自己探求の葛藤
今回、発達障害という概念が強いかと思う話と、それに伴うpodcast配信の困りごととなっていたのですが、
まず、podcast配信をしていて、少々忘れてはいけないなと思って、自分について話すこと。
これだけの倉木は得意だと思っているので。
ただ、自分というものを追い求めるほど、自分って何なんだってなるし、
そもそもこの考え方自体はおかしいんじゃないかと。
最近、処方無我ということで、自分なんか存在しないと言っておきながら、これを悩むこと自体はおかしいと思うんですよね。
それでも、言葉のあやだとか言い訳かもしれないし。
特に今なんて、それだけ本質をまとめて悩んでいる、深く考えているのであれば、
そういう時こそ立ち返って、自分なんてそもそもいないんだと考えるべき。
だとしたら、自分のことを話すなんてできないのか。
でも、そうではないわけですね。
自分について話していく。
だとしたら、ただただのエゴ丸出しの話になるだけじゃないか。
なぜかというと、自分の自我を認めることになるから。
でもそれが人間らしくていいのかもしれないし、分かんないけど。
もしくは、あった商売なんて概念を捨てて、自分とは何なのかっていうために出る。
そんな話をしていくのか。
じゃあどうすればいいのか。
一人っ子、宗教二世。
自分探していても、いわゆるインドに仰向くような、そういう信教でもないし、
そんなことしても意味ないと思っているし。
あくまでもね、自分というものを考察する話。
だから結局そういうことなんだよね。
自分語りになるんでしょうね。
でも今までの人生、なんでここまで波乱だったのか。
でも答えはもう見えてるような感じはするんですよね。
それはさっき言ったことです。答えは探そうとしてもどこまでも見つかるものではないわけです。
そんなゴールのないものを追い求めることはできないですね。
無理かなと思いますね。
なぜ今発達障害っていう概念を捨てようかと思ったら、
発達障害時の、自閉症時の、漫画を最近読んでるんだけど、
やっぱり今までも辞伝なんか読んでもそうだったけど、
自分は発達障害ではあるんだけど、
聞いても切り離せない関係なんだけど、この概念と。
問い、いつも他の発達障害とは違うなと思って、
それを言うと引きこもりっていうこともそうなんだけど、
これはわかりやすいですよね。発達障害の場合、診断は下りたけどもわかりにくい概念で、
雲を掴んでるような気分になるんですよ。
だから発達障害なんて概念を捨てようかと考えてますね。
哲学とトラウマの考察
当分これについては忘れてもいいし、
これについてはポッドキャストでは言及しないっていうのもどうかと思うし、
これ1年前も考えたことですね。
ポッドキャスト会社については漫画を見るのをやめて、
宗教についてのことをちょっと話そうと思っているのと、
あと哲学の知恵袋のトラウマ質問。
今朝も読んでもらったんだけど、
トラウマのなんで知恵袋の言いようもんかと思うと、
人間関係のところですね。
なんでかというと、それで親子喧嘩とか学生時代のトラウマとか思い出せればいいかなと思ってね。
とにかく何か思い出す時間にしたいんですよね。
正直、こうやってトラウマなんて覚えてる人いない。
何のメリットもないけど、ただそこの記憶力に関してはね、
自負してるものがあって、
そういったものを織り混ぜていきながら話していければどうかなと思うのと、
一つのことでずっと葛藤しますね。哲学の話も。
自分は人間について、前は興味あったけど、
やっぱり特に哲学的なことなんて興味ないのではないか。
これもね、分かんないんですよ、結局ね。
自分のことは自分で分かってるようで、なかなか分かんないですね。
あと今考えてるのは、
とにかく理解できないもの、何か探す。
これができればいいんだけど、知恵袋ってあれ。
理解できないから質問をしてるわけですよ。
これ何か有効活用できないかなと思ってるんですけど。
何でもいいんですよね、分野は。スポーツでも、芸能人でも、
日常のことでも、何か理解できないこと。
まあでも人の理解できないこと、参考になればね、と思うんだけど。
でも理解できないことって日常をこうやって生きてる中であるものですから。
ラジオ聴いてて、テレビ見てて、ふと思うことですからね。
探そうと思って探せるものでもないと思うんだけど。
それではしたっけ。