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2025-09-11 1:21:24

第百八十一回:Tak.さんと「書きたいこと」問題について

サマリー

このエピソードでは、Workflowyの新しいAPI機能について語り、その操作性や可能性に関して議論が展開されています。また、知的生産に関する記事が紹介され、記事を書く際の難しさや作成プロセスの重要性にも触れられています。 このエピソードでは、カレンダー表示の設計について議論が行われ、曜日と週、月をカード型で整理する新しいアプローチが提案されています。視覚的配置が情報の取扱いに与える影響や、マンダラート手帳の考え方との関連性についても言及されています。 このエピソードでは、「書きたいことがない」という問題に焦点を当て、書くことの動機やメカニズムについて探求しています。特に、書きたい欲求と実際に書くことの関係について考察が展開されています。 このエピソードでは、書きたいことと考えたいことの関係性、また執筆のプロセスについて深く探求されています。ブログや文章を書くことが自己表現やアイデンティティ形成に与える影響についても言及されています。 このエピソードでは、書くことに対する悩みや「書きたいことがあるか」という問題を深く掘り下げています。サラリーマンの夢や言葉の価値についても触れつつ、書く行為が持つ意義や苦労に焦点が当てられています。 このエピソードでは、文章を書くことの本質について深く掘り下げ、書きたいことを書くことの重要性や、その際に伴うさまざまな技術的アドバイスのリスクについて考察されています。また、生成AIの存在が人間の執筆行為に与える影響についても触れられています。

00:03
スピーカー 2
うちあわせCast 第百八十一回ということで、 今回もゲストにたくさんお会いしております。
よろしくお願いします。
スピーカー 1
よろしくお願いします。
スピーカー 2
ニュースはいろいろあるんですが、 一つ大きいのがありまして、
WorkflowyのAPI機能
スピーカー 2
The WorkflowyのAPI Referenceというのが 公開されていまして、
リンクは概要ページに貼っておる分ですが、 何ヶ月か前から書き込みのためのAPIというのがございまして、
使えるようになってたんですね。
今回はそれを一新というか、 書き込み以外もできるAPIが使えるようになっているということで、
見てみると、項目の作成・編集という情報を与える行為とともに、
その項目の詳細を取得したりとか、 他項目のIDを取得したりとかっていう取得のAPIもあって、
おまけですけど、コンプリートする、 アンコンプリートするという操作に対するものもありまして、
トピックに対する基本的なハンドリングが API経由でできることになったということで、
これはもう実質、大変な人に並んだとは 言っても過言ではないというか。
スピーカー 1
そうですね。そういう面では。
スピーカー 2
今までカタクナにこのAPIはなかったんですけども、 かなりきれいなAPIが整備されていまして、
全くわからんという場合はともかくとして、
何かエンドポイントにアクセスして、 JSON返ってきたのを解析するみたいなことができる人であれば、
一定の操作ができるようになりまして。
操作方法、使い方のイメージとしては、 例えば、すごい極端なことを言うと、
どこかのRSSをチェックして、 その項目をワークフローに入れるとか、
間に生成やや挟んで、 要約したものをワークフローに入れるとかもできますし、
テンプレートですね。毎日作っている デイリーの項目があったとしたら、
一応ワークフロー単体でもテンプレートを コピーするみたいなのはできるんですけど、
それも一切使わずに、 つまり、自分がボタンを1個もクリックせずに、
毎朝7時にAPIをトリガーさせて、 毎日使うタスクリストを自動作成するみたいなこともできますし、
野良鉄さんがやられているみたいに、 ダイナリストをデータベースにして
ウェブサイトを構築するみたいなことの ワークフロー版も一応できるんですね。
できそうですね。
項目の取得と、個項目の取得の両方ができるんで、
そのページを描写するためのノードを1個用意しておき、
その個項目が記事リストみたいな感じになって、
あとはそれを1個1個の内容を取得して、 HTMLを生成すれば、ジャジャーンという感じで
ウェブサイトも作れますし、 コンプリート、アンコンプリートも操作ができるんで、
データそのものをワークフローに置いた 自作のタスク管理ツールみたいなのもできますし、
いろいろアイディアがありますけど、
例えばカレンダーとかリマインダー という項目を作っておいて、
毎日自動でプログラムがそこをチェックしに行って、
今日の日付が書いてある項目があったら 自分自身にメールするみたいな感じで、
リマインダーとしても使えるとか、
スピーカー 1
考えよることで大体何でもできるようになるということで、
スピーカー 2
これは諸原剣なとは思うんですけども、
結局過剰なことをやってしまいがちというか、
僕も実質かなり過剰なことをやっていまして、
デイリーのメモ、メモってデイリーで 項目を作ることが多いじゃないですか。
毎日僕はその日の項目を作ってたんですけど、
それを自動化したと。
メモっていう項目の中にある、 デイリーっていう項目の中に、
その日の日付の項目を自動的に作る APIを叩くっていうのを毎日チェックしてると。
iPhoneのメモアプリ、ショートカットアプリから、
今日作られた項目に今日書いたメモを送ると。
要するに送り先が動的に毎日変わるわけですね。
今までそれがバレット単位にあったんで、昔のAPIは。
だから毎日バレットのIDを変える必要があったわけですが、
今は新しく作成した、
今日の項目のIDを保存しておいて、
毎回そこにアクセスするという形をとってて、
手動で送り先を変えることなく、
今日の日付に送れるっていうことをして、
個人的には便利になってるんですけど、
なんて言うんですかね、些細ですよね。
スピーカー 1
本当の意味でのデイリーインボックスが作れるわけですね。
作れるってことですね。
スピーカー 2
こっち側は意識することなく、
何も操作せずにショートカットを起動させたら、
その日の項目に自動的に送られるっていうことになってて、
非常に箱庭的楽しさがあるんですが、
そういうことに注力する余りということがよく起こると思うんで、
APIはちょっと沼だなとは思うんですけど、
LINEファッカーにとっては楽しい遊び道具が生まれたなという感じですね。
スピーカー 1
そこにハマるタイプの人はハマればいいんじゃないかなというか、
そっちに行かない人は最初から行かないという面はありますけど、
でもワークフローって最近ハマっていたタガが外れたみたいな感じありますよね。
スピーカー 2
ありますね。
スピーカー 1
どうしたんですかね。
スピーカー 2
開発メンバーが新規で入ったんじゃないですかね、きっとね。
スピーカー 1
誰かがいなくなったか。
スピーカー 2
それで思想のフローが行われてたんでしょう、きっと。
その良い悪いはもちろんあるかと思いますけど、
こうやって変化していくこととしても、
ひとつのソフトウェアの歴史やなと思うんで、
スピーカー 1
個人的には遊び道具が増えて楽しいんですが、
スピーカー 2
でもどうなんやろな。
あんまりこういう言い方ですけど、
本質的なワークフローの使い方がそのままのほうがあんまり変わるってことはないとは思います。
スピーカー 1
あとその本質の部分でそんなに顕著に性能が落ちたわけでもないので、
今のところは全然問題ないですね。
スピーカー 2
APIの技術がバックグラウンドでどうこうという話で、
アウトライン操作に余計なボタンが増えたということではないので、
つまり気づかない人はずっとそのまま気づかないまま使っていくということはあると思うんで、
その辺の表だって出さないっていうか、
UIにいじらないというのはエコセンスとかと近い感じはありますね。
スピーカー 1
はい、どうぞ。
基盤がしっかりしたんで、それをやっても大丈夫になったみたいなメモがあるのかなと思って。
スピーカー 2
そうですね、そういうのはあると思います。
整備されたAPIもかなり整っているんで、
だいぶ熟練の技が感じられるというか、
だいぶ後ろでベータ版を動かした結果こうなったということだと思いますね。
思いっきり移行したとかそういうレベルではないと思います。
逆の話なんですけど、
Obsidianにベースズ機能というのが出まして、
マークダイオンファイルをうんちゃらかんちゃらできて、
データベースっぽく表示できるという機能で、
これも遊んでるんですけど、
こっちは逆に見た目そのものを変えますし、
ユースケースそのものが動いていく可能性が高いかなと思ってまして、
ちょっとオブジェクト指向ノートデーキングというか、
ノートのタイプごとにビューを分けたりとか、
あるいはタイプごとに機能を分ける、ファンクションを分けるという方向に
もしかしたら進んでいくんじゃないかなというような感触がありまして、
本の一覧とレシピの一覧というノート群があったときに、
これはちょっと似てるんですけど、
例えば作業記録を書いているデイリーノートは、
さっきのノート群と似てるかというと、
別にあんまり似てないわけですよね。
その似ていなさは何かというと、
求めている表示とか操作が多分違うということなんですね。
