって、
例えば100個記事があるうちの10個ぐらいピックアップしたときに、
その10個を編集する形で、
逆に時系列に断片的にバラバラに書いていたものからピックアップして、
一つの大きなものを作るきっかけにもなるわけですよね。
そのときに意外に一つ一つ頑張って記事を書こうとしていたときよりも、
ずっと力のあるというか、
自分でも想像しなかったようなものが生まれる可能性もあるということは、
すごく強調したいなと思うんです。
スピーカー 2
なるほど。
それは確かに経験者が語らないとわからないことだと思いますね。
スピーカー 1
そうですね。
それはやっぱり自由に書いているからそうなるんだと思うんですよね。
使えないもののほうがもちろんはるかに多いんですけど、
一つ一つ取り出したのに。
その時々に書きたいことを書くというのを一定期間続けると、
結構そういう後から振り返ると、
やっぱり一つ一つは断片的でも、
スピーカー 1
それこそさっき倉下さん言われた三つ子の魂的に、
同じことを扱っている。
もしくは同じことを扱っていないけれども、
その真相でつながっているようなものがいくつもあるわけですよね。
スピーカー 1
それを後からピックアップしてつなげると、
ちょっと自分でも考えていなかったような、
強度を持ったものになり得るということは、
とっても強調したい感じが、
そうした方がいいですよということでは全然ないんですけど、
結果的にそういうことになるという可能性は高いんですよね。
スピーカー 2
例えば全ての記事が全力で書かれていたものの場合、
たぶん一つ上の統合を見出すのが難しい。
難しいかもしれないですね。
予感がありますね。
スピーカー 1
なんででしょうね。
スピーカー 2
比喩的に言うと、余白がないからだと思うんですけど。
スピーカー 1
道々やから。
緩いものと緩くないものが混ざってたほうが上手くいくっていう。
スピーカー 2
気がしますね、印象として。
スピーカー 1
そうか、余白。そうですよね、余白ですね。
スピーカー 2
だからやっぱり、エイジェンティックに書かれた記事は、
ほぼ余白がないわけで、
スピーカー 2
あれの蓄積がどういう意味を持つのかが、
まだ人類は経験してないわけですけども、
代替させて書かせたものが、
自分の思想的バックボーンとして機能をし得るのかどうか、
っていうところは実験しないとわからないわけですが、
僕は相当怪しいんじゃないかなとちょっと思いますけどね。
そうですね。
スピーカー 1
それについて語ることができるほど使っていないので、
わかんないですけど、
でも、余白のなさと多分関係するんですけど、
例えば、そういうエイジェンティックな書き方をしたものを、
後から自分で編集しようと思っても、
ほとんどできないということを考えてみるに、
それを集めて、つなげても、
スピーカー 1
やっぱり編集できないんじゃないかという気はしますし、
例えばメモを自分で蓄積して、
それを食わせてアウトプットさせることはできると思うんですけど、
その時にメモの内容は使われているんだけれども、
スピーカー 1
何が自分が足りない気がするかというと、
接続するために補う、
自分で補おうとする時に発動する思考というか、
そこがすごく実は大事だったりしません?
スピーカー 2
いや、だと思うんですよ。
そこが抜け出るんですよね。
スピーカー 1
情報としては使われているんだけれども、
その情報を使おうとする時に自分の中で発動する思考が、
実は一番大事だったりする気がするんですよね。
スピーカー 2
やっぱりメモとは何かという話になるわけですけど。
スピーカー 1
そこに繋がりますよね。
スピーカー 2
常々、特にワークフローリーを使って以降、
常々感じてるんですけど、
断片的なメモを集めても文章にはならないんですね。
スピーカー 1
ならないですね。ならないんですよ。
スピーカー 2
なぜかというと、あれは圧縮点だからなんですね。
ある想念を後で自分があれだって分かるように
記しているだけのことなんで、
それが何を語るのかは自分がそのメモをもう一度見て、
それについてZIP圧縮されたものを展開することで
初めて役に立つんで、
スピーカー 2
ZIP圧縮されたファイルだけが並んでても何もない。
その例えすごくわかりやすいですね。
スピーカー 2
だからやっぱり最近でもワークフローリーを使うときも
メモ的なものがあったとしても、
スピーカー 2
それを文章を起こすときはもうその項目を移動させるんじゃなくて
新たにメモを書き下ろすということをよくやってるんですけど、
やっぱりそうすると流れていく思考が生まれていく、
活動していくという感じになるんですが、
スピーカー 2
それ以前の状況は似たメモの項目が5つあるから
それを1つの項目下に並べて
スピーカー 2
どうにかならへんかなっていうのを待つみたいな。
でもそれはどうにもならないんだということを学んできたので
文章化している。文章化するときは
圧縮した点を回答している。
回答する中で僕の中にあるロジックが展開していく。
それは多分その時点の僕にしか展開できない
新体制を持ったもので、
例えば2週間前にやったら違う結果になっただろうし、
スピーカー 2
2週間後にやっても多分違った結果になるけど、
その時点で僕が回答したらそれになっていく。
その時の僕の思考の流れ。
つまり僕の新体が持っている思考の流れに沿ったものになる
という回答をしているわけですけど、
少なくとも現状のエージェントにメモを渡しただけで
それの同じことを期待するのは難しいので。
スピーカー 1
難しいですよね。
スピーカー 2
だから圧縮されたメモを整えてくれたのはいいけど、
僕自身は1回もそれを回答していないものが出来上がるわけですから。
スピーカー 2
それはその後扱えないですよね、基本的に。
スピーカー 1
確かに自分がメモとして書いた情報が使われて文章化されているんだけれども、
自分がメモを取った時に感じていたこのメモは、
自分が思いついた何か意味のあることに繋がっているという感覚は
そこに載ってないわけですよね。
なぜなら書かれた文字しか使われていないから。
スピーカー 1
もちろんそれを接続して文章化するために
エアエージェントが学習してきた色んな何かは使われているんですけど、
それは自分の中のものではないので。
圧縮されたものを展開して、
展開されたものを接続していく時に
自分の中から何が出てくるかというところが
おそらく大事なわけで。
自分でそれを展開して、接続して
わーってなったのをエアエージェントに渡して
整えてもらうというのはあるかもしれないけれども。
その逆は難しいし、
それは原理的に将来的にもできるようにはならないんじゃないかと思うんですけど、
そんなことはないのかな。
スピーカー 2
僕が行う情報処理の形式を全て学習していたら、
今みたいにウェブの膨大なものから学ぶんじゃなくて、
僕のアウトプット過程を全てを学んでいるエージェントがあれば
不可能ではないと思いますが、そんなことは行われないので。
スピーカー 1
できないですよね。
あと整理的な部分も含めた自分の思考というのは
スピーカー 1
やっぱり大体はできないと思うんですよね。
スピーカー 2
やっぱりこの思考というような言い方とか、
もっと言うと理性という言い方が顕著なんですけど、
あまりにも普遍的に聞こえるんですが、
思考というのは身体で言うものなので、
スピーカー 1
そうなんですよ。
スピーカー 2
1回1回違うんですよね。
