利己主義の考察
今回の話をざっくり言うと、人間というのは利己主義な生き物である。
生物学的に言ったら、それは確定していることだし。
そういう話なんですが、まずは哲学的に考えると、人間が誰かのために何かをしている。
まず一つ目の例、人に自分がやられてほしくないことは、人にやってはいけない。
なぜかというと、自分にされて嫌な気持ちになるから。
人に自分がやられてほしくないことを人にやらなければ、
人はそんなことを自分にしてこないかどうかを置いておいて、
これって人のためにやっていることではないですよね。
これはわかりやすいですよ。
なんだけれども、例えば人助けをしたとする場合、
例えば倒れている人がいたと、こういう場合どうでしょうね。
人のことを助けなければいけない。
倒れている人がいたら助けなければいけないから助けているわけです。
だから自分のためではないですよね。
なんだけど道徳に従うことが自分のためになる。
なすべきことをやるために人を助けているわけです。
となれば結局自分のためなんですよ。
これは常識的な感覚があればこんなことは一目瞭然ですよね。
経験的にもわかると思うんですよ。
自分の考えに忠実にしていたいだけなんですよ。
だけどね、本能的にパッと人を助けて、
そんなことがあるのかわかんないけど、仲間意識があれば助けるのかな。
仲間でなくてもパッと行きますよね。だからどうなんだろうな。
それは偽善だとか言い出したらきりがないんで。
本能的に行くんだとしたらやっぱりそれは人間の本能で利己的にできてますから。
ボランティア活動の動機
あとはですね、最近も話した。
反省的にパッと自分を犠牲にして人を助けに行くっていうのは、
これも言うまでもなく、自分の正義感に従って生きているというだけの話なんですよ。
あとはいつも話している通り、例えば震災があってボランティアに行く。
あるいはいじめられている子がいたら助ける。
なんというのか、この子を助けておけば自分が困った時に助けてもらえるかもしれない。
今苦労しておけば後々助かるかもしれない。
そういう考えから来ていると思っているんですね、クラキュア。
あとは、近所にゴミが落ちていたから拾ってあげる。
これは単に気に入られたいか。
あとは集団意識っていうのかな。
自分の地区が汚いと言うか、これはやっぱり自分に帰ってくるってことでしょ。
これも利己的ですよね。
あとは因果応報を信じてて、人にいいことをすれば帰ってくる。
これも本質的には同じことですね。
今考えたけど、だから人の行動を見てて、それは人のためにやっているかどうかなんて。
どうやってそう見えたとしてもね、こうやって宗教でこういう因果応報なんていうことがその人の中に成り立つのであれば、
全然外はわったら見ててもわからないですね。
あとは自然保護。
それは自分の子孫がいい思いをしてほしい。
これも同じことですよ。
あるいはそれをやっている自分が好きである。ボランティアをしている自分が好きである。
もっと深いとこで考えている人もいると思います。
深いとこで、まあ利己的だけど表面的にはわかんない。
どういうことかというと、ボランティアを例えにすると、ボランティアをすることで、
今言ったように、自分の何か欲が満たされる。
自分としては、でもそんなふうには思ってはいけないんだ。
というのもわかっている。
助けることが、人を助けることが、助けている自分がかっこいい。
なんていう意識を持たずとも、こうやってボランティアで生きている自分がやっぱり好きなんですよ。
あと教師が、部活動とか、別に残業代出るわけでもないので頑張れるのは、
いい教師を演じたいか、自分は教師というものを、教師という人生を生きて、
自分の命を捧げているというか、言い過ぎかもしれないけど、
全て教育に熱を入れている。
全力でやっている。そう思いたい。
現れなだけだろうし、残業代がどうだとか、
そんなことを考えてはいけないという正義感があるからだろうね、これも。
あと、医者が命を救えると思っている。命を救いたい。これは単なる使命感だろうね。
こんなの完全に理工的な考え方ですよ。
それでは、したっけ。