操作というか機能が違うということで。
Evernote以降の個人の情報をここに集めちゃいましょう的ツールって、
基本的にそのツールが全てのタイプに対して同じファンクションとか見た目を与えられる。
アレンジ、見た目を変えられるにしてもカードビューがリストビューになるぐらいのものだったんですけど、
もしかしたらもっと個別特化的に進んでいくんじゃないかなというような感触を今受けてますね。
どうなるかはわからないということで。
知的生産に関する記事
スピーカー 2
ワークロール話でいうと、最近記事を書きまして、
ワークロールで知的生産というような記事をノートに書きまして、
これ実はたくさんの記事にインスパイアされましてですよ。
メモの書き方がわからないという話で、ワークフローリーにメモを書いている方を共有されてたと思うんですけど、
あれを見て、ああいう感じで知的生産を進めるとしたらどういうことを書けるかなというのを思いついて、
実際僕も最近あんな形に、自分のアウトラインがああいう形になってるんですけど、
ああいう感じで進めていけたらいいんじゃないかなという記事を書いたんで、
リンク貼っておくんで後から読んでもらったんですけど、
説明しながらやっぱり、説明文を書きながら思ったんですけど、
変化していくものだよって、あるいは自分で作るもんだよっていうことを伝えるのってやっぱり難しいなと。
どうしてもその記事はある時点でスナップショットになってしまうし、
テンプレートとかこういう形でスタートしたらいいですよというのが、
どうしても青邪心というより完成図として捉えられてしまうところがあって、
僕自身はゼロベースで始めて自分で作りましょうということをこれまで大体よく言っていたわけですけど、
結局作れる人間、ちょっと強い立場で言ってるなという感じもありまして最近。
スピーカー 2
だからサンプル?お手本?数学の問題でいうと1個例として問題が解かれているのがあって、
2問目から自分で解きましょうみたいなアプローチの方が作りやすいんじゃないかなと思って、
おそらく絶対作るであろう項目っていうのを考えた時に、
汎用的なアウトライナーではまず考えられないと思ったんですね。可能性が広すぎて。
誰でも作る項目というのは多分ないと。そうした時に、
例えば知的生産という営みであったらこうであろうみたいな限定やったら項目が立てられるだろうし、
もっと言うと知的生産って最近感じるんですけど、学術研究における知的生産と、
ブロガーにおける知的生産って同じ言葉を使ってますけど、難易度がかなり違うわけですよね。
スピーカー 1
それすごい感じますね。
スピーカー 2
もちろん個々人の知的生産もバリエーションがありますけど、もう少し上のレベルで言うと、
論文を読んでいくスタイルと本を読んでいくスタイルって、似たことしてても違うっていう特に、
だからその中レベルあるいは小レベルのカテゴリーを決めると、
概ねこれいう項目は作れますよねっていう限定ならできるし、その限定が例として使えるんじゃないかなということで、
リーディングノート、ライティングノート、リストっていう項目、プラスメモっていうこの、
メモは多分どの用途にも出てくると思うんですけど、それ以外の項目をサンプルとして立てて展示してみたということで、
その反応、動向は別として、僕は結構ここの記事は上手いこと書けたなという感じはしてますね。
スピーカー 1
僕もシェアをさせてもらいましたけれども。
はい。
だからいろんな人の書いたそういう記事があるといいなと思いますよね。
スピーカー 2
それはそう思います。
スピーカー 1
それがまた全然違ってたりすると面白いんですけどね。
スピーカー 2
あとやっぱその、完成率として提示するだけじゃなくて、本人がその形をどう作ったのかとか、
作ったものからどう変わっていったのかっていうプロセスないしはダイナミズムが提示された方がいいだろうなと。
だから自由にやりなさいっていうのは言う方も楽ですけど、聞いた方にとっては可能性が広すぎますし、
逆にこの通りしなさいは言われた方は楽でも変化の可能性が削がれてしまうわけで、
その間の、グラデーションの間にあるものを表現したいんですけど、
こういうものから始めて、こう作り変えられますよということを何とか今後もちょっとうまい書き方を見つけたいなと思うところですね。
はい。
カードダイアリーの発明
スピーカー 2
これまた細かい話なんですけど、9カードダイアリーという発明が始まっているんですよ。
スピーカー 1
なんか先に書かれてましたね。
スピーカー 2
発明ということは大げさなものではないんですけど、日付に関する情報を並べたいと。
例えばデジタルと一緒で1週間分の情報を並べてみたいっていうときに、一番最初に思いつくのがやっぱりカレンダーなんですね。
カレンダービュー。
特に曜日が月から日曜日まで横に並んでいるタイプ、手帳で言うとバーティカルかな。
バーティカルタイプのビューを思いついてよく使ってたんですけど、どうにもこうよくないと。
うまくいかん、作れるのは作れるけど、うまくいかんということを繰り返していたんですが、
最近打解策を見つけまして、画面共有をいたしますが、
曜日ごとに並べつつ、週の情報と月の情報も一緒のビューに並べちゃうと。
最初作ったときとは順番が違うんですけど、一番上に月があって月間の情報があって、
月・火・水があって、真ん中に週があって、次に木・金・土・日。
だから、曜日のカードが7枚あり、1週間のカードが1枚あって、月間のカードが1枚あって、合計9枚を並べると。
まずこのビューで思うのは、カードってこうやって異なるものを並べられるということだなと思ったんですよ。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
例えばカレンダーの形でこう並べたらまず気持ち悪いわけですけど。
でもカードっていうある種の情報を均一なフォーマットに落とし込むというこのビューのおかげで、異なるものが一つ並んでても何ら不自然違和感はないと。
同じカードを並べても背景色を変えることによって役割が違うということを無如実に晒せますし、
そもそも僕たちはカレンダーで土曜日と日曜日の背景色を変えてるわけですね。
大体。大体はブルーと赤っぽい色になってるわけです。
それ以外のカードも役割が違った色を変えれば明確に違うということが言えると。
当然これ、週が動いたらカードが変わっていくわけですけど、並びそのものは固定と。
役割が一緒と。左上は月やし、真ん中が中央がその週と。
やっぱりこれ真ん中に何を置くのかが非常に重要だなという感じもするわけですよ。
そうですね。
こう見るとこれは週のビューやなという感じがするわけですね。
最初は週が月の横に来てたんですね。月があって週があって月か。
そう並べると支点がどうしてもない。
水曜日か。水曜日に支点が集まるわけですか。
別に水曜日に支点を集めたいわけじゃないわけですよ。
スピーカー 1
なるほど。
スピーカー 2
だからやっぱり真ん中に何を置くかで、この並び、今見えてる並びって一般のデジタル数ではまずないと思うんですよ。
こんな気持ち悪い並び方。
スピーカー 1
ないと思いますけどね。
スピーカー 2
これは僕は相当順をいじくってあえてこの形にしてるんで、かなりアクロバティックな並び方をしてるわけですけど、
でも僕自身のビューで見たときに、その中心となる週が真ん中に来てて、周囲に曜日が並んでるのは非常にいいですし、
特に月のガードが左上に来てるのがなんとなくこの位置関係的にピッタリ来るんですよね。
マンダラートとの関連性
スピーカー 1
そこはね、だから一人寄りますよね。
スピーカー 2
そう思います。僕はだから上の情報、階層が上の情報が左上に来ててほしいみたいな感じがあって、
この月が例えば下に来てたらものすごい不自然ですし、上の欄なら大体どこでもケアできるけど、右上は違うかなという気はしますね。
直上か左上やったら月のカード、真ん中が週に対して月が上に来ててもいいなって。
今その配置を考えながらセットアップしてた時に、これマンダラっぽいなって思ったんですよね。
スピーカー 1
最初はマンダラだなと思ったんですけど、並べ方は明らかにマンダラではないんですよね。
スピーカー 2
でもこの配置をプラス周囲に何かを置くということを考えるこの思考はマンダラートと同じものに属しているなというのを考えまして、これは非常に面白いなと思って。
このカウンタービューに至るまでこんなことになるとは思わなかったんですけど、こういう平面配置も別に情報を一列に並べているだけではあるんですが、
これを例えば3×3の形に配置し直すことによってやっぱり空間的な意味が生まれてくるなと。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
これは非常に他の人はこのツール使えない、このツールというかテキストボックスなんですけど、使えないので別にお勧めはしませんが、
デジタルで言ったら一列に並べるようなデータベース的に一列に情報を持っていたとしても見え方は次第で、見え方というか見せ方次第で、
ビューが持つ機能というか、見ている人に与える影響というのは変わってくるんだろうなというところですね。
マンダラート手帳ってあったじゃないですか。あったじゃないですか、今あるかどうかわからないですけど。
あれは1週間で何マス並べとかじゃなくて、1日中央にその日があって周囲にマスがあるみたいな感じですね。
どのこういう構造なんでしょうか、あれは。
スピーカー 1