スピーカー 1
そうなんですよ。
スピーカー 2
そこを踏まえておかないと、
思考が大体できるとか大体できないという話が混乱してしまうわけですか。
私の思考はこの5時7分の思考であって、
歴史的な出来事なんですね。
それをある種のパターンで大体することはできますが、
あくまで疑似的なものであって、
そのものでは絶対にないとは思いますけどね。
スピーカー 1
そうです。
それを理解して使うのであれば、
いろいろ役にはもちろん立つと思うんですけど。
毎回そういう話になりますけどね。
スピーカー 2
ここも喫緊の問題だと思います。
非常にこれ重要な問題だと思いますね。
AI文章の違和感と人間らしさ
スピーカー 2
だから性性愛ぽい表現が受け付けないみたいな話がありますが、
僕はあるんですけど、
そこにある問題の表面がそれとして出てきているだけであって、
そういうAIっぽい表現を消したらいいかというと、
多分そういうことではないやと思う。
スピーカー 1
ないですね。
スピーカー 2
自分がいくつかやった実験で言うと、
こちらがほとんどプロンプトに手を加えなくても、
さっき言った奇妙な感じを受ける文章ではないものを出力させることは全然可能なんですね。
解説書的な文章とか、
この前はエージェント自身がやったものをレポートして記事に書くような文章は、
ちょっと派手な文体でしたけど、奇妙な感じはなかったんですよね。
でもnote.comに上がっている明らかにエージェンティックな文章は、
比喩で言うと、
食べにくいとかまずいじゃなくて、
食べ物ではないという感じがするんですよ。
スピーカー 2
受け付けえない。
途中で本当に嫌になってしまう。
スピーカー 2
個性があるとかないとかじゃなくて、
何か本質的なものがないんやと思うんですよね。
文章の本質的なものっていうのは文法と語彙ではないということだと思うんですけど。
スピーカー 1
文章の種類にもよりますけど。
スピーカー 2
先ほど言った解説書とかではない、
note.comに上がっているのは誰かの記事ってことで、
要するに誰かの記事。
スピーカー 2
誰かの記事を読むときに、
僕が摂取したいと思っている要素は、
文法が整ったものと語彙ではない。
何かっていうとロジックなんですよね。
このロジックっていうのは論理展開っていうことじゃなくて、
スピーカー 2
さっき言ったジップを圧縮したものを展開するときに流れ出てくるものを、
多分僕は摂取したいと思っているけど、
そこにそれはないんですね。
そんな文章をたくさん書くっていうことを、
さっきのサイト全体で考えていきましょうっていうことに、
当てはめられるかっていうと当てはめられない気がする。
業者になったら別に何の意味もないと思うので、
アクセスを稼げるとか人気が出るっていう、
別の指標で見たときに何か価値があるかもしれませんけど、
個人がサイトを書いていくっていう営みにおいて、
非常に重要だった成分が丸っと抜け落ちている気がするんですよ。
僕はこの批判の言葉が必要だと今思うんですよね。
スピーカー 2
自動化するのが良くないとか、
エージェントに欠かせるのが良くないみたいな話ではなくて、
本当にここでいう本質っていう言葉が何かわかりませんけど、
本質的なものが抜け落ちている文章の書き方っていうのがあって、
それを積み重ねるぐらいなら、
生産効率が十分の一になったとしても、
自分で書いた方がいいんじゃないかっていうことを、
論理立てて言いたいという気持ちがありますね。
スピーカー 1
逆にそうでないものをエージェントに欠かせることはできると思います?
スピーカー 2
できる気はしますけどね。
読み手が気にしなければ成立してしまうんだ、要するに。
スピーカー 1
そういうことをやってきている人もいるのかもしれないけれども、
仮にそれを読んだらそれは、
僕はたぶん人間が書いたと思って読んじゃうと思うんですよね。
それに成功しているものがもしあったら。
スピーカー 2
だからたぶんそもそも気がつかない。
スピーカー 1
だからもしかしたら、あったんだけど気がつかないで読んじゃって、
ああ面白いなと思って読んでいただけなのかもしれない。
スピーカー 2
それは全然あり得ますし。
スピーカー 1
それは全然いいわけです。それができるなら全然いいわけですよね。
スピーカー 2
エージェンティックな文章だと思われるというか、
エージェントが書いたから嫌だじゃなくて、
文章が変なんです、要するに。
スピーカー 2
ロジックも変だし、
メタ波は変だし、
基本的に見出しをつけるのがめちゃくちゃ下手なんですよね。
あれ何なのかしら。
スピーカー 1
独特の見出しですよね。
スピーカー 2
だいたいね、点が入っている。見出しに。点が入っていることが多い。
でも見出しってそんなに点入ることないんじゃないですか?
スピーカー 1
見出し点入れますね、僕。
スピーカー 2
全部の文ぐらいに点が入っている。
あんまりたくさんの文で点が入っているなって思ったことはないんで、
スピーカー 2
点が入っていることが問題ではないのか。
点がつないでいる文が変だということかな。
点の前にある文と点の後ろにある文の接続が気になっているのかな。
スピーカー 1
僕は断片つなげる系の記事で、
見出しとしてようやくできなくなっちゃったときに、それを結局点をつける。
スピーカー 2
文が変なんだな。見出しとして機能しない文になっているということなのかな。
これ点も特徴のひとつでしかなくて、
おそらくそこの裏で働いているロジックが変だということなのかな。
スピーカー 1
いや、でも点が入っているのが多いというのはわかりますね。
入ってますね、確かに。
スピーカー 2
なんか見出しの機能を果たしてないような気がするんですよね。
見出しっぽいんですけど。
スピーカー 1
だから太字になってるから見出しに見える。
スピーカー 2
リード文としても機能してないし、なんかあそこ。
あれは何なんだろうな。
だって彼らが学習してきた文章の見出しはちゃんと見出しとして書かれていたはずですよね、要するに。
違うのかな。
スピーカー 1
わかんないですけど、見出しと内容の関係を学習してるようには見えないですよね。
スピーカー 2
そういうことか。なるほど。
スピーカー 1
じゃあ何を基準に見出しを入れているのかということですよね。
スピーカー 2
でも論文とかを書かせたらもっとあれなのかな。
やっぱりフォーマットに引きずられてるのかな、彼らも。
でもそうですね、読み物じゃなくて、
スピーカー 1
あと英語の方が上手くいっている感じはなんとなく受けるんですけど。
僕英語の文章を読んでて、これAIだってわかったこと一回もないですね。
スピーカー 2
そういえば。
ゼッター入ってるはずですけど。
入ってますね。
スピーカー 2
そんなにこれもうあれっていう、おぞけする感じを受けたことは一度もないんで。
スピーカー 1
でも多分膨大に入ってるはずですよね。
英語もだから、それこそYouTubeのAIナレーションは英語だろうが日本語だろうが100%わかりますけど、
文章は英語のほうがしっくりきてるのかもしれないですね。
ネイティブかネイティブじゃないかっていうことはありますけど、
日本語ほどの違和感を英語では感じないような気もします。
スピーカー 2
やっぱりそういう点。
たぶん論文を書かせるの、そこまで見出し構造が変。
だから論文は構造がめっちゃ重要ですけど、
日本語の文章ってエッセイが多いんで、
だからそもそも階層構造を意識して書かれてない文章が多いじゃないですか。
