感想
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サマリー
今回の「うちあわせCast」では、文章の書き方やメモの活用法、そして生成AIの台頭が知的生産に与える影響について深く掘り下げています。村上春樹氏の新作「街とその不確かな壁」に触れ、その文章の巧みさ、特に「削ぎ落とす」技術について考察。また、英語教師のポッドキャスト「オッドノット」を紹介し、教育現場の複雑さと教師の試行錯誤の重要性を指摘しています。 ツールの話題では、ワークフローリーの新しいペイン機能や、オープンソースのアウトライナー「ドットフローリー」が紹介されました。特に、ワークフローリーのペイン機能は、生成AIによる開発コスト低下が、プロダクトの再設計を容易にしている可能性を示唆しています。ログシークのDB版が登場し、ワークフローリーとの比較を通じて、ページ単位での管理や更新日の扱いなど、アウトライナーとしての特性の違いが議論されました。 生成AIが文章作成に与える影響については、読みやすさと同時に感じる「不快感」や「しんどさ」の原因を探求。生成AIの文章には「人間的な意図」や「思考の痕跡」が欠けている点が指摘され、読み物としての文章と情報としての文章の違いが浮き彫りになりました。最終的には、個人の経験や「自分語り」といった人間的な要素こそが、AI時代における文章の価値や差別化の鍵となると結論づけています。メモの活用法についても、単なる素材としてではなく、自身の経験や思考プロセスと結びつけて「変換」することの重要性が語られました。
最近の話題とポッドキャスト紹介
うちあわせCast第百九十四回ということで、今回もゲストにたくさんお迎えしております。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
一応、画面を共有して話を進めるとして、ニュース周り、いくつかかなり時間が空いたのであるんですけども、
このポッドキャストでないと、たぶん、しゃべらないと思うんですけども、村上春樹さんの「花報」という小説が、7月3日、もう1ヶ月、1ヶ月ぐらい経ってますけども、
お読みになられました?
いや、まだ読んでないです。
じゃあ、お読みになられてから、この本の話をしたいなと思うんですけども、
たぶん、第1巻だけ言って、ファーストインプレッションだけ言っておくと、これ、非評価なかせの本だなという感じがしまして、
一見、表面、サーフィスを追うと、まあ、規模の小さい話をしているなという感じなんですが、
いや、それはそうじゃないぞという、2層、3層の構造が読み取れるなというところで、
まあ、その辺を他の人がどう読まれたか気になるんで、読み終わられたらまたちょっと話したいなと思います。
そうですね。8月に入ったらたぶん読めると思います。
英語の先生の喫茶店オッドノットというポッドキャストが始まりまして、
このイチャスキャストに対してもちょこちょこコメントをいただいているアンキ先生という方なんですけども、
僕もその、額が浅すぎてわからないんですけども、オッドノット、オッドって奇妙なということだと思うんですが、
ノットは結び目ということなんですかね。
ですね。
オッドノット、奇妙な結び目ということなんですけども、これなんかあるんですかね、文学作品にこう言い回しとかがあったりするんですけど。
ああ、いや、なんか簡易多く的にこういう言い方があるのか、僕ちょっと知らないですね。
どういう意味が込められているのかわからないですけど、お二人の方がトークをするという番組になっておりまして、
アンキ先生は英語の先生のベテランという方で、この前4コマ漫画で英作文の練習をするみたいなことを紹介したんですけども、
発信してくれた方で、もう一人の方が今年英語の教師になりましたという新人さんのお二人の方が、言ったら新人とメンターが喋るみたいな自己啓発的構造なんですけども、
一緒に英語の授業をどうしていったらいいのかを考えようという番組で、現在3回まで放送されてるんですけど、
1回と2回目ももうちょっと終わりまで来てるんですが、非常に面白いんですよね。まず単純に、第1回を聞いて思ったのは、
学校教育とか教育に関する話を突き詰めると、難しいねっていうことしか言えないなということになると。
一般的なほにゃらでこうみたいな解決策というか方程式を出せば、まるっと解決するということはまずありえないんだなと。
結局、教師は一人一人新しい生徒を持つたびに、多分深く悩んで試行錯誤して工夫していかざるを得ない。それが教育というものなのだろうなと。
これが例えば先生会が入ったときに、例えば個人向けにカスタマイズした教育が提供できるようになればハッピーですねということをちょっと思ってたんですけど、そんなレベルでもないのかなというような気はしましたね。
難しそうですね、そこは。
話を聞いてて思ったのは、例えば中学の先生って言ったときに、英語の先生って言ったときに、最近は小学校でも英語をやっているらしいんですけども、小学校でどんな英語の教育を受けてきたのかっていうステップを踏んで中学に入るわけで、その小学校の教え方を無視して組み立てるわけにはいかんわけですけど、
でもその小学校で教えてもらうたって、同じ小学校でも先生が違ったら教え方が違うでしょうし、小学校が違ったら教え方が違うわけですから、その個々人の生徒たちが背負っている歴史も違うし、当然個性も違うわけで、そうするとパラメーターが非常に複雑なわけですけど、
でも一方で、学校教育っていうのはある種均一な教育を与える制度なわけで、そもそも無理な、別のベクトルから引っ張られている綱引きのようなことをしておられるんだなぁということを感じて、あんまりそういう実情というか、仕事の現場で働いている人のリアルな悩みってあんまり聞こえてこない上に、
学校の先生って特にそうやと思うんですけど、そういうのは見聞きできて、現場の人もやっぱりちゃんと考えて、当たり前ですけど、一人一人真剣に教育っていうのを考えて向き合っておられるんだなぁということを知れたのが非常に良かったですね。
ツールの進化とワークフローリー
おもしろい番組なのでそちらもチェックしていただくとして、あとはツール。ツール周りがいろいろあるんですけども、まずワークロリコミュニティというサイトができまして、ワークロリについての話題を扱うウェブサイトかな。
ディスコードとかではなくて、彼らがホストしているウェブサイトでトピックを置くことにあって、こういう機能を出しましたとか、こういう機能を作ってくださいみたいな要望が行き来するというサイトらしく。
僕が見た限り書き込みはすべて英語なので、英語で頑張りましょうというところです。
僕が見た限り、アウトライナー界隈の人が全然いないなっていう。
海外というか。メモツールかノートツールか、そういう発想感覚で見てる人が大多数なんだなという、当然といえば当然の印象。
もちろん全部読んだわけじゃないですけど。そういう印象を受けました。
確かにそうですね。アウトライナー堂のコーノという話題をほぼ見かけないはずね。
そうですね。
ユーザー層が大体そういう領域に広がっているということだと思いますけども。
ちょっと関連というか、ドットフローリーというオープンかな、GitHubで公開されているオープンソースのアウトライナーが出ましてね。
一応ホストサービスもあって、ログインしたら別にダウンロードとかせずに使えるサービスでもあるんですけども。
たぶん自分でこのGitのリポジトリをクローンして組み立てたら、実際とでも使えるということだと思います。
僕ちょっとやってないんでわからないですけど、たぶんサーバーを立ち上げて運ぶということができるということで。
ワークフローリークローンですね、基本的には。
これをどう評価していいのかはちょっとわからないんですけども。
一応ワークフローリーが仮にポシャっても、それに代替するものは使えるだろうなという感じで。
Webのほうで1回使わせていただいたんですけど、確かにワークフローリーなんですけど、これだったらワークフローリー使うなという感じで。
余計な機能いらんなと思いつつも、やっぱりちょっと欲しい機能がワークフローリー側にいろいろありまして。
もしローカルで使えなかったらバイクとかでいいし、今後どう発展するかわかりませんけど、オルタナティブというかほぼコピーだよねという感じがしますね。
そうですね。オープンソースなんですよね。
一応オープンソースで誰でもが構成できるようになっているという意味では。
ということには意味を見出せますけど、それ以外は特に。
という感じですね。もうちょっとイノビティブな何か新しいものが欲しかったなという感じはちょっとしました。
そのワークフローリーの関連なんですけど、前回ですね、ワークフローリーの右側で開けるようになってハッピーという話をしてたんですけど、
ちょっと前にそれを操作しようと思ったらメニューになくて、オレーと思ってさっきのワークフローリーコミュニティ見たら、
ちょっと新しく出すよみたいな、待っててねみたいなことを書かれてたんで、待ってたら、
昨日一昨日ぐらいに、ペイン機能か、これいつもアルファベット見たときにペインって読めないんですけど、
まずパネって読んでしまうんで。
ああ、なるほど。ローマ字読みになってしまうんですね。
ペインって言うとP-A-I-Nみたいなスペルを思い出す。
痛み。
ペイン機能って名前の通りペインが開くということで、今もう画面脅威しているのでワークフローリー見たほうが早いんですけども、
右上のほうにニューペインというボタンが追加されまして、これを押すとマジでワークフローリーが横にもう一つ開くと。
今まではサイドバーにちょこっと開くだけの機能限定版アウトラインだったんですけど、
こっちはフルスペックのワークフローリーで全く同じ、両方ともどっちもがメインという感じで操作できて、
ズームインもズームアウトも自由にできますし、デイリーを開くこともできますし、検索することもできますと。
これ自身が非常に素晴らしいんですね。
僕は前のバージョンのを使ってたんですけど、左側メインのほうでデイリーを開いてて、
右側に例えばプロジェクト一覧を開きたいなってなった時に開けないんですね。
デイリーの中にプロジェクトはないから。
親が違うような項目を開くのが非常に面倒だったんですけども、
すごく簡単にできるようになりまして。
さらに面白いのは、もう一回押せば3つになる。
もう一回押せば4つにも5つにもなって、いくらでも好きに広げていけるということで。
これ自身は便利で非常にいいなと思うんですけど、
僕が感心したのは、サイドバーでちょこっと出すっていう形でリリースしてたのに、
ほぼ全面的に作り変える形で再リリースしてきたという、
この生産性の高さというか、
よく最初に出た形のまま機能追加して余計に混乱するというパターンが多いと思います。
サンクコストといって作ってしまったものを取り下げるのもないっていう。
でもこれはもう完全に全面的に作り直して、
多分僕が思ってたような使いにくさを感じたという声が出てきてたおかげだと思うんですけども、
作り直されたと。やっぱりこれは生成AIによって新しく作り直すコストが
大幅に下がっていることがあるんではないかなと個人的には思うんですけど、
僕自身もちょっと細かいところを作り変えるぐらいだったら、
新しく作り直すのが早いというパターンのほうが多いことに気づいているんですね。
生成AIってコンテキストが長くなっていくと混乱するんで、
修正に修正に修正を重ねていると、どんどん質が悪くなってくるんですね。
だから自分が最新の理解の上で新しく作ってって言ってプロンプトを投げた方がシュッとできたりするんで、
だからその機能のアップデートの方法論とかアプローチもやっぱり
with生成AIの形で結構変わってきているのかなというのがちょっと感じました。
ガラガラポンしちゃうコストが劇的に減っている。
これは良いことだと思うんですね。ベータテストしやすくて、
一回リセットして作り直す。
だいたい最初のやつってダメなことが多いんで、
使ってみて直すっていうパターン。