マンダラート手帳と言いますとややこしいんですけど、今あるマンダラチャートみたいな言い方をしている、
要するに今泉博明さん派手ではないマンダラを使う手法があって、あれは日付が入ってるんですけど、
今泉博明さんのマンダラートの手帳というかつてあったものは、白紙のマンダラしかないんですよ。
そこは手書きで、だからどう使ってもいいですよっていうやり方なんですけど、
マニュアルとか書籍で今泉さんの使い方みたいなものが紹介されていて、
それだと1週間は下からぐるっと右回りに回転する形で。
スピーカー 2
下から回るんですか。
スピーカー 1
要するにのの字になる。真ん中からスタートしてぐるっと回転して。
スピーカー 2
なるほど、そういうことか。
スピーカー 1
リニアに並べるときはその並びになるというのが原則なんですね。
だから1週間だと、
例えば真ん中が今週、下が空白で、
左下から月、火、水、木、金、土でぐるっと回るみたいな。
そういう使い方が推奨されてたみたいな感じですね。
スピーカー 2
空白のとこには好きなことを書いていい。
今週の目標を書いてもいいしみたいな、そういう。
そうか。
マンダラート的な使い方でいうと、
例えば中心には週の名前というか週の日付を書くだけなんですかね。
スピーカー 1
だけですね。
要するに今週、マンダラート的な思想だと、
今週のマンダラっていうのがあったとすると、
だから真ん中は今週なんですよね。
日付がリニアに並ぶから順番に並ぶんだけれども、
全てが真ん中に接触しているというのが見せている。
しかも中心のセルと周囲のセルはイコールであるという考え方をするんで、
どの1日をとってもこれが今週とイコールなんですよ。
っていう、それを思想的に見せてるわけですよね。
だから全ての日が今週を完成させるためのその一部であり、
逆にその、例えば木曜日に今週の中心が来てもいいしっていう、
入れ替えも可能だし。
だからその、中心イコール終焉みたいなその思想になっているわけです。
情報の取扱い
スピーカー 2
うーん、そうか。
だから、ある種マンダラートは基本的には見出ししかないんですね。
その1枚の表というか、1枚の三掛け算には見出ししかなくて、
ある意味本文は別のマンダラートの見出しであるという感じ。
うーん、そうか。
そうでもないかな。
それは大きさにもよるとは思いますが、
真っ直ぐ目の中に、例えば真ん中、こういう、今僕が例示しているような、
こういうのを書くのか、これを書くとしたら、
例えばその直下の空いてるスペースに書くのか。
スピーカー 1
だから手帳だと書けない。
でしょうね。
スピーカー 2
小さすぎて。
スピーカー 1
だから書かないっていう考え方だったんですけど、
それがデジタルになったことによって書けるようになってしまって、
スピーカー 2
思想もちょっと変わったっていうところはありますよね。
スピーカー 1
逆に書かない、細かく文字は入れないんだというのが多分手帳時代の考え方でしたよね。
スピーカー 2
ずっとその認識でしたね、だいたい。
書くにしても、見出しの文字と本文の文字のサイズを変えて、
見出しがまず目に入ってくるようにした方がいいだろうなという気はするんですけど。
スピーカー 1
そうですね。だから厳密に言うと多分見出しじゃないんですよね、マンダラの。
中心セル。
スピーカー 2
中心セル、確かに。
スピーカー 1
中心セルなんですよね。
階層が周辺よりも1個上だから見出しと思えば見出しなんだけれども、
中心と周辺は入れ替え可能なので厳密に言うと見出しじゃないんですよね。
スピーカー 2
そうか。
スピーカー 1
だから僕、アウトライナーのレベルアップっていうのは実はその影響をおそらく受けてるんだろうと思うんですけど。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
周辺が真ん中に影響を与える。見出しって言うと上位の階層が下をくくる。
スピーカー 2
そうですね。
スピーカー 1
その関係は変わらないんですけど。
マンダラの場合は下位の階層と上位の階層が入れ替え可能なところがあるんで。
スピーカー 2
そうか。
だからやっぱりマンダラと似てますけど、僕の場合はそのようなレベルの変更はほとんど行われないというか、
むしろこれ1個1個オブジェクト的な感じなので。
スピーカー 1
そうですね。だからむしろ並びに意味を持たせてる感じですよね。
そうですね。
周辺対、中心対周辺というよりもこの平面上にどう配置するか自体に意味を持たせてる感じですよね。
スピーカー 2
そうですね。
もうちょっとだから中心がマンダラアートに比べてかなり特権的な感じがしますね、その説明を聞いていると。
スピーカー 1
でもやっぱりその真ん中に目が行くから真ん中に一番強いものを入れるというか、一番目に行って欲しいものを入れるっていう考え方はすごくマンダラアート的ですね。
スピーカー 2
そうですね。この周っていうものと、だから漢字で言うとそれぞれの曜日は周の下ですけど、月は周の上なんですよね。
スピーカー 1
そうそうそうそう。この月なんですよね、この一番不思議な配置は。
スピーカー 2
不思議ですね、これね。
だから最初これなしで1個空白にしようかなとか、なんかおまけの画像とか表示しようかなと思ってたんですけど、
でもやっぱりね、周は月の影響を受けてるんですよね。
で、その受け方が上から降り注ぐ感じなので、僕の場合は上に行くというような、そういう関係があるなぁと思って。
だから周っていうのを点したときに、その下である曜日も上である月もお互いに挟まれて影響しているという感じがあって。
それをこれまでのデジタルなビューでやろうとしてどうしてもギクシャクしてたんですけど、
スピーカー 1
結局それぞれを同じレイアウトに収めて並べると、なんとなくいい感じになったというかですね。
スピーカー 2
とりあえずこういう表示のカレンダーというべきなのか、これは何と言うべきなのか、
僕は日記的に使ってるからダイヤリーなんですけど、的なものってあんまりないなと思ったんで、紹介させてもらった次第ですね。
スピーカー 1
これでもやっぱりカード型の表示じゃないと、こういう風に並べようという発想にはならない。
スピーカー 2
成立しないと思いますね。やっぱり異物を並べられる、均一化して並べられるというところが、
デジタルにおけるカードとは何かの一つの答えというか、功能の一つだなと思いますね。
スピーカー 1
そうですよね。ロジカルに考えちゃうとこういう風には並べないですよね。
スピーカー 2
だってこれらはそれぞれ異なるタイプのオブジェクトなので、
僕は今まではずっと曜日はカレンダータイプにして、週とか月はリストにして並べて、
リストとカレンダーは別のIDなんですから、別のビューだったんですけど、
そうするとやっぱり情報を見たときに異なるものだというふうに認識されて、
うまく接続が生まれなかった。今だと中央中心としてそれぞれ関係しているというような感じを受けますけど、
カレンダーはカレンダー、リストはリストみたいな感じで分かれてたのがちょっと気持ち悪かったのかもしれないですね。
スピーカー 1
そうですね。こういう風に並べると、いわゆるダッシュボード的なものの作り方っていうのも
ちょっと単にそこに収まるように並べちゃいがちですけど、
スピーカー 2
何を真ん中に持っているかというと、エルゴノミクス的な、人間功績的な、
スピーカー 1
あれはあるんでしょうね、意味が。
スピーカー 2
ダッシュボードは基本的にカラムで分かれていて、上位にデータがあってみたいな感じが多いですけど、
あれも結局設計した人の思想がそのまま反映されているわけで、
自身が使いやすいかどうかというのはまた別の話ですからね。
スピーカー 1
そこはでもUIのデザインとかでもまさにそういう話ですよね。
書きたいことの問題
スピーカー 2
大抵ああいうのってレスポンシブルでもあるんで、中心みたいなのはあんまり考えないんですよ。
レイアウトが変わったり、カラム数が変わったりすると。
こういうのってやっぱりパソコンはパソコンで行くみたいな、そういうので始める。
スピーカー 1
画面をレイアウトを固定して使うという発想でないと、なかなかこういうのって出てこないと思いますね。
スピーカー 2
今回本題なんですけども、書きたいことがあるか問題ということで、
そんな問題化しているのは僕なんですけど、
勝手に問題化しているのは僕なんですけど、
ノートで、歌方さんでいるひらがね歌さんでいいと思うんですけど、記事があってですね、
8月に毎日ブログを書くというイベントがありまして、
毎日ブログを書くということは、少なくとも30以上のネタがないとダメなわけですが、
実際に書き続けるのって結構難しいと思うんですけど、
書きたいことがないという記事を書かれていて、その続きでまた8月に記事を書かれたんですけど、
書きたいことがないという話、そのものが僕にとっては結構新鮮やったというか、
考えたことが、
スピーカー 1
歌方さんならね、そうでしょうね。
スピーカー 2
考えたことがなかったので、反応して書いて、その関連記事は全部日にかかっておきますけど、
野良テストも書かれていて、いろいろ分析があったんですけど、
そうじて言えるというか、言えそうなことって、
人は書きたいことがあるから書いているわけではないのではないかということが、
暫定的な提示なんですけども、
まずどうですかね、沢さんも。
一応、長くウェブで発信されてきた経歴の中で、
書きたいことについて何か考えられたことあります?