だから学習の素材が悪いというか偏ってる可能性はありますね。
スピーカー 1
その辺がそもそも日本語難しいのかもしれないですね。
確かに。
スピーカー 1
エッセイっぽいっていうか、随筆っぽい文章を書かせると、
逆に変に詩的な、ポエムっぽい感じになったりとか、
そうではないごく素直な文体の随筆って、
なかなかうまくそういう文章って出力させられなかったりするんですよね。
もちろんプロンプトン語の仕方によっても違うでしょうし、
語彙によっても違うでしょうけれども。
あとこっちの日本語と英語を読む精度が違うから。
スピーカー 2
圧倒的にそれはあるんですね。
スピーカー 1
それもあると思いますけど。
スピーカー 2
つまりこの単語は、別の単語と、
よく狂気している、狂気してないの判断がずれてるから、
日本語の場合おかしいって感じるんですけど、
英語の場合僕はそれがわからないんで、
文体と文章生成のメカニズム
スピーカー 2
この文章でこの形容詞使わへんだろうみたいな感じを、
僕は判断できないから、
たぶん先生が書いてても全くわからないと思いますけど。
だから日本語に対して僕は敏感すぎるというのはあると思います。
スピーカー 1
それはそうかもしれないですね。
スピーカー 2
ほとんど感じない人もいると思いますね。
それだけでは説明できない変な感じがあるとは思うんですけどね。
あれ、日本語で出力されるもの、
スピーカー 1
その結果の前提となる学習対象というのは、
全部日本語なんですかね。
スピーカー 2
そこも彼らの中はわからないことになってるみたいですけどね。
スピーカー 1
英語で学習した文を日本語に翻訳したりしてないですかね。
可能性はあります。そういう雰囲気は感じますね。
スピーカー 1
それが変な感じがする場合もあるかもしれないですね。
スピーカー 2
彼ら、たまにシンキングって言って、
考え中のタイミングがあって、
そこの中を除くと結構英語で思考してて、
最終的に日本語で出力してる場合もあるらしく、
それは確率論的な振る舞いなので、
毎回そうしてるかどうかわからないですけど、
そういう場合はちょっと変になるでしょうね。
スピーカー 1
これが一つあるような気もするし、
そうすると今後、
もうちょっと変わっていく可能性もあるかもしれない。
どうでしょうね。
開発している会社がどういう用途で使ってほしいかを見ているのかというところで、
スピーカー 2
クロードコードなんて基本的にコーディングエージェントとして使われてますから、
日本語の文章どうのこうのみたいなのは、
あんまり力入れないような気がしますけども。
結局、あらゆることに対応できる超知性体ではないので、
ある方向に特化させたら、
別の能力はある程度衰えてしまうというトレードが絶対ありますし、
あるものを指令をコンテキストに載せたら、
たとえ十四万が全部載ってたとしても、
彼らは読み起こすことがあるので、
何かが得意やったら、
他の何かがそんなに得意じゃないっていうのは現状の、
スピーカー 2
全体の底が高いから別に目立たないんですけど、
得意不得意というのはあると思いますね。
ですよね。
スピーカー 1
でもそのことを考えていると、
人間が書くというのはどういうことをしているのかというのを考えざるを得なくなっちゃいますよね。
スピーカー 2
これやっぱり難しいんですよね。
もともとだから無意識の処理じゃないですか。
毎回僕思うんですけど、ある一文書いて次一文を理性で紡ぎ出しているかというとそうじゃなくて、
思いつく文を書いているという、
エージェンティック、デリジェントしているわけですから。
スピーカー 1
学習した結果から生成されているわけですよね、それはね。
スピーカー 2
だからやっぱりエンジンが違うから気持ち悪いのかな。
人間のエンジンで生成されているからいいのか、
そもそも生成の仕組みが違うからあれなのか。
2つ思うんですけど、僕ら生成した後に編集するじゃないですか。
たぶん鍵はそこにあるんじゃないかなと思うんですけど、
思いついた文を直すときに働く何かがあると思うんですよね。
スピーカー 2
思いついた文を思いつくのはさっき言った結構ジェネレートな感じで、
しかもこれも確率的に揺れるんですけど、
出てきた文章を直していくうちに統合が生まれるんですよね。
スピーカー 2
そこがたぶん彼らは薄いんじゃないか。
僕らがそれをやらせていない、生成やいぽんだしは、
たぶんエディター、エディットのレビューを通さず出してると思うんですよね。
エージェントに生成させて、別のエージェントに厳しくレビューさせたら、
もうちょっと整った文章になると思うんですよね、きっと。
スピーカー 2
基本的にコーディングの世界はそうなってるんですよ。
書いたコードをそのまま通すことはなくて、
人間がレビューするか、別のエージェントにレビューさせて、
初めて効果的なコードになるって話は頻繁に聞きますから。
だからあれはたぶん欠かせっぱなしなんですよね。
文章の場合は。
無駄な形容詞を削る修正を加えてくださいとか、
いくつかの人間がやる編集的なプロンプトを入れて直すと、
もう少しマイルドになるのではないかな、試したことないですけど。
スピーカー 1
それはあると思いますよ。
スピーカー 2
出しっぱなしは書きっぱなしと一緒で、
ノー編集で思いついたことをバーって並べているだけ。
例えばこのポッドキャストも、
スピーカー 2
しゃべっていることを並べただけでは、書き起こして成立しないわけじゃないですか。
しゃべり言葉そのまま並べているだけに近いんじゃないかなとは思いますけど。
スピーカー 1
それはわかりますね。
面白いですよね。このポッドキャストも、
たぶん文字起こししただけでは読み物としては成立しないですけれども、
だから出てくる内容があって。
スピーカー 1
これね、本当に時間かけて編集したらすごいんですけど。
結構すごい内容が入ってると思いますけど。
これをAIでできるかどうかですよね。
いや、できるとは思うんですけど。
スピーカー 2
フィラー音とかを切ることは機械的に。
波形を見たら多分できると思いますけど。
スピーカー 2
人間がやる編集ができるかどうかはちょっと難しいですね。
スピーカー 1
何かしらの編集はできるかもしれないですけど、
例えば倉下さんがやる編集とか僕がやる編集の結果として期待するようなことは、
ちょっと難しそうな気がしますね。
スピーカー 2
そうですね。何よりも、
同じ番組に対して僕が編集したのとタクさんが編集したのが違うわけで、
その違いこそが面白いわけですけど。
だからそのエージェンティックな編集に、
いわゆる個性と呼べるものを持たせ得るのか。
つまりそのエージェントのモデルがあり、
元のデータがあります。
それを使った10人がそれを処理します。
その10人が出てきたものが大体似てます。
それはあまり意味がない。
スピーカー 2
意味がないというか価値がないわけです。
そうじゃないものを間に入れることができたとしたら、
10人編集したときに10人違うパターンの編集結果が出てくるとしたら多分意味があると思うんですけどね。
スピーカー 1
そうですね。
今この話で思い出してましたけど、
5年ぐらい前に対談本を集中的にたくさん作った時期があるんですけど、
あれ面白いのは、
僕はあの時録音して、
手動文字起こしをしたんですね。聞きながら。
で、その文字起こししたテキストを今度また別ファイルで編集して、
読める状態にするっていう作業をしたんですけど、