これは文章を書くときもそうなんですよね。
第一ドラフトってだいたいアラを見つけるために書くみたいなところがあるので、
それをソフトウェアレベルで簡単にできるようになっている現在なんかなという感じです。
それってあれですよね。実はデジタル以前に少し揺り戻している感じなんですよね。
かもしれませんね、確かに。
デジタルだから大変になっちゃってた部分、できちゃうから直してってやってた部分が、
元に戻ったというか、一周して元に戻ってきたような感じがしなくもないですね。
そうですね。昔のデジタルやトウベルスのMockupって表面だけ真似したバージョンでっていう感じだと、
Mockupがほぼ実用レベルのものとしてMockupが作れるということで、
プロトタイプとやり直しが非常にやりやすくなっているし、
本当はそれがデジタルのあり方だとは思うんですけども、
そういうのができるようになってきたというところですね。
ログシークDB版とアウトライナーの比較
ログシークのDB版がいよいよベータ版が誰でも使えるようになったということで、
今まではログシークに頑張ってくださいね募金をしている人だけだったんですけども、
今はもう一般ユーザーにベータっていうことを把握した上で使えるようになったということで、
今までファイルベースでやったのがDBベース、多分SQLiteだと思うんですけど、
ベースでデータを管理するということで、一応使ってみたんですが、
日本語環境だとちょっとややこしくて、日本語の鍵カッコあるじゃないですか、
あれを入力しようとするとブラケットとして認識されて、キーが同じなんで、
でも閉じカッコ開きカッコになってしまうという、
これは日本語環境、僕のカワセミと機能がもしかしたらあまり相性が良くないから起きているのかもしれませんけど、
ちょっと日本語環境の場合現状使いにくいなというところなんですが、
ログシークいいですねやっぱり、いいですね、ローカルベースで動いて、
もちろんジャーナル機能がメインでありつつも、ページ単位で作れるということで、
だいぶワークフローに似ているんですけど、
ワークフローと一番の違いは、ページという単位を持っているか持っていないかということで、
ワークフローの場合、例えばある項目があってその項目にした項目があると、
その全体が親と子のがページを構成しているように見えるんですけど、
別にページじゃないんですね。
ログシークの場合はページという単位があって、
例えば何でもいいんですけど、打ち合わせキャストというタイトルのページを作って、
その下にバレットが並ぶという形になってますね。
見た目は一緒なんですよ、別に。
でも最近気づいたんですけど、
例えばログシークで打ち合わせキャストというページを開きまして、
元々あったページに第134回が更新されましたという情報を書き加えたとしますよね。
そうしたら打ち合わせキャストというページの更新日が上書きされますね。
でも同じことをワークフローでやっても、
つまり親項目に含まれている回項目を書き換えても、
親項目の更新日は変わらないんですね。
それはワークフローで使っているとごく当たり前の感覚なんですけど、
それはページという流度がないからなんですね、要するに。
仮に下項目を書き換えたときに上項目が書き下りだったら、
ワークフローよりは全部が一つのアウトラインだから、
全部の更新日が付けられちゃうんで、
それははっきり言って不条理なんですね。
それは全部がシームレスでつながっているからですけど、
エロクシリークの場合はページという単位で全部が切れているので、
その単位ごとの更新日というのが成立すると。
ワークフローでやっぱり一番欲しかったのは、
更新日順でそうとみたいなビューが欲しいなと思ってたんですけど、
結局それ成立しないんだなと。
しないんですよね。
全項目をフラットに並べることしかできなくなってしまって、
だから結構使い方によってはログシークみたいな方が、
ノート的に使う場合はログシークの方が多分使いやすいんじゃないかなという感じはしましたね。
そうですね。だからそういう意味ではノートではないんでしょうね、ワークフローより。
そうなんでしょうね。その辺は改めて感じました。
デジタルノートとして使う場合、
アウトラインでメインしたいよっていう、
アウトライン表現を使いたいよっていう場合、
ログシークはかなり強力な選択肢になるんじゃないかなと思いますね。
そうですね。そう捉えることもできるし、逆に捉えることもできる。
これも結構面白くて。だから一見似た感じですけど、
ツールの指導的には違いますし、
データベース志向になったんで、
一応重さはほぼなくなったと見ていいと思います。
だから長大な項目にも耐えられますし、
以前からあったエンベッド、
別のとこにあるものを埋め込むとかも普通に当たり前にできますんで、
これがベータ版取れたとしたら、
大きい対抗馬というか新しい選択肢になるかなと思います。
例えばObsidianをバリバリ使っている人が、
ログシークに移行するメリットってあると思います?
まずObsidianをよく分かっていないけど、
流行ってるから使ってるっていうタイプがいたとするじゃないですか。
Obsidianの場合は、まずMDファイルで保存すると。
ログシークはデータベースになってしまう。
一応ファイル版もありますけど、
基本はデータベース版になっていると。
マークダウンファイルで管理することに価値を見えなしにいないと。
ローカルでやりたいっていうだけの場合に、
管理は絶対にデータベースの方が楽なんですね。
ローカルでデジタル的なことをやりたい場合は、
ログシークが選択になりますし、
やっぱりObsidianはファイルベースなんで、
ファイル数が増えてくると、
ちょっと重たさが出てくる。
インデックスの扱いにおいて。
満のスケールを扱いたい場合は、
ログシークの方が多分いいんじゃないですかね。
1000とか以下のオーダーの場合は、
どっち使っても全然変わらないと思いますけど、
超巨大なファイルベースは、
そもそもファイルというものの役割が多分ないので、
細かい単位のファイルをたくさん作る場合、
例えばナレッジベースみたいなのを考えた場合って、
結構無駄なんですよね。
3行ぐらいの本部しかないノートが、
1000も2000もあるみたいな。
そういうのは多分データベースの方が、
全般的にいいんじゃないかなという感じがします。
次の話なんですけど、
関連するんですけど、
ログシークDB版は標準機能で、
HTTPサーバーを立ち上げるという設定がありまして、
AMCPが何も追加しなくても使える条件になっていると。
僕、アンチグラビティ使ってるんですけど、
アンチグラビティCLIにログシーク操作してって頼んだら、
AMCP読ませた後に操作してって頼んだら、
普通に操作してくれるんですよ。
一応、オブシリアンにも、
MCPはないんですけども、
オブシリアンコマンドライン、CLIというのがあって、
それを使えば、別に各種、
生成AIエージェントから操作はしてもらえると。
としたら、別にどっちでもいいっていう、
生成AI時代の文章作成と人間的要素の重要性
極論どっちでもいいって言う人多いと思います。
結局、ユーザーから見て、
インターフェーズが生成AIであって、
データの出し入れを生成AIがやるんであれば、
どう保存されてるかは、ユーザーは気にしなくていいわけですから。
ワークローリーもMCPがあって、
コセンスもCLIがあるんで、
一応、僕一通り触ったんですけど、
ノートツールとして使うっていう用途の場合、
ほぼ差がないというか、
間にクッションとして生成AIが入ってるんで、
そのAPIとかを叩くのは生成AIなので、
ユーザーはこれ保存してとか、あれ取り出してって言うだけなんですよね。
そのツール上でデータがどう保存されてるか、
それがデータベースなのか、MDファイルなのかは、
ユーザーはほぼ認識しない、把握しない。
カプセル化されてしまっている状況なので、
逆に言うと、ツール間の差異みたいな、
選ぶときの違いみたいなのが、
どんどんこのMCPサーバーを使うことによって、
なくなっていくなという感じがしておりまして、
逆に言うと競争力が減っているなという気がするんですよね。
正直、Evernoteを使っていてもNotionを使っていても、
データベース形式が得意か不得意か、
みたいなことはあると思うんですけど、
ほぼあんまり関係がなくなってくるんですけど、
唯一、ワークフローリーだけは、
アウトライン操作を自分ですることに意味があるので、
その他の、ワークフローリーもデータサービスとして、
ノートツールとして使うんであれば一緒ですけど、
アウトライン構造を操作するのを、
生成案にやってもらっても意味がないというか、
不得意なことをさせているだけなので、あんまり意味ないですけど、
唯一、ワークフローリーだけがどんな形で見えているのか、
操作できるのかが価値になりますけど、
それ以外のストレージとして、
自分のインフォメーションストレージだけ入れて、
出すということを使う場合、
MFCPが間に入ると、
どんなツールでも別にええやんの時代になってしまうなと。
要するに、どれだけ高度なノートツールがあっても、
ただの入れ物になっちゃうという感じですよね。
そういう感じにもなりつつあります。
それはフラット化でいいことなのかもしれませんけど、
本来個々のツールがユーザーが使ったときに感じる、
使いやすさ、使いにくさという、
UIの差みたいなのが消失してしまうということで、
方向性によってはあまり良くないし、
逆に言うとバイクとかワークローリーのような、
人間が使ってこそ価値があるツールは、
ユーザーとユーザーが実際に触るっていう体験そのものは、
残り続けるだろうなという気もしましたね。
そういう、アナログ的操作が可能なデジタルツールというか、
アナログ的操作をすることに意味があるデジタルツールと、
それ以外のものというふうに分かれる感じがしますよね。
僕はしてますね。
それ以外のツールは本当にいくらでもチェンジ可能な、
そもそも自分がどう使っているのか、
ユーザーを意識しないタイプの存在になっていき、
逆にワークローリーとかバイクとかは、
ユーザーの見た目とか操作感の好みが非常に重要になってくる。
だから前者は脱個性で、後者は個性化というふうに、
シフトするんじゃないかなという気がしてますね。
でも結構先生AIの時代は、
アナログ的操作というのが、
なんか一つのキーワードになるような気がしますけどね。
そうですね。それをどこに残しておくのかというようなところを意識しないと、
情報を蓄える、分析する、成果物を出すということそのものを、
もう人間の関与なしでできるようになってきていることにおいて、
いかに差別化するとか価値あるものを生み出せるのかっていう時に、
その人間的関与をどう出していくのかということを
考える必要があるとは思いますね。
8月が迫ってまいりましたが、去年もあったんですけども、
ブローガストというイベント、これは基本的に海外発なんですけども、
それも日本でもやろうということで、
お題目としては8月毎日更新しよう月間なんですけど、
本当に毎日更新しなくてもいいけど、
月に何回か普段よりは更新頻度を上げていこうみたいな、
掛け声というかイベントが行われるというか、
行われるというか、これ別にイベントが行われるというのはおかしいんですけど、
そういう気運が高まる月ということで、
ちょっと今めちゃくちゃ忙しいんで、
去年も毎日更新したんですけど、
今年は難しいんですが、
ちょっと更新頻度を上げようかなと思っているんですけども、
これってイベントというか、
日本的表現で言うと祭りやと思うんですが、
やっぱ祭って大切だなと思うんですよね。
こういう祭りごとがないと、
起こらない出来事がたくさんあるわけですが、
日本の文化における祭りっていうのは、
晴れか景で言うと晴れなわけですよね、基本的には。
日常の景と非日常の晴れというのがあった時に、
晴れっていうのは例えば、
普段会わないような人に出会ったりとかっていう、