スピーカー 1
ない。
ないっていうか、
今なんかだからまさに書きたいことがあんまりないというか、
もともとそんなにないというか、
書く、書いたことで、
これは公開するに値すると思ったものを公開するみたいな感じになるので、
アウトライナーの説明はちょっと別、
あれが書きたいことなのかな。
スピーカー 2
そうですよね。まずそこですよね。
あれは書きたいことなのかなと疑問不付けられましたけど、
そもそもそんなことに確信が持てないんですよね。
ある対象は自分もこれは書きたいものだというような認識が、
ソリッドに立ち上がるというイメージが僕にはまずないんですよね。
スピーカー 1
そうなんですよね。
書きたいことがある、少なくとも書きたいことがあるから書くという感覚は
あまり持ってないというか、
書く、ただ書きたいという願望があるんですよね。
スピーカー 2
それは分かります。
スピーカー 1
書きたいことじゃなくて書きたいという願望がある。
スピーカー 2
それは分かります。
スピーカー 1
書きたいので何か書く。
スピーカー 2
書きたいので書くんですよね、たぶんね。
スピーカー 1
何か書いて、それが結果的に何か人に伝え、
これは伝えたいなっていうものになるという順番が多い気がしますけど。
スピーカー 2
僕も自身は大体そうで、
自分はこれが書きたかったんだなというような直角を書いた後にすることはありますけども、
書きたいという欲望に、ある対象について書きたいという欲望に駆動されて書くと、
欲望なのかな、書くことよりはまず書くが先行してあって、
その書くに内容が後から追いついてくるというような感じが、
書くならこれについて書こうかなみたいな感じが僕の中で強くて、
正直僕だからタイピングしてるだけで楽しいんで、
だいぶ異常じゃないと思うんですけど。
スピーカー 1
書く人はみんなそうじゃないですかね。
スピーカー 2
カタカタキーボードを叩いて文字がエディターに増えていくことそのものが楽しいので、
当然そこで書かれることがどういう内容であるかとかはもちろん気にはしますけど、
書きたいことをやから書いてるという感じはなくて、
話を聞く限りそういう方が多いといった時に、
だとしたら書きたいことについての疑問が立ち上がってくるのはなぜだろうとちょっと思ったわけですよ。
実際に書いてる人は書きたいことについてあまり考えないわけですよね。
さっき書いちゃうっていう、書くっていう行為が起きた後に書くことがやってくるみたいな感じの人が多い中で、
その疑問として、例えば書きたいことは自分はあるかないかみたいなことを考えてしまうのはなぜだろうかと。
書くことの動機と欲求
スピーカー 2
やっぱりそれは書きたいことを書きましょうっていうアドバイスが世の中にひたすらあるからだと思うんですよ。
僕がこれは勝手な予想ですけど。
書きたいことを書きましょうと。
例えばブロガー、新人のブロガーに向けてあなたが書きたいことを書きましょうって言うとするじゃないですか。
よく言われると思うんですけど。
そう言われたら、じゃあ自分の書きたいことは何だろうって問いが自然に生まれてくるような気がするんですよ。
これはね、でもだから謝った問題だと思うんですよね、それは。
で、その人が言いたいことはわかるんですよ。
書かされることじゃなくて、書かされること以外のことを書きましょうということだと思うんですね。
そのアドバイザーが言いたいことは。
それは全く同じで正しいということだと思うんですね。
書きたい、自分の欲望が何にも関係しない単位賞について書こうとしてもそもそも書けないし、書いたとしても続かないと思うんですね。
苦痛の方が多いと思うんで。
スピーカー 1
書きたいことじゃないことを書きましょうっていう、あるものに対する否定の表現を肯定的に言ったら書きたいことを書きましょうになると思うんですけど。
スピーカー 2
その肯定の変化の段階で失われている情報があるんですね。
それがその書きたいことはあるのかないのかと疑問につながってしまうんじゃないかなという風に勝手に分析したんですけど。
スピーカー 1
なるほど。
スピーカー 2
これ難しいですね、ブロガーさんに対して何て言ったらいいのか、どうアドバイスしたらいいのかって。
ブログを10年続けて…っていう本では、かかざるを得ないことを書きましょうと書いたと思うんですけど。
僕が言うところはギリギリそこまでというところかなと思うんですが。
なぜ書いてるんですか、あなたはなぜ書いてるんですかと、特にアフィリエットとかAmazonの広告とかで設けられるわけじゃないのに、
あなたはなぜ書いてるんですかって言われた時に、書きたいから書いてるんですという答え以上には多分なぜなんですけど、
書きたいから書いてるんですという答えも、ちょっと変換を間違えると書きたいことがあるから書いてるんですという風になってしまうのかもしれない。
この辺は全然推測の勢いは出ないんですけど、
全員でなされるアドバイスとそれによって導かれる行動のズレっていうのが結構あるかなというのを記事とか周辺の皆さんの考察を読んでちょっと考えましたね。
スピーカー 1
だからもう一つ多分気をつけなきゃいけないのは、書くことが先に来るというのがあるとして、書きたい気持ちがあっても書けるとは限らない。
そこが、別に書きたいことがなくても、書きたい気持ちがあればいいんだと思って書こうとするんだけれども、
スピーカー 2
大抵の人は倉下さんみたいに書けないですよ。僕も書けないですけど。
スピーカー 1
そこもそこが生まれやすいというか、書きたい気持ちがあるから書けるというものでもないわけですよね。
書くことと知識の関係
スピーカー 2
あと書きたいことがあったとしても書けるとも限らない。
スピーカー 1
もちろんそれもある。書きたいことが明確にあっても書けないかもしれない。
スピーカー 2
それほど苦痛なことはないと思うんですけど、書きたいことがあるのに書けないは多分かなり苦しいですね。
スピーカー 1
これ似てるなと思ったことがあって、書きたいことがあるかって、夢はあるかとか、やりたいことはあるかとか、
あと子供に対してどんな仕事をしたいかとか、それとすごく似てますよね。
だけどおそらく、例えば大谷翔平さんは野球がやりたかった。明確にそういうのがあると思うんですけども。
大抵の人はそうじゃないですよね。
だから大谷翔平的に文章を書くのであれば、書きたいことを書くでもいいと思うんですけど、
大体の人はそうじゃない。そうじゃないけれども何かをやってるし何かを書いてるっていうことだと思うんで、
そこの正体をどう言葉で表現するかっていうことですよね。
スピーカー 2
だからこの辺の…
スピーカー 1
余計難しいです。
スピーカー 2
伊勢さんとか、もっとクリアすべき課題があって、それに答えちゃうな。
ある基準を満たすような文章を生成するというのであればもっと単純なんですけども。
例えばこのブローガーとかブログみたいな、何の要請もなくて、書いたらいいし書かなかったらいいという活動において、
書くという行為をいかに成立させるか、成立させなくてもいいんですけど、成立させるとしたらどのような要件が必要なのか。
書きたくないことはありますけど。あるはちゃうな。書くべきではないと思うことはありますけど。
書きたい?難しいな。
もちろん他の人でもホイホイ書けるわけではないというのはそもそもあるけど、
僕も思いついたことすべてを書けているわけではなく、書けているものを書いているわけですね、結局。
だから書けているものの範囲とか量が他の人より広いというのは間違いないと思うんですけど、
結局頭に思い入れられたものを何でもすらすら細めにできるほどの技術はないわけで。
ここはだから難しいですね。
スピーカー 1
確かにそれは言い方が悪いですね。そういうことじゃないですよね。
やっぱり自分が倉下さんのように書けないんで、そう思っちゃうんですよ、ついに。
倉下さんみたいに書けるといいなって思うんですよ。
そう思うからついそう思っちゃう。そういう言い方しちゃうんですけど。
倉下さんも別に思ったことをすべて書いて、あるいは書くという行為を行ったことがすべてその結果に直結するわけではないですよね。
スピーカー 2
そうですね。だから今からこれから始めようって書くことを始めようっていう人が見たときに、
書けてる人がどんなふうに書いてるのか具体的にイメージしにくいというか。
まるであたかもすいすい文章が積み入らされてるような感じがしたときに、
自分がその通りにできないっていうギャップがあったときに、
書きたいことがあればそれが解決できるというふうに思いやすいのかもしれないですね。
ある種のマジックワードとして書きたいことっていうのが出てくるのかもしれないですが、
スピーカー 1
むしろ話は逆でおそらく。書きたいことが強ければ強いと言うとむしろ書けなくなってくる。
スピーカー 2
それが書けなくなってくるが、余計に苦しくなってくるということがおそらくあって。
書きうるて…ちゃうな。書くって難しいな。
ある範囲の中から書けてることを書いてるだけなんですけど、
ある範囲が何を意味しているのか。書いて価値があると思っていることというふうにすると限定的なんですが、