相手がいるじゃないですか、対談って。
そうですね。
スピーカー 1
勝手に変えるわけにはいかないじゃないですか。
スピーカー 2
そうですね。はい。
スピーカー 1
でも編集すると変えたくなるんですよね。
スピーカー 2
そうでしょうね。わかります。
スピーカー 1
特に同じ話題が離れた場所に出てきた時に、
読みやすさとしてはくっつけたくなるんで、
それを移動するというのは許されると思うんですよ。
でも実際、位置は結構移動させるんですよね。
話した内容はもちろん変えないけれども、
でもその位置を移動したことによって、
その接続するときの段差が生まれて、
その段差にこういう話が入ってれば面白いのにって思っちゃうわけですよね。
もちろんそれ入れちゃいけないんで。
スピーカー 1
っていうことは、だから自分の文章を編集しているときにはそれをやってるわけですよね。
スピーカー 2
そうですね。そうで思います。
スピーカー 1
段差を埋めるときに、ここにこういうのが入ってたら面白いのにという、
それこそが発想なわけですよね。
スピーカー 2
なるほど。なるほど。
スピーカー 1
それをできることがものすごく大事な気がするんですよ。
スピーカー 2
なるほどね。
スピーカー 1
そんな大々的に編集しなくても、
おそらく多くの人は頭の中でそれをやりながら書いているはずだと思うんで。
それをやるチャンスが奪われるというのは、
すごく自分は怖いというところがあるし。
スピーカー 2
その怖さは、成果物のクオリティが落ちることなのか、
自分のプロセスが損なわれてしまう怖さなのか、
どのレイヤーの怖さなんですかね。
文章を書くことの楽しさと難しさ
前者じゃないですかね。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
クオリティというか、本当はもっといけたのにかみたいな。
なるほど。
スピーカー 1
でもやっぱりよく、
仕事でも仕事じゃなくてもいいですけど、
締め切り直前に、
こういうのを入れたらすごく良くなるけど時間がないみたいなのがあるじゃないですか。
スピーカー 2
はい。
スピーカー 1
それはだいたい、もっと早くから計画的にやっておけばよかったのになっていう話に回収されるんですけど、
あれ違うと思うんですよね。
ギリギリでそういうのが出てきちゃうものだと思うんですよね。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
だからその人が考えながら書くときの仕組みってそういう風になってるんだと思うんですよね。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
だからそれも、その最初の話につなげちゃいますけど、
いろんな断片的な記事が並んだブログみたいなのがあるときに、
それを全体として見ると、
全体として見るときに生まれる発想、
生まれ得る発想というか、新しい何かっていうのがあると思うんで、
スピーカー 1
別に一つにまとめる必要はないけれども、それを思い出したらまた新しく記事を書けばいいと思うんですよね。
そうですね。そろそろ思います。
スピーカー 1
で、リンクでもあって、きっかけになった元の記事にリンクでも貼っておけばいいと思うんですけど、
そういう面白さっていうのはやっぱり、
個別の記事だけを整えて書こうとするところからは出てこない気がする。
確かに。
スピーカー 1
自分も含めて、そういう楽しさを忘れちゃってるというか、できなくなっちゃってるところが自分も含めてあると思うんで、
ちょっと改めて、ここはもう一度立ち返りたい気がしますね、ほんと。
というふうに話し戻しちゃいます。
スピーカー 2
いやいやいや、でもまさに、そのような楽しむプロセスが、
生成AI本出しの文章ではたぶん生まれようがない。
他人が書いた文章ですから、基本的にはあれは。
スピーカー 1
そうですよね。
逆に言えば、自分が書いた文章として使えればいいわけですよね。
スピーカー 2
そうですね。そこを、でも、自分が書いた文章として使うためには何が必要かということですよね。
スピーカー 1
そういうことですね。
スピーカー 2
例えば、エージェントがやった自分の作業を書かせるレポートを見たんですけど、手を加えられないんですよね、要するに。
一箇所書いたら、もう全部変えなければならないわけですよね、要するにそれは。
スピーカー 1
そうなんですよ。
スピーカー 2
カーソルという雑誌を作ってたときも、基本的に大きく手を加えることはなく、皆さんに明らかなご自身の雑誌には修正をお願いしてましたけど、
コアモテ編集長のように、こんなものはダメだって赤ペン入れて返すことはしなかったわけですけど、
スピーカー 2
それぞれの書き手の個性とか実性が重要であって、
新聞とかはその新聞が持つ方向性とか伝統があって、それを維持するためにそういう赤っていうのは加えられると思うんですけど、
基本的に他人の文章は他人の文章、その細部にわたって他人の文章で構成されているので、
レポート記事でもそうですし、解説記事かな、
ほにゃらら開発について一緒にレッスンしましょうみたいな解説サイトの記事も、やっぱり部分的に変えるのは難しくて、
もうそれは基本的に他人様の原稿という感じで扱ってたんで、
そのようなものは気持ち悪くないんですよね。
スピーカー 1
ないですね。
スピーカー 2
僕の文章を書かせようとして出てきた文章はどっちつかずなんですよね、基本的に。
主体がエージェントと僕が混じっているので、直そうと思えば直せるでしょうけど、
スピーカー 2
でもやっぱり他人の文章なんですよね。
だから有名人がインタビューされてゴーストライダーが本を書いたときに、その文章に手を加えられるのはゴーストライダーの本ですよね、基本的には。
ここは直してとインタビューされた人が言うかもしれませんけど、原稿を直すのはゴーストライダーですね、基本的に。
だからエージェントが1から10まで書いたときに、こっちはやっぱり手を加えられないんじゃないかな、きっと。
スピーカー 2
それはすごく複雑なコードをエージェントに書かせてツール作ると、もう自分では手直しできないっていうのに似てるんですけど、
こっちのテリトリーではなくなってるんですよね。
自分が書いた文章はそのテリトリーにあるということか。
スピーカー 1
あるということではなくなってる。
スピーカー 2
自分がなぜそう書いたのかが、自分の意図の中に回収されてるもんな。
出てきたのは無意識であっても、その文を残したっていう判断があるわけじゃないですか、自分の中で。
その意図の中にあるから、時間が経っても自分の文章として扱えるということかな。
自分の生活の中にエージェントが書いた文章が入っていくと、割合がどんどん崩れてきて、自分の文章がどんどん無くなっていくのは、僕は端的に怖いなと思いますけど。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
文体が変わると思考も変わるでしょうし、それコインの裏表ですけど、思考が変わると文体も変わりますし、文体が変わると思考が変わると思うんですけど。
それが伸縮される感じがするんですよね。割合が増えると。
そこはやっぱり職業的物書きとしては、最大限注意を払ったほうがいい領域やなとは常々思ってるんですけどね。
スピーカー 1
文体というのを、やっぱり倉下さんはしばしば口にというか話に出されますけども、すごく文体を重視してるんだろうと思うんですよね。