一つのバーなわけですね、開講のバーだったわけですけど、
僕たちはますます生成AIとばっかり喋るように、
景が人間と喋らない状況になってきている中で、
わざわざ人に向けて何かを言うために、
祭りが必要だなとちょっと思うんですよ。
最近SNSとかブログを見てても、
やっぱり明らかにノウハウの供給が減ってるんですよ。
みんな書かなくなってきている。
ノウハウの記事をウェブに出す動機づけの大きさを、
大部分はやっぱり人に知らせたいっていう気持ちだと、
僕は思うんですけど、
生成AIに話すと、もうそれでちょっとその欲求が減ってしまうというか、
あいつに言ったからいいかっていう風になってしまうパターンが、
もしかしたら起きてるんではないかなと思って。
これは僕は全然良くないと思うんで。
なのでこういうイベントごとに乗っかって、
毎日というのは流石にあれですけど、
ある時期にイベントごとでちょっと書くかみたいな、
動機づけが生まれたらいいかなとちょっと思ってます。
というところで本編なんですけども、
いかに文章を書いているか問題ということで、
いくつか話が混ざり合うんですけど、
たくさんが文章エディターについて最近ずっと考えておられると。
僕の方としてはメモの扱いというものを考えているのと、
エディターを自分で作っているということがあって、
それを考えるためにはやっぱり自分がどんな風に文章を書いているのか。
文章を書いているのかという話もレイヤーがいっぱいありますけど、
ライティングプロセスの話ですけど、
どんな工程で着想から成果物までの流れをデザインしているのかということを考えないと、
このメモの使い方とか文章エディターの話は検討できないと。
昨今、別の流れとして、
生成AIを使って文章を書くという話も盛り上がっておると。
生成AIで書かれた文章は読みやすい。
日本語としては正確だが、読みやすいのかもしれないが、
健康に良くない。
何とも言い難い不快感がある。
不快感はちょっと違うな。
読んでてちょっとしんどくなることはありますよね。
病気になっちゃいそうになったので、読まないことにするレベルで体に悪そうですね。
生成AIと応答しているときもイライラすることがあるわけですが、
それとは別に、明らかにこれ生成AIで書かれてますよねっていう文章。
そもそも書かれてますよねって思うこと自体に何かパターンを見つけてるんやと思うんですけど、
僕の暗黙値が。
それを読んでると、やっぱり負荷が多いんですよね。
なんか知らんけどってことはないけど。
文章としてはたまないけど、人間が読んで、
なんていうんやろな。
語彙がないんかな。それを表す語彙がないんですけど。
気持ち悪さ、しんどさみたいなものが湧き上がってくると。
だからもし生成AIを使って文章を書こうということを考える場合、
いかにそのようなものをなくしていくかっていうことが多分必要で、
それを考えるためには多分人間が文章を書くときにどうしているのか
多分考える必要があると思うんですけど。
だから全般的に人々がどうやって文章を書いているのかを
考えたらいいのではないかなという風な流れが今合流しているわけですけど、
一番最後の方から考えたいんですけど、
あれは何なんでしょうね。まずね、長いんですよ。
長いです。
で、文章とかも長いですけど、文も長いんですよ。
で、リズムも、文章が持つリズム感も弱いですけど、
形容詞がまずうざい。形容詞、副詞がうざいし、
例えもよくわからないし、ロジックもちょっと変なんですよ。
ほにゃららですが、ほにゃららみたいなこの文があったときに、
そのですがのロジックが感じられないというか、
AですがBっていう、人間とか僕が読んだときに
Aですがで期待するBではないみたいな感じが多々あるんですよね。
で、見出しも似たような感じで、見出しが文になってたりして、
見出しの役割を果たしていないんではないかみたいなことが、
今挙げたような細かいものが全部積み重なって、
読んでたらしんどいとか気持ち悪いになるんですけど、
やっぱり思うのは、例えば自分が文章を書く場合でも、
第1行、ファーストトラフトを書き終わりました。
で、次にやるのは何かというと、
いわゆる日本語で言うと、遂行なわけですけど、
ほぼ削ることだと思うんですよね。
だいたい削ること。語尾を整えるはありますけど、
デスマスとか連続しないようにみたいなことも、
調整もありますけど、まず余計な言葉を削るということだと思うんですけど、
たぶん、先生はそれのプロセスが省かれている気がするんですよね。
そもそも、じゃあ余計な言葉の余計はどう判断しているのかなんですけど、
それはアルゴリズムに還元できるのかなという気もするんですよね。
文章の流れに飛躍があるから書き足すってことももちろんゼロではないですけど、
まず削ることじゃないですかね。どうですかね。
ファーストドラフトというものが仮にあったとすると、
個人的には、僕はファーストドラフトから、
それをベースに書き加えている感じはあって、
どれをファーストドラフトと呼ぶかによると思うんですけど、
そこから書き加えて、要はフリーライティング的なものが、
まずありそこから書き加えたり、
編集したり、あっちこっち切り張りして入れ替えたりして、
ざっくりしたファーストドラフトができて、
それを読みながら足りないところを加筆していって、
目いっぱい膨らませた後で削るみたいな。
結構工程としては後?
後ですね。削るの後ですね。ただ削りますね、でもやっぱり。
最終的にプロダクトとして提出するものはまず削りますよね、やっぱりね。
3分の1ぐらいは削る感じですよね。
それがやっぱりなされてないんですよね。
読まれてないからあれなんですけど、
村上晴乃ちゃんの歌法を最初2、3ページから読んだときに、
めちゃめちゃ文章うまいなって。失礼ですけど、思ったんですよ。
みんなそれ思いますよね。
僕は基本的に20代の頃は本当に日本語の本を春木さんの本しか読んでなくて、
ここ数年間、日本人が書かれた他の現代的な小説も読んで、
改めて村上晴乃さんの小説を読んだときに、
昔感じなかったうまさを、彼が熟達しているから感じるうまさもあるんですけど、
比較対象ができたことによって初めて感じる文章のうまさっていうのがありまして、
当然音のリズムの良さっていうのは第一環としてあるんですけど、
それは別にある一定の文章を必ず音のリズムを整えるっていうのは意識していると思うんですけど、
でも音のリズムを整えるためには何が必要かなっていうことを考えたときに、
無駄な描写をしないっていうことなんですね。
めっちゃ無駄な描写をしてるけど音のリズムが良い文章って別に読みやすくないんですよ。
めちゃめちゃ最低限のことを書いて、その分が音的に良いというのが読みやすい文章なんだなっていうのを、
この歌穂の冒頭を読んで感じまして、
いかに読者がこの物語に入っていけるだけのギリギリの描写で、
作品を成立させているのがすごいなと思ったんですよ。
これは圧倒的に素で作った生成アイの文章にはまずないことだなと思って。
ともかく書くんですよ、彼らは基本的に。
こっちがその文章でどんな脳内イメージを組み立てるのかというシミュレーションは基本的に発していない。
それは非常に読む人間にとって負荷が強いかなというところで、
削り方っていうのが人間技だなという、
人間技というかその文章の生え下手に出てくるんだなというのを、
その作品を読んでちょっと感じましたね。
なぜ削るかということを考えたときに、余計だと思って削るわけじゃないですか。
もちろんそうですね。
なんで余計だと思うかというと、
おそらく書き手がこういうことを伝えたい。
書きたいことはいっぱいあるんだけれども、
だからこそもしかしたらファーストドラストで書いちゃうのかもしれないけれども、
この本なり文章なりで伝えたいことからすると、これはちょっと余計だなというか、
この筋道的に伝えたいことにまっすぐ向かっていかない。
むしろ伝えることを阻害するなと感じるから、
これいらない、ちょっと避けとこうとか思うわけじゃないですか。
だからそうやって自然に濃淡ができるわけですね。
そうですね。
で、生成愛は要するに生成しているので、
結局その文章的な思考はなしで、
文章的な必然性だけによって作られていくわけですよね、あの文章が。
はい。
文章的な必然性というか。
細かいですね。だから必然性すらない気がするんですよね。
つまり、だから言いたいことわかるんですけど、
僕らが文章を書くときも、その文章の必然性に応じて、
自分が感じるその文章の必然性に応じて、
こうあるべきだという形に目指して削ったりするわけですけど、
その必然性の重みづけすらたぶん彼らはなくて、
裁判で証拠になりそうなものは全部揃えるみたいな、
そういう感じがするんですけどね。
そうですね。だから必然性というよりも、
必然性じゃないんですよね。なんだろうな、あれは。
点と線があるとしたときに線しかないというか。
なるほど、確かにそうです。
逆に文章を書くときって、点として浮かんでくる断片的な、
いかに線として繋がったものにするかが難しいと思うんですけど、
逆なんですよね、彼らは。線しかないというか。
しかし線ってリニアなわけですよね。
リニアに生成している、ある意味究極のナチュラルライターなわけですけど、
つまり、線がいいんじゃなくて、
線じゃないものを線にするから意味があるってことなんですね。
そういうことですね。
なるほどね。
点っていうのが結局、このことを表現したいとか、
このことを人に伝えたいっていう思考が断片的に、
我々の中には浮かんでくると思うんですけど、
それをいかに読める状態のリニアな文章に変換するかが難しいんだと思うんですね。
ちょっと待ってくださいね。
今のは点を線にするって話ですよね。
そうです。
意見が書く場合ですね。我々が書く場合ですね。
でも例えば、この前ブルースカイで、
読書感想文書くの難しいって話を見たんですけども、
付箋を一個一個作って並べるという、あれは点を線にする話ですけど、
あれだけでうまくいかないということなんですね。
何かっていうと、僕たちは点の並びから線のもう一個向こう、
立体を見て、点を含む立体を見た上で、
その立体から線を切り出してるじゃないですか。
点から線じゃなくて、点の向こうにある面とか立体っていうのを何とか見つけ出し、
その形の中から線と呼べるものを取り出す作業をしてません?
してません?僕はしてるような気がするんですけど。
そうですね。それ単なる言語化の仕方の違いだけだと思うんですけど。
だから別に線に意味があるわけじゃないと思うんですよね。
そうですね。
点というのは文章という形にしなきゃいけないことから生じる必要枠みたいなもので、
そうですね。
文章はリニアにしか書けないので、だから仕方なく線にしているけれども、
実際に考えていることは線ではないわけですよね。おそらく。
それが今倉下さんが立体と表現したものだったり、
もしくはもうちょっと深く絡み合って結びついたネットワーク上の思考だったりすると思うんですけど、
でもいずれにしてもそれを人に伝達するために、人に読んでもらうためには
リニアに変換しなきゃいけないというのが人間の差だというか、
これまでの歴史から来る文章というもので伝達しなきゃいけないということによる人間の限界というか、
だから線にしたいわけじゃないんですよね。便利的に線にしなきゃ人に伝えられないんですよね。
なるほど。
だけれども、生成AIはとにかく線になっているという感覚ですけどね、読んだ感覚として。
ちなみにちょっと話はそれるんですけど、
最近新しい概念を勉強するときに、生成AIを使っているんですけど、
生成AIに質問するのではなく、例えば最近ドメイン駆動開発について勉強しようかなと思ったときに、
生成AIにそれを解説するウェブサイトを一緒に作りましょうというふうに持ちかけるんですね。
まずインデックスを作ってくださいと言って、どんな目次が並ぶか考えましょうと言って、
それを一個一個項目をページを作ってもらうんですよ。
その文章は全然大丈夫なんですよ。
そこで生成される文章が嫌な感じは全くしないんですよ。
そこというのは個別のページ?