書こうと思っていることほど強くもないんだよな。
でも何かから選んでいることは間違いないですけどね。
スピーカー 1
そこが読むことと関係しているんじゃないかなと今思いましたけどね。
読む量が多ければ、当然読むことからいわゆるインプットと言われる、あまり使いたくない言葉ですけど、
当然インプットもあるだろうし、いろんな人のいろんな表現に常に晒され続けることによって受ける刺激というか、
表現の引き出しも当然増えていくわけだし、それこそAIじゃないですけれども、
スピーカー 2
そこから生成されるための素材が大量に溜まっていくわけですよね。
スピーカー 1
その量っていうのは明らかに関係してますよね。
スピーカー 2
そうですね。
自分が知らんことをネタにはならないわけで、
自分が知覚したもの、記憶したもの、体験したものっていうのがある種のマテリアル置き場にあるとして、
やっぱりちょっとなんかどう言ってんかな。
変な話ですけど、書けなさそうなことを書いている気がしますね。
もうちょっと言うと違うな。
スピーカー 1
分かっていないことについて書いているか。
書かなくてもそれは自分が明示してこれはこうだと言えるものはそもそも書く対象にはきっとならないんですね。
スピーカー 2
それを通すことによって分かろうとしているという感じがあるかな。
書くということを通して、自分の中にあるそのマテリアルの不可解な部分を少しは光を当てて、
輪郭線をはっきりさせようとすることをするために書くということをしている。
書きたいことと考えたいことの関係
スピーカー 2
素材選びの中でそういうものを書く対象にしているという感じがあるかもしれないですね。
スピーカー 1
そうすると書きたいことというよりも分かりたいこととか、
考えたいことがマッチしている感じがしますね。
だからそういうのも全然なしに、
スピーカー 2
ただタイピングせよと言われてもそれなりに楽しいと思いますが、
よりその楽しさとか充実感を上げるために、
どんなテーマ素材をピックアップしているかといったときの
その分からなさに向き合うみたいなところがキーとしてある。
だから当然考えようとしていることですから、
先駆的アプリ寄りに書きたいことがあるわけじゃないんですよね。
書きたいことがあるというのはアプリ寄りに明示されているわけですね。
視聴があるというか、答えがあるからそれを書きたいという内容があるわけですけど、
むしろ分からないというもやもやしたものがあって、
それについて論考するというと固いですが、
書きながら考えるということをするという気持ちが出てくるから、
そこを行為の前には書きたいことは多分ないと言ってもいいんじゃないかなと思いますか。
執筆プロセスについての考察
スピーカー 1
逆にそうですよね。でも知っていることを書くだけだったら、
おそらく知っていることを書いちゃったらもうネタはなくなりますよね。
スピーカー 2
もっと言うとそれは要するに知っていることですから、
書く必要を感じないというか、
もっと言うと自分で書かなくていい感じすらしますけど、
自分の理解に触れる行為なんじゃないかなという、
実は僕にとって書くことはどういうことかということですけど、
自分の理解の輪郭に触れるような行為として多分捉えているから、
書きたいことがあるから書くという理論にはならない。
もちろん書きたいことは何ですかって言われるときに、
何もありませんって言ったら嘘発見器は多分嘘を反応すると思いますよ。
書きたいことに属するものはありますけど、
書きたいことだから書いているということではないっていう感じかな。
スピーカー 1
そうですね、それに似ていると思いますけど、
僕は例えばアウトライナーを使えばの話ですけど、
たまになんですけど、自分が書いたとは思えないものが書けることがあるんですよね。
スピーカー 2
ありますね、はい。
いろいろいじくっているうちに。
スピーカー 1
そうすると、さっきの倉瀬さんの話にもつながるかもしれないですけど、
そこの自分の書いたことから、あ、そうなんだみたいな、
新しいことを知るみたいなことってあるんですね。
究極的にはそれが欲しくて書いているようなところはありますよね。
スピーカー 2
分かります。
スピーカー 1
あと単純に、こんな良い文章を自分が書いたと思う、
その単純な喜びみたいなのがありますよね。
スピーカー 2
はい、ありますね。
それはどっちかというと、伝達欲求というよりは表現欲求な感じがしますね。
スピーカー 1
そうですね、伝達というよりも表現なんでしょうね。
逆に伝達しよう、自分の文章の役割が伝達だと思って書こうとすると結構辛くなっちゃう、
スピーカー 2
しんどくなっちゃうというところがある。
個人的なブログとか文章の場合は、伝達を主流にすると多分どんどんしんどくなってくると思いますね。
やっぱりその求められている媒体の役割が違うというか、
ブログはそんなものを一般的な定義は別として、
僕の観点から言うとブログとか個人メディアはそういうものではないという感じがしますね。
それは結局、もっと極限すると伝達は生成AIでいいという可能性すら普通にあって、
スピーカー 1
そうですね、これからはそうですよね。
人間が表現という言葉をかなり広く取った上で言うと、表現の役割が重視されるという可能性はありますね。
いわゆる表現欲求なんだろうね。どうなんでしょうね。
スピーカー 2
そこに何か表されるものがあって、それと出会うことっていうふうに広く言うと、それは表現欲求だと思いますか。
スピーカー 1
そうですね。
もっと露骨に言うと、読みたい文章が書けたっていう。
スピーカー 2
そうですね。
スピーカー 1
その感じですね。
スピーカー 2
その感じもあります。
さっきAmazonをググったら、読みたいことを書けばいいっていう本のタイトルが出てたんですけど。
スピーカー 1
そんなのあるんですか。
スピーカー 2
そうでしょうね、と思いますね。
書きたいことを書けばいいんじゃなくて、読みたいことを書けばいいというひっくり返し方はとても良くて。
だいたいそうですよね。自分のブログって自分が読みたい文章を書いてますよね。
スピーカー 1
そう思うんですけどね。
スピーカー 2
だからこそ時間が経ったときに自分のブログを読んで、なかなか面白いことを書いたりあって、思えるということがあって。
時々途中まで自分が書いた文章って気づいてなくて、最後まで行った後には自分が書いた文章やって気づく時があるんですけど、数年前の文章やと。
それは別に時間持参とかじゃなくて、自分好みの文章を書いてるんだからそれはそうなるのは当然というだけの話なんですけど。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
だから書きたいことがあるんだろうかって考えて手が止まるのはたぶんその二次問題に引っかかってて。
たぶん考えられる武器ごとは別にあって、おそらくは。もっと別のことを考えた方が良くて。
書けることを書くなり、自分がこれについて読めないけど他の人があんまり書いてないからそれをテーマとかモチーフにしたものを書くとか。
そういうふうにネタ選びをすると良いですし、たびたび言いましたけど、それがあったとしてもサクサク文章が書けるなんてことはなく、
もの書きは毎日苦労しているということは記憶に留めた方が良くて。
銀の弾丸を手に入れたら文章が苦労もなく書けるってことはほとんどなくて、
特にさっき言ったわからないから書いてるっていう人はやっぱり書きながら普通に苦労してると思うんですよ。
それがするから意味があるんだよって。
時々自分はこうだろうなーっていう仮の方向性を見据えて3段落ぐらい書いたら、
明らかにこの議論の方向が自分の最初の人と反対に向かっていくことに気づくことがあって。
そこでどうするかなんですね、人が。
軌道修正して元の人より戻すのか、最初は考えたけどこうやったっていう風に進むのかで、
後者を断る人は多分書きながら考えるっていう手法が多分向いてると思うんですけど。
取り返す人は書くことを多分したくなくなってくると思うんですね。
書けば書くこと変わっていくので。
この考えとか着想とか思想とかをどうのように扱うのかっていうことも書くという行為と結構密接に関わってくるというか、
多分普通にだから文章としてロジックを確認すればするほど自分の甘さとかが見えてくると思うんで。
見たくない人は書かないほうがいいということはあると思うんですけど。
スピーカー 1
そうですね。そこも文章が情報の伝達を目的としているかどうかによるんですよね。
そうですね、確かに。
でも、そもそもこの高田さんが書きたいことがあるなっていうことを文章に書いたこと自体が、別に書きたいことではなかったと思うんですけど。
スピーカー 2
確かに。
だけどこれだけでいろんな人が反応して記事書いたりとか、ここでこうやってポッドキャストで話すという影響力を持ってるわけじゃないですか、その文章が。
スピーカー 1
だから、そのこと自体が必ずしも文章が書きたいことを書くものではないということを示してるんじゃないかと思うんですよね。
スピーカー 2
そうですね、確かに。
スピーカー 1