で、文体ってなんか難しい。なんとなくわかるけど何なんだろうなっていうのはあるじゃないですか。なんとなく文体ってわかりますけど。
難しい。難しいんだけど明らかにあるということで。
意図的に文体をコントロールして内容を変えるようなこともできる人もいるだろうし、逆に内容が文体を規定することもあるだろうし、自然に変わっていくということもあるし。
スピーカー 2
変わっていくのに任せるのがたぶん自然な感じですけど、物書きとしては。
やったことがない人はやってほしいと思うんですけど、普段例えば携帯で書いてる記事を上体で書き始めたら、たぶん続きの文化が変わってくると思いますよ、これは。
スピーカー 1
いや間違いなく変わります。
スピーカー 2
それぐらい僕の中で文体っていうのは、内容を直接規定しないけど、内容、流れを決めてしまうような力を持っているので。
文章の面構えというか、そのようなものだと思うんで。
それはどうでもいいというわけにはいかないですね、やっぱり。
スピーカー 1
だからその生成のルールが変わるんですよね。
文体が変わると。
一番わかりやすいのは、形態と状態の変化で。
スピーカー 1
だから、よく途中で書きが続かなくなると、それまでの文を状態だったものを形態に変えて書くと続きが書けるようになるみたいなやり方もありますし。
一口に状態といっても、僕状態使いますけど、出あるって絶対使わないんですよね。
スピーカー 2
なるほど。
一切使わないですよ、出あるって。
スピーカー 2
出あるはもう完全に論文の文体ですもんね。
スピーカー 1
それは自分のこと、生理的に出てこないんですよね、出あるっていうのは。
スピーカー 2
出あるは読者がいない文章なんですね、あれはね。
論文とかは特にそうですけど、語りかける文章であまり出あるは出てこないですね。
出あるという文体がそれを拒絶するというか。
だから、「だー」のほうが、
まず、日常、文語交互もありますけど、ともそもそんなに言葉ないわけですから、出あるって日常でも。
ある特殊な空間を作ってしまうんですね、あの言葉は。
スピーカー 1
でもね、たとえばまた野良鉄さんでいいなしますけど、野良鉄さん結構出ある使うんじゃないですか。
だけど論文っぽくないですよね。
スピーカー 2
でもちょっと硬さはありますよ。
スピーカー 1
意図的に硬さを作ってる感じがありますよね。
スピーカー 2
フニャンとした柔らかさの反対、反対とは言いませんけど、ちょっとキシッといこうっていう、キシッといこう感はありますね。
スピーカー 1
だから僕、出あるが嫌いと言うと、自分が使う出あるは自分の中から出てこないんですけど。
スピーカー 2
はいはい、わかりますわかります。
スピーカー 1
人が使う出あるは全然そう思わないっていう不思議なところがあるんですよね。
たぶん文章とは何かっていうそれぞれの定義の中で、
スピーカー 2
要請する文体がマッチするかマッチしないかあると思うんですよね。
僕もあんまり使わないですね。
使えないわけではないですけど、書いたときにちょっと違和感が出てくるかなという感じがあるかな。
スピーカー 1
あとね、携帯の中に状態を混ぜるみたいな。
昔は結構多かったけど、今はすごくそれを嫌がる人が多いという話も聞くので。
スピーカー 2
最近僕、よく混ぜてますけど。
スピーカー 1
それはね、意図的にやるんですけど、すごくそれが違和感があって嫌だという方も結構いるらしいんですよね。
あと対言止めやるかやらないかとか。
スピーカー 2
対言止めはやらないほうがいい場合が。
スピーカー 1
僕やりますね、結構。
スピーカー 2
頻度によりますけど、対言止めの言葉の文末のリズムを整えるのに非常に便利なんですよね。
でもやりすぎるとね、ちょっと手抜き感があるのは否めないんですけど。
スピーカー 1
そうなんですよね。
スピーカー 2
これはまあ難しいところでね。文章の書き方に正解はないし、想定読者によっても違ってきますから。
だからそこが面白い。
そのセレクション、先の形態、状態、文体、対言止めするかするかのものものの判断がその人の文体を作っていくわけですからね。
僕とタカさんが完全に意見が一致したら同じ文体になってるはずですけど、そういうわけではないから違う文体ってね。
だからそれがないんだよな。
スピーカー 1
ジェネラルな文体の意図がないというか。
スピーカー 2
ただそうなっているという。
スピーカー 1
そうですね。こういう文体にしてくださいって言えばするだろうけれども、そしたらそういう文体になるだけなんですよね。
意図がない。その意図を持ってるのは僕であって、彼らの身体性から出てきたものではないという。
身体性なんですよね。生理的なものだったり。
スピーカー 2
そうそう、生理的なものだと思います。
だから好き嫌いが当然出てくるし、正解はない。
だから文章を書くのは難しいという話になるわけですけど。
正解があったら寄せるのは簡単なんですよね。そこに向かって進めばいいだけですけど。
スピーカー 1
でも一文一文書くたびにこれが合ってるかどうかは誰にもわからない。
このわからなさに耐える力がいると言うとちょっとまだマッチョな感じがしますけど。
スピーカー 1
これは意外にマッチョですかね。
そうですね。僕は結構知的マッチョな風がありますね。ちょっと気をつけようとは思うんですけど。
スピーカー 1
いや、いいんじゃないですか。
スピーカー 2
でも一応物書きとしてプロで生きていく上で、マッチョな要素がないとはさすがに言えないと思うんで。
スピーカー 1
いや、だってそれはマッチョじゃなきゃできないことはありますからね。
スピーカー 2
ありますね。そうですね。
でも文章をうまく書けるようになりたいと思ったら、トレーニングは必要なわけで。
そんなノココンと生きてて文章が突然うまくなるっていうのは夢物語ですから。
本人がトレーニングと感じるかどうかみたいなことはあると思いますけど、
でも何かし鍛錬と呼べるものは絶対必要なわけで。
スピーカー 1
少なくとも結果的には必要ですよね。
スピーカー 2
文章がある程度スムーズに書けるようになるっていうのも訓練の賜物なので。
毎日ジョギングするとかっていうのと同じ話なので、基本的には。
人間の脳はその能力を使うことで磨かれていくということは避けがたいので。
本を読んだら能力が手に入るとかではないので。
技法というのは実践してなんぼというところは欠かせないんで。
そこはマッチョな言説になってしまいますけど。
スピーカー 1
マッチョは人に強要するといけないですけど。
スピーカー 2
そうですね。
スピーカー 1
ただそれが必要であるということは厳然たる事実だったりしますから。
スピーカー 2
マッチョなことがちゃんとしている基準になるとまずいですよね。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
マッチョはマッチョのあり方としてあってもいいけど、
それはかなり得意な領域のことであるという切り分けはいるでしょうね。
スピーカー 1
あとね、マッチョに見えることをやっている人が、
それをひっしり耐えながらやっているとは限らない。
スピーカー 2
というか、耐えながらは逆効果な気がしますね、なんとなく。
スピーカー 1
マッチョという表現がもしかしたら違うのかもしれないですけどね。
スピーカー 2
適切なハマる言葉は知らないんですけど、
自分の過去の記事を読み返してしんどくなるみたいなことあります?