個別のページは、例えばノートで上がっているような、
生成AIがいかにも作りましたっていうものに感じる邪気は全くなくて、
清々しいぐらいに彼らが己の本分を果たしているなという感じがするんですよ。
これはだから、そもそもノートとかでやろうとしている、
自分が持っている考えとかを生成AIに代替させようとしていることそのものに無理があるのかもしれないというのがまず一点。
チャプターに分解してウィキみたいなのを作るというコンセプトで言うと、
リンクが使えるわけですね。
この解説については別ページでっていう切り分けができると。
リニアでありつつも構造を持たせて記述することができる。
ノートの記事とかっていうのは本当にもう無理やりリニアにしているわけですよね。
本来別の構造で書くべきこともとりあえずここの文章だから入りとかないかみたいな感じで無理にリニアにしている。
そこで入れすぎてしまう、書きすぎてしまうということが起こるのかもしれない。
原因はわからないですけど、一般的にノートとかで見る嫌気がさせるような文章を生成しつつも、
解説的な文章でしかも目次から作成させて、
目次から作成するということは生成やに全体像コンテキストを持たせたということなのかもしれませんけど、
そのようにして書かれる文章は嫌な感じが全くしなかったというところが僕は非常に面白くて、
文章を書くって言っても、生成やに書かせるって言ってもいろんなアプローチがあるんだなというのはちょっと感じてるんですよね。
それはだからあれじゃないですかね、読み物を作らせようとするか、情報を整理というか、
情報を定義する、何かを作らせようとするかの違いではないかなと。
あると思いますね。つまりここで言うと文章と大きなカテゴリーで括った場合でも、読み物としての文章と情報としての文章が分かれてて、
後者は非常に生成ややが得意というか、もしも彼らに書いてもらった方がはるかにスムーズだなと。
それは分かります。
人間はだから読み物としての文章を書く、あるいは人間的な要素をそこに入れていきたいという欲望が残ると。
僕らが物書きが生き残るとしたら、そこの土俵でいかに戦えるかと思うんですけど、
だとしたらどんな要素がそれを担っているのかということなんですが、ここが一番難しいんですけども。
一つにはもちろんアイディア、文章を書くに至る着想っていうのは種だと思うんですけど、
でもやっぱりその書き方、プロセス、書くプロセスの中に宿る何かもあるんではないかなと、漠然とは思いますけどね。
もちろんあると思いますね。
僕の文章とたくさんの文章が違うのは、やっぱり書き方による違いも多少ならずともあるでしょうね。
まあもちろんですね。
こちらから見ると、倉下さんの文章と自分の文章が、やっぱりこっちから見ると、
倉下さんはプロだしって思ってしまうところは、それはそれは置いとくとしても違いますよね。
明らかに違いますよね。
そうですね。似たような話をしていたとしても違いますし、リビジョンでも一冊の方に入ってるんで、
お互いに意識しようがしまいが合わせるっていうか、一つの場を作ろうとしていたとしても文章的には違いはありますからね。
ありますね。持っていき方がそもそも全然違う。
そうですね、確かに。
というか逆みたいに感じることが多いですね。
おお、なるほど。
それこそ、「なんとか駆動」っていう言葉があるとすると、何駆動かが違う感じがしますよね。
違うと思いますね。確かに。
じゃあ自分は何駆動なのかと。
全体の駆動はわかりませんけど、これ前も言いましたけど、
僕は一旦書き上げた文章をパラグラフ単位で上に行ったり下に行ったりってほとんどしないですけど、
たくさんは結構共単位で移動されるんで、その移動の仕方の違いから背後にある何駆動かが違うなというのが朧げに推測できますけどね。
そうなんですよ。多分そうなんですよね。
だから、編集と仮に言ったときも、おそらくやってることは全然違う。
全然違いますね。
ですよね。
で、僕は文章エディターの話をなんで書いたかということにもつながるんですけど、
やっぱり、編集の考え方の違いがあって。
個人の経験と「自分語り」の価値
なるほど。
これ単純に英語と日本語の書き方の違いっていうと、あまりにも単純化しすぎですけど、ちょっとあえて単純化しますけど。
やっぱり、例えばワープロの文脈で言うと、編集機能を何に使うかっていうときに、
日本の80年代の作家がワープロに触れたときに、ワープロの編集は編集機能がいいんだよって話をみんなするんですけど、
彼らがしてることは推考なんですよ。編集じゃないんですよ、見てると。
で、同じ時代の英文ワープロを使ってる英語圏の書き手が言っている編集というのは、編集というかエディットですよね。
もちろん推考は後の段階で当然やると思いますけど、それ以前の編集をしてるわけですよね。
その違いがほとんど意識されないで日本は来てたなという気がものすごくしていて。
だから、単純に編集という話をしたときでも、何の話をしているのかが全然違うわけですけど、
推考ではなく、それ以前の段階の切り張り編集というのは何のためにしてるかっていうと、
多分何を書くか考えてるんですよね。書きたいことがあってそれを表現する文章のあり方を考えている場合もあれば、
そもそも何を書きたいのか考えている場合もある。そういう意味での編集と、
まず自分から出てきた文章というものがあり、それを磨き上げていく推考。
とは根本的に違うものだと思うんですよね。
で、そこまで極端、当然倉下さんもエディットはされてると思うんですけど、
だからそこまでの違いではないけれども、見てると倉下さんの方が多分、
大きな塊の流れとして出てきたものを扱ってる感じがして。
僕の場合はそもそも大きな塊を一気に出す能力が全くないので、
細かい断片、バラバラの断片を組み立て直して大きな塊を作るところから始めている。
そもそもその大きな塊をどんな動機で作るのかも含めて、それを探すところからやってるような気がする。
するんですよね。
そうすると当然、エディターもしくはワープロに求める機能も、
その描き方によって当然変わってくるはずだと思うんで。
そうですね。
だからそういう断片を組み立てて何を描くか探すみたいな描き方をする人間が、
アウトライナーを求めるのは当然のことだと思うんですね。
印象ですけど、現代でも日本文学が好きな人は、
原稿、まあ原稿じゃないですけど、書く前に頭の中で考えて、
書き始めたらもうあとは書くだけですっていうタイプの人を何人か知ってるんですけど。
そういう人は別にアウトライナーいらないわけですよね、基本的に。
いるとしても小単位とかで並べ替えるとか、そのレベルなんですよ、たぶんね。
ほぼ流れが出来上がって、あとは書くだけの状態まで脳内で煮詰めて煮詰めて書くっていうタイプの人が、
僕はそれで書けるのはすごいなと思うんですけども、
言うても僕も多少近いところはあるけど、
少なくともその場合でも紙ツールとか付箋を使って脳内だけでは完結させないとかできないんですけど、
でも割と流れが決まったら、あとは細かいところだけというところは似てるかな、多少は。
結構書きながら構造を考えますけど、
文章を書き下ろす、今から例えばテキストファイル開いて、
その章の文章を書きましょうと思っている時にはもう割と流れは決まってますけど、
その前の段階でアウトライナーが活躍しますね、結構。
この話題をどこに差し込むかということを考える時にはアウトライナー的な操作は結構しますけど、
書き始めたらあんまりやりませんが、詰まったらまたアウトライナーに戻るわけですけど。
今も戻ってますけどちょっと。
でもあれなんですよね、まさに今この話題はどこに差し込むかって言われたと思うんですけど、話題単位なんですよね。
そうですね、話題単位ですね、私は。
フレーズ単位なんですよね。
なるほど。
センテンスよりさらに細かいぐらいのフレーズ。
うーん、そうか。
もちろん全てじゃないですよね。全てフレーズ、無数にあるフレーズを並べ書いてるわけじゃないんですけど、
段落よりかなり細かい、パラグラフよりかなり細かい単位で並び替えてるっていうのは、
リビジョンの原稿の修正のやりとりの時にちょっと見ていただいたところがあると思うんですけど。
で、それによって内容が変わるんですよね。
で、なんかそれによって内容が変わるっていうのはすごいそうですけど、すごいわけじゃなく、逆なんですよね。内容が考えられてないんですよ。
うーん、なるほど、なるほど。
書いた内容を、内容の中から、このフレーズこっちみたいなことをやることによってようやくわかってくるというか、何が書きたいのか。
で、そうすると最初に書いてたことと全く違うものになっちゃったりするわけですよね。
はいはいはい。
で、別にそれをやらなくても書けると思うんですけど、たぶんつまらない。
要するに、自分が最初から書けるもの、一応文章書けると思うんですけど。
はい。
だって、職場で、仕事ではそれやってるわけですから。
そうですね、はい。
もう本当に鷹が知れてるというか、読んで面白くない。面白い。
それは、じゃあ、ぐちゃぐちゃやってやったものが面白いかどうかっていうのは、読む人が判断するんですけど。
自分の感覚として面白くないものにしかならない気がして、実際面白くないと思うんですよね。朝墓だし。
あー、なるほどね。
朝墓なんですよ、最初に書いたのがすごく。
なるほど。
もしくは古代妄想なんですよ。
はいはい、なるほど。
それをね、ちゃんと書ける人っていうのは、ある程度書きながらそれを調整できるんですけど、書いちゃわないと調整できないんですよね。
だから書いちゃって、何これ、お前何様のつもりみたいなことが書いてあるのを削除するし、逆に取るに足らない余談のように書いていたところに入っているあるフレーズを見たときに、
あ、このフレーズ、なんか全然意識してなかったけど、なんかすごいかっこいいみたいなことを思って、それを思いっきり扱いを引き上げるみたいな。そうするとそこから内容が変わっちゃうみたいなことが起こるんですよね。
で、それがうまくいくと、朝墓な自分が思っていたのよりも朝墓じゃないものに根が沸く場になってるみたいな。
うーん。そういう文章は、さっきの対比で言うと情報を伝える文章ではないということですね、きっと。
えーとですね。難しいですね。本当に純粋に情報を伝えるためだけなら、そんなことはしなくていいはずなんですけど、でもやってるような気がします。
それはやっぱり読み物感が意識される。ご本人の中でも無意識か意識か別して、やっぱり読み物を書こうとしてるというふうに思われますけどね。
そこもレベルがあって、情報を伝達するものでも、あまりにも下手すぎてこれは情報が伝わらないと思ってぐちゃぐちゃやっちゃう。
こともある。
こともあります。
なるほどね。まあそういう程度の問題。例えば、誰かにお使い頼むときにタスクリストじゃない、買い物リストを作るときに、そこまで書きながら発見することを期待したいは多分しないと思うんですけど、まあゼロではないにしても。
やっぱりその読み物が高くなるにつれ、自分の考えとかを書かざるを得ないというか、自分の考えを書くから読み物になるわけですけど。
そういうものを表すときに、第一層、サーフェスに留まっているようなのは朝墓で、それを書きながら考えて、読むに耐えうるというか、読んでもらったとき価値を持つものにシフトしていこうという動機づけというか欲望みたいなのがあったときに、
それはたぶん生成AIにこれについて書いて、パパーって言ってはいって言うわけにはいかないですね、それはさすがに。
そう思いますね。でもやっぱりエゴ的なものですよね、強いのは。やっぱり自分は朝墓でないと思いたいみたいなところがあるじゃないですかね。