で、多分このブローガストっていう毎日書かなきゃいけないという縛りがなければおそらく書かなかったんじゃないかと思うんですよね。
スピーカー 2
そういうことはあると思います。
自己表現とアイデンティティ形成
スピーカー 1
そういうことを思っても面白い。
スピーカー 2
書かなきゃいけないということがあるわけで書くことが出てくるという。
そうですよね。
だからやっぱり書きたいから書くの単純な工程はやっぱり危ういというか単純化しすぎてるというか。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
書かざるを得ないっていうところ点が後ろから押し出されるように書くことが出てくるということも普通にあるわけで。
スピーカー 1
そうですね。
もっと言うと何か言葉を配置しているうちに本当に何かが出てくる。
それが要するにフリーライティングの原理ですけれども。
本当にそれをやると、真剣にやると本当に、
なんというか、こんなものが自分の中にあったのかと思うようなものが出てくることってあるんですよね。
スピーカー 2
ありますね。
スピーカー 1
それもやっぱり書きたいことがあるから書くっていうのとは全く違う工程と思うので。
スピーカー 2
そうですね、確かに。
書きたいことを書くでイメージされるハッピーフルな感じはやっぱりちょっと虚像が強くて。
ある自分の書くことの楽しさに引っ張られて書くとか、締め切りに追われて書かざるを得ないから書くとかっていうことで駆動される書くがもたらす力っていうのが、
あまり議論に登らないというか、ダメなこととして前近代的なものとして知り避けられていると言うと大げさですけど、
スピーカー 1
つまり努力とか根性と同じレイヤーに乗っちゃってる話、感じが。
スピーカー 2
いやでもそうじゃないんだよなと思いますけど。
スピーカー 1
あーでもそれ難しいですね。
努力論、根性論はダメと今言われますけど、ダメなんですけど。
スピーカー 2
そうですね。
スピーカー 1
それとその根性論の結果として出てきた成果というものは歴然としてあるわけで。
スピーカー 2
ありますね。
スピーカー 1
だから根性論が必要なんだという話には全くならないんだけれども、それがあるのは事実なんですよね。
スピーカー 2
そうですね。
スピーカー 1
それと同じで、この書くこともいわゆるモダンな、モダンなと言っていいのかわかんないですけど。
まあでも書くことがあるから書く。
でも書くことがあるからそれを伝えるために書くというのは近代的な考え方ですね。
スピーカー 2
そうですね近代的な考え方ですね。つまり個人っていうのがあって主体が意思を持てるというモデルですね。
スピーカー 1
そうそうそう。
そうではない部分というものがたくさんあるわけだよ。
はい。
スピーカー 2
だってこのブローガストに参加するということ自体があるし、もうちょっと主体性から距離を置く分位で他人が考えたイベントに乗ったわけですから。
まあその選択しての主体ですけど。
でも多分その近代的な、真っ当な、合理主義的なのとは多分違う主体性のあり方だと思いますが。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
そもそも書くという行為自体が全般的にままならないものじゃないですか。
おおむね。
その、書こうと思ったら書けるわけでもなく、あらかじめ考えてた結論に至れるわけでもなく、適切なメタファーが思いつくわけでもなく、逆に思いつきてなかったメタファーを思いつくこともあり。
だから書くという行為が近代的な個人の行為モデルから外れるんですよね、実は。
いやそういう書くもあると思うんですけどもちろんね。
いわゆる見出しを立ててその通りに本文を書こうっていうのが実は近代的な取材のモデルじゃないですか、要するに。
スピーカー 1
まあそうですね。
ある種の科学論文みたいに実験の結果があってそれを論文にするっていうのは当然そういう書き方になるんですけど、そうではないものもたくさんありますよね。
スピーカー 2
その論文の書き方もデータが揃ってから書くのやったともかくとして、その研究全体そのものはままならないものだと思うんですよ、きっとね。
初めの仮説が実験によってひっくり返ってみたいなことは普通にあると思うんで。
そういう全体から見たときに書くっていうことはやっぱり同じままならさがあって。
だから、何て言うの。
主体的なモデルで捉えようとしたら取り逃がすものが書くっていう部分は恐らくあって。
それが多分自然というかな、そういうものですね。だからなんか特殊なことというよりは書くってことがそもそもそういうものなのだという感じかな。
スピーカー 1
ちょっとその主体的なところとは別のところから出てくるものを文章にしているうちに、だんだんそれが主体に侵食してきたりすることもあるんですよね。
スピーカー 2
ありますね。
作用が起こるか反作用が起こるかは分かりませんが、少なくの何かしらの作用が生まれますね。
書くという行為と書かれたものという2つがその主体、仮説的な主体に影響を与える。
いろんな行為、例えば料理を作るでもスポーツをするでも基本的にままらなさがあるわけですけど、
書くっていう行為は
たぶんね、すごい
書くことの悩み
スピーカー 2
訓練したらある程度統制化におけるか、おけるという錯覚がある。
でも効率的にはその他と変わらんどころか、おそらくその他よりもコントロールできない。
なぜならば言葉は植え付けられたものだからですね。身体的な動きとは別コントからやってきたものなので。
言葉の操作ってたぶん基本的にままらなさの極限にあるような気がしますが。
そう思いますね。
でもだからある種、純粋な情報であるがゆえに制御できると思うんですよね。
160キロでボールを投げられないのは当然なように感じますが、思った通りに文章が書けないのは何か弱いような気がする。
スピーカー 1
それがありますね。
スピーカー 2
でも実際は一緒なんですね。一緒やしもっともっと酷い気がしますね。そのコントロールさというのが。
僕らが日常的に目にする文章がある種きちんと整えた形で出てくるものばっかりを目にしてきたから、それは制御できるものやというふうに思えるような気はしますが、
大体そうではなく、整えられている文章ですら整えられているように見えているだけではなくて、書きたい人がそう書きたかったから書いたというわけで。
そうですね。
面白いですね、書くという行為は。
スピーカー 1
まあでもだから文学というものも意味を持つわけで。
スピーカー 2
そうなんだなあ。ままらなさの問題なんだよな、これは。
スピーカー 1
そう考えると実用文も文学もある意味そんなに変わり、持っている性質は変わりがないんじゃないかという気もしますしね。
スピーカー 2
そうですね。だから実用文の中でも特にある文面を繰り返せばいいだけのものは、ここの書くからちょっと除外してもいいと思いますが、そうでないものに関しては多分一緒ですよね。
だってワークフローリーの使い方の説明を書こうと思った段階で僕はひどく混乱しましたから。
そこにない説明を新しく作ろうとするたびにこれが起こるんですねきっとね。
そうですね。
そこにある説明をなぞるかやや改変するだけでするものは混乱はないですし、混乱がないものを正々堰で作れるということなんですけどこの場合。
だから混乱の可能性なき文章の文章化の価値っていうのはどんどん増えていくし、
僕らは心の中にカオスを変えることがやっぱり彼らの知性と違うところじゃないかなと思いますけど。
そうですね。
スピーカー 1
まあわかりませんけどね、その正々堰が内部にどんなに矛盾を抱えているか僕には見えてこないんであれですけど。
だからその書きたいことがあるか問題というのはだから結局一言で言うとどうなのかね。そんなものはなくていいということになるんですかね。
スピーカー 2
なくても書けるならそれでいいということですし、書けない状況があるときに書きたいことを持ってきたらその書けない状況が解決するかというのも多分違うということですね。
スピーカー 1
はいはいそうですね。
スピーカー 2
で、おおむねこの宇鷹さんの記事に価値があるのは書きたいことで悩む人が言っているということをちゃんと示したということだと思うんですよ。
はいはいはい。
僕はそんなことで悩んだことがないわけで。だからそういう悩みがないことを知らない人間にはその悩みの解を提示することは100%できないわけですから。
で、おそらく多くの人が似たような名前を抱えている。で、それは結局賭けなさに起因する何かと思うんですけど、その賭けなさに対して書きたいことっていう解法では多分ダメだというような理論が示されてたというのが非常に有効だったんじゃないかなと思うんですね。
スピーカー 1
そうですね。
夢とサラリーマン
スピーカー 1
確かに。
スピーカー 2
そうですね。だから夢がない人に夢を探させてもその人の人生に横転するかというとしないわけですね。
スピーカー 1
しないですね。
スピーカー 2
でもそのことは別に夢が持っている人が夢を捨てたらいいっていうことでもないわけで。
スピーカー 1
ないですね。持ってる人はもちろんそれはいいんですけど。
スピーカー 2