スマートフォンの情報摂取環境と広告の問題
ない。
スピーカー 2
話を聞くんですけど、僕も体験したことがなくて。
スピーカー 1
ないですね。下手だなと思うことはありますけど。
スピーカー 2
下手だなと思うことは僕も毎日ありますけど。
たぶんですけど、書くときに無理して書いてるから、
読み返したときにしんどくなるんじゃないかなという仮説があるんですけど。
無理するというか、無理して書くっていうのは、
時間がないからどういうことではなくて、
書きたいことじゃないことを書いてるという感じかな。
スピーカー 1
でもね、ありますね。
ちょっと義務的に書いたレビュー記事とか。
スピーカー 2
そういうのが読み返して多いと、ちょっとしんどくなるんかなという気はするんで。
だからこう、相反する2つの要素があって、
その人が書きたいことを書くっていうのと、
その読者のことを考えてある程度手を入れるということをする。
自分なりに好きにやったらいいっていう。
読み物として成立させる苦労と、好き勝手やったらいいっていうのは、
反対のことを言ってると思いますけど。
スピーカー 2
別にそうではないんですけど。
読む人のたたみに文章を整えることが好きなか嫌いかはありますよね。個人差。
スピーカー 1
そうか。それの好きっていうのはありますよね。
スピーカー 2
僕は文章を直すの結構好きなんで、そこはだから向いているんでしょうね。
それは読む人のためですか?
スピーカー 2
何でしょうね。文章がよくなっていくのが気分がいいということだと思いますよ。
スピーカー 1
別に読む人のためっていうか、自分がやっぱり気持ちいいんじゃないですかね。
それが結果的に人のために。
スピーカー 2
もちろん全く読む人がゼロの可能性の場で、そういうことをするかどうかはしないと思うんで。
読者の仮想的な存在はいると思いますけど。
スピーカー 2
でも自分の楽しみでもあるという両輪があるんでしょうね。
スピーカー 1
そうですね。もっと言っちゃうと、自分の中で働いている真理をすごく正直に描写すると、
読む人のためなんだけれども、純粋に読む人のためではなく、
読む人がその文章についてある種の考えを抱いてほしいという欲望みたいなものがあるわけですよ。
スピーカー 2
いやそれは間違いなくありますよ。
スピーカー 1
その欲望というのは、自分自身だったらこういう文章を読むとこういう考えを持ってやろうという。
結局自分に置き換わってるんですけど。
だから自分の欲望を読者の体験に投影しながら直しているみたいな感じが一番近いかもしれない。
スピーカー 2
いやでもやっぱり、これ面白いですよねと思って提出していますけどね、それはやっぱり。
何でもいいとはいえ、本当に何でもいいわけじゃなくて。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
面白い、自分がその対象とか思考に僅かでも面白さを感じているから出しているというのはあると思うんで。
この精緻に言語化していくと非常に複雑なことをしているなとは思うんですけども。
スピーカー 1
複雑ですよね、本当に。
スピーカー 2
でもやっぱり常に100%頭の分から終わりの分まで面白いでしょう定食ではなくて、
たまにつけもんだけの日もあるみたいなことのトータルとして面白いですよね。
だからやっぱり言われたようにRスタイルのブログって面白いですよねが一番の褒め言葉ということだと思いますけど。
スピーカー 1
まさにそうだと思いますね。
だから言ってもちろん個別の記事を評価してもらったらもちろん嬉しいですけど。
スピーカー 2
でもやっぱりあのブログ面白いねって言ってRSSに登録してもらうことがブロガーにとっての最大の褒美だと思いますが。
スピーカー 1
そうですね。RSSね。
スピーカー 2
やっぱりでもRSSが今その復権が望まれてますけど、やっぱりその時間軸を長く取るための装置なのであれは。
定期報道してブログ全体でどうこうっていうの。その感覚はやっぱりね非常に読む方も書く方も大切じゃないかなと思いますね。
そうですね。
あとそのツイッターで、かつてのツイッターでそのタイムライン、自分のタイムラインは自分でデザインするみたいな言い方があったじゃないですか。
スピーカー 1
誰をフォロー、どういう風にフォローするかでこう注意深くタイムラインを作っていく。
かつてのRSSにもそれありましたよね。
ありましたありました。
個別の書き手、ブロガーのブログ全体っていうのももちろんありつつ、それが混ざってフィードとして流れてくる。
それ自体は逆に今度自分が作っていくみたいな、自分の読みたい体験を、自分が誰をRSSに登録するかを通じて選んでいるみたいなところがありましたし。
ネットを巡る体験の心地よさって、ある時期にはかなりの程度それで決まってきたような気がしますね。
そうですね。
2006年、7年頃には。
スピーカー 2
ツイッターがタイムラインをいじり出してから話が壊れ始めまして。
フォローがフォローの意味をなさなくなってきたので。
やっぱりどうしてもより断片的になっていかざるを得ないし、フォローしてるのに見えないことがあるとか意味が不明なんですけど。
そこがかき乱されているので、そこを取り戻すためのRSSという文化ということだと思うんですけども。
自分のタイムラインを自分で作るということと、あとは逆に紙の新聞のような総合的な一面。
あれは結局、アテンションを最大化するために紙面は構成されているわけではないので。
いろんな話題が雑多に並んでいるわけですね。
あれぐらいの一歩引いた感覚で一個一個の記事を見るわけじゃないですか。
そういう引いた観点をネット上でも取り戻す必要があり。
逆にスマートフォンは画面が小さいので、酔った視点になるんですよね。
どうしても記事だけになってしまう。
だってタイムラインとかで見つけた記事をiPhoneで見て、その人のブログの全体を画面で全部たどろうかというと、たどらないと思うんですよ。
スピーカー 1
たどらないですね。
スピーカー 2
パソコンならするんですよ。ブラウザー開いて面白そうな記事を2,3個タブに並べていくみたいなことはするんですけど。
iPhoneの画面だとそれはしないので、そういうのも含めて断片的になってますね、どうも。
スピーカー 1
そうですね。その記事しか表示されないですもんね。
スピーカー 2
メニューとかサイドバーに隠れてたりして、押さないと出てこないとかも多いので。
それ以前にも全面広告だから、どんなページに滞在しないということもあると思うんですけど。
スマートフォンの情報接種環境は最悪に近いと思いますよ、現状。
人の広告を出す権利もあるけれども、そういう人の体験を侵食して踏みにじるというのは、ほぼ犯罪だと思うんですけどね。
そうですね。
スピーカー 1
その手の広告の、プラットフォームのやっていることというのは。
スピーカー 2
しかも広告のクオリティが担保されてないので。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
それが一番立ちが悪い。前に見たんですけど、次のページみたいなボタンがあるんですけど、それ広告なんですよね。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
嘘やなっていう。嘘はまずいですよね。
スピーカー 1
まずいです。
スピーカー 2
その状況に歯止めをかける仕組みがないことが一番まずいんですけど。
それでね、母がネットを使うんですよ。伝えるんですけど、iPadでね。
スピーカー 1
その手の広告があると先に進めなくなるんですよ。
スピーカー 2
はい、そうでしょうね。
スピーカー 1