朝墓かどうかは別にして、人間の認知が偏っているというのは万国共通であり、第一層にある考えというのは、もうそのような偏りに一番強くさらされているものである以上、まあちんぷなものであるのは当然で、
だとしたら、そのファーストアイディアからいかに展開できるのかが、読むに失するような文章を作るために必要な工程だとひとまずは言えるとは思いますけども、
さっきのだから生成AIで使った文章で読むに耐える耐えれないが、情報としての解説文であれば読めたのに、そうじゃない、ある個人の考えを表現するような文章の場合読みづらいというのは、基本的に朝墓か古代もその文章を読ませているからということは言えるかもしれませんけど。
まあそうなのかもしれないですね。
読んでても深くなんかその、いわゆる腹落ちというんですかね。しみじみとああそうだなと思うようなことが書かれているのを見たことはないですね、とりあえず。
うん、その、そうなんでしょうね。なんかこう、すごく当たり前の、わざわざそんなこと言うなよっていうレベルの話と、その文章の根幹になるはずの重要な話が同じレベル感で書かれているという感じもあるし、
その、なんて言うんでしょうね。それをうまく表現できれば苦労はしないんですよね。
まあそうですね。いやでも、一通りやっぱり読んで思う一番の感想は、ああこの人はこれについてあんまり考えてないんだなっていうことなんですよね。もう、わかりませんけど、実感としては、実態としてはわかりませんけど、
やっぱり理解が表層的という印象しか受けない。 そうですね。
だからね、こう結構たくさんのことが書いてあるのに、まあやっぱりその、書き手、まあAIだとしても、まあ書き手の
その思考の痕跡がないというか、
まあ例えば、いつも例に出しちゃっても、申し訳ないですけど、たとえば野良鉄さんのね、記事を読んでると、
野良鉄さんがそのことについて考えてるのがわかるじゃないですか。 そりゃわかります。
考えてるなって思うんですよね。 思います思います。
で、その考えていることを、考えていることもしくは考えたことを、いかに一人伝えようと伝えるか。
で、すごく試行錯誤したり、葛藤したりしていることも含めては伝わってくる。 確かに確かに。
で、それは、場合によっては必ずしも成功してなかったとしても、なんか残るんですよね、その自分の中に。
そうですね。 読み手の中に。
そのなんか、それこそチンプな言い方ですけど、その文章の背後にいる人間、
人間の存在を感じられるか感じられないかっていうことなんだろうと思うんですけど。
そうですね。だからこの背後にある人間が感じられるかどうかは、人間が感じられるかどうかではなく、
ある思考がその背後にどんだけ動いていたかということだと思うんですけど。
それは、文章を書き慣れていない、読み慣れていない人からしたら、そんなことわかるわけないやんと思われるかもしれないけど、
いや、わかるんですね。わかりますね。
逆に、わからないように生成AIを使えたんなら、それはそれで成功しているし、
それはいいんですよ。だからそれ。わからなかったらいいんですよ、それ。
いや、だから、いかに生成AIを書いているかとしても、人間が書いたと同じように感じて読めたとしたら、
それはもう立派なライティングなので、そうじゃないんですよね。もうあの、
そうなんですよ。
あの、ウソモンのブランドのカバン買ってるのもはっきりわかってるみたいな感じなんですよ。
その、本物と見分けがつかないカバンだったら、それはもう本物なわけですから。
そうですね。
そこの水準に至れてない。で、例えばそれに対して、生成AIっぽいものを消すスキルを使うっていう、
あの、ハックというか、アプローチがあるんですけど、そうじゃないということを僕は言いたいんですね。
文体の癖を直せば、それがいいかっていうと、そもそも問題を見間違えてる気がするんですよ、それは。
そういうことではないという感じなんですよね。
そうですね。
で、
僕前に、
何ヶ月か前に、そのAIに書かせた文章を、
自分がそのフリーライティングしたものにやるのと同じように切り刻んで自分の文章にしてやれと思ってやろうとしたんですけど、できないんですよね。
うん、なるほど。
切り刻めないんですよね。
そうやな、確かに。
切れ目がないんですよね。
ないですね、確かに。
それね、どれだけやってもできないんですよ。
完璧なリニアっていうことですね。
そうなんですよ。
だからその切れ目のなさももしかしたら、あの感じの原因かもしれない。
うん、かもしれないですね、それは。
ここで切ろうっていう場所が見つからないんですよね。
行き着きがないですもんね、基本的に。
意味がない、そう。
ひたすら息を吐き続けてるみたいな感じ。
まあ彼らは呼吸しないから。
そうなんですよ。
でね、しばらくやって諦めたんですよね、それ。
まあ、そうでしょうね。
基本的にファーストドラフトを生成家に書かせて、自分で手に加えたらいい感じというのは、
まあ僕、いくつか試しましたけど、まあ無理ですよね。
無理ですよね。
あれはもう本当に破り捨てるために書かせるという感じ。
いや違う、俺が言いたいことはそうじゃないっていう動機づけを生むためだけにしか使えないですね、要するに。
まあリサーチとかで彼らのサポートを借りるとか、
誤字脱字を見つけてもらうとかのアシスタントとして使うにはいいけど、
自分の文章のクリエイティブエンジンにはならないかなというのが現状でしょうね。
そうですね。
だから自分で書いたものを、
誤字脱字とか論理の飛躍とかそういうのを見つけてもらうというのは意味あると思うし、
ただやっぱり評価はさせないほうがいいと思うんですよね。
評価はさせないほうがいいと思いますね。
どっちにしろよくないと思います。
ひっけなすほうを狙っても、まあ褒めてもらうのが一番まずいんですけど、
基本的には、つまり彼らの評価って平均評価なわけですよね。
彼らの特性上から。
でも僕らは固有の戦場で戦っているわけですね。
暮らしたダダノリという書き物は、暮らしたダダノリという書きっていうものとして贈られるわけで、
それを平均的に評価されたところで、何の意味もないんですよね。
僕自身が評価してもうまくいくかどうかはわからないんですよ。
彼らの評価を真に受けて、彼らがいいって言ってたから出すというのは、
一番大切な、仕事において一番大切なものをアウトソーシングしているどころか、
アウトソーシングすらできてないと思うんですけど、
放棄してしまっているという感じがしますね。
もちろん文章の目的によりますけどね。
例えば、編集者さんがいたとして、その人に何か指摘されたときに、
仮に腹が立ったとしても、そこには何か指摘される何かがあるということは感じられるわけじゃないですか。
AIに指摘されても、そうなのかもしれないけど、
やっぱり素直に受け入れる気持ちだなというか。
そうなんですよね。
早川書房の一ノ瀬さんという方がツイートされてたんですけど、
人間が書く文章には、文には必ず意図があると。
どんな文にも書き手の意図があると。
その意図が成功しているか効果的かは別として、
そこにその文を書いたというのは何か意図があると。
しかしAIにその意図がないと。
どうしたいのか、この文で何をしたいのかの意図がないから、
直すのがすごい大変だと言っておられましたね、基本的に。
結局、生成AIの指摘も、こういう本にしたいという意図はないわけですよ、基本的には。
言えそうな指摘を見つけているだけという感じで、
それを直していったら、こういう本のビジョンに近づきますよねというのは、
基本的にはないというか、こっちが与えてないからないんですけど、ないので、
だからあんまりその通りに直していくと、
どんどんどんどん、より混沌に近づく文章になりますね。
そうですよね。だからそれをじゃあ伝えれば、
うまく伝えればそうなるのか。
やってないからわからないですけど、なるのかもしれないけれども、
その労力ってちょっと。
じゃあ、それって、
AIに評価してもらって浮かそうとした労力、
以上の労力がかかるような気がするんですよね。
そうでしょうね。
日本の小説家の大川さんという方がおられて、
SFとかを結構書かれてるんですけど、その方のエッセイでね、
最近の将棋とかって、
AIが盤面がどっちが強いかっていう優勢化っていうのを上でゲージ示してくれる。
文章にもあれがあったらいいなっていう話で、ある文を書いたときに、
あなたの意図通りに今ちょっと増えましたとか、
この文は意図と逆立ってますねっていう判断がなされたとしたら、
多分文章を書くのめっちゃ楽になると思うんですけど、
でも残念ながらそのパラメーターは与えられないんですよね、問題は。
そうですね。
結局書き手の一番困るのって、これ書いたとして、
これが機能してるのかどうかの判断が、最終的な判断が
自分以外の人がするのが文章じゃないですか。
だからそこって常に宙吊りなんですよね。
この文がうまくいってるかどうか分からんままずーっと書き続けていかなあかんというところが
執筆なんですけど、もしAIが文章形成判断をしてくれるんであれば、
これはよし、で次行こう、これはあかん、じゃあ書き直そうって、
機械的にというか判断がつく、宙吊りが足につくわけですけど、
そうなったらすごいハッピーなんですけど、
でも残念ながらそのモデルは作れないでしょうね、きっと。
そうですよね。
特に冒頭が差し込まれたあるエピソード、全然関係ないエピソードが
すごい最後に回収されて伏線になるっていう判断は
情勢判断ではできないわけですから。
完成品を分析させるのは得意なんですよ。書き上がった文章が
どんな構造があるのかっていうのを分析してって言ったら
多分人間以上の制度でやるんですけど。
書いたものが良いか悪いかっていう個人の価値判断が入ってくるものは
あんまり当てにしないほうがいいという感じですね。
そうですね。価値判断じゃなくて、
それこそ例えば隠れた構造を見つけ出すみたいな。
そうですね。
そういうことはおそらく人間の力はすでに超えてると思うんですけど。
それは結局書き終わった後の話ですよね。
そうですね、もちろん。
どこなんだろう。テキスト分析になっちゃいますよね。
そうですね。さっきも出ましたけど、
本来世に導てからなされないテキスト分析を
ベータ版の原稿、ドラフトに対してテキスト分析させられるわけですよね。
要するにコーディングと同じような、
ある種のプロトタイプ段階でこの構造は使えるか使えないかってことが
判断できるというのはすごいことだと思うんですけど、
それはライティングそのもの、ライティングプロセスの内部において
それは当てにしてはならないというか、
当てにしたところでという感じがしますけどね。
そうですね。
だから使いどころなんでしょうけど。
だからどこでどう使うのかっていう判断を身につける必要があり、
それはやっぱり実際にライティングの経験がある人ほど
その判断は上手いとは思いますけどもちろん。
プロの文章家がプロンプトを練りに練って書いた文章は、
あるいはその書いた文章を評価させる編集者AIっていうので
やり取りした出来上がった文章はさすがに
主に値するものにはなるとは思いますけど、
パッとでの文章の右も左もわからない人が
思いついたプロンプトで書かせた文章は
さすがにそれはクオリティとしてはちょっとまずいというものになるでしょうね。
やっぱりコーディングの世界でも
やっぱりアマチュアが書かせたコードとプロのコーダーが書かせたコードは
同じ生成AIのエージェントモデルを使っていても
やっぱりクオリティに差があるというのは聞きますので