持ってない人は持ってない人生があって、そこで何か問題が、その人が問題が生じたときに夢を設定しましょうっていう自己決めは絶対無理というような話になるわけですけども。
スピーカー 1
そうですね。
夢がないとかなんなら責められたりしますもんね。
スピーカー 2
その手の界隈ではね。日本一般でもちょっとそういうところはあるかもしれないけど、その手の界隈ではより強くそうですね。
スピーカー 1
そうなんですよね。若いのにそんなことでどうするとかいう。
スピーカー 2
それ例えばですよ。言ってくるおっさんがいたとしてですよ。小さなアパートで妻と猫と一緒に暮らしたいんですって夢を語ったら、そんなものは夢じゃないって人がいますよね。
スピーカー 1
そうなんですよ。夢を言ったら言ったら、いやそんなものは夢じゃないとか言われるんですよ。
スピーカー 2
だからそこで言う夢が、そのある基準を満たすものである段階でやっぱり違うんですよね。
スピーカー 1
あなたはそういう夢を持っているのを応援するわって言うんであれば別にそれは一つの効能だと思いますけど。
スピーカー 2
それはやっぱりね、もちろんそうやっていろいろ言語が使えることが言語の面白さですけど、価値観の押し付けでしかないというところがポイントですね。
スピーカー 1
小学校の卒業文集に夢を書くというところがありまして、サラリーマンって書いてたんですね。
怒られたんですよ。
ダメだと、そんなんじゃ。
スピーカー 2
それは夢に値にしないという。
スピーカー 1
そう、そういう意味だ。
お腹が立つ。え、じゃああなたはサラリーマンである僕の父をバカにしてるんですかと。
スピーカー 2
そういうことになりますね。
スピーカー 1
思うじゃないですか。
おかしいですよね。
で、僕未だにその卒業文集の底が、僕のところだけ空白になっているという。
今いいんですけどね、もうね、40年も前のことだから。
スピーカー 2
うーん、やっぱり身の丈を超えるものを描けっていう。
それはやっぱり高度経済成長の時代の、なんていうか、呪いなのかな、要するに簡単に言ったら。
スピーカー 1
何でしょうね、なんか子供らしさの呪いみたいな。
スピーカー 2
これ子供は無邪気に大きなものを目指せ、ボーイズ・ビア・アンビサスみたいなものなんですかね。
スピーカー 1
わからいませんね。でもそうなんでしょうね。
でね、何十年後かに、いわゆる宇宙飛行士とか戦士とかそういうものを描いて、
子供らしい夢だねって言ってた人の団員がきちんと会社員になって出世していて、
私はこんなことをしているという皮肉な状況があったりするわけですね。
スピーカー 2
うーん、まあでもどうなんかな。
例えば、現代ですよ、現代2025年。
まあもうちょっと前でも、それからたぶん少々氷河期において、夢はサラリーマンで成立したような気がするんですけど。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
それはどれだけ難しいかが認識されていないから、
サラリーマンの夢が決定される基準を満たさないということになると思うんですけど。
スピーカー 1
いや本当そうですよね。
逆にその頃って、そんなものはレールに乗っかって生きていれば自然になれるものだと。
スピーカー 2
そういうことですね。
文章の価値
スピーカー 1
なぜかそういうふうに信じられていたから、そんなことを言われるわけですよね。
そうですね。
大変なことじゃないですか。
スピーカー 2
大変なことだと思います、それはもう。
スピーカー 1
サラリーマンだろうとなんだろうと、生きていくのって大変なことなので。
スピーカー 2
そうですね。だから寿命が来るまで生を全うしますだって、すごい立派な夢ですからね。
スピーカー 1
本当そうですよね。逆にそっちを子供に教えないでどうするんだという話ですよね。全然話がずれました、すみません。
スピーカー 2
いやでもやっぱりそういう、現代の教育がどうなのか、夢がどうなのか扱われているかわかりませんけども、昔はそうで。
そのような生活があまりにも簡単扱いされて、実際ある時代のサラリーマンは、現代のサラリーマンほど何かハードな要求は少なかったかもしれないですけど。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
比較はしてないとわからないですけど。
スピーカー 1
気楽な家業だと歌う歌もあったわけですから。
スピーカー 2
その時代に、そんなことよりももっと上を目指せというような話はあったんかもしれませんけど、
でも実際それぞれの会社員適性を見たときに、そんな簡単な話じゃないだろうということにはなると思いますが。
スピーカー 1
だと思いますね。
仮に今より気楽なもの、今例えば20代30代の人が晒されている環境よりもずいぶん楽な面が多かったことは間違いないと思いますけど、
逆に他の面で今より大変なことはおそらくあっただろうし。
どんな時代にしても多分、生きていくこと自体が大変じゃない時代というのはおそらくなかったと思うんですが、
高度成長期からバブル期にかけてのある種の環境に置かれた人が楽だった面はあったかもしれないですけど。
スピーカー 2
あるスペックにおいては楽だったということは間違いなく言えて、
それはだからある別の過酷さに耐えるトレードオフとしての安定だったわけですけども。
スピーカー 1
そうですね。ただ過酷さの度合いは今の方が増してるでしょうね、全体的に。
スピーカー 2
違うタイプの過酷さがあって、昔は労働環境とか上下関係とか男女差別とかっていう過酷さがあったとしても、
会社員といった時に20年後の設計ができたわけですけど、今はそれができないわけで、
時間間隔に対する安定感の強度の強さっていうのは人間の精神に与える影響がだいぶ違うと思うので、
足元がぐらつくほど不安定なことはないと思うんで。
きつさで言うとこっちの方がきついような気はします。
もちろん質が違うから比べるなという話ではあるんですけどね。
スピーカー 1
うーん、そうかな。
スピーカー 2
まあそのほうの夢の話は聞きます。結局でも文章を書くことも立派な文章っていうものをある人の夢のように語ると、
例えばその人の日常を書いたセンジが過論じられる可能性があるわけですけど、
でもね、センジの日常のエッセイを書くのってやっぱりそんなにしんどいわけで、
そんなスラスラ出てこないわけで。
と思いますよ。というか出てきたとしても、読んでそんなに印象深いものにはなりにくいですよね。
やっぱりその偉大なものが基準になってたときに、やっぱり萎縮するっていう気持ちが生まれやすく。
でもでも、キラキラをって何でもいいというわけでもなくて、
やっぱりその人の感性である標準点を超えるものではあって欲しいわけですけど、
でもそれはその人の基準の中でであって、やっぱり文章を書くあるべきという基準から考えると、
とても欠けたもんじゃないっていうことになると思いますね。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
でも1ヶ月のうち、さっきのブローカストで15日くらい記事書けたとしたら、
それは偉大な達成だと僕は思いますけど。
スピーカー 1
いやー本当そうですよ。
スピーカー 2
それだけでもすごいんで別にね。
15日書いたうちに2、3記事いい記事書けてたら、もうそれで大収穫ですね、基本的には。
スピーカー 1
いやー本当そうですよ。
人が読める文章を一つでも書くというのはね。
スピーカー 2
大変なことなんでね。
スピーカー 1
大変なことですよ、本当に。
スピーカー 2
そういう苦労さがある中で、当然もっと楽にという気持ちが出てくるのは当然ですが、
それはもう避けがたいと。文章を書く上でのある種の苦労は避けがたい。
苦労するからこそ、苦労するから価値があるというとまた根性論に聞こえますが、
その人が知的に格闘をしたことが文章の価値になるというと大げさですけど、
読み応えとかに影響してくるわけで。
まだ苦労しなさいとは言いませんが、苦労は避けられないんで、
頑張って書きましょうという話になりますかね。
スピーカー 1
そうですね。
でもこういわゆる上手い文章ではなくても、確かに何かこっちに伝わってくる、
訴えかけてくる文章ってあるじゃないですか。
スピーカー 2
ありません。
スピーカー 1
やっぱりそれってスルスルっと楽に書いた文章じゃないことが多い気がしますよね。
スピーカー 2
それは思います。
文章のデコボコというのが要するに個性ではあるわけですけど、
小説家のようなスラスラ読める文体というのは別にして、
読みやすい、わかりやすい文章というのは、
そのようなデコボコをすべて削り切った後に残っているものであって、
つまりはもう残りかすみたいなものなんですよね。
デコボコこそが価値だとは言いませんが、
デコボコとセットで語られるそれが意味があるんであって、
だから文章うまくなろうっていう方針って、
スピーカー 1
向上心としては良くても、場合によっては行ってはいけない道に行く可能性があると僕は常々感じているんですけど、
スピーカー 2
個性と言うと違いますが、
文章の特徴と構造
スピーカー 2
万人の読者を意識しすぎて、