でね、母はそれさえなければ使えるんですよ。
スピーカー 2
うん、なるほど。
スピーカー 1
真っ当に記事が表示されてさえすれば母は使えるのに、それのせいで使えないんですよ。
ものすごいね、悪だと思いますよね。
確かに。
その時によってクローズボタン。
あれ、ほんまに怖いですよね。
スピーカー 1
表面になってたり、右の上にあったり下にあったり、表現が違うってさ、
それ、探せないですよね。目も悪いし。
そんなことをそもそも、そんなことをするなんて考えてもいい。
スピーカー 2
そうですね、確かに。
スピーカー 1
いや、ほんとそれね、悪だと思いますね。
それがなければ普通に使えるはずのものを使えなくしてるわけですからね。
スピーカー 2
リテラシーの高い若い人は回避できるから問題ない扱いされてますけど、
実は大問題なんですよね。
スピーカー 1
大問題で、リテラシーの使いどころそれじゃないですからね。
そりゃそうだ。そりゃそうだな。
スピーカー 1
良く思いますね、それはね。
本来はちゃんと規制すべきもので、
スピーカー 2
最近ダークパターンがうぬんかんぬんで、どっかの象徴が動いてましたけど、
遅いぐらいですけど、問題が認識されてるだけマシですけどね、まだ。
スピーカー 1
あれダークパターンとすら言えないんですよね。
スピーカー 2
いや、もう詐欺ですからね、ほぼ。
広告を載せてるメディアも別に嬉しくないし、
誰が喜んでるのかっていう話で。
しかも広告の表示数もごまかされてるらしいんですよ。
スピーカー 2
広告を出してる方も嬉しくないし、あの仕組み。
多分、ただ中野企業者が喜んでるだけのことだと思うんだけど。
スピーカー 1
そこだけで回ってるんですかね。
おそらくは。
スピーカー 2
広告を出した企業は、その分野に近い雑誌に広告を出したほうがはるかにいいと思うんだけどね。
実際そうなってるじゃないですかね。
ちゃんとお金のある企業は紙媒体とかに広告を出してる気がしますけど。
間買い物の広告のほうが多くないですか。
たまに高級車とかの広告が流れてきますけど、
でもうさん臭いのがほとんどですよ、あれ。
スピーカー 1
広告だとさえ思ってないんですよね、こっちは。
スピーカー 2
そうですね。広告だとすら思ってないですね、確かに。
広告ですらないのか。
スピーカー 1
ただの邪魔な何かっていう。
スピーカー 2
インターネットを使う上でついてくる邪魔な何かみたいな。
あれ、広告論で論じたらダメなんですね。
そりゃそうだな、何も広告してないもんね。
スピーカー 1
そうなんですよ。
広告として評価できないものなんですよね、そもそも。
そうですね。
スピーカー 2
ウェブの読み物の難しさはその多面的な要素でありますけども、
知的生活としての文章執筆
スピーカー 2
それはそれとして自分でブログの文章、
ブログじゃなくてもいいんですけど、日記サイトでもブログでもいいんですけど、
時系列で残していくということを、
2026年に提案するのはどうかと思われますが、
でも2026年だからこそ始めたほうがいいかなという気はしているので。
スピーカー 1
そうですね。今だからこそっていうのはありますね。
何のメリットも僕は教えてあげられないですけど、少なくとも金銭的な。
スピーカー 2
ちょっとロマンティックなことを言わせてもらえば、
やっぱり知的に価値がある行為だと思いますね、これは。
スピーカー 2
だからそれは誰かが矢表に立って言わないとダメだと思って言いますけど。
矢表。
スピーカー 2
大いに批判されることを踏まえた上で、
でもやっぱりそうやって残していくことは、
いわゆる知的生活とか教養みたいなものに接続する大切なことだと思うので。
もちろんツイートとかでも全然いいんですけど、
スピーカー 2
可能ならばドメインを取って自分のサイトを持つというのが一番長持ちするやり方ですね。
継続性が高い。
プラットフォームはなくなる可能性があるので。
そうなんですね。
スピーカー 2
あとバウンの可能性もあるので。
問題があるんですけども、そこまでコストをかけたくないのであれば、
SNSでも有名な?ブログとかノートでもいいんですけど、
そこに自分なりの考えを綴っていくという、
プチ随筆でもいいんですけど。
日記でも何でもよくて。
それで文章として表すことをするのは、
頭を動かす訓練でもありますし、
さっき言った自分なりの考えを育んでいく種でもあるので、
スピーカー 2
やっておいてもいいんじゃないかなというのが、
この後半の話ですけど、
そもそも難しいよねというのが初めにあったわけですけど、
難しいのはね、しゃあないですね。
慣れたら難しくなくなることもありますし、
スピーカー 2
テクニックを覚えたら難しくなくなることもありますけど、
文章を書くことの本質的な難しさは多分なくならない。
スピーカー 1
それはそうですね。
悠々時々に書ける時もありますけど、
スピーカー 2
僕毎週ニュースレターを書いてますが、
この前火曜日に配信した記事があるんですけど、
2時間半かかりましたからね。
その記事書くのに。
3000字くらいかな。
スピーカー 1
それ早いんですって。
スピーカー 2
早いんかな。
僕の中ではめちゃくちゃ苦労した記事なんですけど。
スピーカー 1
僕1500字書くのに3週間とかかかりました。
スピーカー 2
結局これぐらい文章を書くことを経験してる人間が2人いたとしても、
別に簡単にはなってないということなので、
難しいなりに対処していくということは意識したほうがよくて、
それを簡単にしようと思うと省力化してしまい、
スピーカー 2
平均化してしまいということになるので、
苦労を減らすことはいいですけど、
スピーカー 2
楽にはならないとは思ったほうがいいと思いますね。
スピーカー 1
それはそうですね。
でも多分文章に限らず、
何でも真剣にやろうとすることは何でもそうかもしれないですよね。
スピーカー 2
真剣にやろうとすることはやっぱり難しさは感じるし、
でもそれはやっぱり誠実に取り組んでるからだと思うので、
そのこと自体がどうということはなくて、
特に能力が劣ってるか才能がないみたいな結論づけは全く不要で、
そもそも難しいのだとこういうのは。
今日、明日がどうということじゃなくて、
5年後、10年後のスパンで捉えておくと、
スピーカー 2
もうちょっと一つ一つの記事にこだわるというか、
固執してしまうことは避けられるんじゃないかなというのが、
自分の実感としてはありますね。
スピーカー 1
どうですよね。
でもそういうふうに言われている人は、
スピーカー 2
逆に誠実だからそう感じているんだろうと思うし、
スピーカー 1
実際そうだと思うんですよね。
不誠実であればとっとと別の方法を。
スピーカー 2
そうですね。間違いない。
スピーカー 1
今、いくらでも別の方法があるんで、そっちの方に行くはずだと思うんで、
そういう人の方が僕は好きですけど。
スピーカー 2
だから生きすぎた誠実さが苦しみを増大させ、
手を止めてしまう状況には介入したいけども、
その誠実さそのものを否定するわけではないというところですかね。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
基本的に、なあなあというか、あんまり強い思想を立てないで言うと、
まあ書きたかったら書けばいいんじゃないですかって言いたがるんですけど、
いやもうちょっと書いたほうがいいよねとは言っておこうかなと思いますね。
だって書いたほうがいいと思っても、自分の中では。
それをあんまり稼働を立てたくないからちょっと柔らげてますけど、
僕の中では真剣に書いたほうがいいと思っているんで。
それって頻度だと思うんですか?量?