文章を書くにおいてもやっぱり同じことなんですよ、基本的には。
与えられた情報と生成AIのモデルが一緒でも
ある文章を生成する主体が
違うかったらそれは質的に違うものが出来上がってしまいますし。
だからある種の民主化として文章を書くことの民主化として
生成AIは確かに大きな力を持ってますけど
プロタクトを生むものとしてはまだ弱いとか
一番まだ上手いことを言ってない気がしますね。
数学の難しい問題の証明とか
音楽を作るとかイラストを書くっていうので
華々しい成果をあげてますけど。
音楽はすごいですよね。
でもさっき言った解説の文章はいいんですけど
読み物としての文章の完成度は
低クオリティ、まだ低クオリティですね。
一番得意なはずなんやけどな。
だから読み物としての完成度っていうのが
結局読み手が基準になるんですよね。
だから読み手がいいと思わなければ良くないわけですよね。
読み手が読み物に何を求めているのかっていうのが
実に何層ものレイヤーがあるような気がして。
読み物として読む場合、特にエッセイは顕著ですけど
書き手の人間性との接続アクセスっていうのはあるでしょうね。
ありますね。
少なくとも辞書とか解説書とか用語集には
それはあんまりない、かなり薄いものでしょうからね。
まあそうですよね。
それ言うと辞書マニアの人が
いやいや、まあそうでしょうけど。
いやいや賛成どうの。
って言いますけど、僕らが日常的に辞書を引くときには
文体の特徴は別に目に入るもんではないですからね。
まあだからやっぱりその文体があるかどうかとか
個性的な文体があるかどうかということが多分第一で
実際でもエッセイとかそうなんですけど
内容以前にその人の文章に触れたいだけなんですよね、要するに。
そうなんですよ。
なんかその新しいエッセイを読んで
新しい知見を得た、やったっていうことではほとんどなくて
あの文に触れたいっていうことは多分だいぶ強い気がしますね。
そうですよね。
だからあの音楽YouTuberのミノさん
ミノミュージックっていうYouTubeのチャンネルをされてる
ミノさんっていう方がいるんですけど
今AIで例えば
もう誰でも例えばジョン・レノンの声で
曲を発表できるんだと。
確かに。
っていう時に
じゃあ
誰かがいい曲をジョン・レノンの声で発表したから
それはジョン・レノンの曲と同じ価値があるのか
っていう話をするわけですよね。
たぶんないわけじゃないですか。
で、じゃあ
じゃあジョン・レノンの曲の価値はどこにあるのかっていうと
それはジョン・レノンだからじゃないかっていう。
見下ろすかもない。
そうなんですよね。
要するに独人性。
だから改めて
ジョン・レノンであるとは何かっていうと
リバプールの不良みたいな感じで
音楽を始めて
そこからビートルズ
ポール・バッカー・トリニと出会って
ジョージ・アリスンと出会って
ビートルズを作って
ビートルズとして成功して
小野陽子と出会って
ラブ・アンド・ピースな人になってみたいな
そういう流れ
その
ジョン・レノンとしての歴史
そのものが
独人性なわけで
それがないジョン・レノンの声の
音楽があったとしても
たぶんあんまり意味がないってことですよね。
たとえば批判があるとしたら
それってただのブランド振興じゃないの?って言ったら
反論はあり得ると思いますけど
あり得ますよね。
たぶんそうなんですよね。
そうなんですよ。
ブランド振興なんじゃないですか。
逆になんでブランド振興
ではいけないのか
ということになるんですよね。
それはなりますね。
で、たとえば
ブランド振興じゃダメでしょっていう
ジャンルもあると思うんですけど
音楽っていうのは結局
その
音楽とその作り手である
ミュージシャン、アーティスト
の存在そのものを
自分は受け取るわけじゃないですか。
音楽というのは。
だからそうすると
ブランド振興そのもの
じゃないかと思うんですね。
そうなんでしょうね。きっとね。
そうなると
たとえば
村上春樹っぽい感じの文章を
書くということは
たぶんできるんですけど
いろんな人やってますけど
たぶん成功してるもの一つもないと思うんですけど
ネタとしてはいいんですけどね
でもネタとしてもあんまり成功しづらいと思うんですよね。
やっぱりそれは
村上春樹だから
村上春樹の文章に意味があるということ
になると思うんですよね。
そうなると
たとえば私のような
名もない
名もないものが書く文章における
俗人性というのは何なんだという
ところが
問題になってくるんですよね。
でもそれは
ジョン・レノンほど
有名で何しろ
本当に真に無名ではないじゃないですか。
もっと極端なことで言うと
これは一種
チャラケて言いますけど
全員に名前があるわけね、私たちには。
真に無名ということはありえないわけですよ。
ある人間が存在して
継続的に発表していく中で
その名前性みたいなのが
低い段階から上に上がっていくという
プロセスがあって
上に行くほどそのブランド価値が高まるけど
でも名もなき個人が
名もなきって言うとまたありえない
そんなに有名じゃない個人が
ネットの片隅でブログを書いているところにも
やっぱり文体とか声っていうのは
宿ると言えると思いますね。
メモの活用法と執筆プロセス
この通りだと思うんですよ。
そうなった時に
なぜか
それはやってはいけないことと
多くの人が思い込まされてきた
自分語りというものがあるじゃないですか。
ありますね。
自分語りって重要だと思うんですよね。
なるほど。
ただ、読んで不愉快になるような
自分語りはダメだと思うんですけど。
それはせんびきはどこに生まれるんでしょうね。
それは難しいんですよね。
ただ単純に
自分語りはいけないって固く信じてる人が
結構いるなと思って。
それ違うと思うんですよね。
批判の言葉として言われますよね。
自分語りはやめろって。
でもそれはある種の自分語りはやめろ
ということが短縮されているだけで
話して。
自分語り全般がダメなわけではない
と
僕は思いますし
それを言うと
僕は相当自分語りしてきましたんで。
その自分語りと
例えばアウトライナー。アウトライナーの話自体が
自分語りなんですよね。
だから
その
自分語りがなければ
自分の
完全無名ではない自分というものが
成立しないわけですよね。
なるほど。
だから
特に
実用文でも
その人性というか
その人が
これを書いている
っていうことの
重要性というのは
増していくと思うし
だから
今まではどっちかというと
例えば情報
例えば
アウトライナーでもタスク管理でもいいんですけど
そのノウハウを
伝える記事だから
なるべくニュートラルに
しなきゃいけない
情報を伝えることに徹しなきゃいけない
という価値観が
例えば5年前ならあり得たかもしれない
けれども
むしろ今は
その自分
この人が書いている
この人性
というものがなければ
AIと差別化は
できなくなる
と思うし
ニュートラルにすればするほど
生成AIのほうが良かったね
っていうことになります
そうなんですよね
そうなったときに必要なのは
ある種の自分語り
だと思うし
そうですね
自分語りじゃないもの
自分語りという言い方がいけないんですかね
ここ難しいところで
もちろんその自分語りも
含めたとして
結局情報発信という言い方も
情報が意識されるから
多分あまり良くはなくて
その人の
その人の価値判断に
基づいた
その人にとっての必然的な文章
っていうのを出していくことが
差別化にとっても
重要ですし
さっき言った
自分という自己を立ち上げるためにも
多分有効で
相互しないと立ち上がらないというか
日本社会はそういう
自分語りだけじゃなくて
集団の中で
独自性を出すことが
あんまり好まれない社会ですから
それの延長線上で
自分語りが嫌われるんでしょうけど
インターネットは
そのための場所だった気がするんですけどね
まあそうですよね
みんなが
自分語りをできる場所
開放的にできる場所だったはずなんですけどね
そうですね
まあだから自分のことを別に書かなくても
いいんですけど
何というか
一人称で書くというか
私は
私が
私はっていう
実際に私って書かないとしても
つもりとして一人称で書くという
のが近いかなと
思うんですけど
私は
例えばオブシディエンを
こう使っています
それだけだと
でも違うな
何だろうな
うーんなるほど
それだけだと物足りない
いや物足りないっていうかそれだけだと
いやそれだけでもいいんですけど
それだけだと
今言っていることの意図とは
違う気がしますね
例えば私は
こう使いたいと思って
こう使いますやったらどうですか
うーん
まあそうですね
オブシディエンの
使い方を書いた記事は無数にあるとして
はい
で私はこう使っています
っていうのも無数にありますよね
ありますあります
だけどその私が
どんな人で
はいなるほど
どんな生活どんな仕事をして
どんな必要に駆られて
この使い方をしているのか
というところまでが伝わってくるものは
かなり少ないと思うんですよね
そうですね
あの
俺のやり方だけじゃなくて
俺
私という
人の
なんというかね
ライフが感じられるというか
うーん
なるほどねー
でもし読むとすれば
そういう
読んで印象に残るとすれば
そういうもののような気がするんですよね
もし自分だったら
まあそうですね
確かに
どうでしょうね
こう言っておきながら
全然できないですけど
うーん
いやだから難しいですよね
だから僕は基本的に
私がこう使ってますという記事でも
それぐらいでも全然オッケーかなという
予感というか
勝手なシミュレーションをしてましたが
確かに物足りない
シチュエーションもあるだろうな
というのはちょっと今聞いて
思いましたけど
やっぱり
例えば
こういう風にしたいから
普通の
Obsidianでは
こうやりたいけどもこうできないから
このプラグインを使ってますという話だったら
結構面白いと思うんですね
でそのような
こうしたいから
当人の想いとか欲望が
出てるわけじゃないですかそれは
つまらないのは
このツール便利ですみたいな
だけの話とか
入れておくべき
三大プラグインみたいなのは
言ったら当人の欲望が
全面に露出してこないわけですよね
結局
ある種の平均を狙って
平均
多数の大多数を狙っている
コンテンツを
書こうとしてる欲望は見えるわけですけど
そのユースケースにおける
欲望っていうのが見えてこない
欲望だけじゃなくて思い全般が
見えてこないどんな思いでそれを
使ってるのかが見えてこないで私を
語るということは私の思いを語ることに
重なるんじゃないですかね
そうですね
今何回
上手い言い方がないかなと
思ったんですけど
俺も個人的な話ですけど
そのノウハウ系の
文章で
強い影響を受けたものって
今までいくつかあるわけですよね
例えば
野口雄喜夫さんの
調整理法というのがあって
強い影響を受けましたと
あるいは今泉浩明さんの
マンダラートの
一連の著作にも強い影響を受けましたと
やっぱりそこに
その人書きで個人の
存在を非常に強く感じて
その個人の存在と
そのノウハウが
いわば
一体となった
ものだったからだと思うんですけど
じゃあ
例えば野口雄喜夫というすでに
地位と名前のある有名な人
だから
なのかなと
今ちょっと思ったんですけど
例えばあの
名前を知らないんですけど
あのポイクの人
あの方は
なんという方なのか
ちょっとわかんないですけど
あの人はいわゆる
そういう名前のおそらく
ポイク以外のことで
もしかしたら有名なのかもしれないですけど
少なくとも有名であるという
事実を
僕は知らないまま
読んでいたんで