文章の何がなくなっているという意味なのかな、
骨しかないという意味かな。肉がない。
っていうようなことが正しい文章だということになると、やっぱりちょっと違うんじゃないかなという気はしてまして、
読みやすさに配慮するとか、語字を気にするとかってもちろん大切ですけど、
一番わかりやすいのが文を短くせよってやつですね。
確かに文は短い方がいいんですけど、
かといって、現代で文筆家として生きている人たちの文章が、
全部短い文章なのかというと、そうではないわけで。
そうではない割合の方が多いような気がしますけど。
ある特徴を抑えるのはいいんしても、
価値とか個性とか風味とかいろいろ言い方はありますけど、
それが別のレイヤーで動いている話なのでね。
上手くなるという指針とかも、
書きたいことを書くとか文章が上手くなるとか、
一見それらしく聞こえるけど、
注意が多いアドバイスというのはあるようなという感じですね。
スピーカー 1
そうですね。結構広いテーマですよね。
スピーカー 2
これは結構広いテーマですね。
執筆という行為、もっと言うと行為全般のままならさと、
生成AIと執筆の意義
スピーカー 2
それに関するアドバイスが単純化されてしまうことの弊害みたいなところが、
論点としてはあるかなというところで。
もっと言うと、この生成AI自体に人間が文章を書く理由みたいなところ。
スピーカー 1
さっき倉下さん言われてましたけど、
情報を伝達するためだけの目的の文章は、
もう本当に生成AIでいいのではないかという感じは日々増していきますよね。
スピーカー 2
そうですね。だからようやくできる情報はもう生成AIでいいんですよね。
スピーカー 1
ようやくできる。なるほど。
スピーカー 2
それは結局、生成AIが書いたものを人間が読む必要がなくて、
AI to AI、A to Aみたいな感じのパイプラインでもやりとりされる。
ようやく可能なものはそれでいいけど、
ようやくできない文章についてはもちろん生成AIがどうこうという話ではないし、
読むのが人間であることの意味でもありますよね、そこは。
スピーカー 1
そうですね。
面白いのが、情報を伝達しない目的の文章って何なんだろうって思うんですけど、
それを考えなくても多分情報って伝達されちゃうので。
スピーカー 2
そういうことですね。
スピーカー 1
自分の目的と書かれたものの機能が一致するとは限らないんですよね。
スピーカー 2
そうですね。はい。
スピーカー 1
だからもう純粋に自分のために書いたことが人のために。
なんか似たようなことを野良鉄さんが書いてたのかな。
はい。
野良鉄さんがこの一連の書きたいこと問題について書いた記事の中で書いてたと思うんですけど。
なんかありましたね。
そうそう、最後のほうに。
まさに今同じですね。
自分自身を変えるだけの文章も自分のような人に影響をおろすことはあります。
本当それその通りで。
自分がいろんな影響を受けてきた文章を思い起こしてみても、
おそらくその影響を与える目的で書かれたものではないことがほとんどだと思う。
そうですよね。
だけどそれが結果的にはすごく自分の何かを変える効果を持ってたりっていうこともあって。
逆に自分が書いたものもそうかもしれないんですよね。
スピーカー 2
そうでしょうね。
スピーカー 1
そう考えると、なんというかすごく希望がというか、
書きたいことというようなことをいろいろ考えなくても、
書かれた文章には何がしかのそういう力がある。
場合がある。
スピーカー 2
いっぱいあるわけじゃないですけど。
スピーカー 1
そうですね、場合があるね。
でも現に高田さんの書いたあの記事が、
かなり大きなインパクトを起こしているわけですから、
そういうことだと思いますよね。
スピーカー 2
そうですね。
やっぱりこの野良先生の記事にある、
ダイレクトに役立つことを目指す書き方は徹底せんでいいという話があって、
これやっぱりダイレクトなんですよね。
直である、直接的につながっているというところを一旦保留にして、
かもしれない性を導入すると。
それは結局、自分が書く文章、文章を書くという行為自体もままならないですけど、
書いた文章の行動すらもままならないわけで、
あらゆる誤配の可能性に浸らされているわけで。
スピーカー 1
誤配という言葉がありましたね。
書きたいことの哲学
スピーカー 2
自分が書く行為と書かれたものの距離がありますし、
書かれたものが他人に与える影響も離れてますから、
書いたものの影響って僕から見るとツーステップの向こうにあるわけですよね。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
それぐらいのものであるし、それであるがゆえに、
僕自身が書けるものの効果が、
自分が受け取る人によって100になることもあり得るということが希望ですよね。
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
実際そういうことは起こるし、
スピーカー 1
だけど起こそうと思って起きるわけではない、
コントロールできるものでもないし、
ネガティブな意味で10倍の効果が出てしまう場合もあって、
炎上するみたいなことも当然ありますし。
いやー難しいですね。難しいし。
やっぱり、
なんかちょっと今、
割に今話しててちょっと元気になりましたけど。
スピーカー 2
やっぱりその、
ダイレクトじゃないというかもしれない性っていうのが、
近代的主体っていうものを揺さぶるというか、
壊さなくていいんですけど近代的主体って結構重要な概念なんで。
でもやっぱりそれを揺さぶって穴を開けるというものが、
たぶんそのかもしれない性で、
それを信じられるかどうか、
それに欠けられるかどうかということで書くという行為の価値も変わっていく。
書いた結果が直接こうであればこういう効能がありますよ。
だから書きましょうというのではやっぱり近代化モデルから脱稿できないわけで。
かもしれないっていうところを信じて書く。
やっぱり僕自身も、
自分が書いたことが全く100%絶対に無意味だと思っているわけではないですが、
かといって絶対役立つだろうと思っているわけではなくて、
その時々の精神性で上に行ったり下に行ったりしながら、
ゆるゆる動いているわけですけど。
スピーカー 1
まあそういうもんですよね。書くという行為は。
でも、
でもね、
思っても見なかったようなところに届いて思っても見なかったような、
効果をもたらす場合もあるわけですから。
そうですよね。書きたいことがあってそれを書くっていうのは、
やっぱり文章が直接的な効果しか持たないっていうところにつながった考え方ですよね。
スピーカー 2
あなたが書きたいことを書きます。それを読んだ人があなたに何かしらのフィーを返しますっていうのって、
わかりやすい単純化されたモデルでありつつ、
ちょっと怖さもあって、書かれたものと書いた人が強く癒着する可能性もあるんですよね。
でもそんな風ではないんですよね。
書かれたことは僕の手を結構離れている部分があって、
もちろん文章の責任はあるんですけど、
そこに文章を書いた人か書かれたものから書いた人を接続するのも怖いですし、
書いた人間が書いたことと自分を強く結びつけるのもちょっと怖くて、
だって明日は違う考えになっていることもあるわけですから。
そこにもやっぱりダイレクトじゃなくて、
切断的な考え方を持っておいた方がいいかなと。
自分が書いたものってちょっと離れてるんですよね。
もしかしたら結構離れてるかもしれませんけど、
そういう感覚の方が気楽に書けると思いますね。
気楽に書いた方がいいとは思いませんけど、
ちょっと気が重いんやったらそういう観点で捉えてみた方がいいかもしれませんね。
スピーカー 1
そうですね。
こういう話って実はちょっと哲学的な領域に入ってますね。
スピーカー 2
というところで、
書きたいことがあるかどうかは問題じゃなくて、
別のところは問題というわけですが、
かといってそれを考えずにはいられないタイミングというのがおそらくあるんで、
今回のような考え方でちょっと切断線を引いてみると良かろうかなというところです。
そうですよね。
スピーカー 1
でもそれを考えること自体が全然無駄にならないですもんね。
スピーカー 2
非常に有益だと思いますね。
こういうことを全く考えないで書くということをするのはむしろ怖いと思うので、
一回どこかでちょっとそもそも文字盛りに乗って書くとは何かあるみたいな、
その哲学的な迷宮に一回はまってみるのは僕はいいと思いますけど。
スピーカー 1
はい。
スピーカー 2
はい。
スピーカー 1
というところで何かお知らせしたいこととかございますでしょうか。
大丈夫です。
スピーカー 2
じゃあ皆さんにとって書くということはどういうことかをよければ、
明日ご打ち合わせキャストの平仮名で打ち合わせ、
アルベドキャストまでいただければと思います。
はい。では今回はこれまでにしたいと思います。
お疲れ様でした。
スピーカー 1
お疲れ様でした。
01:21:24

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