スピーカー 2
最初は頻度かな。
スピーカー 1
頻度のほうが先って感じですかね。
書くのに慣れることが先かな。量は多分後からだと思いますね。
でもそれもあれですもんね。絶対的な基準じゃなくて、
自分の基準の中でと言うことじゃないですかね。
スピーカー 2
でもまあ、天文の3案にしろ、小説家も短編から入ることが多いんじゃないですかね。
練習作として短いところは書くことが多いと思うんで。
やっぱり長いものを書くのは単純にしんどいんじゃないですか。
技術的にちょっと違うものが必要になっていくと思うんで。
頻度を上げることが仮に目標になる場合は、
一回の量を下げたほうがバランスはしやすいなとは思いますね。
スピーカー 2
もちろん1回1万字の記事を1年に何回かっていうパターンも全然あるとは思いますけど、
結構忘れやすいのでね、人間は。
短い頻度で日記の延長線のように、
この記事読んだけどこう思ったぐらいのところから、
ブログってそうやって始まったので、記事に対する言及から始まったので、
そういうとこからやり直していくというところで。
文章を書きたい人は日常的に考えてる人だと思うので、
その考えを何かしら合わすというだけであって、
今まで何も考える生活をしてこなかったのに急に書けって言われたら、
それはさすがに難しいかもしれませんけど、
読むとか考えるをしている人であれば、そこをスッと出す練習をしていけば、
書く技術みたいなのが上がっていくんじゃないかなと思うんで、
時代遅れかもしれませんけど、自分で文章を書こうということは言っていきたいですね。
文章を書くことの本質的な難しさと向き合う
そうですね。時代というのもやっぱり長いスパンで捉えると違って見えてきますからね。
スピーカー 2
確かに。
スピーカー 1
たかたかまだ普通に一般人がネットを使えるようになって30年経つか経たないかなんで。
スピーカー 2
確かにね。
スピーカー 1
30年経つか経たないかとか言ってる時点で、自分が年を取った感じしますけど。
スピーカー 2
せいせいや、まだ3年ぐらいですからね。GPTからして3、4年ぐらいだから。
スピーカー 1
GPTの普通に使えるようになって3年経つか、3年ちょっとぐらいですかね。
スピーカー 2
加藤期も加藤期、もう始まったばっかり、英明期なので全然。
現時点において少なくとも僕は、人間が書いた文章が読めるっていう嬉しさを感じてるので。
スピーカー 1
いや本当ですよね。
スピーカー 2
価値が上がってるんですよね、人科学文章の。
スピーカー 1
そういう記事が流れてくるとすごいホッとしますよね。
スピーカー 2
ホッとしますよね。
だから変な話、人間が文章が書けるということ、それだけで価値になっていく可能性がありますね。
スピーカー 1
でも今はまだ加藤期なんで、
普段せいせい愛で書いてる人も、
例えば自分で書く必要があったら自分で書けると思うんですけど、
本当に中学生ぐらいの時からそればっかりやってるとどうなるのかというのが。
スピーカー 2
怖いですね。
スピーカー 1
僕は心配することじゃない気もしますけど、でもどうなるんだろうなと思いますね。
小学生の時代から隣に電卓があって、単数の問題を全部電卓で解く場合、
スピーカー 2
その人の暗算能力は全く向上しないと思うんですけど、
それの文章版が起こるんでしょうね、きっと。
そこはどんな欠落があるのかということですけど。
スピーカー 1
僕はたぶん子供の頃から電卓があった最初の世代ぐらいだと思うんですけど、
暗算苦手になりますよね。
やっぱりその前の世代とかのソロ版を習ってた人たちと比べると明らかに暗算能力は低いですし、
バイト先のレジで鍛えられたみたいになってますけど、
当時レジが計算してくれないやつだったんで、暗算しなきゃいけなかったんで。
スピーカー 2
すごいレジやな。
スピーカー 1
本屋さんでそういうレジだったんですよ。
スピーカー 2
何かし基礎テクノロジーによって機械能力が劣るのも必然ですけど、
だからこのSSAに委任するのを、この工程、文章を考えて書くっていうことがなくなると、
その他に影響があるのかどうかというところですね。
なくなるのはもう絶対なくなるんで、なくなっていいものなのかどうかということですけど。
スピーカー 1
そうですね。文章じゃなく他の普通に考える場面でも考える前に聞いちゃう。
スピーカー 2
そういうことになるでしょう。
スピーカー 1
そういうことが普通に起こってると思うんで。
スピーカー 2
そうなったときに何が困るかということが多分問題で、
おそらくそれは倫理的というか責任というか、その相談結果を受け入れているのは自分だけど、
スピーカー 2
自分で決断した感じがしないというのはちょっとバランス悪いかなという気がしますけど。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
自由に生きるっていうことの、まるで逆の方向な気はなんとなくしますけどね。どうなんやろな。
スピーカー 1
しますね。
スピーカー 2
僕も言葉の意味調べるとか、英語の単語の語源を聞くとかはもうだいたいSSAに頼っているんで、
どうこうは言えないですけど。
スピーカー 2
でも書く文章そのものを丸投げするということはしたいとも思ってないですけど、
これ一般的なルールとしてはまず言えないと思いますけど、
でもやっぱり例えば今でも手算を習う人いるわけじゃないですか。
はい、いますね。
スピーカー 2
それと同じような感じだと思うんですけどね。
脳の一つの訓練としてそれをするっていうことの意味は依然として残り続けると思いますけどね。
というわけで、改めて2026年の知的生産の技術みたいなことを考えていきたいなと思っている今日この頃です。
AI時代における人間の文章作成
スピーカー 2
何かお知らせしたいこととかございますでしょうか。
スピーカー 1
ありません。
スピーカー 2
ありませんので、文章を書くときにSAIをどれくらい使っているかというご意見があれば、
ハッシュタグ打ち合わせキャスト、ひらがなで打ち合わせ、アルファベットキャストまでいただければと思います。
はい、じゃあ今回はこれまでにしたいと思います。お疲れ様でした。
スピーカー 1
お疲れ様でした。
01:57:50

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