やっぱり強い影響を受けましたよね
あれだって完全にノウハウが書いてあるだけだと思うんですけど
ポイクという
あの体型
あれを作り上げたということ
そのものが
あの人生というか
そうですね
ポイクという
ノウハウとその体型が
あの人そのものという感じがして
だからね
作り上げられたノウハウは
その人生が宿っているという
ことじゃないですかね
なるほどね
確かにそれは言えます
そこに歴史がもう既に宿っちゃっているので
ノウハウを読んでいたとしても
僕らはその背後にあるものをもう
受け取らざるを得ないというか
そうですね
やっぱり
あれだけのものを見せられると
当然その後ろに
バックボーンにある
試行錯誤とか
かけた時間とか
執念とか
そういうものが自動的に
伝わってくるわけですよね
まさにその人の
ライフの一部ですよね
例えば
独人性その人性ってそういうことかな
という
文章の書き方
とも
現れ方があるし
ノウハウそのものに
宿るものも
ありますね
メモの取り方でも
最終的にその人が
5年ぐらいやってたどり着いた
メモの取り方は
他の人から見たら奇妙なポイントがあったとして
やっぱりその人の執念性が
あるわけですよね
僕みたいに
メモ術マニアは
その特異性に気が付きやすいんですよ
なんか特別なことを
してるのはきっとあれがアーやから
みたいなことが分かるわけですけど
それを分からなくてもやっぱり
ぼんやりと感じられるものはあるんじゃないですかね
そうですね
ということはですよ
結局のところ
直接使う人は使わないし
その人のどう生きているのか
っていうところを
抜きには語れない
ということだと思うんですけど
そうなっちゃいますね
なんかこういう
有名なナレッジベースのシステムを
パッケージを買ってきて
情報源あります
じゃあ明日から
個人的な情報発信が
できますかって言うとできない
ということになってしまいますね
そうですね
できるんですよね
できるけれども
それを例えば
3年ぐらい
蓄積すると
違うものになるかもしれないですけど
スタート時点ではならないですよね
なるほどね
ある程度発表するか別にしても
やっぱり継続して
何かをやっていった後に
花咲くものがあるということですよね
そうだと思いますよね
それはでもそうよな
時間歴史
ここはどうしたって
ひっくり返せないし
例えば
ある一つの
ノウハウを5年近く
経験して言葉を発する人は
重みがあるわけですよね
5年間の間に
50回ぐらい
メモツールを変えてきた人がいるとするじゃないですか
その人は
1個1個のツールの
言及は浅いわけですけど
でも50個のツールを仮に
経験してきたらそこに深さが
多分ありますよねきっと
やっぱり
自分は何もやってないから
成してないから発信する価値がない
ということは多分なくて
生きてきたその人が
宿っているものがあり
それを背景にして
発信するかどうかということだと思うんですけどね
はいその通りだと思いますね
あとね
逆に時間的な蓄積がなきゃ
ダメっていうわけじゃなくて
例えば20歳だったら不可能なのかというと
逆に
例えば20歳の人が
例えば
その人が大学生だったとして
大学で
講義の
ノートを
取ったり勉強したりする
っていうことを
どうすればいいのか
っていう
課題があって
それをどう解決するか
っていう
その人の
試行錯誤だったり
いろいろ考えたことだったりやって失敗したり
うまくいったりしたっていう
その人の
台譜があれば十分
それはそれで成立すると思うんですよね
そうですね
冒頭で
ポッドキャストを話しましたけど
学校の先生
1年目の人の話でも普通に
面白いわけですから
そういうことですよね
経験に根差したことを
書くということだと思いますね
きっと
気上の空論で何か言うんじゃなくて
経験
イコールライフに根差したことを
書く
そんないい言葉あったじゃないですか
経験ですよね
経験ベースで
書けば必然的に
その人の歴史を背後に背負った
ものになるけども
どっかに書いてあったものを
こうやからみたいな感じで
詩弁だけで
こねくり回したものは
残念ながら
あんまり読むに失する
価値はないというか
さっき言った浅い話に絶対なるんで
それはもう
そういうの発信したいのを
止める権利は誰もないですけど
この正々堂時代で
何か書いていきたいと
考えている人は
もうちょっとライフに寄せたほうがいいかな
という気はしますね
そうですね
うん
生きている自分ですよね
そうですね何かを試し
実行し失敗してきたその
経験ベースに
話を進めれば
単純なことで言えば
絶対に他の人はそれを書けないわけですから
それは
うーん
だからたぶん素材
そういうものを素材として
生成家に与えたとしたら
与えられるかどうかは知りませんけど
与えたとしたら
それだけで独自性のあるコンテンツにはたぶんなるでしょうけども
なるでしょうね
うーん
だから経験
する
名前性みたいなものは
たぶん立ち上がっていく気がしますね
そうですね
うーん
いやー
でもまあそうやな
結局
あの
臨床に残っているノウハウも
その人が経験してきたものが背景に持ちますし
僕らがこれから書くノウハウも
基本的には全て
そうな感じが
そうあるべき
つまり
いろんなノウハウの情報をまとめました
はいどうぞというのは
あんまりよろしくない
それこそ生成家の方が得意な感じがしますんで
そうですね
だからかつてはそれも
おそらく意味があったと
思いますけど
そうですね
難しい
難しいとこですけど
だから経験を生かしながら
文章を書いていく
そういうプロセスをどう
立ち上げるのか
結構時間が過ぎたんで
メモの蓄積とデジタル知的生産の課題
メモの話をちょっと
聞きたいんですけど
例えば
新しい本の企画が始まったと
しますよねそのたくさんの中で
それは自分内でもいいですし
依頼編集者との
仕事でもいいんですけども
で
最初のどこかの段階で
アウトライナーにずらーっと書く
っていう書き下ろす書き出すってことが
あると思うんですけど
その作業をするときに
それ以前まで書き留めてきた
メモを
そのアウトライン
新しく書こうとするアウトライン項目に
例えばドラッグで移動させるみたいな
ことがあるのかどうかがちょっと
気になってるんですけども
すごいなんか具体的な
気になりポイントですね
そうですね
どう
ですかね
あの仮に
仮に
依頼をいただいたとするじゃないですか
仮にいただいたとする
ときに
アウトライン
多分作ると思うんですけど
それはおそらくそのやり取りの
企画の
立ち上げのためのやり取りのため
であって
自分が
どうでしょうね
まあでもそれを元に
書くんでしょうねきっと
うん
で
多分その通りにはならないし
そのときに
メモの蓄積みたいな
もの
多分
多分というかこの間やったのは
やっぱり
あの
ライフアウトラインのデイズの
はい
要するに日々
思いついたことを書いてるところですよね
はい
そこから
はい
検索して
いくつかのキーワードで
検索して
関連しそうなメモを
抜き出すということは
しましたね
抜き出すのはもう項目を移動させるのか
一応新しく項目を立てるのか
書き下ろすのか
えっと
移動させます
移動させますね
移動させて
例えば
Aという本のプロジェクトがあったとしたら
そのAに関連しそうな
いくつかのキーワードでメモを探して
はい
使い道がないからそこに
入れっぱなしになってるメモ
がいくつか抜き出されてきたときに
これ使えそうだなって思ったのを
その
新たに作った
プロジェクトの
というアウトラインの中に
とりあえず
一旦移動させるというのはやりますね
多分
それは例えばこれから自分が書こうと思って
ブレストなり
アイディア出しなりでダーッと書き出すのと
同じアイテム素材として
扱われるわけですか
多分別
あー別になる
多分別ですね
なるほど
多分ね
使わない方が多いんですよね
あーなるほどね
なるほど
なんか関係ありそうだから動かすんですけど
はい
やっぱり
それは
人はわからないんですけど自分の場合
やっぱり昔書いたメモって
そのことに関する
そういうことでも使えないことが多いんですよね
わかります
だからとりあえずそこに置いておくけれども
それとは別に書き始めて
たまにそれを
そのメモをチラッと見て
本当に使えそうだったら
使うみたいな
そうか
そうなるよな
ちなみにその
移動させたメモ項目があって
使う使わへんはあっても
大半使わへん場合に
使わへんかったメモは
そのAプロジェクトの使わへんかったメモとして
そのまま残り続けるわけですかね
えーっとですね
どう
あんまりそこだから厳密に
やってないですけど
でもAプロジェクトが
終わって使わなかったものは
たぶんそのまんまそこで
朽ち果てるんでしょうねきっと
一応そのまま項目がアウトラインとかに残ってたら
全体を検索したら
見つかるけども
まあでもそんな積極的に動向していくという
気概はあんまりないと
そうですね
あとそのAプロジェクトのアウトラインっていうのは
ワークフローインの中に入ってるんですけど
やっぱりある
段階からはもうワークフローインの
中じゃなくなる
ですよね作業が
だからそうなった時に
もう
そういう
メモというのは
あんまり
参照しなく
なってきますよね
実際に
例えばワードのアウトラインに
移ってしまったら
あんまり
そのメモを参照するということはなくなって
いきますよね
ただ稀にメモを
ちょっと後で見てみたら
あ忘れてたけどこれ
わかりましたわかりました
よく考えたら
これは書いておかなきゃいけないんだったみたいな
ことで思い出すことはありますけど
あの
メモ
いや暮らしたらどうですかね
メモってあんまり使えなくないですか
意味はあるけど
プロジェクトが始まる
前に
蓄積してた日々の
メモが
使えたことはほぼない
直接は使えないですよね
直接さっきから項目を
移動するとかコピペするって聞いてたのは
そのままダイレクトに
使えることはほとんどないんじゃないかという
予測があって聞いたんですけど
まさにそうだと思います
やっぱり旬みたいなものが
ありますね
同じ内容でも
2年前に実は同じこと考えてたんだけど
それはもう一度
もう自分の中で終わっちゃっていて
結局
使えるような
ものは結局は
ここ最近
入ったこと
になりますよね
だから
例えばエディターとメモツールをつなげる
みたいなことを考えてたんですけど
つなげてもしゃーなくね
っていうメモがほとんど
なわけなんですよね
いや
それはしょうがない
どうぞどうぞ
つなげてしょうがないかどうかは
わかんないよね
だから検索して
バーって見つかってっていうのは
もちろんあるんですけど
つなげるという言い方もあれですが
それをマテリアルとして
そのままやって
使ってやろうという目論みは
空振るほうが多いんじゃないかな
と思ってるんです
これは
割に普遍的
なんじゃないですかね
逆に
すごくメモマ的に
膨大なメモを
取っている
ときに落とし穴になりうるのは
それを直接使おうとしてしまって
破綻するっていう
ことが多いんじゃないかと
想像するんですけど
どうなんですかね
どうやったら
そうやと思います
ただじゃあそれが意味が
メモたちが意味ないかっていうと
多分絶対にそんなことはない
メモ自体は意味があるんですけど
ここはメモの使い方そのものを
ちゃんと定義する必要があるなと思って
メモイコール
マテリアルとして考えると
むしろ見動きが取りにくくなるんじゃないかな
という気が
しまして
最近
別のツール
極端に言うとメモに書き止めといて
ノートに転記するみたいなことを
デジタル上でやってるんですけど
やっぱり転記になると
形が変わるんですよね
形が変わるべきだと思うんで
僕がその中でイメージした
メモとノートとエディターっていうのが
シームレスに繋がっていくような
メモとして入れたものが
そのままコンテンツの素材として
インポートできるようなものは
多分違うんだろうなと思って
移し替えるときの
変換っていうのを挟む必要があり
そこで
形が変わったりとか
位置付けが変わったりとか
重要度が判断されて
初めて生きたメモになっていくんじゃないかな
というのを感じてまして
でも多分
旬が終わったメモでも
それを参照しながら
転記
そのまんまじゃなくて
今の自分としてそれを参照しながら
転記もしつつ
新しいことも書き加えつつ
という形で書き直すと
また
復活しますよね
あと重要なのは
転記しないものもあるという判断ができることで
やっぱり
例えば
今まで書いた特定のメモの
キーワードあるものを
アウトラインにそのままインポートしますって言って
そのアウトラインにザーって並んだとしたら
それ多分観思考の邪魔になると思うんですよ
普通に
入れる入れへんの判断を
判断のレイヤーを一段挟まないと
ダメじゃないかなという
気がしてますね
そこに行くと
これ
自慢なんですけど
自慢というか
自己アピールなんですけど
書くためのアウトラインプロセッシング
で
提示した方法で
その文章の
アウトライン
発想のアウトラインがあって
それとは別に
文章のアウトラインを作ると
その時に
発想のアウトラインを
文章のアウトラインに
作り変えるんじゃなく
まっさらな状態から
文章のアウトラインを作る
発想のアウトラインの内容は
ごそっと
後ろに
未使用のところにぶら下げておいて
発想のアウトライン
文章のアウトラインに
はまるものだけを動かしてはめていく
っていうやり方を
それは実際に自分がやっている
ことなんですけど
要するに
全部使おうとすると
絶対に破綻するんですよね
だから今の自分が
考えた
アウトラインがあり
そこにその見出しの下に
はまるものだけを動かしてくる
っていうことによって
結果的に
使わない判断をするという
使えるものを選ぶことによって
残りは使わない
という判断ができるという
仕組みが一つあり得るなと思っていて
それは
発想のためのアウトラインと
文章のためのアウトラインを分けるということで
文脈でその話をしたんですけど
今の倉下さんが言われてた
過去に蓄積したメモの
使う使わないの判断というのも
それに似た
考え方でできるかもしれないと
今ちょっと思った自慢でした
それはやっぱり
必要で
メモの蓄積の数が膨大なので
膨大すぎて
やりづらいかな
何かし切り分けの装置が
いりますね
最近はもう
時切れちゃうな
例えば
2024年までのメモから取り込むとか
何か
そういうのをしないと
僕の場合は扱えないので
年ごとで分けてたりするんですけど
やっぱり3年前とか4年前の
メモは
問いの質が変わってるので
自分が持ってる
ほぼ100人
かつて僕はこんなこと悩んでたな
って思い出すきっかけには
なりますけども
メインのコンテンツとアウトラインを
考えるときにそれが入ると
思考にとってノイズというか
良くないノイズになってしまうので
そこは
使い方
メモからボトムアップに立ち上げると
言い方はミスリーディングがあるな
という気がするんですよね
それができるのは
せいぜい
1万字ぐらいまでじゃないですかね
もっと短い
かもしれないですよね
ある程度トップからの制御と
ボトムの素材の
使い方っていう両輪がないと
何かうまいこといかん気がしますね
シェイクですよ
シェイクなんですけど
これはシェイクなんですけど
どういう点かな
メモの
蓄積は別ラインにあったものであって
それをアウトラインに
入れるときにどう考えるか
においても
両方の
トップとボトムの両方行き来するって考え方が
適応できるなという感じかな
そうですね
でも今言って
自分で言っといてあれですけど
いわゆるシェイクとは
ちょっと性質が違って
その
とにかく
ボトムアップしようとすると
やっぱり全部使おうとして
せざるを得なくなる
なりますね
だってどれが使えるかわからないわけじゃん
だから結局全てが
使える前提でやるしかなくなるけど
そうするとほとんど必ず破綻する
そうですね
ですよね
ただその蓄積には
多分絶対に意味があって
なぜならその中に使えるものは
何かある
どこかには多分あるんですよね
だからその
使えるもの
だけを取り出そうとする
そうすると
その判断基準がどこにあるのか
ということになるんで
そうするとその判断基準って何かっていうと
結局今書こうとしていること
つまり今のアウトラインということになりますよね
ただじゃあたくさん
膨大にあるときに
今のアウトラインに合致するものを
どうやってそこから
見つけ出すかっていうのはまたちょっと一つ
課題になるような
気がしますけど
アウトラインが
例えば5章立てのアウトラインがあったときに
6章目とか
保証になるようなアイディアが
見つかる場合アウトラインを基準に
しているだけでは見つからないので
だから
そこでAIじゃないですかもしかして
そうなんですよ
これはAIしかないんじゃないかという気が
例えば
5年間のメモの蓄積が
500件でした
という人であれば人力で多分いけると
思うんですけど
オーダーが5000とか
超えてきたときに
人間がそれを
そこでパターンとか構造を見つけ出して
っていうことは
多分無理なので
それこそある位置を超えたら
もう生成AIかなという
メモの扱いはそうじゃないかな
アウトラインは考えながら僕がしますので
という感じの
使い分けで
メモ走行番人として
頑張ってもらうという
方策はあるかなとはちょっと考えてますね
たとえば
アウトライン
人力で作ったアウトラインと
蓄積したメモがあったときに
AIに
このメモの束の中から
このアウトラインに
使える
ものだけ
抜き出してくださいといったときに
適切にやってくれると思いますか
モデルによりますけど
モデルによる
けども
何もしなければ
まずアウトラインを読んで
多分キーワードみたいなの見つけて
それぞれのキーワードで
全件検索して
ピックアップしたものを読んで
ってことをすると思いますけど
人間が適当にやるよりは
正確にその作業をしてくれるとは思うので
そこは役立つとは思いますね
期待する水準になるかどうかは別にして
日雇いのアシスタントに頼むよりは
いい仕事をすると思いますよ
このアウトラインで
複数に分けたほうがいいかな
材料を補強するものを見つけてくれっていう
セッションと
論点足りない論点
反論するような
メモを見つけてくれっていうセッションとか
複数回行わればサブエージェントで
切り分けてってことをすると
より精度は高まる気がしますね
大雑把になんとなく
役立つものを見つけてくれば
多分あんまり精度は良くないと思いますね
そうでしょうね
あとね
本当に
メモの蓄積の中からだけ
引っ張ってくれてるのか
わかんなくなったりしません
そこはソースを示すというしか
そうですね
ファイルを見つけてくれという依頼をしたら
ファイルを返すので
ないものファイルは返さないのでさすがに
そうですね
アイディアをっていう
言い方をすると
パクってきたアイディアがどっかあるかもしれないんで
その書いてあるファイルを
見つけてねって言い方すると
操作のコンテキストが狭まるので
ミスは減るでしょうね
メモの
扱いと一口で言っても
いろんな多様な形があるわけですけど
でもやっぱり
メモとアウトラインは両輪やなというのは
感じますね
そうですね
生きたアウトラインのためには
そうですね
でもそういう意味でのメモを
自分は取ってないんだなということが
話してるとよくわかりますね
そうなんでしょうねきっとね
普通は取ってないかもしれない
こんだけメモを取ってる人間の
独特の悩みがあるというか
そうですよね
でもメモマの人っていうのは
昔からいたけれども
ちょっと性質が違う
デジタルになると余計に
だからメモマの人でも
例えば10年前のメモ書まで探さない
と思うんですよね基本的には
それこそ直近の
メモだけを見て仕事すると思うんで
多分成立はするんですよ基本的に
それで
メモマの人ってね自分の取ったメモ
あんまり見返してないイメージがあるんですよね
それはそうだと思います
だけど別に
意味がないわけじゃないと思うんですけど
そうですね
ジャーナリストとかの人で
メモは結構多いんですけど
彼らは自分の仕事の領域ははっきりわかって
仕事をされてるんで
だから昔の本を読むと紙袋
仕事ごとに紙袋を10個ぐらい置いといて
メモをただそこに
バーって入れていくみたいな
でもそれで成立するんですよね仕事って
あるプロジェクトの期間があって
その間のことだけ集めておいて
それが終わったらもうそのプロジェクトは知らん
っていう風に仕事を
トランジッションしていくので
10年ぐらい溜まってる
何に使うかわからないメモを
相手にしてるわけではないんで
そうですよね
だから
例えば70年代に
渡部翔一さんが書いた
知的生活の方法と
あそこに出てきた
カードボックスの話に
割に
その手のことが好きな人は誰もが憧れる
憧れたと思うんですけど
今のメモの話
からすると
あのカードボックス
に入っているカードに書かれた
メモの量ってかなり
高がしれてると思うんですよね
だからそのスケール感が
全然違う
だけど
だからおそらく同じ方法を
今の
デジタルでやってしまうメモの
たまには当てはめられない
わけですよね
あれはやっぱり
アナログだからできたことで
だけど逆に言えばアナログだから
処理可能な量に
とどめられるという面があったんですよね
そうするとデジタルって
何なんだろうっていう
気はする
有限性と無限性
ということだと思うんですけども
プロダクトが完成に向かうっていうのは
有限化していくということですね
基本的には
デジタルの許容量ってのは
基本的に方向性としては無限化
無限化に
暗示してると
永遠にプロダクトができないということに
なってしまう
実際そうなんですよね
アナログを使うかどうかは別にして
ある種の切断線を
一時的に敷いていかないと
デジタルって情報は増えましたけど
みたいなことになりがちですね
そうですね
それは決して検索ではおそらく大体できない
そうですねそういうことではないという
それ自体が一つのノウハウになります
と思いますね
デジタル時代こそ有限化のコンセプトを
持たないと
増やすだけ増やして
拡散の方向だけに
振ってしまって
そっちの方が楽なんですよ
基本的に
人はそっちに行っちゃうんで基本的には
ちょっと苦労をしつつ
有限化の発想を
入れていくということをしないと
デジタル知的生産としては成立しない
という感じがしますね
はい
ということで
というところで
メモを
執筆にどう生かすとか
人間が
読み物としての文章を書く上で
何が必要かという話が
ちらちら出てきましたが
経験ベースで書いていきましょう
というところが
書き手の生存力ではないかな
という気がしますね
はい
自分は先生会で使うときに
こんなことを気をつけて文章を書かせている
というノウハウがあれば
ハッシュタグ打ち合わせキャスト
ひらがなで打ち合わせアルフェットキャストまでいただければと思います
何かお知らせしたいこと
とかございますでしょうか
はい 大丈夫です
はい じゃあ今回はこれまでにしたいと思います
お疲れ様でした
お疲れ様でした
02:01:24
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